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メデューズごういかだ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
『メデューズごういかだ
フランス語ふらんすご: Le Radeau de la Méduse
作者さくしゃテオドール・ジェリコー
製作せいさくねん1818ねん-1819ねん
種類しゅるいキャンバスに油彩ゆさい
寸法すんぽう491 cm × 716 cm (193 in × 282 in)
所蔵しょぞうブル美術館ぶるびじゅつかんパリ

メデューズごういかだ』(メデューズごうのいかだ、フランス語ふらんすご: Le Radeau de la Méduse)は1818ねん〜1819ねん、フランスロマン主義しゅぎ画家がか版画はんがいえテオドール・ジェリコーによる油彩ゆさいで、フランスパリブル美術館ぶるびじゅつかん所蔵しょぞうされている。ジェリコーが27さいとき作品さくひんであり、フランス・ロマン主義しゅぎ象徴しょうちょうとなった。ほんさくは、おおきさ 491 cm × 716 cm [1]実物じつぶつだい絵画かいがで、フランス海軍かいぐんフリゲふりげト艦とかんメデューズごう難破なんぱしたさいきた事件じけんあらわしている。

メデューズごうは、1816ねん7がつ5にち今日きょうモーリタニアおき座礁ざしょうした。すくなくとも147にん人々ひとびとが、きゅうごしらえのいかだ漂流ひょうりゅうしなければならなかった。そのほとんどが救出きゅうしゅつまでの13日間にちかん死亡しぼうし、のこった15にんも、飢餓きが脱水だっすいしょくじん狂気きょうきにさらされることになった[2]事件じけん国際こくさいてきスキャンダルとなり、フランス復古ふっこ王政おうせい当局とうきょく指揮しきにあったフランスぐん指揮しきかんの、無能むのう遠因えんいんになったとされた。

ジェリコーは、依頼いらいけてからこのえがいたのではない。最近さいきんきたばかりの有名ゆうめい悲劇ひげきてき事件じけんを、意識いしきてき主題しゅだいえらんだことで、この世間せけん関心かんしんおおいにび、ジェリコーのられるようになった[3]

わか芸術げいじゅつ事件じけんきつけられ、ジェリコーは事前じぜん様々さまざま事柄ことがら調しらべてスケッチをかえし、いくつも習作しゅうさく作製さくせいしてからほんさくんだ。かれ生存せいぞんしゃの2めい取材しゅざいし、いかだ精密せいみつ縮尺しゅくしゃく模型もけいつくった。死体したい病院びょういんおもむき、んだひとにかけたひとはだいろ質感しつかんをじかに観察かんさつした。ジェリコーが予測よそくしたように、『メデューズごういかだ』は1819ねんサロン・ド・パリはげしい論争ろんそうまととなり、ねつのこもった賞賛しょうさん非難ひなんとを同時どうじこした。これによりジェリコーは国際こくさいてき名声めいせい確立かくりつし、今日きょうではフランス絵画かいが初期しょきロマン画家がかとしてひろられている。

『メデューズごういかだ』は歴史れきし絵画かいが伝統でんとうにしたがってはいるが、主題しゅだい選択せんたくとその劇的げきてき演出えんしゅつにおいて、当時とうじ一般いっぱんてきだったしん古典こてん主義しゅぎ平静へいせい秩序ちつじょからの脱却だっきゃく意味いみしている。ジェリコーの作品さくひんは、最初さいしょ展示てんじからすぐにひろ関心かんしんび、そのはロンドンでも公開こうかいされた。ジェリコーが32さいはや逝すると、すぐにブル美術館ぶるびじゅつかんられた。影響えいきょうは、ウジェーヌ・ドラクロワジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーギュスターヴ・クールベエドゥアール・マネられる。

画面がめん中央ちゅうおうが『メデューズごういかだ』。かなりおおきな作品さくひんである。

背景はいけい

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救助きゅうじょの『メデューズごういかだ』の設計せっけい[4]

1816ねん6がつ、フランスのフリゲふりげト艦とかんメデューズごうは、ロシュフォール出港しゅっこうセネガルサンルイかった。メデューズごうは、の3せき、すなわち供給きょうきゅう物資ぶっし輸送ゆそうせんのロワールごうブリッグのアルギュスごうコルベットのエコーごうによる船団せんだん先頭せんとうにいた。ユーグ・デュロワ・ド・ショマレー子爵ししゃくは20ねん以上いじょう出航しゅっこうからとおざかっていたにもかかわらず、メデューズごう艦長かんちょう任命にんめいされていた[5][6]。メデューズごう使命しめいは、パリ条約じょうやくしたが英国えいこくからセネガル返還へんかんけるためである。乗客じょうきゃくには、セネガル知事ちじ任命にんめいされたフランス大佐おおさジュリアン=デジレ・シュマルツとそのつまレーヌ・シュマルツもいた。

メデューズごうはよくすすみ、ふねした。しかしそのスピードのため、100マイル (161 km)も針路しんろがずれていた。メデューズごうは7がつ2にち西にしアフリカ海岸かいがん砂洲さす今日きょうモーリタニア付近ふきん座礁ざしょうした。衝突しょうとつ原因げんいんは、一般いっぱんにド・ショマレーの能力のうりょく不足ふそくによるとされる。かれ能力のうりょく経験けいけん不足ふそくした外地がいち帰還きかんしゃで、政治せいじてき昇進しょうしん結果けっかとして船長せんちょう任務にんむいていた[7][8][9]

ふね離礁りしょう失敗しっぱいし、7がつ5にち、おびえた乗客じょうきゃく乗組のりくみいん護衛ごえいかんのボート6そうで、アフリカの海岸かいがんけて60マイル (97 km)の距離きょり移動いどうしようとこころみた。メデューズごうには160にん乗組のりくみいんふくめ、総勢そうぜい400にんんでいたにもかかわらず、ボートには250にんしかれなかった。のこりの人々ひとびとすくなくとも146にん男性だんせい女性じょせい1にんが、満員まんいん一部いちぶ水中すいちゅうぼっしているきゅうごしらえのいかだに、かさなるようにんだ。乗組のりくみいんうち17にんは、座礁ざしょうしたままのメデューズごうのこみちえらんだ。船長せんちょう乗組のりくみいんは、ボートにんでいかだ牽引けんいんするつもりだった。しかしわずかすうマイル移動いどうしただけで、いかだはボートからはなれた[10]いかだんだ人々ひとびとのこされた食料しょくりょうは、かんパン1ふくろ(1にちくした)、みず2たる水中すいちゅうちた)、ワインすうたるのみだった。

批評ひひょうのジョナサン・マイルズによれば、いかだは「生存せいぞんしゃ極限きょくげん体験たいけんへとめる。狂気きょうき乾燥かんそう飢餓きが人々ひとびと反逆はんぎゃくしゃ虐殺ぎゃくさつし、んだものべ、弱者じゃくしゃ殺害さつがいする」という[4][11]。13にちの7がつ17にちいかだ偶然ぐうぜんアルギュスごう救出きゅうしゅつされた。フランスはいかだ捜索そうさく活動かつどうを、とりたてておこなわなかったのである[12]。このときまでのこっていたのは、15にん男性だんせいだけであった。ころされたり、同僚どうりょううみほうまれたり、餓死がししたり、絶望ぜつぼうのあまりうみげたりしたのだった。事件じけんは、ナポレオン1815ねん失脚しっきゃく以降いこう、ようやくちからもどしたばかりのフランス復古ふっこ王政おうせいにとって、非常ひじょうおおきな困惑こんわくたねとなった[13][ちゅう 1]

