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フランツ・リスト

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
フランツ・リスト
Franz Liszt
晩年ばんねんのフランツ・リスト(おそらく1870年代ねんだい以降いこう

フランツ・リストのサイン
基本きほん情報じょうほう
出生しゅっしょうめい フランツ・リッター・フォン・リスト
どく: Franz Ritter von Liszt
リスト・フェレンツ
ひろし: Liszt Ferencz
別名べつめい ピアノの魔術まじゅつ[よう出典しゅってん]
生誕せいたん 1811ねん10月22にち
オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国ていこく
オーストリア帝国の旗 ハンガリー王国おうこくドボルヤーン
死没しぼつ (1886-07-31) 1886ねん7がつ31にち(74さいぼつ
ドイツの旗 ドイツ帝国ていこく
バイエルン王国の旗 バイエルン王国おうこくバイロイト
学歴がくれき ウィーン音楽おんがくいん
ジャンル クラシック音楽おんがく
職業しょくぎょう ピアニスト
作曲さっきょく
担当たんとう楽器がっき ピアノ
活動かつどう期間きかん 1824ねん - 1886ねん
著名ちょめい家族かぞく コジマ・ワーグナーむすめ

フランツ・リストどく: Franz Liszt)、もしくはリスト・フェレンツハンガリー: Liszt Ferenc1811ねん10月22にち - 1886ねん7がつ31にち[1])は、ハンガリー王国おうこく出身しゅっしん[2]現在げんざいドイツオーストリアなどヨーロッパ各地かくち活動かつどうしたピアニスト作曲さっきょく

自身じしん生誕せいたん後述こうじゅつ)であり、当時とうじぞくしていたハンガリー王国おうこく当時とうじオーストリア帝国ていこく支配しはい版図はんとない)を祖国そこくび、ハンガリーじんとしてのアイデンティティいていたことから、死後しごも「ハンガリー」の音楽家おんがくかとして認識にんしき記述きじゅつされることがおおい。その一方いっぽう生涯しょうがいハンガリー習得しゅうとくすることはなく、両親りょうしん血統けっとう母語ぼご音楽家おんがくかとしての活動かつどう名義めいぎ(フランツ・リスト)、もっとなが活動かつどうのいずれも「ドイツ[注釈ちゅうしゃく 1]」にぞくし、当時とうじちゅう東欧とうおう多数たすう存在そんざいしたドイツ植民しょくみん系統けいとうでもある。このような複雑ふくざつ出自しゅつじや、ハンガリー音楽おんがく正確せいかく把握はあくしていたとはがた作品さくひんれきから、音楽おんがく大国たいこくけい民族みんぞく運動うんどうとしての国民こくみんらくふくめることはほとんどなく、おおくはドイツロマンなか位置いちづけられる。

ピアニストとしては演奏えんそう活動かつどうのみならず、教育きょういく活動かつどうにおいてもピアニズムの発展はってん貢献こうけんをした。また、作曲さっきょくとしてはしんドイツらく旗手きしゅ、および交響こうきょう創始そうししゃとしてられる。ハンス・フォン・ビューローをはじめとするおおくの弟子でし育成いくせいした。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

リストの一生いっしょうひだりから少年しょうねん青年せいねん壮年そうねん老年ろうねん

幼少ようしょう時代じだい[編集へんしゅう]

オーストリア帝国ていこく領内りょうないハンガリー王国おうこくショプロンけん英語えいごばんドボルヤーン(現在げんざいオーストリア共和きょうわこくブルゲンラントしゅうライディング)において、ハンガリーの貴族きぞくエステルハージつかえていたオーストリアけいハンガリーじん英語えいごばんドイツけい)のちちアーダム・リストと、オーストリアじんみなみドイツじん)のははアンナあいだまれた[3]

ドイツじんヴァイオリン奏者そうしゃフランツ・リストを叔父おじに、おなじくドイツじん刑法けいほう学者がくしゃフランツ・フォン・リストを従弟じゅうていつのはこのゲルマンけい家系かけいのためである(リスト自身じしん最終さいしゅうてきにはドイツに定住ていじゅうした)。

家庭かていないにおいてはドイツ使つかわれていたこと、またドイツおよびドイツけい住民じゅうみん主流しゅりゅう地域ちいきまれたため、かれ母語ぼごはドイツであった[4]。しかし、のちパリ本拠地ほんきょちうつして教育きょういくけたため、後半こうはんせいフランス語ふらんすごのほうをおお使つかっていた[4]。このほかすうヶ国かこくつうじながら、ハンガリーじん自認じにんしていたかれ生涯しょうがいハンガリーだけはおぼえなかったことを不可解ふかかいとするきもあるが、時代じだい背景はいけいてき生地きじ血統けっとうども生粋きっすいのハンガリーじんでさえドイツしかはなせないものめずらしくなかったという事情じじょうから、国民こくみん国家こっか価値かちかん定着ていちゃくした現代げんだい感覚かんかくでこれを疑問ぎもんすることは適切てきせつとはえない。歌曲かきょくだい部分ぶぶんがドイツ一部いちぶフランス語ふらんすご)でかれている。

家名かめい本来ほんらいつづりはドイツけい固有こゆうの List で、Liszt はそれをハンガリーしたつづりである(ハンガリーでは sz のつづりで /s/あらわす)。ハンガリーめいリスト・フェレンツ(Liszt Ferencz; 現代げんだいハンガリー表記ひょうきではLiszt Ferenc)で、かれ自身じしんはこのハンガリーめい家族かぞくてた手紙てがみ使つかっていたことがある。リストのハンガリーのパスポートではファーストネームのつづりがFerenczとなっていたのにもかかわらず今日きょうではFerencとつづられるが、これは1922ねんハンガリー正書法せいしょほう改革かいかく苗字みょうじのぞすべてのかたりちゅうのczがcに変更へんこうされたためである。1859ねんから1867ねんまでの公式こうしき氏名しめいフランツ・リッター・フォン・リスト (Franz Ritter von Liszt) だったが、これは1859ねん皇帝こうていフランツ・ヨーゼフ1せいによりリッター(騎士きし)のさづけられたためであり、リスト自身じしんおおやけでこのように名乗なのったことはいちもなかった。この称号しょうごうカロリーネ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタイン結婚けっこんするさい、カロリーネを身分みぶんてき特権とっけん喪失そうしつからまもるために必要ひつようだったが、カロリーネとの結婚けっこん婚姻こんいん無効むこういたったのち1867ねんにリストはこの称号しょうごう自身じしんよりも年少ねんしょう叔父おじのエードゥアルトにゆずった。エードゥアルトの息子むすこ法学ほうがくしゃフランツ・フォン・リストである。

