(Translated by https://www.hiragana.jp/)
フランツ・シューベルト - Wikipedia コンテンツにスキップ

フランツ・シューベルト

半保護されたページ
出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

フランツ・シューベルト
Franz Schubert
1875ねんえがかれた油絵あぶらえ
基本きほん情報じょうほう
出生しゅっしょうめい フランツ・ペーター・シューベルト
Franz Peter Schubert
別名べつめい 歌曲かきょくおう
生誕せいたん 1797ねん1がつ31にち
神聖ローマ帝国の旗 ドイツ国民こくみん神聖しんせいマ帝国まていこく
オーストリアの旗 オーストリア大公たいこうこくリヒテンタール
死没しぼつ (1828-11-19) 1828ねん11月19にち(31さいぼつ
オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国ていこくウィーン
ジャンル ロマン音楽おんがく
職業しょくぎょう 作曲さっきょく
活動かつどう期間きかん 1810ねん - 1828ねん

フランツ・ペーター・シューベルトドイツ: Franz Peter Schubert[注釈ちゅうしゃく 1]1797ねん1がつ31にち – 1828ねん11月19にち)は、オーストリア作曲さっきょく

生涯しょうがい

誕生たんじょう

シューベルトの生家せいか

シューベルトはウィーン郊外こうがいリヒテンタールまれた。メーレン(モラヴィア)から移住いじゅうしたドイツけい植民しょくみん農夫のうふ息子むすこであるちちのフランツ・テオドール(1763ねん - 1830ねん)は教区きょうく教師きょうしをしており、ははエリーザベト・フィッツ(1756ねん - 1812ねん)は結婚けっこんまえにウィーンじん家族かぞくのコックをしていた。成人せいじんしたのは長男ちょうなんイグナーツ(1785ねん - 1844ねん)、次男じなんフェルディナント(1794ねん - 1859ねん)、三男さんなんカール(1795ねん - 1855ねん)、いでだい12フランツむすめのテレジア(1801ねん - 1878ねん)だった。ちちはアマチュア音楽家おんがくか長男ちょうなん次男じなん音楽おんがくおしえた。

フランツは5さいのときにちちから普通ふつう教育きょういくはじめ、6さいのときにリヒテンタールの学校がっこう入学にゅうがくした。このころ、ちちすえ息子むすこのフランツにヴァイオリンの初歩しょほを、また長男ちょうなんイグナーツにピアノをおしはじめた。フランツは7さいごろになるとちちあまるほどの才能さいのう発揮はっきはじめたため、ちちはフランツをリヒテンタール教会きょうかい聖歌せいかたい指揮しきしゃミヒャエル・ホルツァーの指導しどうする聖歌せいかたいあづけることにした。ホルツァーはしゅとして感動かんどう表現ひょうげん主眼しゅがんいて指導しどうしたという。聖歌せいかたい仲間なかまたちは、フランツの音楽おんがくてき才能さいのう一目いちもくいた。当時とうじ演奏えんそうとして聴衆ちょうしゅう注目ちゅうもくされなければ音楽家おんがくかとしての成功せいこう機会きかいはないという時代じだいだったため、しばしば聖歌せいかたい建物たてもの隣接りんせつするピアノ倉庫そうこにフランツを案内あんないして、ピアノの練習れんしゅう自由じゆうにできるように便宜べんぎはかった。そのおかげで、まずしいかれにはれられなかったような良質りょうしつ楽器がっき練習れんしゅう勉強べんきょうをすることができた。

コンヴィクト

1808ねん10月、フランツはコンヴィクトドイツばん寄宿きしゅくせい神学校しんがっこう)の奨学しょうがくきんた。その学校がっこうアントニオ・サリエリ指導しどうしたにあり、ウィーンらくとも協会きょうかい音楽おんがくいん前身ぜんしんこうで、宮廷きゅうてい礼拝れいはいどうコーラスたい養成ようせいのための特別とくべつ教室きょうしつをもっていた。ここにフランツはおよそ17さいまで所属しょぞくフランツ・ヨーゼフ・ハイドンせいシュテファンだい聖堂せいどう教育きょういくとほとんど同様どうよう直接ちょくせつ指導しどうでのるところはすくなく、むしろ学生がくせいオーケストラの練習れんしゅう同僚どうりょう寄宿きしゅくせいとの交際こうさいからるものがおおかった。フランツをささえた友人ゆうじんたちのおおくはこの当時とうじ同級生どうきゅうせいで、シュパウン(Spaun、1788ねん - 1865ねん)、シュタットラー(Stadler)、ホルツアプフェル (Holzapfel)、そのおおくの友人ゆうじんたちがまずしいフランツをたすけ、かれにはえない五線ごせんなど、誠実せいじつ支持しじはげましをあたえた。また、このコンヴィクトでヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト序曲じょきょく交響曲こうきょうきょく、それらにるいした作品さくひん小品しょうひんはじめて出会であった。一方いっぽう才能さいのう作曲さっきょく分野ぶんやですでにしめしつつあった。1810ねん4がつ8にち - 5月1にち日付ひづけがある32ページにわたりびっしりとかれた四手よつでピアノのための『幻想曲げんそうきょく ト長調とちょうちょう』(D 1)、つづいて1811ねんにはヨハン・ルドルフ・ツムシュテーク(1760ねん - 1802ねん)が普及ふきゅうはかった計画けいかくにそってかれた3つのなが歌曲かきょく弦楽げんがく重奏じゅうそうのための『序曲じょきょく短調たんちょう』(D 8)、『弦楽げんがくよん重奏じゅうそうきょくだい1ばん ト短調とたんちょう/へん長調ちょうちょう』(D 18)、『幻想曲げんそうきょく ト短調とたんちょう』(D 9)がある。室内楽しつないがくきょく目立めだっているが、それは日曜日にちようび祝日しゅくじつごとに、2人ふたりあにヴァイオリンちちチェロ自分じぶんヴィオラって、自宅じたくカルテット演奏えんそうかいおこなわれていたためである。これは後年こうねんおおくの作品さくひんくことになったアマチュア・オーケストラの萌芽ほうがをなすものだった。コンヴィクト在籍ざいせきちゅうにはおおくの室内楽しつないがく歌曲かきょく、ピアノのための雑品ざっぴんしゅうのこした。また野心やしんてきちからそそいだのは、1812ねんはは葬儀そうぎようわれる『キリエ』(D 31)と『サルヴェ・レジーナ』(D 106)(それぞれ合唱がっしょう聖歌せいか)、『かんらくはち重奏じゅうそうきょく長調ちょうちょう』(D 72)である。1813ねんにはちち聖名せな祝日しゅくじつのために、歌詞かし音楽おんがくからなるカンタータ『ちち聖名せな祝日しゅくじつのために』(D 80)をのこした。学校がっこう生活せいかつ最後さいごには最初さいしょ交響こうきょうきょくである『交響こうきょうきょくだい1ばん長調ちょうちょう』(D 82)がまれた。

1813ねん - 1815ねん

シューベルトの初恋はつこい相手あいてといわれるテレーゼ・グロープ肖像しょうぞう

1813ねんわりにシューベルトは、変声期へんせいき合唱がっしょう児童じどう役割やくわりたせなくなったためコンヴィクトをり、兵役へいえきけるためにちち学校がっこう教師きょうしとして就職しゅうしょくした。このころ、ちちはグンペンドルフのきぬ商人しょうにんむすめアンナ・クライアンベックと再婚さいこんした。かれは2ねん以上いじょうこの仕事しごといていたが、あまり関心かんしんてなかったようで、その代償だいしょうべつ興味きょうみおぎなった。サリエリから個人こじんてき指導しどうけたが、かれはハイドンやモーツァルトの真似まねだと非難ひなんしてシューベルトをなやませた。しかし、サリエリは教師きょうしだれよりもおおくをかれおしえた。またシューベルトはグロープ一家いっか親密しんみつ交際こうさいしており、そのいえむすめテレーゼ・グロープ(1798ねん - 1875ねん)はうたがうまくよい友人ゆうじんだった。かれ時間じかんがあれば素早すばや大量たいりょう作曲さっきょくをした。完成かんせいされた最初さいしょのオペラ『悪魔あくま別荘べっそう』(Des Teufels Lustschloß, D 84)と、最初さいしょの『ミサきょくだい1ばん長調ちょうちょう』(D 105)はともに1814ねんかれ、おなねんに3きょく弦楽げんがくよん重奏じゅうそうきょくだい4ばん短調たんちょう D 46だい6ばん長調ちょうちょう D 74だい10ばん へん長調ちょうちょう D 87)、すうおおくのみじか器楽きがくきょく、『交響こうきょうきょくだい1ばん』のだい1楽章がくしょう、『潜水せんすいしゃ』(D 77)や『いとつむぐグレートヒェン』(D 118)といった傑作けっさくふくむ7つの歌曲かきょくかれた。