構図こうず

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カンバスの左隅ひだりすみえがかれた2人ふたり死者ししゃのディテール

『メデューズごういかだ』がえがしたのは、いかだで13日間にちかん漂流ひょうりゅうしたのちのこった15にん生存せいぞんしゃが、とおくから接近せっきんしてくるふね発見はっけんした瞬間しゅんかんである。英国えいこく初期しょき評論ひょうろんによれば、作品さくひんは「いかだ残骸ざんがいにはすべての要素ようそそろっているとえる」[14]。491 × 716 cm (193.3 × 282.3 in)という壮大そうだいなスケールの作品さくひんで、えがかれた人物じんぶつのほとんどは実物じつぶつだいえがかれている[15]前景ぜんけい人物じんぶつぞうは、実物じつぶつのほぼ2ばいおおきさで、水平面すいへいめんちかく、鑑賞かんしょうしゃうえむらがるようにえがかれている。その結果けっか鑑賞かんしょうしゃ実際じっさい場面ばめんまれたような印象いんしょうける[16]

きゅうごしらえのいかだはげしいなみうえで、かろうじて航海こうかいえている様子ようすであり、人々ひとびときずついて完全かんぜん絶望ぜつぼうしている。一人ひとり老人ろうじんが、ひざに息子むすこ遺体いたいかかえている。べつおとこは、落胆らくたん挫折ざせつかんかみをかきむしっている。遺体いたいがいくつか、前景ぜんけいらばっており、なみにさらわれそうになっている。中央ちゅうおう男性だんせいが、ちょうど救援きゅうえんふね発見はっけんしたところである。一人ひとりがもう一人ひとりふねしし、アフリカじん乗員じょういんジャン・シャルル[17]だるうえち、ふね注意ちゅういこうと物狂ものぐるいでハンカチーフをっている[18]

2つのピラミッドがたから構成こうせい救助きゅうじょせん位置いち黄色きいろてんしめされている。

構図こうずは、2つのピラミッドがた構成こうせいからる。カンバス左上ひだりうえおおきなマストとその周辺しゅうへんが、1つのピラミッドがた構成こうせいする。2つのピラミッドでは、んだひとにかけたひとからだが、前景ぜんけい水平すいへい方向ほうこう底辺ていへんつくっている。そのうえ生存せいぞんしゃたちがピラミッドがたやま形作かたちづくるとともに、心理しんりじょうたかまりをもえがし、その頂点ちょうてん中心ちゅうしん人物じんぶつ救援きゅうえんせんかって必死ひっしっている[19]

鑑賞かんしょうしゃ注意ちゅうい最初さいしょカンバスの中央ちゅうおう喚起かんきされ、いで生存せいぞんしゃたちからだ形作かたちづくながれに沿って、後方こうほうからみぎへと移動いどうする[15]芸術げいじゅつ歴史れきしのジャスティン・ウィントルによれば、「ななめにはしる1つのリズムが、左下ひだりした死体したいから頂点ちょうてん生存せいぞんしゃへと我々われわれみちびいている」[20]の2つの斜線しゃせんは、劇的げきてき場面ばめん緊張きんちょうかんたかめる効果こうかがある。1つはマストとその装具そうぐつづき、いかだまんばかりにせまなみへと、鑑賞かんしょうしゃ視線しせんみちびく。もう1つは、ばした人々ひとびと姿すがたかたちづくられており、鑑賞かんしょうしゃとおくにえるアルゴスごうのシルエットへとみちびく。最後さいごにはこのアルゴスごうが、生存せいぞんしゃ救出きゅうしゅつすることになるのである[3]

ジェリコーのパレットは、生気せいきのないはだいろ生存せいぞんしゃ衣服いふくくら色彩しきさいうみくもから[21]全体ぜんたいてきくらく、おもちゃけいの、明度めいどひく顔料がんりょうおお使つかわれている。ジェリコーは悲劇ひげきいたみを暗示あんじするのに、このパレットが効果こうかてきだとおもっていた[22]。この作品さくひんにおけるひかりは「カラヴァッジオふう」だとひょうされた[23]。イタリアの芸術げいじゅつカラヴァッジオはテネブリズム密接みっせつ関連かんれんし、ひかりやみとのあいだ極端きょくたんなコントラストを使用しようすることからである。

ジェリコーのうみ表現ひょうげんはカラヴァッジオよりややひかで、ふかあおというよりくら緑色みどりいろ仕上しあげられ、いかだ人物じんぶつぞうのトーンと対照たいしょうてき表現ひょうげんされている[24]救助きゅうじょせんえがかれた遠景えんけいから、あかるいひかりみ、周囲しゅういにぶ茶色ちゃいろ場面ばめん対照たいしょうてき仕上しあげられている[24]

制作せいさく

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調査ちょうさ習作しゅうさく

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ジェリコーによる『メデューズごういかだ習作しゅうさく。ペン、茶色ちゃいろいインク。17.6 cm × 24.5 cm 。フランスリールのミュゼ・デ・ボザール

1816ねん難破なんぱ事件じけん報告ほうこくしょ一般いっぱん公開こうかいされるとジェリコーはこれに熱中ねっちゅうし、この事件じけんえがくことで、画家がかとしての評価ひょうか確立かくりつする機会きかいにしようとおもいついた[25]制作せいさくめると、かれかるまえ幅広はばひろ調査ちょうさ開始かいしした。1818ねんはじめ、ジェリコーは生存せいぞんしゃのアンリ・サヴィニーとアレクサンドル・コルレアールにった。2人ふたり自分じぶんたちの体験たいけんおもいをめてかたり、最終さいしゅうてきのトーンを決定けっていづけた[14]芸術げいじゅつ歴史れきしのジョルジュ・アントワーヌ・ボリアによると、「ジェリコーはボージョン病院びょういんかいにアトリエを確保かくほした。そしてここで、陰鬱いんうつ制作せいさく没入ぼつにゅうしはじめた。。 かぎをかけたドアのうしろで、ジェリコーは制作せいさく没頭ぼっとうした。なにぶつかれしとどめることはできなかった。かれこわがられたりけられたりした[26]」のだという。

はじめごろのたびで、ジェリコーは狂気きょうき疫病えきびょう危機ききにさらされた。また歴史れきしてきにも正確せいかくかつ現実げんじつてきであろうとするあまり、メデューズごうについて調しらべるあいだ死体したい死後しご硬直こうちょく様子ようすりつかれたようになった[8]死者ししゃはだいろをできうるかぎ本物ほんもの忠実ちゅうじつにとらえるため、ボージョン病院びょういんモルグおもむいて死体したいをスケッチし[25]瀕死ひんし入院にゅういん患者かんじゃかお観察かんさつ[27]切断せつだんされた手足てあし自分じぶんのアトリエにんで腐敗ふはい様子ようす観察かんさつ[28][ちゅう 2]精神せいしん病院びょういんからけた生首なまくびを2週間しゅうかんかけてデッサンし、アトリエの天井てんじょううら保管ほかんした[27]