父親ちちおや手引てびきにより幼少ようしょうから音楽おんがく才能さいのうあらわし、10さいになるまえにすでに公開こうかい演奏えんそうかいおこなっていたリストは、1822ねんウィーン移住いじゅうし、ウィーン音楽おんがくいんカール・チェルニーおよびアントニオ・サリエリ師事しじする[5]1823ねんにはパリき、パリ音楽おんがくいん入学にゅうがくしようとしたが、当時とうじ規定きていにより外国がいこくじんであるという理由りゆう入学にゅうがく拒否きょひされた(こうした規定きてい存在そんざいしたのは学生がくせいすう非常ひじょうおおいピアノのみであった。においては、外国がいこくじんであることを理由りゆう入学にゅうがく拒否きょひされたれいはない)[6]。そのため、リストはフェルディナンド・パエールアントン・ライヒャ師事しじした[7]ルイジ・ケルビーニとパエールの手助てだすけにより、翌年よくねんにはオペラドン・サンシュ英語えいごばん』をげて上演じょうえんしたが、わずか4かいのみにわった[8]

1823ねん4がつ13にちウィーンでコンサートをひらき、フンメルピアノ協奏曲きょうそうきょくだい3ばんモシュレスのピアノと管弦楽かんげんがくのための変奏曲へんそうきょくなどをいた[9]。そのさい、コンサートに出席しゅっせきしていたベートーヴェン賞賛しょうさんされ、その様子ようすえがいた石版せきばんなども後世こうせいつくられたが、当時とうじ演奏えんそうかいにベートーヴェンが出席しゅっせきした記録きろく報道ほうどうがないことから今日きょうではこのエピソードは否定ひていされている[9]

1827ねんにはちちアーダムが死去しきょし、わずか15さいにしてピアノ教師きょうしとして家計かけいささえた[10]。このときおしであったカロリーヌ・ドゥ・サン=クリック伯爵はくしゃく令嬢れいじょう恋愛れんあい関係かんけいになるが、彼女かのじょちち介入かいにゅうから身分みぶんちがいを理由りゆう破局はきょくとなる[11]生涯しょうがいわたカトリック信仰しんこうふかめ、思想しそうてきにはサン=シモン主義しゅぎのちにはフェリシテ・ドゥ・ラムネー自由じゆう主義しゅぎてきカトリシズムへと接近せっきんしていった。

ヴィルトゥオーゾ・ピアニスト[編集へんしゅう]

1831ねんニコロ・パガニーニ演奏えんそういて感銘かんめいけ、みずからも超絶ちょうぜつ技巧ぎこう目指めざした。どう時代じだい人間にんげんである、エクトル・ベルリオーズフレデリック・ショパンロベルト・シューマンらと親交しんこうふかく、また音楽おんがくてきにもおおいに影響えいきょうけた。1838ねんドナウがわ氾濫はんらんのときにチャリティー・コンサートをおこない、ブダペスト多額たがく災害さいがい救助きゅうじょきん寄付きふしている。

ピアニストとしては当時とうじのアイドルてき存在そんざいでもあり、女性じょせいファンの失神しっしん続出ぞくしゅつしたとの逸話いつわのこる。またおおくの女性じょせい恋愛れんあい関係かんけいむすんだ。とくに、マリー・ダグー伯爵はくしゃく夫人ふじんのちにダニエル・ステルンのペンネームで作家さっかとしても活動かつどうした)とこいち、1835ねんスイス逃避行とうひこうのちやく10年間ねんかん同棲どうせい生活せいかつおくる。2人ふたりあいだには3にん子供こどもまれ、そのうち1人ひとりが、のち指揮しきしゃハンス・フォン・ビューローの、さらにリヒャルト・ワーグナーつまになるコジマである。

3もうけたものの、1844ねんにはマリーとわかれた。ふたたびピアニストとして活躍かつやくしたが、1847ねん演奏えんそう旅行りょこう途次とじであるキエフで、当地とうちだい地主じぬしであったカロリーネ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタイン侯爵こうしゃく夫人ふじんこいち、同棲どうせいした。彼女かのじょとは正式せいしき結婚けっこんのぞんだが、カトリックでは離婚りこん禁止きんしされているうえに、複雑ふくざつ財産ざいさん相続そうぞく問題もんだいからみ、みとめられなかった。

ヴァイマール時代じだい[編集へんしゅう]

以前いぜんから、リストとヴァイマール宮廷きゅうていあいだにはゆるやかな関係かんけいがあってリストは客演きゃくえん楽長がくちょう地位ちいにあったが、1848ねんからは、常任じょうにんのヴァイマール宮廷きゅうてい楽長がくちょう就任しゅうにんした[12]。カロリーネの助言じょげんもあって、リストはヴァイマール作曲さっきょく専念せんねんした。以後いご機会きかいがあればコンサートでピアノをくことはそれなりにあったしちいさなサロンではよくいたが[注釈ちゅうしゃく 2]、これをにリストはヴィルトゥオーゾ・ピアニストとしてのキャリアをえ、指揮しき活動かつどう作曲さっきょく専念せんねんするようになった。リストがもっと多産たさん活発かっぱつ音楽おんがく活動かつどうおこなったのが、ヴァイマール時代じだいである。

