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スペイン黄金時代美術 - Wikipedia コンテンツにスキップ

スペイン黄金おうごん時代じだい美術びじゅつ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ディエゴ・ベラスケス:『ラス・メニーナス』または『フェリペ よんせい家族かぞく』、1656ねん画布がふ油彩ゆさい、310 cm × 276 cm 、プラド美術館びじゅつかん

スペイン黄金おうごん時代じだい美術びじゅつ(スペインおうごんじだいびじゅつ)ではレコンキスタ完了かんりょうから1700ねんハプスブルク支配しはい終了しゅうりょういた時期じき美術びじゅつながれをあつかう。「スペイン黄金おうごん世紀せいき絵画かいが」とも。17世紀せいきバロック絵画かいがなかで「しずまぬ帝国ていこく」を達成たっせいしたスペイン美術びじゅつはその独自どくじせいゆたかさから特筆とくひつされる。

前史ぜんし 1516ねんまで[編集へんしゅう]

イスラム勢力せいりょくイベリア半島はんとうからレコンキスタが1492ねん完了かんりょうし、ふたりでスペイン王座おうざいたイサベル1せいフェルナンド2せい本格ほんかくてき絵画かいがパトロネージュ開始かいしする。しかし当時とうじのスペインは美術びじゅつ中心ちゅうしんであったイタリアしょ都市とし美術びじゅつちかづける環境かんきょうではなく、自国じこく審美しんびえたものではなかった。相次あいつ戦争せんそうによって文化ぶんかはあまりおもきをかれなかったことや、イスラーム支配しはいによる絵画かいが芸術げいじゅつ伝統でんとう断絶だんぜつなど様々さまざま要因よういんがあげられるが、外国がいこくから芸術げいじゅつをスペインに招聘しょうへいするというかたちでその後進こうしんせいうずめようとした。かれらは当時とうじかれていたトレド貿易ぼうえき一大いちだい拠点きょてんセビリアつどい、のちつながる美術びじゅつ土壌どじょうつくっていった。

1492ねんバルト海ばるとかい沿岸えんがんレバル現在げんざいのエストニア、タリン)出身しゅっしんで、フランドル地方ちほうブリュージュフランドル絵画かいがまなんでいたミケル・シトーはスペイン宮廷きゅうていつかえることとなった。そこでフェルナンドおう肖像しょうぞうなどを北方ほっぽうてきなタッチでえがきだし名声めいせいはくした。ほかにも多数たすう宗教しゅうきょうなどをえがき、その王族おうぞくあいされ後進こうしんたしかな影響えいきょうをもたらすものの、20世紀せいきになるまでわすられ現在げんざいはほとんど作品さくひんのこっていない。にはこちらもフランドル画家がかフアン・デ・フランデス陰影いんえいのしっかりした北方ほっぽうてき宗教しゅうきょう肖像しょうぞうえがいている。このように北方ほっぽうルネサンスのフランドル絵画かいが密接みっせつ関係かんけいにある。ただスペイン出身しゅっしん画家がかあらわはじめ、パレンシア出身しゅっしんペドロ・ベルゲーテはフランドルえがかた習得しゅうとくしたのちイタリアへたびして、ウルビーノ宮廷きゅうていともかかわった可能かのうせいたか人物じんぶつで、1483ねんにスペインへかえってくる。かれのイタリアふう表現ひょうげん宮廷きゅうていのみならず教会きょうかいしがり、ひろ影響えいきょうあたえた。おそらくスペインじん画家がか最初さいしょにイタリアの表現ひょうげん技法ぎほうをスペインに本格ほんかくてきかたち導入どうにゅうした人物じんぶつであるから、美術びじゅつてき重要じゅうよう人物じんぶつである。イタリアからの影響えいきょうというてんではフアン・デ・ボルゴーニャフレスコ技法ぎほうをイタリアから導入どうにゅうしたことも特筆とくひつされる。アビラトレドのだい聖堂せいどうにトスカーナてきかれのフレスコ多数たすうのこっている。

宮廷きゅうてい以外いがい地域ちいきでも絵画かいが革新かくしんおこった。貿易ぼうえき金融きんゆう当時とうじスペインいちゆたかさをほこったバレンシアではイタリアの画家がかパオロ・ダ・サン・レオカディオ写実しゃじつせいんだ作品さくひんし、バレンシア出身しゅっしん画家がかフェルナンド・イェーネス・デ・ラ・アルメディナは、どう時期じき活躍かつやくしていたレオナルド・ダ・ヴィンチ様式ようしき見事みごと吸収きゅうしゅうしている。おなじくバレンシアのエルナンド・リャノスもイタリア絵画かいがながれをんだ作品さくひんおおえがいている。おなじく港湾こうわん都市としのバルセロナでもミラノからナポリまでをわたあるいて修業しゅぎょうしたペドロ・フェルナンデスあらわれ、おも祭壇さいだん活躍かつやくした。セビリアではアレホ・フェルナンデスが1540年代ねんだいまでセビリアの画壇がだん君臨くんりんしていた。

これらのようにフランドルイタリアルネサンス絵画かいがからどんよくまなび、以降いこう強固きょうこ素地そじつくげた。しかしまなびはしたがスペインにじゅんルネサンスてきたとえばギリシアローマ神話しんわなどを画題がだいにしたものなど)は流行はやらず、熱心ねっしんカトリシズムのため宗教しゅうきょうおもであった。また、スペインじん画家がか活躍かつやくはじめたものの、やはり外来がいらい画家がかほう先進せんしんてきだとされ重宝ちょうほうされる時代じだいは17世紀せいきまで顕著けんちょである。

しずまぬ帝国ていこく 1598ねんまで[編集へんしゅう]

ハプスブルク出身しゅっしんフェリペ1せい短期間たんきかん統治とうちのち、1516ねん即位そくい空前くうぜんだい帝国ていこく統治とうちしたカルロス1せい神聖しんせいローマ皇帝こうていとしてはカール5せい)と、それをぎ1598ねんまで即位そくいしたフェリペ2せい時代じだいあつかう。新大陸しんたいりく資源しげんによる莫大ばくだい収益しゅうえきと、組織そしきされた官僚かんりょうせい常備じょうびぐんそなえた中央ちゅうおう集権しゅうけん国家こっか完成かんせいされ絶頂ぜっちょうむかえたが、相次あいつ海外かいがい遠征えんせい宗教しゅうきょう戦争せんそう関与かんよした時代じだいである。

