『メデューズ号 ごう の筏 いかだ 』 フランス語 ふらんすご : Le Radeau de la Méduse 作者 さくしゃ テオドール・ジェリコー 製作 せいさく 年 ねん 1818年 ねん -1819年 ねん 種類 しゅるい キャンバスに油彩 ゆさい 寸法 すんぽう 491 cm × 716 cm (193 in × 282 in) 所蔵 しょぞう ル る ーブル美術館 ぶるびじゅつかん 、パリ
『メデューズ号 ごう の筏 いかだ 』(メデューズごうのいかだ、フランス語 ふらんすご : Le Radeau de la Méduse )は1818年 ねん 〜1819年 ねん 、フランスロマン主義 しゅぎ 派 は の画家 がか ・版画 はんが 家 いえ テオドール・ジェリコー による油彩 ゆさい 画 が で、フランス パリ のル る ーブル美術館 ぶるびじゅつかん に所蔵 しょぞう されている。ジェリコーが27歳 さい の時 とき の作品 さくひん であり、フランス・ロマン主義 しゅぎ の象徴 しょうちょう となった。本 ほん 作 さく は、大 おお きさ 491 cm × 716 cm [ 1] 、実物 じつぶつ 大 だい の絵画 かいが で、フランス海軍 かいぐん のフリゲ ふりげ ート艦 とかん メデューズ号 ごう が難破 なんぱ した際 さい に起 お きた事件 じけん を表 あらわ している。
メデューズ号 ごう は、1816年 ねん 7月 がつ 5日 にち 、今日 きょう のモーリタニア 沖 おき で座礁 ざしょう した。少 すく なくとも147人 にん の人々 ひとびと が、急 きゅう ごしらえの筏 いかだ で漂流 ひょうりゅう しなければならなかった。そのほとんどが救出 きゅうしゅつ までの13日間 にちかん で死亡 しぼう し、生 い き残 のこ った15人 にん も、飢餓 きが 、脱水 だっすい 、食 しょく 人 じん 、狂気 きょうき にさらされることになった[ 2] 。事件 じけん は国際 こくさい 的 てき スキャンダルとなり、フランス復古 ふっこ 王政 おうせい の当局 とうきょく 指揮 しき 下 か にあったフランス軍 ぐん 指揮 しき 官 かん の、無能 むのう が遠因 えんいん になったとされた。
ジェリコーは、依頼 いらい を受 う けてからこの絵 え を描 えが いたのではない。最近 さいきん 起 お きたばかりの有名 ゆうめい な悲劇 ひげき 的 てき 事件 じけん を、意識 いしき 的 てき に主題 しゅだい に選 えら んだことで、この絵 え は世間 せけん の関心 かんしん を大 おお いに呼 よ び、ジェリコーの名 な も世 よ に知 し られるようになった[ 3] 。
若 わか い芸術 げいじゅつ 家 か は事件 じけん に惹 ひ きつけられ、ジェリコーは事前 じぜん に様々 さまざま な事柄 ことがら を調 しら べてスケッチを繰 く り返 かえ し、いくつも習作 しゅうさく を作製 さくせい してから本 ほん 作 さく に取 と り組 く んだ。彼 かれ は生存 せいぞん 者 しゃ の2名 めい に取材 しゅざい し、筏 いかだ の精密 せいみつ な縮尺 しゅくしゃく 模型 もけい を作 つく った。死体 したい 置 お き場 ば や病院 びょういん に赴 おもむ き、死 し んだ人 ひと や死 し にかけた人 ひと の肌 はだ の色 いろ や質感 しつかん をじかに観察 かんさつ した。ジェリコーが予測 よそく したように、『メデューズ号 ごう の筏 いかだ 』は1819年 ねん のサロン・ド・パリ で激 はげ しい論争 ろんそう の的 まと となり、熱 ねつ のこもった賞賛 しょうさん と非難 ひなん とを同時 どうじ に巻 ま き起 お こした。これによりジェリコーは国際 こくさい 的 てき な名声 めいせい を確立 かくりつ し、今日 きょう ではフランス絵画 かいが の初期 しょき ロマン派 は 画家 がか として広 ひろ く知 し られている。
『メデューズ号 ごう の筏 いかだ 』は歴史 れきし 絵画 かいが の伝統 でんとう にしたがってはいるが、主題 しゅだい の選択 せんたく とその劇的 げきてき 演出 えんしゅつ において、当時 とうじ 一般 いっぱん 的 てき だった新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ 派 は の平静 へいせい と秩序 ちつじょ からの脱却 だっきゃく を意味 いみ している。ジェリコーの作品 さくひん は、最初 さいしょ の展示 てんじ からすぐに広 ひろ く関心 かんしん を呼 よ び、その後 ご はロンドンでも公開 こうかい された。ジェリコーが32歳 さい で早 はや 逝すると、すぐにル る ーブル美術館 ぶるびじゅつかん に買 か い取 と られた。絵 え の影響 えいきょう は、ウジェーヌ・ドラクロワ 、ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー 、ギュスターヴ・クールベ 、エドゥアール・マネ に見 み られる。
画面 がめん 中央 ちゅうおう が『メデューズ号 ごう の筏 いかだ 』。かなり大 おお きな作品 さくひん である。
救助 きゅうじょ 時 じ の『メデューズ号 ごう の筏 いかだ 』の設計 せっけい 図 ず [ 4]
1816年 ねん 6月 がつ 、フランスのフリゲ ふりげ ート艦 とかん メデューズ号 ごう は、ロシュフォール を出港 しゅっこう 、セネガル のサンルイ に向 む かった。メデューズ号 ごう は、他 た の3隻 せき 、すなわち供給 きょうきゅう 物資 ぶっし 輸送 ゆそう 船 せん のロワール号 ごう 、ブリッグ のアルギュス号 ごう 、コルベット のエコー号 ごう による船団 せんだん の先頭 せんとう にいた。ユーグ・デュロワ・ド・ショマレー子爵 ししゃく は20年 ねん 以上 いじょう 出航 しゅっこう から遠 とお ざかっていたにもかかわらず、メデューズ号 ごう の艦長 かんちょう に任命 にんめい されていた[ 5] [ 6] 。メデューズ号 ごう の使命 しめい は、パリ条約 じょうやく に従 したが い英国 えいこく からセネガル 返還 へんかん を受 う けるためである。乗客 じょうきゃく には、セネガル知事 ちじ に任命 にんめい されたフランス大佐 おおさ ジュリアン=デジレ・シュマルツとその妻 つま レーヌ・シュマルツもいた。
メデューズ号 ごう はよく進 すす み、他 た の船 ふね を追 お い越 こ した。しかしそのスピードのため、100マイル (161 km)も針路 しんろ がずれていた。メデューズ号 ごう は7月 がつ 2日 にち 、西 にし アフリカ海岸 かいがん の砂洲 さす 、今日 きょう のモーリタニア 付近 ふきん で座礁 ざしょう した。衝突 しょうとつ の原因 げんいん は、一般 いっぱん にド・ショマレーの能力 のうりょく 不足 ふそく によるとされる。彼 かれ は能力 のうりょく も経験 けいけん も不足 ふそく した外地 がいち 帰還 きかん 者 しゃ で、政治 せいじ 的 てき な昇進 しょうしん の結果 けっか として船長 せんちょう の任務 にんむ に就 つ いていた[ 7] [ 8] [ 9] 。
船 ふね の離礁 りしょう に失敗 しっぱい し、7月 がつ 5日 にち 、おびえた乗客 じょうきゃく や乗組 のりくみ 員 いん は護衛 ごえい 艦 かん のボート6艘 そう で、アフリカの海岸 かいがん に向 む けて60マイル (97 km)の距離 きょり を移動 いどう しようと試 こころ みた。メデューズ号 ごう には160人 にん の乗組 のりくみ 員 いん を含 ふく め、総勢 そうぜい 400人 にん が乗 の り込 こ んでいたにもかかわらず、ボートには250人 にん しか乗 の れなかった。残 のこ りの人々 ひとびと 、少 すく なくとも146人 にん の男性 だんせい と女性 じょせい 1人 にん が、満員 まんいん で一部 いちぶ 水中 すいちゅう に没 ぼっ している急 きゅう ごしらえの筏 いかだ に、折 お り重 かさ なるように乗 の り込 こ んだ。乗組 のりくみ 員 いん の内 うち 17人 にん は、座礁 ざしょう したままのメデューズ号 ごう に残 のこ る道 みち を選 えら んだ。船長 せんちょう と乗組 のりくみ 員 いん は、ボートに乗 の り込 こ んで筏 いかだ を牽引 けんいん するつもりだった。しかしわずか数 すう マイル移動 いどう しただけで、筏 いかだ はボートから離 はな れた[ 10] 。筏 いかだ に乗 の り込 こ んだ人々 ひとびと に残 のこ された食料 しょくりょう は、乾 かん パン1袋 ふくろ (1日 にち 目 め で食 た べ尽 つ くした)、水 みず 2樽 たる (水中 すいちゅう に落 お ちた)、ワイン数 すう 樽 たる のみだった。
批評 ひひょう 家 か のジョナサン・マイルズによれば、筏 いかだ は「生存 せいぞん 者 しゃ を極限 きょくげん 体験 たいけん へと追 お い詰 つ める。狂気 きょうき 、乾燥 かんそう 、飢餓 きが 。人々 ひとびと は反逆 はんぎゃく 者 しゃ を虐殺 ぎゃくさつ し、死 し んだ者 もの を食 た べ、弱者 じゃくしゃ を殺害 さつがい する」という[ 4] [ 11] 。13日 にち 後 ご の7月 がつ 17日 にち 、筏 いかだ は偶然 ぐうぜん アルギュス号 ごう に救出 きゅうしゅつ された。フランスは筏 いかだ の捜索 そうさく 活動 かつどう を、とりたてて行 おこな わなかったのである[ 12] 。このときまで生 い き残 のこ っていたのは、15人 にん の男性 だんせい だけであった。他 た は殺 ころ されたり、同僚 どうりょう に海 うみ へ放 ほう り込 こ まれたり、餓死 がし したり、絶望 ぜつぼう のあまり海 うみ に身 み を投 な げたりしたのだった。事件 じけん は、ナポレオン の1815年 ねん の失脚 しっきゃく 以降 いこう 、ようやく力 ちから を取 と り戻 もど したばかりのフランス復古 ふっこ 王政 おうせい にとって、非常 ひじょう に大 おお きな困惑 こんわく の種 たね となった[ 13] [ 注 ちゅう 1] 。
カンバスの左隅 ひだりすみ に描 えが かれた2人 ふたり の死者 ししゃ のディテール
『メデューズ号 ごう の筏 いかだ 』が描 えが き出 だ したのは、筏 いかだ で13日間 にちかん 漂流 ひょうりゅう した後 のち に残 のこ った15人 にん の生存 せいぞん 者 しゃ が、遠 とお くから接近 せっきん してくる船 ふね を発見 はっけん した瞬間 しゅんかん である。英国 えいこく 初期 しょき の評論 ひょうろん 家 か によれば、作品 さくひん は「筏 いかだ の残骸 ざんがい にはすべての要素 ようそ が揃 そろ っていると言 い える」[ 14] 。491 × 716 cm (193.3 × 282.3 in)という壮大 そうだい なスケールの作品 さくひん で、描 えが かれた人物 じんぶつ のほとんどは実物 じつぶつ 大 だい に描 えが かれている[ 15] 。前景 ぜんけい の人物 じんぶつ 像 ぞう は、実物 じつぶつ のほぼ2倍 ばい の大 おお きさで、絵 え の水平面 すいへいめん 近 ちか く、鑑賞 かんしょう 者 しゃ の上 うえ に群 むら がるように描 えが かれている。その結果 けっか 、鑑賞 かんしょう 者 しゃ は実際 じっさい の場面 ばめん に引 ひ き込 こ まれたような印象 いんしょう を受 う ける[ 16] 。
