アレクサンドル・カバネル 『ヴィーナスの誕生 たんじょう 』(1863年 ねん )
アカデミック美術 びじゅつ (アカデミックびじゅつ、英 えい : academic art )とは、主 おも に西洋 せいよう 美術 びじゅつ における用語 ようご あるいは様式 ようしき である。
具体 ぐたい 的 てき には以下 いか のようなものを指 さ す。
フランス の芸術 げいじゅつ アカデミー の規範 きはん に影響 えいきょう された絵画 かいが ・画家 がか たちを指 さ す。芸術 げいじゅつ アカデミーでは新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ ならびにロマン主義 しゅぎ 運動 うんどう の下 した で実践 じっせん され、その2つを統合 とうごう しようという試 こころ みがなされた。それを良 よ く反映 はんえい しているのが、ウィリアム・アドルフ・ブグロー 、マルク=オーレル・ド・フォワ・スゾール=コテ 、トマ・クチュール 、ハンス・マカルト たちの作品 さくひん である。この文脈 ぶんみゃく において、アカデミック絵画 かいが は「伝統 でんとう 主義 しゅぎ 」「形式 けいしき 主義 しゅぎ 」「アール・ポンピエ 」、「折衷 せっちゅう 主義 しゅぎ (Eclecticism )」と呼 よ ぶことができ、「歴史 れきし 主義 しゅぎ (Historicism )」「混合 こんごう 主義 しゅぎ (Syncretism )」とも関係 かんけい することがある。
ヨーロッパ のアカデミー または大学 だいがく の影響 えいきょう を受 う けて作 つく られた絵画 かいが ・彫刻 ちょうこく の様式 ようしき のこと。 この文脈 ぶんみゃく においては、それまでアカデミック絵画 かいが と敵対 てきたい していた絵画 かいが が、学者 がくしゃ によって受 う け入 い れられると、今度 こんど はそれがアカデミック絵画 かいが になる。
なお、絵画 かいが 以外 いがい のアカデミックな芸術 げいじゅつ (Academic art )についても記 しる す。
最初 さいしょ の美術 びじゅつ アカデミーは、1563年 ねん ジョルジョ・ヴァザーリ がフィレンツェ に設立 せつりつ した「アカデミア・デッレ・アルティ・デル・ディゼーニョ(Accademia delle Arti del Disegno)」(現 げん フィレンツェ美術 びじゅつ 学校 がっこう Accademia di Belle Arti Firenze )である。そこの学生 がくせい たちは「arti del disegno」(ヴァザーリの造語 ぞうご 。直訳 ちょくやく すれば「素描 そびょう の芸術 げいじゅつ 」)を学 まな び、そこには解剖 かいぼう 学 がく と幾何 きか 学 がく の講義 こうぎ も含 ふく まれた。
それより10年 ねん ほど遅 おく れてローマ に、画家 がか の守護 しゅご 聖人 せいじん 、聖 きよし ルカ の名 な にちなんだ「アカデミア・ディ・サン・ルカ 」が設立 せつりつ された。こちらは教育 きょういく 的 てき な機能 きのう を果 は たし、フィレンツェのアカデミアより美学 びがく 理論 りろん を大切 たいせつ に考 かんが えていた。
1582年 ねん には、アンニーバレ・カラッチ が自費 じひ でボローニャ に「Accademia dei Desiderosi」を開 ひら いた(続 つづ いて1585年 ねん 頃 ごろ には「アカデミア・デリ・インカミナーティ」を設立 せつりつ )。いくつかの点 てん で、伝統 でんとう 的 てき な芸術 げいじゅつ 家 か の工房 こうぼう に似 に ていたが、カラッチはその当時 とうじ に魅力 みりょく のある言葉 ことば だった「アカデミア」という看板 かんばん が必要 ひつよう だと感 かん じてそう名付 なづ けた。