1815ねんには、学業がくぎょう、サリエリの授業じゅぎょう、ウィーン生活せいかつ娯楽ごらくにもかかわらず、おおくの作品さくひんした。『交響こうきょうきょくだい2ばん へん長調ちょうちょう』(D 125)が完成かんせいし、『交響こうきょうきょくだい3ばん長調ちょうちょう』(D 200)もそれにつづいた。また、『ミサきょくだい2ばん ト長調とちょうちょう』(D 167)と『ミサきょくだい3ばん へん長調ちょうちょう』(D 324)の2つのミサきょく前者ぜんしゃは6日間にちかんげられた)、その『ミサきょくだい1ばん』のためのあたらしい『ドナ・ノビス』(D 185)、『スターバト・マーテル イ短調たんちょう』(D 383)、『サルヴェ・レジナ ヘ長調ちょうちょう』(D 379)、オペラは『4年間ねんかん歩哨ほしょうへい勤務きんむ』(Der Vierjahrige Posten, D 190)、『フェルナンド』(Fernando, D 220)、『クラウディーネ・フォン・ヴィラ・ベッラ』(Claudine von Villa Bella, D 239)[注釈ちゅうしゃく 2]、『アドラスト』(Adrast, D 137、研究けんきゅうにより1819ねん作曲さっきょく推定すいてい)、『サラマンカの友人ゆうじんたち』(Die Freunde von Salamanka, D 326、会話かいわ部分ぶぶんうしなわれている)の5きょく作曲さっきょくされた。に『弦楽げんがくよん重奏じゅうそうきょくだい9ばん ト短調とたんちょう』(D 173)、3きょくのピアノソナタ(だい1ばん長調ちょうちょう D 157だい2ばん長調ちょうちょう D 279英語えいごばんだい3ばん長調ちょうちょう D 459)、すうきょくのピアノ小品しょうひんがある。これらの最盛さいせいをなすのは146きょくもの歌曲かきょくで、なかにはかなりながきょくもあり、そのうち8きょくは10月15にち、7きょくは10月19にち日付ひづけがある。

1814ねんから1815ねんにかけてのふゆ、シューベルトは詩人しじんヨハン・マイアホーファー英語えいごばん(1787ねん - 1836ねん)とった。この出会であいはもなくあたたかで親密しんみつ友人ゆうじん関係かんけいじゅくしていった。2人ふたり性質せいしつはかなりちがっていた。シューベルトはあかるく開放かいほうてき少々しょうしょううつのときもあったが、突然とつぜんえるような精神せいしんてき高揚こうようもあった。一方いっぽうでマイアホーファーは厳格げんかく気難きむずかしく、人生じんせい忍耐にんたいすべき試練しれんとみなしている口数くちかずすくない男性だんせいだった。2人ふたり関係かんけいは、シューベルトにたいして一方いっぽうてき奉仕ほうしするものだったという。

1816ねん

フランツ・フォン・ショーバーによってえがかれたフォーグルとシューベルトの似顔絵にがおえ(1825ねん

シューベルトの運命うんめい最初さいしょ変化へんかえた。コンヴィクト時代じだいからの友人ゆうじんシュパウンのいえでシューベルトの歌曲かきょくいていた法律ほうりつ学生がくせいフランツ・フォン・ショーバー(1796ねん - 1882ねん)がシューベルトを訪問ほうもんし、教師きょうしめ、平穏へいおん芸術げいじゅつ追求ついきゅうしないかと提案ていあんした。シューベルトはライバッハ(現在げんざいリュブリャナ)の音楽おんがく監督かんとく志願しがんしたが採用さいようになったばかりで、教室きょうしつしばりつけられているというおもいがつよまっていた。父親ちちおや了解りょうかいはすぐにられ、はるるころにはシューベルトはショーバーの客人きゃくじんになった。しばらくのあいだかれ音楽おんがくおしえることで家具かぐるいそうとしたが、じきにやめて作曲さっきょく専念せんねんした。「わたしいちにちちゅう作曲さっきょくしていて、1つ作品さくひん完成かんせいさせるとまたつぎはじめるのです」と、訪問ほうもんしゃ質問しつもんこたえていたという。

1816ねん作曲さっきょくされた作品さくひんの1つはサリエリの6がつ16にち記念きねんさいのためのカンタータ『サリエリ音楽おんがく活動かつどう50周年しゅうねんしゅくして』(D 407)、もう1つのカンタータ『プロメテウス』(D 451)はハインリヒ・ヨーゼフ・ワターロート教授きょうじゅ生徒せいとたちのためで、教授きょうじゅはシューベルトに報酬ほうしゅう支払しはらった。かれ雑誌ざっし記者きしゃに「作曲さっきょく報酬ほうしゅうたのははじめてだ」とかたっている。もう1きょくは、《教員きょういん未亡人みぼうじん基金ききん》の創立そうりつしゃ学長がくちょうヨーゼフ・シュペンドゥのための『ヨーゼフ・シュペンドゥをたたえるカンタータ』(作品さくひん128, D 472)である。もっとも重要じゅうよう作品さくひんは、シューベルト自身じしんによって『悲劇ひげきてき』と名付なづけられた『交響こうきょうきょくだい4ばん短調たんちょう悲劇ひげきてき』(D 417) であり、いでモーツァルトの交響こうきょうきょくのようにあかるく新鮮しんせんな『交響こうきょうきょくだい5ばん へん長調ちょうちょう』(D 485)、その多少たしょう教会きょうかい音楽おんがくであった。これらはゲーテシラーからシューベルト自身じしんえらんだだった。

この時期じき友人ゆうじん次第しだいひろがっていった。マイアーホーファーがかれに、有名ゆうめいなバリトン歌手かしゅヨハン・ミヒャエル・フォーグル(1768ねん - 1840ねん)を紹介しょうかいし、フォーグルはウィーンのサロンでシューベルトの歌曲かきょくうたった。アンゼルムとヨーゼフのヒュッテンブレンナー兄弟きょうだいはシューベルトに奉仕ほうしあがめていた。ガヒーは卓越たくえつしたピアニストでシューベルトのソナタや幻想曲げんそうきょく演奏えんそうした。ゾンライトナー裕福ゆうふく商人しょうにんで、長男ちょうなんがコンヴィクトに所属しょぞくしていたえんもあって自宅じたく自由じゆう使つかわせていたが、それはあいだもなく「シューベルティアーデドイツばん」とばれ、シューベルトをとなえた音楽おんがくかいへと組織そしきされていった。

シューベルトはまずしかった。それというのも教師きょうしめたうえ、公演こうえんかせぐこともできなかったからである。しかも、音楽おんがく作品さくひんをただでももらうという出版しゅっぱんしゃはなかった。しかし、友人ゆうじんたちはしんボヘミアン寛大かんだいさで、あるもの宿やどを、あるもの食料しょくりょうを、もの必要ひつよう手伝てつだいにやってきた。かれらは自分じぶんたちの食事しょくじってべ、裕福ゆうふくもの楽譜がくふ代金だいきん支払しはらった。シューベルトはつねにこのパーティーの指導しどうしゃであり、あたらしいひと紹介しょうかいされたときの、「かれができることはなにか?」という質問しつもんがこのかい特徴とくちょうをよくあらわしている。

1818ねん

1818ねん前年ぜんねん同様どうよう創作そうさくじょう比較的ひかくてきみのりがなかったものの、2つのてん特筆とくひつすべきとしだった。1つ作品さくひん公演こうえんはじめておこなわれたことである。演目えんもくは『イタリアふう序曲じょきょくだい1ばん長調ちょうちょう』(D 590)で、これはジョアキーノ・ロッシーニパロディしたとかれており、5月1にち刑務所けいむしょコンサートで演奏えんそうされた。2つはじめて公式こうしき招聘しょうへいがあったことである。これは、ツェレスに滞在たいざいするヨハン・エステルハージ伯爵はくしゃく一家いっか音楽おんがく教師きょうし地位ちいで、シューベルトはなつちゅうたのしく快適かいてき環境かんきょうごした。

このとし作品さくひんには『ミサきょくだい4ばん長調ちょうちょう』(D 452)や『交響こうきょうきょくだい6ばん長調ちょうちょう』(D 589)、ツェレスでの生徒せいとたちのための一連いちれん四手よつでピアノのための作品さくひん、『孤独こどくに』(D 620)、『聖母せいぼマリアぞう』(D 623)などをふく歌曲かきょくがある。あきのウィーンへのかえりに、ショーバーのところには滞在たいざいする部屋へやがないことがかり、マイアーホーファーたく同居どうきょすることになった。ここでシューベルトのれた生活せいかつ継続けいぞくされた。毎朝まいあさ起床きしょうするなり作曲さっきょくはじめ、午後ごご2までき、昼食ちゅうしょくのあと田舎道いなかみち散歩さんぽし、ふたた作曲さっきょくもどるか、あるいはそうした気分きぶんにならない場合ばあい友人ゆうじんたく訪問ほうもんした。歌曲かきょく作曲さっきょくとしての最初さいしょ公演こうえん1819ねん2がつ28にちで、『ひつじいのなげきのうた』(D121)が刑務所けいむしょコンサートのイェーガーによってうたわれた。このなつ、シューベルトは休暇きゅうかり、フォーグルとともに北部ほくぶオーストリアを旅行りょこうした。シュタイアーでは『ピアノ重奏じゅうそうきょく イ長調いちょうちょう《ます》』(作品さくひん114, D 667)のパートをスコアなしでき、友人ゆうじんおどろかせた。あき自作じさくの3きょくヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテおくったが、返事へんじはなかった。