急 きゅう ごしらえの筏 いかだ は激 はげ しい波 なみ の上 うえ で、かろうじて航海 こうかい に耐 た えている様子 ようす であり、人々 ひとびと は傷 きず ついて完全 かんぜん に絶望 ぜつぼう している。一人 ひとり の老人 ろうじん が、ひざに息子 むすこ の遺体 いたい を抱 かか えている。別 べつ の男 おとこ は、落胆 らくたん と挫折 ざせつ 感 かん で髪 かみ をかきむしっている。遺体 いたい がいくつか、前景 ぜんけい に散 ち らばっており、波 なみ にさらわれそうになっている。中央 ちゅうおう の男性 だんせい が、ちょうど救援 きゅうえん の船 ふね を発見 はっけん したところである。一人 ひとり がもう一人 ひとり に船 ふね を指 さ しし、アフリカ人 じん の乗員 じょういん ジャン・シャルル[ 17] が空 あ き樽 だる の上 うえ に立 た ち、船 ふね の注意 ちゅうい を引 ひ こうと死 し に物狂 ものぐる いでハンカチーフを振 ふ っている[ 18] 。
2つのピラミッド型 がた から成 な る構成 こうせい 。救助 きゅうじょ 船 せん の位置 いち は黄色 きいろ い点 てん で示 しめ されている。
絵 え の構図 こうず は、2つのピラミッド型 がた の構成 こうせい から成 な る。カンバス左上 ひだりうえ の大 おお きなマストとその周辺 しゅうへん 部 ぶ が、1つ目 め のピラミッド型 がた を構成 こうせい する。2つ目 め のピラミッドでは、死 し んだ人 ひと や死 し にかけた人 ひと の体 からだ が、前景 ぜんけい で水平 すいへい 方向 ほうこう に底辺 ていへん を作 つく っている。その上 うえ に生存 せいぞん 者 しゃ たちがピラミッド型 がた の山 やま を形作 かたちづく ると共 とも に、心理 しんり 上 じょう の高 たか まりをも描 えが き出 だ し、その頂点 ちょうてん で中心 ちゅうしん 人物 じんぶつ が救援 きゅうえん 船 せん に向 む かって必死 ひっし に手 て を振 ふ っている[ 19] 。
鑑賞 かんしょう 者 しゃ の注意 ちゅうい は最初 さいしょ カンバスの中央 ちゅうおう に喚起 かんき され、次 つ いで生存 せいぞん 者 しゃ 達 たち の体 からだ が形作 かたちづく る流 なが れに沿 そ って、後方 こうほう から右 みぎ へと移動 いどう する[ 15] 。芸術 げいじゅつ 歴史 れきし 家 か のジャスティン・ウィントルによれば、「斜 なな めに走 はし る1つのリズムが、左下 ひだりした の死体 したい から頂点 ちょうてん の生存 せいぞん 者 しゃ へと我々 われわれ の目 め を導 みちび いている」[ 20] 。他 た の2つの斜線 しゃせん は、劇的 げきてき 場面 ばめん の緊張 きんちょう 感 かん を高 たか める効果 こうか がある。1つはマストとその装具 そうぐ に続 つづ き、筏 いかだ を飲 の み込 こ まんばかりに迫 せま る波 なみ へと、鑑賞 かんしょう 者 しゃ の視線 しせん を導 みちび く。もう1つは、手 て を伸 の ばした人々 ひとびと の姿 すがた で形 かたち づくられており、鑑賞 かんしょう 者 しゃ を遠 とお くに見 み えるアルゴス号 ごう のシルエットへと導 みちび く。最後 さいご にはこのアルゴス号 ごう が、生存 せいぞん 者 しゃ を救出 きゅうしゅつ することになるのである[ 3] 。
ジェリコーのパレットは、生気 せいき のない肌 はだ の色 いろ 、生存 せいぞん 者 しゃ の衣服 いふく の暗 くら い色彩 しきさい 、海 うみ と雲 くも から成 な る[ 21] 。全体 ぜんたい 的 てき に絵 え は暗 くら く、主 おも に茶 ちゃ 系 けい の、明度 めいど の低 ひく い顔料 がんりょう が多 おお く使 つか われている。ジェリコーは悲劇 ひげき と痛 いた みを暗示 あんじ するのに、このパレットが効果 こうか 的 てき だと思 おも っていた[ 22] 。この作品 さくひん における光 ひかり は「カラヴァッジオ 風 ふう 」だと評 ひょう された[ 23] 。イタリアの芸術 げいじゅつ 家 か カラヴァッジオはテネブリズム と密接 みっせつ に関連 かんれん し、光 ひかり と闇 やみ との間 あいだ の極端 きょくたん なコントラストを使用 しよう することからである。
ジェリコーの海 うみ の表現 ひょうげん はカラヴァッジオよりやや控 ひか え目 め で、深 ふか い青 あお というより暗 くら 緑色 みどりいろ で仕上 しあ げられ、筏 いかだ や人物 じんぶつ 像 ぞう のトーンと対照 たいしょう 的 てき に表現 ひょうげん されている[ 24] 。救助 きゅうじょ 船 せん の描 えが かれた遠景 えんけい から、明 あか るい光 ひかり が差 さ し込 こ み、周囲 しゅうい の鈍 にぶ い茶色 ちゃいろ の場面 ばめん と対照 たいしょう 的 てき に仕上 しあ げられている[ 24] 。
ジェリコーによる『メデューズ号 ごう の筏 いかだ 』習作 しゅうさく 。ペン、茶色 ちゃいろ いインク。17.6 cm × 24.5 cm 。フランス ・リール のミュゼ・デ・ボザール
1816年 ねん 、難破 なんぱ 事件 じけん の報告 ほうこく 書 しょ が一般 いっぱん に公開 こうかい されるとジェリコーはこれに熱中 ねっちゅう し、この事件 じけん を描 えが くことで、画家 がか としての評価 ひょうか を確立 かくりつ する機会 きかい にしようと思 おも いついた[ 25] 。制作 せいさく を決 き めると、彼 かれ は絵 え に取 と り掛 か かる前 まえ に幅広 はばひろ い調査 ちょうさ を開始 かいし した。1818年 ねん 初 はじ め、ジェリコーは生存 せいぞん 者 しゃ のアンリ・サヴィニーとアレクサンドル・コルレアールに会 あ った。2人 ふたり は自分 じぶん たちの体験 たいけん を思 おも いを込 こ めて語 かた り、最終 さいしゅう 的 てき に絵 え のトーンを決定 けってい づけた[ 14] 。芸術 げいじゅつ 歴史 れきし 家 か のジョルジュ・アントワーヌ・ボリアによると、「ジェリコーはボージョン病院 びょういん の向 む かいにアトリエを確保 かくほ した。そしてここで、陰鬱 いんうつ な制作 せいさく に没入 ぼつにゅう しはじめた。。 鍵 かぎ をかけたドアの後 うし ろで、ジェリコーは制作 せいさく に没頭 ぼっとう した。何 なに 物 ぶつ も彼 かれ を押 お しとどめることはできなかった。彼 かれ は怖 こわ がられたり避 さ けられたりした[ 26] 」のだという。
初 はじ めごろの旅 たび で、ジェリコーは狂気 きょうき と疫病 えきびょう の危機 きき にさらされた。また歴史 れきし 的 てき にも正確 せいかく かつ現実 げんじつ 的 てき であろうとするあまり、メデューズ号 ごう について調 しら べる間 あいだ に死体 したい の死後 しご 硬直 こうちょく の様子 ようす に取 と りつかれたようになった[ 8] 。死者 ししゃ の肌 はだ の色 いろ をできうる限 かぎ り本物 ほんもの に忠実 ちゅうじつ にとらえるため、ボージョン病院 びょういん のモルグ に赴 おもむ いて死体 したい をスケッチし[ 25] 、瀕死 ひんし の入院 にゅういん 患者 かんじゃ の顔 かお を観察 かんさつ し[ 27] 、切断 せつだん された手足 てあし を自分 じぶん のアトリエに持 も ち込 こ んで腐敗 ふはい の様子 ようす を観察 かんさつ し[ 28] [ 注 ちゅう 2] 、精神 せいしん 病院 びょういん から借 か り受 う けた生首 なまくび を2週間 しゅうかん かけてデッサンし、アトリエの天井 てんじょう 裏 うら に保管 ほかん した[ 27] 。
『メデューズ号 ごう の筏 いかだ におけるカニバリズム 』、ル る ーブル美術館 ぶるびじゅつかん 蔵 ぞう 。紙 かみ にクレヨン 、インク ウォッシュ、グワッシュ 。28 cm × 38 cm 。この習作 しゅうさく は完成 かんせい 作品 さくひん よりも画面 がめん が暗 くら く、人々 ひとびと の位置 いち も、のちのものとはかなり異 こと なる。
コルレアール、サヴィニー、さらにもう1人 ひとり の生存 せいぞん 者 しゃ 、大工 だいく のラヴィレットと共 とも に、詳細 しょうさい で正確 せいかく な筏 いかだ のスケールモデルを作 つく り、厚 あつ 板 いた の間 ま の隙間 すきま まで再現 さいげん した。そして、それをもとに完成 かんせい 作品 さくひん に取 と り組 く んだのである[ 27] 。ジェリコーはモデルのポーズを決 き め、閲覧 えつらん 請求 せいきゅう の用紙 ようし を揃 そろ え、関連 かんれん のある他 ほか の画家 がか 作品 さくひん を模写 もしゃ し、ル・アーヴル に出 で かけて空 そら と海 うみ をスケッチした[ 27] 。熱 ねつ があるにもかかわらず、何 なん 度 ど も海岸 かいがん に出 で かけて岸壁 がんぺき にぶつかる嵐 あらし を観察 かんさつ した。英国 えいこく の画家 がか を訪 たず ねるためにイギリス海峡 かいきょう を渡 わた った際 さい にも、悪天候 あくてんこう を観察 かんさつ する機会 きかい とした[ 29] [ 30] 。
ジェリコーは数 すう 多 おお くの予備 よび スケッチを描 えが き、事件 じけん のどの瞬間 しゅんかん をとらえて完成 かんせい 作品 さくひん とするか何 なん 度 ど も試行 しこう 錯誤 さくご した[ 31] 。絵 え の創案 そうあん は困難 こんなん で時間 じかん も掛 か かり、ドラマの本質 ほんしつ を最 もっと も効果 こうか 的 てき に捕 と らえる瞬間 しゅんかん を選 えら びぬくために、ジェリコーは非常 ひじょう に苦心 くしん した。
彼 かれ が採用 さいよう を検討 けんとう した場面 ばめん には、漂流 ひょうりゅう 2日 にち 目 め に起 お きた将校 しょうこう に対 たい する反乱 はんらん 、そのわずか数日 すうじつ 後 ご に起 お きたカニバリズム 、そして救出 きゅうしゅつ の瞬間 しゅんかん があった[ 32] 。救助 きゅうじょ 船 せん アルゴス号 ごう が近 ちか づいてくる姿 すがた を、水平 すいへい 線 せん に見 み つけた瞬間 しゅんかん について生存 せいぞん 者 しゃ の1人 ひとり が語 かた ったとき、ジェリコーは即座 そくざ に最終 さいしゅう 決定 けってい を下 くだ した。完成 かんせい 作品 さくひん では、アルゴス号 ごう は右 みぎ 上部 じょうぶ に見 み えている。生存 せいぞん 者 しゃ たちは船 ふね に合図 あいず を送 おく ろうとした。しかしアルゴス号 ごう は、通 とお り過 す ぎてしまったのである。生存 せいぞん 者 しゃ の乗組 のりくみ 員 いん の言葉 ことば によれば、「熱狂 ねっきょう 的 てき 歓喜 かんき から、深 ふか い落胆 らくたん と悲嘆 ひたん の底 そこ にたたき落 お とされた」のである[ 32] 。
