フランツ・ペーター・シューベルト (ドイツ語 ご : Franz Peter Schubert [注釈 ちゅうしゃく 1] 、1797年 ねん 1月 がつ 31日 にち – 1828年 ねん 11月19日 にち )は、オーストリア の作曲 さっきょく 家 か 。
生涯 しょうがい
誕生 たんじょう
シューベルトの生家 せいか
シューベルトはウィーン 郊外 こうがい のリヒテンタール で生 う まれた。メーレン(モラヴィア )から移住 いじゅう したドイツ系 けい 植民 しょくみん の農夫 のうふ の息子 むすこ である父 ちち のフランツ・テオドール(1763年 ねん - 1830年 ねん )は教区 きょうく の教師 きょうし をしており、母 はは エリーザベト・フィッツ(1756年 ねん - 1812年 ねん )は結婚 けっこん 前 まえ にウィーン人 じん 家族 かぞく のコックをしていた。成人 せいじん したのは長男 ちょうなん イグナーツ(1785年 ねん - 1844年 ねん )、次男 じなん フェルディナント (1794年 ねん - 1859年 ねん )、三男 さんなん カール(1795年 ねん - 1855年 ねん )、次 つ いで第 だい 12子 し のフランツ 、娘 むすめ のテレジア(1801年 ねん - 1878年 ねん )だった。父 ちち はアマチュア音楽家 おんがくか で長男 ちょうなん と次男 じなん に音楽 おんがく を教 おし えた。
フランツは5歳 さい のときに父 ちち から普通 ふつう 教育 きょういく を受 う け始 はじ め、6歳 さい のときにリヒテンタールの学校 がっこう に入学 にゅうがく した。このころ、父 ちち は末 すえ 息子 むすこ のフランツにヴァイオリンの初歩 しょほ を、また長男 ちょうなん イグナーツにピアノを教 おし え始 はじ めた。フランツは7歳 さい ごろになると父 ちち の手 て に余 あま るほどの才能 さいのう を発揮 はっき し始 はじ めたため、父 ちち はフランツをリヒテンタール教会 きょうかい の聖歌 せいか 隊 たい 指揮 しき 者 しゃ ミヒャエル・ホルツァーの指導 しどう する聖歌 せいか 隊 たい に預 あづ けることにした。ホルツァーは主 しゅ として感動 かんどう 表現 ひょうげん に主眼 しゅがん を置 お いて指導 しどう したという。聖歌 せいか 隊 たい の仲間 なかま たちは、フランツの音楽 おんがく 的 てき 才能 さいのう に一目 いちもく を置 お いた。当時 とうじ は演奏 えんそう 家 か として聴衆 ちょうしゅう に注目 ちゅうもく されなければ音楽家 おんがくか としての成功 せいこう の機会 きかい はないという時代 じだい だったため、しばしば聖歌 せいか 隊 たい の建物 たてもの に隣接 りんせつ するピアノ倉庫 そうこ にフランツを案内 あんない して、ピアノの練習 れんしゅう を自由 じゆう にできるように便宜 べんぎ を図 はか った。そのおかげで、貧 まず しい彼 かれ には触 ふ れられなかったような良質 りょうしつ な楽器 がっき で練習 れんしゅう 、勉強 べんきょう をすることができた。
コンヴィクト
1808年 ねん 10月、フランツはコンヴィクト (ドイツ語 ご 版 ばん ) (寄宿 きしゅく 制 せい 神学校 しんがっこう )の奨学 しょうがく 金 きん を得 え た。その学校 がっこう はアントニオ・サリエリ の指導 しどう の下 した にあり、ウィーン楽 らく 友 とも 協会 きょうかい 音楽 おんがく 院 いん の前身 ぜんしん 校 こう で、宮廷 きゅうてい 礼拝 れいはい 堂 どう コーラス隊 たい 養成 ようせい のための特別 とくべつ 教室 きょうしつ をもっていた。ここにフランツはおよそ17歳 さい まで所属 しょぞく 、フランツ・ヨーゼフ・ハイドン が聖 せい シュテファン大 だい 聖堂 せいどう で得 え た教育 きょういく とほとんど同様 どうよう に直接 ちょくせつ 指導 しどう での得 え るところは少 すく なく、むしろ学生 がくせい オーケストラの練習 れんしゅう や同僚 どうりょう の寄宿 きしゅく 生 せい との交際 こうさい から得 え るものが多 おお かった。フランツを支 ささ えた友人 ゆうじん たちの多 おお くはこの当時 とうじ の同級生 どうきゅうせい で、シュパウン(Spaun、1788年 ねん - 1865年 ねん )、シュタットラー(Stadler)、ホルツアプフェル (Holzapfel)、その他 た 多 おお くの友人 ゆうじん たちが貧 まず しいフランツを助 たす け、彼 かれ には買 か えない五線 ごせん 紙 し など、誠実 せいじつ な支持 しじ と励 はげ ましを与 あた えた。また、このコンヴィクトでヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト の序曲 じょきょく や交響曲 こうきょうきょく 、それらに類 るい した作品 さくひん や小品 しょうひん に初 はじ めて出会 であ った。一方 いっぽう 、才能 さいのう は作曲 さっきょく の分野 ぶんや ですでに示 しめ しつつあった。1810年 ねん 4月 がつ 8日 にち - 5月1日 にち の日付 ひづけ がある32ページにわたりびっしりと書 か かれた四手 よつで ピアノのための『幻想曲 げんそうきょく ト長調 とちょうちょう 』(D 1)、続 つづ いて1811年 ねん にはヨハン・ルドルフ・ツムシュテーク (1760年 ねん - 1802年 ねん )が普及 ふきゅう を図 はか った計画 けいかく にそって書 か かれた3つの長 なが い歌曲 かきょく 、弦楽 げんがく 五 ご 重奏 じゅうそう のための『序曲 じょきょく ハ短調 たんちょう 』(D 8)、『弦楽 げんがく 四 よん 重奏 じゅうそう 曲 きょく 第 だい 1番 ばん ト短調 とたんちょう /変 へん ロ長調 ちょうちょう 』(D 18)、『幻想曲 げんそうきょく ト短調 とたんちょう 』(D 9)がある。室内楽 しつないがく 曲 きょく が目立 めだ っているが、それは日曜日 にちようび と祝日 しゅくじつ ごとに、2人 ふたり の兄 あに がヴァイオリン 、父 ちち がチェロ 、自分 じぶん がヴィオラ を受 う け持 も って、自宅 じたく でカルテット 演奏 えんそう 会 かい が行 おこな われていたためである。これは後年 こうねん 、多 おお くの作品 さくひん を書 か くことになったアマチュア・オーケストラの萌芽 ほうが をなすものだった。コンヴィクト在籍 ざいせき 中 ちゅう には多 おお くの室内楽 しつないがく 、歌曲 かきょく 、ピアノのための雑品 ざっぴん 集 しゅう を残 のこ した。また野心 やしん 的 てき に力 ちから を注 そそ いだのは、1812年 ねん の母 はは の葬儀 そうぎ 用 よう と言 い われる『キリエ』(D 31)と『サルヴェ・レジーナ 』(D 106)(それぞれ合唱 がっしょう 聖歌 せいか )、『管 かん 楽 らく 八 はち 重奏 じゅうそう 曲 きょく ヘ長調 ちょうちょう 』(D 72)である。1813年 ねん には父 ちち の聖名 せな 祝日 しゅくじつ のために、歌詞 かし と音楽 おんがく からなるカンタータ『父 ちち の聖名 せな の祝日 しゅくじつ のために』(D 80)を残 のこ した。学校 がっこう 生活 せいかつ の最後 さいご には最初 さいしょ の交響 こうきょう 曲 きょく である『交響 こうきょう 曲 きょく 第 だい 1番 ばん ニ長調 ちょうちょう 』(D 82)が生 う まれた。
1813年 ねん - 1815年 ねん
シューベルトの初恋 はつこい の相手 あいて といわれるテレーゼ・グロープ の肖像 しょうぞう 画 が
1813年 ねん の終 お わりにシューベルトは、変声期 へんせいき を経 へ て合唱 がっしょう 児童 じどう の役割 やくわり を果 は たせなくなったためコンヴィクトを去 さ り、兵役 へいえき を避 さ けるために父 ちち の学校 がっこう に教師 きょうし として就職 しゅうしょく した。このころ、父 ちち はグンペンドルフの絹 きぬ 商人 しょうにん の娘 むすめ アンナ・クライアンベックと再婚 さいこん した。彼 かれ は2年 ねん 以上 いじょう この仕事 しごと に就 つ いていたが、あまり関心 かんしん を持 も てなかったようで、その代償 だいしょう を別 べつ の興味 きょうみ で補 おぎな った。サリエリから個人 こじん 的 てき な指導 しどう を受 う けたが、彼 かれ はハイドンやモーツァルトの真似 まね だと非難 ひなん してシューベルトを悩 なや ませた。しかし、サリエリは他 た の教師 きょうし の誰 だれ よりも多 おお くを彼 かれ に教 おし えた。またシューベルトはグロープ一家 いっか と親密 しんみつ に交際 こうさい しており、その家 いえ の娘 むすめ テレーゼ・グロープ (1798年 ねん - 1875年 ねん )は歌 うた がうまくよい友人 ゆうじん だった。彼 かれ は時間 じかん があれば素早 すばや く大量 たいりょう に作曲 さっきょく をした。完成 かんせい された最初 さいしょ のオペラ『悪魔 あくま の別荘 べっそう 』(Des Teufels Lustschloß , D 84)と、最初 さいしょ の『ミサ曲 きょく 第 だい 1番 ばん ヘ長調 ちょうちょう 』(D 105)はともに1814年 ねん に書 か かれ、同 おな じ年 ねん に3曲 きょく の弦楽 げんがく 四 よん 重奏 じゅうそう 曲 きょく (第 だい 4番 ばん ハ短調 たんちょう D 46 、第 だい 6番 ばん ニ長調 ちょうちょう D 74 、第 だい 10番 ばん 変 へん ホ長調 ちょうちょう D 87 )、数 すう 多 おお くの短 みじか い器楽 きがく 曲 きょく 、『交響 こうきょう 曲 きょく 第 だい 1番 ばん 』の第 だい 1楽章 がくしょう 、『潜水 せんすい 者 しゃ 』(D 77)や『糸 いと を紡 つむ ぐグレートヒェン 』(D 118)といった傑作 けっさく を含 ふく む7つの歌曲 かきょく が書 か かれた。
1815年 ねん には、学業 がくぎょう 、サリエリの授業 じゅぎょう 、ウィーン生活 せいかつ の娯楽 ごらく にもかかわらず、多 おお くの作品 さくひん を生 う み出 だ した。『交響 こうきょう 曲 きょく 第 だい 2番 ばん 変 へん ロ長調 ちょうちょう 』(D 125)が完成 かんせい し、『交響 こうきょう 曲 きょく 第 だい 3番 ばん ニ長調 ちょうちょう 』(D 200)もそれに続 つづ いた。また、『ミサ曲 きょく 第 だい 2番 ばん ト長調 とちょうちょう 』(D 167)と『ミサ曲 きょく 第 だい 3番 ばん 変 へん ロ長調 ちょうちょう 』(D 324)の2つのミサ曲 きょく (前者 ぜんしゃ は6日間 にちかん で書 か き上 あ げられた)、その他 た 『ミサ曲 きょく 第 だい 1番 ばん 』のための新 あたら しい『ドナ・ノビス』(D 185)、『スターバト・マーテル イ短調 たんちょう 』(D 383)、『サルヴェ・レジナ ヘ長調 ちょうちょう 』(D 379)、オペラは『4年間 ねんかん の歩哨 ほしょう 兵 へい 勤務 きんむ 』(Der Vierjahrige Posten , D 190)、『フェルナンド』(Fernando , D 220)、『クラウディーネ・フォン・ヴィラ・ベッラ』(Claudine von Villa Bella , D 239)[注釈 ちゅうしゃく 2] 、『アドラスト』(Adrast , D 137、研究 けんきゅう により1819年 ねん の作曲 さっきょく と推定 すいてい )、『サラマンカの友人 ゆうじん たち』(Die Freunde von Salamanka , D 326、会話 かいわ の部分 ぶぶん が失 うしな われている)の5曲 きょく が作曲 さっきょく された。他 た に『弦楽 げんがく 四 よん 重奏 じゅうそう 曲 きょく 第 だい 9番 ばん ト短調 とたんちょう 』(D 173)、3曲 きょく のピアノソナタ(第 だい 1番 ばん ホ長調 ちょうちょう D 157 、第 だい 2番 ばん ハ長調 ちょうちょう D 279(英語 えいご 版 ばん ) 、第 だい 3番 ばん ホ長調 ちょうちょう D 459 )、数 すう 曲 きょく のピアノ小品 しょうひん がある。これらの最盛 さいせい 期 き をなすのは146曲 きょく もの歌曲 かきょく で、中 なか にはかなり長 なが い曲 きょく もあり、そのうち8曲 きょく は10月15日 にち 、7曲 きょく は10月19日 にち の日付 ひづけ がある。