1820ねん・1821ねん

1820ねんつくられた作品さくひんには、進歩しんぽ形式けいしき成熟せいじゅくられる。小品しょうひん数々かずかずじって、『水上すいじょうれいたちのうた』(D 705)や『詩篇しへんだい23《おもわたし牧者ぼくしゃで》』(作品さくひん132, D 706)などの声楽せいがくきょくや、『弦楽げんがくよん重奏じゅうそうきょくだい12ばん短調たんちょう四重奏しじゅうそう断章だんしょう』(D 703)、ピアノきょく幻想曲げんそうきょく長調ちょうちょう《さすらいじん』(作品さくひん15, D 760)などが誕生たんじょうしている。

6月14にちにオペラ『双子ふたご兄弟きょうだい』(Die Zwillingsbrüder, D 647)が、8がつ19にちげき付随ふずい音楽おんがく魔法まほう竪琴たてごと』(Die Zauberharfe, D 644)が公演こうえんされた。それまで、ミサきょくべつにしてかれおおきな作品さくひんはグンデルホーフでのアマチュア・オーケストラに限定げんていされていた。それは家庭かていでのカルテット演奏えんそうかいからそだっておおきくなった社交しゃこうじょうだった。ここへきてかれはより際立きわだった立場たちばて、ひろ一般いっぱんせっすることがもとめられはじめた。相変あいかわらず出版しゅっぱんしゃ冷淡れいたんだったが、友人ゆうじんのフォーグルが1821ねん2がつ8にちケルントナートーア劇場げきじょう歌曲かきょく魔王まおう』(作品さくひん1, D 328)をうたい、ようやくアントン・ディアベリ作曲さっきょく出版しゅっぱん業者ぎょうしゃ、1781ねん - 1858ねん)がシューベルトの作品さくひん取次とりつぎ販売はんばい同意どういした。作品さくひん番号ばんごう最初さいしょの7きょく(すべて歌曲かきょく)がこの契約けいやくしたがって出版しゅっぱんされた。その、この契約けいやく終了しゅうりょうし、大手おおて出版しゅっぱんしゃかれおうじてわずかな版権はんけんはじめた。シューベルトが世間せけんから問題もんだいにされないのを生涯しょうがいにしていたことについては、おおくの記事きじられる。2つのげき作品さくひんしたことを契機けいきに、シューベルトの関心かんしんがより舞台ぶたいけられた。

1821ねんとしにかけて、シューベルトはおよそ3年来ねんらい屈辱くつじょくかん失望しつぼうかんひたっていた。『アンフォンゾとエストレッラ』(Alfonso und Estrella, D 732)はれられず、『フィエラブラス』(Fierrabras, D 796)もおなじだった。『謀反むほんじんたち』(Die Verschworenen, D 787)は検閲けんえつ禁止きんしされた(あきらかに題名だいめい根拠こんきょだった)。げき付随ふずい音楽おんがくキプロスの女王じょおうロザムンデ』(Rosamunde, Prinzessin von Zypern, D 797)は2上演じょうえんられた。これらのうち『アンフォンゾとエストレッラ』と『フィエラブラス』は、規模きぼてん公演こうえん困難こんなんだった(たとえば『フィエラブラス』は1000ページをえる手書てが楽譜がくふ)。しかし、『謀反むほんじんたち』はあかるく魅力みりょくてき喜劇きげきであり、『ロザムンデ』はシューベルトが作曲さっきょくしたなかでも素晴すばらしいきょくふくまれていた。

1822ねん - 1825ねん

ヴィルヘルム・アウグスト・リーダードイツばんによってえがかれたシューベルトの肖像しょうぞう(1825ねん

1822ねんカール・マリア・フォン・ウェーバー、そしてルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンう。両者りょうしゃともにしたしい関係かんけいにはならなかったが、ベートーヴェンはシューベルトの才能さいのうみとめていた。シューベルトもベートーヴェンを尊敬そんけいしており、連弾れんだんのための『フランスのうたによる8つの変奏曲へんそうきょく短調たんちょう』(作品さくひん10, D 624)を同年どうねん出版しゅっぱんするにあたり献呈けんていしている。しかしウェーバーはウィーンをはなれ、あたらしい友人ゆうじんあらわれなかった。この2ねん全体ぜんたいとして、かれ人生じんせいでもっともくら年月としつきだった。

1824ねんはる、シューベルトは壮麗そうれいな『はち重奏じゅうそうきょく長調ちょうちょう』(作品さくひん166, D 803)やだい交響曲こうきょうきょく』のためのスケッチき、ふたたびツェレスにもどった。また、ハンガリーの表現ひょうげん形式けいしきせられ『ハンガリーふうディヴェルティメント ト短調とたんちょう』(作品さくひん54, D 818)を作曲さっきょくした。

舞台ぶたい作品さくひん公的こうてき義務ぎむいそがしかったが、このすう年間ねんかん時間じかんつくって多様たよう作品さくひんされた。まず1822ねんに『ミサきょくだい5ばん へんイ長調いちょうちょう』(D 678)が完成かんせい。さらに同年どうねんには『完成かんせい交響曲こうきょうきょく』としてられる『交響こうきょうきょくだい7ばんきゅうだい8ばん)ロ短調たんちょう完成かんせい』(D 759)にも着手ちゃくしゅしている。さらにヴィルヘルム・ミュラー(1794ねん - 1827ねん)のによる歌曲かきょくしゅううつくしき水車みずぐるま小屋こやむすめ』(作品さくひん25, D 795)と、素晴すばらしい歌曲かきょく数々かずかず1825ねんかれた。

1824ねんまでに、前記ぜんき作品さくひんのぞき『《しおれたはな》の主題しゅだいによる序奏じょそう変奏曲へんそうきょく短調たんちょう』(D 802)、『弦楽げんがくよん重奏じゅうそうきょくだい13ばん短調たんちょう《ロザムンデ》』(作品さくひん29, D 804)と『弦楽げんがくよん重奏じゅうそうきょくだい14ばん短調たんちょう乙女おとめ』(D 810)の2つの弦楽げんがくよん重奏じゅうそうきょくつくられている。また、同年どうねん11がつ完成かんせいした『アルペジオーネソナタ イ短調たんちょう』(D 821)は、当時とうじ、ウィーンのギターせい作家さっかであるヨハン・ゲオルク・シュタウファー(1778ねん – 1853ねん)により開発かいはつされたばかりのあたらしい楽器がっきアルペジオーネ」をもちいたこころみである。

過去かこすうねん苦難くなん1825ねん幸福こうふくってわった。出版しゅっぱん急速きゅうそくすすめられ、窮乏きゅうぼうによるストレスからしばらくは解放かいほうされた。なつにはシューベルトが熱望ねつぼうしていたきたオーストリアへの休暇きゅうか旅行りょこうをした。旅行りょこうちゅうにはウォルター・スコット(1771ねん - 1832ねん)のによる、有名ゆうめいな『エレンのうただい3ばん(アヴェ・マリア)』(D 839)をふく歌曲かきょくしゅう湖上こじょう美人びじん』(作品さくひん52)や歌曲かきょく『ノルマンのうた』(D 846)、『とらわれし狩人かりゅうどうた』(D 843)や『ピアノソナタだい16ばん短調たんちょう』(作品さくひん42, D 845)を作曲さっきょく。スコットのによる歌曲かきょくでは、それまでの作品さくひん最高さいこうがく収入しゅうにゅうることができた。

ウィーンでの晩年ばんねん(1826ねん - 1828ねん

フランツ・アイブルによってえがかれたシューベルトの肖像しょうぞう(1827ねん
ウィーン中央ちゅうおう墓地ぼちにあるシューベルトのはか

1827ねんグラーツみじか訪問ほうもんをしていることをのぞけば、1826ねんから1828ねんにかけてウィーンにとどまった。そのあいだ、たびたび体調たいちょう不良ふりょうおそわれている。

晩年ばんねんのシューベルトの人生じんせい俯瞰ふかんしたとき、重要じゅうよう出来事できごとが3つみられる。1つは1826ねんあたらしい交響曲こうきょうきょくウィーンらくとも協会きょうかい献呈けんていし、そのれいとしてシューベルトに10ポンドがあたえられたこと。2つはオペラ指揮しきしゃ募集ぼしゅう応募おうぼするためオーディションにかけ、リハーサルのさい演奏えんそう曲目きょくもく自作じさくきょく変更へんこうするよう楽団がくだんいんたちに提案ていあんしたが拒否きょひされ、最終さいしゅうてき指揮しきしゃ採用さいようされなかったこと。そして3つは1828ねん3がつ26にち(ベートーヴェンの命日めいにち)におこなわれた、人生じんせいはじめてで生前せいぜん唯一ゆいいつの、かれ自身じしん作品さくひん演奏えんそうかいである。

1827ねんに、シューベルトは歌曲かきょくしゅうふゆたび』(作品さくひん89, D 911)やヴァイオリンとピアノのための『幻想曲げんそうきょく長調ちょうちょう』(作品さくひん159, D 934)、2つのピアノさん重奏じゅうそうきょくだい1ばん へん長調ちょうちょう 作品さくひん99, D 898だい2ばん へん長調ちょうちょう 作品さくひん100, D 929)をいた。

