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バルトーク・ベーラ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
バルトーク・ベーラ
Bartók Béla
1927ねんのバルトーク(当時とうじ46さい
基本きほん情報じょうほう
生誕せいたん 1881ねん3月25にち
オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国ていこく
ハンガリー王国の旗 ハンガリー王国おうこく
ナジセントミクローシュ英語えいごばん
死没しぼつ (1945-09-26) 1945ねん9月26にち(64さいぼつ
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく ニューヨークしゅう
ブルックリン
ジャンル クラシック音楽おんがく
民俗みんぞく音楽おんがく
職業しょくぎょう 作曲さっきょく
ピアニスト
民俗みんぞく音楽おんがく研究けんきゅう
担当たんとう楽器がっき ピアノ
民謡みんよう録音ろくおんするバルトーク(1908ねん
バルトーク・ベーラ記念きねん博物館はくぶつかん(ブダペスト)
ブダペストの記念きねん館内かんない設置せっちされたバルトークぞう

バルトーク・ベーラ・ヴィクトル・ヤーノシュ(Bartók Béla Viktor János [ˈbɒrtoːkˌbe̝ːlɒˈviktorˌjɑ̈ːnoʃ], 1881ねん3月25にち - 1945ねん9月26にち)は、ハンガリー王国おうこくバーンシャーグ地方ちほうのナジセントミクローシュにまれ、ニューヨークぼっしたクラシック音楽おんがく作曲さっきょくピアニスト民俗みんぞく音楽おんがく研究けんきゅう

作曲さっきょく以外いがいにも、学問がくもん分野ぶんやとしての民俗みんぞく音楽おんがくがく1人ひとりとして、ひがしヨーロッパ民俗みんぞく音楽おんがく収集しゅうしゅう分析ぶんせきし、アフリカアルジェリアまであしばすなどの精力せいりょくてき活動かつどうおこなった。またフランツ・リスト弟子でしトマーン・イシュトバーン英語えいごばん1862ねん11月4にち - 1940ねん9月22にち)からおしえをけた、ドイツオーストリア音楽おんがく伝統でんとうぐピアニストでもあり、コンサートピアニストやピアノ教師きょうしとして活動かつどうした。ドメニコ・スカルラッティJ・S・バッハらの作品さくひん校訂こうていなどもおこなっている。

生涯しょうがい

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幼少ようしょう

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1881ねん、ナジセントミクローシュ(現在げんざいルーマニアティミシュけんスンニコラウ・マレ英語えいごばん)にのう学校がっこう校長こうちょう同名どうめいちちバルトーク・ベーラ(1855ねん-1888ねん)とピアノ教師きょうしドイツけいははパウラ・ヴォイト(1857ねん - 1939ねんスロヴァキアマルチン出身しゅっしん)のあいだまれる。ちちまち音楽おんがく協会きょうかい設立せつりつするほどの熱心ねっしん音楽おんがく愛好あいこうでもあり、自身じしんでもピアノやチェロをたしなむ人物じんぶつであった。ははのパウラによれば、バルトークは病弱びょうじゃくだったが、きちんと言葉ことばをしゃべるまえからははのピアノ演奏えんそうのダンスのリズムを区別くべつし、3さいくらいからははのピアノ演奏えんそうわせて太鼓たいこはたき、4さいでは自己流じこりゅうで40きょくのピアノきょくくなど音楽おんがくてき素養そようせていた。そこで彼女かのじょむすめ出産しゅっさんしたのちの5さいごろから息子むすこ正式せいしきなピアノ教育きょういくはじめる。

7さいときちち病気びょうきアジソンびょうだったとわれている)のため32さい急死きゅうし、ピアノ教師きょうしとして一家いっかささえることとなったはは仕事しごと都合つごうでナージセレーシュ(現在げんざいウクライナヴィノフラージウ英語えいごばん)に転居てんきょ、その各地かくち転々てんてんとする。9さい前後ぜんこうから習作しゅうさくてきなピアノきょくはじめ、10さいときにはピアニストとしての初舞台はつぶたいむが、彼女かのじょ息子むすこ天才てんさい少年しょうねんピアニストとしてはなく、まずは普通ふつう教育きょういくけることになる。1893ねん音楽おんがく活動かつどう活発かっぱつだったポジョニ現在げんざいのスロヴァキアの首都しゅと、ブラチスラヴァ)にははおもむいたさい作曲さっきょくエルケル・ラスローに指導しどうしてもらう機会きかいる。翌年よくねんははがポジョニに仕事しごとたため同地どうちし、当地とうちのギムナジウムに入学にゅうがくエルンスト・フォン・ドホナーニ友人ゆうじんとなる。

