(上 うえ )ロートリンゲン公国 こうこく ロレーヌ公国 こうこく
Duché de Lorraine (フランス語 ふらんすご ) Herzogtum Lothringen (ドイツ語 ご )
(国旗 こっき )
(国 くに 章 あきら )
1000年 ねん 頃 ごろ のロレーヌ公国 こうこく
ロレーヌ公国 こうこく (フランス語 ふらんすご : Duché de Lorraine )またはロートリンゲン公国 こうこく (ドイツ語 ご : Herzogtum Lothringen )は、現在 げんざい のフランス のロレーヌ地方 ちほう 北東 ほくとう 部 ぶ 、ルクセンブルク およびドイツ の一部 いちぶ からなる歴史 れきし 的 てき 公国 こうこく である。主要 しゅよう な都市 とし はメス 、ヴェルダン であり、歴史 れきし 的 てき な首都 しゅと はナンシー であった。
ロレーヌに先行 せんこう するロタリンギア は国王 こくおう ロタール2世 せい (855年 ねん - 869年 ねん )治世 ちせい 下 か では フランク帝国 ていこく 内部 ないぶ での独立 どくりつ した王国 おうこく であった。その領域 りょういき は元来 がんらい 、ルートヴィヒ1世 せい の3人 にん の息子 むすこ 間 あいだ で分割 ぶんかつ が取 と り決 き められたヴェルダン条約 じょうやく で843年 ねん に創設 そうせつ された中部 なかべ フランク王国 おうこく の一部 いちぶ であった。中部 なかべ フランクはロタール1世 せい に割 わ り当 あ てられ、それ故 ゆえ にLotharii Regnum と呼 よ ばれた。855年 ねん にロタール1世 せい が死 し ぬと更 さら に三 みっ つに分割 ぶんかつ され、ロタール2世 せい は北部 ほくぶ を受 う け取 と った。その領域 りょういき は当時 とうじ 、ブルゴーニュ伯 はく 領 りょう から北海 ほっかい 南部 なんぶ まで広 ひろ がる広大 こうだい な領域 りょういき を含 ふく んでいた。この領域 りょういき はフランス ではロレーヌ (Lorraine)として知 し られ、他方 たほう 、ドイツ では次第 しだい にロートリンゲン (Lothringen)として知 し られるようになった。ロレーヌではかつてアレマン語 ご が話 はな されており、正確 せいかく には比喩 ひゆ 的 てき な感覚 かんかく で"Lotharingen"は"ロタールに属 ぞく す土地 とち "と表現 ひょうげん される。
ロタール2世 せい が後継 こうけい 者 しゃ を残 のこ すことなく没 ぼっ したことで、その領域 りょういき は870年 ねん のメルセン条約 じょうやく で東 あずま フランク王国 おうこく と西 にし フランク王国 おうこく に分割 ぶんかつ され、最終 さいしゅう 的 てき には880年 ねん のリブモント条約 じょうやく で全域 ぜんいき が東 あずま フランク王国 おうこく の支配 しはい 下 か に置 お かれた。911年 ねん の、ルートヴィヒ4世 せい の死 し で東 あずま フランク王国 おうこく のカロリング朝 あさ が絶 た えると、ロタリンギアは一旦 いったん は西 にし フランク王国 おうこく に吸収 きゅうしゅう されたが、925年 ねん に東 あずま フランク王 おう ハインリヒ1世 せい によって征服 せいふく された。宿敵 しゅくてき であるユーグ大公 たいこう との争 あらそ いが行 い き詰 づま ったことにより942年 ねん に西 にし フランク王 おう ルイ4世 せい は全 ぜん ロタリンギアの請求 せいきゅう 権 けん を放棄 ほうき した。
15世紀 せいき 以来 いらい のロレーヌの象徴 しょうちょう であるロレーヌ十字 じゅうじ 。
953年 ねん 、東 あずま フランク王 おう オットー大帝 たいてい は自 みずか らの弟 おとうと であるブルーノ をロタリンギア公 こう に任命 にんめい した。 959年 ねん にブルーノは公国 こうこく を上 うえ 下 した ロレーヌ に分割 ぶんかつ し、その分割 ぶんかつ は965年 ねん のプルーノの死後 しご 固定 こてい された。「上 うえ 」ロタリンギアは河川 かせん の上流 じょうりゅう 、つまり内陸 ないりく かつ南側 みなみがわ に存在 そんざい した。文献 ぶんけん によると上 うえ ロレーヌは、当初 とうしょ モゼル 公国 こうこく と呼 よ ばれ、その公 おおやけ はdux Mosellanorum (モゼル公 こう )と呼 よ ばれていた。 Lotharingia Superioris (上 うえ ロタリンギア)や、Lorraine (ロレーヌ)の語 かたり が公文書 こうぶんしょ で使用 しよう され始 はじ めるのは15世紀 せいき 前後 ぜんご のことである。ブルーノの代理人 だいりにん であり最初 さいしょ の公爵 こうしゃく となったのはブルーノの姉妹 しまい であるヘトヴィヒ の義理 ぎり の息子 むすこ フリードリヒ1世 せい であった。
1400年 ねん 頃 ころ のロレーヌ(青地 あおじ )