16世紀せいき前半ぜんはんはスペインにマニエリスム様式ようしき導入どうにゅうされた時期じきである。おも画家がかとしてペドロの息子むすこアロンソ・ベルゲーテペドロ・マチューカげられる。ベルゲーテは父親ちちおや没後ぼつごイタリアにわたり、各地かくち修業しゅうぎょうをしたのみならずミケランジェロから彫刻ちょうこくまなんだ。1518ねんもど当時とうじのイタリアできていたマニエリスム様式ようしきをスペインに導入どうにゅうした。どう時代じだいもっとすぐれた画家がかとして評価ひょうかされ、スペインで自立じりつてき活動かつどうができた最初さいしょ画家がかといわれる。経済けいざいてきにも裕福ゆうふくだったとつたわり、最高さいこう名誉めいよである宮廷きゅうてい画家がかにもなった。しかしカルロス1せいとも面会めんかいグラナダ宮殿きゅうでん教会きょうかい装飾そうしょく担当たんとうする予定よていであったが実現じつげんせず、愛想あいそをつかしたかれは1526ねん以降いこうよりも宗教しゅうきょうてき法悦ほうえつあらわした彫刻ちょうこくでの表現ひょうげんじくうつしていく。実際じっさいカルロス1せいはスペインおうであったものの相次あいつ遠征えんせいでスペインの宮廷きゅうていにはほとんどいなかったため、宮廷きゅうてい画家がかとの綿密めんみつわせは困難こんなんだったとかんがえられる。

ペドロ・マチューカもベルゲーテ同様どうようながローマまなび、ほぼどう時期じきにスペインにもどってきた。ヴァチカンラファエロ工房こうぼう一員いちいんとしてはたらいていたとされ、かれ作品さくひんにもラファエロふう聖母子せいぼしぞうがある。ただしスペインにもどると同僚どうりょうのベルゲーテの影響えいきょうかマニエリスムてき表現ひょうげんへと移行いこうする。またかれ建築けんちくとしても活躍かつやくし、アルハンブラ宮殿きゅうでんにイタリアルネサンス様式ようしき宮殿きゅうでん設計せっけいするなど、多方面たほうめん才能さいのう発揮はっきした。

この時代じだいはその強大きょうだい経済けいざいりょく権力けんりょくから、ハプスブルク勢力せいりょく地域ちいきから名画めいが多数たすう収集しゅうしゅうし、王室おうしつのコレクションが形成けいせいされていった。裕福ゆうふく貴族きぞくたちもフランドル当時とうじフランドル地域ちいきもスペインりょう)やヴェネツィア購入こうにゅうするようになる。また、カルロス1せいは1548ねんドイツのアウクスブルク滞在たいざいちゅうティツィアーノに『騎乗きじょうぞう』をえがかせている。ティツィアーノをったカルロス1せいかれ年金ねんきんあた特別とくべつにもてなし、フェリペ2せいかれをマドリードにまわせている。それゆえにティツィアーノの絵画かいが宮廷きゅうてい画家がかおどろかし、貴人きじん審美しんびたかめた。かれ後期こうき作品さくひん色彩しきさい表現ひょうげんやタッチは後世こうせいのスペイン画家がかたちにはかれない影響えいきょうあたえたのだった。

16世紀せいき後半こうはんフェリペ2せい時代じだいになると、版画はんが技術ぎじゅつ向上こうじょう交易こうえき進展しんてんでイタリアの版画はんが影響えいきょうがよくられるようになる。マルカントニオ・ライモンディのラファエロの作品さくひんうつした版画はんががスペインにひろ流通りゅうつうした。これまではフランドルなど北方ほっぽうてき要素ようそつよかったスペイン絵画かいがもイタリア志向しこうつよまり決定的けっていてきになった時代じだいである。それを「Secondhand Renaissance」と形容けいようする学者がくしゃもいる。図像ずぞう技法ぎほうイタリア絵画かいが準拠じゅんきょする傾向けいこうつよまり、独創どくそうてき表現ひょうげんあらわれなかった。この時代じだい周辺しゅうへん代表だいひょうてき画家がかフアン・コレーアフアン・ソレダヴィンセント・マシップフアン・デ・フアネスら、フランドル出身しゅっしんペドロ・カンパーニャがいる。

1561ねんマドリードに首都しゅとが遷り、フェリペ2せい自身じしん郊外こうがいエル・エスコリアルんだためあらたな宮殿きゅうでん教会きょうかい多数たすうてられた。そのため画家がか需要じゅよう激増げきぞうした。この活気かっきちた時代じだい特筆とくひつするべき人物じんぶつとしてはルイス・デ・モラレスがいる。「せいなるモラレス」と形容けいようされるかれは1545ねんトレントこう会議かいぎといった対抗たいこう宗教しゅうきょう改革かいかく意識いしきち、ふかくカトリックに帰依きえしあるしゅ神秘しんぴ体験たいけん経験けいけんしている。そのためかれ宗教しゅうきょうしかない。ただ聖母子せいぼしやさしい表現ひょうげんや、生々なまなましいピエタ表現ひょうげんなどその絵画かいが技術ぎじゅつ卓越たくえつしており注目ちゅうもくされる。ポルトガルけい家柄いえがらまれたアロンソ・サンチェス・コエーリョはティツィアーノの作風さくふうまなび、肖像しょうぞう画家がかとして絶大ぜつだい名声めいせい保持ほじした。かれはまた宮廷きゅうてい画家がかとしてエスコリアル内部ないぶ装飾そうしょく担当たんとうし、おおくの宗教しゅうきょうえがいている。エスコリアルみや装飾そうしょくはこの時代じだい最大さいだい仕事しごとであり、コエーリョ以外いがいにもみみ発声はっせいさわがいをわずらったフアン・フェルナンデス・デ・ナヴァレッテ活躍かつやくし、帝国ていこく威容いよう誇示こじした。ただエスコリアルみや外国がいこくの、おもにイタリアけい画家がか多数たすうくわわっており代表だいひょうてき人物じんぶつとしてはフェデリコ・ズッカリとその後継こうけいしゃペッレグリーノ・ティバルディがいる。カトリックの盟主めいしゅであったフェリペ2せい拠点きょてんということだけあって、この時代じだいのカトリックけん芸術げいじゅついきあつめた壮麗そうれい空間くうかん誕生たんじょうしたのである。