1827ねん3がつ26にち、ベートーヴェンが死去しきょ。ウィーン市民しみん2まんにんだい葬列そうれつなか、シューベルトはかんかつ大任たいにんった。その友人ゆうじんたちと酒場さかばき、「このなかでもっともはややつ乾杯かんぱい!」と音頭おんどをとった。このとき友人ゆうじんたちは一様いちよう大変たいへん不吉ふきつかんじをおぼえたという[2][3]。そして、かれ寿命じゅみょうはその翌年よくねんきた。まれ故郷こきょうであるウィーンをほとんどはなれることがなく、生涯しょうがいいちうみることがなかったという。

さい晩年ばんねんの1828ねん、『ミサきょくだい6ばん へん長調ちょうちょう』(D 950)、おなへん長調ちょうちょうの『タントゥム・エルゴ』(D 962)、『弦楽げんがく重奏じゅうそうきょく長調ちょうちょう』(D 956)、『ミサきょくだい4ばん』のための2度目どめの『ベネディクトス』(D 961)、最後さいごの3つのピアノソナタ(だい19ばん短調たんちょう D 958だい20ばん イ長調いちょうちょう D 959だい21ばん へん長調ちょうちょう D 960)、『白鳥はくちょううた』として有名ゆうめい歌曲かきょくしゅう(D 957/965A)を完成かんせいさせた。この歌曲かきょくしゅううちの6きょくハインリヒ・ハイネにつけられた。ハイネの名声めいせい不動ふどうのものにした詩集ししゅううたほん』は1827ねんあき出版しゅっぱんされている。

また上記じょうきとおり、同年どうねん3がつ26にちのベートーヴェンの命日めいにちには、シューベルトにとって最初さいしょ最後さいご自作じさくによる演奏えんそうかいおこなわれており、演奏えんそうかい自体じたい大衆たいしゅうてきにも財政ざいせいてきにも成功せいこうしたものの、直後ちょくごニコロ・パガニーニがウィーンで演奏えんそうかいおこなったことでかげうすくなってしまった。

シューベルトは対位法たいいほう理論りろんとして高名こうみょうだった作曲さっきょくジーモン・ゼヒター(のちにアントン・ブルックナーとなる)のレッスンを所望しょもうし、知人ちじん一緒いっしょかれもんたたいた。しかしなんかのレッスンのあと、ゼヒターはその知人ちじんからシューベルトは重病じゅうびょうらされた。11月12にちづけのショーバーあて手紙てがみでシューベルトは「ぼく病気びょうきだ。11日間にちかんなにくちにできず、なにべてもんでもすぐにいてしまう」といちじるしい体調たいちょう不良ふりょううったえた。これがシューベルトの最後さいご手紙てがみとなった。

その、シューベルトは『ふゆたび』などの校正こうせいおこなっていたが、11月14にちになると病状びょうじょう悪化あっかして高熱こうねつかされるようになり、同月どうげつ19にちあにフェルディナントのいえ死去しきょした。31さいぼつ。フェルディナントがちちてた手紙てがみによると、前日ぜんじつ部屋へやかべてて「これが、ぼく最期さいごだ」とつぶやいたのが最後さいご言葉ことばだったという。

遺体いたいはシューベルトのんだフェルディナントの尽力じんりょくにより、ヴェーリングがいにあったヴェーリング墓地ぼちの、ベートーヴェンのはかとなり埋葬まいそうされた。1888ねん両者りょうしゃ遺骸いがいウィーン中央ちゅうおう墓地ぼちうつされたが、ヴェーリング墓地ぼちあとのシューベルト公園こうえんにはいま2人ふたり当時とうじ墓石はかいしのこっている。

死後しごあいだもなく小品しょうひん出版しゅっぱんされたが、当時とうじ出版しゅっぱんしゃはシューベルトを「シューベルティアーデドイツばんのための作曲さっきょく」とみなして、だい規模きぼ作品さくひん出版しゅっぱんすることはなかった。

シューベルトの死因しいんについては、死去しきょしたとしの10がつにレストランでべたさかな料理りょうりがもとのちょうチフスであったとも、エステルハージ女中じょちゅうから感染かんせんした梅毒ばいどく治療ちりょうのために投与とうよされた水銀すいぎん体内たいない蓄積ちくせき中毒ちゅうどく症状しょうじょうこしていたったともわれている。シューベルト生誕せいたん200ねんの1997ねんには、あらためてその人生じんせい足跡あしあと辿たどこころみがおこなわれ、かれ梅毒ばいどく罹患りかんをテーマにした映画えいが制作せいさくされ公開こうかいされた。

死後しご

19世紀せいき

没後ぼつごは「歌曲かきょくおう」という位置いちづけがなされ、歌曲かきょく以外いがい作品さくひんは『完成かんせい交響曲こうきょうきょく』や『弦楽げんがくよん重奏じゅうそうきょく乙女おとめ』のような重要じゅうようさくのぞいて放置ほうちひとしい状況じょうきょうだった。

1838ねんロベルト・シューマンがウィーンにったさいに、シューベルトのあにフェルディナントのいえ訪問ほうもんした。フェルディナントはシューベルトの書斎しょさいくなった当時とうじのままの状態じょうたい保存ほぞんしており、シューマンはその机上きじょうで『ザ・グレート』の愛称あいしょうられる『長調ちょうちょう交響曲こうきょうきょく』がほこりにうずもれているのを発見はっけんし、ライプツィヒかえった。そのフェリックス・メンデルスゾーン指揮しきによって演奏えんそうされ、『ノイエ・ツァイトシュリフト』絶賛ぜっさんされた。ちなみにこの交響こうきょうきょく番号ばんごうは、母国ぼこくがドイツ学者がくしゃは「だい7ばん」、再版さいはんのドイツのカタログでは「だい8ばん」、英語えいご母国ぼこくとする学者がくしゃは「だい9ばん」として掲載けいさいするなど、いまだに統一とういつされていない(下記かき参照さんしょう)。

そのうずもれていた作品さくひん復活ふっかつに、1867ねんにウィーンを旅行りょこうしたジョージ・グローヴ(1820ねん - 1900ねん)とアーサー・サリヴァン(1842ねん - 1900ねん)の2人ふたりおおきな功績こうせきげた。この2人ふたりは7きょく交響曲こうきょうきょく、『ロザムンデ』の音楽おんがくすうきょくのミサきょくとオペラ、室内楽しつないがくきょくすうきょく膨大ぼうだいりょう多様たようきょく歌曲かきょく発見はっけんし、おくした。こうして聴衆ちょうしゅううずもれていた音楽おんがく興味きょうみいだくようになり、最終さいしゅうてきには楽譜がくふ出版しゅっぱんしゃブライトコプフ・ウント・ヘルテルによる決定けっていばんとしておくされた。

グローヴとサリヴァンに由来ゆらいし、長年ながねんにわたって《うしなわれた》交響こうきょうきょくにまつわる論争ろんそうつづいてきた。シューベルトの直前ちょくぜんかれ友人ゆうじんエドゥアルト・フォン・バウエルンフェルトがべつ交響こうきょうきょく存在そんざい1828ねん日付ひづけ記録きろくしており(かならずしも作曲さっきょく年代ねんだいしめすものではないが)、《最後さいごの》交響曲こうきょうきょく名付なづけられていた。《最後さいごの》交響曲こうきょうきょくが「ニ長調ちょうちょう」(D 963A)のスケッチをしていることは、音楽おんがく学者がくしゃによってある程度ていどれられている。これは1970年代ねんだい発見はっけんされ、ブライアン・ニューボールド英語えいごばんによって『交響こうきょうきょくだい10ばん』として理解りかいされている。シューベルトはリスト言葉ことばでよく要約ようやくされている。いわく、「シューベルトはもっとも詩情しじょうゆたかな音楽家おんがくかである」。

シューベルトのおおくの作品さくひん即興そっきょうせいられるが、これはかれふでにインクのみをつけたことがないほどの速筆そくひつだったことも関係かんけいしている。

20世紀せいき

グスタフ・クリムトによってえがかれたシューベルト
「ピアノをくシューベルト」(1899ねん

シューベルトは歌曲かきょく以外いがいにも、公開こうかい作品さくひん出版しゅっぱん作品さくひん大量たいりょうのこしたため、研究けんきゅう難航なんこうした。

ピアノソナタなど、その作品さくひん脚光きゃっこうびるようになるのはシューベルトぼつひゃくねん国際こくさい作曲さっきょくコンクール英語えいごばん優勝ゆうしょうしゃクット・アッテルベリ)が1927ねん開催かいさいされるころからであり、どう時期じきエルンスト・クルシェネクがシューベルトのピアノソナタの補筆ほひつ完成かんせいばん出版しゅっぱんした。

シューベルトのピアノソナタはベートーヴェンより格下かくしたられていたために、録音ろくおんしようというピアニストは少数しょうすうだったが、その黎明れいめい録音ろくおんたした人物じんぶつヴァルター・ギーゼキングがいる。没後ぼつご150ねんむかえた1977ねんごろになると、シューベルトのピアノソナタは演奏えんそうかいかれるようになり、長大ちょうだいなピアノソナタをかえしなしで演奏えんそうすることが可能かのうになった(かつては省略しょうりゃくたりまえだった)。現在げんざい初期しょきから後期こうきまでの作品さくひん演奏えんそうかいあらわれる。補筆ほひつして演奏えんそうするパウル・バドゥラ=スコダピアノソナタだい11ばん)のようなピアニストもめずらしくない。