リストはこので、多数たすう自作じさくふくめて、当時とうじ先進せんしんてき音楽おんがくおお演奏えんそう初演しょえんしたが、地方ちほういちしょう都市としぎず、また保守ほしゅてきだったヴァイマールの市民しみん最後さいごまでリストはれられなかった[13]実際じっさい、リストが指揮しきするコンサートはガラガラだったという[13]。ヴァイマール宮廷きゅうていのオーケストラの規模きぼ貧弱ひんじゃくで、オーケストラの団員だんいんはリストの在任ざいにんちゅう40めいえたことは1もなく、1851ねん段階だんかいではオーケストラだんいん35めい合唱がっしょうだんいん29めい、バレエだんいん7めいというすくなさで、その給料きゅうりょうひくさもひどいものだった[14]。リストはヨアヒムコンサートマスターとして招聘しょうへいしたり、オーケストラだんいん増員ぞういんするなど改革かいかく努力どりょくしたが、保守ほしゅてきだったヨアヒムは結局けっきょくリストの先進せんしんせいれることができずコンサートマスターを辞任じにんするなどトラブルはえず、結果けっかみのらなかった。

それにもかかわらず、リストはこのワーグナー歌劇かげきタンホイザー』のヴァイマール初演しょえん (1849ねん2がつ中旬ちゅうじゅん)[15][注釈ちゅうしゃく 3]歌劇かげきさまよえるオランダじん』のヴァイマール初演しょえん歌劇かげきローエングリン』の世界せかい初演しょえん (1850ねん8がつ28にち)[17]シューマンげき音楽おんがくマンフレッド』の世界せかい初演しょえん (1852ねん)、歌劇かげきゲノヴェーヴァ』(1855ねん)[18]ベルリオーズ歌劇かげきベンヴェヌート・チェルリーニ』、劇的げきてき交響こうきょうきょくロメオとジュリエット』、マイアベーアヴェルディ歌劇かげきなど[14]おおくのだい規模きぼ作品さくひん演奏えんそうしている。

とくに『ローエングリン』の世界せかい初演しょえんはエポック・メイキングてき演奏えんそうかいであり、その初演しょえんは、『タンホイザー』のヴァイマール初演しょえんときほどの成功せいこうることはできなかったにしても[19]、これ以降いこう、ヴァイマールは当時とうじ最先端さいせんたん音楽おんがく中心ちゅうしんされるようになった[19]一方いっぽうでリストはこれ以外いがいにも保守ほしゅてき歌劇かげきおお指揮しきしたほか客演きゃくえん指揮しきしゃによる歌劇かげき演奏えんそうおおおこなわれたため、ヴァイマールでは歌劇かげき演奏えんそう非常ひじょう活発かっぱつだった。また、当時とうじ最新さいしん音楽おんがく演奏えんそうされたこともあって、あたらしい音楽おんがく敏感びんかん音楽家おんがくかがヴァイマールもうでをするようになった、

一方いっぽう、リストがカロリーネと愛人あいじん関係かんけいにあることは保守ほしゅ攻撃こうげき口実こうじつあたえる不利ふり材料ざいりょうとして作用さようした。カロリーネも市民しみんからこころよおもわれておらず、まちちゅう市民しみんから侮蔑ぶべつ言葉ことばびせられることもあった。離婚りこん問題もんだいからんだ政治せいじてき策謀さくぼうもからまって、カロリーネの社交しゃこうパーティーにも宮廷きゅうてい官吏かんりかないようになっていた[20]

1858ねんには、弟子でしペーター・コルネリウスによる歌劇かげきバグダッドの理髪りはつ英語えいごばん』で聴衆ちょうしゅうからはげしいブーイングをける事件じけんこり[21]、これが原因げんいん翌年よくねんには音楽おんがくちょうしょくすことにした。カール・アレクサンダー大公たいこう友人ゆうじんでもあるリストに翻意ほんいするように説得せっとくこころみたが、リストの意思いしかた復職ふくしょくすることはなかった[21]辞職じしょく翻意ほんいしなかった理由りゆう複雑ふくざつであまり明瞭めいりょうではないが、やはり侯爵こうしゃく夫人ふじんとの結婚けっこん問題もんだいおおきな要因よういんであったことは否定ひていしがたいようである。

アルテンブルクそう

離婚りこん問題もんだい打開だかいするため、カロリーネはげんおっととの結婚けっこん無効むこうもとめ、同時どうじにリストとの結婚けっこんマ法王まほうおうピウス9せい許可きょかしてもらうためローマに1人ひとりかけていった。それが1860ねん5月のことである[22]。そのしばらくリストはヴァイマールのアルテンブルクそう[注釈ちゅうしゃく 4]1人ひとり自由じゆう生活せいかつおくっていたが、結局けっきょくカロリーネをいかけてリストは翌年よくねんの8がつ17にちにヴァイマールをのちにした[23]途中とちゅうベルリンパリ経由けいゆし、10月21にちにローマに到着とうちゃく[24]以降いこうローマ定住ていじゅうするようになった。

リストがローマにった理由りゆうは、資料しりょうによって説明せつめいがばらついていてはっきりしない。ローマにったカロリーネをいかけてったという説明せつめいもあれば、1859ねんにリストがドイツでったホーエンローエ (Hohenlohe) 枢機卿すうききょうがリストの教会きょうかい音楽おんがく改革かいかく計画けいかく賛同さんどうし、のちにリストてにローマから手紙てがみいて、リストのローマ定住ていじゅう希望きぼうしたからだとくもの[25]もある。

ローマ定住ていじゅう以後いご[編集へんしゅう]

リストが1861ねんにはローマ移住いじゅうしたのち1865ねん僧籍そうせきはいる(ただし下級かきゅう聖職せいしょくで、典礼てんれいつかさど資格しかくはなく、結婚けっこん自由じゆうである)。それ以降いこう『2つの伝説でんせつ』などのように、キリスト教きりすときょう題材だいざいもとめた作品さくひんえてくる。さらに1870年代ねんだいになると、作品さくひんからは次第しだい調しらべせいかん希薄きはくになっていき、1877ねんの『エステそう噴水ふんすい』は20世紀せいき印象いんしょう主義しゅぎ音楽おんがく影響えいきょうあたえ、ドビュッシーの『みず反映はんえい』に色濃いろこのこっている。同時どうじラヴェルの『みずじゃ』も刺激しげきけてかれたものであるとわれている。『エステそう噴水ふんすい』の作曲さっきょくエステそうにたくさんある糸杉いとすぎをみた印象いんしょうをカロリーネての手紙てがみいている。「この3にちというもの、わたしはずっと糸杉いとすぎ木々きぎしたごしたのである!それは一種いっしゅ強迫きょうはく観念かんねんであり、わたしなにも―教会きょうかいについてすら―かんがえられなかったのだ。これらの古木ふるきみきわたしにつきまとい、わたしはそのえだうたい、くのがこえ、そのわらぬおもくのしかかっていた!」(カロリーネ手紙てがみ1877ねん9がつ23にちづけ)。そして、1885ねんに『調ちょうのバガテル』で調しらべ宣言せんげんしたが、シェーンベルクらのじゅうおと技法ぎほうへとつながってゆく調ちょうとはちがい、メシアン移調いちょうかぎられた旋法せんぽう同様どうよう旋法せんぽうもちいられた作品さくひんである。この作品さくひんながあいだ存在そんざいられていなかったが、1956ねん発見はっけんされた。

