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イコノクラスム

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
16世紀せいき宗教しゅうきょう改革かいかくときこったきよしぞう破壊はかい運動うんどうによって顔面がんめん破壊はかいされた教会きょうかい彫刻ちょうこくユトレヒトしゅうドム教会きょうかい

イコノクラスム英語えいご: iconoclasm, ギリシア: εικονοκλασία, εικονομαχία)とは、宗教しゅうきょうてきあがめられる画像がぞう破壊はかいする運動うんどうである[1]英語えいごにおいては「因習いんしゅう打破だは」の意味いみもあるが[1]ほんこうでは「破壊はかい運動うんどう」にたる事項じこうのみをあつかう)。

ひじりぞう破壊はかい運動うんどう(せいぞうはかいうんどう)、偶像ぐうぞう破壊はかい運動うんどう(ぐうぞうはかいうんどう)ともいう。

概要がいよう

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キリスト教きりすときょう有名ゆうめいなイコノクラスムには、ひがしマ帝国まていこくにおけるイコノクラスムと、宗教しゅうきょう改革かいかくとき西にしヨーロッパでこったビルダーシュトゥルム(絵画かいがあらしがある。

場合ばあいによってはイコノクラスムとえば、ひがしマ帝国まていこくにおいて8世紀せいきから9世紀せいきにかけておこなわれたものをとくすことがある[2]

偶像ぐうぞう破壊はかい」とうとキリスト教きりすときょう運動うんどう中心ちゅうしんとしてうこともあるが、包括ほうかつてき宗教しゅうきょうてきな「偶像ぐうぞう」の破壊はかいすこともある。また、広義こうぎでは政治せいじてき目的もくてきった象徴しょうちょう破壊はかいふくむ。

ひがしマ帝国まていこくのイコノクラスム

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ひがしマ帝国まていこくのイコノクラスムは、8世紀せいきから9世紀せいき東方とうほう教会きょうかいにおいて、きよしぞうイコン)の崇敬すうけい皇帝こうていにより禁止きんしされ、きよしぞう破壊はかいした運動うんどう[3]ひがしマ帝国まていこくうち二分にぶんするあらそいになったほか、西方せいほうのローマ教会きょうかい(のちのカトリック教会きょうかい)はこれを非難ひなんし、イコノクラスム論争ろんそうこった。

イコノクラスムは終局しゅうきょくてきにはだいななぜん公会こうかいにおいて異端いたんだんじられ、ひがしマ帝国まていこく地域ちいきでもイコン崇敬すうけい復活ふっかつした。今日きょうでは西方せいほう教会きょうかいよりもむしろ、ひがしマ帝国まていこくきゅう版図はんと教会きょうかい伝統でんとう継承けいしょうした正教会せいきょうかいにおいてイコンがさかんにえがかれているが、その神学しんがくてき正統せいとうせい論拠ろんきょはイコノクラスムの時代じだいさい確認かくにん、かつ強化きょうかされた。

概要がいよう

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だい2ニカイアこう会議かいぎだいななぜん公会こうかい)をえがいたイコン。17世紀せいきえがかれた。モスクワのノヴォデヴィチ修道院しゅうどういん所蔵しょぞう

726ねんシリア出身しゅっしんひがしローマ皇帝こうていレオーン3せいは、イコン崇敬すうけいきんじるみことのりれいひじりぞう禁止きんしれい)をはっした。これには旧約きゅうやく聖書せいしょモーセの十戒じっかいげられている「偶像ぐうぞうつくってはならない」が根拠こんきょとされた。しかし、このみことのりれい帝国ていこくしょうアジアがわ一部いちぶ聖職せいしょくしゃ知識ちしきじんには支持しじされたものの、古代こだいギリシア文化ぶんか古代こだいギリシアの宗教しゅうきょうかみ々も人間にんげん姿すがたをしていた)の伝統でんとうのこ首都しゅとコンスタンティノポリス帝国ていこくのヨーロッパがわ国民こくみん、およびイコン製作せいさくしゅとしてたずさわっていた東方とうほう教会きょうかい修道しゅうどういたるもう反発はんぱつまねき、文化ぶんかてき政治せいじてき問題もんだいからんで帝国ていこく内部ないぶ二分にぶんするだい論争ろんそうとなり、帝国ていこくのヨーロッパがわでは反乱はんらんまできた。この対立たいりつは、元来がんらいオリエントの宗教しゅうきょうであったキリスト教きりすときょうがギリシャしていくなか発生はっせいしたものであった。