アカデミア・ディ・サン・ルカを手本 てほん として、1648年 ねん にフランスで「王立 おうりつ 絵画 かいが 彫刻 ちょうこく アカデミー 」が設立 せつりつ された。後 ご の「芸術 げいじゅつ アカデミー (Académie des Beaux-Arts)」である。フランスのアカデミーは「arti del disegno」を「beaux arts(ボザール )」と翻案 ほんあん したようで、英語 えいご の「fine arts(ファインアート )」は「beaux arts」の直訳 ちょくやく である。王立 おうりつ 絵画 かいが ・彫刻 ちょうこく アカデミーは、手作業 てさぎょう を重視 じゅうし する職人 しょくにん と、「教養 きょうよう 科目 かもく を修 おさ めた紳士 しんし である」芸術 げいじゅつ 家 か とを区別 くべつ する目的 もくてき があった。創作 そうさく におけるこの知的 ちてき 要素 ようそ の強調 きょうちょう は、アカデミック絵画 かいが のテーマや様式 ようしき にかなりの影響 えいきょう を及 およ ぼした。
1661年 ねん 、フランス国内 こくない のあらゆる芸術 げいじゅつ 活動 かつどう の統制 とうせい を目論 もくろ んだルイ14世 せい によって王立 おうりつ 絵画 かいが ・彫刻 ちょうこく アカデミーが再編 さいへん されてから、17世紀 せいき の終 お わりまで、芸術 げいじゅつ に対 たい する姿勢 しせい の優位 ゆうい をめぐって会員 かいいん の間 あいだ で論争 ろんそう が起 お こった。具体 ぐたい 的 てき に、この「様式 ようしき の戦争 せんそう 」はピーテル・パウル・ルーベンス とニコラ・プッサン のどちらをこれからの手本 てほん とするか、というものだった。プッサン派 は (poussinistes)は知性 ちせい に訴 うった える線 せん (disegno)に重 おも きをおくべし、ルーベンス派 は (rubenistes)は感情 かんじょう に訴 うった える色 いろ (colore)に重 おも きをおくべし、とそれぞれ主張 しゅちょう した。
この論争 ろんそう は19世紀 せいき 初期 しょき に、ドミニク・アングル の作品 さくひん に象徴 しょうちょう される新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ 運動 うんどう と、ウジェーヌ・ドラクロワ の作品 さくひん に象徴 しょうちょう されるロマン主義 しゅぎ との間 あいだ で再燃 さいねん した。さらに、絵 え を学 まな ぶのは自然 しぜん を観察 かんさつ して学 まな ぶべきか、過去 かこ の巨匠 きょしょう の絵 え を見 み て学 まな ぶべきかという論争 ろんそう も起 お こった。
フランスのアカデミーを手本 てほん とし、その教 おし え方 かた とスタイルを真似 まね たアカデミーがヨーロッパ中 ちゅう に現 あらわ れた。イングランドではロイヤル・アカデミー・オブ・アーツがそうだった。アカデミーの流行 りゅうこう は女性 じょせい 画家 がか たちの絵 え の勉強 べんきょう を困難 こんなん にした。19世紀 せいき 後半 こうはん まで多 おお くのアカデミーが女性 じょせい を閉 し め出 だ していたからである(たとえばロイヤル・アカデミーへの女学生 じょがくせい の入学 にゅうがく は1861年 ねん まで)。20世紀 せいき まで、ヌードモデルを使 つか った「ライフ・クラス(Life class )」が女学生 じょがくせい に適当 てきとう かという懸念 けねん が一部 いちぶ にはあった。
プッサン派 は ・ルーベンス派 は 論争 ろんそう 以来 いらい 、多 おお くの画家 がか たちがこの2つの様式 ようしき の間 あいだ で仕事 しごと をした。しかし、19世紀 せいき の論争 ろんそう の時 とき は、2つの様式 ようしき 、つまり新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ とロマン主義 しゅぎ を統合 とうごう しようという試 こころ みがなされた。それを成 な し遂 と げた画家 がか として評論 ひょうろん 家 か たちが名前 なまえ を挙 あ げた中 なか には、テオドール・シャセリオー 、アリ・シェフェール 、フランチェスコ・アイエツ 、アレクサンドル=ガブリエル・ドゥカン 、トマ・クチュール らがいる[要 よう 出典 しゅってん ] 。後期 こうき のアカデミック画家 がか 、ウィリアム・アドルフ・ブグローは、良 よ い画家 がか である秘訣 ひけつ は「色 いろ と線 せん を同 おな じものとして見 み ること」とコメントした[要 よう 出典 しゅってん ] 。トマ・クチュールは美術 びじゅつ 技法 ぎほう について書 か いた本 ほん の中 なか でそれと同 おな じ考 かんが えを推奨 すいしょう し、こう主張 しゅちょう した。この絵 え は色 いろ がより良 よ い、線 せん がより良 よ いと言 い うのはナンセンスだ。なぜなら色 いろ が素晴 すば らしく見 み えるのは線 せん がそう見 み せているからで、逆 ぎゃく もまたそうである。実際 じっさい には、色 いろ は形 かたち の「色 いろ 価 か (value)」について語 かた る方法 ほうほう である。
