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ゴーギャン「ポン=タヴァンの水車 みずぐるま 小屋 こや 」
ポン=タヴァン派 は (ポン=タヴァンは、フランス語 ふらんすご : École de Pont-Aven )は、19世紀 せいき 後半 こうはん から20世紀 せいき 初頭 しょとう にかけてフランス のポン=タヴァン で活動 かつどう した芸術 げいじゅつ 家 か たちのグループを指 さ し、特 とく に1880年代 ねんだい 末 まつ から1890年代 ねんだい 初 はじ めにかけてポン=タヴァンにいたポール・ゴーギャン の影響 えいきょう を受 う けた芸術 げいじゅつ 運動 うんどう である。大胆 だいたん な純 じゅん 色 しょく の使用 しよう 、象徴 しょうちょう 主義 しゅぎ 的 てき な主題 しゅだい の選 えら び方 かた などが特徴 とくちょう である。
ポン=タヴァンは、フランス・ブルターニュ のフィニステール県 けん に属 ぞく するコミューン であり、アヴァン川 がわ の大西洋 たいせいよう 河口 かこう から少 すこ し内陸 ないりく に入 はい ったところに位置 いち する。1862年 ねん にパリからカンペール 行 い きの鉄道 てつどう が開通 かいつう すると、ブルターニュ地方 ちほう への観光 かんこう 客 きゃく が増 ふ え始 はじ めた。1866年 ねん にはフィラデルフィアから来 き たアメリカ人 じん 画 が 学生 がくせい たちがこの地 ち を訪 おとず れ、その後 ご もアメリカやイギリス、フランス出身 しゅっしん の画家 がか たちが集 あつ まり始 はじ めた。15年 ねん ほどのうちに、画家 がか たちのコロニーは大 おお きくなり、広 ひろ く知 し られるようになった。フランスアカデミズム絵画 かいが の巨匠 きょしょう ジャン=レオン・ジェローム も、自 みずか らの教 おし えるアメリカ人 じん 画 が 学生 がくせい たちにブルターニュ行 い きを勧 すす めており、ウィリアム・アドルフ・ブグロー などの風景 ふうけい 画家 がか も夏 なつ の間 あいだ をこの地 ち で過 す ごした。ある者 もの は既存 きそん のアカデミズム絵画 かいが からの脱却 だっきゃく を図 はか るため、またある者 もの はピークを過 す ぎた印象派 いんしょうは を乗 の り越 こ えるため、独自 どくじ の言語 げんご (ブルトン語 ご )、衣装 いしょう 、篤 あつ いカトリック信仰 しんこう 、口承 こうしょう などが残 のこ るブルターニュに新 あたら しい可能 かのう 性 せい を求 もと めた[ 1] 。
その中 なか で傑出 けっしゅつ した画家 がか が、ポール・ゴーギャンとエミール・ベルナール であった。ゴーギャンは1886年 ねん 7月 がつ に、ベルナールもやや遅 おく れてその夏 なつ に、ポン=タヴァンを訪 おとず れた。ゴーギャンは、勤 つと め先 さき をやめて画業 がぎょう に専念 せんねん することを決意 けつい し、パリの喧騒 けんそう を避 さ けて村 むら の素朴 そぼく な暮 く らしを求 もと めていた。ベルナールは、エミール・シェフネッケル の紹介 しょうかい でゴーギャンに会 あ おうとしたのだが、この時 とき はほとんど話 はなし をする機会 きかい がなかった。
2人 ふたり は、1888年 ねん にポン=タヴァンで本格 ほんかく 的 てき な再会 さいかい を果 は たした。ベルナールは「草地 くさち のブルターニュの女 おんな たち」を制作 せいさく し、これをゴーギャンにも見 み せた。ゴーギャンの「説教 せっきょう の後 のち の幻影 げんえい (英語 えいご 版 ばん ) 」はこの絵 え をもとに発想 はっそう されたものとも言 い われる。ベルナール自身 じしん は、綜合 そうごう 主義 しゅぎ のアプローチを最初 さいしょ にとったのはゴーギャンではなく自分 じぶん だと主張 しゅちょう している[ 2] 。