エル・グレコ[編集へんしゅう]

エル・グレコは、フェリペ2せい時代じだいもっと重要じゅうよう芸術げいじゅつであり、後期こうきマニエリスムの代表だいひょうてき存在そんざいである。本名ほんみょうはドメニコス・テオトコプーロスであり、エル・グレコはイタリアで「ギリシャの」という意味いみのグレコに、スペイン定冠詞ていかんしがついたものである。1541ねんヴェネツィア共和きょうわこく支配しはいにあるクレタとうまれ、現地げんち色濃いろこのこビザンティン美術びじゅつ伝統でんとういだ。ヴェネツィアにわた以後いごイタリア各地かくちわたあるきながらイタリアルネサンス絵画かいが技法ぎほう習得しゅうとくし、とくにティツィアーノやティントレット代表だいひょうされるヴェネツィア絵画かいが傾倒けいとうみずからの画風がふう確立かくりつする。かれ正確せいかく理由りゆう不明ふめいだが(一説いっせつによるとかみのようにあがめられていたミケランジェロを酷評こくひょうしたためとも)ローマをり、1577ねんにはトレドにいた。イタリアのように画家がか地位ちいたかくないスペインでの生活せいかつかれにとってきびしく、またエル・エスコリアル宮殿きゅうでん祭壇さいだんせいマウリティウスの殉教じゅんきょう』もフェリペ2せいらずかざられなかった。えず注文ちゅうもんぬしとの金銭きんせんてきなトラブルにあったが拠点きょてんいたトレド中心ちゅうしん活躍かつやくし1614ねんくなった。そのためトレドの教会きょうかいおおくの傑作けっさくのこっている。代表だいひょうさくは『オルガスはく埋葬まいそう』 (サント・トメ教会きょうかい、トレド) である。

エル・グレコのビザンティン美術びじゅつながれを奇抜きばつ構成こうせいは、理解りかいしゃめぐまれなかったとはいえ一定いってい評価ひょうかがされていた。しかしかれ晩年ばんねんにはバロック絵画かいが隆盛りゅうせいによってマニエリスムの美術びじゅつふるいとされ、すこしずつわすられていった。さい評価ひょうかは20世紀せいきたなければならないが、その個性こせいスペイン美術びじゅつスペインばんにおいて名実めいじつともに最大さいだい巨匠きょしょうのひとりである。

帝国ていこく斜陽しゃよう スペイン・バロックの萌芽ほうが 1621ねんまで[編集へんしゅう]

1598ねん即位そくいしたフェリペ3せい祖父そふちちのような器量きりょう才知さいちてず、無駄むだ遷都せんと労働ろうどうりょく農民のうみんとして帝国ていこく貢献こうけんしていたモリスコ(キリストきょう改宗かいしゅうしたもとイスラム教徒きょうと追放ついほうなどをおこない、国力こくりょく疲弊ひへいさせた。政治せいじレルマ公爵こうしゃく怠惰たいだおうささえたが、この関係かんけい寵臣ちょうしん政治せいじ形成けいせいをもたらしてしまう。しかし公爵こうしゃくはこの時代じだい画家がかのパトロンとして活躍かつやくし、イタリアの版画はんが収集しゅうしゅうしたり1603ねん訪問ほうもんしてきたルーベンス肖像しょうぞうえがかせたりしており、この時代じだい美術びじゅつ中心ちゅうしんてき存在そんざいとなる。

公爵こうしゃくんだ画家がかとしてエスコリアルみやはたらいていた、フェデリコ・ツッカリ弟子でしであったイタリアじん画家がかバルトロメ・カルドゥッチョげられる。からいだ保守ほしゅてきおおえがいたが実務じつむとしてもすぐれ、多数たすうのイタリアじん画家がかがスペインにやってきたのである。しかし保守ほしゅてき画家がかばかりで当時とうじローマで席巻せっけんしていたカラヴァッジョカラッチなどのバロックてき表現ひょうげんはまだれられなかった。バルトロメのおとうとビセント公爵こうしゃくした精力せいりょくてき活動かつどうをする。保守ほしゅてき作品さくひんえがいたものの、かなりの読書どくしょ蔵書ぞうしょ大量たいりょうのこした教養きょうようじんでもあり、画家がかという仕事しごと地位ちいをスペインにおいてたかめるというおおきな役割やくわりたした。同僚どうりょう画家がかエウジェニオ・カヘスともに、みのりはしなかったもののマドリードに絵画かいがアカデミーを創設そうせつしようとした運動うんどうこした人物じんぶつでもある。には驚異きょういてき精巧せいこうさを静物せいぶつえがいたフアン・バン・デル・アメン活躍かつやくした。

公爵こうしゃく息子むすこウセダ公爵こうしゃく陰謀いんぼう父親ちちおや追放ついほうし、美術びじゅつにも関心かんしんがなかったのでマドリードの宮廷きゅうてい美術びじゅつ停滞ていたいむかえる。

フアン・サンチェス・コターン:『マルメロ、キャベツ、メロン、胡瓜きゅうりのある静物せいぶつ』、1602ねんごろ画布がふ油彩ゆさい、68,9 × 84,5 cm 、サンディエゴ美術館びじゅつかん

