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アカデミック美術びじゅつ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
アカデミック絵画かいがから転送てんそう
アレクサンドル・カバネル『ヴィーナスの誕生たんじょう』(1863ねん

アカデミック美術びじゅつ(アカデミックびじゅつ、えい: academic art)とは、おも西洋せいよう美術びじゅつにおける用語ようごあるいは様式ようしきである。

具体ぐたいてきには以下いかのようなものをす。

  1. フランス芸術げいじゅつアカデミー規範きはん影響えいきょうされた絵画かいが画家がかたちをす。
    芸術げいじゅつアカデミーではしん古典こてん主義しゅぎならびにロマン主義しゅぎ運動うんどうした実践じっせんされ、その2つを統合とうごうしようというこころみがなされた。それを反映はんえいしているのが、ウィリアム・アドルフ・ブグローマルク=オーレル・ド・フォワ・スゾール=コテトマ・クチュールハンス・マカルトたちの作品さくひんである。この文脈ぶんみゃくにおいて、アカデミック絵画かいがは「伝統でんとう主義しゅぎ」「形式けいしき主義しゅぎ」「アール・ポンピエ」、「折衷せっちゅう主義しゅぎEclecticism)」とぶことができ、「歴史れきし主義しゅぎHistoricism)」「混合こんごう主義しゅぎSyncretism)」とも関係かんけいすることがある。
  2. ヨーロッパアカデミーまたは大学だいがく影響えいきょうけてつくられた絵画かいが彫刻ちょうこく様式ようしきのこと。
    この文脈ぶんみゃくにおいては、それまでアカデミック絵画かいが敵対てきたいしていた絵画かいがが、学者がくしゃによってれられると、今度こんどはそれがアカデミック絵画かいがになる。

なお、絵画かいが以外いがいのアカデミックな芸術げいじゅつAcademic art)についてもしるす。

概要がいよう

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美術びじゅつアカデミーの歴史れきし

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最初さいしょ美術びじゅつアカデミーは、1563ねんジョルジョ・ヴァザーリフィレンツェ設立せつりつした「アカデミア・デッレ・アルティ・デル・ディゼーニョ(Accademia delle Arti del Disegno)」(げんフィレンツェ美術びじゅつ学校がっこう Accademia di Belle Arti Firenze)である。そこの学生がくせいたちは「arti del disegno」(ヴァザーリの造語ぞうご直訳ちょくやくすれば「素描そびょう芸術げいじゅつ」)をまなび、そこには解剖かいぼうがく幾何きかがく講義こうぎふくまれた。

それより10ねんほどおくれてローマに、画家がか守護しゅご聖人せいじんきよしルカにちなんだ「アカデミア・ディ・サン・ルカ」が設立せつりつされた。こちらは教育きょういくてき機能きのうたし、フィレンツェのアカデミアより美学びがく理論りろん大切たいせつかんがえていた。

1582ねんには、アンニーバレ・カラッチ自費じひボローニャに「Accademia dei Desiderosi」をひらいた(つづいて1585ねんごろには「アカデミア・デリ・インカミナーティ」を設立せつりつ)。いくつかのてんで、伝統でんとうてき芸術げいじゅつ工房こうぼうていたが、カラッチはその当時とうじ魅力みりょくのある言葉ことばだった「アカデミア」という看板かんばん必要ひつようだとかんじてそう名付なづけた。

アカデミア・ディ・サン・ルカを手本てほんとして、1648ねんにフランスで「王立おうりつ絵画かいが彫刻ちょうこくアカデミー」が設立せつりつされた。の「芸術げいじゅつアカデミー(Académie des Beaux-Arts)」である。フランスのアカデミーは「arti del disegno」を「beaux arts(ボザール)」と翻案ほんあんしたようで、英語えいごの「fine arts(ファインアート)」は「beaux arts」の直訳ちょくやくである。王立おうりつ絵画かいが彫刻ちょうこくアカデミーは、手作業てさぎょう重視じゅうしする職人しょくにんと、「教養きょうよう科目かもくおさめた紳士しんしである」芸術げいじゅつとを区別くべつする目的もくてきがあった。創作そうさくにおけるこの知的ちてき要素ようそ強調きょうちょうは、アカデミック絵画かいがのテーマや様式ようしきにかなりの影響えいきょうおよぼした。