『メデューズごういかだにおけるカニバリズム』、ブル美術館ぶるびじゅつかんぞうかみクレヨンインクウォッシュ、グワッシュ。28 cm × 38 cm 。この習作しゅうさく完成かんせい作品さくひんよりも画面がめんくらく、人々ひとびと位置いちも、のちのものとはかなりことなる。

コルレアール、サヴィニー、さらにもう1人ひとり生存せいぞんしゃ大工だいくのラヴィレットとともに、詳細しょうさい正確せいかくいかだのスケールモデルをつくり、あついた隙間すきままで再現さいげんした。そして、それをもとに完成かんせい作品さくひんんだのである[27]。ジェリコーはモデルのポーズをめ、閲覧えつらん請求せいきゅう用紙ようしそろえ、関連かんれんのあるほか画家がか作品さくひん模写もしゃし、ル・アーヴルかけてそらうみをスケッチした[27]ねつがあるにもかかわらず、なん海岸かいがんかけて岸壁がんぺきにぶつかるあらし観察かんさつした。英国えいこく画家がかたずねるためにイギリス海峡かいきょうわたったさいにも、悪天候あくてんこう観察かんさつする機会きかいとした[29][30]

ジェリコーはすうおおくの予備よびスケッチをえがき、事件じけんのどの瞬間しゅんかんをとらえて完成かんせい作品さくひんとするかなん試行しこう錯誤さくごした[31]創案そうあん困難こんなん時間じかんかり、ドラマの本質ほんしつもっと効果こうかてきらえる瞬間しゅんかんえらびぬくために、ジェリコーは非常ひじょう苦心くしんした。

かれ採用さいよう検討けんとうした場面ばめんには、漂流ひょうりゅう2にちきた将校しょうこうたいする反乱はんらん、そのわずか数日すうじつきたカニバリズム、そして救出きゅうしゅつ瞬間しゅんかんがあった[32]救助きゅうじょせんアルゴスごうちかづいてくる姿すがたを、水平すいへいせんつけた瞬間しゅんかんについて生存せいぞんしゃ1人ひとりかたったとき、ジェリコーは即座そくざ最終さいしゅう決定けっていくだした。完成かんせい作品さくひんでは、アルゴスごうみぎ上部じょうぶえている。生存せいぞんしゃたちはふね合図あいずおくろうとした。しかしアルゴスごうは、とおぎてしまったのである。生存せいぞんしゃ乗組のりくみいん言葉ことばによれば、「熱狂ねっきょうてき歓喜かんきから、ふか落胆らくたん悲嘆ひたんそこにたたきとされた」のである[32]

事件じけん詳細しょうさい熟知じゅくちしているものには、この場面ばめんは、すべてののぞみがうしなわれたかにおもわれた瞬間しゅんかんったもので、乗組のりくみいんたち自棄じき状態じょうたいになったようあますところなくとらえたものだと理解りかいされた[32]。アルゴスごうは、2あいだふたたあらわれて、生存せいぞんしゃすくいだしたのである[33]死体したいかずふくめ、実際じっさい救出きゅうしゅつ段階だんかいにおける記録きろくよりもおおく、には人物じんぶつぞうえがかれていると、作家さっかのルパート・クリステンセンは指摘してきする。報告ほうこくしょでは、がさんさんとなみおだやかなあさだったとされるが、ジェリコーは、次第しだいはげしくなるあらしくらくうねるなみえがいて、陰鬱いんうつ気分きぶん強調きょうちょうした[27]

作品さくひん完成かんせい

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ジェリコーは、義理ぎり伯母おばたる女性じょせいとのつらい情事じょうじられ、あたまられて、1818ねん11月から1819ねん7がつまでパリ8のフォーブル・ド・ルール地区ちくにあるアトリエで、規律きりつただしい修道院しゅうどういんのような生活せいかつおくっていた。食事しょくじ管理人かんりにんはこび、夕方ゆうがた時折ときおりそとるだけであった[27]。18さいのアシスタント、ルイ=アレクシス・ジャマールとジェリコーは、アトリエに隣接りんせつしたちいさな部屋へや宿泊しゅくはくした。時折ときおり2人ふたり口論こうろんし、あるときジャマールがていった。2にち、ジェリコーはもどってくるようジャマールを説得せっとくした。かれのアトリエは整然せいぜんとしており、几帳面きちょうめんよそおったジェリコーは沈黙ちんもくうち制作せいさくみ、ネズミのてるおとにさえ集中しゅうちゅうりょく中断ちゅうだんされるほどだった[27]

1818 – 1819ねん習作しゅうさく油彩ゆさい。38 cm × 46 cm 、ブル美術館ぶるびじゅつかんぞう。この予備よびスケッチでは、完成かんせい作品さくひんとほぼおな位置いち人物じんぶつえがかれている。

ジェリコーは友人ゆうじんをモデルにした。とく画家がかウジェーヌ・ドラクロワ(1798 – 1863ねん)は、前景ぜんけいかおをうつぶせにし、片手かたてをいっぱいにばした人物じんぶつのモデルになった。マストのしたにシルエットで、2人ふたり生存せいぞんしゃえがかれている[31]。3にん人物じんぶつぞうは、本物ほんもの、つまりコレアール、サヴィニー、ラヴィレットをモデルにえがかれた。ジャマールははだかでポーズをとり、前景ぜんけいうみまれそうになっている青年せいねん死体したいのモデルになった。かれほかにも2にん人物じんぶつぞうのモデルをつとめた[27]

ヒューバート・ウェリントンによれば、ドラクロワはつぎのようにのこしている。「ジェリコーは『メデューズごういかだ制作せいさく現場げんばせてくれた。わたしつよ印象いんしょうけて、アトリエをると狂人きょうじんのようにはしりだし、自分じぶん部屋へやにたどりくまでまることができなかった[34][35]」。 ドラクロワはジェリコーの死後しご、フランスロマン主義しゅぎ旗手きしゅとなる。

ジェリコーは制作せいさくさいちいさな絵筆えふでビスコースあぶらとを使用しようしていたので、やりなおしにも手間てまがかからず、翌朝よくあさまでにはかわいた。かれのパレットは、バーミリオン、しろ、ネープルスイエロー、イエローオーク2しゅ、レッドオーク2しゅ、ローシエナ、ライトレッド、バーントシエナ、クリムゾンレイク、プルシアンブルー、ピーチブラック、アイボリーブラック、カッセルアース、ビチューメンでいろどられ、いろ別々べつべつ保管ほかんされていた[27]。ビチューメンは、いちりではベルベットのような光沢こうたくすが、時間じかんともに、くろ糖蜜とうみつしょく変色へんしょくし、ちぢんで表面ひょうめんしわり、もともどらない。その結果けっか今日きょうでは、作品さくひんのかなりの範囲はんい詳細しょうさい判別はんべつできなくなっている[16]