1814年 ねん から1815年 ねん にかけての冬 ふゆ 、シューベルトは詩人 しじん ヨハン・マイアホーファー (英語 えいご 版 ばん ) (1787年 ねん - 1836年 ねん )と知 し り合 あ った。この出会 であ いは間 ま もなく温 あたた かで親密 しんみつ な友人 ゆうじん 関係 かんけい に熟 じゅく していった。2人 ふたり の性質 せいしつ はかなり違 ちが っていた。シューベルトは明 あか るく開放 かいほう 的 てき で少々 しょうしょう 鬱 うつ のときもあったが、突然 とつぜん の燃 も えるような精神 せいしん 的 てき 高揚 こうよう もあった。一方 いっぽう でマイアホーファーは厳格 げんかく で気難 きむずか しく、人生 じんせい を忍耐 にんたい すべき試練 しれん の場 ば とみなしている口数 くちかず 少 すく ない男性 だんせい だった。2人 ふたり の関係 かんけい は、シューベルトに対 たい して一方 いっぽう 的 てき に奉仕 ほうし するものだったという。
1816年 ねん
フランツ・フォン・ショーバー によって描 えが かれたフォーグルとシューベルトの似顔絵 にがおえ (1825年 ねん )
シューベルトの運命 うんめい に最初 さいしょ の変化 へんか が見 み えた。コンヴィクト時代 じだい からの友人 ゆうじん シュパウンの家 いえ でシューベルトの歌曲 かきょく を聴 き いていた法律 ほうりつ 学生 がくせい フランツ・フォン・ショーバー (1796年 ねん - 1882年 ねん )がシューベルトを訪問 ほうもん し、教師 きょうし を辞 や め、平穏 へいおん に芸術 げいじゅつ を追求 ついきゅう しないかと提案 ていあん した。シューベルトはライバッハ(現在 げんざい のリュブリャナ )の音楽 おんがく 監督 かんとく に志願 しがん したが不 ふ 採用 さいよう になったばかりで、教室 きょうしつ に縛 しば りつけられているという思 おも いが強 つよ まっていた。父親 ちちおや の了解 りょうかい はすぐに得 え られ、春 はる が去 さ るころにはシューベルトはショーバーの客人 きゃくじん になった。しばらくの間 あいだ 、彼 かれ は音楽 おんがく を教 おし えることで家具 かぐ 類 るい を買 か い増 ま そうとしたが、じきにやめて作曲 さっきょく に専念 せんねん した。「私 わたし は一 いち 日 にち 中 ちゅう 作曲 さっきょく していて、1つ作品 さくひん を完成 かんせい させるとまた次 つぎ を始 はじ めるのです」と、訪問 ほうもん 者 しゃ の質問 しつもん に答 こた えていたという。
1816年 ねん に作曲 さっきょく された作品 さくひん の1つはサリエリの6月 がつ 16日 にち 記念 きねん 祭 さい のためのカンタータ『サリエリ氏 し の音楽 おんがく 活動 かつどう 50周年 しゅうねん を祝 しゅく して』(D 407)、もう1つのカンタータ『プロメテウス』(D 451)はハインリヒ・ヨーゼフ・ワターロート教授 きょうじゅ の生徒 せいと たちのためで、教授 きょうじゅ はシューベルトに報酬 ほうしゅう を支払 しはら った。彼 かれ は雑誌 ざっし 記者 きしゃ に「作曲 さっきょく で報酬 ほうしゅう を得 え たのは初 はじ めてだ」と語 かた っている。もう1曲 きょく は、《教員 きょういん 未亡人 みぼうじん 基金 ききん 》の創立 そうりつ 者 しゃ で学長 がくちょう ヨーゼフ・シュペンドゥのための『ヨーゼフ・シュペンドゥを讃 たた えるカンタータ』(作品 さくひん 128, D 472)である。もっとも重要 じゅうよう な作品 さくひん は、シューベルト自身 じしん の手 て によって『悲劇 ひげき 的 てき 』と名付 なづ けられた『交響 こうきょう 曲 きょく 第 だい 4番 ばん ハ短調 たんちょう 《悲劇 ひげき 的 てき 》 』(D 417) であり、次 つ いでモーツァルトの交響 こうきょう 曲 きょく のように明 あか るく新鮮 しんせん な『交響 こうきょう 曲 きょく 第 だい 5番 ばん 変 へん ロ長調 ちょうちょう 』(D 485)、その他 た 多少 たしょう の教会 きょうかい 音楽 おんがく であった。これらはゲーテ やシラー からシューベルト自身 じしん が選 えら んだ詩 し だった。
この時期 じき 、友人 ゆうじん の輪 わ が次第 しだい に広 ひろ がっていった。マイアーホーファーが彼 かれ に、有名 ゆうめい なバリトン歌手 かしゅ ヨハン・ミヒャエル・フォーグル (1768年 ねん - 1840年 ねん )を紹介 しょうかい し、フォーグルはウィーンのサロンでシューベルトの歌曲 かきょく を歌 うた った。アンゼルムとヨーゼフのヒュッテンブレンナー兄弟 きょうだい はシューベルトに奉仕 ほうし し崇 あが めていた。ガヒーは卓越 たくえつ したピアニストでシューベルトのソナタや幻想曲 げんそうきょく を演奏 えんそう した。ゾンライトナー家 か は裕福 ゆうふく な商人 しょうにん で、長男 ちょうなん がコンヴィクトに所属 しょぞく していた縁 えん もあって自宅 じたく を自由 じゆう に使 つか わせていたが、それは間 あいだ もなく「シューベルティアーデ (ドイツ語 ご 版 ばん ) 」と呼 よ ばれ、シューベルトを称 とな えた音楽 おんがく 会 かい へと組織 そしき されていった。
シューベルトは貧 まず しかった。それというのも教師 きょうし を辞 や めたうえ、公演 こうえん で稼 かせ ぐこともできなかったからである。しかも、音楽 おんがく 作品 さくひん をただでももらうという出版 しゅっぱん 社 しゃ はなかった。しかし、友人 ゆうじん たちは真 しん のボヘミアン の寛大 かんだい さで、ある者 もの は宿 やど を、ある者 もの は食料 しょくりょう を、他 た の者 もの は必要 ひつよう な手伝 てつだ いにやってきた。彼 かれ らは自分 じぶん たちの食事 しょくじ を分 わ け合 あ って食 た べ、裕福 ゆうふく な者 もの は楽譜 がくふ の代金 だいきん を支払 しはら った。シューベルトは常 つね にこのパーティーの指導 しどう 者 しゃ であり、新 あたら しい人 ひと が紹介 しょうかい されたときの、「彼 かれ ができることは何 なに か?」という質問 しつもん がこの会 かい の特徴 とくちょう をよく表 あらわ している。
1818年 ねん
1818年 ねん は前年 ぜんねん と同様 どうよう 、創作 そうさく 上 じょう は比較的 ひかくてき 実 みの りがなかったものの、2つの点 てん で特筆 とくひつ すべき年 とし だった。1つ目 め は作品 さくひん の公演 こうえん が初 はじ めて行 おこな われたことである。演目 えんもく は『イタリア風 ふう 序曲 じょきょく 第 だい 1番 ばん ニ長調 ちょうちょう 』(D 590)で、これはジョアキーノ・ロッシーニ をパロディ 化 か したと書 か かれており、5月1日 にち に刑務所 けいむしょ コンサートで演奏 えんそう された。2つ目 め は初 はじ めて公式 こうしき の招聘 しょうへい があったことである。これは、ツェレスに滞在 たいざい するヨハン・エステルハージ伯爵 はくしゃく 一家 いっか の音楽 おんがく 教師 きょうし の地位 ちい で、シューベルトは夏 なつ 中 ちゅう 、楽 たの しく快適 かいてき な環境 かんきょう で過 す ごした。
この年 とし の作品 さくひん には『ミサ曲 きょく 第 だい 4番 ばん ハ長調 ちょうちょう 』(D 452)や『交響 こうきょう 曲 きょく 第 だい 6番 ばん ハ長調 ちょうちょう 』(D 589)、ツェレスでの生徒 せいと たちのための一連 いちれん の四手 よつで ピアノのための作品 さくひん 、『孤独 こどく に』(D 620)、『聖母 せいぼ マリア像 ぞう 』(D 623)などを含 ふく む歌曲 かきょく がある。秋 あき のウィーンへの帰 かえ りに、ショーバーのところには滞在 たいざい する部屋 へや がないことが分 わ かり、マイアーホーファー宅 たく に同居 どうきょ することになった。ここでシューベルトの慣 な れた生活 せいかつ が継続 けいぞく された。毎朝 まいあさ 、起床 きしょう するなり作曲 さっきょく を始 はじ め、午後 ごご 2時 じ まで書 か き、昼食 ちゅうしょく のあと田舎道 いなかみち を散歩 さんぽ し、再 ふたた び作曲 さっきょく に戻 もど るか、あるいはそうした気分 きぶん にならない場合 ばあい は友人 ゆうじん 宅 たく を訪問 ほうもん した。歌曲 かきょく の作曲 さっきょく 家 か としての最初 さいしょ の公演 こうえん は1819年 ねん 2月 がつ 28日 にち で、『羊 ひつじ 飼 か いの嘆 なげ きの歌 うた 』(D121)が刑務所 けいむしょ コンサートのイェーガーによって歌 うた われた。この夏 なつ 、シューベルトは休暇 きゅうか を取 と り、フォーグルとともに北部 ほくぶ オーストリアを旅行 りょこう した。シュタイアー では『ピアノ五 ご 重奏 じゅうそう 曲 きょく イ長調 いちょうちょう 《ます》 』(作品 さくひん 114, D 667)のパート譜 ふ をスコアなしで書 か き、友人 ゆうじん を驚 おどろ かせた。秋 あき に自作 じさく の3曲 きょく をヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ に送 おく ったが、返事 へんじ はなかった。
1820年 ねん ・1821年 ねん
1820年 ねん に作 つく られた作品 さくひん には、進歩 しんぽ と形式 けいしき の成熟 せいじゅく が見 み られる。小品 しょうひん の数々 かずかず に混 ま じって、『水上 すいじょう を飛 と ぶ霊 れい たちの歌 うた 』(D 705)や『詩篇 しへん 第 だい 23《主 おも は私 わたし の牧者 ぼくしゃ で》』(作品 さくひん 132, D 706)などの声楽 せいがく 曲 きょく や、『弦楽 げんがく 四 よん 重奏 じゅうそう 曲 きょく 第 だい 12番 ばん ハ短調 たんちょう 《四重奏 しじゅうそう 断章 だんしょう 》 』(D 703)、ピアノ曲 きょく 『幻想曲 げんそうきょく ハ長調 ちょうちょう 《さすらい人 じん 》 』(作品 さくひん 15, D 760)などが誕生 たんじょう している。
