カアバ

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カアバ神殿しんでんから転送てんそう
カアバ
اَلْكَعْبَة
カアバ 地図
カアバの位置(サウジアラビア内)
カアバ
サウジアラビアにおけるカアバの位置いち
基本きほん情報じょうほう
所在地しょざいち マスジド・ハラーム
座標ざひょう 北緯ほくい2125ふん21.08びょう 東経とうけい3949ふん34.25びょう / 北緯ほくい21.4225222 東経とうけい39.8261806 / 21.4225222; 39.8261806座標ざひょう: 北緯ほくい2125ふん21.08びょう 東経とうけい3949ふん34.25びょう / 北緯ほくい21.4225222 東経とうけい39.8261806 / 21.4225222; 39.8261806
宗教しゅうきょう イスラム教いすらむきょう
礼拝れいはい タワーフ
地域ちいき サウジアラビアの旗 サウジアラビアマッカしゅうマッカ
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カアバカーバアラビア: اَلْكَعْبَة‎, ラテン文字もじ転写てんしゃ: al-Kaʿba(アル=カアバ)、アラビア発音はつおん[al.ˈkaʕ.ba])は、サウジアラビアメッカ(マッカ)にあるマスジド・ハラーム中央ちゅうおう位置いちする建造けんぞうぶつで、イスラームにおける最高さいこう聖地せいちとみなされているきよし殿どのである。カアバ神殿しんでんともばれる。

概要がいよう[編集へんしゅう]

科学かがくてき起源きげんはわかっていない一方いっぽうで、イスラームにおいては預言よげんしゃとされるアーダムや、イブラーヒームイスマーイールによって建立こんりゅうされたとされている。ジャーヒリーヤ時代じだいにおいては多神教たしんきょう偶像ぐうぞうおさめられており、おおくの巡礼じゅんれいしゃおとずれていた。630ねんムハンマドがマッカを征服せいふくすると360たいあったとされる偶像ぐうぞうすべ破壊はかいされ、カアバはイスラームのきよし殿どのとなった。そのもカアバは災害さいがい戦乱せんらんによってたびたび破壊はかいされたが、そのたびに再建さいけんされ現在げんざいいたっている。

カアバはほぼ立方体りっぽうたいをしており、もっとながあたりやく12メートル、もっとみじかあたりやく10メートルである。本体ほんたい花崗岩かこうがん玄武岩げんぶがんからつくられたいしげて出来できており、キスワばれるまくおおわれている。南東なんとうかくには黒石くろいしばれるいしがはめまれており、ムスリムはこれを目印めじるしにしてタワーフおこなう。カアバの内部ないぶ大理石だいりせきおおわれ、3ほんはしら屋根やねささえている。

イスラームにおける最高さいこう聖地せいちとされているカアバへの巡礼じゅんれいハッジウムラばれ、ムスリムの義務ぎむのひとつである。カアバへの巡礼じゅんれいおこなうことで様々さまざま功徳くどくられるとしんじられている。また、ムスリムの義務ぎむのひとつである毎日まいにち礼拝れいはいはカアバにかっておこなうことがさだめられている。

名称めいしょう[編集へんしゅう]

「カアバ」という言葉ことばはアラビアで「立方体りっぽうたい」を意味いみする[1]。カアバはアラビアにおいては「アル=カアバ」とだけばれることがおおいが、「アル=カアバ・アル=ムシャッラファ」や「アル=カアバ・アッ=シャリーファ」(ともに「名誉めいよのカアバ」とやくされる)、「アル=カアバ・アル=ムアッザマ」(偉大いだいなカアバ)などと修飾しゅうしょくされることもある[2]

カアバが固有名詞こゆうめいしした理由りゆうについて、水谷みずたに (2010b)によると以下いかのような諸説しょせつがある[2]

  1. アル=ハーフィズ・アル=バガウィー英語えいごばんは『啓示けいじりる標識ひょうしき英語えいごばん』において、カアバが四角しかくいからであり、アラブじん四角しかくいえをカアバとんでいたためであるとしている。
  2. ムカーティル・ブン・ハイヤーンは、カアバは格別かくべついえであり、大地だいちからたかくなっているのでカアバとばれたとしている。
  3. イブン・アル=アスィールは『預言よげんしゃ伝承でんしょう解説かいせつ』において、なんでもたかくある状態じょうたいはカアバなのであり、また同時どうじ立方体りっぽうたいだからカアバとばれることになったとしている。

こうした諸説しょせつから水谷みずたに (2010b)は、カアバという言葉ことばには「がってたかくなっている」「四角よつかど立方体りっぽうたい」という意味いみがあったと推測すいそくされるが、きよし殿どのであるカアバが存在そんざいするために「カアバ」という言葉ことばにこうした意味いみしょうじた可能かのうせいかんがえられるため、言葉ことばさききよし殿どのさきかは即断そくだんできないとしている[3]

クルアーンにおけるカアバの名称めいしょう[編集へんしゅう]

クルアーンにおいてカアバは様々さまざま呼称こしょうをされている[4]。クルアーンにおけるカアバの呼称こしょうを、クルアーンの章句しょうくとも以下いか引用いんようする。

  • カアバ
信仰しんこうするものたちよ、おまえたちが禁忌きんきのときに獲物えものころしてはならない。そしておまえたちのうち意図いとてきにそれをころしたものには、代償だいしょう―おまえたちのうち公正こうせい二人ふたり家畜かちくなかから判定はんていするかれころした等価とうかぶつで、カアバたっした犠牲ぎせい動物どうぶつ。―あるいは贖罪しょくざい貧者ひんじゃへのものまたは断食だんじきでそれに相当そうとうするもの―がせられる(後略こうりゃく — クルアーンだい2しょうだい95せつ[5]
  • たて
それゆえ、かれらにはこのたておもつかえさせよ。 — クルアーンだい106しょうだい3せつ[6]
  • せいなるマスジド(マスジド・ハラーム)

クルアーンにおいて「せいなるマスジド」という呼称こしょうは15かい登場とうじょうしている[7][注釈ちゅうしゃく 1]

だがせいなるマスジドを、その後見こうけんでもないのに妨害ぼうがいするかれらをアッラーがばったまわないとは、どうしたことか。(後略こうりゃく — クルアーンだい8しょう34せつ[9]
  • 古来こらいかん
それから、かれらには、かれらのよごれを始末しまつさせ、誓願せいがんたさせ、古来こらいかんしゅうあやさせよ。 — クルアーンだい22しょうだい29せつ[10]
  • せいなるかん
アッラーはせいなるかんカアバを人間にんげんどころたまい、聖月みづきささぶつ首飾くびかざりもまた。(後略こうりゃく — クルアーンだい2しょう97せつ[11]
  • 最初さいしょかん
まことに人々ひとびとのために建立こんりゅうされた最初さいしょかんはマッカのもので、しょ世界せかいへの祝福しゅくふくみちびきとしてであった — クルアーンだい3しょう96せつ[12]