レオーン3せいがこの時期じきひじりぞう禁止きんしれいした理由りゆうは、あきらかになっていない。イコン崇敬すうけい復活ふっかつしたのちきよしぞう破壊はかい著作ちょさくなどは異端いたんしょとしてやぶ却され、現代げんだいのこっていないからである。レオーン3せい時代じだいより以前いぜんからイコン崇敬すうけいへの疑問ぎもん批判ひはんており、ほかにも火山かざんだい規模きぼ噴火ふんかなどの天災てんさい偶像ぐうぞう否定ひていするイスラム教いすらむきょうからのキリスト教きりすときょうたいする批判ひはん、などが要因よういんとしてげられているが、いまだに定説ていせつとなるような理由りゆうつかっていないのである。

レオーン3せい息子むすこコンスタンティノス5せいは、これに反対はんたいするものを容赦ようしゃなく弾圧だんあつ処刑しょけいしたが、論争ろんそうおさまらなかった。一方いっぽうきよしぞうゲルマンじんへの布教ふきょうもちいていたローマ教会きょうかいも、この決定けってい非難ひなんするとともにそれまでコンスタンティノポリスにおくっていたぜい支払しはらいを停止ていしし、これによって東西とうざい教会きょうかい対立たいりつ決定的けっていてきとなった。

結局けっきょく787ねんにコンスタンティノス5せい息子むすこレオーン4せい皇后こうごうエイレーネーアテネ出身しゅっしん)が主宰しゅさいしただい2ニカイアこう会議かいぎだいななぜん公会こうかい)によって、イコン崇敬すうけい正統せいとうせいさい確認かくにんされた。

そのひがしマ帝国まていこくでは、815ねんにもふたたひじりぞう禁止きんしれいされた(843ねんまで)。しかし、すでしょうアジアがわでもひじりぞう破壊はかいへの支持しじ低下ていかしており、おおきな運動うんどうにはならず、結局けっきょくイコン崇敬すうけい復活ふっかつした。

政治せいじ外交がいこうめんでの影響えいきょう

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ひじりぞう破壊はかい論争ろんそうによって、すでに4世紀せいきから文化ぶんかてき政治せいじてき亀裂きれつしょうじつつあったひがしローマ皇帝こうていコンスタンティノポリスそう主教しゅきょうとローマ教皇きょうこう関係かんけい決定的けっていてき悪化あっかした。800ねんにはローマ教皇きょうこうフランクおうカールを「ローマ皇帝こうてい」に戴冠たいかんし、ひがしマ帝国まていこくから完全かんぜん自立じりつしたのである。

一方いっぽうひがしマ帝国まていこくないでは、きよしぞう製作せいさくしゃ拠点きょてんだい土地とち所有しょゆうしゃでもあった修道院しゅうどういん帝国ていこく耕地こうちの3ぶんの1が修道院しゅうどういんりょうだったというせつもある)をコンスタンティノス5せいらが徹底的てっていてき弾圧だんあつした結果けっか修道院しゅうどういんりょう没収ぼっしゅうされ、皇帝こうていりょうとなった。これによって皇帝こうてい権力けんりょく基盤きばん強化きょうかされ、古代こだいマ帝国まていこく後期こうきからはじめられた皇帝こうてい専制せんせい君主くんしゅ完成かんせいかうことになった。このため、そもそもひじりぞう破壊はかい運動うんどう自体じたい修道院しゅうどういん勢力せいりょく弱体じゃくたいさせるためであったのではないか、とする研究けんきゅうしゃもいる。

ひじりぞう神学しんがくてき意義いぎ

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ひじりぞう破壊はかい運動うんどう焦点しょうてんは、きよしぞう使用しようキリスト教きりすときょう教義きょうぎ違背いはいするかどうかにあった。