リストは晩年ばんねんきょせいこころ疾患しっかん慢性まんせい気管支炎きかんしえんうつびょう白内障はくないしょうくるしめられた。また、弟子でしフェリックス・ワインガルトナーはリストを「確実かくじつアルコール依存いぞんしょう」と証言しょうげんしていた[よう出典しゅってん]晩年ばんねん簡潔かんけつ作品さくひんには、病気びょうきによる苦悩くのうあらわれともうべきものが数多かずおお存在そんざいしている。

1886ねんバイロイト音楽おんがくさいでワーグナーの楽劇がくげきトリスタンとイゾルデ』をのち慢性まんせい気道きどう閉塞へいそく心筋梗塞しんきんこうそくくなり、むすめコジマの希望きぼうによりバイロイト墓地ぼち埋葬まいそうされた(ただしカロリーネは、バイロイトがルター土地とちであることを理由りゆうつよ反対はんたいした)。だい世界せかい大戦たいせんまえ立派りっぱびょうてられていたが、空襲くうしゅうによりヴァーンフリートかん(ワーグナーてい)の一部いちぶなどともに崩壊ほうかい戦後せんごしばらくはいちまい石板せきばんかれているのみだったが、1978ねん再建さいけんされた。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

ピアニストとしてのリスト[編集へんしゅう]

リストは超絶ちょうぜつてき技巧ぎこう当時とうじ最高さいこうのピアニストで「ピアノの魔術まじゅつ」とばれ、どんなきょくでもはつみるきこなした。その技巧ぎこう音楽おんがくせいからピアニストとして活躍かつやくした時代じだいには「ゆびが6ほんあるのではないか」といううわさがまともにしんじられていた。かれ死後しごかれえるピアニストはあらわれないだろうとわれている。

「6ほんゆび」は誇張こちょうであるが、幼少ようしょうからゆびばす練習れんしゅうかさね、ゆびながく12音程おんてい軽々かるがるさえることができたかれは、10える和音わおん連続れんぞくするきょく作曲さっきょくしている(のちにそれを8改訂かいていしているきょくもある)。 かれきょくには両手りょうてひろげての4オクターブおと多用たようされた。またはやパッセージでもおとすうおお和音わおん多用たようした。「ラ・カンパネッラ」に代表だいひょうされるように両手りょうてのオクターブ跳躍ちょうやく、ポジションの素早すばや移動いどうおおいが、その兆候ちょうこう処女しょじょさくの「12の練習れんしゅうきょく作品さくひん1のだい6きょくすでられる。

そんなかれでも、ショパンの「12の練習れんしゅうきょく 作品さくひん10」だけははつみるきこなすことができなかったという。その影響えいきょうかれはパリから突如とつじょ姿すがたし、すう週間しゅうかん全曲ぜんきょくきこなしショパンを驚嘆きょうたんさせたことから、ショパンがどうきょく献呈けんていしたというはなしがある。またたか演奏えんそう技術ぎじゅつまん人受ひとうけしたリストの演奏えんそうに、はじめはショパンも「あんなふういてみたい」と好意こういてきであったが、あまりの技術ぎじゅつ偏重へんちょうあきれた後期こうき否定ひていてきだった。しかし、晩年ばんねんのリストは技術ぎじゅつよりむしろ表現ひょうげんりょく追求ついきゅうにこだわった傾向けいこうられた。

当時とうじ無名むめいであったエドヴァルド・グリーグが、げた「ピアノ協奏曲きょうそうきょく短調たんちょう」の評価ひょうかをリストに依頼いらいしたところ、リストははつみる完璧かんぺききこなし、かれとなえて激励げきれいしたとつたえられている。おなじようなはなしガブリエル・フォーレについてもつたえられ、かれの「ピアノとオーケストラのためのバラード」をはつみるき「りない!」とさけんだという。またワーグナーオペラはつみるでピアノよう編集へんしゅうしながら完璧かんぺきいたともわれている。

リストの友人ゆうじんであったフェリックス・メンデルスゾーン手紙てがみにあるはなしでは、メンデルスゾーンがはじめて出版しゅっぱんされた自分じぶんのピアノ協奏曲きょうそうきょくをもってリストのもとおとずれたときに、リストはそれをはつみる完璧かんぺきき、メンデルスゾーンは「人生じんせいなか最高さいこう演奏えんそうだった」とコメントをしたという。しかし、さきのメンデルスゾーンの手紙てがみにはつづきがあり「かれ最高さいこう演奏えんそうは、それで最初さいしょ最後さいごだ」とあったという。リストほどの技巧ぎこうしゃにとってはどのようなきょく簡単かんたんだったために、2かい以降いこう演奏えんそうには譜面ふめんにない即興そっきょうをふんだんにんでいた。このように、はつ演奏えんそう技術ぎじゅつかんしては追随ついずいゆるさなかったリストであったが、そのためにかれ演奏えんそうかんしては即興そっきょう重点じゅうてんいていた。

リストの演奏えんそういた人々ひとびと文献ぶんけんによれば、繊細せんさいながら非常ひじょう情熱じょうねつてき力強ちからづよ演奏えんそうをしていたとされ、演奏えんそうちゅうつるれたり、ピアノのハンマーがこわれることが度々たびたびあったという。そのため、最初さいしょから3だいのピアノを用意よういして演奏えんそうをしたこともあった。1だいこわれたらつぎのピアノにうつって演奏えんそう、といったかたちである。また、オーストリアのピアノ製造せいぞう会社かいしゃであるベーゼンドルファーはリストの演奏えんそうえたこと有名ゆうめいになった。