6月14日 にち にオペラ『双子 ふたご の兄弟 きょうだい 』(Die Zwillingsbrüder , D 647)が、8月 がつ 19日 にち に劇 げき 付随 ふずい 音楽 おんがく 『魔法 まほう の竪琴 たてごと 』(Die Zauberharfe , D 644)が公演 こうえん された。それまで、ミサ曲 きょく を別 べつ にして彼 かれ の大 おお きな作品 さくひん はグンデルホーフでのアマチュア・オーケストラに限定 げんてい されていた。それは家庭 かてい でのカルテット演奏 えんそう 会 かい から育 そだ って大 おお きくなった社交 しゃこう 場 じょう だった。ここへきて彼 かれ はより際立 きわだ った立場 たちば を得 え て、広 ひろ く一般 いっぱん に接 せっ することが求 もと められ始 はじ めた。相変 あいか わらず出版 しゅっぱん 社 しゃ は冷淡 れいたん だったが、友人 ゆうじん のフォーグルが1821年 ねん 2月 がつ 8日 にち にケルントナートーア劇場 げきじょう で歌曲 かきょく 『魔王 まおう 』(作品 さくひん 1, D 328)を歌 うた い、ようやくアントン・ディアベリ (作曲 さっきょく 家 か ・出版 しゅっぱん 業者 ぎょうしゃ 、1781年 ねん - 1858年 ねん )がシューベルトの作品 さくひん の取次 とりつぎ 販売 はんばい に同意 どうい した。作品 さくひん 番号 ばんごう で最初 さいしょ の7曲 きょく (すべて歌曲 かきょく )がこの契約 けいやく に従 したが って出版 しゅっぱん された。その後 ご 、この契約 けいやく が終了 しゅうりょう し、大手 おおて 出版 しゅっぱん 社 しゃ が彼 かれ に応 おう じてわずかな版権 はんけん を受 う け取 と り始 はじ めた。シューベルトが世間 せけん から問題 もんだい にされないのを生涯 しょうがい 気 き にしていたことについては、多 おお くの記事 きじ が見 み られる。2つの劇 げき 作品 さくひん を生 う み出 だ したことを契機 けいき に、シューベルトの関心 かんしん がより舞台 ぶたい に向 む けられた。
1821年 ねん の年 とし の瀬 せ にかけて、シューベルトはおよそ3年来 ねんらい の屈辱 くつじょく 感 かん と失望 しつぼう 感 かん に浸 ひた っていた。『アンフォンゾとエストレッラ』(Alfonso und Estrella , D 732)は受 う け入 い れられず、『フィエラブラス 』(Fierrabras , D 796)も同 おな じだった。『謀反 むほん 人 じん たち』(Die Verschworenen , D 787)は検閲 けんえつ で禁止 きんし された(明 あき らかに題名 だいめい が根拠 こんきょ だった)。劇 げき 付随 ふずい 音楽 おんがく 『キプロスの女王 じょおう ロザムンデ 』(Rosamunde, Prinzessin von Zypern , D 797)は2夜 や で上演 じょうえん が打 う ち切 き られた。これらのうち『アンフォンゾとエストレッラ』と『フィエラブラス』は、規模 きぼ の点 てん で公演 こうえん が困難 こんなん だった(たとえば『フィエラブラス』は1000ページを超 こ える手書 てが き楽譜 がくふ )。しかし、『謀反 むほん 人 じん たち』は明 あか るく魅力 みりょく 的 てき な喜劇 きげき であり、『ロザムンデ』はシューベルトが作曲 さっきょく した中 なか でも素晴 すば らしい曲 きょく が含 ふく まれていた。
1822年 ねん - 1825年 ねん
ヴィルヘルム・アウグスト・リーダー (ドイツ語 ご 版 ばん ) によって描 えが かれたシューベルトの肖像 しょうぞう 画 が (1825年 ねん )
1822年 ねん にカール・マリア・フォン・ウェーバー 、そしてルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン と知 し り合 あ う。両者 りょうしゃ ともに親 した しい関係 かんけい にはならなかったが、ベートーヴェンはシューベルトの才能 さいのう を認 みと めていた。シューベルトもベートーヴェンを尊敬 そんけい しており、連弾 れんだん のための『フランスの歌 うた による8つの変奏曲 へんそうきょく ホ短調 たんちょう 』(作品 さくひん 10, D 624)を同年 どうねん に出版 しゅっぱん するにあたり献呈 けんてい している。しかしウェーバーはウィーンを離 はな れ、新 あたら しい友人 ゆうじん も現 あらわ れなかった。この2年 ねん は全体 ぜんたい として、彼 かれ の人生 じんせい でもっとも暗 くら い年月 としつき だった。
1824年 ねん 春 はる 、シューベルトは壮麗 そうれい な『八 はち 重奏 じゅうそう 曲 きょく ヘ長調 ちょうちょう 』(作品 さくひん 166, D 803)や『大 だい 交響曲 こうきょうきょく 』のためのスケッチ を書 か き、再 ふたた びツェレスに戻 もど った。また、ハンガリーの表現 ひょうげん 形式 けいしき に魅 み せられ『ハンガリー風 ふう ディヴェルティメント ト短調 とたんちょう 』(作品 さくひん 54, D 818)を作曲 さっきょく した。
舞台 ぶたい 作品 さくひん や公的 こうてき な義務 ぎむ で忙 いそが しかったが、この数 すう 年間 ねんかん に時間 じかん を作 つく って多様 たよう な作品 さくひん が生 う み出 だ された。まず1822年 ねん に『ミサ曲 きょく 第 だい 5番 ばん 変 へん イ長調 いちょうちょう 』(D 678)が完成 かんせい 。さらに同年 どうねん には『未 み 完成 かんせい 交響曲 こうきょうきょく 』として知 し られる『交響 こうきょう 曲 きょく 第 だい 7番 ばん (旧 きゅう 第 だい 8番 ばん )ロ短調 たんちょう 《未 み 完成 かんせい 》 』(D 759)にも着手 ちゃくしゅ している。さらにヴィルヘルム・ミュラー (1794年 ねん - 1827年 ねん )の詩 し による歌曲 かきょく 集 しゅう 『美 うつく しき水車 みずぐるま 小屋 こや の娘 むすめ 』(作品 さくひん 25, D 795)と、素晴 すば らしい歌曲 かきょく の数々 かずかず が1825年 ねん に書 か かれた。
1824年 ねん までに、前記 ぜんき の作品 さくひん を除 のぞ き『《萎 しお れた花 はな 》の主題 しゅだい による序奏 じょそう と変奏曲 へんそうきょく ホ短調 たんちょう 』(D 802)、『弦楽 げんがく 四 よん 重奏 じゅうそう 曲 きょく 第 だい 13番 ばん イ短調 たんちょう 《ロザムンデ》 』(作品 さくひん 29, D 804)と『弦楽 げんがく 四 よん 重奏 じゅうそう 曲 きょく 第 だい 14番 ばん ニ短調 たんちょう 《死 し と乙女 おとめ 》 』(D 810)の2つの弦楽 げんがく 四 よん 重奏 じゅうそう 曲 きょく が作 つく られている。また、同年 どうねん 11月 がつ に完成 かんせい した『アルペジオーネソナタ イ短調 たんちょう 』(D 821)は、当時 とうじ 、ウィーンのギター製 せい 作家 さっか であるヨハン・ゲオルク・シュタウファー(1778年 ねん – 1853年 ねん )により開発 かいはつ されたばかりの新 あたら しい楽器 がっき 「アルペジオーネ 」を用 もち いた試 こころ みである。
過去 かこ 数 すう 年 ねん の苦難 くなん は1825年 ねん の幸福 こうふく に取 と って代 か わった。出版 しゅっぱん は急速 きゅうそく に進 すす められ、窮乏 きゅうぼう によるストレスからしばらくは解放 かいほう された。夏 なつ にはシューベルトが熱望 ねつぼう していた北 きた オーストリアへの休暇 きゅうか 旅行 りょこう をした。旅行 りょこう 中 ちゅう にはウォルター・スコット (1771年 ねん - 1832年 ねん )の詩 し による、有名 ゆうめい な『エレンの歌 うた 第 だい 3番 ばん (アヴェ・マリア) 』(D 839)を含 ふく む歌曲 かきょく 集 しゅう 『湖上 こじょう の美人 びじん 』(作品 さくひん 52)や歌曲 かきょく 『ノルマンの歌 うた 』(D 846)、『囚 とら われし狩人 かりゅうど の歌 うた 』(D 843)や『ピアノソナタ第 だい 16番 ばん イ短調 たんちょう 』(作品 さくひん 42, D 845)を作曲 さっきょく 。スコットの詩 し による歌曲 かきょく では、それまでの作品 さくひん で最高 さいこう 額 がく の収入 しゅうにゅう を得 え ることができた。
ウィーンでの晩年 ばんねん (1826年 ねん - 1828年 ねん )
フランツ・アイブル によって描 えが かれたシューベルトの肖像 しょうぞう 画 が (1827年 ねん )
ウィーン中央 ちゅうおう 墓地 ぼち にあるシューベルトの墓 はか
1827年 ねん にグラーツ へ短 みじか い訪問 ほうもん をしていることを除 のぞ けば、1826年 ねん から1828年 ねん にかけてウィーンに留 とど まった。その間 あいだ 、たびたび体調 たいちょう 不良 ふりょう に襲 おそ われている。
晩年 ばんねん のシューベルトの人生 じんせい を俯瞰 ふかん したとき、重要 じゅうよう な出来事 できごと が3つみられる。1つ目 め は1826年 ねん 、新 あたら しい交響曲 こうきょうきょく をウィーン楽 らく 友 とも 協会 きょうかい に献呈 けんてい し、その礼 れい としてシューベルトに10ポンドが与 あた えられたこと。2つ目 め はオペラ指揮 しき 者 しゃ 募集 ぼしゅう に応募 おうぼ するためオーディションに出 で かけ、リハーサルの際 さい に演奏 えんそう 曲目 きょくもく を自作 じさく 曲 きょく へ変更 へんこう するよう楽団 がくだん 員 いん たちに提案 ていあん したが拒否 きょひ され、最終 さいしゅう 的 てき に指揮 しき 者 しゃ に採用 さいよう されなかったこと。そして3つ目 め は1828年 ねん 3月 がつ 26日 にち (ベートーヴェンの命日 めいにち )に行 おこな われた、人生 じんせい で初 はじ めてで生前 せいぜん 唯一 ゆいいつ の、彼 かれ 自身 じしん の作品 さくひん の演奏 えんそう 会 かい である。
1827年 ねん に、シューベルトは歌曲 かきょく 集 しゅう 『冬 ふゆ の旅 たび 』(作品 さくひん 89, D 911)やヴァイオリンとピアノのための『幻想曲 げんそうきょく ハ長調 ちょうちょう 』(作品 さくひん 159, D 934)、2つのピアノ三 さん 重奏 じゅうそう 曲 きょく (第 だい 1番 ばん 変 へん ロ長調 ちょうちょう 作品 さくひん 99, D 898 、第 だい 2番 ばん 変 へん ホ長調 ちょうちょう 作品 さくひん 100, D 929 )を書 か いた。
1827年 ねん 3月 がつ 26日 にち 、ベートーヴェンが死去 しきょ 。ウィーン市民 しみん 2万 まん 人 にん の大 だい 葬列 そうれつ の中 なか 、シューベルトは棺 かん を担 かつ ぐ大任 たいにん を負 お った。その後 ご 、友人 ゆうじん たちと酒場 さかば に行 い き、「この中 なか でもっとも早 はや く死 し ぬ奴 やつ に乾杯 かんぱい !」と音頭 おんど をとった。このとき友人 ゆうじん たちは一様 いちよう に大変 たいへん 不吉 ふきつ な感 かん じを覚 おぼ えたという[2] [3] 。そして、彼 かれ の寿命 じゅみょう はその翌年 よくねん で尽 つ きた。生 う まれ故郷 こきょう であるウィーンをほとんど離 はな れることがなく、生涯 しょうがい 一 いち 度 ど も海 うみ を見 み ることがなかったという。