そのほかの名称めいしょう[編集へんしゅう]

ヤークート・アル=ハマウィーしるした『諸国しょこく集成しゅうせい』においてカアバは「樹木じゅもくまわり」を意味いみする「ドゥーワール」と呼称こしょうされている[4]。また、アズラキーしるした『マッカ』においては「きよししょ」を意味いみする「カーディス」や、「めずらしいところ」を意味いみする「ナーディル」と呼称こしょうされている[13]

日本語にほんごでの名称めいしょう[編集へんしゅう]

日本語にほんごにおいてカアバは「カアバ神殿しんでん」と表現ひょうげんされることがおお[注釈ちゅうしゃく 2]。このほか「カアバきよし殿どの[注釈ちゅうしゃく 3]や「カアバ禁忌きんき殿どの」とも表現ひょうげんされる[16]日本人にっぽんじんはじめてマッカ巡礼じゅんれいおこなった山岡やまおか光太郎こうたろう巡礼じゅんれい記録きろくにおいて「マッカ大礼たいれい拝殿はいでん」と表現ひょうげんしている[17]。また、カアバは「カーバ」ともおとうつされ[18]全国ぜんこく歴史れきし教育きょういく研究けんきゅう協議きょうぎかい文部もんぶ科学かがくしょうはこちらを採用さいようしている[19][20]

所在地しょざいち[編集へんしゅう]

「ムスリムのみ」とかれたマッカへの案内あんない標識ひょうしき。2009ねん撮影さつえい

カアバは、サウジアラビア王国おうこくマッカしゅう州都しゅうとであるマッカにあるマスジド・ハラーム中庭なかにわ中央ちゅうおう位置いちしている[18]。マッカはイスラーム成立せいりつ以前いぜん多神教たしんきょう時代じだいから聖地せいちであるとされており、聖地せいちのなかでは戦闘せんとう行為こうい殺傷さっしょうなどがきんじられていた[21]。イスラーム勢力せいりょくがマッカを征服せいふくすると、マッカはイスラームの聖地せいちとなった。聖地せいち範囲はんいはイスラーム成立せいりつ以前いぜんからさだめられていたが、イスラーム勢力せいりょくがマッカを征服せいふくしてから聖地せいち拡大かくだいされた[22]聖地せいち範囲はんい確定かくていはウマイヤあさ時代じだいからサウジアラビア王国おうこく成立せいりつまでに11かいおこなわれた。サウジアラビア成立せいりつ確定かくてい作業さぎょうおこなわれ、2010ねん現在げんざいではマッカを中心ちゅうしんとした東西とうざい南北なんぼくおよそ10キロメートルをかこかたち聖地せいち設置せっちされている[23]聖地せいちはいるとムスリムは巡礼じゅんれいころも着替きがえることがさだめられている[24]。イスラームを信仰しんこうしないもの聖地せいちないはいることが出来できるかどうかは学派がくはによって意見いけんことなるが、事実じじつじょう、ムスリム以外いがいがマッカにはいることは禁止きんしされている[25]

カアバがさきにあったところに、これをまもるかたちでマスジド・ハラームが徐々じょじょ形成けいせいされていった[26]アッバースあさには南北なんぼくおよそ150メートル、東西とうざいおよそ200メートルであり、通用つうようもんは23あったという。そのなに世紀せいきわた拡張かくちょう工事こうじおこなわれ、現在げんざいでは同時どうじに100まんにん礼拝れいはい可能かのうになった[27]

マスジド・ハラームの変遷へんせん
1582ねん
1678ねん
1709ねん
1850ねん
1920ねん
2019ねん

歴史れきし[編集へんしゅう]

起源きげん[編集へんしゅう]

発掘はっくつ調査ちょうさによって、マッカには紀元前きげんぜん3,000ねんごろから人類じんるいはじめたことがかっているが[28]、カアバの考古学こうこがく調査ちょうさおこなわれておらず、カアバの科学かがくてき起源きげんかっていない[29]。ジャーヒリーヤ時代じだいのアラビアにおいてはアダムかみいのちけててんにある原型げんけいしてつくられたとしんじられた[30]。また、後述こうじゅつするように、イスラームにおいてはイブラーヒームとイスマーイールがカアバをきずいたとされているが、これはイスラーム成立せいりつ以降いこうされた伝説でんせつである[31]科学かがくてき起源きげんたしかめる方法ほうほうはないものの、かなりふるくからマッカのたに四角しかくかべかこまれた神殿しんでんがあったと推測すいそくされている[32]

クラウディオス・プトレマイオスしるした『地理ちりがく』に登場とうじょうする「マコラバ」[注釈ちゅうしゃく 4]ばれる場所ばしょがマッカだとするせつがある[33][34]。これが事実じじつならば2世紀せいき前半ぜんはんにはカアバの名声めいせいがアラビア半島はんとうがいにもひろまっていてマッカにはおおくの巡礼じゅんれいしゃおとずれていたということになる[33]。しかし、しとみ (2018)は、アラビア半島はんとうには各地かくちおおくの神殿しんでんがあったため、たとえプトレマイオスの時代じだいにマッカに神殿しんでんがあったとしても、これが特別とくべつ存在そんざいであったという証拠しょうこはどこにもないとしている[35]

ジャーヒリーヤ時代じだいのカアバ[編集へんしゅう]

黒石くろいしをカアバにおさめるムハンマドをえがいたミニアチュール。1307ねん

アラビアにおける初期しょき信仰しんこう岩石がんせき樹木じゅもく自然しぜん現象げんしょう対象たいしょうとするアニミズムてきなものであった[36]しとみ (2018)は、カアバにまれている黒石くろいしはアラビアにおける聖石ひじりいし信仰しんこう根強ねづよさをしめしているとしている[36]

都市とし国家こっか誕生たんじょうするにつれてアラビアでは特定とくていかみ守護神しゅごじんとしてあがめるようになった。こうしたかみおおくはひともしくは動物どうぶつかたちをした偶像ぐうぞうとして崇拝すうはいされていた[37]

マッカにんでいた部族ぶぞくのうち、キナーナぞく支族しぞくであるバクル・ブン・アブド・マナートぞくと、フザーアぞく支族しぞくであるグブシャーンぞくがカアバの管理かんりをしていた[38]。5世紀せいきまつにマッカにいたとされるクライシュぞくは、ムハンマドの5だいまえ先祖せんぞであるクサイイ・イブン・キラーブ英語えいごばんひきいられマッカを征服せいふくした。これによってカアバの守護しゅごけんはクライシュぞくれた[34]。このころのカアバはひと背丈せたけほどのおおきさで、屋根やねのない粗末そまつほこらぎなかったという[1]