旧都きゅうとトレドでは独立どくりつてき絵画かいが伝統でんとうたもっていた。1627ねんまでふでったフアン・サンチェス・コターン宗教しゅうきょう多数たすうのこしているがかれ本領ほんりょう静謐せいひつ静物せいぶつであった。厨房ちゅうぼうえがく(ボデゴン)という伝統でんとうつくし、そのたか写実しゃじつせい非常ひじょうたか評価ひょうかされている。スペインの自然しぜん主義しゅぎ絵画かいが先駆せんくであり、マニエリスムからバロックへうつ起点きてんとなった。フアン・バウティスタ・マイノはトレドにカラヴァッジョふう絵画かいが導入どうにゅうした人物じんぶつであり、後進こうしんたちにおおきな影響えいきょうあたえることになった。しかしかれは1613ねんふでり、スペイン絵画かいが黄金おうごん時代じだい統治とうちすることになるフェリペ4せい当時とうじ皇太子こうたいし)に芸術げいじゅつ教育きょういくほどこした。カラヴァッジョの影響えいきょうけたほか画家がかに、エル・グレコ門下もんか独特どくとく表現ひょうげんのこしたルイス・トリスタンペドロ・オレンテなど、トレドが絵画かいが中心ちゅうしんになった。

バレンシアでもフランシスコ・リバルタ動的どうてき宗教しゅうきょうえがき、セビリアではベラスケスであるフランシスコ・パチェーコ写実しゃじつてき作品さくひんのこし、いち時代じだいをきずきあげた。かれは『絵画かいが芸術げいじゅつろん』という理論りろんしょのこしている。これらの画家がかたちから次世代じせだいまなび、偉大いだい時代じだいおとずれることになる。

黄金おうごん時代じだい 1640ねんまで[編集へんしゅう]

フェリペ4せいが1621ねん即位そくいした。かれはマイノの教育きょういくのためか祖父そふフェリペ2せいのように美術びじゅつあいした。

ディエゴ・ベラスケス (1)[編集へんしゅう]

ディエゴ・ベラスケスは1599ねんセビリアまれる。貴族きぞく家系かけい年代ねんだい作者さくしゃいているものの具体ぐたいてき根拠こんきょはなく、ポルトガルからコンベルソ(キリストきょう改宗かいしゅうしたもとユダヤ教徒きょうと)の家系かけいとされる。同郷どうきょう画家がかパチェーコのもとで研鑽けんさんむ。初期しょき作品さくひんはやはりボテゴンおもであるが、そのたか技術ぎじゅつりょくからセビリアにいたころから宮廷きゅうていとどまっていた。1623ねんマドリードったさいオリバール伯爵はくしゃくガスパール・デ・グスマン紹介しょうかいフェリペ4せい肖像しょうぞうえがき、わか国王こくおうられて宮廷きゅうていばれる。1627ねんに『スペインからモリスコを追放ついほうするフェリペさんせい』(現存げんそんせず)のコンペティションがおこなわれ、長老ちょうろうかくビセンテ・カルドゥチョらそうそうたるかおぶれのなかベラスケスは参加さんかし、見事みごと勝利しょうりした。以降いこうフェリペ4せい絶大ぜつだい信頼しんらい宮廷きゅうてい画家がかとして確固かっこたる地位ちいはやくもつかんだのである。

ディエゴ・ベラスケス:『バッカスの勝利しょうり』、1628 -1629ねん画布がふ油彩ゆさい、165 cm × 225 cm 、プラド美術館びじゅつかん

かれてきつくらないようひかえめにごしていたが、絵画かいが研究けんきゅうしまなかった。オランダ絵画かいが版画はんがつうじてまなり、1628ねんルーベンスがマドリードに長期ちょうき滞在たいざいしたさい親交しんこうむすんだ。ベラスケスはルーベンスからふか影響えいきょうけ、かれ技法ぎほう構図こうずをまねたりしている。『バッカスの勝利しょうり』 (プラド美術館びじゅつかん) がこのころ代表だいひょうさく。また、ルーベンスの「イタリアにくといい」という助言じょげんけすぐさまイタリアへくというほどかれ尊敬そんけいしていた。

1629ねん外交がいこうかん役割やくわりねながら、ヴェネツィアフェッラーラナポリそしてローマもっとなが滞在たいざいした。イタリアの巨匠きょしょうたちの絵画かいがをどんよく吸収きゅうしゅうして1630ねんかえってきた。しかしたんなる技法ぎほう習得しゅうとくだけではなく様式ようしきまでまなり、スペイン宮廷きゅうていでこれまでたことのない大胆だいたん背景はいけいもちいたえがくようになる。かれ自身じしんはその王宮おうきゅう装飾そうしょくなどを手掛てがけるが、時代じだいてきにネーデルランドやフランスとの相次あいつ戦争せんそうがあり、戦争せんそう主題しゅだいにしたをたくさんえがいている。カルドゥチョら先行せんこう作品さくひんまなえがいているが1634ねんの『ブレダの開城かいじょう』 (プラド美術館びじゅつかん) はてき味方みかた対等たいとうえがかれており斬新ざんしん表現ひょうげんがなされている画期的かっきてき傑作けっさくであった。かぎわたさい図像ずぞうげき作家さっかカルデロンの『ブレダの包囲ほういせん』という作品さくひん一節いっせつからているとされる。

カルドゥチョやカヘスら長老ちょうろうくなると、ベラスケスは宮廷きゅうてい画家がかとして絶大ぜつだいちからつことになる。王室おうしつコレクションの管理かんり画家がか招聘しょうへいなど様々さまざま業務ぎょうむおこなっている。1636ねんから1640ねんまで王室おうしつ周辺しゅうへん人物じんぶつ肖像しょうぞう神話しんわ古代こだい人物じんぶつたちをえがいている。とうに存在そんざいしていない人物じんぶつであっても現実げんじつうつったかのような迫真はくしんせいは、肖像しょうぞう極致きょくちといわれる。かれ宮廷きゅうてい画家がかであるが宗教しゅうきょう比較的ひかくてきえがいていないことも特筆とくひつされる。無論むろん宗教しゅうきょう需要じゅようおおかったのでどう時代じだいにはアントニオ・デ・ペレーダフライ・フアン・リシなどの宗教しゅうきょう画家がか活躍かつやくしていた。