リストの演奏えんそういてあまりの衝撃しょうげき気絶きぜつする観客かんきゃくがいたはなし有名ゆうめいだが、リスト自身じしん演奏えんそうちゅう気絶きぜつすることがあったという。ほかにも、当時とうじ天才てんさい少女しょうじょとしてせていたクララ・ヴィーク(のちのクララ・シューマン)がリストの演奏えんそういてあまりの衝撃しょうげき号泣ごうきゅうしたというエピソードもられる。

リストは即興そっきょう重点じゅうてんいていたため、楽譜がくふはおろか鍵盤けんばんすらずに、えずされるピアノのおとみみかたむけて演奏えんそうをしていたとわれている(演奏えんそうちゅうのリストの写真しゃしん肖像しょうぞう鍵盤けんばんいているものは1まいもない)。

また、リストの弟子でしたちには非常ひじょう演奏えんそう技術ぎじゅつたかいとひょうされるピアニストがおおいが、その弟子でしたちのだれもがこぞってリストの演奏えんそう賞賛しょうさんしており、だれ一人ひとりけなしていない。このことはリストが演奏えんそうとしての絶頂ぜっちょうには、今日きょうちょう難曲なんきょくわれているきょく々を(おそらくは即興そっきょうにより楽譜がくふ以上いじょうおとして)見事みごときこなしていたことの間接かんせつてきあかしであるとえる。

指導しどうしゃとしてのリスト[編集へんしゅう]

リストは芸術げいじゅつ演奏えんそう以外いがい巨額きょがく収入しゅうにゅうることをこのまないとして、無料むりょう指導しどうおこなった。一方いっぽうでリストの指導しどうしゃのチェルニーは、優秀ゆうしゅう生徒せいとであっても高額こうがく謝礼しゃれい支払しはらいが出来できなければ指導しどうったこともあった(ただし、リストには無料むりょう指導しどうした)。リストは、そんなチェルニーに『超絶ちょうぜつ技巧ぎこう練習れんしゅうきょく』を献呈けんていしている。リストは生徒せいとにリストの真似まね強要きょうようすることなく、むしろ真似まねることをきらい、かく生徒せいと個性こせい重視じゅうしこのみ、探求たんきゅうさせた。技術ぎじゅつめんでの指導しどう最小限さいしょうげんにとどめ、馴染なじみやすい言葉ことばや、ウィットにんだ表現ひょうげん使つかうことがしばしばあった(いちれいとしては、『小人こどもおどり』であやふやなリズムになったときに「ほら!またサラダをぜてしまったよ」)。マスタークラスを考案こうあんしたリストであるが、いくつかの楽曲がっきょくをそれでおしえることをけた。

人格じんかくしゃとしてもられ、「リストの弟子でし」をいつわって演奏えんそうするピアニストをいえまねき、自分じぶんまえでピアノを演奏えんそうさせ「これでわたしおしえたことになる」とったという逸話いつわ道徳どうとく教科書きょうかしょなどに掲載けいさいされたこともある[26][27][28]

1884ねんフランツ・リストと生徒せいとたち

作曲さっきょくとしてのリスト[編集へんしゅう]

音楽おんがくてきには、ベルリオーズ提唱ていしょうした標題ひょうだい音楽おんがくをさらに発展はってんさせた交響こうきょう創始そうしし、ワーグナーらとともにしんドイツばれ、絶対ぜったい音楽おんがくにこだわるブラームスらとは一線いっせんかくした。

自身じしんすぐれたピアニストであったため、ピアノきょく中心ちゅうしん作曲さっきょく活動かつどうおこなっていた。また編曲へんきょく得意とくいかれ自身じしんオーケストラ作品さくひんおおくをピアノよう編曲へんきょくしている。膨大ぼうだい作品さくひんぐんほとんすべてのジャンルの音楽おんがく精通せいつうしているとっていいほど多岐たきにわたる。かれ作曲さっきょく人生じんせいおおきくピアニスト時代じだい(1830ねん〜1850ねんごろ)、ヴァイマル時代じだい(1850ねんごろ〜1860ねんごろ)、晩年ばんねん(1860ねんごろ没年ぼつねん)と3つにけられる。 ピアニスト時代じだいはオペラのパラフレーズなどの編曲へんきょく作品さくひんはじめ、ピアノきょく中心ちゅうしんいた。このころの作品さくひん現役げんえきのピアニストとしての演奏えんそう能力のうりょく披露ひろうする場面ばめんおおふくまれ、非常ひじょう困難こんなんなテクニックを要求ようきゅうするきょくおおい。

一方いっぽうヴァイマル時代じだいはピアニストとしてのだい一線いっせん退しりぞいたが、作曲さっきょくとしてはもっと活躍かつやくした時代じだいである。かれ有名ゆうめい作品さくひんだい部分ぶぶんはこの時代じだいつくられている。ピアノきょくもテクニックてきにはまだまだ難易なんいたかい。過去かこつくった作品さくひんだい規模きぼ改訂かいていすることもおおかった。また、ほとんどの交響こうきょうきょく交響こうきょうはこの時期じき作曲さっきょくされている。

晩年ばんねんになると、以前いぜんかれがよくつくっていた10ふん以上いじょう長大ちょうだいなピアノきょくり、みじか調しらべてきになる。この時期じき音楽おんがくはピアニスト時代じだい、ヴァイマル時代じだいにくらべ、ふかみのある音楽おんがくえる。とく1880ねん以降いこう、5ふん以上いじょうきょくはほとんどなく、しかもさらに音楽おんがく深遠しんえんになっていく。最終さいしゅうてきかれ1885ねんに『調ちょうのバガテル』で長年ながねんもとつづけた調音ちょうおんらく完成かんせいさせた。

またリストは自身じしんのカトリック信仰しんこうもとづき、宗教しゅうきょう合唱がっしょうきょく作曲さっきょく改革かいかく心血しんけつそそいだ。オラトリオせいエリーザベトの伝説でんせつ』『キリスト』をはじめ『荘厳しょうごんミサきょく』『ハンガリー戴冠たいかんミサきょく』などの管弦楽かんげんがくともな大曲おおまがりや『十字架じゅうじかみち』といった晩年ばんねん調しらべてき作品さくひん、あるいはおおくの小品しょうひんなど、その作風さくふう多岐たきわたる。これらの作曲さっきょくは、当時とうじのカトリック教会きょうかい音楽おんがく改革かいかく運動うんどうである「チェチリア運動うんどう英語えいごばん」とも連動れんどうしており、リストの創作そうさく活動かつどうにおいておおきな比重ひじゅうめている。

