(Translated by https://www.hiragana.jp/)
クロード・ロラン - Wikipedia コンテンツにスキップ

クロード・ロラン

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
クロード・ロラン
生誕せいたん Claude Gellée
1600年代ねんだい
ロレーヌ公国こうこくシャマーニュ英語えいごばん
死没しぼつ 1682ねん11月23にち
教皇きょうこうりょうローマ
テンプレートを表示ひょうじ

クロード・ロランフランス語ふらんすご: Claude Lorrain, 1600年代ねんだい - 1682ねん11月23にち)は、本名ほんみょうクロード・ジュレといい、フランスバロック・フランス古典こてん主義しゅぎ絵画かいが画家がかロレーヌ地方ちほう出身しゅっしんなので、「ロラン」とばれ、生涯しょうがい大半たいはんローマおくった。プッサンどう時代じだい活躍かつやくした。理想りそう風景ふうけい追求ついきゅうする画風がふうられ、代表だいひょうさくは『海港かいこう シバの女王じょおう上陸じょうりく』。日本にっぽんでは、国立こくりつ西洋せいよう美術館びじゅつかん静岡しずおか県立けんりつ美術館びじゅつかん山梨やまなし県立けんりつ美術館びじゅつかん東京富士とうきょうふじ美術館びじゅつかん収蔵しゅうぞうされている。

生涯しょうがい

[編集へんしゅう]

初期しょき

[編集へんしゅう]

ロランは1604ねんまたは5ねんロレーヌ地方ちほうシャマーニュまずしいいえに5にん兄弟きょうだい一人ひとりとしてまれた。12さい孤児こじになり木彫きぼ職人しょくにんあにのジャン・ジュレとフライブルク移住いじゅうした。そのかれ生計せいけいてるためローマ、さらにナポリへと移住いじゅうした。1619ねんから1621ねんまでナポリでゴフレード・ウァルスもと修行しゅぎょうする。1625ねんの4がつローマにもどアゴスティーノ・タッシ師事しじ。タッシのもとはなれたのち幾多いくた災難さいなん見舞みまわれながらも、生地きじロレーヌ地方ちほうほかイタリアフランスドイツたびした。ロレーヌこう宮廷きゅうてい画家がかカール・ダーバントはロランを1年間ねんかん助手じょしゅとしてやとっており。ナンシーではカルメルかい教会きょうかい天井てんじょう建築けんちくぶつえがいている。

円熟えんじゅく

[編集へんしゅう]
海港かいこう(メディチてい)』(1637)
むらまつり』(1639)

1627ねん、ロランはローマにもどり、グイード・ベンティボグリオのためえがいたふたつの風景ふうけいによりウルバヌス8せいをパトロンにする。1637ねんごろからは急速きゅうそく風景ふうけい画家がかうみけい画家がかとしての名声めいせいたかめていく。おなじフランスじんニコラ・プッサンとも交友こうゆうがあり、カンパーニャ・ロマーナともたびしている。二人ふたりども風景ふうけい画家がかばれているが、プッサンの風景ふうけい人物じんぶつ背景はいけいである一方いっぽう、ロランのでは人物じんぶつ片隅かたすみえがかれるものの、本当ほんとう主題しゅだい陸地りくちうみそらである。画家がか人物じんぶつ描画びょうがをしばしば依頼いらいしており、そのなかにはジャック・クルトワフィリッポ・ラウリふくまれる。購入こうにゅうしゃには、自分じぶん風景ふうけいったが人物じんぶつはおまけだとっていた。