最 さい 晩年 ばんねん の1828年 ねん 、『ミサ曲 きょく 第 だい 6番 ばん 変 へん ホ長調 ちょうちょう 』(D 950)、同 おな じ変 へん ホ長調 ちょうちょう の『タントゥム・エルゴ』(D 962)、『弦楽 げんがく 五 ご 重奏 じゅうそう 曲 きょく ハ長調 ちょうちょう 』(D 956)、『ミサ曲 きょく 第 だい 4番 ばん 』のための2度目 どめ の『ベネディクトス』(D 961)、最後 さいご の3つのピアノソナタ(第 だい 19番 ばん ハ短調 たんちょう D 958 、第 だい 20番 ばん イ長調 いちょうちょう D 959 、第 だい 21番 ばん 変 へん ロ長調 ちょうちょう D 960 )、『白鳥 はくちょう の歌 うた 』として有名 ゆうめい な歌曲 かきょく 集 しゅう (D 957/965A)を完成 かんせい させた。この歌曲 かきょく 集 しゅう の内 うち の6曲 きょく はハインリヒ・ハイネ の詩 し につけられた。ハイネの名声 めいせい を不動 ふどう のものにした詩集 ししゅう 『歌 うた の本 ほん 』は1827年 ねん 秋 あき に出版 しゅっぱん されている。
また上記 じょうき の通 とお り、同年 どうねん 3月 がつ 26日 にち のベートーヴェンの命日 めいにち には、シューベルトにとって最初 さいしょ で最後 さいご の自作 じさく による演奏 えんそう 会 かい が行 おこな われており、演奏 えんそう 会 かい 自体 じたい は大衆 たいしゅう 的 てき にも財政 ざいせい 的 てき にも成功 せいこう したものの、直後 ちょくご にニコロ・パガニーニ がウィーンで演奏 えんそう 会 かい を行 おこな ったことで影 かげ が薄 うす くなってしまった。
シューベルトは対位法 たいいほう の理論 りろん 家 か として高名 こうみょう だった作曲 さっきょく 家 か ジーモン・ゼヒター (のちにアントン・ブルックナー の師 し となる)のレッスンを所望 しょもう し、知人 ちじん と一緒 いっしょ に彼 かれ の門 もん を叩 たた いた。しかし何 なん 度 ど かのレッスンのあと、ゼヒターはその知人 ちじん からシューベルトは重病 じゅうびょう と知 し らされた。11月12日 にち 付 づけ のショーバー宛 あて の手紙 てがみ でシューベルトは「僕 ぼく は病気 びょうき だ。11日間 にちかん 何 なに も口 くち にできず、何 なに を食 た べても飲 の んでもすぐに吐 は いてしまう」と著 いちじる しい体調 たいちょう 不良 ふりょう を訴 うった えた。これがシューベルトの最後 さいご の手紙 てがみ となった。
その後 ご 、シューベルトは『冬 ふゆ の旅 たび 』などの校正 こうせい を行 おこな っていたが、11月14日 にち になると病状 びょうじょう が悪化 あっか して高熱 こうねつ に浮 う かされるようになり、同月 どうげつ 19日 にち に兄 あに フェルディナントの家 いえ で死去 しきょ した。31歳 さい 没 ぼつ 。フェルディナントが父 ちち へ宛 あ てた手紙 てがみ によると、死 し の前日 ぜんじつ に部屋 へや の壁 かべ に手 て を当 あ てて「これが、僕 ぼく の最期 さいご だ」と呟 つぶや いたのが最後 さいご の言葉 ことば だったという。
遺体 いたい はシューベルトの意 い を酌 く んだフェルディナントの尽力 じんりょく により、ヴェーリング街 がい にあったヴェーリング墓地 ぼち の、ベートーヴェンの墓 はか の隣 となり に埋葬 まいそう された。1888年 ねん に両者 りょうしゃ の遺骸 いがい はウィーン中央 ちゅうおう 墓地 ぼち に移 うつ されたが、ヴェーリング墓地 ぼち 跡 あと のシューベルト公園 こうえん には今 いま も2人 ふたり の当時 とうじ の墓石 はかいし が残 のこ っている。
死後 しご 間 あいだ もなく小品 しょうひん が出版 しゅっぱん されたが、当時 とうじ の出版 しゅっぱん 社 しゃ はシューベルトを「シューベルティアーデ (ドイツ語 ご 版 ばん ) のための作曲 さっきょく 家 か 」とみなして、大 だい 規模 きぼ 作品 さくひん を出版 しゅっぱん することはなかった。
シューベルトの死因 しいん については、死去 しきょ した年 とし の10月 がつ にレストランで食 た べた魚 さかな 料理 りょうり がもとの腸 ちょう チフス であったとも、エステルハージ家 か の女中 じょちゅう から感染 かんせん した梅毒 ばいどく の治療 ちりょう のために投与 とうよ された水銀 すいぎん が体内 たいない に蓄積 ちくせき 、中毒 ちゅうどく 症状 しょうじょう を引 ひ き起 お こして死 し に至 いた ったとも言 い われている。シューベルト生誕 せいたん 200年 ねん の1997年 ねん には、改 あらた めてその人生 じんせい の足跡 あしあと を辿 たど る試 こころ みが行 おこな われ、彼 かれ の梅毒 ばいどく 罹患 りかん をテーマにした映画 えいが も制作 せいさく され公開 こうかい された。
死後 しご
19世紀 せいき
没後 ぼつご は「歌曲 かきょく の王 おう 」という位置 いち づけがなされ、歌曲 かきょく 以外 いがい の作品 さくひん は『未 み 完成 かんせい 交響曲 こうきょうきょく 』や『弦楽 げんがく 四 よん 重奏 じゅうそう 曲 きょく 《死 し と乙女 おとめ 》 』のような重要 じゅうよう 作 さく を除 のぞ いて放置 ほうち に等 ひと しい状況 じょうきょう だった。
1838年 ねん にロベルト・シューマン がウィーンに立 た ち寄 よ った際 さい に、シューベルトの兄 あに フェルディナントの家 いえ を訪問 ほうもん した。フェルディナントはシューベルトの書斎 しょさい を亡 な くなった当時 とうじ のままの状態 じょうたい で保存 ほぞん しており、シューマンはその机上 きじょう で『ザ・グレート』の愛称 あいしょう で知 し られる『ハ長調 ちょうちょう の交響曲 こうきょうきょく 』がほこりに埋 うず もれているのを発見 はっけん し、ライプツィヒ に持 も ち帰 かえ った。その後 ご フェリックス・メンデルスゾーン の指揮 しき によって演奏 えんそう され、『ノイエ・ツァイトシュリフト』紙 し で絶賛 ぜっさん された。ちなみにこの交響 こうきょう 曲 きょく の番号 ばんごう は、母国 ぼこく 語 ご がドイツ語 ご の学者 がくしゃ は「第 だい 7番 ばん 」、再版 さいはん のドイツのカタログでは「第 だい 8番 ばん 」、英語 えいご を母国 ぼこく 語 ご とする学者 がくしゃ は「第 だい 9番 ばん 」として掲載 けいさい するなど、いまだに統一 とういつ されていない(下記 かき を参照 さんしょう )。
その他 た の埋 うず もれていた作品 さくひん の復活 ふっかつ に、1867年 ねん にウィーンを旅行 りょこう したジョージ・グローヴ (1820年 ねん - 1900年 ねん )とアーサー・サリヴァン (1842年 ねん - 1900年 ねん )の2人 ふたり が大 おお きな功績 こうせき を挙 あ げた。この2人 ふたり は7曲 きょく の交響曲 こうきょうきょく 、『ロザムンデ』の音楽 おんがく 、数 すう 曲 きょく のミサ曲 きょく とオペラ、室内楽 しつないがく 曲 きょく 数 すう 曲 きょく 、膨大 ぼうだい な量 りょう の多様 たよう な曲 きょく と歌曲 かきょく を発見 はっけん し、世 よ に送 おく り出 だ した。こうして聴衆 ちょうしゅう は埋 うず もれていた音楽 おんがく に興味 きょうみ を抱 いだ くようになり、最終 さいしゅう 的 てき には楽譜 がくふ 出版 しゅっぱん 社 しゃ ブライトコプフ・ウント・ヘルテル による決定 けってい 版 ばん として世 よ に送 おく り出 だ された。
グローヴとサリヴァンに由来 ゆらい し、長年 ながねん にわたって《失 うしな われた》交響 こうきょう 曲 きょく にまつわる論争 ろんそう が続 つづ いてきた。シューベルトの死 し の直前 ちょくぜん 、彼 かれ の友人 ゆうじん エドゥアルト・フォン・バウエルンフェルトが別 べつ の交響 こうきょう 曲 きょく の存在 そんざい を1828年 ねん の日付 ひづけ で記録 きろく しており(必 かなら ずしも作曲 さっきょく 年代 ねんだい を示 しめ すものではないが)、《最後 さいご の》交響曲 こうきょうきょく と名付 なづ けられていた。《最後 さいご の》交響曲 こうきょうきょく が「ニ長調 ちょうちょう 」(D 963A)のスケッチを指 さ していることは、音楽 おんがく 学者 がくしゃ によってある程度 ていど 受 う け入 い れられている。これは1970年代 ねんだい に発見 はっけん され、ブライアン・ニューボールド (英語 えいご 版 ばん ) によって『交響 こうきょう 曲 きょく 第 だい 10番 ばん 』として理解 りかい されている。シューベルトはリスト の言葉 ことば でよく要約 ようやく されている。曰 いわ く、「シューベルトはもっとも詩情 しじょう 豊 ゆた かな音楽家 おんがくか である」。
シューベルトの多 おお くの作品 さくひん に即興 そっきょう 性 せい が見 み られるが、これは彼 かれ が筆 ふで にインクの染 し みをつけたことがないほどの速筆 そくひつ だったことも関係 かんけい している。
20世紀 せいき
グスタフ・クリムト によって描 えが かれたシューベルト 「ピアノを弾 ひ くシューベルト」(1899年 ねん )
シューベルトは歌曲 かきょく 以外 いがい にも、未 み 公開 こうかい 作品 さくひん や未 み 出版 しゅっぱん 作品 さくひん を大量 たいりょう に遺 のこ したため、研究 けんきゅう は難航 なんこう した。
ピアノソナタなど、その他 た の作品 さくひん が脚光 きゃっこう を浴 あ びるようになるのはシューベルト没 ぼつ 後 ご 百 ひゃく 年 ねん 国際 こくさい 作曲 さっきょく コンクール (英語 えいご 版 ばん ) (優勝 ゆうしょう 者 しゃ はクット・アッテルベリ )が1927年 ねん に開催 かいさい される頃 ころ からであり、同 どう 時期 じき にエルンスト・クルシェネク がシューベルトのピアノソナタの補筆 ほひつ 完成 かんせい 版 ばん を出版 しゅっぱん した。
シューベルトのピアノソナタはベートーヴェンより格下 かくした に見 み られていたために、録音 ろくおん しようというピアニストは少数 しょうすう だったが、その黎明 れいめい 期 き に録音 ろくおん を果 は たした人物 じんぶつ にヴァルター・ギーゼキング がいる。没後 ぼつご 150年 ねん を迎 むか えた1977年 ねん ごろになると、シューベルトのピアノソナタは演奏 えんそう 会 かい で聴 き かれるようになり、長大 ちょうだい なピアノソナタを繰 く り返 かえ しなしで演奏 えんそう することが可能 かのう になった(かつては省略 しょうりゃく が当 あ たり前 まえ だった)。現在 げんざい は初期 しょき から後期 こうき までの作品 さくひん が演奏 えんそう 会 かい に現 あらわ れる。補筆 ほひつ して演奏 えんそう するパウル・バドゥラ=スコダ (ピアノソナタ第 だい 11番 ばん )のようなピアニストも珍 めずら しくない。
新 しん シューベルト全集 ぜんしゅう (英語 えいご 版 ばん ) は現在 げんざい 、ベーレンライター出版 しゅっぱん 社 しゃ が全 ぜん 責任 せきにん を取 と る形 かたち で出版 しゅっぱん に努 つと めているが、オペラなどの部分 ぶぶん はこれからも順次 じゅんじ 刊行 かんこう 予定 よてい である。音符 おんぷ の形 かたち やスコア全体 ぜんたい のレイアウトはすべてコンピュータ出力 しゅつりょく で修正 しゅうせい されているが、合唱 がっしょう 作品 さくひん はCarus社 しゃ なども新 あたら しい版 はん を出版 しゅっぱん している。
現在 げんざい の浄書 じょうしょ 技術 ぎじゅつ をもってしても、デクレッシェンドなのかアクセントなのかの謎 なぞ は、完全 かんぜん には解明 かいめい されていない。そのため、『未 み 完成 かんせい 交響曲 こうきょうきょく 』の管楽器 かんがっき についた音 おと は、いまだに奏者 そうしゃ や指揮 しき 者 しゃ によって解釈 かいしゃく が異 こと なり定着 ていちゃく していない。