ジェリコーはカンバスに、構成こうせい概略がいりゃくをスケッチした。それからモデルに1つずつポーズをとらせて、1つの人物じんぶつぞう完成かんせいさせてから、つぎ人物じんぶつぞうりかかった。このやりかたは、群像ぐんぞうえが場合ばあい通常つうじょう方法ほうほうとは対照たいしょうてきである。個々ここ要素ようそ集中しゅうちゅうしてむこの方法ほうほうにより、作品さくひんには「衝撃しょうげきてき肉感にっかん[20]」と同時どうじに、一部いちぶ批評ひひょうには副作用ふくさようだとされる、芝居しばいがかった不自然ふしぜんさとの両方りょうほうあらわれた。作品さくひん完成かんせいから30ねん以上いじょうっても、友人ゆうじんモンフォールは当時とうじわすれられなかったという。

ジェリコーの極度きょくど勤勉きんべんさにもおどろいたが、そのやりかたにもおどろかされた。かれしろいカンバスに直接ちょくせつえがき、ラフスケッチも、どんな種類しゅるい準備じゅんびもせず、しっかりとした輪郭りんかくせんのみをえがいた。にもかかわらず、作品さくひん破綻はたんはまったくなかった。ブラシでカンバスにれるまえに、かれがモデルにはらったするど観察かんさつりょくにもこころたれた。かれはゆったりとすすめていくようにえて、その非常ひじょうはやさでみ、次々つぎつぎすすめていった。もどってやりなおすことはめったになかった。かれからだうでは、ごくわずかしかうごかず、その表情ひょうじょうはとてもおだやかだった…[27][36]

ほとんどらせることもなく、ジェリコーは作品さくひんを8カ月かげつ完成かんせいさせた[30]計画けいかく段階だんかいからかぞえても、18ヶ月かげつかかっただけだった[27]

影響えいきょう

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『メデューズごういかだ』は、たとえばミケランジェロ(1475–1564)の『最後さいご審判しんぱん』といった巨匠きょしょう名作めいさくからのけたおおくの影響えいきょうと、ジャック=ルイ・ダヴィッド(1748–1825)のスケールのおおきさ、アントワーヌ=ジャン・グロ(1771–1835)の現代げんだい事件じけんへのアプローチとを融和ゆうわさせたものであるといえる。18世紀せいきまでに難破なんぱは、ふねによるたび一般いっぱんてきになるにつれてえ、うみかんするのテーマの1つとしてみとめられた。クロード・ジョセフ・ヴェルネ(1714–1789)は、そういったおおえが[37]直接ちょくせつ観察かんさつとおして自然しぜん色合いろあいを確立かくりつしたてんで、どう時代じだいほか画家がかとはことなっていた。かれは、あらし観察かんさつするために、ふねのマストにからだしばりつけたといわれている[38]

ミケランジェロさくシスティーナ礼拝れいはいどう最後さいご審判しんぱん一部いちぶ。ジェリコーは「ミケランジェロを背筋せすじふるえた。これらのうしなわれたたましい必然ひつぜんてきたがいを破壊はかいし、システィーナ礼拝れいはいどう悲劇ひげきてき壮麗そうれいさをみだしている[39]。」とった。

いかだうええがかれた人々ひとびとは13日間にちかん漂流ひょうりゅうして飢餓きが病気びょうきしょくじんくるしんだが、ジェリコーは英雄えいゆうえがさい伝統でんとう敬意けいいしめして、健康けんこうてきでたくましい姿すがた表現ひょうげんしている。芸術げいじゅつ歴史れきしのリチャード・ミューサーによれば、作品さくひんにはまだ古典こてん主義しゅぎつよ影響えいきょうのこっているという。人物じんぶつぞうおおくがほとんど裸体らたいであることについて、ミューサーは、「絵画かいがてきでない」服装ふくそうけたいという願望がんぼう起因きいんするのだろうといている。ミューサーは「人物じんぶつぞうにはまだアカデミックな雰囲気ふんいきのこり、窮乏きゅうぼう病気びょうきとのたたかいでひどくいためつけられたようにはえない」とべている[24]

ジャック=ルイ・ダヴィッド影響えいきょうが、おおきさ、人物じんぶつぞうられる彫刻ちょうこくてき簡潔かんけつさ、またとく重要じゅうような「効果こうかてき瞬間しゅんかん」、つまりせん接近せっきん気付きづいた瞬間しゅんかん描写びょうしゃされた上品じょうひん物腰ものごしからもかんじられる[23]。1793ねん、ダヴィッドも、重要じゅうよう時事じじ問題もんだいマラーの』をえがいている。フランス革命かくめい時下じかかれ絵画かいが政治せいじてき影響えいきょうりょくおおきかった。時事じじ問題もんだいえがいた先例せんれいというてんで、ジェリコーの決意けついにもおおきく影響えいきょうした。ダヴィッドの弟子でし、アントワーヌ=ジャン・グロは、ダヴィッド同様どうよう、「失敗しっぱいかえした運動うんどうすくいがたく関連かんれんしたの、偉大いだい画家がか」の代表だいひょうといえる[40]。しかし有名ゆうめい作品さくひんのいくつかでかれは、ナポレオンも、無名むめい死体したい瀕死ひんし人物じんぶつぞうも、同等どうとう重要じゅうようせいたせてえがいた[32][ちゅう 3]。ジェリコーは、1804ねんのグロの絵画かいが『ヤッファのペスト患者かんじゃ見舞みまうナポレオン』からつよ印象いんしょうけている[8]

1808ねんプリュードンさく、『「正義まさよし」と「復讐ふくしゅう」にわれる「つみ」』。244 cm × 294 cm 。ロサンゼルスJ・ポール・ゲティ美術館びじゅつかん暗闇くらやみと、手足てあしばしたはだか人物じんぶつぞうがジェリコーの影響えいきょうしているとおもわれる[41]

わかいころのジェリコーは、ピエール=ポール・プリュードン(1758–1823ねん)の、傑作けっさく『「正義まさよし」と「復讐ふくしゅう」にわれる「つみ」』をふくめた「途方とほうもない悲劇ひげき」を模写もしゃしている。息詰いきづまるような暗闇くらやみや、手足てあしばしたはだか死体したい構成こうせい基礎きそなどが、あきらかにジェリコーの影響えいきょうあたえている[41]

前景ぜんけいの、年老としおいた男性だんせいぞうには、ダンテの『かみきょく』に登場とうじょうするウゴリーノ参照さんしょうしている可能かのうせいがある。ジェリコーは『かみきょく』を画材がざいの1つとしてかんがえていたのである。そしてこの人物じんぶつぞうは、フュースリー(1741–1825)がえがいたウゴリーノのからとったものにもえる。ジェリコーはこの印刷いんさつっていた可能かのうせいがある。ダンテのウゴリーノは、カニバリズムつみおかしており、これはメデューズごういかだきたなかもっと衝撃しょうげきてき局面きょくめんでもあった。ジェリコーは、フュースリーの作品さくひんれることで、このてん表現ひょうげんしようとしたのかもしれない[42]