おな主題しゅだいかえしをける目的もくてきと、自分じぶん作品さくひん良質りょうしつ複製ふくせい提供ていきょうするため、かれ各国かっこくおくられた自分じぶんのほぼすべての作品さくひん淡彩たんさいりのドローイングで複製ふくせい裏面りめんには購入こうにゅうしゃ名前なまえ記載きさいした。ドローイングをまとめてほんし、このほんをロランは『真実しんじつしょ(Liber Veritatis)』とづけた。この貴重きちょう作品さくひんどう版画はんが複製ふくせい出版しゅっぱんされ、風景ふうけい画家がか模範もはんとなる。痛風つうふうくるしんだかれは、1682ねんの11月21にちもしくは23にちくなり、トリニタ・アル・モンテ(Trinità al Monte)のいただきほうむられた。かれ莫大ばくだい遺産いさんは、おい養子ようしむすめめい可能かのうせいあり)にのこされた。

評価ひょうか遺産いさん

[編集へんしゅう]
海港かいこう シバの女王じょおう上陸じょうりく
『アポロとメルクリウスのいる風景ふうけい』(1645ねん)

ローマでは17世紀せいき中頃なかごろまで風景ふうけい真剣しんけんむべき画題がだい做されることはかった。きたヨーロッパではドイツのアダム・エルスハイマーパウル・ブリルいくつかの作品さくひん風景ふうけい主題しゅだいとした作品さくひんえがいている。ほかにもレオナルド・ダ・ヴィンチのドローイング[1]バルダッサーレ・ペルッツィ装飾そうしょくてきフレスコ風景ふうけい主題しゅだいとなっている。しかし主要しゅようなイタリアの画家がか本格ほんかくてき作品さくひん風景ふうけい主題しゅだいとするのはアンニーバレ・カラッチ弟子でしドメニキーノたなければならない。もっと彼等かれらいてもロランとおなじように表向おもてむきは神話しんわ宗教しゅうきょう主題しゅだいとしていた。主題しゅだいとして風景ふうけいあつかうことはあきらかに古典こてんてきで、ありえないことだった。カラッチの才能さいのう古典こてん作品さくひん理想りそうとしたルネサンス美術びじゅつとは相容あいいれないものであったし、ドメニキーノの才能さいのう宗教しゅうきょうまたは神話しんわじょう主題しゅだいたか評価ひょうかする対抗たいこう宗教しゅうきょう改革かいかくのローマではサポートをるのがむずかしかった。背景はいけいには純粋じゅんすい風景ふうけい静物せいぶつ風俗ふうぞくおなじように、道徳どうとくてき真剣しんけんさにけると做す当時とうじ美学びがくじょう視点してんる。17世紀せいきイタリア美術びじゅつ神学しんがく哲学てつがくじょう中心ちゅうしんローマはそのような伝統でんとうからの離脱りだつ準備じゅんびはできていなかった[疑問ぎもんてん][独自どくじ研究けんきゅう?]

ロランは弟子でし親切しんせつ勤勉きんべんであり、非常ひじょうするど観察かんさつっていたとつたえられている。しかし、生前せいぜんかれのことを記録きろくするものはいなかった。ヨアヒム・フォン・ザンドラルト(Joachim von Sandrart)がロランの生涯しょうがいかんしては権威けんいである(Academia Artis Pictoriae、1683ねん)。フィリッポ・バルディヌッチ(Filippo Baldinucci)はロランとちかしかったすうにんから情報じょうほう様々さまざま出来事できごとをまたべつ印象いんしょうかたっている(Notizie dei professoni del disegno)。ジョン・コンスタブルはロランのことを「世界せかいいままでにしたもっと完璧かんぺき風景ふうけい画家がか」だとべ、ロランの風景ふうけいでは「すべてがうつくしく-すべてがあいらしく-すべてが心地ここちよくやすらかでしんあたたまる」と絶賛ぜっさんしている[2]



ギャラリー

[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ Royal Collection
  2. ^ Beckett, Discourses, pp. 52–53; [1]

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • 『クロード・ロランと理想りそう風景ふうけい国立こくりつ西洋せいよう美術館びじゅつかん 1998ねん
  •  この記事きじにはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくうち著作ちょさくけん消滅しょうめつしたつぎ百科ひゃっか事典じてん本文ほんぶんふくむ: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Claude of Lorraine". Encyclopædia Britannica (英語えいご). Vol. 6 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 463.