音楽家おんがくかへのみち民謡みんようとの出会であ

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学内がくないでもピアニストやオルガニストとして活動かつどうし、ヨハネス・ブラームス影響えいきょうけた作曲さっきょく活動かつどうにもんでいたバルトークは、1898ねんにはウィーン音楽おんがくいん入学にゅうがく許可きょかされる。しかし国際こくさいしょくゆたかなウィーンよりもハンガリーの作曲さっきょくとしての自分じぶん意識いしきすべきだというドホナーニのすすめにしたがい、翌年よくねんブダペスト王立おうりつ音楽おんがくいんリスト音楽おんがくいん)に入学にゅうがく作曲さっきょくハンス・ケスラー、ピアノをトマーン・イシュトヴァーンに指導しどうける。ここではワグネリアンの学長がくちょうからリヒャルト・ワーグナー洗礼せんれいけるが、すでにブラームスの影響えいきょうだっしてさきすすもうとしていたかれに、ワーグナーはこたえをくれなかったと回想かいそうしている。

1902ねん、21さいときリヒャルト・シュトラウスの『ツァラトゥストラはこうかたった』に強烈きょうれつ衝撃しょうげきけ、交響こうきょう『コシュート』を作曲さっきょく1848ねんハンガリー独立どくりつ運動うんどう英雄えいゆうコシュート・ラヨシュへの賛歌さんかであったため当時とうじハプスブルク帝政ていせい支配しはいにあったブダペスト世論せろんさわがせた。1904ねんにはゲルリーツェプスタ(現在げんざいスロヴァキアりょう)ではじめてトランシルヴァニア出身しゅっしんしゃうたうマジャル民謡みんようれる。

1905ねんパリルビンシュタイン音楽おんがくコンクールにピアノ部門ぶもん作曲さっきょく部門ぶもん出場しゅつじょう作曲さっきょく部門ぶもんでは入賞にゅうしょうせず奨励しょうれいしょうだい2せき、ピアノ部門ぶもんでは2であった(優勝ゆうしょうしゃヴィルヘルム・バックハウス)。自分じぶん人生じんせいをピアニストとしてえがいていたため、優勝ゆうしょうたせずかなり落胆らくたんしたようであるが、それ以上いじょう作曲さっきょく部門ぶもんでの結果けっかほうがショックだったようである。また民謡みんようについて科学かがくてきアプローチをはじめていたコダーイ・ゾルターン出会であ多大ただい影響えいきょうける[注釈ちゅうしゃく 1]

1906ねんからコダーイやその研究けんきゅうしゃたちともハンガリー各地かくち農民のうみん音楽おんがく採集さいしゅうはじめる。1913ねんアルジェリアおもむいたほかは、もっぱ当時とうじのハンガリー国内こくない民族みんぞく音楽おんがく採集さいしゅうしていた。

1907ねん、26さいでブダペスト音楽おんがくいんピアノ教授きょうじゅとなる[2]。ピアニストとして各地かくちたびするのではなく、ハンガリーにとどまったことで、さらなる民謡みんよう採集さいしゅうすすみ、民謡みんよう編曲へんきょくなどもおこなう。この時点じてんでも、かれだい規模きぼ管弦楽かんげんがく作品さくひんはまだブラームスやリヒャルト・シュトラウス、さらにはドビュッシーの影響えいきょうかんじさせるものであるが、ピアノ小品しょうひんしたしかった女性じょせいヴァイオリン奏者そうしゃシュテフィ・ゲイエルおくった『 ヴァイオリン協奏曲きょうそうきょくだい1ばん』(ゲイエルの死後しご発表はっぴょう)の2楽章がくしょうなどでははっきりと民謡みんよう採集さいしゅう影響えいきょうあらわれている。1908ねんの『弦楽げんがくよん重奏じゅうそうきょくだい1ばん』にも民謡みんようふう要素ようそふくまれている。またトマーンの紹介しょうかい知己ちきていたレオポルド・ゴドフスキー、バルトークの作品さくひん評価ひょうかしたフェルッチョ・ブゾーニ推挙すいきょて、ピアニストとしてだけではなく作曲さっきょくとしての次第しだい浸透しんとうはじめる。