1661ねん、フランス国内こくないのあらゆる芸術げいじゅつ活動かつどう統制とうせい目論もくろんだルイ14せいによって王立おうりつ絵画かいが彫刻ちょうこくアカデミーが再編さいへんされてから、17世紀せいきわりまで、芸術げいじゅつたいする姿勢しせい優位ゆういをめぐって会員かいいんあいだ論争ろんそうこった。具体ぐたいてきに、この「様式ようしき戦争せんそう」はピーテル・パウル・ルーベンスニコラ・プッサンのどちらをこれからの手本てほんとするか、というものだった。プッサン(poussinistes)は知性ちせいうったえるせん(disegno)におもきをおくべし、ルーベンス(rubenistes)は感情かんじょううったえるいろ(colore)におもきをおくべし、とそれぞれ主張しゅちょうした。

この論争ろんそう19世紀せいき初期しょきに、ドミニク・アングル作品さくひん象徴しょうちょうされるしん古典こてん主義しゅぎ運動うんどうと、ウジェーヌ・ドラクロワ作品さくひん象徴しょうちょうされるロマン主義しゅぎとのあいだ再燃さいねんした。さらに、まなぶのは自然しぜん観察かんさつしてまなぶべきか、過去かこ巨匠きょしょうまなぶべきかという論争ろんそうこった。

フランスのアカデミーを手本てほんとし、そのおしかたとスタイルを真似まねたアカデミーがヨーロッパちゅうあらわれた。イングランドではロイヤル・アカデミー・オブ・アーツがそうだった。アカデミーの流行りゅうこう女性じょせい画家がかたちの勉強べんきょう困難こんなんにした。19世紀せいき後半こうはんまでおおくのアカデミーが女性じょせいしていたからである(たとえばロイヤル・アカデミーへの女学生じょがくせい入学にゅうがくは1861ねんまで)。20世紀せいきまで、ヌードモデルを使つかった「ライフ・クラス(Life class)」が女学生じょがくせい適当てきとうかという懸念けねん一部いちぶにはあった。

アカデミック様式ようしき発展はってん

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プッサン・ルーベンス論争ろんそう以来いらいおおくの画家がかたちがこの2つの様式ようしきあいだ仕事しごとをした。しかし、19世紀せいき論争ろんそうときは、2つの様式ようしき、つまりしん古典こてん主義しゅぎとロマン主義しゅぎ統合とうごうしようというこころみがなされた。それをげた画家がかとして評論ひょうろんたちが名前なまえげたなかには、テオドール・シャセリオーアリ・シェフェールフランチェスコ・アイエツアレクサンドル=ガブリエル・ドゥカントマ・クチュールらがいる[よう出典しゅってん]後期こうきのアカデミック画家がか、ウィリアム・アドルフ・ブグローは、画家がかである秘訣ひけつは「いろせんおなじものとしてること」とコメントした[よう出典しゅってん]。トマ・クチュールは美術びじゅつ技法ぎほうについていたほんなかでそれとおなかんがえを推奨すいしょうし、こう主張しゅちょうした。このいろがよりい、せんがよりいとうのはナンセンスだ。なぜならいろ素晴すばらしくえるのはせんがそうせているからで、ぎゃくもまたそうである。実際じっさいには、いろかたちの「いろ(value)」についてかた方法ほうほうである。

この時代じだい進展しんてんには、もうひとつ、えがかれた「時代じだい」をしめすための様式ようしき、つまり「歴史れきし主義しゅぎ」があった。それをあらわしているのがジェームズ・ティソ影響えいきょうけたジャン・オーギュスト・エンドリック・レイスの作品さくひんである。さらにNeo-Grecしんギリシア)様式ようしき発展はってんもあった。歴史れきし主義しゅぎは、ことなる過去かこ絵画かいが伝統でんとうしん機軸きじく結合けつごう調和ちょうわさせるべきとするアカデミック絵画かいが関連かんれんした信念しんねんおよび実践じっせんをもすものだった。