下 した ロレーヌは幾 いく つかの小 ちい さな領 りょう 邦 くに に分裂 ぶんれつ し、「ロチエ公 こう 」の称号 しょうごう のみがブラバント によって保持 ほじ されつつ存続 そんぞく した。モゼル公国 こうこく がルネ・ダンジュー のものとなった後 のち 、「ロレーヌ公国 こうこく 」の名 な が再 ふたた び用 もち いられるようになるとともに、懐古 かいこ 的 てき に「上 うえ ロタリンギア」とも呼 よ ばれた。その時点 じてん で既 すで に、上 うえ ロタリンギアからもルクセンブルク伯 はく 領 りょう とトリーア選 せん 帝 みかど 侯 ほう 領 りょう 、あるいはバル伯 はく 領 りょう 、ヴェルダン 、メス 、トゥール から成 な る「三 さん 司教 しきょう 領 りょう 」といった領 りょう 邦 くに が分裂 ぶんれつ していた。
神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく とフランス王国 おうこく の国境 こっきょう は中世 ちゅうせい を通 つう じて比較的 ひかくてき 安定 あんてい していた。1301年 ねん に バル伯 はく アンリ3世 せい はフランス国王 こくおう フィリップ4世 せい から封土 ほうど として自身 じしん の西部 せいぶ の土地 とち (Barrois mouvant )を受 う け取 と らなければならなかった。ブルゴーニュ公 こう シャルル は1475年 ねん にロレーヌ公国 こうこく に遠征 えんせい したが、最終 さいしゅう 的 てき には1477年 ねん のナンシーの戦 たたか い で敗 はい 死 し した。1552年 ねん にザクセン選 せん 帝 みかど 侯 こう モーリッツ を中心 ちゅうしん とする反乱 はんらん プロテスタント 諸侯 しょこう はフランス国王 こくおう アンリ2世 せい からの支援 しえん の見返 みかえ りとしてシャンボール条約 じょうやく に従 したが って3つの司教 しきょう 領 りょう を譲渡 じょうと した。
17世紀 せいき のフランス国王 こくおう はロレーヌの領有 りょうゆう を欲 ほっ するようになった。三 さん 十 じゅう 年 ねん 戦争 せんそう により神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい の権威 けんい が低下 ていか する中 なか 、フランス宰相 さいしょう リシュリュー 枢機卿 すうききょう は1641年 ねん にロレーヌを占領 せんりょう を強行 きょうこう した。1648年 ねん のヴェストファーレン条約 じょうやく でフランスはロレーヌの返却 へんきゃく を余儀 よぎ なくされたが、ロレーヌの東 ひがし にあるアルザス においていくつかの地点 ちてん を獲得 かくとく した。
1670年 ねん にフランスは再 ふたた びロレーヌに侵略 しんりゃく してロレーヌ公 こう シャルル4世 せい をヴェネツィア に追 お いやった。シャルル4世 せい は当地 とうち でハプスブルク家 か の神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい との強力 きょうりょく な結 むす びつきを形成 けいせい し、オーストリアの将軍 しょうぐん としてフランス軍 ぐん と戦 たたか い、甥 おい のシャルル5世 せい も同様 どうよう に軍人 ぐんじん としてハプスブルク家 か を支 ささ えた。
1697年 ねん の大 だい 同盟 どうめい 戦争 せんそう 終結 しゅうけつ 時 じ のレイスウェイク条約 じょうやく で手放 てばな した時 とき を除 のぞ き、フランスは公国 こうこく を30年 ねん 近 ちか くにわたって占領 せんりょう した。スペイン継承 けいしょう 戦争 せんそう 中 なか に首都 しゅと のナンシーを含 ふく むロレーヌの幾 いく つかは再 ふたた びフランスによって占領 せんりょう されたが、ロレーヌ公 こう レオポルト はリュネヴィル城 じょう 館 かん にて統治 とうち を続 つづ けた。
1703年 ねん の公国 こうこく のen:Siebmachers Wappenbuch 。[ 1]
1697年 ねん の公国 こうこく の紋章 もんしょう 。
ポーランド継承 けいしょう 戦争 せんそう 後 ご の1737年 ねん にフランスとハプスブルク・両家 りょうけ の間 あいだ でロレーヌがフランスの一部 いちぶ となることが同意 どうい され、公国 こうこく はフランス国王 こくおう ルイ15世 せい の義父 ぎふ で前 まえ ポーランド国王 こくおう 兼 けん リトアニア大公 たいこう かつ戦争 せんそう 中 ちゅう にロシア とオーストリア の推 お す国王 こくおう の対抗 たいこう 馬 ば としてフランスから支援 しえん を受 う けたスタニスワフ・レシチニスキ に与 あた えられた。皇帝 こうてい の娘 むすめ マリア・テレジア と婚約 こんやく していたフランツ・シュテファン にはメディチ家 か が断絶 だんぜつ したトスカーナ大公 たいこう 国 こく が代償 だいしょう として与 あた えられた。フランスはまた、1713年 ねん の国事 こくじ 勅 みことのり 令 れい でマリア・テレジアがハプスブルク家 か の後継 こうけい 者 しゃ であることを確約 かくやく した。レシチニスキは自身 じしん の死後 しご にフランスに併合 へいごう されることを理解 りかい した上 うえ でロレーヌを受 う け取 と った。1766年 ねん 2月 がつ 23日 にち にレシチニスキが死 し ぬとロレーヌはフランスの州 しゅう として吸収 きゅうしゅう された。