『メデューズごういかだ』の初期しょき習作しゅうさくに、水彩すいさいえがかれたものがある。現在げんざいブル美術館ぶるびじゅつかん所蔵しょぞうされているものだが、これにはもっと直接的ちょくせつてきあたまのない死体したいうでをかじる人物じんぶつえがかれている[43]

事件じけん2ねん以内いないえがかれた、ジョン・シングルトン・コプリー(1738–1815)の『ピアソン少佐しょうさ』など、英国えいこくとアメリカの絵画かいがのいくつかが、現代げんだい事件じけんあつか先例せんれい確立かくりつした。コプリーは海難かいなん題材だいざいに、おおきくて英雄えいゆうてきをいくつかえがいており、ジェリコーがそれを印刷いんさつっていた可能かのうせいがある。1778ねんの『ワトソンとさめ』には中央ちゅうおう黒人こくじんえがかれており、『メデューズごういかだ同様どうよううみ風景ふうけいよりむしろ人間にんげんドラマの中心ちゅうしん人物じんぶつとしてえがかれている。1791ねんの『ジブラルタルうわ砲台ほうだい敗北はいぼく、1782ねん9がつ』の場合ばあいは、ジェリコーの作品さくひん様式ようしき主題しゅだい両方りょうほう影響えいきょうみとめられる。そして1790年代ねんだいの『難破なんぱ』とは、さらによく構成こうせいである[32][44]。さらに政治せいじてき構成こうせいをもつ作品さくひん先例せんれいとしてとく重要じゅうようなのは、ゴヤ連作れんさく戦争せんそう惨禍さんか』(1810-1812)と、1814ねん傑作けっさく『マドリード、1808ねん5がつ3にち』である。ゴヤにはまた、海難かいなんをテーマにした『難破なんぱ』(制作せいさくねんしょう)とばれる作品さくひんもあるが、趣旨しゅしおなじであっても、構成こうせい様式ようしきに『メデューズごういかだ』に共通きょうつうするてんられない。ジェリコーが参照さんしょうしたとはかんがえにくい[44]

展示てんじ反応はんのう

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『メデューズごういかだ』が最初さいしょ展示てんじされたのは、1819ねんサロン・ド・パリであった。本当ほんとう主題しゅだいは、当時とうじ鑑賞かんしょうしゃにもあきらかだったが、作品さくひんめいは『難破なんぱ Scène de Naufrage 』とされた[27]。ジェリコーの『いかだ』は「すべてのち、きつける」(Le Journal de Paris)とひょうされ、1819ねんのサロンで注目ちゅうもくてきだった。批評ひひょう二分にぶんした。主題しゅだい恐怖きょうふ「terribilità」は魅惑みわくてきだが、古典こてん主義しゅぎれいさんは「かさねた死体したいやま」に嫌悪けんおしめし、そのリアリズムは「理想りそう」からは程遠ほどとおいとかんがえていた。かれらのかんがえる「よし」とは、『いかだ』と同年どうねんえがかれたジロデ・トリオゾンの『ピグマリオンとガラテイア』によって、具体ぐたいされるようなであった。ジェリコーの作品さくひんには、矛盾むじゅん表現ひょうげんされていた。すなわち、「不愉快ふゆかい主題しゅだいをいかにして力強ちからづよさにちた変換へんかんするのか?」「画家がかはいかにして芸術げいじゅつ現実げんじつとを融合ゆうごうさせるのか?」ということである。ジェリコーとどう時代じだいのフランスじん画家がかマリ=フィリップ・クーパン・ド・ラ・クーペリー批判ひはん痛烈つうれつだった。「ムッシュ・ジェリコーは失敗しっぱいしたようにおもう。絵画かいが到達とうたつてんは、たましいかたりかけることであって、撃退げきたいすることではない」。『いかだ』のは、フランスの作家さっかであり芸術げいじゅつ評論ひょうろんのオーギュスト・ジャルのような熱心ねっしんなファンをも獲得かくとくした。かれ政治せいじてきテーマ、自由じゆう主義しゅぎてき立場たちば(「ニグロ」の進歩しんぽちょうおうとう主義しゅぎ批評ひひょう)、現代げんだいせいれいさんした。フランスの歴史れきしジュール・ミシュレは「我々われわれ社会しゃかい全体ぜんたいが、メデューズごういかだっている・・・」と表現ひょうげんした[3]

ニコラ・セバスチャン・マイヨーさく『ルーブルのサロン・カレにかかげられた「メデューズごういかだ」』。1831ねんルーヴル美術館びじゅつかんぞうプッサンロランレンブラントカラヴァッジオ作品さくひんならんで、ジェリコーの『いかだ』が展示てんじされている[45]

展示てんじルイ18せい後援こうえんけ、1300てんちかくの絵画かいが、208てん彫刻ちょうこく、そのおおくの版画はんが建築けんちくデザインなどをあつかっていた。現代げんだい批評ひひょうフランク・アンダーソン・トラップは、作品さくひんりょうやイベントのおおきさに、展示てんじねらった野心やしんがうかがえるとする。トラップが注目ちゅうもくする事実じじつは、「そのなかには壮大そうだい歴史れきし絵画かいがが100てんふくまれており、政府せいふしみない後援こうえんけていた」が、ジェリコーのように裕福ゆうふく出品しゅっぴんしゃすうにんのぞいては、時間じかん、エネルギー、必要ひつよう経費けいひ都合つごうをつけることができたのは、メジャーな代理人だいりにん支持しじされた出品しゅっぴんしゃだけだった、というものである[8]

ジェリコーは政治せいじてきにも芸術げいじゅつてきにも、えて対決たいけつすることをめた。批評ひひょうかれ攻撃こうげきてきアプローチに、嫌悪けんおもしくは賞賛しょうさんこたえた。著述ちょじゅつ共感きょうかんられるかどうかは、おう党派とうは自由党じゆうとうかに左右さゆうされた。『メデューズごういかだ』はいかだわせた人々ひとびとたいしておおいに同情どうじょうてき作品さくひんであるとめられたが、それゆえ、生存せいぞんしゃであるサヴィニーとコルレアールのはん帝政ていせいてき政治せいじ意識いしき反映はんえいしているともなされた[14]頂点ちょうてん黒人こくじん配置はいちした構成こうせいは、ジェリコーの奴隷どれいせい廃止はいしろん表現ひょうげんであり、論争ろんそうまとになった。芸術げいじゅつ評論ひょうろんのクリスティン・ライディングは、つづいてロンドンで展示てんじしたのは、そこでのはん奴隷どれいせい運動うんどう同調どうちょうするつもりだったのではないかと推測すいそくしている[46]。『メデューズごういかだ』は、無能むのう艦長かんちょう未熟みじゅく水夫すいふだが、政治せいじてきにははんボナパルティストだという、政治せいじてき声明せいめいとなった。現代げんだい美術びじゅつ評論ひょうろんでありキュレーターであるカレン・ウィルキンによれば、「ジェリコーの冷笑れいしょうてき告発こくはつしたのは、フランスにおけるポスト・ナポレオン官僚かんりょうのぶざまな不正ふせい行為こういであり、その官僚かんりょうおおくを輩出はいしゅつした家柄いえがらは「アンシャン・レジーム」ののこりなのだ」ということである[21]