ムハンマドが成人せいじんたっしたころ、カアバは焼失しょうしつしたとされる。カアバは石造いしづくりの建物たてものあらためられたが、再建さいけんにあたっては紅海こうかい沿岸えんがん都市としであるジッダ漂着ひょうちゃくしていたビザンツ商人しょうにん難破なんぱせんからあつめられた廃材はいざい利用りようされたとつたえられている[39][40][注釈ちゅうしゃく 5]。このことから、再建さいけんされたカアバはすくなくともはしらはりといった骨格こっかく部分ぶぶん木材もくざいてられたと推測すいそくされている[32]黒石くろいしかべにはめまれたのもこの再建さいけんのときであるとされている[41]。クライシュぞくはカアバのたかさをもともとの9ズィラーウ[注釈ちゅうしゃく 6]からばいの18ズィラーウにばしたが、それによって資金しきんりなくなったためカアバの南北なんぼくながさを3.25メートルみじかくした。これによって現在げんざいカアバの北側きたがわかれているイスマーイールのがこしょがカアバにはいりきらなくなったため現在げんざいのようにそとかれたとかんがえられている[43]

ジャーヒリーヤ時代じだいのカアバではアッ=ラートマナートアル=ウッザーなど様々さまざまかみまつられていたが、このなかでもフバル英語えいごばんというかみ主神しゅしん地位ちいあたえられていた[44][45][46][注釈ちゅうしゃく 7]。アッバースあさ時代じだい文人ぶんじんであるイブヌ・ル=カルビー英語えいごばんという人物じんぶつがイスラーム以前いぜんのアラブの多神教たしんきょう崇拝すうはいについてしるした『偶像ぐうぞうしょ』には以下いかのようにしるされている[48]

クライシュぞくは、カアバの内部ないぶおよび周囲しゅういに、もろもろの偶像ぐうぞうゆうしていた。これらのうちでかれらにとってもっと重要じゅうようだったのは、フバルであった。わたしいているところでは、フバルは、べに玉髄ぎょくずい材料ざいりょうにした人物じんぶつぞうで、右手みぎて破損はそんしていた。クライシュぞくは、この状態じょうたいでフバルを入手にゅうしゅして、黄金おうごんせいの(みぎけたのである。……フバルはカアバの内部ないぶにあってそのまえには、ななほんうらないかれていた。 — イブヌ・ル=カルビー『偶像ぐうぞうしょ[49]

こうした偶像ぐうぞうのほか、カアバ内部ないぶはしらには天使てんし樹木じゅもくなどのけられ、金銀きんぎんのほかに橄欖かんらんせきやルビー、真珠しんじゅおさめられていたという[50][51]。また、この時代じだいにはカアバは毎週まいしゅう月曜日げつようび木曜日もくようびひらかれていた。なかはいまえには履物はきもの習慣しゅうかんだったという。また、妊娠にんしんちゅう女性じょせいがカアバのなか出産しゅっさんしたという記録きろくのこされている[52]

カアバにはマッカの周辺しゅうへん住民じゅうみん遊牧民ゆうぼくみん礼拝れいはいおとずれていた。つみおかしたものもカアバにはいればつみをとがめられることはなかったという[53]とくに、毎年まいとし巡礼じゅんれいがつには部族ぶぞくあいだあらそいはすべ停止ていしされ、アラビア全土ぜんどから部族ぶぞくみんがカアバへの巡礼じゅんれいおとずれていた[54][注釈ちゅうしゃく 8]

イスラームによる征服せいふく[編集へんしゅう]

真理しんりはここに到来とうらい虚偽きょぎった。(中略ちゅうりゃく)ジャーヒリーヤ時代じだいのすべての権威けんいはいまや足下あしもとにあり、いまをもって廃絶はいぜつされる!―ムハンマド
バラーズリー英語えいごばん諸国しょこく征服せいふく英語えいごばん』より[56]

630ねん1がつにムハンマドがひきいるイスラームの軍勢ぐんぜいがマッカを征服せいふくした。ムハンマドは黒石くろいしれて「アッラーフ・アクバル」ととなえ、ラクダにまたがってカアバを一巡いちじゅんした[57]。その、ムハンマドはカアバのかぎってとびらけ、カアバにほうじられていた360たいすべての偶像ぐうぞうっていたつえこわし、これらにはなったとされる[56][58]

しかし、ムハンマドは、カアバそのものはイスラームにとってもせいなる礼拝れいはいであるとして破壊はかいしなかった[59]。また、カアバのかぎはそれまでタルハという一族いちぞくあずかっており、かれらの去就きょしゅう問題もんだいとなったが、ムハンマドはタルハ一族いちぞくつづきその役職やくしょくにあたることをみとめた[60]

アブドゥッラー・イブン・アッ=ズバイルによる再建さいけん[編集へんしゅう]

ウマイヤあさ時代じだいになった683ねんアブドゥッラー・イブン・アッ=ズバイルみずからをカリフであると宣言せんげんしてだい内乱ないらんがはじまった[61]同年どうねん、ウマイヤあさのカリフであるヤズィード1せいはマッカにシリアぐん派遣はけんして反乱はんらんぐんへの攻撃こうげきおこなった。カアバはシリアぐんから投石とうせきによる攻撃こうげきけた。攻撃こうげきのなかでカアバのちかくにってあったテントからんでキスワ引火いんかし、カアバは倒壊とうかいした[62][63]同年どうねんのヤズィード1せい死去しきょにともなって戦闘せんとう終了しゅうりょうしたのち、イブン・アッ=ズバイルはカアバのこわしと再建さいけん決定けっていした[62]。カアバのこわしがまると、マッカの住民じゅうみんなかにはアッラーをおそれておよそ5キロメートルさきのミナーに避難ひなんしたひとおおかったという[64]こわしは684ねんまたは685ねんおこなわれた[65]

再建さいけんされたカアバは倒壊とうかいまえよりも拡張かくちょうされ、クライシュぞくによる再建さいけん以前いぜんのカアバとおな面積めんせきとなり、イスマーイールのがこしょがカアバ内部ないぶもどされた。ただし、クライシュぞく再建さいけんまえには半円はんえんがただったカアバの北側きたがわいちへん直線ちょくせんとなった。カアバのたかさはクライシュぞくによる再建さいけんより9ズィラーウたかい27ズィラーウとなり、とびら東側ひがしがわ西側にしがわ地面じめんたかさにもうけられた。はしら本数ほんすうは6ほんから3ほんらされ、天井てんじょうじゅう構造こうぞうとなった[65]黒石くろいし火事かじによって3つにれたため、銀製ぎんせいわくまれた[66]

