ヒジュラ暦 れき 1431年 ねん の巡礼 じゅんれい 月 がつ 12日 にち (西暦 せいれき 2010年 ねん 11月19日 にち )の日没 にちぼつ に撮影 さつえい されたマスジド・ハラームの様子 ようす 。巡礼 じゅんれい 月 がつ 12日 にち はハッジの最終 さいしゅう 日 び 。
マスジド・ハラームの宗教 しゅうきょう 施設 しせつ 複 ふく 合 あい (religious complex )全体 ぜんたい をモスクの南 みなみ に立 た つアブラージュル・ベイト の高層 こうそう 階 かい から見下 みお ろす。2012年 ねん 撮影 さつえい 。
マスジド・ハラーム (アラビア語 ご : المسجد الحرام , ラテン文字 もじ 転写 てんしゃ : al-Masjid al-Ḥarām )は、メッカ にあるカアバ聖 きよし 殿 どの を取 と り囲 かこ み、包含 ほうがん する形 かたち で成立 せいりつ しているモスク である[1] 。聖 せい モスク[2] あるいはハラーム・モスク [3] ともいう。英語 えいご では「メッカの大 だい モスク」(英 えい : the Grand Mosque of Makkah )とも呼 よ ばれる[4] 。
マスジド・ハラームは、イスラーム教徒 きょうと がなすべき五 ご 行 ぎょう のうち、礼拝 れいはい (サラー)と巡礼 じゅんれい (ハッジ)の二 に 行 ぎょう において特別 とくべつ な存在 そんざい である。日々 ひび の礼拝 れいはい はカアバの方向 ほうこう (キブラ )を向 む いて行 おこな われているが、マスジド・ハラームはカアバを取 と り囲 かこ んで成立 せいりつ しているためキブラがなく、キブラを示 しめ すモスクのくぼみ(ミフラーブ )もない。また、一生 いっしょう のうち少 すく なくとも一 いち 度 ど は敢行 かんこう するべきとされる巡礼 じゅんれい の際 さい 、信徒 しんと はマスジド・ハラームの中庭 なかにわ にあるカアバを周回 しゅうかい しながら礼拝 れいはい する。
マスジド・ハラームの中 なか には、カアバ聖 きよし 殿 どの の他 ほか にも、「黒石 くろいし 」「ザムザム 」「アブラハムの御 ご 立 た ち処 しょ 」「サファーとマルワ 」といった信仰 しんこう 上 じょう 重要 じゅうよう なものが含 ふく まれている[5] 。マスジド・ハラームのそばには近年 きんねん 、アブラージュル・ベイト という巨大 きょだい な(世界 せかい で四 よん 番目 ばんめ の高 たか さ)ビルが建 た ったが[6] 、建設 けんせつ の際 さい は初期 しょき イスラーム時代 じだい の遺跡 いせき (英語 えいご 版 ばん ) が破壊 はかい されたため、サウジアラビア政府 せいふ の行為 こうい には批判 ひはん もある[7] 。
聖 ひじり 所 しょ としてのマスジド・ハラーム[ 編集 へんしゅう ]
現代 げんだい にまで伝 つて 世 せい している前 ぜん イスラーム時代 じだい のイエメンの詩人 しじん の詩 し に、「マスジド・ハラームの主 おも 、アッラーの名 な において」という一節 いっせつ がある[8] 。この詩 し の中 なか の「マスジド・ハラーム」は、イスラーム時代 じだい 以後 いご のメッカの「マスジド・ハラーム」と同一 どういつ であり、前 ぜん イスラーム時代 じだい においてもマスジド・ハラームは聖 ひじり 所 しょ であったと考 かんが えられている[8] 。当時 とうじ 、中部 ちゅうぶ アラビア、ヒジャーズ 、ナジュド 地方 ちほう には、マスジド・ハラームのような聖 ひじり 所 しょ (ḥimā ) が点在 てんざい しており、アラブの各 かく 部族 ぶぞく はそれぞれの崇拝 すうはい する神 かみ 々の祭儀 さいぎ をそこで行 おこな っていた[9] :26-27 。聖 ひじり 所 しょ の御 ご 神体 しんたい は聖石 ひじりいし 、聖 せい 木 き 、聖 ひじり 泉 いずみ が主 おも なものであった[9] :26-27 。