フランシスコ・デ・スルバラン (1)[編集へんしゅう]

フランシスコ・デ・スルバランは1598ねんエストレマドゥーラ地方ちほうまれ1614ねんから修業しゅうぎょうはげんだ。しばらくは画工がこうとして彩色さいしきぎょう担当たんとうしていたが、1626ねん再婚さいこん相手あいてのベアトリス・デ・モラリスのつてでセビリア進出しんしゅつする。教会きょうかい祭壇さいだんなど精力せいりょくてき活動かつどうするほか、足場あしば強固きょうこにするためやす値段ねだん作品さくひんったため人気にんき画家がかになった。1627ねんえがいた写実しゃじつてき肉体にくたい表現ひょうげんほどこした『十字架じゅうじかじょうのキリスト』 (シカゴ美術館びじゅつかん) でせ、翌年よくねんペドロ・ノラスコ英語えいごばん連作れんさく有名ゆうめいなものに『せいペドロ・ノラスコにあらわれるせいペテロ』 (プラド美術館びじゅつかん) でその地位ちい不動ふどうなものにする。かれ作品さくひん明暗めいあん劇的げきてき対比たいひしずかな構図こうず特徴とくちょうてきで、注文ちゅうもんぬし嗜好しこうにも配慮はいりょして創作そうさくしたという。

こうしてセビリアを代表だいひょうする画家がかになったスルバランのマドリード宮廷きゅうていにまでとどき、1634ねんにおそらくはベラスケスのまねきによってマドリードにやってきた。『カディスの防衛ぼうえい』 (プラド美術館びじゅつかん) などを手掛てがけるが、静謐せいひつ絵画かいが得意とくいとするかれはダイナミックな表現ひょうげんもとめられる戦争せんそうにはいておらず、あまり賞賛しょうさんされなかった。そして失意しついのうちにふたたびセビリアへもどるが、成熟せいじゅくしたかれ絵筆えふでまらなかった。これまでのスペイン全体ぜんたい画家がか共通きょうつうしてイタリア絵画かいが模倣もほうするという傾向けいこうがあったが、スルバランはみずからのスタイルを重視じゅうしして前例ぜんれいのない図像ずぞうしていった。宗教しゅうきょうのみならず肖像しょうぞうやコタンの系譜けいふ精巧せいこう静物せいぶつまで幅広はばひろ手掛てがけていく。また、後述こうじゅつするナポリのリベラの影響えいきょうけているとされ、セビリアのアルカラ公爵こうしゃく収集しゅうしゅうしたイタリア絵画かいがのコレクションをまなび、自作じさく表現ひょうげん多様たようさせた。そして1639ねんサンタ・マリア・デ・グアダルーぺ修道院しゅうどういんへの絵画かいが制作せいさくがキャリアの盛期せいきえるだろう。

アロンソ・カーノ[編集へんしゅう]

アロンソ・カーノは1601ねんグラナダ出身しゅっしん画家がかでセビリアにうつり、ベラスケスとおなじくパチェーコに師事しじ。そのためベラスケスとはいで長年ながねん友情ゆうじょう関係かんけいむすばれることになる。かれ彫刻ちょうこくまなんでおりそこでつちかった手法しゅほう古典こてんてき雰囲気ふんいきした。典型てんけいてきセビリア絵画かいがながれとはことなったところ位置いちする画家がかであり、スルバランのライバルでもあった。1638ねんにベラスケスのまねきでマドリードへうつり、その独特どくとく絵画かいが地位ちい確立かくりつしていく。

ホセ・デ・リベラ[編集へんしゅう]

ホセ・デ・リベラは1591ねんバレンシア近郊きんこうまれたが、1615ねんまで確固かっことした足取あしどりがつかめない画家がかである。ただ1610ねんほどからきたイタリアを周遊しゅうゆうパルマにいたことがかっている。きたイタリアの自然しぜん主義しゅぎ会得えとくし、それからローマへうつりカラヴァッジョらバロック絵画かいが生身なまみ体感たいかんする。リベラのおもたいくろ表現ひょうげんや、ひと美化びかせずそのみにく部分ぶぶんまでも鮮明せんめい描写びょうしゃする作風さくふうカラヴァッジョからまなんだものとえる。また、当時とうじローマは様々さまざま地域ちいきから留学生りゅうがくせいたかっていたため、ネーデルラントけい画家がかたちとの交流こうりゅうあとられる作品さくひんもある。そして1616ねんにローマでまなんでいたサン・ルカ美術びじゅつアカデミーわかれをげて、当時とうじスペインのてき領土りょうどであったナポリかった。

ホセ・デ・リベーラ:『えびあし少年しょうねん』、1642ねん画布がふ油彩ゆさい、164 x 94 cm 、ルーヴル美術館びじゅつかん

くやいなオスナ公爵こうしゃくかかえられ、かれのために絵筆えふでるうことになる。劇的げきてき明暗めいあんほう迫力はくりょくある筆致ひっちみがきがかかり、一気いっきにナポリ周辺しゅうへん画家がか盟主めいしゅとなっていった。経済けいざいてきにも安定あんていして歴代れきだいスペインふくおうからの受注じゅちゅうこたえた。エッチングにも版画はんがによって広範こうはん影響えいきょうをあたえることになる。当時とうじナポリ屈指くっし絵画かいがコレクターであるガスパール・ローメルのコレクション、とくルーベンスやその弟子でしであるヴァン・エイクらの作品さくひんからまなんだ。しかしかれ前期ぜんきのキャリアをるとやはりカラヴァッジョの影響えいきょう圧倒的あっとうてきである。

1629ねんにはセビリアのアルカラ公爵こうしゃく受注じゅちゅうはいり、肖像しょうぞうデモクリトス』 (プラド美術館びじゅつかん) をふくんだ作品さくひんぐんえがいた。この作品さくひん完成かんせいされた写実しゃじつせい明暗めいあんほうからリベラの代表だいひょうさくとされる。公爵こうしゃくとのみのふか交流こうりゅうによって様々さまざま傑作けっさくうみえてセビリアにはいってきた。そのためセビリアにいたスルバランやアロンソ・カーノなどにおおきな影響えいきょうあたえたのだった。