事件 じけん の詳細 しょうさい を熟知 じゅくち している者 もの には、この絵 え の場面 ばめん は、全 すべ ての望 のぞ みが失 うしな われたかに思 おも われた瞬間 しゅんかん を切 き り取 と ったもので、乗組 のりくみ 員 いん 達 たち が自棄 じき 状態 じょうたい になった様 よう を余 あま すところなくとらえた物 もの だと理解 りかい された[ 32] 。アルゴス号 ごう は、2時 じ 間 あいだ 後 ご に再 ふたた び現 あらわ れて、生存 せいぞん 者 しゃ を救 すく いだしたのである[ 33] 。死体 したい の数 かず も含 ふく め、実際 じっさい の救出 きゅうしゅつ の段階 だんかい における記録 きろく よりも多 おお く、絵 え には人物 じんぶつ 像 ぞう が描 えが かれていると、作家 さっか のルパート・クリステンセンは指摘 してき する。報告 ほうこく 書 しょ では、陽 ひ がさんさんと照 て る波 なみ の穏 おだ やかな朝 あさ だったとされるが、ジェリコーは、次第 しだい に激 はげ しくなる嵐 あらし と暗 くら くうねる波 なみ を描 えが いて、陰鬱 いんうつ な気分 きぶん を強調 きょうちょう した[ 27] 。
ジェリコーは、義理 ぎり の伯母 おば に当 あ たる女性 じょせい とのつらい情事 じょうじ を断 た ち切 き られ、頭 あたま を剃 そ られて、1818年 ねん 11月から1819年 ねん 7月 がつ までパリ8区 く のフォーブル・ド・ルール地区 ちく にあるアトリエで、規律 きりつ 正 ただ しい修道院 しゅうどういん のような生活 せいかつ を送 おく っていた。食事 しょくじ は管理人 かんりにん が運 はこ び、夕方 ゆうがた に時折 ときおり 外 そと へ出 で るだけであった[ 27] 。18歳 さい のアシスタント、ルイ=アレクシス・ジャマールとジェリコーは、アトリエに隣接 りんせつ した小 ちい さな部屋 へや に宿泊 しゅくはく した。時折 ときおり 2人 ふたり は口論 こうろん し、ある時 とき ジャマールが出 で ていった。2日 にち 後 ご 、ジェリコーは戻 もど ってくるようジャマールを説得 せっとく した。彼 かれ のアトリエは整然 せいぜん としており、几帳面 きちょうめん に装 よそお ったジェリコーは沈黙 ちんもく の内 うち に制作 せいさく に取 と り組 く み、ネズミの立 た てる音 おと にさえ集中 しゅうちゅう 力 りょく を中断 ちゅうだん される程 ほど だった[ 27] 。
1818 – 1819年 ねん の習作 しゅうさく 。油彩 ゆさい 。38 cm × 46 cm 、ル る ーブル美術館 ぶるびじゅつかん 蔵 ぞう 。この予備 よび スケッチでは、完成 かんせい 作品 さくひん とほぼ同 おな じ位置 いち に人物 じんぶつ が描 えが かれている。
ジェリコーは友人 ゆうじん をモデルにした。特 とく に画家 がか のウジェーヌ・ドラクロワ (1798 – 1863年 ねん )は、前景 ぜんけい で顔 かお をうつぶせにし、片手 かたて をいっぱいに伸 の ばした人物 じんぶつ のモデルになった。マストの下 した にシルエットで、2人 ふたり の生存 せいぞん 者 しゃ が描 えが かれている[ 31] 。3人 にん の人物 じんぶつ 像 ぞう は、本物 ほんもの 、つまりコレアール、サヴィニー、ラヴィレットをモデルに描 えが かれた。ジャマールは裸 はだか でポーズをとり、前景 ぜんけい で海 うみ に飲 の み込 こ まれそうになっている青年 せいねん の死体 したい のモデルになった。彼 かれ は他 ほか にも2人 にん の人物 じんぶつ 像 ぞう のモデルを務 つと めた[ 27] 。
ヒューバート・ウェリントンによれば、ドラクロワは次 つぎ のように書 か き残 のこ している。「ジェリコーは『メデューズ号 ごう の筏 いかだ 』制作 せいさく 現場 げんば も見 み せてくれた。私 わたし は強 つよ い印象 いんしょう を受 う けて、アトリエを出 で ると狂人 きょうじん のように走 はし りだし、自分 じぶん の部屋 へや にたどり着 つ くまで止 と まることができなかった[ 34] [ 35] 」。 ドラクロワはジェリコーの死後 しご 、フランスロマン主義 しゅぎ の旗手 きしゅ となる。
ジェリコーは制作 せいさく の際 さい 、小 ちい さな絵筆 えふで とビスコース 油 あぶら とを使用 しよう していたので、やり直 なお しにも手間 てま がかからず、翌朝 よくあさ までには乾 かわ いた。彼 かれ のパレットは、バーミリオン、白 しろ 、ネープルスイエロー、イエローオーク2種 しゅ 、レッドオーク2種 しゅ 、ローシエナ、ライトレッド、バーントシエナ、クリムゾンレイク、プルシアンブルー、ピーチブラック、アイボリーブラック、カッセルアース、ビチューメンで彩 いろど られ、色 いろ は別々 べつべつ に保管 ほかん されていた[ 27] 。ビチューメンは、一 いち 度 ど 塗 ぬ りではベルベットのような光沢 こうたく を出 だ すが、時間 じかん と共 とも に、黒 くろ い糖蜜 とうみつ 色 しょく に変色 へんしょく し、縮 ちぢ んで表面 ひょうめん に皺 しわ が寄 よ り、元 もと に戻 もど らない。その結果 けっか 、今日 きょう では、作品 さくひん のかなりの範囲 はんい で詳細 しょうさい が判別 はんべつ できなくなっている[ 16] 。
ジェリコーはカンバスに、構成 こうせい の概略 がいりゃく をスケッチした。それからモデルに1つずつポーズをとらせて、1つの人物 じんぶつ 像 ぞう を完成 かんせい させてから、次 つぎ の人物 じんぶつ 像 ぞう に取 と りかかった。このやり方 かた は、群像 ぐんぞう を描 えが く場合 ばあい の通常 つうじょう の方法 ほうほう とは対照 たいしょう 的 てき である。個々 ここ の要素 ようそ に集中 しゅうちゅう して取 と り組 く むこの方法 ほうほう により、作品 さくひん には「衝撃 しょうげき 的 てき な肉感 にっかん [ 20] 」と同時 どうじ に、一部 いちぶ の批評 ひひょう 家 か には副作用 ふくさよう だとされる、芝居 しばい がかった不自然 ふしぜん さとの両方 りょうほう が現 あらわ れた。作品 さくひん の完成 かんせい から30年 ねん 以上 いじょう 経 た っても、友人 ゆうじん モンフォールは当時 とうじ が忘 わす れられなかったという。
ジェリコーの極度 きょくど の勤勉 きんべん さにも驚 おどろ いたが、そのやり方 かた にも驚 おどろ かされた。彼 かれ は白 しろ いカンバスに直接 ちょくせつ 描 えが き、ラフスケッチも、どんな種類 しゅるい の準備 じゅんび もせず、しっかりとした輪郭 りんかく 線 せん のみを描 えが いた。にもかかわらず、作品 さくひん に破綻 はたん はまったくなかった。ブラシでカンバスに触 ふ れる前 まえ に、彼 かれ がモデルに払 はら った鋭 するど い観察 かんさつ 力 りょく にも心 こころ 打 う たれた。彼 かれ はゆったりと進 すす めていくように見 み えて、その実 み 、非常 ひじょう な早 はや さで取 と り組 く み、次々 つぎつぎ に書 か き進 すす めていった。戻 もど ってやり直 なお すことはめったになかった。彼 かれ の体 からだ や腕 うで は、ごく僅 わず かしか動 うご かず、その表情 ひょうじょう はとても穏 おだ やかだった…[ 27] [ 36] 。
ほとんど気 き を散 ち らせることもなく、ジェリコーは作品 さくひん を8カ月 かげつ で完成 かんせい させた[ 30] 。計画 けいかく 段階 だんかい から数 かぞ えても、18ヶ月 かげつ かかっただけだった[ 27] 。
『メデューズ号 ごう の筏 いかだ 』は、たとえばミケランジェロ (1475–1564)の『最後 さいご の審判 しんぱん 』といった巨匠 きょしょう の名作 めいさく からの受 う けた多 おお くの影響 えいきょう と、ジャック=ルイ・ダヴィッド (1748–1825)のスケールの大 おお きさ、アントワーヌ=ジャン・グロ (1771–1835)の現代 げんだい の事件 じけん へのアプローチとを融和 ゆうわ させたものであるといえる。18世紀 せいき までに難破 なんぱ は、船 ふね による旅 たび が一般 いっぱん 的 てき になるにつれて増 ふ え、海 うみ に関 かん する絵 え のテーマの1つとして認 みと められた。クロード・ジョセフ・ヴェルネ (1714–1789)は、そういった絵 え を多 おお く描 えが き出 だ し[ 37] 、直接 ちょくせつ の観察 かんさつ を通 とお して自然 しぜん な色合 いろあ いを確立 かくりつ した点 てん で、同 どう 時代 じだい の他 ほか の画家 がか とは異 こと なっていた。彼 かれ は、嵐 あらし を観察 かんさつ するために、船 ふね のマストに体 からだ を縛 しば りつけたといわれている[ 38] 。
ミケランジェロ 作 さく 。システィーナ礼拝 れいはい 堂 どう の最後 さいご の審判 しんぱん の一部 いちぶ 。ジェリコーは「ミケランジェロを見 み て背筋 せすじ が震 ふる えた。これらの失 うしな われた魂 たましい は必然 ひつぜん 的 てき に互 たが いを破壊 はかい し、システィーナ礼拝 れいはい 堂 どう の悲劇 ひげき 的 てき な壮麗 そうれい さを生 う みだしている[ 39] 。」と言 い った。
筏 いかだ の上 うえ に描 えが かれた人々 ひとびと は13日間 にちかん 漂流 ひょうりゅう して飢餓 きが 、病気 びょうき 、食 しょく 人 じん に苦 くる しんだが、ジェリコーは英雄 えいゆう を描 えが く際 さい の伝統 でんとう に敬意 けいい を示 しめ して、健康 けんこう 的 てき でたくましい姿 すがた で表現 ひょうげん している。芸術 げいじゅつ 歴史 れきし 家 か のリチャード・ミューサーによれば、作品 さくひん にはまだ古典 こてん 主義 しゅぎ の強 つよ い影響 えいきょう が残 のこ っているという。人物 じんぶつ 像 ぞう の多 おお くがほとんど裸体 らたい であることについて、ミューサーは、「絵画 かいが 的 てき でない」服装 ふくそう を避 さ けたいという願望 がんぼう に起因 きいん するのだろうと書 か いている。ミューサーは「人物 じんぶつ 像 ぞう にはまだアカデミックな雰囲気 ふんいき が残 のこ り、窮乏 きゅうぼう 、病気 びょうき 、死 し との戦 たたか いでひどく痛 いた めつけられたようには見 み えない」と述 の べている[ 24] 。
