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ロレーヌ公国こうこく

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(うえ)ロートリンゲン公国こうこく
ロレーヌ公国こうこく
Duché de Lorraine  (フランス語ふらんすご)
Herzogtum Lothringen  (ドイツ)
ロタリンギア 959ねん - 1766ねん フランス王国
ロレーヌの国旗 ロレーヌの国章
国旗こっきくにあきら
ロレーヌの位置
1000ねんごろのロレーヌ公国こうこく
首都しゅと ナンシー
公爵こうしゃく
959ねん - 978ねん フリードリヒ1せい
1737ねん - 1766ねんスタニスワフ・レシチニスキ
変遷へんせん
ロタリンギア分割ぶんかつ 959ねん
オーバーライン・クライス英語えいごばん加盟かめい1500ねん
フランスによる侵攻しんこう占領せんりょう1643ねん
フランスによる侵攻しんこう、30年間ねんかん占領せんりょう1670ねん
フランスによるスペイン継承けいしょう戦争せんそうちゅう侵攻しんこう1702ねん
フランス王国おうこくによる併合へいごう1766ねん2がつ23にち
現在げんざいベルギーの旗 ベルギー
ドイツの旗 ドイツ
フランスの旗 フランス
ルクセンブルクの旗 ルクセンブルク

ロレーヌ公国こうこくフランス語ふらんすご: Duché de Lorraine)またはロートリンゲン公国こうこくドイツ: Herzogtum Lothringen)は、現在げんざいフランスロレーヌ地方ちほう北東ほくとうルクセンブルクおよびドイツ一部いちぶからなる歴史れきしてき公国こうこくである。主要しゅよう都市としメスヴェルダンであり、歴史れきしてき首都しゅとナンシーであった。

歴史れきし

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ロタリンギア

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ロレーヌに先行せんこうするロタリンギア国王こくおうロタール2せい855ねん - 869ねん治世ちせいでは フランク帝国ていこく内部ないぶでの独立どくりつした王国おうこくであった。その領域りょういき元来がんらいルートヴィヒ1せいの3にん息子むすこあいだ分割ぶんかつめられたヴェルダン条約じょうやく843ねん創設そうせつされた中部なかべフランク王国おうこく一部いちぶであった。中部なかべフランクはロタール1せいてられ、それゆえLotharii Regnumばれた。855ねんにロタール1せいぬとさらみっつに分割ぶんかつされ、ロタール2せい北部ほくぶった。その領域りょういき当時とうじブルゴーニュはくりょうから北海ほっかい南部なんぶまでひろがる広大こうだい領域りょういきふくんでいた。この領域りょういきフランスではロレーヌ(Lorraine)としてられ、他方たほうドイツでは次第しだいロートリンゲン(Lothringen)としてられるようになった。ロレーヌではかつてアレマンはなされており、正確せいかくには比喩ひゆてき感覚かんかくで"Lotharingen"は"ロタールにぞく土地とち"と表現ひょうげんされる。

ロタール2せい後継こうけいしゃのこすことなくぼっしたことで、その領域りょういき870ねんメルセン条約じょうやくあずまフランク王国おうこく西にしフランク王国おうこく分割ぶんかつされ、最終さいしゅうてきには880ねんリブモント条約じょうやく全域ぜんいきあずまフランク王国おうこく支配しはいかれた。911ねんの、ルートヴィヒ4せいあずまフランク王国おうこくカロリングあさえると、ロタリンギアは一旦いったん西にしフランク王国おうこく吸収きゅうしゅうされたが、925ねんあずまフランクおうハインリヒ1せいによって征服せいふくされた。宿敵しゅくてきであるユーグ大公たいこうとのあらそいがづまったことにより942ねん西にしフランクおうルイ4せいぜんロタリンギアの請求せいきゅうけん放棄ほうきした。

うえロタリンギア公国こうこく

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15世紀せいき以来いらいのロレーヌの象徴しょうちょうであるロレーヌ十字じゅうじ