このイブン・アッ=ズバイルによる再建さいけんは、ムハンマドのつまであるアーイシャかたったムハンマドの伝承でんしょうによるものによった。伝承でんしょうでは、ムハンマドはおおきい規模きぼのカアバをのぞんでおり、とびら地面じめんからたか位置いちではなく地上ちじょうに、東西とうざいに2つあってひと出入でいりをとどこおらせない姿すがたのぞんでいたという[67]

アル=ハッジャージュ・ブン・ユースフによる再建さいけん[編集へんしゅう]

692ねん、マッカはウマイヤあさ5だいカリフであるアブドゥルマリク派遣はけんしたアル=ハッジャージュ・ブン・ユースフ英語えいごばんによる攻撃こうげきけた。このたたかいのなかでイブン・アッ=ズバイルは戦死せんしし、だい内乱ないらん鎮圧ちんあつされた[67][68]。アル=ハッジャージュ・ブン・ユースフは、アブドゥルマリクにカアバをどうするべきか指示しじあおいだ。これにたいしアブドゥルマリクは、イブン・アッ=ズバイルによる再建さいけん以前いぜんのカアバにもどすように命令めいれいした。アブドゥルマリクはアーイシャがつたえるムハンマドの伝承でんしょうったのはこの再建さいけんののちであったという[67]

カアバはイブン・アッ=ズバイルによる再建さいけん以前いぜんのものにもどされたが、たかさはイブン・アッ=ズバイルが再建さいけんしたさいの27ズィラーウのままにされた[67]。このほか、とびら内部ないぶはしら、イスマーイールのがこしょ金属きんぞくせいになり、カアバ内部ないぶゆかかべあかみどり白色はくしょくからなる大理石だいりせきとなった。カアバの土台どだい部分ぶぶんであるシャーザルワーンはこの再建さいけんさいにとりつけられた[69]。このアル=ハッジャージュ・ブン・ユースフによって再建さいけんされたカアバが、少々しょうしょう修復しゅうふくのぞけばおおきな改築かいちくおこなわれないまま1,000ねんちか維持いじされることとなった[70]

カルマトによる略奪りゃくだつ[編集へんしゅう]

930ねん1がつ現在げんざいバーレーン本拠地ほんきょちいたシーア一派いっぱであるカルマトによってカアバが略奪りゃくだつされた[71][72]かれらはカアバのとびらってあった黄金おうごんぼうきはがし、内陣ないじんかねぎん宝石ほうせきなどの装飾そうしょくひん強奪ごうだつしたほか、黒石くろいしうばい、キスワをはぎってった[73][注釈ちゅうしゃく 9]うばわれた黒石くろいしはアッバースあさ代償だいしょうきん支払しはらって、951ねんもともどされた[75]現在げんざい黒石くろいしは13れているが、この略奪りゃくだつさいれたとかんがえられている[72]

オスマン帝国ていこく[編集へんしゅう]

ムラト4せい時代じだい再建さいけん[編集へんしゅう]

カアバ。1910ねん撮影さつえい

オスマン帝国ていこく時代じだいの1630ねん4がつ2にちから3にち(ヒジュラれき1039ねん8がつ19にちから20日はつか)にかけて、マッカ地方ちほう豪雨ごううおそった。これによって洪水こうずい発生はっせいし、カアバは半分はんぶん水浸みずびたしとなった。やがて東西とうざいりょう側面そくめんかべ北東ほくとうがわかく崩落ほうらくはじめたため、あめどいなど金属きんぞく製品せいひん中心ちゅうしんとして貴重きちょうひん避難ひなんさせられた。あめおさまるとカアバ周辺しゅうへん清掃せいそうおこなわれ、4にち(21にち)の金曜きんよう礼拝れいはいおこなわれた。翌週よくしゅうの12にち(29にち)にはマッカの太守たいしゅ有識者ゆうしきしゃ有力ゆうりょくしゃによる協議きょうぎおこなわれ、ムラト4せいたいしてカアバ再建さいけん費用ひようについての書簡しょかんおくられた。洪水こうずいから2かげつ、カアバをおおたかさ3メートルほどの木製もくせいがこかべもうけられ、がこかべには緑色みどりいろぬのがかけられた[76]。オスマン朝廷ちょうていからの反応はんのうおそかったため、エジプト太守たいしゅであったリドワーン・ベイはオスマン朝廷ちょうてい回答かいとうたずして修復しゅうふく作業さぎょう準備じゅんび開始かいしした[77][78]。1631ねん(ヒジュラれき1040ねん4がつ)、スルターンの代理人だいりにん到着とうちゃくし、工事こうじ着手ちゃくしゅされた。しかし同月どうげつにはまた豪雨ごううがあり、カアバのかべはさらに被害ひがいけた。翌月よくげつにはかべせきはずしがおこなわれ、マカーム・イブラーヒームも移動いどうされた[79]。ヒジュラれきの9月(ラマダーンがつ)1にち、カアバにキスワがかけられた。金製きんせい銀製ぎんせい灯明とうみょうがそれぞれ20と30けられ、12月2にちすべての修復しゅうふく作業さぎょう完了かんりょうした[80]

オスマン帝国ていこくによって再建さいけんされたカアバは、ながさ、たかさともに再建さいけんまえのものが踏襲とうしゅうされた[80]黒石くろいしには竜涎香りゅうぜんこうまれ、あぶら固定こていされた。また、銀製ぎんせい防護ぼうごわくめられた[79]水谷みずたに (2010b)によると、この再建さいけんにかかった費用ひようしるした史料しりょうがなく、そもそも費用ひよう度外視どがいしされていたとしている[81]

1680ねんにはふたたびマッカを豪雨ごううおそい、カアバのとびら鍵穴かぎあなまでみずかったという[82]

ワッハーブによる占領せんりょう[編集へんしゅう]

1803ねん5がつ2にちワッハーブ王国おうこく軍勢ぐんぜいがマッカを占領せんりょうした。ワッハーブ王国おうこくはその10年間ねんかんマッカを占領せんりょうし、そのあいだにカアバの北西ほくせいにあったハージャルとイスマーイールのはかや、ひがしにあったザムザムのいずみのドームを破壊はかいした[83][注釈ちゅうしゃく 10]。その、ワッハーブ王国おうこくは1813ねんにエジプト総督そうとくムハンマド・アリー攻撃こうげきによりマッカから退却たいきゃくした[85]

サウジアラビア王国おうこく[編集へんしゅう]

カアバ。1937ねん撮影さつえい

1932ねんにサウジアラビア王国おうこく建国けんこくされた[81]。サウジアラビアの初代しょだい国王こくおうであるアブドゥルアズィーズはムラト4せい以来いらいとびら新調しんちょうした[86]。2だい国王こくおうサウード1せい黒石くろいしぎんわくをスターリングシルバーにし、カアバ内部ないぶ屋上おくじょうへの階段かいだん新調しんちょうした[86]。3だい国王こくおうであるファイサルはカアバの改築かいちくおこなわなかったが、ザムザムのいずみ給水きゅうすいしょやミンバルをカアバからとおざけ、マカーム・イブラーヒームを小屋こやから小型こがた保護ほごろうえた。4だい国王こくおうであるハーリドは黒石くろいしぎんわくとびら新調しんちょうした[87]