この時代 じだい の進展 しんてん には、もう一 ひと つ、絵 え に描 えが かれた「時代 じだい 」を示 しめ すための様式 ようしき 、つまり「歴史 れきし 主義 しゅぎ 」があった。それを良 よ く表 あらわ しているのがジェームズ・ティソ の影響 えいきょう を受 う けたジャン・オーギュスト・エンドリック・レイスの作品 さくひん である。さらにNeo-Grec (新 しん ギリシア)様式 ようしき の発展 はってん もあった。歴史 れきし 主義 しゅぎ は、異 こと なる過去 かこ の絵画 かいが の伝統 でんとう の新 しん 機軸 きじく を結合 けつごう ・調和 ちょうわ させるべきとするアカデミック絵画 かいが に関連 かんれん した信念 しんねん および実践 じっせん をも指 さ すものだった。
ウィリアム・アドルフ・ブグロー『日 ひ 』(1881年 ねん )
美術 びじゅつ 界 かい はまた絵画 かいが の中 なか の「寓意 ぐうい 」に注目 ちゅうもく しはじめた。線 せん と色 いろ の重要 じゅうよう 性 せい を説 と くどちらの理論 りろん も、画家 がか が寓意 ぐうい を使 つか うことは心理 しんり 的 てき 効果 こうか を生 う む手段 しゅだん を抑制 よくせい するものの、その中 なか でテーマ・感情 かんじょう ・概念 がいねん が表 あらわ されるかも知 し れないと主張 しゅちょう した。画家 がか たちは実 み 作 さく の中 なか でそうした理論 りろん の統合 とうごう を試 こころ み、寓意 ぐうい 的 てき ・比喩 ひゆ 的 てき な手段 しゅだん として美術 びじゅつ 作品 さくひん に特別 とくべつ な注意 ちゅうい を払 はら うことを強調 きょうちょう した。絵画 かいが ・彫刻 ちょうこく の表現 ひょうげん がプラトン の「イデア 」を想起 そうき させるならば、通常 つうじょう の表現 ひょうげん の背後 はいご に、抽象 ちゅうしょう 的 てき な何 なに か、永遠 えいえん の真実 しんじつ が垣間見 かいまみ えるはずだと考 かんが えた。ジョン・キーツ が「美 び は真実 しんじつ 、真実 しんじつ は美 び 」と言 い ったのはそのためである。絵画 かいが は「イデー(idée)」、完全 かんぜん なイデアであるべきと望 のぞ まれた。ブグローは「ある戦争 せんそう (a war)」を書 か くのではなく「戦争 せんそう (War)」を書 か きたいと言 い ったことは有名 ゆうめい である。アカデミック画家 がか たちの描 えが いた絵画 かいが の多 おお くに「夜明 よあ け」「黄昏 たそがれ 」「視覚 しかく 」「味覚 みかく 」といった寓意 ぐうい 的 てき なタイトルがつけられていて、一人 ひとり の裸体 らたい の人物 じんぶつ にそれを擬人 ぎじん 化 か し、イデアの本質 ほんしつ を明 あき らかにする方法 ほうほう で構成 こうせい した。
この傾向 けいこう は写実 しゃじつ 主義 しゅぎ とは反対 はんたい の観念論 かんねんろん に向 む かうもので、描 えが かれる人物 じんぶつ 像 ぞう はより簡潔 かんけつ に、より抽象 ちゅうしょう 的 てき になっていった(つまり観念 かんねん 化 か )。これは自然 しぜん に見 み える形 かたち を普遍 ふへん 化 か し、それを作品 さくひん の全体 ぜんたい 構成 こうせい ・テーマより下位 かい に置 お くことを要件 ようけん とした。