しんシューベルト全集ぜんしゅう英語えいごばん現在げんざいベーレンライター出版しゅっぱんしゃぜん責任せきにんかたち出版しゅっぱんつとめているが、オペラなどの部分ぶぶんはこれからも順次じゅんじ刊行かんこう予定よていである。音符おんぷかたちやスコア全体ぜんたいのレイアウトはすべてコンピュータ出力しゅつりょく修正しゅうせいされているが、合唱がっしょう作品さくひんはCarusしゃなどもあたらしいはん出版しゅっぱんしている。

現在げんざい浄書じょうしょ技術ぎじゅつをもってしても、デクレッシェンドなのかアクセントなのかのなぞは、完全かんぜんには解明かいめいされていない。そのため、『完成かんせい交響曲こうきょうきょく』の管楽器かんがっきについたおとは、いまだに奏者そうしゃ指揮しきしゃによって解釈かいしゃくことなり定着ていちゃくしていない。

小惑星しょうわくせい(3917) Franz Schubertはフランツ・シューベルトにちなんで命名めいめいされた[4]

歴史れきしてき位置いち

ロマン幕開まくあ

シューベルトは一般いっぱんてきロマンわくれられるが、その音楽おんがく人生じんせいはウィーン古典こてんつよ影響えいきょうにあり、ほう基本きほんてき作曲さっきょくほう古典こてんぞくしている。貴族きぞく社会しゃかい作曲さっきょくから市民しみん社会しゃかい作曲さっきょくへというてんではロマンてきであり、音楽おんがくてきには古典こてんとロマン橋渡はしわたてき位置いちにあるが、年代ねんだいてきにはシューベルトの一生いっしょうはベートーヴェンののち半生はんせいとほぼかさなっており、音楽おんがくてきにも後期こうきのベートーヴェンよりとき古典こてんてきである。

同様どうように、時期じきてきにも様式ようしきてきにも古典こてんにかかる部分ぶぶんおおきいにもかかわらず、初期しょきロマンとしてげられることのおお作曲さっきょくとしてカール・マリア・フォン・ウェーバーがいるが、シューベルトにも自国じこくへのこだわりがあった。ドイツオペラの確立かくりつしゃとしての功績こうせき評価ひょうかされるウェーバーとくらべるとおおきな成果せいかげられなかったものの、オペラ分野ぶんやではイタリア・オペラの大家たいかサリエリ門下もんかでありながら、未完みかんふくめてドイツジングシュピールみつづけた。当時とうじのウィーンではドイツオペラの需要じゅようひくく、ただでさえ知名度ちめいどひくいシューベルトは上演じょうえん機会きかいすらられないことがおおかったにもかかわらず、この姿勢しせいわらなかった[5]教会きょうかい音楽おんがく特性とくせいじょうラテン語らてんごきょくおおいものの、それでもすうきょくドイツ語どいつごきょくのこし、歌曲かきょくいたってはイタリアきょくが9きょくたいしてドイツきょくが576きょくという比率ひりつとなっている。

「ドイツの国民こくみんてき民族みんぞくてき」にたいし「もっともふさわしいきょくをつけて、本当ほんとうにロマンてき歌曲かきょくうたいだしたのはシューベルトである」とし、ウェーバーらとともに、言語げんごかいした民族みんぞく主義しゅぎをロマン幕開まくあけのいち要素ようそとする見解けんかいもある[6]

作曲さっきょくとの関係かんけい

シューベルトはおさないころからハイドンやそのおとうとミヒャエルモーツァルトベートーヴェン弦楽げんがくよん重奏じゅうそうきょく家族かぞく演奏えんそうし、コンヴィクトでもそれらの作曲さっきょく交響曲こうきょうきょくをオーケストラで演奏えんそう指揮しきしていた。

シューベルトは当時とうじウィーンでもっとも偉大いだい音楽家おんがくかだったベートーヴェンを尊敬そんけいしていたが、それは畏怖いふねんちかいもので、ベートーヴェンの音楽おんがく自体じたい日記にっきなかで「今日きょうおおくの作曲さっきょく共通きょうつうしてられる奇矯ききょうさの原因げんいん」としてむしろ敬遠けいえんしていた。シューベルトは主題しゅだい労作ろうさくドイツばんといった構築こうちくてき作曲さっきょくほう苦手にがてだったとかんがえられているが、そういったベートーヴェンのスタイルは本来ほんらいシューベルトの作風さくふうではなかった。

むしろシューベルトがあいした作曲さっきょくはモーツァルトである。1816ねん6がつ14にち、モーツァルトの音楽おんがくいた日記にっきでシューベルトはモーツァルトをこれ以上いじょうないほど賞賛しょうさんしている。またザルツブルクへの旅行りょこうせいペーター僧院そういん教会きょうかいのミヒャエル・ハイドンの記念きねんおとずれ、感動かんどうとともになみだながしたという日記にっきのこされている。

コンヴィクトからの友人ゆうじんヨーゼフ・フォン・シュパウンがのこした回想かいそうぶんは、シューベルトが11さいのとき、「ベートーヴェンのあとで、なにができるだろう」とったとつたえている。さらにオーケストラでハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの交響曲こうきょうきょく演奏えんそうしたときにはハイドンの交響こうきょうきょくのアダージョ楽章がくしょうふかしんうごかされ、モーツァルトのト短調とたんちょう交響こうきょうきょく(おそらく『だい40ばん K. 550』)については、なぜか全身ぜんしんふるえるとい、さらにメヌエットのトリオでは天使てんしうたっているようだとった。ベートーヴェンについては長調ちょうちょうだい2ばんへん長調ちょうちょうだい4ばんイ長調いちょうちょうだい7ばんたいして夢中むちゅうになっていたが、のちには短調たんちょうだい5ばんほう一層いっそうすぐれているとったとつたえている。

ウェーバーとも生前せいぜん親交しんこうがあった。1822ねんのウィーンでの『だん射手しゃしゅ上演じょうえんさいい、シューベルトのオペラ『アルフォンソとエステレッラ』をドレスデンで上演じょうえんする協力きょうりょく約束やくそくしたが、のちの『オイリアンテ』についてシューベルトが、「『だん射手しゃしゅ』のほうがメロディがずっときだ」とったために、その約束やくそくたされなかった。

シューベルトはのちの作曲さっきょくおおきな影響えいきょうあたえた。『ザ・グレート』を発見はっけんしたシューマンはうにおよばず、とく歌曲かきょく交響曲こうきょうきょくにおいてフェリックス・メンデルスゾーンヨハネス・ブラームスアントン・ブルックナーヨーゼフ・シュトラウスフーゴ・ヴォルフリヒャルト・シュトラウスアントニン・ドヴォルザークなど、シューベルトの音楽おんがくあいし、影響えいきょうけた作曲さっきょくおおい。

シューベルティアーデ

ユリウス・シュミットドイツばんによる絵画かいがシューベルティアーデドイツばん

シューベルトが私的してきった夜会やかいは、かれ名前なまえにちなんで「シューベルティアーデドイツばん」とばれた。現在げんざいもキャッチフレーズとして使つかわれることがある。かれ協奏曲きょうそうきょく作曲さっきょくすることはほとんどなく、そのつつましいイメージも「シューベルティアーデ」の性格せいかく助長じょちょうさせた。

生前せいぜん出版しゅっぱんされた最後さいご作品さくひんが、1828ねん出版しゅっぱんされた四手よつでピアノのための『ロンド イ長調いちょうちょう』(作品さくひん107, D 951)だったことからうかがえるように、生前せいぜん出版しゅっぱんされた作品さくひんだけでも作品さくひん番号ばんごうは100をえている。おな時代じだいに、これと同数どうすう作品さくひん作曲さっきょくできたライバルカール・チェルニーのみである(31さい前後ぜんこうのチェルニーにはオペラ交響曲こうきょうきょくなどのだい規模きぼ出版しゅっぱん作品さくひん見当みあたらない)。それらにだい規模きぼ作品さくひんふくまれず、極端きょくたん場合ばあい委嘱いしょくさくすら生前せいぜん出版しゅっぱんはなく(『アルペジオーネソナタ』など)、没後ぼつご長期間ちょうきかんにわたり出版しゅっぱん継続けいぞくされている。最後さいご作品さくひん番号ばんごうは1867ねん出版しゅっぱんされた「作品さくひん173」であり、すでにシューベルト死去しきょから30ねん以上いじょう経過けいかしていた。

31さいでこの膨大ぼうだいりょう無名むめい作曲さっきょくでは不可能ふかのうであり、作曲さっきょくとしてすでに成功せいこうかんがえてよいという理由りゆうから、シューベルトが本当ほんとうまずしかったのか疑問ぎもんするこえもある[7]。また、シューベルトをえがいた肖像しょうぞうなんてん作成さくせいされており、それらは対象たいしょう美化びかしている。名士めいしであれば肖像しょうぞう実物じつぶつよりうつくしくえがくことが当時とうじ画家がか責務せきむだったため、こうした待遇たいぐうは、シューベルトが名士めいしであった証拠しょうこかんがえることができる。シューベルトはグラーツらくとも協会きょうかいドイツばんから名誉めいよディプロマを授与じゅよされた(完成かんせい交響曲こうきょうきょく)ときには25さいぎず、この時点じてんかれ無名むめいではなかったとかんがえられる。