ウィリアム・アドルフ・ブグロー『』(1881ねん

美術びじゅつかいはまた絵画かいがなかの「寓意ぐうい」に注目ちゅうもくしはじめた。せんいろ重要じゅうようせいくどちらの理論りろんも、画家がか寓意ぐうい使つかうことは心理しんりてき効果こうか手段しゅだん抑制よくせいするものの、そのなかでテーマ・感情かんじょう概念がいねんあらわされるかもれないと主張しゅちょうした。画家がかたちはさくなかでそうした理論りろん統合とうごうこころみ、寓意ぐういてき比喩ひゆてき手段しゅだんとして美術びじゅつ作品さくひん特別とくべつ注意ちゅういはらうことを強調きょうちょうした。絵画かいが彫刻ちょうこく表現ひょうげんプラトンの「イデア」を想起そうきさせるならば、通常つうじょう表現ひょうげん背後はいごに、抽象ちゅうしょうてきなにか、永遠えいえん真実しんじつ垣間見かいまみえるはずだとかんがえた。ジョン・キーツが「真実しんじつ真実しんじつ」とったのはそのためである。絵画かいがは「イデー(idée)」、完全かんぜんなイデアであるべきとのぞまれた。ブグローは「ある戦争せんそう(a war)」をくのではなく「戦争せんそう(War)」をきたいとったことは有名ゆうめいである。アカデミック画家がかたちのえがいた絵画かいがおおくに「夜明よあけ」「黄昏たそがれ」「視覚しかく」「味覚みかく」といった寓意ぐういてきなタイトルがつけられていて、一人ひとり裸体らたい人物じんぶつにそれを擬人ぎじんし、イデアの本質ほんしつあきらかにする方法ほうほう構成こうせいした。

この傾向けいこう写実しゃじつ主義しゅぎとは反対はんたい観念論かんねんろんかうもので、えがかれる人物じんぶつぞうはより簡潔かんけつに、より抽象ちゅうしょうてきになっていった(つまり観念かんねん)。これは自然しぜんえるかたち普遍ふへんし、それを作品さくひん全体ぜんたい構成こうせい・テーマより下位かいくことを要件ようけんとした。

歴史れきしならびに神話しんわげき、あるいは概念がいねん弁証法べんしょうほう寓意ぐういのためのゆたかな基盤きばんなされ、それらからられたテーマを使つかうことは絵画かいがもっと重厚じゅうこうかたちだとかんがえられた。17世紀せいきはじまった「ジャンルのヒエラルキー英語えいごばん」は、古典こてんてき宗教しゅうきょうてき神話しんわてき文学ぶんがくてき寓意ぐういてきテーマの「歴史れきし」をその頂点ちょうてんき、そのした風俗ふうぞく肖像しょうぞう静物せいぶつ風景ふうけいつづいた。歴史れきしは「grande genre」としてられた。ハンス・マカルトはしばしば実物じつぶつだいよりおおきな歴史れきしえがき、19世紀せいきウィーン文化ぶんか圧倒的あっとうてき優位ゆういほこるべく、それを装飾そうしょくにおける歴史れきし主義しゅぎ結合けつごうさせた。フランスの歴史れきし象徴しょうちょうする画家がかポール・ドラローシュである。

こうした傾向けいこうはすべてが、歴史れきし最終さいしゅうてきに「ごう(ジンテーゼ)」のなか解決かいけつする矛盾むじゅんした概念がいねん弁証法べんしょうほうだとする、哲学てつがくしゃヘーゲル理論りろん影響えいきょうけていた。