カフェ・ヴォルピーニで開 ひら かれた「印象 いんしょう 主義 しゅぎ および綜合 そうごう 主義 しゅぎ グループ」展 てん のポスター。
ポン=タヴァン派 は のグループは、1889年 ねん 、パリ万国博覧会 ばんこくはくらんかい の会場 かいじょう の一隅 いちぐう にあるカフェ・ヴォルピーニで、「印象 いんしょう 主義 しゅぎ および綜合 そうごう 主義 しゅぎ グループ」と自称 じしょう する展覧 てんらん 会 かい (ヴォルピーニ展 てん (英語 えいご 版 ばん ) )を開 ひら いた。ここでは、ゴーギャン、ベルナールの作品 さくひん を中心 ちゅうしん に展示 てんじ されたほか、エミール・シェフネッケル 、ルイ・アンクタン 、シャルル・ラヴァル 、ジョルジュ=ダニエル・ド・モンフレイ などが参加 さんか した。印象 いんしょう 主義 しゅぎ を名乗 なの ってはいたが、内容 ないよう はむしろ反 はん 印象 いんしょう 主義 しゅぎ 的 てき な、綜合 そうごう 主義 しゅぎ のマニフェストを宣言 せんげん するものであった[ 3] 。
この頃 ころ には、ポン=タヴァンの村 むら もごみごみした場所 ばしょ になってしまっていたため、ゴーギャンは1889年 ねん 、数 すう キロメートル東 ひがし に離 はな れたル・プルドゥ(現在 げんざい のクロアール=カルノエ)の村 むら に制作 せいさく 場所 ばしょ を求 もと め、そこで1889年 ねん から1890年 ねん にかけての冬 ふゆ を過 す ごした。
ゴーギャンとともにポン=タヴァン、その後 ご ル・プルドゥで制作 せいさく を行 おこな った画家 がか たちには、シャルル・フィリジェ 、メイエル・デ・ハーン 、シャルル・ラヴァル 、ロドリック・オコナー 、エミール・シェフネッケル 、アルマン・セガン 、ウラディスラウ・スレヴィンスキー らがいる。ゴーギャンは、1891年 ねん の最初 さいしょ のタヒチ への航海 こうかい を終 お えてから、1894年 ねん に最後 さいご にポン=タヴァンを訪 おとず れ、これらの仲間 なかま たちと過 す ごしている[ 4] 。
しかし、精神 せいしん 的 てき 中心 ちゅうしん であったゴーギャンがタヒチに渡 わた った後 のち は、グループの活動 かつどう には、見 み るべきものはない[ 5] 。
ゴーギャンとベルナールによってポン=タヴァンで生 う み出 だ されたスタイルは、綜合 そうごう 主義 しゅぎ と呼 よ ばれる。これは、複数 ふくすう のイメージを結 むす び合 あ わせて総合 そうごう することによって、印象派 いんしょうは とは全 まった く異 こと なる表現 ひょうげん を創 つく りだそうとしたものである。対象 たいしょう の忠実 ちゅうじつ な写実 しゃじつ を捨 す て去 さ ること、画家 がか の記憶 きおく に基 もと づきながら、画家 がか 自身 じしん の感情 かんじょう を反映 はんえい させて制作 せいさく を行 おこな うこと、純 じゅん 色 しょく を大胆 だいたん に用 もち いること、遠近 えんきん 法 ほう や陰影 いんえい を使 つか わないこと、明確 めいかく な輪郭 りんかく 線 せん で区切 くぎ られた平坦 へいたん な色 いろ 面 めん で描 えが くというクロワゾニスム の技法 ぎほう を用 もち いること、不要 ふよう なディテールを捨象 しゃしょう した幾何 きか 学 がく 的 てき 構図 こうず によること、といった原則 げんそく を打 う ち立 た てた[ 6] 。