スタイル確立かくりつだいいち世界せかい大戦たいせん

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1909ねん、ツィーグレル・マールタ(Ziegler Márta)と結婚けっこんよく1910ねんには長男ちょうなんベーラ(バルトーク・ジュニア)がまれる。このとしフレデリック・ディーリアスい、かれ作品さくひん影響えいきょうける。

1911ねん、ただ1つのオペラとなった『あおひげこうしろ』をき、ハンガリー芸術げいじゅつ委員いいんかいしょうのために提出ていしゅつしたが、演奏えんそう不可能ふかのうということ拒絶きょぜつされた。結局けっきょくこのきょくは1918ねんまで演奏えんそうされなかった。当時とうじバルトークは、政治せいじてき見解けんかいから台本だいほん作家さっかバラージュ・ベーラせるように政府せいふより圧力あつりょくをかけられていたが、これを拒否きょひし、同時どうじ自身じしん作品さくひんがなかなかかえりみられない現状げんじょうつかれてしまい、ピアノ教授きょうじゅ以外いがい公的こうてき立場たちばからいた。その人生じんせいでバルトークは民謡みんようへの愛着あいちゃくべつとして、ハンガリー政府せいふ組織そしきとはふかかかわらないようにしている。芸術げいじゅつ委員いいんかいしょう失望しつぼうしたのち2、3ねんあいだ作曲さっきょくをせず、民謡みんよう収集しゅうしゅう整理せいり集中しゅうちゅうしていた。

1914ねんだいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつにより、民謡みんよう収集しゅうしゅう活動かつどうむずかしくなったため作曲さっきょく活動かつどうもどり、1914ねんから16ねんにかけてバレエ音楽おんがくかかし王子おうじ』、1915ねんから17ねんには『弦楽げんがくよん重奏じゅうそうきょくだい2ばん』をいている(採集さいしゅう活動かつどう自体じたいは1918ねんまでっている)。1918ねんには『かかし王子おうじ初演しょえん成功せいこうし、ある程度ていど国際こくさいてき名声めいせいた。つづき『あおひげこうしろ』が初演しょえんされる。同年どうねんレンジェル・メニヘールト台本だいほんによるパントマイム『中国ちゅうごく不思議ふしぎ役人やくにん』の作曲さっきょく開始かいしする。1919ねん成立せいりつしたハンガリー評議ひょうぎかい共和きょうわこくでは、教育きょういく人民じんみん委員いいんから任命にんめいけた4にんから構成こうせいされる音楽おんがく生活せいかつ指導しどう参加さんかした[3]。しかしだい1世界せかい大戦たいせん敗戦はいせんこくとなったハンガリーはトリアノン条約じょうやくによる国土こくど大幅おおはば縮小しゅくしょうさらにハンガリー評議ひょうぎかい共和きょうわこくかかわったことでその政治せいじ混乱こんらんまれ、ピアニストや民俗みんぞく音楽おんがく研究けんきゅうとしての名声めいせいたかまるのとは裏腹うらはらに、本人ほんにんとしては不本意ふほんい時期じきつづく。

1921ねんから22ねんにかけてヴァイオリンのためのソナタを2つき、イェリー・ダラーニのヴァイオリンとみずからのピアノで初演しょえんさら彼女かのじょ同行どうこうしてイギリスやフランスで演奏えんそう旅行りょこうおこなう(このさいモーリス・ラヴェルやストラヴィンスキーとっている)。これはそれまでに作曲さっきょくしたなか和声わせいじょう構成こうせいじょうもっと複雑ふくざつ作品さくひんである。また民謡みんようてき要素ようそ自分じぶん作品さくひんなかかすということに自信じしんふかめたのか、それまで編曲へんきょく作品さくひん自作じさく区別くべつするためにけていた作品さくひん番号ばんごうを、ソナタだい1ばん出版しゅっぱんからはけなくなった。