ロレーヌ地方 ちほう を巡 めぐ るフランスとドイツの帰属 きぞく 争 あらそ いは、以後 いご もたびたび起 お こった。
ロレーヌは1870年 ねん ないし1871年 ねん までフランスの一部 いちぶ となっており、この年 とし はメス 周辺 しゅうへん のロレーヌ北部 ほくぶ はアルザスと共 とも に新 あら たに建国 けんこく されたドイツ帝国 ていこく に吸収 きゅうしゅう され、多 おお くのフランス人 じん がアルジェリア を含 ふく むフランスに移住 いじゅう した。領域 りょういき は帝国 ていこく を構成 こうせい する諸 しょ 国家 こっか に吸収 きゅうしゅう されたり、あるいは新 あら たな分離 ぶんり 国家 こっか が作 つく られることはなかったが、議会 ぎかい の陳情 ちんじょう 抜 ぬ きでドイツ皇帝 こうてい が直接 ちょくせつ 指名 しめい した総督 そうとく によって統治 とうち されるエルザス=ロートリンゲン となった。1911年 ねん のみ幾 いく 分 ふん かの自治 じち が与 あた えられた。ドイツ皇帝 こうてい が退位 たいい した第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が終結 しゅうけつ するまでアルザス=ロレーヌはドイツの一部 いちぶ であり、この時 とき にアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の支援 しえん のもとでアルザス=ロレーヌ共和 きょうわ 国 こく の独立 どくりつ が宣言 せんげん された。フランス は数日 すうじつ 後 ご に共和 きょうわ 国 こく を占領 せんりょう して吸収 きゅうしゅう した。フランス政府 せいふ はドイツ語 ご の禁止 きんし とフランス語 ふらんすご の再 さい 使用 しよう を方針 ほうしん とした。
1940年 ねん にアルザス=ロレーヌはドイツ第 だい 三 さん 帝国 ていこく によって再 さい 占領 せんりょう され、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 なか 、ロレーヌはザールラント州 しゅう と、アルザスはバーデン州 しゅう とそれぞれ合体 がったい した。フランス語 ふらんすご は再 ふたた び禁止 きんし され、ドイツの学校 がっこう での教育 きょういく が義務付 ぎむづ けられた。1944年 ねん 11月に戦争 せんそう で引 ひ き裂 さ かれた地域 ちいき は再 ふたた びフランスの手 て に戻 もど った。 戦闘 せんとう が地域 ちいき に及 およ んだため、ロレーヌは、フランスのアメリカ軍 ぐん 共同 きょうどう 墓地 ぼち の中 なか で最大 さいだい である、ロレーヌのアメリカ兵 へい 共同 きょうどう 墓地 ぼち 碑 ひ の中心 ちゅうしん 地 ち である。
北部 ほくぶ 地域 ちいき では今日 きょう もなおドイツ語 ご 訛 なま りの方言 ほうげん が生 い き残 のこ っている。これは英語 えいご ではFrancique、フランス語 ふらんすご ではplatt (lorrain) (ロマンス語 ご 方言 ほうげん のロレーヌ語 ご と混合 こんごう してはならない)と呼 よ ばれるロレーヌ・フランコニア語 ご として知 し られている。これはアルザス語 ご とは異 こと なるが、両者 りょうしゃ はよく混合 こんごう されることがある。どちらとも公的 こうてき な識別 しきべつ の形態 けいたい はない。
大 だい 部分 ぶぶん のフランスの地域 ちいき の言語 げんご (ブルトン語 ご 、プロヴァンス語 ご 、アルザス語 ご )と同 おな じく、ロレーヌ・フランコニア語 ご も19世紀 せいき から20世紀 せいき にかけての公立 こうりつ 学校 がっこう での義務 ぎむ 教育 きょういく の普及 ふきゅう により、次第 しだい にフランス語 ふらんすご に取 と って代 か わられた。
食事 しょくじ や料理 りょうり はキッシュ 、ミラベル・プルム 、ババ 、ベルガモット 、マカロン 、マドレーヌ を含 ふく むロレーヌと関連 かんれん している。
^ Siebmacher, Johann (1703). Erneuertes und vermehrtes Wappenbuch... . Nürnberg: Adolph Johann Helmers. pp. Part I Table 6
Herrick, Linda & Wendy Uncapher. Alsace-Lorraine: The Atlantic Bridge to Germany . Janesville, WI: 2003.
Hughes, S. P. (2005) "Bilingualism in North-East France with specific reference to Rhenish Franconian spoken by Moselle Cross-border (or frontier) workers."[1]
Putnam, Ruth. Alsace and Lorraine: From Cæsar to Kaiser, 58 B.C.-1871 A.D. New York: 1915.