19世紀せいきまつにかけて、アカデミック絵画かいがはヨーロッパ社交しゃこうかいにたっぷりと浸透しんとうした。展覧てんらんかい頻繁ひんぱん開催かいさいされたが、そのなかもっと有名ゆうめいなものはサロン(サロン・ド・パリ)と、1903ねんスタートのサロン・ドートンヌだった。こうしたサロンは国内こくない国外こくがいわず大勢おおぜい観客かんきゃくめかけるセンセーショナルなイヴェントだった。日曜日にちようびいちにちだけで5まんにん、2ヶ月かげつ開催かいさいで50まんにん集客しゅうきゃくもあった。多数たすうは、現在げんざい「サロン・スタイル(Salon style)」とばれている方法ほうほうで、つまり、天井てんじょうからたかさのしたまでたてつるされて展示てんじされた。サロンにかかることは画家がかたちがみとめられたあかしで、作品さくひんはコレクターたちのあいだがった。ブグロー、アレクサンドル・カバネル、ジャン=レオン・ジェローム美術びじゅつかいちょう一流いちりゅう人物じんぶつだった。

アカデミック絵画かいが隆盛りゅうせい時期じき、それまで評価ひょうかひくかったロココ時代じだい絵画かいががリバイバルし、そこにえがかれていたアモールプシケーといったテーマがふたた人気にんきんだ。またアカデミック絵画かいがはその作品さくひん観念かんねんせいからラファエロミケランジェロ以上いじょう崇拝すうはいした。

アカデミック絵画かいがはヨーロッパやアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくだけでなく、西洋せいよう以外いがいくに、とくに、フランス革命かくめい手本てほんとして革命かくめいこし、フランス文化ぶんか模倣もほうしたラテンアメリカ諸国しょこくなどにもその影響えいきょうひろげた。ラテンアメリカのアカデミック画家がかには、メキシコアンヘル・サラガ[1]などがいる。

アカデミーの授業じゅぎょう

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人物じんぶつ写生しゃせいするエコールの学生がくせいたち(19世紀せいき後期こうき撮影さつえい

わか画家がかたちはすう年間ねんかんきびしい訓練くんれんれた。フランスでは、試験しけんかり、著名ちょめい美術びじゅつ教授きょうじゅからの推薦すいせんじょうもらった学生がくせいたちだけがアカデミーの付属ふぞく学校がっこうエコール・デ・ボザール入学にゅうがくゆるされた。「académies」とばれたヌードのデッサンといろどりがアカデミック絵画かいが基本きほんで、その技術ぎじゅつ習得しゅうとく方法ほうほう明確めいかくさだめられていた。最初さいしょに、学生がくせいたちは古典こてん彫刻ちょうこく印刷物いんさつぶつ模写もしゃし、輪郭りんかくひかり陰影いんえい馴染なじまされた。アカデミック教育きょういくにとって模写もしゃ重要じゅうようなものとかんがえられていた。過去かこ美術家びじゅつか作品さくひん模写もしゃすることは、その芸術げいじゅつ技法ぎほう吸収きゅうしゅうするためである。つぎのステップにすすむためには、学生がくせいたちは評価ひょうかのためにデッサンを提出ていしゅつしなければならなかった。もしそれがみとめられたら、有名ゆうめい古典こてん彫刻ちょうこく石膏せっこう模型もけいのデッサンがっていた。その技術ぎじゅつにつけたものだけが、ポーズをとったモデルを写生しゃせいする教室きょうしつはいることをゆるされた。面白おもしろいことに、エコール・デ・ボザールでは1863ねんになるまで使つかったいろどりおしえられなかった。ふで使つかっていろどりかくするためには、学生がくせいたちはデッサンで実力じつりょくしめさなければならなかった。デッサンはアカデミック絵画かいがいろどり基本きほんかんがえられていた。それがみとめられたものだけが、アカデミー会員かいいんのアトリエに弟子でしとしてはいり、いろどりまなぶことができた。ぜん課程かていとおして、あたえられたテーマとさだめられた時間じかんコンペひらかれ、学生がくせいたちの成長せいちょうはかられた。