ジャック=ルイ・ダヴィッド の影響 えいきょう が、絵 え の大 おお きさ、人物 じんぶつ 像 ぞう に見 み られる彫刻 ちょうこく 的 てき な簡潔 かんけつ さ、また特 とく に重要 じゅうよう な「効果 こうか 的 てき 瞬間 しゅんかん 」、つまり船 せん の接近 せっきん に気付 きづ いた瞬間 しゅんかん に描写 びょうしゃ された上品 じょうひん な物腰 ものごし からも感 かん じられる[ 23] 。1793年 ねん 、ダヴィッドも、重要 じゅうよう な時事 じじ 問題 もんだい 『マラーの死 し 』を描 えが いている。フランス革命 かくめい 時下 じか 、彼 かれ の絵画 かいが は政治 せいじ 的 てき 影響 えいきょう 力 りょく も大 おお きかった。時事 じじ 問題 もんだい を描 えが いた先例 せんれい という点 てん で、ジェリコーの決意 けつい にも大 おお きく影響 えいきょう した。ダヴィッドの弟子 でし 、アントワーヌ=ジャン・グロは、ダヴィッド同様 どうよう 、「失敗 しっぱい に帰 かえ した運動 うんどう と救 すく いがたく関連 かんれん した派 は の、偉大 いだい な画家 がか 」の代表 だいひょう といえる[ 40] 。しかし有名 ゆうめい な作品 さくひん のいくつかで彼 かれ は、ナポレオンも、無名 むめい の死体 したい や瀕死 ひんし の人物 じんぶつ 像 ぞう も、同等 どうとう の重要 じゅうよう 性 せい を持 も たせて描 えが いた[ 32] [ 注 ちゅう 3] 。ジェリコーは、1804年 ねん のグロの絵画 かいが 『ヤッファのペスト患者 かんじゃ を見舞 みま うナポレオン』から強 つよ い印象 いんしょう を受 う けている[ 8] 。
1808年 ねん プリュードン 作 さく 、『「正義 まさよし 」と「復讐 ふくしゅう 」に追 お われる「罪 つみ 」』。244 cm × 294 cm 。ロサンゼルス 、J・ポール・ゲティ美術館 びじゅつかん 。暗闇 くらやみ と、手足 てあし を伸 の ばした裸 はだか の人物 じんぶつ 像 ぞう がジェリコーの絵 え に影響 えいきょう していると思 おも われる[ 41] 。
若 わか いころのジェリコーは、ピエール=ポール・プリュードン (1758–1823年 ねん )の、傑作 けっさく 『「正義 まさよし 」と「復讐 ふくしゅう 」に追 お われる「罪 つみ 」』を含 ふく めた「途方 とほう もない悲劇 ひげき の絵 え 」を模写 もしゃ している。息詰 いきづ まるような暗闇 くらやみ や、手足 てあし を伸 の ばした裸 はだか の死体 したい の構成 こうせい 基礎 きそ などが、明 あき らかにジェリコーの絵 え に影響 えいきょう を与 あた えている[ 41] 。
前景 ぜんけい の、年老 としお いた男性 だんせい 像 ぞう には、ダンテ の『神 かみ 曲 きょく 』に登場 とうじょう するウゴリーノ を参照 さんしょう している可能 かのう 性 せい がある。ジェリコーは『神 かみ 曲 きょく 』を画材 がざい の1つとして考 かんが えていたのである。そしてこの人物 じんぶつ 像 ぞう は、フュースリー (1741–1825)が描 えが いたウゴリーノの絵 え からとったものにも見 み える。ジェリコーはこの絵 え を印刷 いんさつ で見 み て知 し っていた可能 かのう 性 せい がある。ダンテのウゴリーノは、カニバリズム の罪 つみ を犯 おか しており、これはメデューズ号 ごう の筏 いかだ で起 お きた中 なか で最 もっと も衝撃 しょうげき 的 てき な局面 きょくめん でもあった。ジェリコーは、フュースリーの作品 さくひん を取 と り入 い れることで、この点 てん を表現 ひょうげん しようとしたのかもしれない[ 42] 。
『メデューズ号 ごう の筏 いかだ 』の初期 しょき の習作 しゅうさく に、水彩 すいさい で描 えが かれたものがある。現在 げんざい はル る ーブル美術館 ぶるびじゅつかん に所蔵 しょぞう されているものだが、これにはもっと直接的 ちょくせつてき に頭 あたま のない死体 したい の腕 うで をかじる人物 じんぶつ が描 えが かれている[ 43] 。
事件 じけん 後 ご 2年 ねん 以内 いない に描 えが かれた、ジョン・シングルトン・コプリー(1738–1815)の『ピアソン少佐 しょうさ の死 し 』など、英国 えいこく とアメリカの絵画 かいが のいくつかが、現代 げんだい の事件 じけん を扱 あつか う先例 せんれい を確立 かくりつ した。コプリーは海難 かいなん を題材 だいざい に、大 おお きくて英雄 えいゆう 的 てき な絵 え をいくつか描 えが いており、ジェリコーがそれを印刷 いんさつ で見 み て知 し っていた可能 かのう 性 せい がある。1778年 ねん の『ワトソンと鮫 さめ 』には中央 ちゅうおう に黒人 こくじん が描 えが かれており、『メデューズ号 ごう の筏 いかだ 』同様 どうよう 、海 うみ の風景 ふうけい よりむしろ人間 にんげん ドラマの中心 ちゅうしん 人物 じんぶつ として描 えが かれている。1791年 ねん の『ジブラルタル浮 うわ き砲台 ほうだい の敗北 はいぼく 、1782年 ねん 9月 がつ 』の場合 ばあい は、ジェリコーの作品 さくひん の様式 ようしき と主題 しゅだい 両方 りょうほう に影響 えいきょう が認 みと められる。そして1790年代 ねんだい の『難破 なんぱ 』とは、さらによく似 に た構成 こうせい である[ 32] [ 44] 。さらに政治 せいじ 的 てき 構成 こうせい をもつ作品 さくひん の先例 せんれい として特 とく に重要 じゅうよう なのは、ゴヤ の連作 れんさく 『戦争 せんそう の惨禍 さんか 』(1810-1812)と、1814年 ねん の傑作 けっさく 『マドリード、1808年 ねん 5月 がつ 3日 にち 』である。ゴヤにはまた、海難 かいなん をテーマにした『難破 なんぱ 』(制作 せいさく 年 ねん 不 ふ 詳 しょう )と呼 よ ばれる作品 さくひん もあるが、趣旨 しゅし は同 おな じであっても、構成 こうせい や様式 ようしき に『メデューズ号 ごう の筏 いかだ 』に共通 きょうつう する点 てん は見 み られない。ジェリコーが絵 え を参照 さんしょう したとは考 かんが えにくい[ 44] 。
『メデューズ号 ごう の筏 いかだ 』が最初 さいしょ に展示 てんじ されたのは、1819年 ねん のサロン・ド・パリ であった。絵 え の本当 ほんとう の主題 しゅだい は、当時 とうじ の鑑賞 かんしょう 者 しゃ の目 め にも明 あき らかだったが、作品 さくひん 名 めい は『難破 なんぱ Scène de Naufrage 』とされた[ 27] 。ジェリコーの『筏 いかだ 』は「すべての目 め を撃 う ち、惹 ひ きつける」(Le Journal de Paris)と評 ひょう され、1819年 ねん のサロンで注目 ちゅうもく の的 てき だった。批評 ひひょう 家 か は二分 にぶん した。主題 しゅだい の恐怖 きょうふ 「terribilità」は魅惑 みわく 的 てき だが、古典 こてん 主義 しゅぎ 礼 れい 讃 さん 派 は は「積 つ み重 かさ ねた死体 したい の山 やま 」に嫌悪 けんお を示 しめ し、そのリアリズムは「理想 りそう の美 び 」からは程遠 ほどとお いと考 かんが えていた。彼 かれ らの考 かんが える「美 よし 」とは、『筏 いかだ 』と同年 どうねん に描 えが かれたジロデ・トリオゾン の『ピグマリオンとガラテイア 』によって、具体 ぐたい 化 か されるような美 び であった。ジェリコーの作品 さくひん には、矛盾 むじゅん が表現 ひょうげん されていた。すなわち、「不愉快 ふゆかい な主題 しゅだい をいかにして力強 ちからづよ さに満 み ちた絵 え に変換 へんかん するのか?」「画家 がか はいかにして芸術 げいじゅつ と現実 げんじつ とを融合 ゆうごう させるのか?」ということである。ジェリコーと同 どう 時代 じだい のフランス人 じん 画家 がか 、マリ=フィリップ・クーパン・ド・ラ・クーペリー の批判 ひはん は痛烈 つうれつ だった。「ムッシュ・ジェリコーは失敗 しっぱい したように思 おも う。絵画 かいが の到達 とうたつ 点 てん は、魂 たましい と目 め に語 かた りかけることであって、撃退 げきたい することではない」。『筏 いかだ 』の絵 え は、フランスの作家 さっか であり芸術 げいじゅつ 評論 ひょうろん 家 か のオーギュスト・ジャルのような熱心 ねっしん なファンをも獲得 かくとく した。彼 かれ は絵 え の政治 せいじ 的 てき テーマ、自由 じゆう 主義 しゅぎ 的 てき 立場 たちば (「ニグロ」の進歩 しんぽ 、超 ちょう 王 おう 党 とう 主義 しゅぎ の批評 ひひょう )、現代 げんだい 性 せい を礼 れい 讃 さん した。フランスの歴史 れきし 家 か ジュール・ミシュレ は「我々 われわれ の社会 しゃかい 全体 ぜんたい が、メデューズ号 ごう の筏 いかだ に乗 の っている・・・」と表現 ひょうげん した[ 3] 。
ニコラ・セバスチャン・マイヨー作 さく 『ルーブルのサロン・カレに掲 かか げられた「メデューズ号 ごう の筏 いかだ 」』。1831年 ねん 。ルーヴル美術館 びじゅつかん 蔵 ぞう 。プッサン 、ロラン 、レンブラント 、カラヴァッジオ の作品 さくひん に並 なら んで、ジェリコーの『筏 いかだ 』が展示 てんじ されている[ 45] 。
展示 てんじ はルイ18世 せい の後援 こうえん を受 う け、1300点 てん 近 ちか くの絵画 かいが 、208点 てん の彫刻 ちょうこく 、その他 た 多 おお くの版画 はんが や建築 けんちく デザインなどを扱 あつか っていた。現代 げんだい の批評 ひひょう 家 か フランク・アンダーソン・トラップは、作品 さくひん の量 りょう やイベントの大 おお きさに、展示 てんじ 後 ご を狙 ねら った野心 やしん がうかがえるとする。トラップが注目 ちゅうもく する事実 じじつ は、「その中 なか には壮大 そうだい な歴史 れきし 絵画 かいが が100点 てん 含 ふく まれており、政府 せいふ の惜 お しみない後援 こうえん を受 う けていた」が、ジェリコーのように裕福 ゆうふく な出品 しゅっぴん 者 しゃ 数 すう 人 にん を除 のぞ いては、時間 じかん 、エネルギー、必要 ひつよう 経費 けいひ の都合 つごう をつけることができたのは、メジャーな代理人 だいりにん に支持 しじ された出品 しゅっぴん 者 しゃ だけだった、というものである[ 8] 。
ジェリコーは政治 せいじ 的 てき にも芸術 げいじゅつ 的 てき にも、敢 あ えて対決 たいけつ することを決 き めた。批評 ひひょう 家 か も彼 かれ の攻撃 こうげき 的 てき アプローチに、嫌悪 けんお もしくは賞賛 しょうさん で応 こた えた。著述 ちょじゅつ 家 か の共感 きょうかん が得 え られるかどうかは、王 おう 党派 とうは か自由党 じゆうとう 派 は かに左右 さゆう された。『メデューズ号 ごう の筏 いかだ 』は筏 いかだ に乗 の り合 あ わせた人々 ひとびと に対 たい して大 おお いに同情 どうじょう 的 てき な作品 さくひん であると受 う け止 と められたが、それゆえ、生存 せいぞん 者 しゃ であるサヴィニーとコルレアールの反 はん 帝政 ていせい 的 てき な政治 せいじ 意識 いしき を反映 はんえい しているとも見 み なされた[ 14] 。頂点 ちょうてん に黒人 こくじん を配置 はいち した構成 こうせい は、ジェリコーの奴隷 どれい 制 せい 廃止 はいし 論 ろん の表現 ひょうげん であり、論争 ろんそう の的 まと になった。芸術 げいじゅつ 評論 ひょうろん 家 か のクリスティン・ライディングは、続 つづ いてロンドンで絵 え を展示 てんじ したのは、そこでの反 はん 奴隷 どれい 制 せい 運動 うんどう に同調 どうちょう するつもりだったのではないかと推測 すいそく している[ 46] 。『メデューズ号 ごう の筏 いかだ 』は、無能 むのう な艦長 かんちょう は未熟 みじゅく な水夫 すいふ だが、政治 せいじ 的 てき には反 はん ボナパルティスト だという、政治 せいじ 的 てき な声明 せいめい となった。現代 げんだい 美術 びじゅつ の評論 ひょうろん 家 か でありキュレーターであるカレン・ウィルキンによれば、「ジェリコーの絵 え が冷笑 れいしょう 的 てき に告発 こくはつ したのは、フランスにおけるポスト・ナポレオン官僚 かんりょう のぶざまな不正 ふせい 行為 こうい であり、その官僚 かんりょう の多 おお くを輩出 はいしゅつ した家柄 いえがら は「アンシャン・レジーム 」の生 い き残 のこ りなのだ」ということである[ 21] 。