歴史 れきし ならびに神話 しんわ は劇 げき 、あるいは概念 がいねん の弁証法 べんしょうほう 、寓意 ぐうい のための豊 ゆた かな基盤 きばん と見 み なされ、それらから採 と られたテーマを使 つか うことは絵画 かいが の最 もっと も重厚 じゅうこう な形 かたち だと考 かんが えられた。17世紀 せいき に始 はじ まった「ジャンルのヒエラルキー (英語 えいご 版 ばん ) 」は、古典 こてん 的 てき ・宗教 しゅうきょう 的 てき ・神話 しんわ 的 てき ・文学 ぶんがく 的 てき ・寓意 ぐうい 的 てき テーマの「歴史 れきし 画 が 」をその頂点 ちょうてん に置 お き、その下 した に風俗 ふうぞく 画 が 、肖像 しょうぞう 画 が 、静物 せいぶつ 画 が 、風景 ふうけい 画 が が続 つづ いた。歴史 れきし 画 が は「grande genre」として知 し られた。ハンス・マカルト はしばしば実物 じつぶつ 大 だい より大 おお きな歴史 れきし 画 が を描 えが き、19世紀 せいき ウィーン 文化 ぶんか で圧倒的 あっとうてき 優位 ゆうい を誇 ほこ るべく、それを装飾 そうしょく における歴史 れきし 主義 しゅぎ と結合 けつごう させた。フランスの歴史 れきし 画 が を象徴 しょうちょう する画家 がか はポール・ドラローシュ である。
こうした傾向 けいこう はすべてが、歴史 れきし は最終 さいしゅう 的 てき に「合 ごう (ジンテーゼ)」の中 なか で解決 かいけつ する矛盾 むじゅん した概念 がいねん の弁証法 べんしょうほう だとする、哲学 てつがく 者 しゃ ヘーゲル の理論 りろん の影響 えいきょう を受 う けていた。
19世紀 せいき 末 まつ にかけて、アカデミック絵画 かいが はヨーロッパ社交 しゃこう 界 かい にたっぷりと浸透 しんとう した。展覧 てんらん 会 かい が頻繁 ひんぱん に開催 かいさい されたが、その中 なか で最 もっと も有名 ゆうめい なものはサロン (サロン・ド・パリ)と、1903年 ねん スタートのサロン・ドートンヌ だった。こうしたサロンは国内 こくない 国外 こくがい を問 と わず大勢 おおぜい の観客 かんきゃく が詰 つ めかけるセンセーショナルなイヴェントだった。日曜日 にちようび 一 いち 日 にち だけで5万 まん 人 にん 、2ヶ月 かげつ の開催 かいさい で50万 まん 人 にん の集客 しゅうきゃく もあった。多数 たすう の絵 え は、現在 げんざい 「サロン・スタイル(Salon style)」と呼 よ ばれている方法 ほうほう で、つまり、天井 てんじょう から目 め の高 たか さの下 した まで縦 たて に吊 つる されて展示 てんじ された。サロンにかかることは画家 がか たちが認 みと められた証 あかし で、作品 さくひん はコレクターたちの間 あいだ で値 ね が上 あ がった。ブグロー、アレクサンドル・カバネル、ジャン=レオン・ジェローム が美術 びじゅつ 界 かい で超 ちょう 一流 いちりゅう の人物 じんぶつ だった。
アカデミック絵画 かいが 隆盛 りゅうせい の時期 じき 、それまで評価 ひょうか の低 ひく かったロココ 時代 じだい の絵画 かいが がリバイバルし、そこに描 えが かれていたアモール とプシケー といったテーマが再 ふたた び人気 にんき を呼 よ んだ。またアカデミック絵画 かいが はその作品 さくひん の観念 かんねん 性 せい からラファエロ をミケランジェロ 以上 いじょう に崇拝 すうはい した。
アカデミック絵画 かいが はヨーロッパやアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく だけでなく、西洋 せいよう 以外 いがい の国 くに 、とくに、フランス革命 かくめい を手本 てほん として革命 かくめい を起 お こし、フランス文化 ぶんか を模倣 もほう したラテンアメリカ 諸国 しょこく などにもその影響 えいきょう を広 ひろ げた。ラテンアメリカのアカデミック画家 がか には、メキシコ のアンヘル・サラガ [1] などがいる。
人物 じんぶつ 写生 しゃせい するエコールの学生 がくせい たち(19世紀 せいき 後期 こうき に撮影 さつえい )