1820ねん、ジェリコーは首尾しゅびよくロンドン、ピカデリーエジプシャン・ホール展示てんじした。やく40,000にん訪問ほうもんきゃくおとずれ、サロンに出品しゅっぴんしたときよりもよい評価ひょうか[47][48]

『メデューズごういかだ』は、市民しみんひろく、つよ印象いんしょうのこしたが、その主題しゅだいおおくの人々ひとびと不快ふかいにした。ジェリコーがのぞんだような一般いっぱん民衆みんしゅうからの賞賛しょうさんられなかった[27]展覧てんらんかい終了しゅうりょうに、『メデューズごういかだ』は金賞きんしょう獲得かくとくした。しかし審査しんさいんだんは、作品さくひんルーヴル美術館びじゅつかん国家こっかコレクションにくわえただけで、それ以上いじょう名声めいせいあたえることはしなかった。わりにジェリコーはサクレ・クール委員いいん任命にんめいされたが、その完成かんせい作品さくひんにドラクロワ自身じしんのサインをさせ、かれかねはらってその任命にんめい秘密ひみつうちゆずってしまった[27]。ジェリコーは田舎いなか退しりぞき、そこで過労かろうたおれた。かれ作品さくひんにはがつかず、わくからはずしていた状態じょうたいで、友人ゆうじんのアトリエに保管ほかんされた[49]

ジェリコーは1820ねん、『メデューズごういかだ』をロンドンで展示てんじするよう手配てはいした。ロンドンでの展示てんじは、6がつ10日とおかからそのとしわりまで、ピカデリーにあるウィリアム・ブロックエジプシャン・ホールおこなわれ、やく40,000にん観賞かんしょうしゃおとずれた[48]。ロンドンにおける評価ひょうかは、パリのものよりもおおむね肯定こうていてきで、作品さくひんはフランス絵画かいがあたらしい方向ほうこうしめすものとしてめられた。これは1つには、展示てんじ方法ほうほうによるところもある。パリでのサロン・カレでは最初さいしょ作品さくひんたか位置いちるされていた。ジェリコーは作品さくひん展示てんじされた様子ようすて、その配置はいち失敗しっぱいだったとみとめている。しかしロンドンでは、作品さくひん地面じめんちかくに配置はいちされ、そのスケールの雄大ゆうだいさをつよ印象いんしょうけた。イギリスで作品さくひんれられた理由りゆうほかにもある。すなわち「わずかながらの愛国あいこくてき自己じこ満足まんぞく[50]」、不気味ぶきみなエンターテイメントとしての作品さくひん魅力みりょく[50]いかだうえきた事件じけんもとづいてつくられた2つの演劇えんげき展示てんじ同時どうじ進行しんこう上演じょうえんされ、ジェリコーの描写びょうしゃによるところがおおきかったこと[51] 、などである。 ロンドンでの展示てんじで、きゃく支払しはらった観覧かんらんりょうからたジェリコーのぶんは、やく20,000フランにもなった。これは、フランス政府せいふ作品さくひんりのさいかれ支払しはらったがくを、かなり上回うわまわるものであった[52]。ロンドン展示てんじの1821ねんはじめ、ブロックは作品さくひんダブリンんだが、そこでの展示てんじ成功せいこうには程遠ほどとおかった。そのおおきな理由りゆうとしては、回転かいてんパノラマの『メデューズごう難破なんぱ』の展示てんじと、競合きょうごうしてしまったことによる。回転かいてんパノラマ『メデューズごう海難かいなん』はマーシャル兄弟きょうだい会社かいしゃによる製作せいさくで、漂流ひょうりゅう生存せいぞんしゃ1人ひとり指導しどうのもと、彩色さいしきされたといわれる[53]

ピエール=デジレ・ギユメとエティエンヌ=アントワーヌ=ユージェーヌ・ロジャによるどうサイズ模写もしゃ。1859–60ねん。493 cm × 717 cm 。アミアンピカルディー美術館びじゅつかん[54]

『メデューズごういかだ』は、ルーヴル美術館びじゅつかんキュレーター、ルイ・ニコラ・フィリップ・オーギュスト・ド・フォルバン伯爵はくしゃくにより支持しじされ、ジェリコー死後しごの1824ねん相続そうぞくじんからって美術館びじゅつかんおさめた。作品さくひん現在げんざいも、ギャラリーにそびえたっている[13]。その展示てんじ説明せつめいぶんには、「この痛烈つうれつ物語ものがたりのただ一人ひとり英雄えいゆうは、人類じんるいである」とかれている[3]

1826ねんから1830ねんにかけての一時期いちじき、アメリカの画家がかジョージ・クック(1793–1849)が『メデューズごういかだ』をちいさいサイズ(130.5 x 196.2 cm )で模写もしゃしたものが、ボストンフィラデルフィアニューヨークワシントンD.C.で、難破なんぱをめぐる論争ろんそう人々ひとびと展示てんじされた。論評ろんぴょう支持しじされ、脚本きゃくほん演奏えんそう児童じどうしょにもれられた[55]。このぜん海軍かいぐん大将たいしょうユーライア・フィリップに購入こうにゅうされた。ユーライアは1862ねんにそのをニューヨーク歴史れきし学会がっかい遺贈いぞうしたが、そのさい目録もくろくのミスでジルベール・スチュワートさくとされたままだった。2006ねんに、デラウェア大学だいがく芸術げいじゅつ歴史れきし教授きょうじゅ、ニナ・アタナソグロウ・カールマイヤーのわせをきっかけに、訂正ていせいされた。大学だいがく管理かんり部門ぶもんが、作品さくひん修復しゅうふくおこなった[56]

ジェリコーのオリジナル作品さくひん状態じょうたい悪化あっかしたため、1859〜60ねん、ルーヴル美術館びじゅつかん2人ふたりのフランスじん画家がか、ピエール=デジレ・ギユメ、エティエンヌ=アントワーヌ=ユージェーヌ・ロジャに依頼いらいして、オリジナルとどうサイズの模写もしゃ作成さくせいし、貸出かしだし展示てんじようとした[54]

1939ねんあき戦争せんそう気配けはい察知さっちしたルーヴルは、『メデューズごういかだ』を疎開そかいさせるために荷造にづくりした。9月3にちよる舞台ぶたい道具どうぐのトラックがコメディ・フランセーズち、ヴェルサイユへと『メデューズごういかだ』をはこんだ。しばらくすると、『メデューズごういかだ』はシャンボールじょううつされ、そこでだい世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつするまで保管ほかんされた[57]

解釈かいしゃく遺産いさん

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1787ねんダヴィッドさく、『ソクラテスの』。 129.5 cm × 196.2 cm 。メトロポリタン美術館びじゅつかんぞう。ジェリコーは、ダヴィッドに代表だいひょうされるしん古典こてんから脱却だっきゃくしようとした。