1820年 ねん 、ジェリコーは首尾 しゅび よくロンドン、ピカデリー のエジプシャン・ホール に絵 え を展示 てんじ した。約 やく 40,000人 にん の訪問 ほうもん 客 きゃく が訪 おとず れ、サロンに出品 しゅっぴん した時 とき よりもよい評価 ひょうか を得 え た[ 47] [ 48] 。
『メデューズ号 ごう の筏 いかだ 』は、絵 え を見 み た市民 しみん に広 ひろ く、強 つよ い印象 いんしょう を残 のこ したが、その主題 しゅだい は多 おお くの人々 ひとびと を不快 ふかい にした。ジェリコーが望 のぞ んだような一般 いっぱん 民衆 みんしゅう からの賞賛 しょうさん は得 え られなかった[ 27] 。展覧 てんらん 会 かい の終了 しゅうりょう 時 じ に、『メデューズ号 ごう の筏 いかだ 』は金賞 きんしょう を獲得 かくとく した。しかし審査 しんさ 員 いん 団 だん は、作品 さくひん をルーヴル美術館 びじゅつかん の国家 こっか コレクションに加 くわ えただけで、それ以上 いじょう の名声 めいせい を与 あた えることはしなかった。代 か わりにジェリコーはサクレ・クール の委員 いいん に任命 にんめい されたが、その完成 かんせい 作品 さくひん にドラクロワ自身 じしん のサインをさせ、彼 かれ に金 かね を払 はら ってその任命 にんめい を秘密 ひみつ の内 うち に譲 ゆず ってしまった[ 27] 。ジェリコーは田舎 いなか に退 しりぞ き、そこで過労 かろう で倒 たお れた。彼 かれ の作品 さくひん には買 か い手 て がつかず、枠 わく から外 はず して巻 ま いた状態 じょうたい で、友人 ゆうじん のアトリエに保管 ほかん された[ 49] 。
ジェリコーは1820年 ねん 、『メデューズ号 ごう の筏 いかだ 』をロンドンで展示 てんじ するよう手配 てはい した。ロンドンでの展示 てんじ は、6月 がつ 10日 とおか からその年 とし の終 お わりまで、ピカデリー にあるウィリアム・ブロック のエジプシャン・ホール で行 おこな われ、約 やく 40,000人 にん の観賞 かんしょう 者 しゃ が訪 おとず れた[ 48] 。ロンドンにおける評価 ひょうか は、パリのものよりもおおむね肯定 こうてい 的 てき で、作品 さくひん はフランス絵画 かいが の新 あたら しい方向 ほうこう を示 しめ すものとして受 う け止 と められた。これは1つには、絵 え の展示 てんじ 方法 ほうほう によるところもある。パリでのサロン・カレでは最初 さいしょ 、作品 さくひん は高 たか い位置 いち に吊 つ るされていた。ジェリコーは作品 さくひん が展示 てんじ された様子 ようす を見 み て、その配置 はいち が失敗 しっぱい だったと認 みと めている。しかしロンドンでは、作品 さくひん は地面 じめん 近 ちか くに配置 はいち され、そのスケールの雄大 ゆうだい さを強 つよ く印象 いんしょう 付 つ けた。イギリスで作品 さくひん が受 う け入 い れられた理由 りゆう は他 ほか にもある。すなわち「わずかながらの愛国 あいこく 的 てき 自己 じこ 満足 まんぞく [ 50] 」、不気味 ぶきみ なエンターテイメントとしての作品 さくひん の魅力 みりょく [ 50] 、筏 いかだ の上 うえ で起 お きた事件 じけん に基 もと づいて作 つく られた2つの演劇 えんげき が展示 てんじ と同時 どうじ 進行 しんこう で上演 じょうえん され、ジェリコーの描写 びょうしゃ によるところが大 おお きかったこと[ 51] 、などである。 ロンドンでの展示 てんじ で、客 きゃく が支払 しはら った観覧 かんらん 料 りょう から得 え たジェリコーの取 と り分 ぶん は、約 やく 20,000フランにもなった。これは、フランス政府 せいふ が作品 さくひん 買 か い取 と りの際 さい に彼 かれ に支払 しはら った額 がく を、かなり上回 うわまわ るものであった[ 52] 。ロンドン展示 てんじ 後 ご の1821年 ねん 始 はじ め、ブロックは作品 さくひん をダブリン に持 も ち込 こ んだが、そこでの展示 てんじ は成功 せいこう には程遠 ほどとお かった。その大 おお きな理由 りゆう としては、回転 かいてん パノラマ画 が の『メデューズ号 ごう の難破 なんぱ 』の展示 てんじ と、競合 きょうごう してしまったことによる。回転 かいてん パノラマ画 が 『メデューズ号 ごう の海難 かいなん 』はマーシャル兄弟 きょうだい の会社 かいしゃ による製作 せいさく で、漂流 ひょうりゅう の生存 せいぞん 者 しゃ の1人 ひとり の指導 しどう のもと、彩色 さいしき されたといわれる[ 53] 。
ピエール=デジレ・ギユメとエティエンヌ=アントワーヌ=ユージェーヌ・ロジャによる同 どう サイズ模写 もしゃ 。1859–60年 ねん 。493 cm × 717 cm 。アミアン 、ピカルディー美術館 びじゅつかん [ 54] 。
『メデューズ号 ごう の筏 いかだ 』は、ルーヴル美術館 びじゅつかん のキュレーター 、ルイ・ニコラ・フィリップ・オーギュスト・ド・フォルバン伯爵 はくしゃく により支持 しじ され、ジェリコー死後 しご の1824年 ねん 、相続 そうぞく 人 じん から買 か い取 と って美術館 びじゅつかん に納 おさ めた。作品 さくひん は現在 げんざい も、ギャラリーにそびえたっている[ 13] 。その展示 てんじ 説明 せつめい 文 ぶん には、「この痛烈 つうれつ な物語 ものがたり のただ一人 ひとり の英雄 えいゆう は、人類 じんるい である」と書 か かれている[ 3] 。
1826年 ねん から1830年 ねん にかけての一時期 いちじき 、アメリカの画家 がか ジョージ・クック(1793–1849)が『メデューズ号 ごう の筏 いかだ 』を小 ちい さいサイズ(130.5 x 196.2 cm )で模写 もしゃ したものが、ボストン 、フィラデルフィア 、ニューヨーク 、ワシントンD.C. で、難破 なんぱ をめぐる論争 ろんそう を知 し る人々 ひとびと に展示 てんじ された。絵 え は論評 ろんぴょう で支持 しじ され、脚本 きゃくほん 、詩 し 、演奏 えんそう 、児童 じどう 書 しょ にも取 と り入 い れられた[ 55] 。この絵 え は前 ぜん 海軍 かいぐん 大将 たいしょう ユーライア・フィリップに購入 こうにゅう された。ユーライアは1862年 ねん にその絵 え をニューヨーク歴史 れきし 学会 がっかい に遺贈 いぞう したが、その際 さい 、目録 もくろく のミスでジルベール・スチュワート作 さく とされたままだった。2006年 ねん に、デラウェア大学 だいがく の芸術 げいじゅつ 歴史 れきし 教授 きょうじゅ 、ニナ・アタナソグロウ・カールマイヤーの問 と い合 あ わせをきっかけに、訂正 ていせい された。大学 だいがく の管理 かんり 部門 ぶもん が、作品 さくひん の修復 しゅうふく を行 おこな った[ 56] 。
ジェリコーのオリジナル作品 さくひん の状態 じょうたい が悪化 あっか したため、1859〜60年 ねん 、ルーヴル美術館 びじゅつかん は2人 ふたり のフランス人 じん 画家 がか 、ピエール=デジレ・ギユメ、エティエンヌ=アントワーヌ=ユージェーヌ・ロジャに依頼 いらい して、オリジナルと同 どう サイズの模写 もしゃ を作成 さくせい し、貸出 かしだし 展示 てんじ 用 よう とした[ 54] 。
1939年 ねん 秋 あき 、戦争 せんそう の気配 けはい を察知 さっち したルーヴルは、『メデューズ号 ごう の筏 いかだ 』を疎開 そかい させるために荷造 にづく りした。9月3日 にち の夜 よる 、舞台 ぶたい 道具 どうぐ のトラックがコメディ・フランセーズ を発 た ち、ヴェルサイユ へと『メデューズ号 ごう の筏 いかだ 』を運 はこ んだ。しばらくすると、『メデューズ号 ごう の筏 いかだ 』はシャンボール城 じょう に移 うつ され、そこで第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が終結 しゅうけつ するまで保管 ほかん された[ 57] 。
1787年 ねん 、ダヴィッド 作 さく 、『ソクラテスの死 し 』。 129.5 cm × 196.2 cm 。メトロポリタン美術館 びじゅつかん 蔵 ぞう 。ジェリコーは、ダヴィッドに代表 だいひょう される新 しん 古典 こてん 派 は から脱却 だっきゃく しようとした。
不快 ふかい な真実 しんじつ を正面 しょうめん に見据 みす えた『メデューズ号 ごう の筏 いかだ 』は、フランス絵画 かいが におけるロマン主義 しゅぎ の台頭 たいとう を示 しめ し、当時 とうじ 主流 しゅりゅう だった新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ に対 たい し「美的 びてき 革命 かくめい の土台 どだい を作 つく った」[ 58] 。ジェリコーの構成 こうせい や人物 じんぶつ 描写 びょうしゃ は古典 こてん 的 てき な手法 しゅほう だったが、主題 しゅだい の違 ちが いに芸術 げいじゅつ 的 てき 方向 ほうこう の大 おお きな変化 へんか が現 あらわ れており、新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ とロマン主義 しゅぎ との過渡 かと 期 き にあることがよく分 わ かる作品 さくひん となっている。ダヴィッドは1815年 ねん までは、歴史 れきし 絵画 かいが を主導 しゅどう する1人 ひとり であり、新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ の大家 たいか でもあったが、その後 ご ブリュッセル に亡命 ぼうめい することになった[ 59] 。フランスでは、歴史 れきし 絵画 かいが も新 しん 古典 こてん 様式 ようしき も、グロ 、アングル 、フランソワ・ジェラール 、ジロデ 、またジェリコーやドラクロワの師 し ゲラン といった画家 がか の作品 さくひん に引 ひ き継 つ がれ、ダヴィッドやニコラ・プッサン の芸術 げいじゅつ 的 てき 伝統 でんとう を守 まも り続 つづ けていた。