若 わか い画家 がか たちは数 すう 年間 ねんかん 厳 きび しい訓練 くんれん に明 あ け暮 く れた。フランスでは、試験 しけん に受 う かり、著名 ちょめい な美術 びじゅつ 教授 きょうじゅ からの推薦 すいせん 状 じょう を貰 もら った学生 がくせい たちだけがアカデミーの付属 ふぞく 学校 がっこう エコール・デ・ボザール に入学 にゅうがく を許 ゆる された。「académies」と呼 よ ばれたヌードのデッサンと彩 いろどり 画 が がアカデミック絵画 かいが の基本 きほん で、その技術 ぎじゅつ の習得 しゅうとく 方法 ほうほう は明確 めいかく に定 さだ められていた。最初 さいしょ に、学生 がくせい たちは古典 こてん 彫刻 ちょうこく の印刷物 いんさつぶつ を模写 もしゃ し、輪郭 りんかく ・光 ひかり の陰影 いんえい に馴染 なじ まされた。アカデミック教育 きょういく にとって模写 もしゃ は重要 じゅうよう なものと考 かんが えられていた。過去 かこ の美術家 びじゅつか の作品 さくひん を模写 もしゃ することは、その芸術 げいじゅつ 技法 ぎほう を吸収 きゅうしゅう するためである。次 つぎ のステップに進 すす むためには、学生 がくせい たちは評価 ひょうか のためにデッサンを提出 ていしゅつ しなければならなかった。もしそれが認 みと められたら、有名 ゆうめい な古典 こてん 彫刻 ちょうこく の石膏 せっこう 模型 もけい のデッサンが待 ま っていた。その技術 ぎじゅつ を身 み につけた者 もの だけが、ポーズをとったモデルを写生 しゃせい する教室 きょうしつ に入 はい ることを許 ゆる された。面白 おもしろ いことに、エコール・デ・ボザールでは1863年 ねん になるまで絵 え の具 ぐ を使 つか った彩 いろどり 画 が は教 おし えられなかった。筆 ふで を使 つか って彩 いろどり 画 かく するためには、学生 がくせい たちはデッサンで実力 じつりょく を示 しめ さなければならなかった。デッサンはアカデミック絵画 かいが の彩 いろどり 画 が の基本 きほん と考 かんが えられていた。それが認 みと められた者 もの だけが、アカデミー会員 かいいん のアトリエに弟子 でし として入 はい り、彩 いろどり 画 が を学 まな ぶことができた。全 ぜん 課程 かてい を通 とお して、与 あた えられたテーマと定 さだ められた時間 じかん でコンペ が開 ひら かれ、学生 がくせい たちの成長 せいちょう が量 はか られた。
学生 がくせい のための美術 びじゅつ コンペで最 もっと も有名 ゆうめい なものがローマ賞 しょう だった。ローマ賞 しょう の優勝 ゆうしょう 者 しゃ はローマにあるアカデミー・フランセーズ のヴィラ・メディチ 校 こう (現 げん ローマ・フランス・アカデミー で最長 さいちょう 5年間 ねんかん 学 まな ぶための奨学 しょうがく 金 きん を得 え られた。コンペ参加 さんか の条件 じょうけん は、フランス国籍 こくせき を持 も つ男性 だんせい で独身 どくしん かつ30歳 さい 以下 いか だった。さらにエコールの入学 にゅうがく 資格 しかく を満 み たし、有名 ゆうめい な美術 びじゅつ 教師 きょうし の指示 しじ も必要 ひつよう だった。競争 きょうそう は厳 きび しく、ファイナルまで幾 いく つもの段階 だんかい があった。10人 にん のコンペ参加 さんか 者 しゃ が72日間 にちかん 、アトリエに隔離 かくり され、最終 さいしゅう 審査 しんさ の対象 たいしょう となる歴史 れきし 画 が を描 えが いた。優勝 ゆうしょう 者 しゃ はプロとしてのキャリアを約束 やくそく された。
前述 ぜんじゅつ した通 とお り、サロンでの展示 てんじ も画家 がか として認 みと められた証 あかし だった。そしてプロの画家 がか たちの最終 さいしゅう 目標 もくひょう はアカデミー・フランセーズ会員 かいいん に選 えら ばれることだった。画家 がか たちはサロンに絵 え を展示 てんじ する委員 いいん に、自分 じぶん の絵 え を最善 さいぜん の「線上 せんじょう 」つまり目 め の高 たか さで展示 てんじ して欲 ほ しいと頼 たの んだ。展覧 てんらん 会 かい が始 はじ まって、もし絵 え が「空 そら 」つまり天井 てんじょう 近 ちか くの高 たか いところに展示 てんじ されていたら、画家 がか たちは不平 ふへい を訴 うった えた。