また、シューベルトのさいして、新聞しんぶん訃報ふほうしている。

作品さくひん演奏えんそうしょ問題もんだい

シューベルト作品さくひん校訂こうていは21世紀せいきはいった現在げんざいでも簡単かんたんではない。とくに「ヘアピン」ともばれえる特大とくだいのアクセントのような記号きごう[8]をどう解釈かいしゃくするかが問題もんだいになっている。小節しょうせつあいだをまたぐようにヘアピン[9]がわたっているものもある。これをデクレッシェンドと解釈かいしゃくするか、もしくはアクセントと解釈かいしゃくするかが問題もんだいとなる。また、シューベルトはするどスタッカティシモのようなたてせん使つかう(「完成かんせい」のだい2楽章がくしょう)こともあり、19世紀せいき出版しゅっぱんでは通常つうじょうのスタッカートになおされている。これももともどうごきがられる。

シューベルトはMM表記ひょうき出版しゅっぱん作品さくひん[10]以外いがいまったっていないため[11]演奏えんそうによって解釈かいしゃくひらきがおおきい。

ピアノ作品さくひんには、現代げんだいピアノでは非常ひじょうむずかしいオクターヴ連続れんぞくが『さすらいじん幻想曲げんそうきょく』ほかで頻繁ひんぱんあらわれるが、これは当時とうじかるいダブル・エスケープメント発案はつあん以前いぜんのシングル・アクションではオクターヴ・グリッサンドが可能かのうだったためである[12]親指おやゆび小指こゆびをアーチのかたちにして、よこにスライドするだけでオクターブのレガートが達成たっせいできるが、ダブル・エスケープメントをふくめたダブル・アクションを鍵盤けんばんふかさがばいになった現代げんだいピアノでは困難こんなんである[13]

ラテン語らてんごミサきょくでは6きょくすべてで典礼てんれいぶん一部いちぶ欠落けつらくしているが[14]、これも理由りゆうがわかっていない。典礼てんれいぶんうつしを所持しょじしておりそれに誤脱ごだつがあったという見解けんかい一般いっぱんてきだが、聖歌せいかたいすうおおくのミサきょくうたってきたシューベルトが、クレドでのカトリック教会きょうかい信仰しんこう本質ほんしつてき部分ぶぶん欠如けつじょづかなかったというせつには無理むりがあるとおもわれる。おそらく自身じしんはプロテスタント教会きょうかいカトリック教かとりっくきょうかいたいして一線いっせんいたキリスト教きりすときょう信者しんじゃという意味いみで、あえて削除さくじょしたというせつとなえる学者がくしゃもいる[15]

おもな作品さくひん

ドイチュ番号ばんごう

シューベルトの1000ちかいスケッチ、未完みかんふく作品さくひんぐんは、オーストリアの音楽おんがく学者がくしゃオットー・エーリヒ・ドイチュ(Otto Erich Deutsch)により1951ねんつくられた英語えいご作品さくひん目録もくろく『Franz Schubert – Thematic Catalogue of all his works in chronological order』のドイチュ番号ばんごうによって整理せいりされている。シューベルトの場合ばあい出版しゅっぱんさいしての作品さくひん番号ばんごう(op.)をつものは170程度ていどであるため、通常つうじょうはドイチュ番号ばんごう使用しようされている。1978ねんヴァルター・デュルドイツばんアルノルト・ファイルドイツばんなどによってドイツ改訂かいていばん『Franz Schubert – Thematisches Verzeichnis seiner Werke in chronologischer Folge』もつくられた。

日本語にほんご完全かんぜん作品さくひん目録もくろくはまだ存在そんざいせず、かつての日本にっぽんでは作品さくひん番号ばんごう優先ゆうせんし、ドイチュ番号ばんごう後回あとまわしにしていたたが、現在げんざいNHK-FMのアナウンサーもドイチュ番号ばんごうをアナウンスするようになっている。

ドイチュ自身じしん目録もくろく序文じょぶんにおいて、「D」を自分じぶん名前なまえ略記りゃっきではなくシューベルトの作品さくひんしめ記号きごうとらえてほしいとべている。これにこたえ、「D. ○○」とピリオドをたず、Dと数字すうじあいだ半角はんかくスペースのみをれ「D ○○」と表記ひょうきするのがドイツけん英語えいごけんをはじめ国際こくさいてき主流しゅりゅうとなっている[注釈ちゅうしゃく 3]通常つうじょう「ドイチュ番号ばんごう○○」などとまれる。オーストリアなどではDeutsch-Verzeichnisというかたのとおり、「DV ○○」と表記ひょうきされることもある(オーストリア放送ほうそう協会きょうかいなどでられる[16])。

交響曲こうきょうきょく

シューベルトは現在げんざい楽譜がくふのこっているものだけで14きょく交響こうきょうきょく作曲さっきょくこころみている。そのうち有名ゆうめいな「完成かんせい」もふくめ6きょく完成かんせいわっている。よく演奏えんそうされるのは、『短調たんちょう交響曲こうきょうきょく』(D 759、通称つうしょう完成かんせい』)と、最後さいご完成かんせいされた交響こうきょうきょくである『だい長調ちょうちょう交響曲こうきょうきょく』(D 944、通称つうしょうザ・グレート』)である。それ以外いがいでは『だい5ばん へん長調ちょうちょう』(D 485)もしたしまれている。

シューベルト自身じしんによる標題ひょうだいは『悲劇ひげきてき』とだいされた『だい4ばん短調たんちょう』(D 417)の1きょくだけで、後世こうせいによるものである。『完成かんせい』はそのとおり、完成かんせいしたのはだい2楽章がくしょうまでで、だい3楽章がくしょうが20小節しょうせつ(ピアノ・スケッチも途中とちゅうまで)でわっていることからこうばれるようになった。だい8ばんきゅうだい9ばん)の通称つうしょうである『ザ・グレート』という名前なまえはイギリスの出版しゅっぱんしゃによってつけられたタイトルだとかんがえられているが、ドイツでは《Die große Sinfonie C-Dur》であり、「偉大いだいな」という意味合いみあいはない(おなじハ長調ちょうちょうであるだい6ばん比較ひかくして「おおきいほう程度ていど意味いみしかたない)。

交響こうきょうきょく番号ばんごうづけ

ふる番号ばんごうづけでは、完成かんせいされた7きょくじゅんだい7ばんまで番号ばんごうられた。そして『完成かんせい交響曲こうきょうきょく』は、4楽章がくしょう構成こうせい交響こうきょうきょくとしては未完みかんだが2楽章がくしょう完成かんせいしており、非常ひじょううつくしい旋律せんりつおおくのひと愛好あいこうされているため「だい8ばん」の番号ばんごうられた。

未完みかん交響こうきょうきょくのうち、『交響こうきょうきょく長調ちょうちょう』(D 729)は4楽章がくしょうのピアノスケッチで完成かんせいちかく(楽譜がくふに「Fine」とえてあることから、一応いちおう完成かんせいしたとみなす音楽おんがく学者がくしゃもいる[17])、シューベルトの死後しごフェリックス・ヴァインガルトナーブライアン・ニューボールド英語えいごばんらのによって補筆ほひつされ、全曲ぜんきょく演奏えんそう可能かのうになっている。このため、1951ねんのドイチュの目録もくろくでは作曲さっきょく年代ねんだいじゅんに、D 729に「だい7ばん」がてられ、『完成かんせい』が「だい8ばん」、『ザ・グレート』が「だい9ばん」とされた。

しかし、国際こくさいシューベルト協会きょうかい(Internationale Schubert-Gesellschaft)が1978ねんのドイチュ目録もくろく改訂かいてい見直みなおし、『完成かんせい』が「だい7ばん」、『ザ・グレート』が「だい8ばん」とされた。最近さいきんではこれにしたがうことがおおくなってきているが、依然いぜんとして1951ねんのドイチュ目録もくろくのまま『だい7ばん長調ちょうちょう D 729』、『だい8ばん短調たんちょう D 759』(『完成かんせい』)、『だい9ばん長調ちょうちょう D 944』(『ザ・グレート』)とされることもまだあり、さらには後述こうじゅつの『グムンデン=ガスタイン交響曲こうきょうきょく』をだい9ばん、『ザ・グレート』をだい10ばんとすることもあるなど、21世紀せいきはいった現在げんざいでも番号ばんごうづけは混乱こんらんしている。日本にっぽんでは、NHKがドイチュ目録もくろくわせて「完成かんせいだい7ばん」「ザ・グレート=だい8ばん」にしている一方いっぽうで、音楽おんがく評論ひょうろん金子かねこけんこころざしは「ながしたしみれた番号ばんごうげるのは、たん混乱こんらんこすだけ」と主張しゅちょうしている[18]。そして、「ナンバーきで〈完成かんせい〉〈グレイト〉というニックネームでべば、一番いちばん簡単かんたんで、問題もんだいしょうじない」とこの問題もんだいたいする見解けんかいべている。