小惑星 しょうわくせい (3917) Franz Schubert はフランツ・シューベルトにちなんで命名 めいめい された[4] 。
歴史 れきし 的 てき 位置 いち
ロマン派 は の幕開 まくあ け
シューベルトは一般 いっぱん 的 てき にロマン派 は の枠 わく に入 い れられるが、その音楽 おんがく 、人生 じんせい はウィーン古典 こてん 派 は の強 つよ い影響 えいきょう 下 か にあり、記 き 譜 ふ 法 ほう 、基本 きほん 的 てき な作曲 さっきょく 法 ほう も古典 こてん 派 は に属 ぞく している。貴族 きぞく 社会 しゃかい の作曲 さっきょく 家 か から市民 しみん 社会 しゃかい の作曲 さっきょく 家 か へという点 てん ではロマン派 は 的 てき であり、音楽 おんがく 史 し 的 てき には古典 こてん 派 は とロマン派 は の橋渡 はしわた し的 てき 位置 いち にあるが、年代 ねんだい 的 てき にはシューベルトの一生 いっしょう はベートーヴェンの後 のち 半生 はんせい とほぼ重 かさ なっており、音楽 おんがく 的 てき にも後期 こうき のベートーヴェンより時 とき に古典 こてん 的 てき である。
同様 どうよう に、時期 じき 的 てき にも様式 ようしき 的 てき にも古典 こてん 派 は にかかる部分 ぶぶん が大 おお きいにもかかわらず、初期 しょき ロマン派 は として挙 あ げられることの多 おお い作曲 さっきょく 家 か としてカール・マリア・フォン・ウェーバー がいるが、シューベルトにも自国 じこく 語 ご 詞 し へのこだわりがあった。ドイツ語 ご オペラの確立 かくりつ 者 しゃ としての功績 こうせき を評価 ひょうか されるウェーバーと比 くら べると大 おお きな成果 せいか は挙 あ げられなかったものの、オペラ分野 ぶんや ではイタリア・オペラの大家 たいか サリエリ の門下 もんか でありながら、未完 みかん も含 ふく めてドイツ語 ご ジングシュピール に取 と り組 く みつづけた。当時 とうじ のウィーンではドイツ語 ご オペラの需要 じゅよう は低 ひく く、ただでさえ知名度 ちめいど の低 ひく いシューベルトは上演 じょうえん 機会 きかい すら得 え られないことが多 おお かったにもかかわらず、この姿勢 しせい は変 か わらなかった[5] 。教会 きょうかい 音楽 おんがく は特性 とくせい 上 じょう ラテン語 らてんご 詞 し の曲 きょく が多 おお いものの、それでも数 すう 曲 きょく のドイツ語 どいつご 曲 きょく を残 のこ し、歌曲 かきょく に至 いた ってはイタリア語 ご 曲 きょく が9曲 きょく に対 たい してドイツ語 ご 曲 きょく が576曲 きょく という比率 ひりつ となっている。
「ドイツの国民 こくみん 的 てき 、民族 みんぞく 的 てき な詩 し 」に対 たい し「もっともふさわしい曲 きょく をつけて、本当 ほんとう にロマン的 てき な歌曲 かきょく を歌 うた いだしたのはシューベルトである」とし、ウェーバーらとともに、言語 げんご を介 かい した民族 みんぞく 主義 しゅぎ をロマン派 は 幕開 まくあ けの一 いち 要素 ようそ とする見解 けんかい もある[6] 。
他 た の作曲 さっきょく 家 か との関係 かんけい
シューベルトは幼 おさな いころからハイドン やその弟 おとうと のミヒャエル 、モーツァルト やベートーヴェン の弦楽 げんがく 四 よん 重奏 じゅうそう 曲 きょく を家族 かぞく で演奏 えんそう し、コンヴィクトでもそれらの作曲 さっきょく 家 か の交響曲 こうきょうきょく をオーケストラで演奏 えんそう 、指揮 しき していた。
シューベルトは当時 とうじ ウィーンでもっとも偉大 いだい な音楽家 おんがくか だったベートーヴェンを尊敬 そんけい していたが、それは畏怖 いふ の念 ねん に近 ちか いもので、ベートーヴェンの音楽 おんがく 自体 じたい は日記 にっき の中 なか で「今日 きょう 多 おお くの作曲 さっきょく 家 か に共通 きょうつう して見 み られる奇矯 ききょう さの原因 げんいん 」としてむしろ敬遠 けいえん していた。シューベルトは主題 しゅだい 労作 ろうさく (ドイツ語 ご 版 ばん ) といった構築 こうちく 的 てき な作曲 さっきょく 法 ほう が苦手 にがて だったと考 かんが えられているが、そういったベートーヴェンのスタイルは本来 ほんらい シューベルトの作風 さくふう ではなかった。
むしろシューベルトが愛 あい した作曲 さっきょく 家 か はモーツァルトである。1816年 ねん 6月 がつ 14日 にち 、モーツァルトの音楽 おんがく を聴 き いた日 ひ の日記 にっき でシューベルトはモーツァルトをこれ以上 いじょう ないほど賞賛 しょうさん している。またザルツブルク への旅行 りょこう 時 じ 、聖 せい ペーター僧院 そういん 教会 きょうかい のミヒャエル・ハイドンの記念 きねん 碑 ひ を訪 おとず れ、感動 かんどう とともに涙 なみだ を流 なが したという日記 にっき も残 のこ されている。
コンヴィクトからの友人 ゆうじん ヨーゼフ・フォン・シュパウンが書 か き残 のこ した回想 かいそう 文 ぶん は、シューベルトが11歳 さい のとき、「ベートーヴェンのあとで、何 なに ができるだろう」と言 い ったと伝 つた えている。さらにオーケストラでハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの交響曲 こうきょうきょく を演奏 えんそう したときにはハイドンの交響 こうきょう 曲 きょく のアダージョ楽章 がくしょう に深 ふか く心 しん が動 うご かされ、モーツァルトのト短調 とたんちょう の交響 こうきょう 曲 きょく (おそらく『第 だい 40番 ばん K. 550 』)については、なぜか全身 ぜんしん が震 ふる えると言 い い、さらにメヌエットのトリオでは天使 てんし が歌 うた っているようだと言 い った。ベートーヴェンについてはニ長調 ちょうちょう (第 だい 2番 ばん ) 、変 へん ロ長調 ちょうちょう (第 だい 4番 ばん ) 、イ長調 いちょうちょう (第 だい 7番 ばん ) に対 たい して夢中 むちゅう になっていたが、のちにはハ短調 たんちょう (第 だい 5番 ばん ) の方 ほう が一層 いっそう 優 すぐ れていると言 い ったと伝 つた えている。
ウェーバーとも生前 せいぜん に親交 しんこう があった。1822年 ねん のウィーンでの『魔 ま 弾 だん の射手 しゃしゅ 』上演 じょうえん の際 さい に知 し り合 あ い、シューベルトのオペラ『アルフォンソとエステレッラ』をドレスデンで上演 じょうえん する協力 きょうりょく を約束 やくそく したが、のちの『オイリアンテ 』についてシューベルトが、「『魔 ま 弾 だん の射手 しゃしゅ 』の方 ほう がメロディがずっと好 す きだ」と言 い ったために、その約束 やくそく は果 は たされなかった。
シューベルトはのちの作曲 さっきょく 家 か に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた。『ザ・グレート』を発見 はっけん したシューマンは言 い うに及 およ ばず、特 とく に歌曲 かきょく 、交響曲 こうきょうきょく においてフェリックス・メンデルスゾーン 、ヨハネス・ブラームス 、アントン・ブルックナー 、ヨーゼフ・シュトラウス 、フーゴ・ヴォルフ 、リヒャルト・シュトラウス 、アントニン・ドヴォルザーク など、シューベルトの音楽 おんがく を愛 あい し、影響 えいきょう を受 う けた作曲 さっきょく 家 か は多 おお い。
シューベルティアーデ
ユリウス・シュミット (ドイツ語 ご 版 ばん ) による絵画 かいが 『シューベルティアーデ (ドイツ語 ご 版 ばん ) 』
シューベルトが私的 してき に行 い った夜会 やかい は、彼 かれ の名前 なまえ にちなんで「シューベルティアーデ (ドイツ語 ご 版 ばん ) 」と呼 よ ばれた。現在 げんざい もキャッチフレーズとして使 つか われることがある。彼 かれ は協奏曲 きょうそうきょく を作曲 さっきょく することはほとんどなく、その慎 つつ ましいイメージも「シューベルティアーデ」の性格 せいかく を助長 じょちょう させた。
生前 せいぜん に出版 しゅっぱん された最後 さいご の作品 さくひん が、1828年 ねん に出版 しゅっぱん された四手 よつで ピアノのための『ロンド イ長調 いちょうちょう 』(作品 さくひん 107, D 951)だったことからうかがえるように、生前 せいぜん に出版 しゅっぱん された作品 さくひん だけでも作品 さくひん 番号 ばんごう は100を超 こ えている。同 おな じ時代 じだい に、これと同数 どうすう の作品 さくひん を作曲 さっきょく できたライバル はカール・チェルニー のみである(31歳 さい 前後 ぜんこう のチェルニーにはオペラ や交響曲 こうきょうきょく などの大 だい 規模 きぼ 出版 しゅっぱん 作品 さくひん は見当 みあ たらない)。それらに大 だい 規模 きぼ 作品 さくひん は含 ふく まれず、極端 きょくたん な場合 ばあい は委嘱 いしょく 作 さく すら生前 せいぜん の出版 しゅっぱん はなく(『アルペジオーネソナタ』など)、没後 ぼつご も長期間 ちょうきかん にわたり出版 しゅっぱん が継続 けいぞく されている。最後 さいご の作品 さくひん 番号 ばんごう は1867年 ねん に出版 しゅっぱん された「作品 さくひん 173」であり、すでにシューベルト死去 しきょ から30年 ねん 以上 いじょう が経過 けいか していた。
31歳 さい でこの膨大 ぼうだい な量 りょう は無名 むめい の作曲 さっきょく 家 か では不可能 ふかのう であり、作曲 さっきょく 家 か としてすでに成功 せいこう と考 かんが えてよいという理由 りゆう から、シューベルトが本当 ほんとう に貧 まず しかったのか疑問 ぎもん 視 し する声 こえ もある[7] 。また、シューベルトを描 えが いた肖像 しょうぞう 画 が は何 なん 点 てん も作成 さくせい されており、それらは対象 たいしょう を美化 びか している。名士 めいし であれば肖像 しょうぞう 画 が を実物 じつぶつ より美 うつく しく描 えが くことが当時 とうじ の画家 がか の責務 せきむ だったため、こうした待遇 たいぐう は、シューベルトが名士 めいし であった証拠 しょうこ と考 かんが えることができる。シューベルトはグラーツ楽 らく 友 とも 協会 きょうかい (ドイツ語 ご 版 ばん ) から名誉 めいよ ディプロマを授与 じゅよ された(未 み 完成 かんせい 交響曲 こうきょうきょく )ときには25歳 さい に過 す ぎず、この時点 じてん で彼 かれ は無名 むめい ではなかったと考 かんが えられる。
また、シューベルトの死 し に際 さい して、新聞 しんぶん は訃報 ふほう を出 だ している。
作品 さくひん 演奏 えんそう の諸 しょ 問題 もんだい
シューベルト作品 さくひん の校訂 こうてい は21世紀 せいき に入 はい った現在 げんざい でも簡単 かんたん ではない。とくに「ヘアピン」とも呼 よ ばれえる特大 とくだい のアクセントのような記号 きごう [8] をどう解釈 かいしゃく するかが問題 もんだい になっている。小節 しょうせつ 間 あいだ をまたぐようにヘアピン[9] がわたっているものもある。これをデクレッシェンドと解釈 かいしゃく するか、もしくはアクセントと解釈 かいしゃく するかが問題 もんだい となる。また、シューベルトは鋭 するど いスタッカティシモ のような縦 たて 線 せん を使 つか う(「未 み 完成 かんせい 」の第 だい 2楽章 がくしょう )こともあり、19世紀 せいき の出版 しゅっぱん 譜 ふ では通常 つうじょう のスタッカートに直 なお されている。これも元 もと に戻 もど す動 うご きが見 み られる。