アカデミック絵画 かいが への最初 さいしょ の批判 ひはん は、ギュスターヴ・クールベ ら写実 しゃじつ 主義 しゅぎ の画家 がか たちから、その観念 かんねん 性 せい に対 たい して浴 あ びせられた。それらは観念 かんねん 的 てき なクリシェ と神話 しんわ ・伝説 でんせつ のモチーフ に基 もと づく一方 いっぽう 、現代 げんだい 社会 しゃかい との関係 かんけい 性 せい がまったく無視 むし されているというのである。写実 しゃじつ 主義 しゅぎ によるもうひとつの批判 ひはん は、彩 いろどり 画 が の「筆 ふで 使 づか いをわざと消 け した表面 ひょうめん のなめらかさ」(Licked finish 参照 さんしょう )だった。オブジェはリアルな質感 しつかん を持 も たず、なめらかにつるつると、理想 りそう 化 か されて描 えが かれていたのである。写実 しゃじつ 主義 しゅぎ 画家 がか テオデュール・リボー はそれに対抗 たいこう して、ラフで未 み 完成 かんせい の質感 しつかん を持 も った作品 さくひん を試作 しさく した。
オノレ・ドーミエ 画 が 『今年 ことし もヴィーナス……いつもヴィーナス』(『Le Charivati』No.2、1864年 ねん )
スタイル的 てき には、目 め で見 み たものをその場 ば で描 えが く、En plein air (屋外 おくがい )での絵画 かいが を主張 しゅちょう していた印象派 いんしょうは たちが、アカデミック絵画 かいが の垢抜 あかぬ けして理想 りそう 化 か (概念 がいねん 化 か )されたスタイルを批判 ひはん した。アカデミック画家 がか たちは最初 さいしょ にデッサンし、それから油絵具 あぶらえのぐ でスケッチするのだが、その高 たか い完成 かんせい 度 ど が印象派 いんしょうは には嘘 うそ に見 み えたのだった。油絵具 あぶらえのぐ でスケッチした後 のち 、アカデミック画家 がか たちは、イメージを理想 りそう 化 か し細 こま かいディテールを描 えが き足 た すために「fini」(入念 にゅうねん な仕上 しあ げ)を施 ほどこ す。遠近 えんきん 法 ほう は平面 へいめん 上 じょう に幾何 きか 学 がく 的 てき に構築 こうちく され、実際 じっさい に見 み たものではなく、印象派 いんしょうは は機械 きかい 的 てき な技法 ぎほう への傾倒 けいとう を否定 ひてい した。
写実 しゃじつ 主義 しゅぎ も印象派 いんしょうは も、静物 せいぶつ 画 が や風景 ふうけい 画 が を下位 かい に置 お くジャンルのヒエラルキーを否定 ひてい した。注意 ちゅうい しておかなければならないのは、写実 しゃじつ 主義 しゅぎ や印象派 いんしょうは などアカデミスムに抵抗 ていこう した初期 しょき アヴァンギャルド の画家 がか たちは、元々 もともと はアカデミック画家 がか のアトリエにいたことである。クロード・モネ 、ギュスターヴ・クールベ 、エドゥアール・マネ はアカデミック画家 がか たちの弟子 でし だった。より後期 こうき の前衛 ぜんえい 画家 がか に位置 いち するゴッホ 、ロートレック らもフェルナン・コルモン の弟子 でし として基礎 きそ 的 てき な技術 ぎじゅつ ・知識 ちしき を習得 しゅうとく しており、さらにはアンリ・マティス までそうした教育 きょういく を受 う けている。
近代 きんだい 美術 びじゅつ (Modern art )とそのアヴァンギャルドが力 ちから をつけ、アカデミック絵画 かいが はさらに批判 ひはん され、「感傷 かんしょう 的 てき 」「クリシェ」「保守 ほしゅ 的 てき 」「因襲 いんしゅう 性 せい 」「ブルジョワ的 てき 」「趣味 しゅみ が良 よ くない」と見 み なされた。フランスでは、アカデミック絵画 かいが のスタイルは、ジャック=ルイ・ダヴィッド の絵 え の中 なか の兵士 へいし が消防 しょうぼう 士 し (ポンピエ)のようなヘルメットをかぶっていることから「アール・ポンピエ 」と、またその絵 え は仕掛 しか けとトリックを通 とお して偽 いつわ りの感情 かんじょう を生 う み出 だ したとされ、「grande machines」と呼 よ ばれることもある。アカデミック絵画 かいが に対 たい するこうした誹謗 ひぼう は、美術 びじゅつ 評論 ひょうろん 家 か クレメント・グリーンバーグ がすべてのアカデミック絵画 かいが は「キッチュ 」であると本 ほん に書 か いたことでピークに達 たっ した。アカデミック絵画 かいが への言及 げんきゅう は美術 びじゅつ 史 し や参考 さんこう 書 しょ から徐々 じょじょ に姿 すがた を消 け していった。