みずからも1630年代ねんだいなかばからローマにいたフランスけい画家がかたち、たとえばクロード・ロラン風景ふうけい影響えいきょうけ、これまでの陰影いんえいほうとはまるでちが牧歌ぼっかてきあざやかなあおためしたりしている。カラヴァッジョふうからリベラ独自どくじ芸術げいじゅつつくげるべく、研鑽けんさんをつづけた。その成果せいかえるのが『ヤコブのゆめ』 (プラド美術館びじゅつかん) である。人物じんぶつのずばけた写実しゃじつせいはもちろんであるが背景はいけい表現ひょうげんはカラヴァッジョからはなれていることがかる。このように独自どくじみちひらいて、ますます名声めいせいたしかなものにするのだった。

爛熟らんじゅく 1640ねん以降いこう[編集へんしゅう]

この時代じだいはスペインにとって苦難くなん時代じだいだったといえよう。オランダフランスとの相次あいつ戦争せんそうによって疲弊ひへいし、国庫こっこ破綻はたんしている。しかし軍事ぐんじ経済けいざいいちじるしい後退こうたい反比例はんぴれいするかのように巨匠きょしょうたちが活躍かつやくした。

ディエゴ・ベラスケス (2)[編集へんしゅう]

ベラスケスは、相次あいつ戦争せんそう最中さいちゅうでも宮廷きゅうてい画家がか仕事しごとまっとうしている。それどころかティツィアーノルーベンス研究けんきゅうし、より成熟せいじゅくした作品さくひんつくげた。1648ねんの『ヴィーナスとキューピット』ではスペイン絵画かいがとしてめずらしい女性じょせい裸体らたいえがかれている。これはティツィアーノが宮廷きゅうていコレクションにのこした『ポエジア』という神話しんわ連作れんさくから着想ちゃくそうており、かれとルーベンスの裸体らたい表現ひょうげん参考さんこう仕上しあげている。このころから精力せいりょくてき宮廷きゅうていのコレクションを整理せいりはじめるので、それまでに蓄積ちくせきされた巨匠きょしょうたちの絵画かいがじかれられる機会きかいができたのはおおきかった。

1649ねんから再度さいどヴェネツィアへきそれからローマに1651ねんまで滞在たいざいした。イタリア絵画かいがけだけでなく外交がいこうかんとしての仕事しごとたしていたとされる。かれは1650ねん教皇きょうこうインノケンティウス10せい面会めんかいし『インノケンティウス10せい肖像しょうぞう』 (ドーリア・パンフィーリ美術館びじゅつかん) をえがきあげ、かれ肖像しょうぞうもっともすぐれた作品さくひんのひとつとされる。また当時とうじのローマではやはりフランスのクロード・ロランらが戸外こがいでの製作せいさくをしていたので、それを参考さんこうにベラスケスも戸外こがいで『ヴィラ・メディチの庭園ていえん』 (プラド美術館びじゅつかん) をのこしている。このようにかれ名声めいせいぜんヨーロッパにひろがりつつあり、教皇きょうこう英国えいこくおうチャールズ一世かずよのコレクションにおさめられるようになった。

王宮おうきゅう装飾そうしょくなど様々さまざま仕事しごと精力せいりょくてきにこなすベラスケスたいし、フェリペ4せい名誉めいよあるサンチャゴ騎士きしだん称号しょうごうあたえようとおもはじめる。身元みもと調査ちょうさなどを秘密裏ひみつりおこない1658ねんにサンチャゴ騎士きしだんいんになる。いち画家がかでは到底とうていなりえない名誉めいよにする時期じき周辺しゅうへんえがかれたのが『ラス・メニーナス』である。自身じしん肖像しょうぞうえがきこまれているがそこにある騎士きしだんのマークは、授爵じゅしゃくされてからくわえたものである。晩年ばんねんまったおとろえることなく大作たいさく完成かんせいさせていった。1660ねん長年ながねんつづいたフランスとの戦争せんそうわり、フェリペ4せいむすめマリー・テレーズルイ14せい婚儀こんぎ仕切しき仕事しごとをしえると熱病ねつびょうたおれ、マドリードでその栄光えいこうちた生涯しょうがいえた。

ベラスケスの影響えいきょう[編集へんしゅう]

アロンソ・カーノ:『あたりごくへの降下こうかDescenso al Limbo )』、1655 年頃としごろ画布がふ油彩ゆさい、169 x 120 cm 、ロサンゼルス・カウンティ美術館びじゅつかん

ベラスケスは寡作かさくであり、ほとんどの作品さくひん王宮おうきゅうにあったため(それ現在げんざいかれのほとんどの作品さくひんプラド美術館びじゅつかんにある)宮廷きゅうていちか画家がかにしか影響えいきょうあたえられなかった。ベラスケスにまねかれて宮廷きゅうていたアロンソ・カーノはセビリア時代じだい輪郭りんかくせんをしっかりとった彫刻ちょうこくてき人物じんぶつぞうえがいていたが宮廷きゅうてい時代じだいせっしたベラスケスの絵画かいがまなび、そのかた表現ひょうげんやわらかい色彩しきさい表現ひょうげんへと変貌へんぼうした。人体じんたい研究けんきゅうはじ裸体らたいぞうにも挑戦ちょうせんしている。しかしかれつまが1644ねん殺害さつがいされ犯罪はんざいしゃとしてあやしまれると、かれはこの環境かんきょう幻滅げんめつ宮廷きゅうていって故郷こきょうグラナダにもどった。1657ねんから1660ねんまで一時いちじてきにマドリードにもどっているが、余生よせいをグラナダでごした。

フアン・バウティスタ・マルティネス・デル・マーソ:『ブエン・レティーロのいけUn estanque en el Buen Retiro )』、1657ねん画布がふ油彩ゆさい、147 x 114 cm 、マドリード歴史れきし博物館はくぶつかん