シューベルトはMM表記 ひょうき を出版 しゅっぱん 作品 さくひん [10] 以外 いがい は全 まった く行 い っていないため[11] 、演奏 えんそう 家 か によって解釈 かいしゃく の開 ひら きが大 おお きい。
ピアノ作品 さくひん には、現代 げんだい ピアノでは非常 ひじょう に難 むずか しいオクターヴ の連続 れんぞく が『さすらい人 じん 幻想曲 げんそうきょく 』ほかで頻繁 ひんぱん に現 あらわ れるが、これは当時 とうじ の軽 かる いダブル・エスケープメント発案 はつあん 以前 いぜん のシングル・アクションではオクターヴ・グリッサンドが可能 かのう だったためである[12] 。親指 おやゆび と小指 こゆび をアーチの形 かたち にして、横 よこ にスライドするだけでオクターブのレガートが達成 たっせい できるが、ダブル・エスケープメントを含 ふく めたダブル・アクションを持 も ち鍵盤 けんばん の深 ふか さが倍 ばい になった現代 げんだい ピアノでは困難 こんなん である[13] 。
ラテン語 らてんご のミサ曲 きょく では6曲 きょく すべてで典礼 てんれい 文 ぶん の一部 いちぶ が欠落 けつらく しているが[14] 、これも理由 りゆう がわかっていない。典礼 てんれい 文 ぶん の写 うつ しを所持 しょじ しておりそれに誤脱 ごだつ があったという見解 けんかい が一般 いっぱん 的 てき だが、聖歌 せいか 隊 たい で数 すう 多 おお くのミサ曲 きょく を歌 うた ってきたシューベルトが、クレドでのカトリック教会 きょうかい の信仰 しんこう の本質 ほんしつ 的 てき な部分 ぶぶん の欠如 けつじょ に気 き づかなかったという説 せつ には無理 むり があると思 おも われる。おそらく自身 じしん はプロテスタント教会 きょうかい やカトリック教 かとりっくきょう 会 かい に対 たい して一線 いっせん を引 ひ いたキリスト教 きりすときょう 信者 しんじゃ という意味 いみ で、あえて削除 さくじょ したという説 せつ を唱 とな える学者 がくしゃ もいる[15] 。
おもな作品 さくひん
ドイチュ番号 ばんごう
シューベルトの1000近 ちか いスケッチ、未完 みかん を含 ふく む作品 さくひん 群 ぐん は、オーストリアの音楽 おんがく 学者 がくしゃ オットー・エーリヒ・ドイチュ (Otto Erich Deutsch)により1951年 ねん に作 つく られた英語 えいご の作品 さくひん 目録 もくろく 『Franz Schubert – Thematic Catalogue of all his works in chronological order』のドイチュ番号 ばんごう によって整理 せいり されている。シューベルトの場合 ばあい 、出版 しゅっぱん に際 さい しての作品 さくひん 番号 ばんごう (op.)を持 も つものは170程度 ていど であるため、通常 つうじょう はドイチュ番号 ばんごう が使用 しよう されている。1978年 ねん にヴァルター・デュル (ドイツ語 ご 版 ばん ) 、アルノルト・ファイル (ドイツ語 ご 版 ばん ) などによってドイツ語 ご の改訂 かいてい 版 ばん 『Franz Schubert – Thematisches Verzeichnis seiner Werke in chronologischer Folge』も作 つく られた。
日本語 にほんご の完全 かんぜん な作品 さくひん 目録 もくろく はまだ存在 そんざい せず、かつての日本 にっぽん では作品 さくひん 番号 ばんごう を優先 ゆうせん し、ドイチュ番号 ばんごう を後回 あとまわ しにしていたたが、現在 げんざい はNHK-FM のアナウンサーもドイチュ番号 ばんごう をアナウンスするようになっている。
ドイチュ自身 じしん は目録 もくろく の序文 じょぶん において、「D」を自分 じぶん の名前 なまえ の略記 りゃっき ではなくシューベルトの作品 さくひん を示 しめ す記号 きごう と捉 とら えてほしいと述 の べている。これに応 こた え、「D. ○○」とピリオドを打 う たず、Dと数字 すうじ の間 あいだ に半角 はんかく スペースのみを入 い れ「D ○○」と表記 ひょうき するのがドイツ語 ご 圏 けん や英語 えいご 圏 けん をはじめ国際 こくさい 的 てき に主流 しゅりゅう となっている[注釈 ちゅうしゃく 3] 。通常 つうじょう 「ドイチュ番号 ばんごう ○○」などと読 よ まれる。オーストリアなどではDeutsch-Verzeichnisという読 よ み方 かた のとおり、「DV ○○」と表記 ひょうき されることもある(オーストリア放送 ほうそう 協会 きょうかい などで見 み られる[16] )。
交響曲 こうきょうきょく
シューベルトは現在 げんざい 楽譜 がくふ が残 のこ っているものだけで14曲 きょく の交響 こうきょう 曲 きょく の作曲 さっきょく を試 こころ みている。そのうち有名 ゆうめい な「未 み 完成 かんせい 」も含 ふく め6曲 きょく が未 み 完成 かんせい に終 お わっている。よく演奏 えんそう されるのは、『ロ短調 たんちょう 交響曲 こうきょうきょく 』(D 759、通称 つうしょう 『未 み 完成 かんせい 』)と、最後 さいご の完成 かんせい された交響 こうきょう 曲 きょく である『大 だい ハ長調 ちょうちょう 交響曲 こうきょうきょく 』(D 944、通称 つうしょう 『ザ・グレート 』)である。それ以外 いがい では『第 だい 5番 ばん 変 へん ロ長調 ちょうちょう 』(D 485)も親 した しまれている。
シューベルト自身 じしん による標題 ひょうだい は『悲劇 ひげき 的 てき 』と題 だい された『第 だい 4番 ばん ハ短調 たんちょう 』(D 417)の1曲 きょく だけで、他 た は後世 こうせい によるものである。『未 み 完成 かんせい 』はその名 な の通 とお り、完成 かんせい したのは第 だい 2楽章 がくしょう までで、第 だい 3楽章 がくしょう が20小節 しょうせつ (ピアノ・スケッチも途中 とちゅう まで)で終 お わっていることからこう呼 よ ばれるようになった。第 だい 8番 ばん (旧 きゅう 第 だい 9番 ばん )の通称 つうしょう である『ザ・グレート』という名前 なまえ はイギリスの出版 しゅっぱん 社 しゃ によってつけられたタイトルだと考 かんが えられているが、ドイツ語 ご では《Die große Sinfonie C-Dur》であり、「偉大 いだい な」という意味合 いみあ いはない(同 おな じハ長調 ちょうちょう である第 だい 6番 ばん と比較 ひかく して「大 おお きい方 ほう 」程度 ていど の意味 いみ しか持 も たない)。
交響 こうきょう 曲 きょく の番号 ばんごう づけ
古 ふる い番号 ばんごう づけでは、完成 かんせい された7曲 きょく に順 じゅん に第 だい 7番 ばん まで番号 ばんごう が振 ふ られた。そして『未 み 完成 かんせい 交響曲 こうきょうきょく 』は、4楽章 がくしょう 構成 こうせい の交響 こうきょう 曲 きょく としては未完 みかん だが2楽章 がくしょう は完成 かんせい しており、非常 ひじょう に美 うつく しい旋律 せんりつ で多 おお くの人 ひと に愛好 あいこう されているため「第 だい 8番 ばん 」の番号 ばんごう が振 ふ られた。
他 た の未完 みかん の交響 こうきょう 曲 きょく のうち、『交響 こうきょう 曲 きょく ホ長調 ちょうちょう 』(D 729)は4楽章 がくしょう のピアノスケッチで完成 かんせい に近 ちか く(楽譜 がくふ に「Fine」と書 か き添 そ えてあることから、一応 いちおう は完成 かんせい したとみなす音楽 おんがく 学者 がくしゃ もいる[17] )、シューベルトの死後 しご フェリックス・ヴァインガルトナー やブライアン・ニューボールド (英語 えいご 版 ばん ) らの手 て によって補筆 ほひつ され、全曲 ぜんきょく の演奏 えんそう が可能 かのう になっている。このため、1951年 ねん のドイチュの目録 もくろく では作曲 さっきょく 年代 ねんだい 順 じゅん に、D 729に「第 だい 7番 ばん 」が割 わ り当 あ てられ、『未 み 完成 かんせい 』が「第 だい 8番 ばん 」、『ザ・グレート 』が「第 だい 9番 ばん 」とされた。
しかし、国際 こくさい シューベルト協会 きょうかい (Internationale Schubert-Gesellschaft)が1978年 ねん のドイチュ目録 もくろく 改訂 かいてい で見直 みなお し、『未 み 完成 かんせい 』が「第 だい 7番 ばん 」、『ザ・グレート』が「第 だい 8番 ばん 」とされた。最近 さいきん ではこれに従 したが うことが多 おお くなってきているが、依然 いぜん として1951年 ねん のドイチュ目録 もくろく のまま『第 だい 7番 ばん ホ長調 ちょうちょう D 729』、『第 だい 8番 ばん ロ短調 たんちょう D 759』(『未 み 完成 かんせい 』)、『第 だい 9番 ばん ハ長調 ちょうちょう D 944』(『ザ・グレート』)とされることもまだあり、さらには後述 こうじゅつ の『グムンデン=ガスタイン交響曲 こうきょうきょく 』を第 だい 9番 ばん 、『ザ・グレート』を第 だい 10番 ばん とすることもあるなど、21世紀 せいき に入 はい った現在 げんざい でも番号 ばんごう づけは混乱 こんらん している。日本 にっぽん では、NHK がドイチュ目録 もくろく に合 あ わせて「未 み 完成 かんせい =第 だい 7番 ばん 」「ザ・グレート=第 だい 8番 ばん 」にしている一方 いっぽう で、音楽 おんがく 評論 ひょうろん 家 か の金子 かねこ 建 けん 志 こころざし は「長 なが く親 した しみ慣 な れた番号 ばんごう を繰 く り上 あ げるのは、単 たん に混乱 こんらん を引 ひ き起 お こすだけ」と主張 しゅちょう している[18] 。そして、「ナンバー抜 ぬ きで〈未 み 完成 かんせい 〉〈グレイト〉というニックネームで呼 よ べば、一番 いちばん 簡単 かんたん で、問題 もんだい が生 しょう じない」とこの問題 もんだい に対 たい する見解 けんかい を述 の べている。
交響 こうきょう 曲 きょく の同定 どうてい のために調 しらべ 性 せい も古 ふる くから使 つか われてきた。すなわち、第 だい 5番 ばん (D 485)を「変 へん ロ長調 ちょうちょう 交響曲 こうきょうきょく 」、『未 み 完成 かんせい 』を「ロ短調 たんちょう 交響曲 こうきょうきょく 」と呼 よ ぶなどである。なお、ハ長調 ちょうちょう の交響 こうきょう 曲 きょく は2曲 きょく あり、編成 へんせい などから先 さき に作曲 さっきょく された方 ほう (第 だい 6番 ばん D 589)を「小 しょう ハ長調 ちょうちょう (交響曲 こうきょうきょく )」(ドイツ語 ご で「ディー・クライネ(Die kleine)」)、のちに作曲 さっきょく された方 ほう (D 944)を「大 だい ハ長調 ちょうちょう (交響曲 こうきょうきょく )」と呼 よ ぶ。『ザ・グレート』(独語 どくご 「ディー・グローセ(Die große)」の英訳 えいやく )の呼称 こしょう もここから来 き ている。