不快ふかい真実しんじつ正面しょうめん見据みすえた『メデューズごういかだ』は、フランス絵画かいがにおけるロマン主義しゅぎ台頭たいとうしめし、当時とうじ主流しゅりゅうだったしん古典こてん主義しゅぎたいし「美的びてき革命かくめい土台どだいつくった」[58]。ジェリコーの構成こうせい人物じんぶつ描写びょうしゃ古典こてんてき手法しゅほうだったが、主題しゅだいちがいに芸術げいじゅつてき方向ほうこうおおきな変化へんかあらわれており、しん古典こてん主義しゅぎとロマン主義しゅぎとの過渡かとにあることがよくかる作品さくひんとなっている。ダヴィッドは1815ねんまでは、歴史れきし絵画かいが主導しゅどうする1人ひとりであり、しん古典こてん主義しゅぎ大家たいかでもあったが、そのブリュッセル亡命ぼうめいすることになった[59]。フランスでは、歴史れきし絵画かいがしん古典こてん様式ようしきも、グロアングルフランソワ・ジェラールジロデ、またジェリコーやドラクロワのゲランといった画家がか作品さくひんがれ、ダヴィッドやニコラ・プッサン芸術げいじゅつてき伝統でんとうまもつづけていた。

1807ねんグロさく、『アイラウ戦場せんじょうのナポレオン』部分ぶぶんルーヴル美術館びじゅつかんぞう。グロ同様どうよう、ジェリコーは暴力ぼうりょく気持きもちのたかまりをかんじ、人間にんげん尊大そんだいさにまわされていた[8]

ヒューバート・ウェリントンは『ドラクロアの日記にっき The Journal of Eugene Delacroix 』序論じょろんで、1819ねんサロン直前ちょくぜんのフランスかい様相ようそうたいする、ドラクロワの見解けんかいについていている。ウェリントンによれば、「古典こてん主義しゅぎ写実しゃじつ主義しゅぎてき見解けんかいとが奇妙きみょうはいじり、ダヴィッドの影響えいきょうしばられて、いま活気かっき関心かんしんうしなっていた。自身じしんわりがちかく、ベルギー亡命ぼうめいした。かれ生徒せいとうちもっと穏健おんけんなジロデは、洗練せんれんされた古典こてん様式ようしきで、見事みごと端正たんせい制作せいさくしていた。ジェラールは、皇帝こうてい庇護ひごけ、肖像しょうぞう画家がかとして非常ひじょう成功せいこうした。いくつかの作品さくひん賞賛しょうさんあたいする。かれは、歴史れきし絵画かいが大作たいさく流行りゅうこうしたさいには、不本意ふほんいながらそのながれに同調どうちょうした[34]。」という。

『メデューズごういかだ』には、伝統でんとうてき歴史れきし絵画かいが表現ひょうげんおおきさがある。しかし一般いっぱん人々ひとびとは、英雄えいゆうにではなく、展開てんかいする人間にんげんドラマに反応はんのうした[60]。ジェリコーの『いかだ』のには、特定とくてい英雄えいゆう登場とうじょうせず、のこった理由りゆう提示ていじされるわけでもない。作品さくひんは、クリスチャン・ライディングの言葉ことばりれば、「希望きぼうむなしさと無意味むいみくるしみ、そして最悪さいあくなことに、のころうとする人間にんげん本能ほんのうが、道徳どうとくてき大切たいせつ問題もんだいにとってかわり、文明ぶんめいじん野蛮やばん行為こうい没頭ぼっとうする[14]姿すがたしめした。

救助きゅうじょせんかってっている中心ちゅうしん人物じんぶつの、見事みごと筋肉きんにく組織そしきしん古典こてん主義しゅぎ様式ようしき連想れんそうさせるが、ひかりかげ自然しぜん雰囲気ふんいき生存せいぞんしゃたちがせた絶望ぜつぼう表情ひょうじょうのリアルさ、構図こうずあらわれた感情かんじょうてき特徴とくちょうは、しん古典こてん主義しゅぎのものとは明確めいかくことなっている。初期しょき作品さくひんの、宗教しゅうきょうてきあるいは古典こてんてきテーマからはなれて、現代げんだい出来事できごと主題しゅだいに、一般いっぱんてき英雄えいゆうてきでない人物じんぶつぞうあらわしているのである。主題しゅだい選択せんたくも、ドラマティックな瞬間しゅんかん手法しゅほうもロマン主義しゅぎ特有とくゆうのものであり、ジェリコーが、ありふれたしん古典こてん主義しゅぎ運動うんどうから方向ほうこう転換てんかんしつつあるという、はっきりした徴候ちょうこうだといえる[21]

ヒューバート・ウェリントンがいうには、ドラクロワは生涯しょうがいグロを崇拝すうはいした一方いっぽうで、青年せいねんはジェリコーに傾倒けいとうしていたという。コントラストのつよいトーン、型破かたやぶりな表現ひょうげんからまれるジェリコーのドラマティックな構成こうせいは、ドラクロワを刺激しげきし、自身じしん創造そうぞうてき衝動しょうどうしんじて大作たいさくへの創作そうさく意欲いよくてた。ドラクロワは、「ジェリコーは、まだ制作せいさく途中とちゅうの『メデューズごういかだ』をせてくれた[34]。その影響えいきょうは、ドラクロワの『:File:Delacroix barque of dante 1822 louvre 189cmx246cm 950px.jpg|ダンテの小舟こぶね』(1822ねん)や、『ドン・ジュアンの遭難そうなん』(1840ねん)といった、のちの作品さくひんのインスピレーションにもあらわれている[58]

1822ねん、ウジェーヌ・ドラクロワさく『ダンテの小舟こぶね』。ドラクロワの初期しょき作品さくひんや、その作品さくひんには、『メデューズごういかだ』の影響えいきょう色濃いろこくみられる[58]

ウェリントンによれば、1830ねんさくのドラクロワの傑作けっさく民衆みんしゅうみちび自由じゆう女神めがみ』には、ジェリコーの『メデューズごういかだ』とドラクロワ自身じしんの『キオスとう虐殺ぎゃくさつ』に直接ちょくせつつうじるてんがあるという。ウェリントンは「ジェリコーが事実じじつ詳細しょうさい関心かんしん遭難そうなん経験けいけんしゃをさらにさがしてモデルとしたのにたいし、全体ぜんたいてきにドラクロワは構成こうせいをよりはっきりとてて、人物じんぶつ群衆ぐんしゅう類型るいけいとしてとらえ、共和きょうわせい自由じゆう象徴しょうちょうする人物じんぶつぞうマリアンヌみちびかれる構図こうずにした。マリアンヌは、ドラクロワによる創造そうぞうなかでももっとすぐれたものとなった[61]。」といている。

芸術げいじゅつ歴史れきしのアルバート・エルセンは、ロダンによる彫刻ちょうこく傑作けっさく地獄じごくもん』の発想はっそうげんは、『メデューズごういかだ』とドラクロワの『キオスとう虐殺ぎゃくさつ』だとかんがえている。「ドラクロワの『キオスとう虐殺ぎゃくさつ』とジェリコーの『メデューズごういかだ』は、政治せいじてき悲劇ひげきにおけるつみのない無名むめい犠牲ぎせいしゃを、英雄えいゆうてき基準きじゅんでロダンにけた…もしロダンをミケランジェロの『最後さいご審判しんぱん』に対抗たいこうさせたなら、かれ自分じぶんまえにジェリコーの『メデューズごういかだ』をいて、みずからを鼓舞こぶしただろう[62]。」とかれいている。