1807年 ねん 、グロ 作 さく 、『アイラウ戦場 せんじょう のナポレオン』部分 ぶぶん 。ルーヴル美術館 びじゅつかん 蔵 ぞう 。グロ同様 どうよう 、ジェリコーは暴力 ぼうりょく に気持 きも ちの高 たか まりを感 かん じ、人間 にんげん の尊大 そんだい さに振 ふ り回 まわ されていた[ 8] 。
ヒューバート・ウェリントンは『ドラクロアの日記 にっき The Journal of Eugene Delacroix 』序論 じょろん で、1819年 ねん のサロン 直前 ちょくぜん のフランス画 が 界 かい の様相 ようそう に対 たい する、ドラクロワの見解 けんかい について書 か いている。ウェリントンによれば、「古典 こてん 主義 しゅぎ と写実 しゃじつ 主義 しゅぎ 的 てき 見解 けんかい とが奇妙 きみょう に入 はい り混 ま じり、ダヴィッドの影響 えいきょう に縛 しば られて、今 いま や活気 かっき も関心 かんしん も失 うしな っていた。師 し 自身 じしん 、終 お わりが近 ちか く、ベルギー に亡命 ぼうめい した。彼 かれ の生徒 せいと の内 うち 最 もっと も穏健 おんけん なジロデは、洗練 せんれん された古典 こてん 様式 ようしき で、見事 みごと に端正 たんせい な絵 え を制作 せいさく していた。ジェラールは、皇帝 こうてい の庇護 ひご を受 う け、肖像 しょうぞう 画家 がか として非常 ひじょう に成功 せいこう した。いくつかの作品 さくひん は賞賛 しょうさん に値 あたい する。彼 かれ は、歴史 れきし 絵画 かいが の大作 たいさく が流行 りゅうこう した際 さい には、不本意 ふほんい ながらその流 なが れに同調 どうちょう した[ 34] 。」という。
『メデューズ号 ごう の筏 いかだ 』には、伝統 でんとう 的 てき 歴史 れきし 絵画 かいが の表現 ひょうげん や大 おお きさがある。しかし絵 え を見 み た一般 いっぱん の人々 ひとびと は、英雄 えいゆう にではなく、展開 てんかい する人間 にんげん ドラマに反応 はんのう した[ 60] 。ジェリコーの『筏 いかだ 』の絵 え には、特定 とくてい の英雄 えいゆう は登場 とうじょう せず、生 い き残 のこ った理由 りゆう が提示 ていじ されるわけでもない。作品 さくひん は、クリスチャン・ライディングの言葉 ことば を借 か りれば、「希望 きぼう の虚 むな しさと無意味 むいみ な苦 くる しみ、そして最悪 さいあく なことに、生 い き残 のこ ろうとする人間 にんげん の本能 ほんのう が、道徳 どうとく 的 てき に大切 たいせつ な問題 もんだい にとってかわり、文明 ぶんめい 人 じん が野蛮 やばん 行為 こうい に没頭 ぼっとう する[ 14] 」姿 すがた を示 しめ した。
救助 きゅうじょ 船 せん に向 む かって手 て を振 ふ っている中心 ちゅうしん 人物 じんぶつ の、見事 みごと な筋肉 きんにく 組織 そしき が新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ 様式 ようしき を連想 れんそう させるが、光 ひかり と影 かげ の自然 しぜん な雰囲気 ふんいき 、生存 せいぞん 者 しゃ たちが見 み せた絶望 ぜつぼう の表情 ひょうじょう のリアルさ、構図 こうず に現 あらわ れた感情 かんじょう 的 てき 特徴 とくちょう は、新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ のものとは明確 めいかく に異 こと なっている。初期 しょき の作品 さくひん の、宗教 しゅうきょう 的 てき あるいは古典 こてん 的 てき テーマから離 はな れて、現代 げんだい の出来事 できごと を主題 しゅだい に、一般 いっぱん 的 てき で英雄 えいゆう 的 てき でない人物 じんぶつ 像 ぞう を表 あらわ しているのである。主題 しゅだい の選択 せんたく も、ドラマティックな瞬間 しゅんかん を切 き り取 と る手法 しゅほう もロマン主義 しゅぎ に特有 とくゆう のものであり、ジェリコーが、ありふれた新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ 運動 うんどう から方向 ほうこう 転換 てんかん しつつあるという、はっきりした徴候 ちょうこう だといえる[ 21] 。
ヒューバート・ウェリントンがいうには、ドラクロワは生涯 しょうがい グロを崇拝 すうはい した一方 いっぽう で、青年 せいねん 期 き はジェリコーに傾倒 けいとう していたという。コントラストの強 つよ いトーン、型破 かたやぶ りな表現 ひょうげん から生 う まれるジェリコーのドラマティックな構成 こうせい は、ドラクロワを刺激 しげき し、自身 じしん の創造 そうぞう 的 てき 衝動 しょうどう を信 しん じて大作 たいさく への創作 そうさく 意欲 いよく を掻 か き立 た てた。ドラクロワは、「ジェリコーは、まだ制作 せいさく 途中 とちゅう の『メデューズ号 ごう の筏 いかだ 』を見 み せてくれた[ 34] 。その影響 えいきょう は、ドラクロワの『:File:Delacroix barque of dante 1822 louvre 189cmx246cm 950px.jpg|ダンテの小舟 こぶね 』(1822年 ねん )や、『ドン・ジュアンの遭難 そうなん 』(1840年 ねん )といった、のちの作品 さくひん のインスピレーションにも表 あらわ れている[ 58] 。
1822年 ねん 、ウジェーヌ・ドラクロワ作 さく 『ダンテの小舟 こぶね 』。ドラクロワの初期 しょき の作品 さくひん や、その後 ご の作品 さくひん には、『メデューズ号 ごう の筏 いかだ 』の影響 えいきょう が色濃 いろこ くみられる[ 58] 。
ウェリントンによれば、1830年 ねん 作 さく のドラクロワの傑作 けっさく 『民衆 みんしゅう を導 みちび く自由 じゆう の女神 めがみ 』には、ジェリコーの『メデューズ号 ごう の筏 いかだ 』とドラクロワ自身 じしん の『キオス島 とう の虐殺 ぎゃくさつ 』に直接 ちょくせつ 通 つう じる点 てん があるという。ウェリントンは「ジェリコーが事実 じじつ の詳細 しょうさい に関心 かんしん を持 も ち遭難 そうなん 経験 けいけん 者 しゃ をさらに探 さが し出 だ してモデルとしたのに対 たい し、全体 ぜんたい 的 てき にドラクロワは構成 こうせい をよりはっきりと組 く み立 た てて、人物 じんぶつ や群衆 ぐんしゅう を類型 るいけい としてとらえ、共和 きょうわ 制 せい の自由 じゆう を象徴 しょうちょう する人物 じんぶつ 像 ぞう マリアンヌ に導 みちび かれる構図 こうず にした。マリアンヌは、ドラクロワによる創造 そうぞう の中 なか でも最 もっと も優 すぐ れたものとなった[ 61] 。」と書 か いている。
芸術 げいじゅつ 歴史 れきし 家 か のアルバート・エルセンは、ロダン による彫刻 ちょうこく の傑作 けっさく 『地獄 じごく の門 もん 』の発想 はっそう 源 げん は、『メデューズ号 ごう の筏 いかだ 』とドラクロワの『キオス島 とう の虐殺 ぎゃくさつ 』だと考 かんが えている。「ドラクロワの『キオス島 とう の虐殺 ぎゃくさつ 』とジェリコーの『メデューズ号 ごう の筏 いかだ 』は、政治 せいじ 的 てき 悲劇 ひげき における罪 つみ のない無名 むめい の犠牲 ぎせい 者 しゃ を、英雄 えいゆう 的 てき な基準 きじゅん でロダンに突 つ き付 つ けた…もしロダンをミケランジェロ の『最後 さいご の審判 しんぱん 』に対抗 たいこう させたなら、彼 かれ は自分 じぶん の前 まえ にジェリコーの『メデューズ号 ごう の筏 いかだ 』を置 お いて、自 みずか らを鼓舞 こぶ しただろう[ 62] 。」と彼 かれ は書 か いている。
1824年 ねん 、ウジェーヌ・ドラクロワ 作 さく 、『キオス島 とう の虐殺 ぎゃくさつ 』。419 cm × 354 cm 、ルーヴル美術館 びじゅつかん 蔵 ぞう 。この絵 え はジェリコーの『メデューズ号 ごう の筏 いかだ 』を直接的 ちょくせつてき な源泉 げんせん としており、1824年 ねん 、ジェリコーの死 し の翌年 よくねん に描 えが かれた[ 63]
ギュスターヴ・クールベ (1819–1877)は反 はん ロマン主義 しゅぎ の画家 がか と評 ひょう されるが、有名 ゆうめい な『オルナンの埋葬 まいそう 』(1849–50)や『画家 がか のアトリエ』(1855)は『メデューズ号 ごう の筏 いかだ 』によるところが大 おお きい。その影響 えいきょう は、クールベ作品 さくひん の巨 きょ 大 たい さだけでなく、一般 いっぱん 市民 しみん や現代 げんだい の政治 せいじ 的 てき 事件 じけん を描 えが いて、日常 にちじょう 生活 せいかつ の中 なか の人々 ひとびと 、場所 ばしょ 、出来事 できごと の実際 じっさい を写 うつ し取 と ろうとする思考 しこう 面 めん にも現 あらわ れている[ 64] 。2004年 ねん のクラーク芸術 げいじゅつ 研究所 けんきゅうじょ の「こんにちわ、ムッシュー・クールベ 〜モンペリエ のファーブル美術館 びじゅつかん のブリュイヤス・コレクションより」と題 だい された展示 てんじ で、19世紀 せいき の写実 しゃじつ 主義 しゅぎ の画家 がか クールベ、ドーミエ (1808–1879)、初期 しょき のマネ (1832–1883)と、ジェリコーやドラクロワなどロマン派 は の画家 がか との比較 ひかく が試 こころ みられた。ロマン主義 しゅぎ の影響 えいきょう が見 み られる作品 さくひん には『メデューズ号 ごう の筏 いかだ 』を引 ひ き合 あ いに出 だ し、この展覧 てんらん 会 かい では全 すべ ての芸術 げいじゅつ 家 か の作品 さくひん の違 ちが いを展示 てんじ した[ 65] 。批評 ひひょう 家 か のマイケル・フライドは、マネの『キリストの墓 はか にいる天使 てんし 』の構成 こうせい は、息子 むすこ を抱 いだ きかかえた人物 じんぶつ 像 ぞう からヒントを得 え たものだと考 かんが えている[ 66] 。
『メデューズ号 ごう の筏 いかだ 』は、フランス以外 いがい の国 くに の画家 がか にも影響 えいきょう を及 およ ぼしている。アイルランド生 う まれの英国 えいこく の画家 がか フランシス・ダンビーが1824年 ねん に描 えが いた『嵐 あらし の後 のち の海 うみ に沈 しず む夕日 ゆうひ 』は、おそらくジェリコーの絵 え に触発 しょくはつ されたものであり、1829年 ねん には『メデューズ号 ごう の筏 いかだ 』は「これまで見 み た中 なか で、最 もっと も優 すぐ れて偉大 いだい な歴史 れきし 絵画 かいが である」と書 か き残 のこ している[ 67] 。