グムンデン=ガスタイン交響曲 こうきょうきょく
シューベルトの手紙 てがみ に言及 げんきゅう があるものの楽譜 がくふ が見 み つからず、幻 まぼろし の存在 そんざい とされてきた『グムンデン=ガスタイン交響曲 こうきょうきょく 』(Gmunden-Gasteiner Sinfonie , D 849, 1825年 ねん )は、研究 けんきゅう により20世紀 せいき 中葉 ちゅうよう 以降 いこう は『ザ・グレート』を指 さ している可能 かのう 性 せい がきわめて高 たか いとされている。もともとD 944は1828年 ねん の作曲 さっきょく と考 かんが えられていたためにこのD番号 ばんごう を持 も ち、「D 849」とは別 べつ であると考 かんが えられてきたが、この根拠 こんきょ となっていた楽譜 がくふ の年号 ねんごう の記述 きじゅつ が後世 こうせい の加筆 かひつ によると判明 はんめい し、加筆 かひつ 前 まえ は1825年 ねん だったものと考 かんが えられている。このことが、グムンデン=ガスタイン交響 こうきょう 曲 きょく は『ザ・グレート』であるという証拠 しょうこ とされている。
一時 いちじ は『グラン・デュオ』として知 し られる『四手 よつで のためのピアノソナタ ハ長調 ちょうちょう (英語 えいご 版 ばん ) 』(D 812)が「D 849」の原曲 げんきょく ではないかと言 い われ、ヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒム がその説 せつ に基 もと づいてオーケストレーション を施 ほどこ したこともある。
グムンデン=ガスタイン交響 こうきょう 曲 きょく の偽作 ぎさく
シュトゥットガルト で「D 849」にあたるとされるホ長調 ちょうちょう の交響 こうきょう 曲 きょく の筆写 ひっしゃ 譜 ふ が「発見 はっけん された」ことがある[19] 。この曲 きょく は、ギュンター・ノイホルト 指揮 しき のシュトゥットガルト放送 ほうそう 交響 こうきょう 楽団 がくだん による演奏 えんそう で録音 ろくおん され、南 みなみ ドイツ放送 ほうそう でFM放送 ほうそう された。主題 しゅだい とその展開 てんかい が『ザ・グレート』にそっくりで、シューベルトには『ロザムンデ 』序曲 じょきょく の前 まえ によく似 に た「D 590」の序曲 じょきょく を書 か いていた前例 ぜんれい があることから、スケッチのような意味 いみ で作 つく ったという学説 がくせつ もあった。この曲 きょく は『ザ・グレート』と同 おな じ素材 そざい と展開 てんかい 方法 ほうほう が使 つか われ、下書 したが き的 てき 役割 やくわり を果 は たしたとも考 かんが えられた。
楽器 がっき 編成 へんせい は「D 944」とまったく同 おな じであり(フルート 、オーボエ 、クラリネット 、ファゴット 、ホルン 、トランペット 各 かく 2、トロンボーン 3、ティンパニ 1対 つい 、弦 つる 五 ご 部 ぶ )、
第 だい 1楽章 がくしょう :Andante molto-Allegro(8分 ぶん の6拍子 ひょうし - 2分 ぶん の3拍子 ひょうし 、ホ長調 ちょうちょう 、446小節 しょうせつ )
第 だい 2楽章 がくしょう :Scherzo un poco agitato(4分 ぶん の3拍子 ひょうし 、嬰ハ短調 たんちょう 、117小節 しょうせつ )
第 だい 3楽章 がくしょう :Andante con moto(4分 ぶん の2拍子 ひょうし 、ホ短調 たんちょう 、146小節 しょうせつ )
第 だい 4楽章 がくしょう :Finale Presto(8分 ぶん の6拍子 ひょうし 、ホ長調 ちょうちょう 、1066小節 しょうせつ )
からなる、演奏 えんそう 時間 じかん 約 やく 50分 ぶん の作品 さくひん となっていた。現在 げんざい シュトゥットガルトのゴルドーニ (Goldoni) 出版 しゅっぱん 社 しゃ からヴェルナー・マーザー (Werner Maser) 校訂 こうてい [20] による楽譜 がくふ が入手 にゅうしゅ できる。録音 ろくおん は上述 じょうじゅつ のものに続 つづ いて、ゲルハルト・ザムエル指揮 しき シンシナティ・フィルハーモニー管弦楽 かんげんがく 団 だん によるもの(Centaur: CRC2139)[21] も発売 はつばい された。しかし後日 ごじつ 、このD 849とされたホ長調 ちょうちょう の交響 こうきょう 曲 きょく は、1973年 ねん にヘンレ社 しゃ に楽譜 がくふ のコピーを提供 ていきょう したグンター・エルショルツ (Gunter Elsholz) がシューベルトの残 のこ した断片 だんぺん を再 さい 構成 こうせい した偽作 ぎさく であることが判明 はんめい した[22] 。
このため、グムンデン=ガスタイン交響 こうきょう 曲 きょく は『ザ・グレート』であるという説 せつ が現在 げんざい も有力 ゆうりょく である。
最後 さいご の交響曲 こうきょうきょく
シューベルトが最後 さいご に着手 ちゃくしゅ した交響 こうきょう 曲 きょく である『交響曲 こうきょうきょく ニ長調 ちょうちょう (英語 えいご 版 ばん ) 』(D 936A)には、ペーター・ギュルケ (ドイツ語 ご 版 ばん ) 補筆 ほひつ 版 ばん 、ブライアン・ニューボールド補筆 ほひつ 版 ばん などがある。異色 いしょく なのはイタリアの作曲 さっきょく 家 か ルチアーノ・ベリオ の手 て による『レンダリング 』である。『レンダリング』はスケッチの部分 ぶぶん はスケッチのままで、それ以外 いがい の判然 はんぜん としないスケッチとスケッチの間 あいだ の部分 ぶぶん は現代 げんだい 音楽 おんがく の手法 しゅほう でつなぎ合 あ わせている。
「D 936A」は自筆 じひつ 譜 ふ のままでは完成 かんせい しておらず、国際 こくさい シューベルト協会 きょうかい (Internationale Schubert-Gesellschaft)は番号 ばんごう を附 ふ していないが、「第 だい 10番 ばん 」などとされる場合 ばあい もある。
交響 こうきょう 曲 きょく の一覧 いちらん
日本語 にほんご 版 ばん 記事 きじ へのリンクを太字 ふとじ で示 しめ す。
番号 ばんごう
調 しらべ
D
作曲 さっきょく 年代 ねんだい
付記 ふき
現 げん 〔国際 こくさい シューベルト協会 きょうかい 版 ばん 〕
旧 きゅう
20世 よ 紀 きの 中 なか 頃 ころ
ニ長調 ちょうちょう
2B
1811年 ねん 頃 ごろ
未完 みかん (英語 えいご 版 ばん 記事 きじ )
1
1
1
ニ長調 ちょうちょう
82
1813年 ねん
2
2
2
変 へん ロ長調 ちょうちょう
125
1814年 ねん -1815年 ねん
3
3
3
ニ長調 ちょうちょう
200
1815年 ねん
4
4
4
ハ短調 たんちょう
417
1816年 ねん
「悲劇 ひげき 的 てき 」:唯一 ゆいいつ 、シューベルト自身 じしん による副題 ふくだい
5
5
5
変 へん ロ長調 ちょうちょう
485
1816年 ねん
6
6
6
ハ長調 ちょうちょう
589
1817年 ねん -1818年 ねん
「小 しょう ハ長調 ちょうちょう 」
ニ長調 ちょうちょう
615
1818年 ねん
未完 みかん (英語 えいご 版 ばん 記事 きじ ) ・ペーター・ギュルケ (ドイツ語 ご 版 ばん ) 版 はん
ニ長調 ちょうちょう
708A
1820年 ねん 頃 ごろ
未完 みかん (英語 えいご 版 ばん 記事 きじ ) ・ギュルケ版 ばん
7
ホ長調 ちょうちょう
729
1821年 ねん
未完 みかん 、スケッチのみ。ヴァインガルトナー補筆 ほひつ 作曲 さっきょく 版 ばん はウニヴェルザール出版 しゅっぱん 社 しゃ から出版 しゅっぱん 、他 た にブライアン・ニューボールド補筆 ほひつ 版 ばん がある。
7
8
8
ロ短調 たんちょう
759
1822年 ねん
「未 み 完成 かんせい 」。第 だい 1・2楽章 がくしょう のみ完成 かんせい 、第 だい 3楽章 がくしょう は冒頭 ぼうとう のみオーケストレーション、続 つづ くトリオの最初 さいしょ の反復 はんぷく までのスケッチが残存 ざんそん 。
ホ長調 ちょうちょう
849
1825年 ねん
「グムンデン=ガスタイン交響曲 こうきょうきょく 」(グムンデン=ガスタイン交響曲 こうきょうきょく の記述 きじゅつ を参照 さんしょう )
8
7
9
ハ長調 ちょうちょう
944
1825年 ねん -1826年 ねん
「ザ・グレート」、「大 だい ハ長調 ちょうちょう 」
10
ニ長調 ちょうちょう
936A
1828年 ねん 頃 ごろ
未完 みかん (英語 えいご 版 ばん 記事 きじ ) 。補筆 ほひつ 版 ばん にペーター・ギュルケ版 ばん 、ブライアン・ニューボールド版 ばん 、バルトロメー版 ばん 。ベリオ補筆 ほひつ 版 ばん 『レンダリング』はシューベルトの様式 ようしき で作 つく られていない。
室内楽 しつないがく 曲 きょく
ピアノ曲 きょく
ピアノソナタ第 だい 3番 ばん ホ長調 ちょうちょう D 459(1815年 ねん )
『5つのピアノ曲 きょく 』と表記 ひょうき される場合 ばあい もある。10代でモーツァルトの傑作 けっさく (ピアノソナタ ハ長調 ちょうちょう K. 545 )を模倣 もほう する早熟 そうじゅく さを発揮 はっき している。
ピアノソナタ第 だい 4番 ばん イ短調 たんちょう 作品 さくひん 164, D 537(1817年 ねん )
中間 ちゅうかん 楽章 がくしょう の主題 しゅだい が最 さい 晩年 ばんねん の作品 さくひん (D 959 )の終 おわり 楽章 がくしょう に引用 いんよう されている。
ピアノソナタ第 だい 7番 ばん 変 へん ニ長調 ちょうちょう D 567
ピアニスティックな完成 かんせい 作品 さくひん 。主調 しゅちょう を「変 へん ニ長調 ちょうちょう 」に移調 いちょう した別 べつ 稿 こう が存在 そんざい する。
ピアノソナタ第 だい 8番 ばん 嬰ヘ短調 たんちょう D 571(1817年 ねん 、第 だい 1楽章 がくしょう の途中 とちゅう までの未完 みかん 作 さく )
ピアノソナタ第 だい 13番 ばん イ長調 いちょうちょう 作品 さくひん 120, D 664(1819年 ねん )
同 おな じ調 ちょう 性 せい の第 だい 20番 ばん と比較 ひかく して「イ長調 いちょうちょう の小 しょう ソナタ」とも呼 よ ばれる。
ピアノソナタ第 だい 14番 ばん イ短調 たんちょう 作品 さくひん 143, D 784(1823年 ねん )
ピアノソナタ第 だい 15番 ばん ハ長調 ちょうちょう 『レリーク』 D 840(1825年 ねん )
愛称 あいしょう の『レリーク』(Reliquie )は「遺作 いさく 」や「文化 ぶんか 遺品 いひん 」という意味 いみ であるが、これはこのソナタが発見 はっけん された当時 とうじ に、シューベルトが最後 さいご に作曲 さっきょく したピアノソナタだと誤認 ごにん されたためである。
ピアノソナタ第 だい 16番 ばん イ短調 たんちょう 作品 さくひん 42, D 845(1825年 ねん )
ピアノソナタ第 だい 17番 ばん ニ長調 ちょうちょう 作品 さくひん 53, D 850(1825年 ねん )
ピアノソナタ第 だい 18番 ばん ト長調 とちょうちょう 『幻想 げんそう 』 作品 さくひん 78, D 894 (1826年 ねん )
シューマンに有機 ゆうき 的 てき な楽曲 がっきょく 構造 こうぞう の美 び を絶賛 ぜっさん されている。