評論ひょうろんとしてのリスト[編集へんしゅう]

どう時代じだい評論ひょうろん活動かつどう活発かっぱつったシューマンほどではないが、リストも音楽おんがく多数たすう評論ひょうろん寄稿きこうしている。たとえばシューマンに「芸術げいじゅつてき」と酷評こくひょうされたアルカンの「悲愴ひそう様式ようしきによる3つのおも 作品さくひん15」については、シューマン同様どうように「細部さいぶ粗雑そざつ」と評価ひょうかしたものの、作品さくひんそのものはたか評価ひょうかしている。このほか、グリーグやメンデルスゾーンなどの作品さくひん評価ひょうか積極せっきょくてきった。評論ひょうろん平行へいこうして、スメタナ評価ひょうかして資金しきん援助えんじょおこなうなど、才能さいのうみとめた作曲さっきょくたいしての援助えんじょおこなってもいた。

ブラームスワーグナーの2かれていた当時とうじのドイツ音楽おんがくかいなかで、リストは弟子でしのビューローときょうにワーグナーにつき、ブラームスについたハンスリック対立たいりつしている。

帰属きぞくにまつわる逸話いつわ[編集へんしゅう]

ちちアーダムが自身じしんまれいてのハンガリーじんだと認識にんしきしていたように、リストもまたおなじようにみずからをハンガリーじんだと認識にんしきしていた。ハンガリーがほとんどはなせないことをうしろめたくおもいながらも、11さいまでをごしたハンガリー祖国そこくとしてあいしており、後年こうねんはブダペストに音楽おんがくいん設立せつりつするために尽力じんりょくした。「ハンガリー狂詩曲きょうしきょく」は、ロマによって編曲へんきょくされた演奏えんそう取材しゅざいし、それをハンガリーの古来こらい伝統でんとうてき音楽おんがく位置いちづけた。ロマへの偏見へんけん根強ねづよかった一部いちぶ愛国あいこくてきハンガリーじん (Magyarmania) にはがた混同こんどうであり、祖国そこくでのかれ評価ひょうかくらかげとすことになる。

のちにハンガリー民謡みんよう収集しゅうしゅうおこない、その特徴とくちょう分析ぶんせきしたバルトークリスト音楽おんがくいんであるブダペシュト王立おうりつ音楽おんがくいん音楽おんがくまなんでいる。ピアニストとしてもリストの弟子でしであるトマーン・イシュトヴァーン英語えいごばんから直々じきじきおしえをけており、本人ほんにんもリストの楽曲がっきょくいくつかの録音ろくおんのこしている。作曲さっきょくとしても影響えいきょうけており、最初さいしょ作品さくひんである『ピアノのためのラプソディー 作品さくひん1』では、リストの影響えいきょう垣間見かいまみこと出来でき[29]。そのかれはリストの編曲へんきょく作品さくひんについて、自著じちょ『ハンガリー民謡みんよう』(1920ねん)で「きょく構造こうぞう理解りかいしていない歪曲わいきょくがされたハンガリー民謡みんよう[注釈ちゅうしゃく 5]」だとしてこれをきびしく批判ひはんしているが、作曲さっきょくとしてのリストについては、数々かずかず音楽おんがく論集ろんしゅうや『リストにかんするしょ問題もんだい』(1936ねん)[注釈ちゅうしゃく 6]なかでは、それまでの作曲さっきょくになかったほど、宗教しゅうきょうてき音楽おんがくから民謡みんようなど多様たよう異質いしつ種々しゅじゅさまざまの影響えいきょうれて自身じしん作品さくひんつくげていったてん晩年ばんねんしょ作品さくひんクロード・ドビュッシーらの作品さくひんおどろくほど似通にかよっていることの先進せんしんせいなどをげ、欠点けってんがあるとしても、音楽おんがく発展はってんへの貢献こうけんということであればリストはワーグナーより重要じゅうようされるべきだと、むしろその音楽おんがく擁護ようごする立場たちばをとっている[注釈ちゅうしゃく 7]

今日きょうではハンガリー音楽おんがく中興ちゅうこうくした功労こうろう評価ひょうかされ、同国どうこくでは名誉めいよあるハンガリーの音楽家おんがくかとして位置付いちづけられている。リストのかんした音楽おんがくいんはブダペストとワイマールの両方りょうほう存在そんざいする。生地きじ現在げんざい帰属きぞくするオーストリアでは、リストがウィーン楽壇がくだんえんうすかったこともあり、ハンガリー・ドイツ両国りょうこくくらべると自国じこく音楽家おんがくかという意識いしきはややうすいようである。

楽器がっきとのかかわり[編集へんしゅう]

フランツ・リストは、ポルトガル演奏えんそう旅行りょこうボワスロピアノ使つか[30]、その1847ねんキエフオデッサへの演奏えんそう旅行りょこうでそのおなじピアノをもちいたことがられている。リストは、ヴァイマルのアルテンブルクていにボワスロを保持ほじした[31]かれはグザヴィエ・ボワスロにてた1862ねん手紙てがみで、この楽器がっき没頭ぼっとうする自身じしん様子ようす鍵盤けんばんは、過去かこ現在げんざい未来みらい音楽おんがくたたかいをてほとんど使つかふるされているが、わたしけっしてえはせずに、おりの仕事しごと仲間なかまとしてわたし最期さいごまで保持ほじしようと決心けっしんした」表現ひょうげんした[32]。この楽器がっきは、いま演奏えんそう不可能ふかのう状態じょうたいにある。ヴァイマル古典こてん財団ざいだんは、現代げんだい楽器がっき製作せいさくしゃポール・マクナルティ依頼いらいし、2011ねんにこのボワスロピアノの複製ふくせい作成さくせい実現じつげんした。現在げんざい復元ふくげん楽器がっきとリストの楽器がっきは、べて展示てんじされている[33]。ヴァイマルのリストにえんのあったピアノは、エラールや、アレクサンドルの「ピアノ・オルガン」、ベヒシュタインピアノ、そしてベートーヴェンのブロードウッド・グランドである[34]