953ねんあずまフランクおうオットー大帝たいていみずからのおとうとであるブルーノをロタリンギアこう任命にんめいした。 959ねんにブルーノは公国こうこくうえしたロレーヌ分割ぶんかつし、その分割ぶんかつ965ねんのプルーノの死後しご固定こていされた。「うえ」ロタリンギアは河川かせん上流じょうりゅう、つまり内陸ないりくかつ南側みなみがわ存在そんざいした。文献ぶんけんによるとうえロレーヌは、当初とうしょモゼル公国こうこくばれ、そのおおやけdux Mosellanorum(モゼルこう)とばれていた。 Lotharingia Superiorisうえロタリンギア)や、Lorraine(ロレーヌ)のかたり公文書こうぶんしょ使用しようされはじめるのは15世紀せいき前後ぜんごのことである。ブルーノの代理人だいりにんであり最初さいしょ公爵こうしゃくとなったのはブルーノの姉妹しまいであるヘトヴィヒ義理ぎり息子むすこフリードリヒ1せいであった。

1400ねんころのロレーヌ(青地あおじ

したロレーヌはいくつかのちいさなりょうくに分裂ぶんれつし、「ロチエこう」の称号しょうごうのみがブラバントによって保持ほじされつつ存続そんぞくした。モゼル公国こうこくルネ・ダンジューのものとなったのち、「ロレーヌ公国こうこく」のふたたもちいられるようになるとともに、懐古かいこてきに「うえロタリンギア」ともばれた。その時点じてんすでに、うえロタリンギアからもルクセンブルクはくりょうトリーアせんみかどほうりょう、あるいはバルはくりょうヴェルダンメストゥールからる「さん司教しきょうりょう」といったりょうくに分裂ぶんれつしていた。

かみきよしマ帝国まていこくフランス王国おうこく国境こっきょう中世ちゅうせいつうじて比較的ひかくてき安定あんていしていた。1301ねんバルはくアンリ3せいフランス国王こくおうフィリップ4せいから封土ほうどとして自身じしん西部せいぶ土地とち(Barrois mouvant)をらなければならなかった。ブルゴーニュこうシャルル1475ねんにロレーヌ公国こうこく遠征えんせいしたが、最終さいしゅうてきには1477ねんナンシーのたたかはいした。1552ねんザクセンせんみかどこうモーリッツ中心ちゅうしんとする反乱はんらんプロテスタント諸侯しょこうはフランス国王こくおうアンリ2せいからの支援しえん見返みかえりとしてシャンボール条約じょうやくしたがって3つの司教しきょうりょう譲渡じょうとした。

17世紀せいきのフランス国王こくおうはロレーヌの領有りょうゆうほっするようになった。さんじゅうねん戦争せんそうにより神聖しんせいローマ皇帝こうてい権威けんい低下ていかするなか、フランス宰相さいしょうリシュリュー枢機卿すうききょう1641ねんにロレーヌを占領せんりょう強行きょうこうした。1648ねんヴェストファーレン条約じょうやくでフランスはロレーヌの返却へんきゃく余儀よぎなくされたが、ロレーヌのひがしにあるアルザスにおいていくつかの地点ちてん獲得かくとくした。

1670ねんにフランスはふたたびロレーヌに侵略しんりゃくしてロレーヌこうシャルル4せいヴェネツィアいやった。シャルル4せい当地とうちハプスブルク神聖しんせいローマ皇帝こうていとの強力きょうりょくむすびつきを形成けいせいし、オーストリアの将軍しょうぐんとしてフランスぐんたたかい、おいシャルル5せい同様どうよう軍人ぐんじんとしてハプスブルクささえた。

1697ねんだい同盟どうめい戦争せんそう終結しゅうけつレイスウェイク条約じょうやく手放てばなしたときのぞき、フランスは公国こうこくを30ねんちかくにわたって占領せんりょうした。スペイン継承けいしょう戦争せんそうなか首都しゅとのナンシーをふくむロレーヌのいくつかはふたたびフランスによって占領せんりょうされたが、ロレーヌこうレオポルトリュネヴィルじょうかんにて統治とうちつづけた。

1703ねん公国こうこくen:Siebmachers Wappenbuch[1]
1697ねん公国こうこく紋章もんしょう

ポーランド継承けいしょう戦争せんそう1737ねんにフランスとハプスブルク・両家りょうけあいだでロレーヌがフランスの一部いちぶとなることが同意どういされ、公国こうこくはフランス国王こくおうルイ15せい義父ぎふまえポーランド国王こくおうけんリトアニア大公たいこうかつ戦争せんそうちゅうロシアオーストリア国王こくおう対抗たいこうとしてフランスから支援しえんけたスタニスワフ・レシチニスキあたえられた。皇帝こうていむすめマリア・テレジア婚約こんやくしていたフランツ・シュテファンにはメディチ断絶だんぜつしたトスカーナ大公たいこうこく代償だいしょうとしてあたえられた。フランスはまた、1713ねん国事こくじみことのりれいでマリア・テレジアがハプスブルク後継こうけいしゃであることを確約かくやくした。レシチニスキは自身じしん死後しごにフランスに併合へいごうされることを理解りかいしたうえでロレーヌをった。1766ねん2がつ23にちにレシチニスキがぬとロレーヌはフランスのしゅうとして吸収きゅうしゅうされた。