学生がくせいのための美術びじゅつコンペでもっと有名ゆうめいなものがローマしょうだった。ローマしょう優勝ゆうしょうしゃはローマにあるアカデミー・フランセーズヴィラ・メディチこうげんローマ・フランス・アカデミー最長さいちょう5年間ねんかんまなぶための奨学しょうがくきんられた。コンペ参加さんか条件じょうけんは、フランス国籍こくせき男性だんせい独身どくしんかつ30さい以下いかだった。さらにエコールの入学にゅうがく資格しかくたし、有名ゆうめい美術びじゅつ教師きょうし指示しじ必要ひつようだった。競争きょうそうきびしく、ファイナルまでいくつもの段階だんかいがあった。10にんのコンペ参加さんかしゃが72日間にちかん、アトリエに隔離かくりされ、最終さいしゅう審査しんさ対象たいしょうとなる歴史れきしえがいた。優勝ゆうしょうしゃはプロとしてのキャリアを約束やくそくされた。

前述ぜんじゅつしたとおり、サロンでの展示てんじ画家がかとしてみとめられたあかしだった。そしてプロの画家がかたちの最終さいしゅう目標もくひょうはアカデミー・フランセーズ会員かいいんえらばれることだった。画家がかたちはサロンに展示てんじする委員いいんに、自分じぶん最善さいぜんの「線上せんじょう」つまりたかさで展示てんじしてしいとたのんだ。展覧てんらんかいはじまって、もしが「そら」つまり天井てんじょうちかくのたかいところに展示てんじされていたら、画家がかたちは不平ふへいうったえた。

批判ひはん遺産いさん

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アカデミック絵画かいがへの最初さいしょ批判ひはんは、ギュスターヴ・クールベ写実しゃじつ主義しゅぎ画家がかたちから、その観念かんねんせいたいしてびせられた。それらは観念かんねんてきクリシェ神話しんわ伝説でんせつモチーフもとづく一方いっぽう現代げんだい社会しゃかいとの関係かんけいせいがまったく無視むしされているというのである。写実しゃじつ主義しゅぎによるもうひとつの批判ひはんは、いろどりの「ふで使づかいをわざとした表面ひょうめんのなめらかさ」(Licked finish参照さんしょう)だった。オブジェはリアルな質感しつかんたず、なめらかにつるつると、理想りそうされてえがかれていたのである。写実しゃじつ主義しゅぎ画家がかテオデュール・リボーはそれに対抗たいこうして、ラフで完成かんせい質感しつかんった作品さくひん試作しさくした。

オノレ・ドーミエ今年ことしもヴィーナス……いつもヴィーナス』(『Le Charivati』No.2、1864ねん

スタイルてきには、たものをそのえがく、En plein air屋外おくがい)での絵画かいが主張しゅちょうしていた印象派いんしょうはたちが、アカデミック絵画かいが垢抜あかぬけして理想りそう概念がいねん)されたスタイルを批判ひはんした。アカデミック画家がかたちは最初さいしょにデッサンし、それから油絵具あぶらえのぐでスケッチするのだが、そのたか完成かんせい印象派いんしょうはにはうそえたのだった。油絵具あぶらえのぐでスケッチしたのち、アカデミック画家がかたちは、イメージを理想りそうこまかいディテールをえがすために「fini」(入念にゅうねん仕上しあげ)をほどこす。遠近えんきんほう平面へいめんじょう幾何きかがくてき構築こうちくされ、実際じっさいたものではなく、印象派いんしょうは機械きかいてき技法ぎほうへの傾倒けいとう否定ひていした。

写実しゃじつ主義しゅぎ印象派いんしょうはも、静物せいぶつ風景ふうけい下位かいくジャンルのヒエラルキーを否定ひていした。注意ちゅういしておかなければならないのは、写実しゃじつ主義しゅぎ印象派いんしょうはなどアカデミスムに抵抗ていこうした初期しょきアヴァンギャルド画家がかたちは、元々もともとはアカデミック画家がかのアトリエにいたことである。クロード・モネギュスターヴ・クールベエドゥアール・マネはアカデミック画家がかたちの弟子でしだった。より後期こうき前衛ぜんえい画家がか位置いちするゴッホロートレックらもフェルナン・コルモン弟子でしとして基礎きそてき技術ぎじゅつ知識ちしき習得しゅうとくしており、さらにはアンリ・マティスまでそうした教育きょういくけている。