しかしこうした前衛 ぜんえい 絵画 かいが の黄金 おうごん 期 き が過 す ぎ去 さ り始 はじ めた1950年 ねん ・60年代 ねんだい 以降 いこう 、かつて前衛 ぜんえい 画家 がか やその先駆 せんく 者 しゃ 達 たち が批判 ひはん したアカデミー教育 きょういく と同 おな じ「権威 けんい 主義 しゅぎ 」と化 か した前衛 ぜんえい 絵画 かいが 運動 うんどう への批判 ひはん が展開 てんかい され始 はじ めた。当時 とうじ の美術 びじゅつ 史 し 教育 きょういく ではルネサンス以降 いこう に権威 けんい に縋 すが るようになったアカデミック系 けい の芸術 げいじゅつ 家 か が全 まった く違 ちが う経緯 けいい から発展 はってん した印象派 いんしょうは に打 う ち倒 たお され、そしてこれを継承 けいしょう した前衛 ぜんえい 絵画 かいが が今日 きょう の絵画 かいが 芸術 げいじゅつ を担 にな っているという「前衛 ぜんえい 絵画 かいが 史観 しかん 」が一般 いっぱん 的 てき となっていた。アカデミズム美術 びじゅつ の再 さい 評価 ひょうか を進 すす めた美術 びじゅつ 史家 しか アルバート・ボイム (英語 えいご 版 ばん ) は自身 じしん が受 う けた大学院 だいがくいん 教育 きょういく について、「スライドショー でセザンヌ のパレードが展開 てんかい される間 あいだ 、まるで息抜 いきぬ きがてら道化 どうけ 芝居 しばい を見 み せるようにジェロームらアカデミック美術 びじゅつ の絵画 かいが が一 いち 枚 まい だけ表示 ひょうじ された」と回想 かいそう している。
ボイムらによって美術 びじゅつ 史上 しじょう で「取 と るに足 た らない存在 そんざい 」という扱 あつか いを受 う けていた最 さい 末期 まっき の新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ 派 は の画家 がか 達 たち も再 さい 評価 ひょうか される流 なが れとなった。また並行 へいこう する形 かたち で一般 いっぱん 社会 しゃかい でも写実 しゃじつ 主義 しゅぎ や正確 せいかく なデッサンなどの古典 こてん 的 てき な価値 かち 観 かん が求 もと められる傾向 けいこう にあり、アカデミック絵画 かいが の再 さい 評価 ひょうか にはずみをつけている。
Art and the Academy in the Nineteenth Century . (2000). Denis, Rafael Cordoso & Trodd, Colin (Eds). Rutgers University Press. ISBN 0-8135-2795-3
L'Art-Pompier . (1998). Lécharny, Louis-Marie, Que sais-je?, Presses Universitaires de France. ISBN 2-13-049341-6
L'Art pompier: immagini, significati, presenze dell'altro Ottocento francese (1860-1890) . (1997). Luderin, Pierpaolo, Pocket library of studies in art, Olschki. ISBN 88-222-4559-8
「特集 とくしゅう 美術 びじゅつ アカデミー」『西洋 せいよう 美術 びじゅつ 研究 けんきゅう 』2(1999年 ねん ) 三 さん 元 げん 社 しゃ
『アカデミーとフランス近代 きんだい 絵画 かいが 』アルバート・ボイム(2005年 ねん ) 三 さん 元 げん 社 しゃ