1824ねんウジェーヌ・ドラクロワさく、『キオスとう虐殺ぎゃくさつ』。419 cm × 354 cm 、ルーヴル美術館びじゅつかんぞう。このはジェリコーの『メデューズごういかだ』を直接的ちょくせつてき源泉げんせんとしており、1824ねん、ジェリコーの翌年よくねんえがかれた[63]

ギュスターヴ・クールベ(1819–1877)ははんロマン主義しゅぎ画家がかひょうされるが、有名ゆうめいな『オルナンの埋葬まいそう』(1849–50)や『画家がかのアトリエ』(1855)は『メデューズごういかだ』によるところがおおきい。その影響えいきょうは、クールベ作品さくひんきょたいさだけでなく、一般いっぱん市民しみん現代げんだい政治せいじてき事件じけんえがいて、日常にちじょう生活せいかつなか人々ひとびと場所ばしょ出来事できごと実際じっさいうつろうとする思考しこうめんにもあらわれている[64]。2004ねんのクラーク芸術げいじゅつ研究所けんきゅうじょの「こんにちわ、ムッシュー・クールベ 〜モンペリエのファーブル美術館びじゅつかんのブリュイヤス・コレクションより」とだいされた展示てんじで、19世紀せいき写実しゃじつ主義しゅぎ画家がかクールベ、ドーミエ(1808–1879)、初期しょきマネ(1832–1883)と、ジェリコーやドラクロワなどロマン画家がかとの比較ひかくこころみられた。ロマン主義しゅぎ影響えいきょうられる作品さくひんには『メデューズごういかだ』をいにし、この展覧てんらんかいではすべての芸術げいじゅつ作品さくひんちがいを展示てんじした[65]批評ひひょうのマイケル・フライドは、マネの『キリストのはかにいる天使てんし』の構成こうせいは、息子むすこいだきかかえた人物じんぶつぞうからヒントをたものだとかんがえている[66]

『メデューズごういかだ』は、フランス以外いがいくに画家がかにも影響えいきょうおよぼしている。アイルランドまれの英国えいこく画家がかフランシス・ダンビーが1824ねんえがいた『あらしのちうみしず夕日ゆうひ』は、おそらくジェリコーの触発しょくはつされたものであり、1829ねんには『メデューズごういかだ』は「これまでなかで、もっとすぐれて偉大いだい歴史れきし絵画かいがである」とのこしている[67]

1833〜35ねんターナーさく、『海難かいなん』(『アムピトリーテーごう難破なんぱ』とも)。171.5 cm × 220.5 cm 。テート・ギャラリーぞう。おそらくターナーは、1820ねんのロンドン展示てんじさい、ジェリコーの『メデューズごういかだ』をたのだろう。

おおくの英国えいこく画家がか同様どうようターナー(1775–1851)は、おそらく1820ねんのロンドンでの展示てんじでジェリコーのて、海難かいなんというテーマにはじめた[68][69]。ターナーは、同様どうよう事件じけん年代ねんだいじゅん記録きろくしたが、『海難かいなん』(1835ねん)では英国えいこくだい災害さいがいを、前景ぜんけい浸水しんすいせんにゆく人々ひとびと配置はいちしてえがいた。ターナーも、ドラマの中心ちゅうしん白人はくじん人物じんぶつぞう配置はいちし、『奴隷どれいせん』(1840ねん)で同様どうよう奴隷どれい制度せいど廃止はいし運動うんどう暗示あんじした[68]

1899ねんウィンスロー・ホーマーさく、『湾流わんりゅう』。71.5 cm × 124.8 cm 。メトロポリタン美術館びじゅつかんぞう

湾流わんりゅう』(1899ねん)は、アメリカじん画家がかウィンスロー・ホーマー(1836–1910ねん)の作品さくひんで、『メデューズごういかだ』の構成こうせい類似るいじしており、こわれかけたふね不気味ぶきみれるさめせま竜巻たつまきえがかれている。ホーマーは、ジェリコーとおなじく場面ばめん中心ちゅうしん黒人こくじん男性だんせい配置はいちしたが、ここではふねっているのはかれひとりである。とおくにえるふねは、ジェリコーののアルゴスごう反映はんえいであろう[70]。ロマン主義しゅぎから写実しゃじつ主義しゅぎへの移行いこうが、ホーマーの人物じんぶつぞう禁欲きんよくてき忍従にんじゅうする姿すがたかられる[71]初期しょき作品さくひんでは、人物じんぶつ希望きぼう絶望ぜつぼう表現ひょうげんしていたかもしれないが、この作品さくひんでは「おこってだまむ」姿すがたわっている[70]

90年代ねんだいはじめには、彫刻ちょうこくのジョン・コネルが画家がかのユージン・ニューマンと共同きょうどうんだ『いかだプロジェクト』で、『メデューズごういかだ』を再現さいげんした。おおきないかだに、かみ、タールを配置はいちして、実物じつぶつだい彫刻ちょうこくつくげた[72]

前景ぜんけい瀕死ひんし人物じんぶつぞうと、中央ちゅうおうちかづいてくる救援きゅうえんせんかって人物じんぶつぞうとの対比たいひについて、フランス芸術げいじゅつ歴史れきしのジョルジュ=アントワーヌ・ボライアスは、ジェリコーの表現ひょうげんしているのは「片方かたがたには、孤独こどく。もう片方かたがたには希望きぼう人生じんせい。」[73]

ケネス・クラークは、『メデューズごういかだ』は「裸体らたいとおして表現ひょうげんされるロマン主義しゅぎパトス代表だいひょうてきれいでありつづける。強迫きょうはく観念かんねんのため、ジェリコーはいくつもの死体したい安置あんちしょ公開こうかい処刑しょけいしょかよめ、その結果けっか瀕死ひんし人物じんぶつ死者ししゃ描写びょうしゃ真実味しんじつみまれた。 かれらはおおまかには古典こてん分類ぶんるいされるかもしれないが、きびしい経験けいけんへの渇望かつぼうともふたた見直みなおされている[74]

今日きょう、パリのペール・ラシェーズ墓地ぼちにあるジェリコーのはかには、アントワーヌ・エテクスさくの『メデューズごういかだ』のブロンズせいレリーフかざられている[75]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ のボートはばらばらになり、ほとんどはセネガルのセント・ルイスとうながいた。いくそうかは上陸じょうりく海岸かいがん沿ってすすんだが、ねつ飢餓きがによっていくつかのグループをうしなった。42にち英国えいこく救助きゅうじょされたとき、メデューズごうのこ選択せんたくをした17にんうち、まだのこっていたのはわずか3にんであった。
  2. ^ 解剖かいぼうがくのためのからだ一部いちぶ, この異常いじょう静物せいぶつは、ジェリコーが1818〜1819ねんえがいたもの。切断せつだんされた四肢ししやま
  3. ^ とくに『アイラウのたたかいのナポレオン』(1807ねん)と『ヤッファのペスト患者かんじゃたちを見舞みまうナポレオン』(1804ねん)を参照さんしょうのこと。

出典しゅってん

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外部がいぶリンク

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