論点ろんてんおおきくふたつにけられる。

まずきよしぞう使用しようが「偶像ぐうぞう崇拝すうはい」にたるかどうかであり、だいひじりぞう使用しようにおいて(かり偶像ぐうぞう崇拝すうはいたらないとしても)「かみえがくこと」が可能かのうかどうかである。

イスラム教いすらむきょう偶像ぐうぞう破壊はかい運動うんどう

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カアバ神殿しんでん偶像ぐうぞう破壊はかいするムハンマド

宗教しゅうきょうてき動機どうき以外いがいのもの

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政治せいじてき思想しそうてき崇拝すうはい対象たいしょうであるもの(たとえば人物じんぶつ彫像ちょうぞう)や象徴しょうちょうとなるもの破壊はかいおこなわれた。個人こじんのイコノクラストによって政治せいじてき動機どうきっておこなわれる場合ばあいもあれば、フランス革命かくめいアンシャン・レジーム関連かんれん象徴しょうちょう破壊はかいのように、体制たいせい崩壊ほうかいともぜん体制たいせい象徴しょうちょう破壊はかいとして大々的だいだいてきおこなわれる場合ばあいもある。

歴史れきしてき出来事できごとにおける象徴しょうちょうぶつ破壊はかいを、宗教しゅうきょうてきあるいはだい規模きぼ文化ぶんかてき破壊はかいであるものと、それらを中心ちゅうしんとしないような内的ないてき政変せいへん外部がいぶからの侵略しんりゃく、あるいはその両方りょうほうによる体制たいせい変化へんかによる破壊はかい両者りょうしゃけたとき前者ぜんしゃのみを狭義きょうぎのイコノクラスムと定義ていぎすることもでき、古代こだいローマの記録きろく抹消まっしょうけいやフランス革命かくめい運動うんどう後者こうしゃ有名ゆうめいなものとしてげることができる。しかし、じゅうがつ革命かくめいのロシアでの破壊はかいや、古代こだいエジプトのアクエンアテンかんする破壊はかいのように、この区分くぶんによる区別くべつ厳密げんみつにつけがたい事例じれい存在そんざいする。

  • 古代こだいエジプトのおうアクエンアテンは、エジプトの伝統でんとうてきかみ々への寛容かんようとアテンしんへのはい一神教いっしんきょうてき意向いこうしたがかたちのエジプト美術びじゅつ特筆とくひつてき変化へんか主導しゅどうした結果けっかおおくのてらとモニュメントの破壊はかいをもたらした。宗教しゅうきょう権力けんりょく王権おうけん一本いっぽんはかっておこなわれたとられているこの改革かいかく支持しじされず、アクエンアテンの死後しごその象徴しょうちょう破壊はかいされ、しん首都しゅとアケトアテン放棄ほうきされた。
  • じゅうがつ革命かくめいのロシアでは皇帝こうてい帝政ていせい、ロマノフ象徴しょうちょうする事物じぶつへの広範こうはん破壊はかい全土ぜんどひろがり、また宗教しゅうきょう活動かつどう減退げんたいさせ制約せいやくさせる手段しゅだんひとつとして、モスクワの救世主きゅうせいしゅハリストスだい聖堂せいどうふく正教会せいきょうかい教会きょうかい建築けんちくやユダヤじん墓地ぼちなどの宗教しゅうきょう施設しせつ破壊はかいされた。


アメリカ独立どくりつ革命かくめいにおいては自由じゆう息子むすこたちによってイングランド国王こくおうジョージ3せいのブロンズぞうたおされ弾薬だんやく転用てんようされた。もと植民しょくみん地域ちいきのほとんどでは独立どくりつさいたような出来事できごと発生はっせいする。また、そのようなさいたおされなかったぞうがより重要じゅうようせいひく場所ばしょ移動いどうされることもインドやもと東側ひがしがわ諸国しょこくでしばしばられる。

その破壊はかいれい

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b Iconoclast Definition & Meaning Merriam-Webster Dictionary
  2. ^ CATHOLIC ENCYCLOPEDIA: Iconoclasm
  3. ^ 宮下みやしたただしひさろう欲望よくぼう美術びじゅつ光文社こうぶんしゃ、2013ねん、169ぺーじISBN 978-4-334-03745-1 

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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