ベラスケスの弟子でしとしてはたらいていたフアン・マルティネス・デル・マソ過去かこ巨匠きょしょう複製ふくせいや、王室おうしつ肖像しょうぞう多数たすうのこしている。当時とうじのスペイン美術びじゅつとして大変たいへんめずらしいオランダふう風景ふうけいえがいていることは注目ちゅうもくされる。ベラスケスの死後しご宮廷きゅうてい画家がか地位ちいいだ。

ルーベンスの追従ついしょうしゃたち[編集へんしゅう]

この時代じだい画家がかたち、とくに1640年代ねんだい以降いこうルーベンス絵画かいがひとつの芸術げいじゅつ頂点ちょうてんとして受容じゅようされていった。直接ちょくせつ交流こうりゅうのあったベラスケスのつぎ世代せだいにあたるかれらは、ルーベンスの作品さくひんをよく研究けんきゅう迫力はくりょくある作品さくひんのこした。1614ねんまれのフランシスコ・リシはセビリアで活躍かつやくしたのち、マドリードにのぼり1639ねんから宮殿きゅうでん装飾そうしょく画家がかとしてルーベンスの作品さくひんじかせっして多大ただい影響えいきょうけている。かれのセビリアふう自然しぜん主義しゅぎてき絵画かいががルーベンスふう色彩しきさい表現ひょうげんわっていった。かれおなどしすぐれた画家がかフアン・カレーニョ・デ・ミランダともにルーベンスふうのフレスコえがいている。代表だいひょうさくサン・アントニオ・デ・ロス・ポルトゥゲーセス聖堂せいどう円蓋えんがいえがかれた『せいアントニウスの幻視げんし』でふたりのともさくである。カレーニョもリーシをつうじてルーベンスを研究けんきゅうしてルーベンスふう宗教しゅうきょうのこしている。その迫力はくりょく色彩しきさい表現ひょうげんたか評価ひょうかされ、時代じだい代表だいひょうする画家がかのひとりになる。かれは1671ねんから宮廷きゅうてい画家がか任命にんめいされた。にはのちにムリーリョに多大ただい影響えいきょうあたえるフランシスコ・エレーラ ()がいる。

フランシスコ・デ・スルバラン (2)[編集へんしゅう]

かれまれたときのセビリアはヨーロッパいちみなととして繁栄はんえいきわめていたが、この時代じだいになると経済けいざいてき衰退すいたいしていった。また、1649ねん疫病えきびょう人口じんこう半減はんげんするなどセビリアの没落ぼつらく深刻しんこくであった。その環境かんきょう当地とうち確固かっこたる地位ちいきずきあげたスルバランにものしかかることになる。かれってくれていた教会きょうかいがその余裕よゆううしない、かれはあまりれなくなったのである。さらには家族かぞく疫病えきびょううしなっている。ようやく復興ふっこうがなされ絵画かいが市場いちばふたたひらかれるとかれ精力せいりょくてき活動かつどう開始かいしするが、もうセビリアの人々ひとびとかれ厳格げんかく様式ようしきこのみはしなかった。1640年代ねんだいからきゅう頭角とうかくあらわしたバルトロメ・エステバン・ムリーリョという新星しんせい注文ちゅうもん集中しゅうちゅうして、スルバランの時代遅じだいおくれとされるのだった。1658ねんにベラスケスをたよってマドリードにのぼるが、度重たびかさなる不幸ふこうれてしまったかれ復活ふっかつすることなく、1664ねんマドリードで失意しついのうちにくなった。

バルトロメ・エステバン・ムリーリョ[編集へんしゅう]

1618ねんにセビリアでまれたかれ当初とうしょセビリア伝統でんとう自然しぜん主義しゅぎてき作品さくひんつくっていたが、ルーベンスの影響えいきょうんだフランシスコ・エレーラの作品さくひんまなび、ゆたかで柔和にゅうわ色彩しきさい表現ひょうげんした。1645ねんセビリアのフランシスコかい修道院しゅうどういん装飾そうしょくせ、先輩せんぱいのスルバランの地盤じばんおびやかす存在そんざいへと成長せいちょうしていった。そのフランシスコかい関係かんけい仕事しごとまかされるようになり、画家がかとしての地位ちい確固かっこたるものにすると、教会きょうかい以外いがい富裕ふゆう市民しみんけにも作品さくひんえがくようになる。かれえが柔和にゅうわやさ人物じんぶつぞう人々ひとびと支持しじて、セビリアを代表だいひょうする画家がかとなる。

バルトロメ・エステバン・ムリーリョ:『乞食こじき少年しょうねん』、1650ねんごろ画布がふ油彩ゆさい、134 cm x 110 cm 、ルーヴル美術館びじゅつかん

ムリーリョは宗教しゅうきょうのみならず世俗せぞくてきをいくつものこしており、その観察かんさつするどさもたか評価ひょうかされている。1650ねん完成かんせいした『乞食こじき少年しょうねん』はその好例こうれいであり、かれ代表だいひょうさくひとつである。強烈きょうれつ明暗めいあん対比たいひなかうつむ少年しょうねんをリアルにえがしており、たか筆力ひつりょくうかがえる。ナポリのリベラさくえびあし少年しょうねん』といった社会しゃかい下層かそう位置いちする人々ひとびとをそのまま表現ひょうげんするピカレスクてきはん騎士きしどう貴族きぞくてき表現ひょうげん当時とうじ流行りゅうこうしていた悪漢あっかん小説しょうせつ影響えいきょうか)作品さくひん系譜けいふをしっかりといでいる。

かれ代名詞だいめいしえるのは『原罪げんざい宿やど』という作品さくひんで、生涯しょうがいつうじいくつもえがかれている。これは疫病えきびょうなど社会しゃかい不安ふあんとき特別とくべつたかまったマリア崇拝すうはい賜物たまもので、人々ひとびとあふれる信仰しんこうしんそそいだ。その時流じりゅうわせてこれらの作品さくひんえがいたムリーリョは圧倒的あっとうてき地位ちい確立かくりつするのだった。どう世代せだいのライバルとしてフアン・デ・バルデス・レアルがおり、かれとの切磋琢磨せっさたくまによって非常ひじょうみがげられていった。バルデス・レアルは残酷ざんこくといえるほど生々なまなましい表現ひょうげん追求ついきゅうしたので、ムリーリョとことなる傾向けいこうだったためか市場いちばうば関係かんけいではなく、ともにセビリアで美術びじゅつアカデミーを創設そうせつする運動うんどうこしていくのである。