1833〜35年 ねん 、ターナー 作 さく 、『海難 かいなん 』(『アムピトリーテー号 ごう の難破 なんぱ 』とも)。171.5 cm × 220.5 cm 。テート・ギャラリー 蔵 ぞう 。おそらくターナーは、1820年 ねん のロンドン展示 てんじ の際 さい 、ジェリコーの『メデューズ号 ごう の筏 いかだ 』を観 み たのだろう。
他 た の多 おお くの英国 えいこく の画家 がか 同様 どうよう 、ターナー (1775–1851)は、おそらく1820年 ねん のロンドンでの展示 てんじ でジェリコーの絵 え を観 み て、海難 かいなん というテーマに取 と り組 く み始 はじ めた[ 68] [ 69] 。ターナーは、同様 どうよう の事件 じけん を年代 ねんだい 順 じゅん に記録 きろく したが、『海難 かいなん 』(1835年 ねん )では英国 えいこく の大 だい 災害 さいがい を、前景 ぜんけい に浸水 しんすい 船 せん と死 し にゆく人々 ひとびと を配置 はいち して描 えが いた。ターナーも、ドラマの中心 ちゅうしん に非 ひ 白人 はくじん の人物 じんぶつ 像 ぞう を配置 はいち し、『奴隷 どれい 船 せん 』(1840年 ねん )で同様 どうよう に奴隷 どれい 制度 せいど 廃止 はいし 運動 うんどう を暗示 あんじ した[ 68] 。
1899年 ねん 、ウィンスロー・ホーマー 作 さく 、『湾流 わんりゅう 』。71.5 cm × 124.8 cm 。メトロポリタン美術館 びじゅつかん 蔵 ぞう 。
『湾流 わんりゅう 』(1899年 ねん )は、アメリカ人 じん 画家 がか ウィンスロー・ホーマー (1836–1910年 ねん )の作品 さくひん で、『メデューズ号 ごう の筏 いかだ 』の構成 こうせい に類似 るいじ しており、壊 こわ れかけた船 ふね 、不気味 ぶきみ に群 む れる鮫 さめ 、差 さ し迫 せま る竜巻 たつまき が描 えが かれている。ホーマーは、ジェリコーと同 おな じく場面 ばめん の中心 ちゅうしん に黒人 こくじん 男性 だんせい を配置 はいち したが、ここでは船 ふね に乗 の っているのは彼 かれ ひとりである。遠 とお くに見 み える船 ふね は、ジェリコーの絵 え のアルゴス号 ごう の反映 はんえい であろう[ 70] 。ロマン主義 しゅぎ から写実 しゃじつ 主義 しゅぎ への移行 いこう が、ホーマーの人物 じんぶつ 像 ぞう が禁欲 きんよく 的 てき に忍従 にんじゅう する姿 すがた から読 よ み取 と れる[ 71] 。初期 しょき の作品 さくひん では、人物 じんぶつ は希望 きぼう や絶望 ぜつぼう を表現 ひょうげん していたかもしれないが、この作品 さくひん では「怒 おこ って黙 だま り込 こ む」姿 すがた に変 か わっている[ 70] 。
90年代 ねんだい 初 はじ めには、彫刻 ちょうこく 家 か のジョン・コネルが画家 がか のユージン・ニューマンと共同 きょうどう で取 と り組 く んだ『筏 いかだ プロジェクト』で、『メデューズ号 ごう の筏 いかだ 』を再現 さいげん した。大 おお きな木 き の筏 いかだ に、木 き 、紙 かみ 、タールを配置 はいち して、実物 じつぶつ 大 だい の彫刻 ちょうこく を作 つく り上 あ げた[ 72] 。
前景 ぜんけい の瀕死 ひんし の人物 じんぶつ 像 ぞう と、中央 ちゅうおう 部 ぶ で近 ちか づいてくる救援 きゅうえん 船 せん に向 む かって手 て を振 ふ る人物 じんぶつ 像 ぞう との対比 たいひ について、フランス芸術 げいじゅつ 歴史 れきし 家 か のジョルジュ=アントワーヌ・ボライアスは、ジェリコーの絵 え が表現 ひょうげん しているのは「片方 かたがた の手 て には、孤独 こどく と死 し 。もう片方 かたがた には希望 きぼう と人生 じんせい 。」[ 73] 。
ケネス・クラーク は、『メデューズ号 ごう の筏 いかだ 』は「裸体 らたい を通 とお して表現 ひょうげん されるロマン主義 しゅぎ のパトス の代表 だいひょう 的 てき な例 れい であり続 つづ ける。死 し の強迫 きょうはく 観念 かんねん のため、ジェリコーはいくつもの死体 したい 安置 あんち 所 しょ や公開 こうかい 処刑 しょけい 所 しょ に通 かよ い詰 つ め、その結果 けっか 、瀕死 ひんし の人物 じんぶつ や死者 ししゃ の描写 びょうしゃ に真実味 しんじつみ が生 う まれた。 彼 かれ らは大 おお まかには古典 こてん に分類 ぶんるい されるかもしれないが、厳 きび しい経験 けいけん への渇望 かつぼう と共 とも に再 ふたた び見直 みなお されている[ 74] 。
今日 きょう 、パリのペール・ラシェーズ墓地 ぼち にあるジェリコーの墓 はか には、アントワーヌ・エテクス 作 さく の『メデューズ号 ごう の筏 いかだ 』のブロンズ製 せい レリーフ が飾 かざ られている[ 75] 。
^ 他 た のボートはばらばらになり、ほとんどはセネガル のセント・ルイス島 とう に流 なが れ着 つ いた。幾 いく 艘 そう かは上陸 じょうりく し海岸 かいがん に沿 そ って進 すす んだが、熱 ねつ と飢餓 きが によっていくつかのグループを失 うしな った。42日 にち 後 ご に英国 えいこく に救助 きゅうじょ された時 とき 、メデューズ号 ごう に残 のこ る選択 せんたく をした17人 にん の内 うち 、まだ生 い き残 のこ っていたのはわずか3人 にん であった。
^ 解剖 かいぼう 学 がく のための体 からだ の一部 いちぶ , この異常 いじょう な静物 せいぶつ 画 が は、ジェリコーが1818〜1819年 ねん に描 えが いたもの。切断 せつだん された四肢 しし の山 やま 。
^ 特 とく に『アイラウの戦 たたか いのナポレオン 』(1807年 ねん )と『ヤッファのペスト患者 かんじゃ たちを見舞 みま うナポレオン 』(1804年 ねん )を参照 さんしょう のこと。
^ Berger, Klaus. "Géricault and His Work". Lawrence: カンザス大学 だいがく 出版 しゅっぱん 部 ぶ 、1955年 ねん 。78ページ。
^ 中野 なかの 京子 きょうこ 『名画 めいが で読 よ み解 と く ブルボン王朝 おうちょう 12の物語 ものがたり 』光文社 こうぶんしゃ 、2010年 ねん 、187頁 ぺーじ 。ISBN 978-4-334-03566-2 。
^ a b c d "The Raft of the Medusa " ル る ーブル美術館 ぶるびじゅつかん 。2008年 ねん 11月19日 にち 。
^ a b Grigsby, Darcy Grimaldo. Extremities: Painting Empire in Post-Revolutionary France . イェール大学 だいがく 出版 しゅっぱん 部 ぶ 、2002年 ねん 。177ページ。 ISBN 0-300-08887-6
^ Zarzeczny, Matthew. "Theodore Géricault’s 'The Raft of the Méduse' Part I". Member’s Bulletin of The Napoleonic Society of America 、2001年 ねん 秋 あき 。
^ Zarzeczny, Matthew. "Theodore Géricault’s 'The Raft of the Méduse' Part II". Member’s Bulletin of The Napoleonic Society of America 、2002年 ねん 春 はる 。
^ Grigsby, Darcy Grimaldo. Extremities: Painting Empire in Post-Revolutionary France . イェール大学 だいがく 出版 しゅっぱん 部 ぶ 、2002年 ねん 。174–78ページ。 ISBN 0-300-08887-6
^ a b c d e Trapp, Frank Anderson. "Gericault's 'Raft of the Medusa', Lorenz Eitner 著 ちょ 。The Art Bulletin , Volume 58 No 1, 1976年 ねん 3月 がつ 。134–37ページ。
^ Eitner, 191–192ページ。
^ Borias, 2:19
^ Miles,Jonathan. "Death and the masterpiece ". タイムズ 、2007年 ねん 3月 がつ 24日 にち 、2008年 ねん 11月20日 にち 。
^ Borias, 2:38
^ a b Brandt, Anthony. 「一掃 いっそう :ジェリコーは『メデューズ号 ごう の筏 いかだ 』を描 えが いた時 とき 、主題 しゅだい の恐怖 きょうふ に没頭 ぼっとう していた。」American Scholar 、2007年 ねん 秋 あき 。
^ a b c d Riding (2003年 ねん 2月 がつ )
^ a b Boime, 142ページ
^ a b Banham, Joanna. ""Shipwreck!" ". Times Educational Supplement , 2003年 ねん 2月 がつ 21日 にち 。2008年 ねん 1月 がつ 6日 にち 再 さい 録 ろく 。
^ Hagen & Hagen, 378ページ
^ Muther, 224ページ
^ 中野 なかの 京子 きょうこ 『中野 なかの 京子 きょうこ と読 よ み解 と く 名画 めいが の謎 なぞ 対決 たいけつ 篇 へん 』文藝春秋 ぶんげいしゅんじゅう 、2016年 ねん 、172頁 ぺーじ 。ISBN 978-4-16-390308-8 。
^ a b Wintle, 246ページ
^ a b c Karen Wilkin. "Romanticism at the Met". The New Criterion , Volume 22 , Issue 4, 2003年 ねん 12月。37ページ。
^ Miles, 180
^ a b Novotny, 85ページ
^ a b c Muther, 225–26ページ
^ a b Miles, 169
^ Borias, 11:38
^ a b c d e f g h i j k l m n Christiansen, Rupert. The Victorian Visitors: Culture Shock in Nineteenth-Century Britain ". ニューヨーク・タイムズ , 2001年 ねん 6月 がつ 3日 にち 。2008年 ねん 1月 がつ 4日 にち 再 さい 録 ろく 。
^ Miles, 169ページ
^ Borias, 9:04
^ a b Miles, 180ページ
^ a b Hagen & Hagen, 376ページ
^ a b c d e Riding (2003年 ねん 6月 がつ ), 75–77ページ
^ Eitner, Lorenz. 19th Century European Painting: David to Cézanne , 191–192ページ, Westview Press, 2002年 ねん . ISBN 0-8133-6570-8 .