交響こうきょうきょく同定どうていのために調しらべせいふるくから使つかわれてきた。すなわち、だい5ばん(D 485)を「へん長調ちょうちょう交響曲こうきょうきょく」、『完成かんせい』を「ロ短調たんちょう交響曲こうきょうきょく」とぶなどである。なお、ハ長調ちょうちょう交響こうきょうきょくは2きょくあり、編成へんせいなどからさき作曲さっきょくされたほうだい6ばん D 589)を「しょう長調ちょうちょう交響曲こうきょうきょく)」(ドイツで「ディー・クライネ(Die kleine)」)、のちに作曲さっきょくされたほう(D 944)を「だい長調ちょうちょう交響曲こうきょうきょく)」とぶ。『ザ・グレート』(独語どくご「ディー・グローセ(Die große)」の英訳えいやく)の呼称こしょうもここからている。

グムンデン=ガスタイン交響曲こうきょうきょく

シューベルトの手紙てがみ言及げんきゅうがあるものの楽譜がくふつからず、まぼろし存在そんざいとされてきた『グムンデン=ガスタイン交響曲こうきょうきょく』(Gmunden-Gasteiner Sinfonie, D 849, 1825ねん)は、研究けんきゅうにより20世紀せいき中葉ちゅうよう以降いこうは『ザ・グレート』をしている可能かのうせいがきわめてたかいとされている。もともとD 944は1828ねん作曲さっきょくかんがえられていたためにこのD番号ばんごうち、「D 849」とはべつであるとかんがえられてきたが、この根拠こんきょとなっていた楽譜がくふ年号ねんごう記述きじゅつ後世こうせい加筆かひつによると判明はんめいし、加筆かひつまえは1825ねんだったものとかんがえられている。このことが、グムンデン=ガスタイン交響こうきょうきょくは『ザ・グレート』であるという証拠しょうことされている。

一時いちじは『グラン・デュオ』としてられる『四手よつでのためのピアノソナタ ハ長調ちょうちょう英語えいごばん』(D 812)が「D 849」の原曲げんきょくではないかとわれ、ヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒムがそのせつもとづいてオーケストレーションほどこしたこともある。

グムンデン=ガスタイン交響こうきょうきょく偽作ぎさく

シュトゥットガルトで「D 849」にあたるとされるホ長調ちょうちょう交響こうきょうきょく筆写ひっしゃが「発見はっけんされた」ことがある[19]。このきょくは、ギュンター・ノイホルト指揮しきシュトゥットガルト放送ほうそう交響こうきょう楽団がくだんによる演奏えんそう録音ろくおんされ、みなみドイツ放送ほうそうでFM放送ほうそうされた。主題しゅだいとその展開てんかいが『ザ・グレート』にそっくりで、シューベルトには『ロザムンデ序曲じょきょくまえによくた「D 590」の序曲じょきょくいていた前例ぜんれいがあることから、スケッチのような意味いみつくったという学説がくせつもあった。このきょくは『ザ・グレート』とおな素材そざい展開てんかい方法ほうほう使つかわれ、下書したがてき役割やくわりたしたともかんがえられた。

楽器がっき編成へんせいは「D 944」とまったくおなじであり(フルートオーボエクラリネットファゴットホルントランペットかく2、トロンボーン3、ティンパニ1ついつる)、

  • だい1楽章がくしょう:Andante molto-Allegro(8ぶんの6拍子ひょうし - 2ぶんの3拍子ひょうし長調ちょうちょう、446小節しょうせつ
  • だい2楽章がくしょう:Scherzo un poco agitato(4ぶんの3拍子ひょうし嬰ハ短調たんちょう、117小節しょうせつ
  • だい3楽章がくしょう:Andante con moto(4ぶんの2拍子ひょうし短調たんちょう、146小節しょうせつ
  • だい4楽章がくしょう:Finale Presto(8ぶんの6拍子ひょうし長調ちょうちょう、1066小節しょうせつ

からなる、演奏えんそう時間じかんやく50ぶん作品さくひんとなっていた。現在げんざいシュトゥットガルトのゴルドーニ (Goldoni) 出版しゅっぱんしゃからヴェルナー・マーザー (Werner Maser) 校訂こうてい[20]による楽譜がくふ入手にゅうしゅできる。録音ろくおん上述じょうじゅつのものにつづいて、ゲルハルト・ザムエル指揮しきシンシナティ・フィルハーモニー管弦楽かんげんがくだんによるもの(Centaur: CRC2139)[21]発売はつばいされた。しかし後日ごじつ、このD 849とされたホ長調ちょうちょう交響こうきょうきょくは、1973ねんにヘンレしゃ楽譜がくふのコピーを提供ていきょうしたグンター・エルショルツ (Gunter Elsholz) がシューベルトののこした断片だんぺんさい構成こうせいした偽作ぎさくであることが判明はんめいした[22]

このため、グムンデン=ガスタイン交響こうきょうきょくは『ザ・グレート』であるというせつ現在げんざい有力ゆうりょくである。

最後さいご交響曲こうきょうきょく

シューベルトが最後さいご着手ちゃくしゅした交響こうきょうきょくである『交響曲こうきょうきょく長調ちょうちょう英語えいごばん』(D 936A)には、ペーター・ギュルケドイツばん補筆ほひつばん、ブライアン・ニューボールド補筆ほひつばんなどがある。異色いしょくなのはイタリアの作曲さっきょくルチアーノ・ベリオによる『レンダリング』である。『レンダリング』はスケッチの部分ぶぶんはスケッチのままで、それ以外いがい判然はんぜんとしないスケッチとスケッチのあいだ部分ぶぶん現代げんだい音楽おんがく手法しゅほうでつなぎわせている。

「D 936A」は自筆じひつのままでは完成かんせいしておらず、国際こくさいシューベルト協会きょうかい(Internationale Schubert-Gesellschaft)は番号ばんごうしていないが、「だい10ばん」などとされる場合ばあいもある。

交響こうきょうきょく一覧いちらん

日本語にほんごばん記事きじへのリンクを太字ふとじしめす。

番号ばんごう 調しらべ D 作曲さっきょく年代ねんだい 付記ふき
げん国際こくさいシューベルト協会きょうかいばん きゅう 20

きの
なか
ころ
      長調ちょうちょう 2B 1811ねんごろ 未完みかん (英語えいごばん記事きじ
1 1 1 長調ちょうちょう 82 1813ねん  
2 2 2 へん長調ちょうちょう 125 1814ねん-1815ねん
3 3 3 長調ちょうちょう 200 1815ねん  
4 4 4 短調たんちょう 417 1816ねん 悲劇ひげきてき」:唯一ゆいいつ、シューベルト自身じしんによる副題ふくだい
5 5 5 へん長調ちょうちょう 485 1816ねん
6 6 6 長調ちょうちょう 589 1817ねん-1818ねん しょう長調ちょうちょう
      長調ちょうちょう 615 1818ねん 未完みかん (英語えいごばん記事きじペーター・ギュルケドイツばんはん
      長調ちょうちょう 708A 1820ねんごろ 未完みかん (英語えいごばん記事きじ・ギュルケばん
    7 長調ちょうちょう 729 1821ねん 未完みかん、スケッチのみ。ヴァインガルトナー補筆ほひつ作曲さっきょくばんウニヴェルザール出版しゅっぱんしゃから出版しゅっぱんにブライアン・ニューボールド補筆ほひつばんがある。
7 8 8 短調たんちょう 759 1822ねん 完成かんせい」。だい1・2楽章がくしょうのみ完成かんせいだい3楽章がくしょう冒頭ぼうとうのみオーケストレーション、つづくトリオの最初さいしょ反復はんぷくまでのスケッチが残存ざんそん
      長調ちょうちょう 849 1825ねん 「グムンデン=ガスタイン交響曲こうきょうきょく」(グムンデン=ガスタイン交響曲こうきょうきょく記述きじゅつ参照さんしょう
8 7 9 長調ちょうちょう 944 1825ねん-1826ねん 「ザ・グレート」、「だい長調ちょうちょう
    10 長調ちょうちょう 936A 1828ねんごろ 未完みかん (英語えいごばん記事きじ補筆ほひつばんにペーター・ギュルケばん、ブライアン・ニューボールドばん、バルトロメーばん。ベリオ補筆ほひつばん『レンダリング』はシューベルトの様式ようしきつくられていない。

室内楽しつないがくきょく

ピアノきょく

歌曲かきょく

いくつかの歌曲かきょくには、後世こうせい作曲さっきょくによる管弦楽かんげんがく伴奏ばんそうばんやピアノ独奏どくそうへの編曲へんきょくばん存在そんざいする。ピアノ独奏どくそうよう編曲へんきょくについてはフランツ・リストレオポルド・ゴドフスキーによるものがられている。