フランスとドイツのあいだ

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ロレーヌ地方ちほうめぐるフランスとドイツの帰属きぞくあらそいは、以後いごもたびたびこった。

ロレーヌは1870ねんないし1871ねんまでフランスの一部いちぶとなっており、このとしメス周辺しゅうへんのロレーヌ北部ほくぶはアルザスとともあらたに建国けんこくされたドイツ帝国ていこく吸収きゅうしゅうされ、おおくのフランスじんアルジェリアふくむフランスに移住いじゅうした。領域りょういき帝国ていこく構成こうせいするしょ国家こっか吸収きゅうしゅうされたり、あるいはあらたな分離ぶんり国家こっかつくられることはなかったが、議会ぎかい陳情ちんじょうきでドイツ皇帝こうてい直接ちょくせつ指名しめいした総督そうとくによって統治とうちされるエルザス=ロートリンゲンとなった。1911ねんのみいくふんかの自治じちあたえられた。ドイツ皇帝こうてい退位たいいしただいいち世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつするまでアルザス=ロレーヌはドイツの一部いちぶであり、このときアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく支援しえんのもとでアルザス=ロレーヌ共和きょうわこく独立どくりつ宣言せんげんされた。フランス数日すうじつ共和きょうわこく占領せんりょうして吸収きゅうしゅうした。フランス政府せいふドイツ禁止きんしフランス語ふらんすごさい使用しよう方針ほうしんとした。

1940ねんにアルザス=ロレーヌはドイツだいさん帝国ていこくによってさい占領せんりょうされ、だい世界せかい大戦たいせんなか、ロレーヌはザールラントしゅうと、アルザスはバーデンしゅうとそれぞれ合体がったいした。フランス語ふらんすごふたた禁止きんしされ、ドイツの学校がっこうでの教育きょういく義務付ぎむづけられた。1944ねん11月に戦争せんそうかれた地域ちいきふたたびフランスのもどった。 戦闘せんとう地域ちいきおよんだため、ロレーヌは、フランスのアメリカぐん共同きょうどう墓地ぼちなか最大さいだいである、ロレーヌのアメリカへい共同きょうどう墓地ぼち中心ちゅうしんである。

文化ぶんか

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北部ほくぶ地域ちいきでは今日きょうもなおドイツなまりの方言ほうげんのこっている。これは英語えいごではFrancique、フランス語ふらんすごではplatt (lorrain) (ロマンス方言ほうげんロレーヌ混合こんごうしてはならない)とばれるロレーヌ・フランコニアとしてられている。これはアルザスとはことなるが、両者りょうしゃはよく混合こんごうされることがある。どちらとも公的こうてき識別しきべつ形態けいたいはない。

だい部分ぶぶんフランスの地域ちいき言語げんごブルトンプロヴァンスアルザス)とおなじく、ロレーヌ・フランコニア19世紀せいきから20世紀せいきにかけての公立こうりつ学校がっこうでの義務ぎむ教育きょういく普及ふきゅうにより、次第しだいフランス語ふらんすごってわられた。

食事しょくじ料理りょうりキッシュミラベル・プルムババベルガモットマカロンマドレーヌふくむロレーヌと関連かんれんしている。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ Siebmacher, Johann (1703). Erneuertes und vermehrtes Wappenbuch.... Nürnberg: Adolph Johann Helmers. pp. Part I Table 6 

参考さんこう文献ぶんけん

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英語えいご

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  • Herrick, Linda & Wendy Uncapher. Alsace-Lorraine: The Atlantic Bridge to Germany. Janesville, WI: 2003.
  • Hughes, S. P. (2005) "Bilingualism in North-East France with specific reference to Rhenish Franconian spoken by Moselle Cross-border (or frontier) workers."[1]
  • Putnam, Ruth. Alsace and Lorraine: From Cæsar to Kaiser, 58 B.C.-1871 A.D. New York: 1915.

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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