^ a b c Wellington, xi
^ Miles, 175–76ページ
^ Eitner, 102ページ
^ Lacayo, Richard. "More fear of flying" . Time 、2007年 ねん 1月 がつ 8日 にち 。2008年 ねん 1月 がつ 7日 にち 再 さい 録 ろく
^ "Claude Joseph Vernet: The Shipwreck Archived 2016年 ねん 3月 がつ 3日 にち , at the Wayback Machine .". ナショナル・ギャラリー 。2008年 ねん 1月 がつ 7日 にち 再 さい 録 ろく 。
^ Borias, 10:11
^ Brown & Blaney; in Noon, 49ページ
^ a b Gayford, Martin. "Distinctive power ". The Spectator , 1997年 ねん 11月1日 にち 。findarticles.com 2008年 ねん 1月 がつ 6日 にち 再 さい 録 ろく
^ Noon, 84. Riding (2003年 ねん 6月 がつ ), 73ページ。フュースリーのウゴリーノより後 のち の印刷物 いんさつぶつ
^ Scène de cannibalisme sur le radeau de la Méduse . ル る ーブル美術館 ぶるびじゅつかん アート・グラフィック部門 ぶもん , RF 53032, recto. Joconde # 50350513324
^ a b Nicholson, Benedict. "The Raft of the Medusa from the Point of View of the Subject-Matter". Burlington Magazine , XCVI, 1954年 ねん 8月 がつ 。 241ページ—8行 ぎょう 目 め
^ "Morse’s Gallery of the Louvre: A Transatlantic Mission Archived 2012年 ねん 3月 がつ 30日 にち , at the Wayback Machine .". Terra Foundation for American Art. 2008年 ねん 1月 がつ 24日 にち 再 さい 録 ろく
^ Riding (June 2003), 71ページ
^ Searle, Adrian. "A beautiful friendship ". ガーディアン , 2003年 ねん 2月 がつ 11日 にち 。2008年 ねん 1月 がつ 13日 にち 再 さい 録 ろく
^ a b Riding (2003年 ねん 6月 がつ ), 72ページ
^ Miles, 186ページ
^ a b Riding (2003年 ねん 6月 がつ ), 68–73ページ
^ Riding, Christine. "Staging The Raft of the Medusa". Visual Culture in Britain . Volume 5, Issue 2, Winter 2004年 ねん 冬 ふゆ 。1–26ページ
^ Miles, 197ページ
^ Crary, Jonathan, "Géricault, the Panorama, and Sites of Reality in the Early Nineteenth Century," Grey Room No. 9 (2002年 ねん 秋 あき ), 16-17ページ
^ a b Smith, Roberta. "Art Review; Oui, Art Tips From Perfidious Albion ". ニューヨーク・タイムズ 、2003年 ねん 10月 がつ 10日 とおか 。2009年 ねん 1月 がつ 8日 にち 再 さい 録 ろく
^ Athanassoglou-Kallmyer, Nina & De Filippis, Marybeth. "New Discoveries: An American Copy of Géricault's Raft of the Medusa? Archived 2009年 ねん 3月 がつ 15日 にち , at the Wayback Machine .". New York Historical Society . 2008年 ねん 1月 がつ 9日 にち 再 さい 録 ろく
^ Moncure, Sue. "The case of the missing masterpiece ". デラウェア大学 だいがく , 2006年 ねん 10月 がつ 14日 にち 。2008年 ねん 1月 がつ 6日 にち 再 さい 録 ろく
^ Nichols, Lynn H. "The Rape of Europa: The Fate of Europe's Treasures in the Third Reich and the Second World War ". Vintage, 1994年 ねん 。55-56ページ ISBN 0-6797-5686-8
^ a b c Néret, 14–16ページ
^ "Jacques-Louis David: Empire to Exile ". ゲッティ美術館 びじゅつかん 。2008年 ねん 12月31日 にち 再 さい 録 ろく
^ Boime, 141ページ
^ Wellington, xv
^ Elsen, 226ページ
^ Wellington, 19–49ページ
^ Clark, T.J. Farewell to an Idea . 2001年 ねん 、イェール大学 だいがく 出版 しゅっぱん 部 ぶ 。21ページ。ISBN 0-300-08910-4
^ Giuliano, Charles. "Courbet at the Clark Archived 2011年 ねん 9月 がつ 30日 にち , at the Wayback Machine .". Maverick Arts Magazine . 2008年 ねん 12月29日 にち 再 さい 録 ろく
^ Fried, 92
^ Noon, 85ページ
^ a b Riding (2003年 ねん 6月 がつ ), 89ページ
^ "Crossing the Channel ". ミネアポリス美術 びじゅつ 研究所 けんきゅうじょ 、2003年 ねん 。2009年 ねん 1月 がつ 1日 にち 検索 けんさく
^ a b Dorment, Richard. "Painting the Unpaintable". The New York Review of Books . 1990年 ねん 9月 がつ 27日 にち
^ Griffin, Randall C. Homer, Eakins & Anshutz: The Search for American Identity in the Gilded Age . Penn State Press, 2004年 ねん . 102ページ. ISBN 0-271-02329-5
^ ARTnews, 1993年 ねん 夏 なつ
^ Borias, 12:32
^ Clark, Kenneth. The Nude: A Study in Ideal Form . プリンストン大学 ぷりんすとんだいがく 出版 しゅっぱん 部 ぶ 、1990年 ねん . 269ページ. ISBN 0-691-01788-3
^ Miles, 249ページ
Berger, Klaus & Gaericault, Thaeodore. Gericault: Drawings & Watercolors . New York: H. Bittner and Company, 1946年 ねん .
Boime, Albert. Art in an Age of Counterrevolution 1815–1848 . Chicago: シカゴ大学 だいがく 出版 しゅっぱん 局 きょく , 2004年 ねん . ISBN 0-226-06337-2
Borias, Georges-Antoine. Géricault: The Raft of the 'Medusa' (映画 えいが ). The Roland Collection of Films on Art. Touboul, Adrien 監督 かんとく 、1968年 ねん .
Eitner, Lorenz. Gericault's 'Raft of the Medusa' . New York, Phaidon, 1972年 ねん . ISBN 0-8021-4392-X
Eitner, Lorenz. 19th Century European Painting: David to Cézanne . Westview Press, 2002年 ねん . ISBN 0-8133-6570-8
Elsen, Albert. The Gates of Hell by Auguste Rodin . スタンフォード大学 だいがく 出版 しゅっぱん 局 きょく 、1985年 ねん . ISBN 0-8047-1273-5
Fried, Michael. Manet's Modernism: Or, the Face of Painting in the 1860s . シカゴ: シカゴ大学 だいがく 出版 しゅっぱん 局 きょく 、1998年 ねん . ISBN 0-226-26217-0
Grigsby, Darcy Grimaldo. Extremities: Painting Empire in Post-Revolutionary France, (a study of the works of Girodet, Gros, Gericault, and Delacroix). イェール大学 だいがく 出版 しゅっぱん 局 きょく 、2002年 ねん . ISBN 0-300-08887-6
Hagen, Rose-Marie & Hagen, Rainer. What Great Paintings Say . Vol. 1. Taschen, 2007年 ねん (25版 はん ). 374ページ7行 ぎょう . ISBN 3-8228-4790-9
McKee, Alexander. Wreck of the Medusa, The Tragic Story of the Death Raft . ロンドン: Souvenir Press, 1975年 ねん . ISBN 0-451-20044-6
Miles, Jonathan. The Wreck of the Medusa: The Most Famous Sea Disaster of the Nineteenth Century . Atlantic Monthly Press , 2007年 ねん . ISBN 978-0-87113-959-7
Muther, Richard. The History of Modern Painting Vol. 1 . ロンドン: J.M. Dent, 1907年 ねん .
Néret, Gilles. Eugène Delacroix: The Prince of Romanticism . Taschen, 2000年 ねん . ISBN 3-8228-5988-5
Nichols, Lynn H. (1994). The Rape of Europa: the Fate of Europe's Treasures in the Third Reich and the Second World War. ニューヨーク: Alfred A. Knopf. ISBN 978-0-679-40069-1 ; OCLC 246524635
Noon, Patrick & Bann, Stephen. Crossing the Channel: British and French Painting in the Age of Romanticism . ロンドン: テート・ギャラリー 出版 しゅっぱん , 2003年 ねん . ISBN 1-85437-513-X
Novotny, Fritz. Painting and Sculpture in Europe, 1780 to 1880 . ボルティモア: Penguin Books, 1960年 ねん .
Riding, Christine. "The Raft of the Medusa in Britain". In: Noon, Patrick & Bann, Stephen. Crossing the Channel: British and French Painting in the Age of Romanticism . ロンドン: テート・ギャラリー出版 しゅっぱん , 2003年 ねん 6月 がつ . ISBN 1-85437-513-X
Riding, Christine. "The Fatal Raft: Christine Riding Looks at British Reaction to the French Tragedy at Sea Immortalised in Gericault's Masterpiece 'the Raft of the Medusa'". History Today , 2003年 ねん 2月 がつ .
Rowe Snow, Edward. Tales of Terror and Tragedy . ニューヨーク: Dodd Mead, 1979年 ねん . ISBN 0-396-07775-7
Wellington, Hubert. The Journal of Eugène Delacroix . Phaidon (コーネル大学 だいがく 出版 しゅっぱん 局 きょく ), 1980年 ねん . Library of Congress Number 80-66413
Wintle, Justin. Makers of Nineteenth Century Culture . ロンドン: Routledge, 2001年 ねん . ISBN 0-415-26584-3