ピアノソナタ第 だい 19番 ばん ハ短調 たんちょう D 958(1828年 ねん )
ピアノソナタ第 だい 20番 ばん イ長調 いちょうちょう D 959(1828年 ねん )
同 おな じ調 ちょう 性 せい の第 だい 13番 ばん と比較 ひかく して「イ長調 いちょうちょう の大 だい ソナタ」とも呼 よ ばれる。
ピアノソナタ第 だい 21番 ばん 変 へん ロ長調 ちょうちょう D 960(1828年 ねん )
最 さい 晩年 ばんねん の傑作 けっさく 。第 だい 19番 ばん からの3曲 きょく はともにベートーヴェン 様式 ようしき を模 も している。
楽 らく 興 きょう の時 とき Moments Musicaux D 780, 作品 さくひん 94(1823~28年 ねん 、全 ぜん 6曲 きょく )
幻想曲 げんそうきょく ハ長調 ちょうちょう 『さすらい人 じん 』 作品 さくひん 15, D 760(1822年 ねん )
第 だい 2楽章 がくしょう が歌曲 かきょく 『さすらい人 じん 』(D 489)に基 もと づいていることから、『さすらい人 じん 』(Wanderer )または『さすらい人 じん 幻想曲 げんそうきょく 』(Wandererfantasie )という愛称 あいしょう で呼 よ ばれるようになった。
4つの即興 そっきょう 曲 きょく 作品 さくひん 90, D 899(1827年 ねん )
4つの即興 そっきょう 曲 きょく 作品 さくひん 142, D 935(1827年 ねん )
3つのピアノ曲 きょく D 946(1828年 ねん )
3つの軍隊 ぐんたい 行進曲 こうしんきょく 作品 さくひん 51, D 733(1818年 ねん 、四手 よつで 連弾 れんだん 曲 きょく )
幻想曲 げんそうきょく ヘ短調 たんちょう 作品 さくひん 103, D 940(1828年 ねん 、四手 よつで 連弾 れんだん 曲 きょく )
歌曲 かきょく
いくつかの歌曲 かきょく には、後世 こうせい の作曲 さっきょく 家 か による管弦楽 かんげんがく 伴奏 ばんそう 版 ばん やピアノ独奏 どくそう への編曲 へんきょく 版 ばん も存在 そんざい する。ピアノ独奏 どくそう 用 よう 編曲 へんきょく についてはフランツ・リスト やレオポルド・ゴドフスキー によるものが知 し られている。
歌曲 かきょく 集 しゅう 『美 うつく しき水車 みずぐるま 小屋 こや の娘 むすめ 』 Die Schöne Müllerin 作品 さくひん 25, D 795(1823年 ねん 、全 ぜん 20曲 きょく )
歌曲 かきょく 集 しゅう 『冬 ふゆ の旅 たび 』 Winterreise 作品 さくひん 89, D 911(1827年 ねん 、全 ぜん 24曲 きょく )
歌曲 かきょく 集 しゅう 『白鳥 はくちょう の歌 うた 』 Schwanengesang D 957/965A(1828年 ねん 、全 ぜん 14曲 きょく )
野 の ばら Heidenröslein 作品 さくひん 3-3, D 257(1815年 ねん )
魔王 まおう Erlkönig 作品 さくひん 1, D 328(1815年 ねん 頃 ごろ )
死 し と乙女 おとめ Der Tod und das Mädchen 作品 さくひん 7-3, D 531(1817年 ねん )
ます Die Forelle 作品 さくひん 32, D 550(1816~21年 ねん )
エレンの歌 うた 第 だい 3番 ばん (アヴェ・マリア) Ellens Gesang III (Ave Maria) 作品 さくひん 52-6, D 839(1825年 ねん )
子守 こもり 歌 か Wiegenlied 作品 さくひん 98-2, D 498(1816年 ねん )
糸 いと をつむぐグレートヒェン Gretchen am Spinnrade D 118(1814年 ねん )
タルタルスの群 む れ Gruppe aus dem Tartarus D 583
ゲーテ の小説 しょうせつ 「ヴィルヘルム・マイスターの修業 しゅうぎょう 時代 じだい 」による3つの竪琴 たてごと 弾 び きの歌 うた 3 Gesänge des Harfners 作品 さくひん 12, D 478
さすらい人 じん Der Wanderer 作品 さくひん 4-1, D 493(D 489)
ギリシャの神 かみ 々 Die Götter Griechenlands D 677
ガニュメート Ganymed D 544
音楽 おんがく に寄 よ せて (樂 らく に寄 よせ す) An die Musik 作品 さくひん 88-4, D 547(1817年 ねん 3月 がつ )
御者 ぎょしゃ クロノスに An Schwager Kronos D 369
ミューズの息子 むすこ Der Musensohn D 764
秋 あき Herbst D 945
侏儒 しゅじゅ (小人 こども ) Der Zwerg D 771
ブルックにて Auf der Bruck D 853
恋人 こいびと のそばに Nähe des Geliebten D 162
夜 よる と夢 ゆめ Nacht und Träume D 827
夜曲 やきょく Nachtstück D 672
夕映 ゆうば えに Im Abendrot D 799
“ヘリオポリス”よりII 「岩 いわ に岩 いわ が重 かさ なるところ」 Aus "Heliopolis" II D 754
万 まん 霊 れい 節 ぶし のための連 れん 禱 Litanei auf das Fest Allerseelen 作品 さくひん 13-2, D 343(1816年 ねん 頃 ごろ )
春 はる に Im Frühling D 738
シルヴィアに Gesang (Was ist Silvia? / An Silvia) 作品 さくひん 106-4, D 891
湖上 こじょう にて Auf dem See 作品 さくひん 92-2, D 543
至福 しふく Seligkeit D 433
ハナダイコン Nachtviolen D 752
シューベルトの歌曲 かきょく のおもな管弦楽 かんげんがく 編曲 へんきょく 版 ばん
ベルリオーズ :「魔王 まおう 」
リスト :「糸 いと をつむぐグレートヒェン」D 118、「ミニョンの歌 うた 」、「魔王 まおう 」、「若 わか い尼僧 にそう 」D 828、「別 わか れ」D 957-7(紛失 ふんしつ )、「ドッペルゲンガー」D 957-13(紛失 ふんしつ )
ブラームス :「馭者 ぎょしゃ クロノスに」D 369、「メムノン」D 541、「ひめごと」D 719、「エレンの歌 うた 第 だい 2」D 838
レーガー :「糸 いと をつむぐグレートヒェン」、「魔王 まおう 」、「音楽 おんがく に寄 よ せて」D 547、「タルタルスの群 む れ」D 583、「プロメテウス」D 674、「夕映 ゆうば えの中 なか で」D 799、「夜 よる と夢 ゆめ 」D 827
ヴェーベルン :「君 きみ こそは憩 いこ い」D 776、「涙 なみだ の雨 あめ 」D 795-10、「道 みち しるべ」D 911-20、「彼女 かのじょ の肖像 しょうぞう 」D 957-9、他 た 1曲 きょく
オッフェンバック :「セレナード」
フェリックス・モットル :「セレナード」, 「死 し と乙女 おとめ 」
ブリテン :「ます」
ツェンダー :「冬 ふゆ の旅 たび 」
オペラ
多 おお くの分野 ぶんや に代表 だいひょう 作 さく を残 のこ したシューベルトとしてはもっとも評価 ひょうか が低 ひく い領域 りょういき で、上演 じょうえん 機会 きかい は少 すく ない。クレメンス・フォン・メッテルニヒ によるカールスバート決議 けつぎ に基 もと づく検閲 けんえつ の被害 ひがい に遭 あ っている[23] 。
劇 げき 付随 ふずい 音楽 おんがく
教会 きょうかい 音楽 おんがく
シューベルトと詩人 しじん
シューベルトは詩 し の芸術 げいじゅつ 性 せい に無頓着 むとんじゃく で、時折 ときおり 凡庸 ぼんよう な詩 し に作曲 さっきょく してしまうこともあったと言 い われている。確 たし かに彼 かれ の歌曲 かきょく にはゲーテ やシラー といった大 だい 詩人 しじん 以外 いがい に、現在 げんざい その中 なか にしか名 な を留 と めていない詩人 しじん の手 て によるものが多 おお く存在 そんざい している。ただしこれは「シューベルティアーデ」で友人 ゆうじん たちの詩 し に作曲 さっきょく したものを演奏 えんそう するという習慣 しゅうかん があったことも影響 えいきょう している。
シューベルトが作曲 さっきょく した詩人 しじん は多 おお い順 じゅん にゲーテ、マイアホーファー、ミュラー、シラー、そして重要 じゅうよう な詩人 しじん としてマティソン (英語 えいご 版 ばん ) 、ヘルティ (英語 えいご 版 ばん ) 、コーゼガルテン (英語 えいご 版 ばん ) 、クラウディウス (英語 えいご 版 ばん ) 、クロップシュトック 、ザイドル 、リュッケルト 、ハイネなどがいる。自分 じぶん より前 まえ の世代 せだい に評価 ひょうか が定着 ていちゃく していた詩人 しじん から、新 あたら しい時代 じだい の感性 かんせい を持 も った詩人 しじん まで幅広 はばひろ い。
楽器 がっき
シューベルトが入手 にゅうしゅ したピアノとして、ベニグヌス・ザイドナーのピアノとアントン・ワルター &サンのピアノが挙 あ げられる。ザイドナー製 せい のピアノは、現在 げんざい ウィーンのシューベルトの生家 せいか (Schubert Geburtshaus )に展示 てんじ され、ワルター&サン製 せい のピアノはウィーンの美術 びじゅつ 史 し 美術館 びじゅつかん が所有 しょゆう している。シューベルトはまた、ウィーンのピアノ製作 せいさく 者 しゃ コンラート・グラーフ の楽器 がっき をよく知 し っていたことがわかっている[24] 。
国際 こくさい 音楽 おんがく コンクール
現在 げんざい シューベルトの名 な が附 ふ されたコンクールは2つある。ひとつは長 なが い伝統 でんとう を持 も つドルトムント で行 おこな われるシューベルト国際 こくさい コンクール ドルトムント (ドイツ語 ご 版 ばん ) で、現在 げんざい はリートデュオ部門 ぶもん とピアノソロ部門 ぶもん が交互 こうご に行 おこな われる。もうひとつはグラーツ で行 おこな われるフランツ・シューベルトと現代 げんだい 音楽 おんがく 国際 こくさい コンクール (ドイツ語 ご 版 ばん ) で、作曲 さっきょく 部門 ぶもん と室内楽 しつないがく 部門 ぶもん が併設 へいせつ されている。どちらもシューベルト作品 さくひん のみでは競 きそ わないが、関連 かんれん した楽曲 がっきょく や編成 へんせい が焦点 しょうてん になっている。
脚注 きゃくちゅう
注釈 ちゅうしゃく
出典 しゅってん
関連 かんれん 項目 こうもく
映画 えいが 『未 み 完成 かんせい 交響楽 こうきょうがく 』(1933年 ねん ) - シューベルトを扱 あつか った伝記 でんき 映画 えいが (内容 ないよう はフィクション)。「わが恋 こい の終 お わらざる如 ごと く、この曲 きょく もまた終 お わらざるべし」の台詞 せりふ が有名 ゆうめい 。
ジャン・カスー - フランスの文学 ぶんがく 者 しゃ (1897年 ねん - 1986年 ねん )。シューベルトを主人公 しゅじんこう にした長編 ちょうへん 小説 しょうせつ 『ウィーンの調 しら べ』Les Harmonies viennoises (1926年 ねん )を書 か いた。
外部 がいぶ リンク
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