メッカの聖 ひじり 所 しょ の聖石 ひじりいし は壁 かべ に塗 ぬ り込 ご められた黒 くろ い石 いし (al-ḥajar al-aswad ) であり[9] :26-27 、そのそばにあるザムザム(Zamzam )という名 な の井戸 いど も祭司 さいし がいて何 なん らかの祭儀 さいぎ が行 おこな われていた聖 せい 泉 いずみ だったようである[10] 。アラビア語 ご で「立方体 りっぽうたい 」を意味 いみ するカアバ(al-Kaʿba ) も元来 がんらい は黒石 くろいし の覆 おお いにすぎなかった[9] :119 。
預言 よげん 者 しゃ ムハンマドの出身 しゅっしん 部族 ぶぞく であるクライシュ族 ぞく は、南 みなみ アラブの部族 ぶぞく による襲撃 しゅうげき からカアバを守護 しゅご した人物 じんぶつ を始祖 しそ とする[11] 。この人物 じんぶつ の時代 じだい のマスジド・ハラームの周辺 しゅうへん はおそらく無人 ぶにん であったが、そこから6代 だい ほど下 くだ ってマスジド・ハラームの管理 かんり 者 しゃ がフザーア部族 ぶぞく (英語 えいご 版 ばん ) からクライシュ族 ぞく に交代 こうたい すると、クライシュ族 ぞく の部族 ぶぞく 民 みん が聖 ひじり 所 しょ の周 まわ りに住 す み着 つ き始 はじ めた[11] 。クライシュ族 ぞく が管理 かんり 権 けん を手 て に入 い れ、巡礼 じゅんれい ネットワークを支配 しはい した聖 きよし 所 しょ は、ほかにもミナー やナフラ谷 だに (ウッザー女神 めがみ のための聖 ひじり 所 しょ があった)などがあったが、マスジド・ハラームが最 もっと も重要 じゅうよう であった。
聖典 せいてん 『クルアーン』においては第 だい 2メッカ期 き [注釈 ちゅうしゃく 1] 以後 いご の啓示 けいじ に比較的 ひかくてき 頻繁 ひんぱん にマスジド・ハラームへの言及 げんきゅう があることが指摘 してき されている[8] 。第 だい 2章 しょう 217節 せつ ではマスジド・ハラームに多神教 たしんきょう 徒 と が立 た ち入 い るべきではないこと[注釈 ちゅうしゃく 2] 、第 だい 2章 しょう 149節 せつ では礼拝 れいはい がマスジド・ハラームを向 む いて行 おこな われるべきであること[注釈 ちゅうしゃく 3] が示 しめ されている[8] 。預言 よげん 者 しゃ ムハンマドによるマスジド・ハラームへの言及 げんきゅう も伝承 でんしょう 集 しゅう に多 おお く収録 しゅうろく されている[8] 。例 たと えば、ブハーリー に収録 しゅうろく されている有名 ゆうめい なハディースでは、マスジド・ハラームが地上 ちじょう 最古 さいこ のマスジドであり、マスジド・アクサー が2番目 ばんめ 、その間 あいだ に40年 ねん の開 ひら きがあると預言 よげん 者 しゃ ムハンマドが述 の べたと伝 つた えられている[8] [12] 。
マスジド・ハラームは、ハッジ(大 だい 巡礼 じゅんれい )とウムラ(小 しょう 巡礼 じゅんれい )において重要 じゅうよう な役割 やくわり を果 は たす[13] 。ハッジはヒジュラ暦 れき における巡礼 じゅんれい 月 がつ に行 おこな うメッカ巡礼 じゅんれい で、健康 けんこう なムスリム・ムスリマならば、一生 いっしょう に一 いち 度 ど は実行 じっこう するべきものとして信仰 しんこう の五 ご 柱 はしら の一 ひと つに挙 あ げられている(スンナ派 は の場合 ばあい )。2015年 ねん のサウジ政府 せいふ の統計 とうけい では最近 さいきん は毎年 まいとし 500万 まん 人 にん 以上 いじょう がハッジに参加 さんか している[14] 。