主要しゅよう作品さくひん[編集へんしゅう]

リストの作品さくひんおなきょくでもだい1稿こうだい2稿こう……というように改訂かいてい稿こう存在そんざいするものが非常ひじょうおおい。改訂かいてい稿こうふくめてかれ作品さくひんすべかぞえると1400きょくゆうえる。また紛失ふんしつした作品さくひん断片だんぺん完成かんせい作品さくひんもさらに400きょく以上いじょうあるといわれており、かれがどれくらいのきょくつくったのかをかぞえるのは不可能ふかのうちかい。現在げんざいはリストの作品さくひんさい評価ひょうか着実ちゃくじつすすんでおり、レスリー・ハワードの『リスト・ピアノきょく全集ぜんしゅう』(ぜん57かん、CD95まい)はその代表だいひょうれいである。なお、この全集ぜんしゅう補遺ほいのぞく)での演奏えんそう時間じかんべ117時間じかん(1377トラック)。

かれ作品さくひんにつく番号ばんごうは、イギリスの作曲さっきょくハンフリー・サール分類ぶんるいした曲目きょくもくべつ目録もくろくであるサール番号ばんごう (S.) と、リスト博物館はくぶつかん館長かんちょうペーター・ラーベによる曲目きょくもくべつのラーベ番号ばんごう (R.) の2つがもちいられているが、現在げんざいではサール番号ばんごうのほうがよく使つかわれている。

オペラ[編集へんしゅう]

管弦楽かんげんがくきょく[編集へんしゅう]

交響曲こうきょうきょく[編集へんしゅう]

交響こうきょう[編集へんしゅう]

リストは標題ひょうだい音楽おんがく交響こうきょうというジャンルを確立かくりつした。かれは13きょく交響こうきょう作曲さっきょくしているが、今日きょう前奏ぜんそうきょく以外いがい演奏えんそうされることはまれである。

  1. ひとやまうえきしこと』(Ce qu'on entend sur la montagne) S.95/R.412, 1848-56ねんやく30ふん
    山岳さんがく交響曲こうきょうきょく』(Berg-Symphonie) とも。
  2. タッソー、悲劇ひげき勝利しょうり』(Tasso, lamento e trionfo) S.96/R.413, 1848-54ねんやく21ふん
  3. 前奏ぜんそうきょく』(Les préludes) S.97/R.414, 1848-53ねんやく15ふん
  4. オルフェウス』(Orpheus) S.98/R.415, 1853-54ねんやく11ふん
  5. プロメテウス』(Prometheus) S.99/R.416, 1850-55ねんやく13ふん
  6. マゼッパ』(Mazeppa) S.100/R.417, 1851-54ねんやく16ふん
  7. 祭典さいてんひび』(Festklänge) S.101/R.418, 1853ねんやく20ふん
  8. 英雄えいゆうなげ』(Héroïde funèbre) S.102/R.419, 1849-54ねんやく27ふん
  9. ハンガリー』(Hungaria) S.103/R.420, 1854ねんやく23ふん
  10. ハムレット』(Hamlet) S.104/R.421, 1858ねんやく14ふん
  11. フンぞくたたか』(Hunnenschlacht) S.105/R.422, 1856–57ねんやく15ふん
  12. 理想りそう』(Die Ideale) S.106/R.423, 1857ねんやく27ふん
  13. ゆりかごから墓場はかばまで』(Von der Wiege bis zum Grabe) S.107/R.424, 1881-82ねんやく14ふん

管弦楽かんげんがくきょく[編集へんしゅう]

ピアノと管弦楽かんげんがくのための作品さくひん[編集へんしゅう]

ピアノきょく[編集へんしゅう]

オリジナル作品さくひん[編集へんしゅう]

編曲へんきょく[編集へんしゅう]

ラ・カンパネッラ」で有名ゆうめいな『パガニーニによるだい練習れんしゅうきょく』はパガニーニ原曲げんきょくによりながらも独創どくそうせいつよ作品さくひんとされ、サール番号ばんごうでの分類ぶんるいをはじめ、通常つうじょう編曲へんきょくとは看做みなされずオリジナル作品さくひん分類ぶんるいされる。ただしその前身ぜんしんである『パガニーニの「かね」によるブラヴーラふうだい幻想曲げんそうきょく』 (S.420) は編曲へんきょく作品さくひんとみなされる。

オルガンきょく[編集へんしゅう]

宗教しゅうきょう音楽おんがく[編集へんしゅう]

  • オラトリオ「せいスタニスラウスの伝説でんせつ」 (S.688) - 完成かんせい
  • オラトリオ「せいエリーザベトの伝説でんせつ」 (S.2/R.477) 1862ねんやく1あいだ40ふん
  • オラトリオ「キリスト」 (S.3/R.478) 1867ねんやく2あいだ50ふん
  • 荘厳しょうごんミサきょく (S.9) 1855ねんやく55ふん
  • 戴冠たいかんしきのミサきょく (S.11) 1867ねんやく45ふん
  • レクイエム (S.12) 1868ねん
  • 詩篇しへんだい13へん (S.13) 1855ねん [やく25ふん]

歌曲かきょく[編集へんしゅう]

完成かんせい作品さくひん[編集へんしゅう]

偽作ぎさく作品さくひん[編集へんしゅう]

  • ベネディクトゥス (S.706) - 偽作ぎさく?
  • リナルド (S.708)

消失しょうしつ作品さくひん[編集へんしゅう]

  • 交響こうきょうてきだい幻想曲げんそうきょく (S.716)
  • 葬送そうそう行進曲こうしんきょく (S.745)
  • アンダンテ・マエストーソ (S.746)
  • ポコ・アダージョ (S.747)
  • ロッシーニのオペラ「ノネットとモーゼ」の主題しゅだいによる幻想曲げんそうきょく (S.751) - 紛失ふんしつしたが、おそらく未完みかんのまま放棄ほうき?
  • オルガン交響こうきょう (S.758)

親族しんぞく[編集へんしゅう]

著作ちょさく[編集へんしゅう]