ファハドによる改修かいしゅう[編集へんしゅう]

カアバはあめ湿気しっけ地面じめんからむしによる腐食ふしょく破損はそんおかされていた。これをけ、5だい国王こくおうであるファハドは1995ねんにおよそ360ねんぶりとなる全面ぜんめんてき改修かいしゅうおこなった[87]外壁がいへき石材せきざいあいだのモルタルの強化きょうか改修かいしゅう天井てんじょうはりえ、劣化れっかしたかべせき除去じょきょあめとい鉄製てつせいのものに更新こうしん土台どだい(シャーザルワーン)をいしせいから大理石だいりせきせいへの置換ちかんなどがおこなわれた。また、屋根やねは1957ねんに2だい国王こくおうのサウードによって改修かいしゅうされていたが、これをさらにくわえ、いしせいだった屋根やね基礎きそ部分ぶぶん強化きょうかセメントに、木製もくせいだった屋根やね軽量けいりょうセメントにえられ大理石だいりせきおおった[88]

建築けんちく[編集へんしゅう]

カアバは、くろ立方体りっぽうたい建築けんちくぶつである[89]大理石だいりせき基盤きばんうえてられており、四隅よすみはほぼ東西とうざい南北なんぼくしている[18]。カアバ本体ほんたいかべふる火山かざん噴火ふんかでできた花崗岩かこうがん玄武岩げんぶがんから出来できいしが26だんげられたものである[90]屋根やね基礎きそ部分ぶぶんはかつてはいしせいだったが強化きょうかセメントせいに、屋根やね大理石だいりせきおおわれた軽量けいりょうセメントせいじゅう構造こうぞうひら屋根やねとなっている[91]地上ちじょう2メートルのたかさのところにくちがあり、普段ふだんはずされている階段かいだんもちいてはいることが出来でき[18]

外部がいぶ[編集へんしゅう]

カアバの平面へいめん

カアバのおおきさは、東側ひがしがわとびらがあるあたりが11.68メートル、北側きたがわのイラクかくとシリアかくはさまれたあたりが9.90メートル、西側にしがわのレバノンかくとイエメンかくはさまれたあたりが12.04メートル、南側みなみがわ黒石くろいしかくとイエメンかくはさまれたあたりが10.18メートルである[92][注釈ちゅうしゃく 11]。カアバのおおきさについては、ながさの単位たんいであるズィラーウが「てつのズィラーウ」や「うでのズィラーウ」など様々さまざまあったことから論争ろんそうがあったが、1983ねんおこなわれた改装かいそうさい公式こうしき発表はっぴょうによって決着けっちゃくがついた[93]

北東ほくとうかうめん正面しょうめんであり、その左端ひだりはし地上ちじょうたかさ1.5メートルのところに黒石くろいしがはめまれている[18]。カアバのかべふる火山かざん噴火ふんかでできた花崗岩かこうがん玄武岩げんぶがんから出来できいしが26だんげられているが、このうち15だんのみがのものよりうすくなっている。これはイブン・アッ=ズバイルによってたかさが18ズィラーウから27ズィラーウ(13.46メートル)とされるまえ頂点ちょうてんだという[90]

カアバの屋根やねひら屋根やねではあるが北西ほくせいかってゆる勾配こうばいがあり、ミーザーブとばれるあめどいにつづいている[18]天井てんじょうそう構造こうぞうとなっており、2ズィラーウ(およそ1メートル)の間隔かんかくがあけられている。屋根やね表面ひょうめん大理石だいりせきおおわれ、ひかりりのために4つのあなけられている[94]

  1. 黒石くろいし
  2. とびら
  3. ミーザーブ
  4. シャーザルワーン
  5. イスマーイールのがこしょ
  6. アル=ムルタザム
  7. マカーム・イブラーヒーム
  8. 黒石くろいしかく
  9. イエメンかく
  10. シリアかく
  11. イラクかく
  12. キスワ
  13. タワーフの始点してん終点しゅうてんしめ大理石だいりせき模様もよう

黒石くろいし[編集へんしゅう]

黒石くろいし。2013ねん撮影さつえい

黒石くろいしは、カアバの南東なんとうかくたかさ1.5メートルのところにかれた直径ちょっけいやく30センチメートルほどのいしである。コーティングされているため全体ぜんたいあかみがかっており、中心ちゅうしんくろてんが7ある。アッバースあさのカリフであるハールーン・アッラシード以来いらいより黒石くろいし銀製ぎんせいわくにはめまれている[95]。イスラームにおいてはイブラーヒームがカアバを建設けんせつしたときにだい天使てんしジブリールよりさずかったものであり、元々もともとしろかったが人間にんげんつみれていくうちにくろくなったとされている[96][97]。マッカを巡礼じゅんれいするムスリムはこの黒石くろいし起点きてんとして7かいのタワーフをおこな[98]

とびら[編集へんしゅう]

カアバのとびら。2011ねん撮影さつえい

カアバのとびらたかさ3.18メートル、はば両面りょうめんで1.71メートル、地面じめんからのたかさは2.22メートルある。現在げんざいでは東側ひがしがわにのみもうけられているが、イブン・アッ=ズバイルによる再建さいけんさいには西側にしがわにももうけられ、たかさは1.51メートルのところにあった。1155ねんのアッバースあさカリフのアルムクタフィーをはじ様々さまざま支配しはいしゃよりとびら寄贈きぞうされてきたが、現在げんざいでは1979ねんにサウジアラビア国王こくおうのハーリドにより新調しんちょうされたとびらもちいられている[99]

ミーザーブ[編集へんしゅう]

キスワとミーザーブ。2011ねん撮影さつえい

ミーザーブ(あめとい)はカアバの屋上おくじょうけられたあめといである。ミーザーブはカアバからそとているのがおよそ1.92メートル(4ズィラーウ)、はばはおよそゆび8ほんぶん、カアバのかべにおよそ50センチメートルほどはいんでいる。クライシュぞくによってはじめてとりつけられ、そのはそのとき支配しはいしゃによってなんえられた。現在げんざいではサウジアラビア国王こくおうのファハドが新調しんちょうしたものがもちいられている[100]

シャーザルワーン[編集へんしゅう]

シャーザルワーンは、カアバのかべさい下部かぶにあるした部分ぶぶんである。このシャーザルワーンは北側きたがわにのみなく、のこりのさんへんしがシャーザルワーンとして大理石だいりせき装飾そうしょくされている[101]。かつてはいしせいであったが1996ねんにサウジアラビア国王こくおうのファハドによって大理石だいりせきせいえられた[102]。シャーザルワーンがカアバの内部ないぶ外部がいぶであるかはイスラーム法学ほうがくによってかれている。シャーフィイー学派がくはマーリク学派がくは内部ないぶであるとする一方いっぽうで、ハナフィー学派がくは外部がいぶであるとしている[103]