ハッジにおける儀式 ぎしき は7世紀 せいき の預言 よげん 者 しゃ ムハンマドがその一生 いっしょう のうちになした信仰 しんこう 実践 じっせん 、特 とく に「別離 べつり の巡礼 じゅんれい 」に由来 ゆらい するが、ムスリムには7世紀 せいき から数 すう 千 せん 年 ねん 遡 さかのぼ った預言 よげん 者 しゃ イブラーヒーム(アブラハム)の事跡 じせき に由来 ゆらい すると考 かんが えられている。例 たと えば、7世紀 せいき アラブの伝承 でんしょう ではイブラーヒームの妻 つま ハジャル(ハガル )がイスマーイール(イシュマエル)のために水 みず を探 さが してサファーとマルワの間 あいだ をぐるぐる回 まわ ったとされており、ムハンマドも別離 べつり の巡礼 じゅんれい でこの故事 こじ に由来 ゆらい する行動 こうどう をした、と伝 つた えられている。現代 げんだい のムスリムもムハンマドを模倣 もほう してサファーとマルワの間 あいだ に設 もう けられた通路 つうろ を巡回 じゅんかい する。
象徴 しょうちょう 的 てき 構造 こうぞう 物 ぶつ [ 編集 へんしゅう ]
アラビア語 ご で「カアバ」とは「立方体 りっぽうたい 」を意味 いみ する一般 いっぱん 名詞 めいし である。マスジド・ハラームの中心 ちゅうしん には、定冠詞 ていかんし が付 つ いた「立方体 りっぽうたい 」(al-Ka'bah , اَلْـكَـعْـبَـة , アル=カアバ)と呼 よ ばれる聖 きよし 殿 どの がある(以下 いか 「カアバ」と呼 よ ぶ)。『イスラーム百科 ひゃっか 事典 じてん 』によると、カアバはイスラーム教 きょう におけるもっとも神聖 しんせい なものの一 ひと つである[15] 。全 ぜん 世界 せかい のムスリムは、信仰 しんこう の五 ご 柱 はしら の一 ひと つ、礼拝 れいはい (サラート)を実践 じっせん する際 さい 、カアバの方向 ほうこう を向 む いて行 おこな うべき、とされている。このカアバの方向 ほうこう をキブラと言 い う。
ハッジやウムラの際 さい 、巡礼 じゅんれい 者 しゃ はカアバの周 まわ りを反 はん 時計 とけい 回 まわ りに7回 かい 、まわることとされており、この儀式 ぎしき を「タワーフ 」(Ṭawāf , طَـوَاف )という[15] [16]
アラビア語 ご で「黒 くろ い石 いし 」を意味 いみ するハジャルル・アスワド(アラビア語 ご : اَلْـحَـجَـر الْأَسْـوَد , al-Ḥajar al-Aswad )と呼 よ ばれる神聖 しんせい な石 いし がカアバ聖 きよし 殿 どの の東 ひがし 角 かく に据 す えられている[17] 。預言 よげん 者 しゃ ムハンマドの召命(英語 えいご 版 ばん ) があった年 とし の5年 ねん 前 まえ (西暦 せいれき 605年 ねん )、ムハンマドが黒石 くろいし をカアバの壁 かべ に埋 う め込 こ んだとされている。このときは無傷 むきず の状態 じょうたい であったが、後 のち に割 わ れて(割 わ れた理由 りゆう は諸説 しょせつ ある)、銀 ぎん 枠 わく の中 なか に納 おさ められた状態 じょうたい になって現代 げんだい に至 いた る。
ハディースに伝 つた えられる預言 よげん 者 しゃ の所作 しょさ を模倣 もほう して、多数 たすう の巡礼 じゅんれい 者 しゃ が黒石 くろいし に接吻 せっぷん しようと試 こころ みるが巡礼 じゅんれい 者 しゃ の数 かず が多 おお すぎるため不可能 ふかのう である[18] 。接吻 せっぷん の代 か わりにタワーフの際 さい に黒石 くろいし を指差 ゆびさ すことでよいとされている[19] 。
イブラーヒームの御 ご 立 た ち処 しょ [ 編集 へんしゅう ]
イブラーヒームの御 ご 立 た ち処 しょ を納 おさ めるガラスケース