  • 『F・ショパン』 (F. Chopin, 1851)
    友人ゆうじんショパン没後ぼつご、2ねんにパリで出版しゅっぱんした。作品さくひん生涯しょうがいについて、故郷こきょう・ポーランドの風俗ふうぞく国民こくみんせい参照さんしょうしながらつづっている。
    日本語にほんごばん以下いか
    • 『ショパンの芸術げいじゅつ生涯しょうがい』(ふきさわただしえだわけ、モダン日本にっぽんしゃ、1942ねん NCID BA43539966 NDLJP:1125260
    • 『ショパン : その生涯しょうがい芸術げいじゅつ』(亀山かめやま健吉けんきち速水はやみきよしやく宇野うの書店しょてん、1949ねん NCID BA32869109
    • 『フレデリック・ショパン : その情熱じょうねつ悲哀ひあい』(はちすみ裕樹ゆうきやくいろどりりゅうしゃ、2021ねん ISBN 9784779127656

回想かいそう証言しょうげん[編集へんしゅう]

きん年刊ねんかん日本語にほんごやくのみ

記念きねん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ リスト在世ざいせい、1871ねん以前いぜん主権しゅけん統一とういつ国家こっかとしてのドイツは存在そんざいしなかった。「ドイツじん」「オーストリアじん」を参照さんしょうゆるやかな国家こっか連合れんごうとしての「ドイツじんかみきよしマ帝国まていこくドイツ連邦れんぽう」は存在そんざいしたが、ハンガリー王国おうこくおなじハプスブルクりょうでもオーストリアやチェコとはことなりこれにふくまれなかった。リストと父親ちちおや生地きじはこの域外いきがい母親ははおやおよび4にん祖父母そふぼ域内いきない出身しゅっしん)である。
  2. ^ たとえば、ヴァイマールでのリストの私邸していだったアルテンブルクそうではしばしばサロンがひらかれており、そこではリストはよくピアノを演奏えんそうしている。
  3. ^ ワーグナーは仕事しごと都合つごうがつかなかったため『タンホイザー』のヴァイマール初演しょえんえなかったが、『タンホイザー』のヴァイマール初演しょえん成功せいこうで、そのすぐに再演さいえんさらに5がつにも演奏えんそうされた。しかし、5月のときには、ワーグナーはドレスデン革命かくめい失敗しっぱいにより、逃亡とうぼうはんとしてわれるになっていた。5月の再演さいえんさい、リストがワーグナーに、ヴィートマン博士はかせ発行はっこうされたパスポートをパリにいたワーグナーあておく身分みぶんいつわってヴァイマールに入国にゅうこくできるように手配てはいしたので、ワーグナーはリハーサルにうことが出来でき[16]。しかし、リハーサルまでが限界げんかいで、ほんえんじうことは無理むりだった。
  4. ^ ヴァイマール郊外こうがいアルテンブルクにリストがかまえていた私邸してい通称つうしょう
  5. ^ ジプシー固有こゆう音楽おんがくでもない。そういった音楽おんがくはまたべつ存在そんざいしており、バルトークは民俗みんぞく音楽おんがく研究けんきゅうなか取材しゅざいしている。
  6. ^ ただしこの論文ろんぶんについては、ちゅうおう東欧とうおう音楽おんがくおよ民族みんぞく音楽おんがくがく専門せんもんとし、バルトークの研究けんきゅうでもある伊東いとう信宏のぶひろ自著じちょ『バルトーク―民謡みんようを「発見はっけん」した辺境へんきょう作曲さっきょく』のなか指摘してきしている[ようページ番号ばんごう]ように、生前せいぜんのリストにたいする周囲しゅうい評価ひょうか批判ひはんをすることで、その時点じてんでの自身じしんとの共通きょうつうせい想起そうきさせることがしゅ目的もくてきだったというとらかたをされることもある。
  7. ^ モーリス・ラヴェルも1912ねんに「リストの小品しょうひん、あるいはぜん作品さくひんについてまわる欠陥けっかんこそが、ワーグナーをふくめたドイツ、ロシア、フランスのまるでちがった個性こせい音楽家おんがくかたちおおきな影響えいきょうあたえたのだ」とバルトークとたような主張しゅちょうをしている。
  8. ^ としてのリスト』では全編ぜんぺんにわたり、編集へんしゅうしゃヴィルヘルム・イェルガー (Wilhelm Jerger) のせいを「イェーガー」とあやまって表記ひょうきしている。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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  2. ^ ウルリヒ・ミヒェルスへん図解ずかい音楽おんがく事典じてんすみくら一朗いちろう日本語にほんごばん監修かんしゅう白水しろみずしゃ、1989ねん、447ぺーじISBN 978-4-560-03686-0
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  5. ^ 福田ふくだ 2005, p. 11.
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  8. ^ 福田ふくだ 2005, p. 18.
  9. ^ a b 福田ふくだ 2005, p. 14.
  10. ^ 福田ふくだ 2005, p. 19.
  11. ^ 福田ふくだ 2005, p. 20.
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  16. ^ ヘルム 1996, p. 181.
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  26. ^ だい音楽家おんがくかのなさけ」(『美談びだん教室きょうしつ 3年生ねんせいかねほししゃ、1959年刊ねんかん、p.7-15)
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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • Demko, Miroslav (2003). Franz Liszt: Compositeur Slovaque, Lausanne: L’Age d’Homme.
  • Walker, Alan (1984). Franz Liszt, The Virtuoso Years 1811-1847, New York: Alfred A.Knopf.
  • Walker, Alan (1989). Franz Liszt, The Weimar Years 1848-1861, London: Faber and Faber Limited.
  • エヴェレット・ヘルム しる野本のもと由紀夫ゆきお わけ『〈だい作曲さっきょく〉リスト』音楽之友社おんがくのともしゃ、1996ねんISBN 4-276-22162-5NCID BN15157351 
  • 福田ふくだわたる『リスト 作曲さっきょく じん作品さくひんシリーズ』音楽之友社おんがくのともしゃ、2005ねん 
  • ロベール・ポリー『ベートーヴェン : でみるドキュメント』武川たけかわひろしうみやく音楽之友社おんがくのともしゃ、1970ねん NCID BN03831476

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]