イスマーイールのがこしょ[編集へんしゅう]

イスマーイールのがこしょ

ハティーム[注釈ちゅうしゃく 12]、またはイスマーイールのがこしょは、たかさ1.3メートル、あつさ1.5メートル、内側うちがわ直径ちょっけい8メートルほどの半円はんえんがた造形ぞうけいぶつである[105]。ここにはイスマーイールとそのははであるハージャルが埋葬まいそうされているとされており、イブン・アッ=ズバイルがカアバ再建さいけんのためにここをこしたところ、はかとみられる緑色みどりいろいしてきたという[104]

滅多めったあめらないマッカにおいてあめったさいにはイスマーイールのがこしょでミーザーブからあふれてくるみずようとしたという[106]

マカーム・イブラーヒーム[編集へんしゅう]

マカーム・イブラーヒーム。2016ねん撮影さつえい

マカーム・イブラーヒームは、アッラーにカアバの建築けんちくめいぜられたイブラーヒームがたかいところにいしげるさいったとつたえられているいしである[107][108]。このいしにはイブラーヒームの足跡あしあととされるくぼみがあるが、なが年月としつきをかけておおくの人々ひとびとさわっていしけずられたため、ゆびかたちのこっていない[109][110]。このおだい手前てまえにはザムザムのいずみがある[98]。マカーム・イブラーヒームはアッバースあさのカリフであるマンスールによって金製きんせいわく保護ほごされた。そのかざろうれられ、ヒジュラれき871ねんには3メートル四方しほうのマクスーラとばれる建物たてものれられた[110]。しかしマクスーラは礼拝れいはい障害しょうがいとなったため1964ねんにサウジアラビア政府せいふはマクスーラをはらい、フランスせい水晶すいしょうものれられた。そして水晶すいしょうもの小型こがた保護ほごろうれられることとなった[111]

かく[編集へんしゅう]

カアバの4つのかくはそれぞれ、北東ほくとうがわはイラクかく別名べつめいヒジュルかく)、北西ほくせいがわはシリアかく別名べつめいマグレブかく)、南東なんとうがわ黒石くろいしかく南西なんせいがわはイエメンかくばれる。これらのうち、黒石くろいしかくとイエメンかくまえ2つにくら重視じゅうしされている。タワーフをおこなうムスリムはこれら2つのかくとおさいにこれらにかって挨拶あいさつし、両角もろずみあいだではいのりの言葉ことばげることになっている。これら2つのかく重視じゅうしされる背景はいけいとして、クライシュぞくによるカアバ再建さいけんさいにこれら2つのかくのみイブラーヒーム時代じだい規模きぼだったためというせつがある。しかしイエメンかくかぎると、ムハンマドがイエメンかく重視じゅうししたというスンナがあることがイエメンかく重視じゅうしする直接的ちょくせつてき理由りゆうとなっている[112]

キスワ[編集へんしゅう]

キスワはカアバをおおまくである[113]下記かきするカアバ内部ないぶまくもキスワとばれるが、通常つうじょうキスワとばれるものはこのふしあつかうカアバをおおぬの[114]。キスワはとしごとにあたらしくえられることになっている。現在げんざいのものはかねいと刺繍ししゅうされた黒色こくしょくのものがおおいが、かつてはしろみどりのものもあったという[113]。キスワをかけることはジャーヒリーヤ時代じだいからの慣行かんこうであり、アッバースあさのカリフであったナースィルが黒色こくしょくのキスワを奉納ほうのうしてから黒色こくしょく定着ていちゃくしたという[115]。キスワを奉納ほうのうする権利けんりはイスラーム世界せかいでただ1人ひとり君主くんしゅかぎるとされていた。たとえばマムルークあさ時代じだいには、エジプトにいたマムルークあさのスルターンにのみこの権利けんりみとめられており、毎年まいとしのラジャブがつ(7がつ)にだい規模きぼ巡礼じゅんれいだんがキスワをはこんだ[115][116]。マムルークあさ滅亡めつぼうするとこの権利けんりはオスマン帝国ていこく継承けいしょうされ、現在げんざいではサウジアラビア王国おうこくがキスワを奉納ほうのうしている[116]普段ふだんはおおわれているが、礼拝れいはいときのみ下部かぶげられる[18]

内部ないぶ[編集へんしゅう]

カアバの内部ないぶ大理石だいりせきかれており、3ほん直径ちょっけい50センチメートルほどのはしらが2.35メートル間隔かんかくかれ屋根やねささえている[18][117]香料こうりょうつくえ壁際かべぎわかれ、天井てんじょうからはランプがぶらがっている。北東ほくとうかくがわには天井てんじょうのぼるための階段かいだんへの戸口とぐちと、それをおお黒色こくしょくのカーテンがもうけられている[118]かべには「アッラーに称賛しょうさんあれ」「偉大いだいなアッラーにたたえあれ」などとかれた緑色みどりいろまくかっている[114][注釈ちゅうしゃく 13]

現在げんざい、カアバにはい機会きかいまれであり、国際こくさい会議かいぎなどのあとで参加さんかしゃへの記念きねん行事ぎょうじや、各国かっこく指導しどうしゃたいする行事ぎょうじ、また、とし2かい清掃せいそうさいにカアバへのいれ殿どのおこなわれる[119]。しかし、ジャーヒリーヤ時代じだいには毎週まいしゅう月曜日げつようび木曜日もくようび、あるいは月曜日げつようび金曜日きんようびひらかれており、イブン・ジュバイルの記録きろくにおいてもラジャブがつかぎり、これがおこなわれていたという[120]

イスラームにおける位置いちづけ[編集へんしゅう]

マッカを中心ちゅうしんとしたせい距方図法ずほう世界せかい地図ちず

イスラームにおいて、カアバは世界せかい中心ちゅうしんであるとかんがえられている[121][注釈ちゅうしゃく 14]。『諸国しょこく集成しゅうせい』をしるしたヤークートはカアバについて以下いかのような伝承でんしょうつたえているほか、現代げんだいにおいてもサウジアラビア政府せいふ公式こうしき研究けんきゅうしょでは「カアバが地球ちきゅう、そして大地だいち中心ちゅうしんにある」とされている[41][123]グルーネバウム (2002)によると、こうしたかんがかたはユダヤ教徒きょうとキリスト教徒きりすときょうとあいだかたられていた宇宙うちゅうろんをカアバに転用てんようしたものだという[124]