アラビア語 ご で「イブラーヒーム(アブラハム)の御 ご 立 た ち処 しょ 」を意味 いみ するマカーム・イブラーヒーム(アラビア語 ご : مَـقَـام إِبْـرَاهِـيْـم , Maqâm Ibrâhîm )、カアバ聖 きよし 殿 どの のすぐ隣 となり にある石 いし である。預言 よげん 者 しゃ イブラーヒームの足跡 あしあと が刻印 こくいん されているとされ、預言 よげん 者 しゃ ムハンマドは礼拝 れいはい の際 さい 、タワーフのたびにこの石 いし の後 うし ろからカアバのほうに向 む かって礼拝 れいはい したとされている[20] 。この石 いし にイブラーヒームの足跡 あしあと が残 のこ った奇跡 きせき に関 かん するい伝 いつた えは複数 ふくすう ある。一説 いっせつ によれば、イブラーヒームがカアバを建 た てているとき、カアバの壁 かべ が高 たか くなったのでこの石 いし の上 うえ に立 た ったところ、彼 かれ が壁 かべ 石 せき を積 つ みやすい高 たか さまで石 いし が伸 の び、イスマーイールが壁 かべ 石 せき を父 ちち に手渡 てわた すときはイスマーイールの手 て が届 とど く高 たか さにまで縮 ちぢ むという奇跡 きせき が起 お きたという[20] 。他 た のい伝 いつた えによれば、イスマーイールの妻 つま がイブラーヒームの頭 あたま を洗 あら ったときに、あるいは、イブラーヒームが人々 ひとびと にメッカへの巡礼 じゅんれい をするように呼 よ びかけるため、この石 いし の上 うえ に立 た ったときに、イブラーヒームの足跡 あしあと が石 いし に残 のこ ったという[20] 。
サファー(アラビア語 ご : ٱلـصَّـفَـا , Aṣ-Ṣafā )とマルワ(ٱلْـمَـرْوَة , Al-Marwah [21] )は、カアバ聖 きよし 殿 どの の近 ちか くにある二 ふた つの丘 おか の名前 なまえ であるが、21世紀 せいき 現在 げんざい はマスジド・ハラームの宗教 しゅうきょう 建築 けんちく 複 ふく 合 あい の内部 ないぶ に取 と り込 こ まれている。サファーの丘 おか はカアバから800メートルほど離 はな れた場所 ばしょ に位置 いち し、マルワの丘 おか は同 おな じくカアバから約 やく 100メートルの位置 いち にある。二 ふた つの丘 おか の間 あいだ の距離 きょり は約 やく 450メートルである。
ムスリムの間 あいだ で信 しん じられている神話 しんわ 的 てき 物語 ものがたり 体系 たいけい においては、イブラーヒームの妻 つま 、ハガルが、この二 ふた つの丘 おか の間 あいだ を、幼 おさな いイスマーイールのために水 みず を探 さが して走 はし っていたところ、神 かみ (アッラー )がハガルのために泉 いずみ を湧 わ き出 で させた、という。この泉 いずみ こそがザムザムの泉 いずみ (井戸 いど )とされている。巡礼 じゅんれい 中 ちゅう のムスリムは、この伝説 でんせつ に倣 なら ってサファーとマルワの間 あいだ を7回 かい 、行 おこな ったり来 き たりする。この行 い きつ戻 もど りつの歩行 ほこう 儀式 ぎしき をサイー(アラビア語 ご : سَـعِى , saʿy )という。
ザムザムの井戸 いど は、カアバの東 ひがし 、約 やく 20メートルのところに位置 いち する[22] 。上記 じょうき 神話 しんわ 体系 たいけい においては、幼 おさな いイスマーイールが渇 かわ きを訴 うった えてずっと泣 な いていたところ、出現 しゅつげん したものとされる。長年 ながねん 、巡礼 じゅんれい に飲 の み水 みず を提供 ていきょう しても絶 た えることがなく、巡礼 じゅんれい はこの泉 いずみ の水 みず を故郷 こきょう への土産 みやげ とするのが通例 つうれい である。
1910年 ねん のメッカ
マスジド・ハラームは、エリトリア にあったマスジド・サハーバ (英語 えいご 版 ばん ) 、マディーナ に今 いま もあるマスジド・クバー と並 なら んで、イスラーム教 きょう の歴史 れきし の中 なか で最 もっと も古 ふる い礼拝 れいはい 所 しょ (英語 えいご 版 ばん ) である[23] [24] 。
アブラハムとイシュマエルの時代 じだい [ 編集 へんしゅう ]