近代きんだい美術びじゅつModern art)とそのアヴァンギャルドがちからをつけ、アカデミック絵画かいがはさらに批判ひはんされ、「感傷かんしょうてき」「クリシェ」「保守ほしゅてき」「因襲いんしゅうせい」「ブルジョワてき」「趣味しゅみくない」となされた。フランスでは、アカデミック絵画かいがのスタイルは、ジャック=ルイ・ダヴィッドなか兵士へいし消防しょうぼう(ポンピエ)のようなヘルメットをかぶっていることから「アール・ポンピエ」と、またその仕掛しかけとトリックをとおしていつわりの感情かんじょうしたとされ、「grande machines」とばれることもある。アカデミック絵画かいがたいするこうした誹謗ひぼうは、美術びじゅつ評論ひょうろんクレメント・グリーンバーグがすべてのアカデミック絵画かいがは「キッチュ」であるとほんいたことでピークにたっした。アカデミック絵画かいがへの言及げんきゅう美術びじゅつ参考さんこうしょから徐々じょじょ姿すがたしていった。

しかしこうした前衛ぜんえい絵画かいが黄金おうごんはじめた1950ねん・60年代ねんだい以降いこう、かつて前衛ぜんえい画家がかやその先駆せんくしゃたち批判ひはんしたアカデミー教育きょういくおなじ「権威けんい主義しゅぎ」とした前衛ぜんえい絵画かいが運動うんどうへの批判ひはん展開てんかいされはじめた。当時とうじ美術びじゅつ教育きょういくではルネサンス以降いこう権威けんいすがるようになったアカデミックけい芸術げいじゅつまったちが経緯けいいから発展はってんした印象派いんしょうはたおされ、そしてこれを継承けいしょうした前衛ぜんえい絵画かいが今日きょう絵画かいが芸術げいじゅつになっているという「前衛ぜんえい絵画かいが史観しかん」が一般いっぱんてきとなっていた。アカデミズム美術びじゅつさい評価ひょうかすすめた美術びじゅつ史家しかアルバート・ボイム英語えいごばん自身じしんけた大学院だいがくいん教育きょういくについて、「スライドショーセザンヌのパレードが展開てんかいされるあいだ、まるで息抜いきぬきがてら道化どうけ芝居しばいせるようにジェロームらアカデミック美術びじゅつ絵画かいがいちまいだけ表示ひょうじされた」と回想かいそうしている。

ボイムらによって美術びじゅつ史上しじょうで「るにらない存在そんざい」というあつかいをけていたさい末期まっきしん古典こてん主義しゅぎ画家がかたちさい評価ひょうかされるながれとなった。また並行へいこうするかたち一般いっぱん社会しゃかいでも写実しゃじつ主義しゅぎ正確せいかくなデッサンなどの古典こてんてき価値かちかんもとめられる傾向けいこうにあり、アカデミック絵画かいがさい評価ひょうかにはずみをつけている。

主要しゅよう作家さっか

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フランス

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イギリス

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イタリア

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オーストリア

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オランダ

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スペイン

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ハンガリー

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ベルギー

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ポーランド

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ウルグアイ

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ブラジル

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メキシコ

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ Angel Zárraga at Artnet

参考さんこう文献ぶんけん

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  • Art and the Academy in the Nineteenth Century. (2000). Denis, Rafael Cordoso & Trodd, Colin (Eds). Rutgers University Press. ISBN 0-8135-2795-3
  • L'Art-Pompier. (1998). Lécharny, Louis-Marie, Que sais-je?, Presses Universitaires de France. ISBN 2-13-049341-6
  • L'Art pompier: immagini, significati, presenze dell'altro Ottocento francese (1860-1890). (1997). Luderin, Pierpaolo, Pocket library of studies in art, Olschki. ISBN 88-222-4559-8
  • 特集とくしゅう 美術びじゅつアカデミー」『西洋せいよう美術びじゅつ研究けんきゅう』2(1999ねんさんげんしゃ
  • 『アカデミーとフランス近代きんだい絵画かいが』アルバート・ボイム(2005ねんさんげんしゃ

外部がいぶリンク

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