1660年代ねんだいにはムリーリョの名声めいせいはヨーロッパじゅうにひろがっていた。通称つうしょうあたたかい様式ようしき」とわれるかれ画業がぎょうもっとはなやかな時期じきであり、円熟えんじゅくした表現ひょうげん達成たっせいされている。かれ購入こうにゅうしゃ国際こくさいてきひろがりをみせる。とくにムリーリョのはイギリスじん評価ひょうかされ多数たすう作品さくひんわたり、18世紀せいきのイギリス絵画かいが多大ただい影響えいきょうあたえることになる。かれはスペイン絵画かいが集大成しゅうたいせいでもあり、つぎ時代じだいロココ絵画かいが先駆せんくともわれている。かれ国際こくさいてき影響えいきょうりょくゆえもっと有名ゆうめいスペインじん画家がかであり、ベラスケスの作品さくひんおおやけになるまで名実めいじつともに最大さいだい巨匠きょしょうとして美術びじゅつ君臨くんりんすることとなった。1682ねんぼっした。

フアン・デ・バルデス・レアル[編集へんしゅう]

フアン・デ・バルデス・レアル:『つかいのち(In ictu oculi)』、1670-1672ねん画布がふ油彩ゆさい、220 cm x 216 cm 、セビーリャカリダー施療せりょういん英語えいごばん

ムリーリョが17世紀せいき後半こうはんのセビリア絵画かいがひかりとするなら、フアン・デ・バルデス・レアルはそのかげにあたる。セビリアまれで1622ねん洗礼せんれいけたことがかっているが、その足取あしどりは不明ふめいなところがおおい。セビリアの自然しぜん主義しゅぎ習得しゅうとく明確めいかく線描せんびょう特徴とくちょう。1653ねんから手掛てがけたカルモーナの修道院しゅうどういん装飾そうしょくげた。以降いこうかれ表現ひょうげんうごきにちたはげしいものへとわっていき、筆致ひっち荒々あらあらしくなっていった。強烈きょうれつ劇的げきてき表現ひょうげん目指めざしたため、どう時代じだいのムリーリョとは親交しんこうがあったとはいえせい反対はんたい美意識びいしきっていた。

1664ねんにマドリードへ旅行りょこうしておりフランシスコ・リーシら当時とうじ宮廷きゅうてい活躍かつやくしていた画家がかたちの作品さくひんからまなび、その表現ひょうげんふかまっていくなかで、あかるい色調しきちょう作品さくひんえがくようになった。代表だいひょうてき作品さくひんは「寓意ぐうい」の連作れんさくであり、たしかな描写びょうしゃりょく陰気いんきはげしい迫力はくりょくそなえている。ヴァニタス発露はつろからしてバロック絵画かいが典型てんけいえよう。おおきな成功せいこうりながら1690ねんぼっした。これをもって17世紀せいきセビリア絵画かいが終焉しゅうえんとされる。

終焉しゅうえん[編集へんしゅう]

1664ねんにフェリペ4せいくなり、カルロス2せい即位そくいした。病弱びょうじゃくおう経済けいざい国力こくりょくなおしはできず、強大きょうだいちからつようになった隣国りんごくフランスのルイ14せいなやまされることとなる。領土りょうど縮小しゅくしょうしかつての栄光えいこうえていった。そして1700ねんにカルロス2せいぼっし、スペイン継承けいしょう戦争せんそう勃発ぼっぱつするのだった。

画家がかたちもぜん時代じだい偉大いだい達成たっせい模倣もほう終始しゅうししたかんつよく、また経済けいざい衰退すいたいのため市場いちばちいさくなり絵画かいが芸術げいじゅつ衰退すいたいした。この時期じき注目ちゅうもくされるのはクラウディオ・コエーリョで10代のころリーシのもとでまな華々はなばなしい活躍かつやくせ、1680年代ねんだい代表だいひょうする画家がかになった。エル・エスコリアルみや装飾そうしょく手掛てがけており、名実めいじつともに最後さいご巨匠きょしょうっていい存在そんざいである。かれ前年ぜんねん1692ねんにナポリからルカ・ジョルダーノがマドリードにやってきて『スペイン・ハプスブルク勝利しょうり』という天井てんじょうをエスコリアルみやえがいたが、皮肉ひにくにもそのすうねんスペイン・ハプスブルク断絶だんぜつしてしまった。

アントニオ・パロミーノ画家がかであるが「スペインのヴァザーリ」とばれるように、1724ねん完成かんせいした『絵画かいが美術館びじゅつかん視覚しかく規範きはん』という著作ちょさくのこし、黄金おうごん時代じだい活躍かつやくした画家がか評伝ひょうでんいている。この評伝ひょうでんいま研究けんきゅう基礎きそ文献ぶんけんとして使つかわれており、最後さいごそう仕上しあてき記念きねんでもあった。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • Jonathan Brown, The Golden Age of Painting in Spain, Yale University Press. 1991.
  • 松井まつい美智子みちこ解説かいせつ「リベーラとバレンシア」- 『世界せかい美術びじゅつだい全集ぜんしゅう西洋せいようへん16 バロック1』 小学館しょうがくかん、1996。
  • 大高おおだか保二やすじろう解説かいせつ「ベラスケスとマドリード」- 『世界せかい美術びじゅつだい全集ぜんしゅう西洋せいようへん16 バロック1』 小学館しょうがくかん、1996。
  • 『スペイン絵画かいが・ベラスケスとその時代じだいてんカタログ』毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、1980。
  • 大野おおのかおるざい中村なかむら俊春としはる宮下みやしたただし久郎ひさお望月もちづき典子のりこ西洋せいよう美術びじゅつ歴史れきし6 17~18世紀せいき バロックからロココへ』中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ、2016。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]