シューベルトの歌曲かきょくのおもな管弦楽かんげんがく編曲へんきょくばん

  • ベルリオーズ:「魔王まおう
  • リスト:「いとをつむぐグレートヒェン」D 118、「ミニョンのうた」、「魔王まおう」、「わか尼僧にそう」D 828、「わかれ」D 957-7(紛失ふんしつ)、「ドッペルゲンガー」D 957-13(紛失ふんしつ
  • ブラームス:「馭者ぎょしゃクロノスに」D 369、「メムノン」D 541、「ひめごと」D 719、「エレンのうただい2」D 838
  • レーガー:「いとをつむぐグレートヒェン」、「魔王まおう」、「音楽おんがくせて」D 547、「タルタルスのれ」D 583、「プロメテウス」D 674、「夕映ゆうばえのなかで」D 799、「よるゆめ」D 827
  • ヴェーベルン:「きみこそはいこい」D 776、「なみだあめ」D 795-10、「みちしるべ」D 911-20、「彼女かのじょ肖像しょうぞう」D 957-9、1きょく
  • オッフェンバック:「セレナード」
  • フェリックス・モットル:「セレナード」, 「乙女おとめ
  • ブリテン:「ます」
  • ツェンダー:「ふゆたび

オペラ

おおくの分野ぶんや代表だいひょうさくのこしたシューベルトとしてはもっとも評価ひょうかひく領域りょういきで、上演じょうえん機会きかいすくない。クレメンス・フォン・メッテルニヒによるカールスバート決議けつぎもとづく検閲けんえつ被害ひがいっている[23]

げき付随ふずい音楽おんがく

教会きょうかい音楽おんがく

シューベルトと詩人しじん

シューベルトは芸術げいじゅつせい無頓着むとんじゃくで、時折ときおり凡庸ぼんよう作曲さっきょくしてしまうこともあったとわれている。たしかにかれ歌曲かきょくにはゲーテシラーといっただい詩人しじん以外いがいに、現在げんざいそのなかにしかめていない詩人しじんによるものがおお存在そんざいしている。ただしこれは「シューベルティアーデ」で友人ゆうじんたちの作曲さっきょくしたものを演奏えんそうするという習慣しゅうかんがあったことも影響えいきょうしている。

シューベルトが作曲さっきょくした詩人しじんおおじゅんにゲーテ、マイアホーファー、ミュラー、シラー、そして重要じゅうよう詩人しじんとしてマティソン英語えいごばんヘルティ英語えいごばんコーゼガルテン英語えいごばんクラウディウス英語えいごばんクロップシュトックザイドルリュッケルト、ハイネなどがいる。自分じぶんよりまえ世代せだい評価ひょうか定着ていちゃくしていた詩人しじんから、あたらしい時代じだい感性かんせいった詩人しじんまで幅広はばひろい。

楽器がっき

シューベルトが入手にゅうしゅしたピアノとして、ベニグヌス・ザイドナーのピアノとアントン・ワルター&サンのピアノがげられる。ザイドナーせいのピアノは、現在げんざいウィーンのシューベルトの生家せいかSchubert Geburtshaus)に展示てんじされ、ワルター&サンせいのピアノはウィーンの美術びじゅつ美術館びじゅつかん所有しょゆうしている。シューベルトはまた、ウィーンのピアノ製作せいさくしゃコンラート・グラーフ楽器がっきをよくっていたことがわかっている[24]

国際こくさい音楽おんがくコンクール

現在げんざいシューベルトのされたコンクールは2つある。ひとつはなが伝統でんとうドルトムントおこなわれるシューベルト国際こくさいコンクール ドルトムントドイツばんで、現在げんざいはリートデュオ部門ぶもんとピアノソロ部門ぶもん交互こうごおこなわれる。もうひとつはグラーツおこなわれるフランツ・シューベルトと現代げんだい音楽おんがく国際こくさいコンクールドイツばんで、作曲さっきょく部門ぶもん室内楽しつないがく部門ぶもん併設へいせつされている。どちらもシューベルト作品さくひんのみではきそわないが、関連かんれんした楽曲がっきょく編成へんせい焦点しょうてんになっている。

脚注きゃくちゅう

注釈ちゅうしゃく

  1. ^ シューベルトドイツ発音はつおん[ʃúːbərt])」は舞台ぶたいドイツ発音はつおんもとにしたかた表記ひょうきだが、現代げんだいドイツ発音はつおんでは「シューバトドイツ発音はつおん['ʃuːbɐt])」がよりちか[1]
  2. ^ シューベルトの友人ゆうじんであるアンゼルム・ヒュッテンブレンナーのもとで自筆じひつ保管ほかんちゅう、ヒュッテンブレンナーが留守るすちゅう同居どうきょじんぜん3まくちゅう、2・3まく楽譜がくふけにしたためうしなわれた。
  3. ^ de:Deutsch-Verzeichnis, en:Schubert Thematic Catalogue, it:Catalogo_Deutsch本文ほんぶんにおける表記ひょうき参照さんしょうのこと。

出典しゅってん

  1. ^ Duden Das Aussprachewörterbuch (6 ed.). Dudenverlag. (2005). p. 712. ISBN 978-3-411-04066-7 
  2. ^ 前田まえだ昭雄あきお『シューベルト(カラーばん作曲さっきょく生涯しょうがい)』 (新潮しんちょう文庫ぶんこ、1993ねん) ISBN 4101272115
  3. ^ 山本やまもと藤枝ふじえ『カラーばんどもの伝記でんき シューベルト』(ポプラ社ぽぷらしゃ、1973ねん)
  4. ^ (3917) Franz Schubert = 1961 CX = 1976 GT2 = 1977 RU1 = 1981 TY3 = 1987 HU1”. MPC. 2021ねん9がつ23にち閲覧えつらん
  5. ^ 井形いがたちずる『シューベルトのオペラ』(水曜すいようしゃ、2004ねん
  6. ^ 門馬もんま直美なおみ西洋せいよう音楽おんがく概説がいせつ』(春秋しゅんじゅうしゃ、1976ねん
  7. ^ 音楽之友社おんがくのともしゃ しんてい標準ひょうじゅん音楽おんがく辞典じてん だいはんのシューベルトのこう
  8. ^ Lieder, Volume 1”. www.baerenreiter.com. 2019ねん12月2にち閲覧えつらん
  9. ^ The accent question in Schubert: An old theme with new variations”. www.henle.de. 2019ねん12月2にち閲覧えつらん
  10. ^ Figure 20 Schubert D 935/3 bar 28, Cortot's tempo flexibility (1920 recording)”. openaccess.city.ac.uk. 2019ねん12月4にち閲覧えつらん
  11. ^ Schubert's Maniscripts”. www.google.co.jp/. 2019ねん12月4にち閲覧えつらん
  12. ^ ベートーヴェンの『ヴァルトシュタイン』あるいは『ピアノ協奏曲きょうそうきょくだい1ばん』。
  13. ^ Howard Ferguson has drawn attention to the double-octave triplets in the final phrase of D784・・・”. orca.cf.ac.uk. 2019ねん12月3にち閲覧えつらん
  14. ^ The one passage omitted in all of Schubert's masses is "Et unam sanctam catholicam et apostolicam Ec- clesiam"”. currentmusicology.columbia.edu. 2019ねん12月3にち閲覧えつらん
  15. ^ 最新さいしん名曲めいきょく解説かいせつ全集ぜんしゅう だい22かん 声楽せいがくきょく2』のシューベルトのこう
  16. ^ Guten Morgen Österreich
  17. ^ 金子かねこけんこころざし交響こうきょうきょく名曲めいきょく 1 こだわりのための名曲めいきょく徹底てってい分析ぶんせき』(音楽之友社おんがくのともしゃ、1997ねん)、25ページ。
  18. ^ 金子かねこけんこころざし交響こうきょうきょく名曲めいきょく 1 こだわりのための名曲めいきょく徹底てってい分析ぶんせき』(音楽之友社おんがくのともしゃ、1997ねん)、133ページ。
  19. ^ Schubert's Symphonies - A New Symphony & A Review - Dave Lampson
  20. ^ full score SCHUBERT d.849 E major symphony GOLDONI ISBN 3 922044 05 0 GOLDONI , November 1982 . hardback in linenboards , 23x28cm; full score in facsimile of the purported d.849 GASTEIN symphony; Includes full critical analysis (in german) by Gunter Elsholz & Reimut Vogel 39 + 277pages
  21. ^ Schubert: Symphony in E major, "1825"”. www.prestoclassical.co.uk. 2019ねん12月2にち閲覧えつらん
  22. ^ Wie fälsche ich richtig?”. www.augsburger-allgemeine.de. augsburger-allgemeine (2011ねん6がつ3にち). 2020ねん5がつ20日はつか閲覧えつらん
  23. ^ 歴史れきしいろどった名曲めいきょくたち #36メッテルニヒ体制たいせい♪ミサ・ソレムニスアクロス福岡ふくおか
  24. ^ "Jeffrey Dane – The Composers' Pianos". www.collectionscanada.gc.ca. Retrieved 5 February2021.

関連かんれん項目こうもく

  • 映画えいが完成かんせい交響楽こうきょうがく』(1933ねん) - シューベルトをあつかった伝記でんき映画えいが内容ないようはフィクション)。「わがこいわらざるごとく、このきょくもまたわらざるべし」の台詞せりふ有名ゆうめい
  • ジャン・カスー - フランスの文学ぶんがくしゃ(1897ねん - 1986ねん)。シューベルトを主人公しゅじんこうにした長編ちょうへん小説しょうせつ『ウィーンの調しらべ』Les Harmonies viennoises(1926ねん)をいた。

外部がいぶリンク