アッラーフが地上ちじょう最初さいしょ創造そうぞうしたのはカーバであった。かみはそれをひらたくのばして大地だいちをつくられた。つまり、カーバは大地だいちのへそ(スッラト・アルアルド)[注釈ちゅうしゃく 15]であり、世界せかい中心ちゅうしんであり、邑々のははなのである — ヤークート『諸国しょこく集成しゅうせい[41]

イスラームにおけるカアバの起源きげん[編集へんしゅう]

イスラームにおいてカアバは、人類じんるいであり最初さいしょ預言よげんしゃとされるアーダム英語えいごばんアダム)が楽園らくえんわれて現在げんざいのインドやスリランカをさまよったのちに、マッカから南東なんとうおよそ25キロメートルのところにあるアラファートのおかハウワーイヴ)と再会さいかいし、アッラーのいのちけ、てんにあって天使てんしたちがまわりをまわ礼拝れいはいしょである「参拝さんぱいかん」を雛形ひながたにして天使てんし手助てだすけをりながらカアバを建造けんぞうしたとされている[126][注釈ちゅうしゃく 16]。このときつくられたカアバはいし少々しょうしょうげただけのものであり、その預言よげんしゃによって改装かいそうおこなわれたとしんじられている[129]。ただし、『クルアーン』にはアーダムとマッカをむすける記述きじゅつはないため、後藤ごとう (1991)は、アーダムとマッカの関係かんけいはムハンマドの死後しごにイスラームにまれたものであるとしている[130]

預言よげんしゃのひとりとされるヌーフ英語えいごばんノア)はカアバで礼拝れいはいをおこなったが、そのこっただい洪水こうずいでカアバは水没すいぼつし、その崩壊ほうかいしたかうずもれたとしんじられている[129]。およそ1000ねん預言よげんしゃのひとりであり、人類じんるい史上しじょうはつのムスリムであるとされているイブラーヒームが天使てんしたすけをりてカアバを再建さいけんした[131][132]。イブラーヒームはマッカの周囲しゅういにある山々やまやまからカアバの石材せきざい採取さいしゅし、かべがある程度ていどたかさになるといしうえって作業さぎょうをしたとされている。そのときいしがマカーム・イブラーヒームであるとされている[108][133]。こうしてイブラーヒームがてたカアバが2代目だいめであるとされている[131]完成かんせいしたのち、イブラーヒームはマカーム・イブラーヒームのうえから巡礼じゅんれい義務ぎむについてき。その天使てんしジブリールから黒石くろいしさずかったとされている[133]。イブラーヒームとその息子むすこであるイスマーイールによる再建さいけんは『クルアーン』のだい2しょう127せつだい3しょう96せつだい22しょう26、27せつにもしるされている[29][41][134]

礼拝れいはい巡礼じゅんれい[編集へんしゅう]

イスラームにおいて、カアバが位置いちするマスジド・ハラームへの巡礼じゅんれいは5つの義務ぎむのひとつにはいっており、すべてのムスリムは生涯しょうがいなかすくなくとも1おこなうべきであるとされている[135][136]。また、カアバへの礼拝れいはいおこなうことで様々さまざま功徳くどくられるとしんじられている[135]

ガザーリー以下いかのようなムハンマドの伝承でんしょうつたえている[137]

アッラーはこのカアバきよし殿どの毎年まいとし60まんにん巡礼じゅんれいすると約束やくそくされ、またそれよりすくないとしには、天使てんしでそのかずたすとされている。カアバきよし殿どのひとあつまるのは、行列ぎょうれつしてある花嫁はなよめひとむらがるようなものだ。巡礼じゅんれいしゃはすべて、カアバきよし殿どのとびらけてあるまくにすがり、それでもって天国てんごくくことを祈念きねんしている。 — ガザーリー[137]
アッラーは毎夜まいよ大地だいちひとられる。最初さいしょるのは、マッカのひとつぎにマッカのうちでひとは、せいマスジドにいるひとたち、そしてそのうち、回礼かいれいしているひとたちはゆるされ、また礼拝れいはいしているひとたちもゆるされ、さらにカアバきよし殿どのかってくしているひとたちもゆるされる。 — ガザーリー[137]

キブラ[編集へんしゅう]

ムスリムの義務ぎむのひとつである1にち5かい礼拝れいはいではかならずカアバにかって礼拝れいはいをしなければならない。このカアバの方向ほうこうキブラばれる[138][注釈ちゅうしゃく 17]。モスクにはかべもうけられたアーチがたくぼみであるミフラーブがある。これはキブラをしめすものであり、モスクになければならない構成こうせい要素ようそとされている[139][注釈ちゅうしゃく 18]。このミフラーブのおおきさやかたちはモスクによってことなるほか、おおきいモスクだと2、3のミフラーブがもうけられている場合ばあいがある[141]

かつてヒジュラをおこなったムハンマドやムスリムがマディーナにいたころ、礼拝れいはいはユダヤ教徒きょうと同様どうようにエルサレムにかっておこなわれていた。しかし624ねんのはじめ、ムハンマドはキブラをカアバにあらためた[142][143]

タワーフ[編集へんしゅう]

タワーフとは、カアバのまわりを7しゅうまわ勤行ごんぎょうであり、マッカ巡礼じゅんれい最初さいしょおこな儀礼ぎれいである[144][注釈ちゅうしゃく 19]。7しゅうまわ理由りゆうについて水谷みずたに (2010a)は、『クルアーン』だい2しょう29せつに「(アッラーは)ななつのてん完成かんせいされた」とあるほか、アッラーは地上ちじょうから7かいそうじょうてんにいるとしんじられているなど、イスラームにおいて7という数字すうじ特別とくべつされているためであるとしている[146]。タワーフはジャーヒリーヤ時代じだいからおこなわれていたが、ジャーヒリーヤ時代じだいには巡礼じゅんれい最後さいごおこなうものとされていた[113]。タワーフについて『クルアーン』には以下いかのようにしるされている[147]

それから、かれらには、かれらのよごれを始末しまつさせ、誓願せいがんたさせ、古来こらいかんしゅうあやさせよ。 — クルアーンだい22しょうだい29せつ[10]

タワーフは黒石くろいし起点きてんとしてはじめられ、7しゅうまわったのちにマカーム・イブラーヒームでタワーフをやめる[148]。タワーフをえたのちは両手りょうてげてかべかキスワにれながらかみたたえる言葉ことばべる。それがわるとマカーム・イブラーヒームのあたりまでがって礼拝れいはいおこな[149]

かつてはタワーフの途中とちゅうにカアバの北西ほくせいにあったイスマーイールとハージャルのはかもうでていたが、1803ねんにマッカを占領せんりょうしたワッハーブ王国おうこくによってこれらのはか破壊はかいされた[84]

保守ほしゅ[編集へんしゅう]

守護しゅごしょく[編集へんしゅう]