『クルアーン』2:127 には、イブラーヒームとその息子 むすこ 、イスマーイールが家 いえ の基礎 きそ を建 た てたとあり、ほとんどのクルアーン注釈 ちゅうしゃく 者 しゃ がこれをカアバのこととみなしている。アッラーはイブラーヒームに、ザムザムの泉 いずみ のすぐそばの場所 ばしょ をはっきりと示 しめ し、そこにイブラーヒームとイスマーイールはカアバ聖 きよし 殿 どの を建 た てはじめた。紀元前 きげんぜん 2130年 ねん ごろのこととされる。二人 ふたり が聖 きよし 殿 どの を立 た て終 お わると、天使 てんし が黒石 くろいし を持 も ってきた。伝説 でんせつ によると、これは天国 てんごく から落 お ちてきた石 いし であり、アブー・クバイス(Abu Qubays)の丘 おか 付近 ふきん にあったとされる。また、落下 らっか 直後 ちょくご は乳 ちち よりも白 しろ かったが、アーダム の子孫 しそん (つまり、人間 にんげん )の罪 つみ のせいで黒 くろ くなったとされる。イブラーヒームがカアバの東 ひがし 角 かく に黒石 くろいし を据 す えると、彼 かれ はアッラーからの預言 よげん を受 う け取 と った。預言 よげん の内容 ないよう は、年老 としお いたイブラーヒームに今 いま すぐここを出立 しゅったつ し、全 ぜん 人類 じんるい にカアバへの巡礼 じゅんれい を説 と いて回 まわ れという命令 めいれい だった[25] 。
630年 ねん にムスリム共同 きょうどう 体 たい 軍 ぐん がメッカの部族 ぶぞく 連合 れんごう 軍 ぐん を破 やぶ る。メッカ帰還 きかん を果 は たした預言 よげん 者 しゃ ムハンマドは、女婿 じょせい のアリーとともにカアバ聖 きよし 殿 どの の中 なか やその周 まわ りに置 お かれていた数々 かずかず の偶像 ぐうぞう を破壊 はかい した。この行為 こうい は、ムハンマドに下 くだ された啓示 けいじ によれば、預言 よげん 者 しゃ イブラーヒームが故郷 こきょう で行 おこな った行為 こうい をそっくりなぞるものであった[26] [注釈 ちゅうしゃく 4] 。このようにしてカアバが多神教 たしんきょう 徒 と によって濫用 らんよう される時代 じだい が終 お わり、一神教 いっしんきょう 徒 と による支配 しはい が再開 さいかい した、とされる[30] [31] [32] [33] 。
ウマイヤ朝 あさ の時代 じだい [ 編集 へんしゅう ]
692年 ねん にウマイヤ朝 あさ のアブドゥルマリク・ブン・マルワーン がカアバ周辺 しゅうへん の整備 せいび を命 めい じた[34] 。アブドゥルマリクの改修 かいしゅう 以前 いぜん の状態 じょうたい は、カアバを中心 ちゅうしん にした外壁 がいへき が築 きず かれ、その内側 うちがわ の比較的 ひかくてき 小規模 しょうきぼ な屋外 おくがい 空間 くうかん 全体 ぜんたい がモスクであった。また、カアバの天井 てんじょう には装飾 そうしょく が付 つ け加 くわ えられていた。その後 ご 8世紀 せいき 末 まつ までに、ワリード1世 せい の命 いのち による改修 かいしゅう で、古 ふる い木製 もくせい の柱 はしら が大理石 だいりせき になり、礼拝 れいはい 室 しつ が左右 さゆう に広 ひろ がった。また、ミナレットが付設 ふせつ された[35] [36] 。
オスマン朝 ちょう 時代 じだい [ 編集 へんしゅう ]
1857年 ねん 当時 とうじ のマスジド・ハラームの平面 へいめん プラン
1570年 ねん にオスマン朝 ちょう のスルタン・セリム2世 せい が建築 けんちく 家 か スィナン を指名 しめい して、マスジド・ハラームの改修 かいしゅう にあたらせた。このときの改修 かいしゅう により、平 たい らな屋根 やね がアラビア文字 もじ によるカリグラフィーで装飾 そうしょく された複数 ふくすう のドームに換 か わり、新 あたら しく支柱 しちゅう も設置 せっち された。この改修 かいしゅう 後 ご の建築 けんちく の一部 いちぶ は、2018年 ねん 現在 げんざい でも残 のこ っている。