カアバの守護しゅごしょくはサダーナとばれ、カアバのかぎあずかっている[注釈ちゅうしゃく 20]。ジャーヒリーヤ時代じだいよりカアバのかぎあずかっていたタルハ一族いちぞく子孫しそんであるシャイバがこの役職やくしょくいている。サダーナはカアバの工事こうじさいには24あいだずのばんにあたるほか、キスワの交換こうかん作業さぎょうもサダーナがおこなう。サダーナは男子だんし直系ちょっけい世襲せしゅうせい引退いんたいはない。オスマン帝国ていこく時代じだいにはダール・アル=ミフターフ(かぎかん)という建物たてものがマスジド・ハラームのサファーもんちかもうけられ、シャイバながくそこにんでいたが、1954ねんのマスジド・ハラームの拡張かくちょう工事こうじさいにこれはこわされ、シャイバはサウジアラビア政府せいふ用意よういした住居じゅうきょうつんだ[152]

清掃せいそう[編集へんしゅう]

カアバの清掃せいそう式典しきてん様子ようす

カアバ外部がいぶ清掃せいそうは、かつては奴隷どれいによっておこなわれていたが、現在げんざいでは管理かんり会社かいしゃによっておこなわれている。外部がいぶ清掃せいそうにおいてはイスマーイールのがこしょやランプの管理かんりなどがおこなわれている[153]

はじめてカアバ内部ないぶ洗浄せんじょうおこなったのは、カアバないにあった偶像ぐうぞうのぞいたムハンマドであるとされている。現在げんざい、カアバ内部ないぶ洗浄せんじょうはラジャブがつ1にち巡礼じゅんれいがつ1にちおこなわれる。洗浄せんじょうはサダーナの名誉めいよしょくいているシャイバ仕切しきることになっているが、実際じっさいにはサウジアラビア政府せいふかぎ管理庁かんりちょう全体ぜんたい作業さぎょう仕切しきっている。洗浄せんじょう乳香にゅうこうなどの香料こうりょうかれ、薔薇ばらすいやアロエすいなどがかれる。洗浄せんじょうはサウジアラビア国王こくおう、またはその代理人だいりにん主催しゅさいおこなわれ、サウジアラビア内外ないがいよりイスラーム関係かんけい諸国しょこく政府せいふ関係かんけいしゃ招待しょうたいされる[154]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ クルアーンのなかで「マスジド」という言葉ことばは28かい登場とうじょうしているが、そのうち半分はんぶん以上いじょうがカアバをしている。カアバ以外いがいにはエルサレムのアル=アクサーをすものとして1かい普通ふつう名詞めいしとして12かい登場とうじょうしている[8]
  2. ^ 水谷みずたに (2021)は、神殿しんでんという呼称こしょうはアッラーが天上てんじょうからりてくるかのような誤解ごかいまねくとしている[14]
  3. ^ 水谷みずたに (2021)はイスラームにおいて「きよし」の概念がいねんがないとしつつ、カアバにはアッラーに直結ちょっけつする背景はいけいがあるとして「きよし殿どの」という呼称こしょう無理むりはないとしている[15]
  4. ^ 「マコラバ」はみなみアラビアで「神殿しんでん」を意味いみする「ミクラーブ」という言葉ことば転訛てんかであるとかんがえられている[33]
  5. ^ 漂着ひょうちゃくしたふね廃材はいざいもちいられた理由りゆうについて、家島いえじま (2021)は、ながれものとしてのふねそのものが神聖しんせいなものとなされていたためであるとしている[40]
  6. ^ ズィラーウ(うでじゃく)はかつてもちいられたながさの単位たんい。「てつのズィラーウ」や「うでのズィラーウ」など様々さまざま種類しゅるいがあるが、2ズィラーウでおよそ1メートルである[42]
  7. ^ アッ=ラート、マナート、アル=ウッザーはそれぞれ立方りっぽうがたいしくろいしさんほんだったという[47]
  8. ^ ただし、みなみアラビアのハスアムぞくやハーリス・ブン・カアブぞくなどはみずからのきよし殿どのゆうしており、マッカのカアバを神聖しんせいしていなかった[55]
  9. ^ マカーム・イブラーヒームのみは事前じぜん避難ひなんさせて無事ぶじだったという[74]
  10. ^ ハージャルはイブラーヒームのつまであり、イスマーイールのははである[84]
  11. ^ なお、水谷みずたに (2010b)は、レバノンかくとイエメンかくはさまれたあたりながさは12.40メートルであるとしている[93]
  12. ^ ハティームという言葉ことばは「破壊はかいする」を意味いみする「ハタマ」というアラビア由来ゆらいするが、こうばれる理由りゆうについては諸説しょせつがある[104]
  13. ^ このまくのはじめはかっていないが、1182ねんのイブン・ジュバイルの旅行りょこう登場とうじょうしている。ながあいだ赤色あかいろだったが、1979ねんにサウジアラビア国王こくおうのハーリドが新調しんちょうしたさい緑色みどりいろになった[118]
  14. ^ ただし、9世紀せいきから15世紀せいきあいだにアラビアやペルシアしるされた地理ちりしょでは現在げんざいのイラクやその周辺しゅうへん世界せかい中心ちゅうしんであるとされている[122]
  15. ^ マッカは実際じっさい盆地ぼんち位置いちしている[125]
  16. ^ アーダムの息子むすこであるシャイスも建造けんぞうしゃかぞえられることもある[127]。また、参拝さんぱいかんとは、天使てんしたちがアッラーを称賛しょうさんするため天上てんじょう建造けんぞうされたとされる礼拝れいはいしょであり、カアバはこの参拝さんぱいかん真下ましたにあるとされている[128]
  17. ^ たとえばインドネシアでは西にしかって礼拝れいはいをするが、モロッコではひがしかって礼拝れいはいをする[138]
  18. ^ ただし、羽田はた (2016)によると、モロッコフェスおこなった調査ちょうさではミフラーブがしめ方向ほうこうはモスクによってバラバラであり、キブラは厳密げんみつさだめられているわけではないとしている[140]
  19. ^ なお、ハナフィー学派がくはでは7しゅうでなく4しゅう巡礼じゅんれいはしら達成たっせいされ、の3しゅうぶん事後じご補填ほてんみとめられるとされている[145]
  20. ^ カアバのとびらかぎながさおよそ50cm、金製きんせいおもさは0.5kgであり、おなじものの複製ふくせい存在そんざいしない[150]歴史れきしてき様々さまざまなデザインのものが使用しようされており、そうした過去かこかぎはマッカ・聖地せいち博物館はくぶつかんおさめられている[151]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

日本語にほんご文献ぶんけん[編集へんしゅう]

英語えいご文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • Al Dosary, Mahmoud Ibn Ahmed (2014). The Honourable Kaʿba. Dār Ibn al-Jawzī lil-Nashr wa-al-Tawzīʻ. ISBN 979-6-500-13007-1 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]