1621年 ねん から1629年 ねん の間 あいだ 、豪雨 ごうう と洪水 こうずい が繰 く り返 かえ し発生 はっせい し、カアバの壁 かべ とマスジド・ハラームが大 おお きく損傷 そんしょう した[37] 。スルタン・ムラト4世 せい 代 だい の1629年 ねん にマスジド・ハラームの修復 しゅうふく が行 おこな われた。このときの修復 しゅうふく で、新 あら たな柱 はしら 列 れつ 廊 ろう が建 た てられ、ミナレットが3基 き 増 ふ えた(合計 ごうけい 7つになった)。床 ゆか の大理石 だいりせき タイルも敷 し きなおされた。マスジド・ハラームはこの状態 じょうたい のまま、300年間 ねんかん 、維持 いじ される。
サウード朝 あさ の時代 じだい [ 編集 へんしゅう ]
西南 せいなん 部 ぶ の門 もん
サウード朝 あさ における最初 さいしょ の大 だい 改修 かいしゅう は、1955年 ねん から1973年 ねん までの間 あいだ に行 おこな われた。このときの改修 かいしゅう でミナレットがさらに4基 き 増設 ぞうせつ され、屋根 やね も葺 ふ きかえられた。床 ゆか も人工 じんこう 石 せき と大理石 だいりせき で新 あたら しくされ、サファーとマルワの間 あいだ のマスアー廊 ろう が屋根 やね つきの通路 つうろ によってマスジド・ハラームに接続 せつぞく し、施設 しせつ の一部 いちぶ になった。このときの改修 かいしゅう でオスマン朝 ちょう 時代 じだい の建築 けんちく の多 おお く(特 とく に支柱 しちゅう )が破壊 はかい された。
1979年 ねん 11月 がつ 20日 はつか 、サウード朝 あさ の打倒 だとう を叫 さけ ぶ過激 かげき 派 は による占拠 せんきょ 事件 じけん がマスジド・ハラームで発生 はっせい した。過激 かげき 派 は は人質 ひとじち を取 と り、鎮圧 ちんあつ の際 さい には数 すう 百 ひゃく 人 にん の死者 ししゃ が出 で た。暴力 ぼうりょく がかたく禁 きん じられているモスクの中 なか で起 お きた事件 じけん に、イスラーム世界 せかい は衝撃 しょうげき を受 う けた(アル=ハラム・モスク占拠 せんきょ 事件 じけん 参照 さんしょう )。
1982年 ねん から1988年 ねん の間 あいだ に、ファハド・ビン・アブドゥルアズィーズ・アール・サウード のもとで行 おこな われた二 に 度目 どめ の改修 かいしゅう 事業 じぎょう においては、礼拝 れいはい 大広間 おおひろま 用 よう の建物 たてもの が一 ひと つ増 ふ え、さらに屋外 おくがい の礼拝 れいはい スペースも拡大 かくだい した[38] 。
1988年 ねん から2005年 ねん までの拡張 かくちょう 工事 こうじ は、サウード朝 あさ における3回 かい 目 め の改修 かいしゅう である。ミナレットがさらに増設 ぞうせつ され、サウード家 か の人物 じんぶつ が住 す む高層 こうそう ビルがマスジド・ハラームを見渡 みわた せる位置 いち に建 た てられ、礼拝 れいはい 者 しゃ 用 よう のエリアもさらに広 ひろ がった。アラファ山 さん 、ミナー、ムズダリファの礼拝 れいはい 者 しゃ 受 う け入 い れ施設 しせつ の拡充 かくじゅう も同時 どうじ に行 おこな われた。3回 かい 目 め の改修 かいしゅう でマスジド・ハラームは、3つのドームを有 ゆう する門 もん を18以上 いじょう 、500本 ほん 近 ちか い大理石 だいりせき の柱 はしら を有 ゆう することになった。そのほか、床 ゆか 暖房 だんぼう 、エアーコンディショニング、エスカレーター、下水道 げすいどう 施設 しせつ を備 そな えるようになった。
アブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズ・アール・サウード は、2007年 ねん からマスジド・ハラームの拡張 かくちょう プロジェクトを開始 かいし した。サウード朝 ちょう 下 か における4回 かい 目 め の改修 かいしゅう にあたり、2020年 ねん まで続 つづ くプロジェクトになる。計画 けいかく では200万 まん 人 にん の巡礼 じゅんれい 者 しゃ に対応 たいおう できるキャパシティを備 そな えるものとされた[4] [39] 。2016年 ねん の試算 しさん では、総 そう 工費 こうひ は1千 せん 億 おく ドル(約 やく 10兆 ちょう 円 えん )に上 のぼ り[40] 、アブラージュ・アル・ベイト・タワーズ を超 こ えて建設 けんせつ 費 ひ 世界 せかい 最高 さいこう 額 がく の建物 たてもの となる。
プロジェクトの遂行 すいこう はビン・ラーディン・グループに任 まか されている[41] 。2015年 ねん 9月 がつ 11日 にち にはモスクの建物 たてもの にクレーンが倒 たお れ、111人 にん が死亡 しぼう 、394人 にん が負傷 ふしょう した[42] [43] [44] [45] [46] [47] [48]
[49] 。
^ 「第 だい 2メッカ期 き 」はムハンマドの召命後 ご 5年 ねん 目 め から7年 ねん 目 め までの時期 じき 。ネルデケ の分類 ぶんるい による。クライシュ族 ぞく の氏族 しぞく 連合 れんごう によるハーシム家 か への経済 けいざい 的 てき ボイコットが激 はげ しくなったころである[9] :37 。詳細 しょうさい は「マッカ啓示 けいじ 」の項 こう 参照 さんしょう 。
^ 「言 い ってやるがいい。「聖月 みづき 中 ちゅう に戦 たたか うことは重 じゅう 大事 だいじ である。だがアッラーの道 みち に近付 ちかづ くのを妨 さまた げ、かれを否定 ひてい し、また聖 せい なるマスジド〔アル・マスジド・ル・ハラーム〕を汚 よご し、そこ(の聖域 せいいき )に住 す む者 もの を追放 ついほう することは、アッラーの御 ご 目 め にはもっと重 おも 大事 だいじ である。迫害 はくがい は、殺害 さつがい より遙 はる かに悪 わる い。」」(日本 にっぽん ムスリム協会 きょうかい 発行 はっこう 『日 にち 亜 あ 対訳 たいやく ・注解 ちゅうかい 聖 せい クルアーン(第 だい 6刷 さつ )』)
^ 「だからあなたは、何処 どこ に行 い っても、顔 かお を聖 せい なるマスジドの方 ほう に向 む けなさい。これは本当 ほんとう に、あなたの主 あるじ からの真理 しんり である。アッラーは、あなたがたの行 おこな うことに無頓着 むとんじゃく な方 ほう ではない。」(日本 にっぽん ムスリム協会 きょうかい 発行 はっこう 『日 にち 亜 あ 対訳 たいやく ・注解 ちゅうかい 聖 せい クルアーン(第 だい 6刷 さつ )』)
^ 預言 よげん 者 しゃ イブラーヒームは、旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ に記載 きさい された道 みち のり[27] [28] から判断 はんだん して、メソポタミアのウルの町 まち から来 き たと信 しん じられている[29] 。
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大 だい 巡礼 じゅんれい (ハッジ)はヒジュラ暦 れき における巡礼 じゅんれい 月 がつ (ズル・ヒッジャ )8日 にち から12日 にち までの間 あいだ に執 と り行 おこな われる。 準備 じゅんび 巡礼 じゅんれい 人物 じんぶつ ・称号 しょうごう 関連 かんれん 項目 こうもく
全般 ぜんぱん 国立 こくりつ 図書館 としょかん 地理 ちり その他 た
座標 ざひょう : 北緯 ほくい 21度 ど 25分 ふん 19秒 びょう 東経 とうけい 39度 ど 49分 ふん 34秒 びょう / 北緯 ほくい 21.422度 ど 東経 とうけい 39.826度 ど / 21.422; 39.826