様々さまざま活躍かつやくと、だい世界せかい大戦たいせん

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1923ねん、42さいでツィーグレル・マールタと離婚りこんし、ピアノの生徒せいとであったパーストリ・ディッタ(Pásztory Ditta、当時とうじ19さい)と結婚けっこんよく1924ねんには次男じなんペーテル(バルトーク・ペーテル、Bartók Péter)が誕生たんじょうしている(ペーテルは後年こうねんアメリカで録音ろくおん技師ぎしとして活躍かつやくし、父親ちちおや作品さくひん中心ちゅうしん優秀ゆうしゅう録音ろくおんした。また楽譜がくふ校訂こうていにもおおきな功績こうせきがある。)。

おなじ1923ねんには、政府せいふからの委嘱いしょくにより、ブダペスト市政しせい50ねんさいのために『舞踏ぶとう組曲くみきょく』を提出ていしゅつ。こののち、1926ねんにピアノ・ソナタや『ピアノ協奏曲きょうそうきょくだい1ばん』などを発表はっぴょうするまで3ねんほど作品さくひん発表はっぴょうせず、民俗みんぞく音楽おんがく研究けんきゅう演奏えんそうかい活動かつどうにややちかられるが、1927ねんから翌年よくねんにかけて、かれ弦楽げんがくよん重奏じゅうそうきょくとしてもっともたか評価ひょうかけている[よう出典しゅってん]弦楽げんがくよん重奏じゅうそうきょくだい3ばん』と『弦楽げんがくよん重奏じゅうそうきょくだい4ばん』を作曲さっきょくした。またピアノ協奏曲きょうそうきょくだい1ばんヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮しきみずからのピアノで初演しょえんする。その演奏えんそうとして1929ねんから30ねんにはアメリカソヴィエトへの演奏えんそう旅行りょこうおこない、ヨゼフ・シゲティパブロ・カザルスらと共演きょうえんしている。

1934ねんには音楽おんがくいんピアノ教授きょうじゅにんからはなれ、科学かがくアカデミーの民俗みんぞく音楽おんがく研究けんきゅういんとなった。かれ長年ながねん作曲さっきょくとピアニストとしての活動かつどう以外いがい時間じかんを、自分じぶん後進こうしん研究けんきゅうしゃたち収集しゅうしゅうしたコレクションの整理せいりめる環境かんきょうもとめていたが[注釈ちゅうしゃく 2]ついにそれを研究けんきゅう活動かつどう没頭ぼっとうするようになった。作曲さっきょくとしても1936ねんには、バーゼル室内しつない管弦楽かんげんがくだんひきいていたパウル・ザッハー委嘱いしょくかれ代表だいひょうさくとしてられる『弦楽器げんがっき打楽器だがっきとチェレスタのための音楽おんがく』を作曲さっきょく翌年よくねんザッハーの初演しょえんおこなわれた。

1939ねんには『弦楽げんがくよん重奏じゅうそうきょくだい6ばん』を作曲さっきょくしたが、だい世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつし、民俗みんぞく音楽おんがく研究けんきゅう出来でき環境かんきょうもとめており、またその文化ぶんか政策せいさくなどからナチスきらいでもあったバルトークは、同年どうねんははにヨーロッパをることをかんがはじめていたことをうかがわせる作品さくひんとなった。このころはんユダヤ主義しゅぎものとの対話たいわなかで、みずからの祖父そふヤーノシュがユダヤじんだったことを示唆しさしているが、ヤーノシュはマジャルじんちちクロアチアじんははあいだまれ、ユダヤじんではなかった(ただし、ディッタ夫人ふじんはユダヤけいをひいている)。

アメリカ移住いじゅう

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母親ははおや以前いぜんから、バルトークは政治せいじてき硬化こうかしていくハンガリーをり、自身じしんのライフワークである民俗みんぞく音楽おんがく研究けんきゅうめる環境かんきょうもとめて他国たこく移住いじゅうすることも検討けんとうはじめていた。はじめはトルコのアンカラへの移住いじゅう検討けんとうするが環境かんきょうととのわないことから断念だんねんした。最終さいしゅうてきには1940ねんはるアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくへの演奏えんそう旅行りょこうさい友人ゆうじんたちにアメリカへ移住いじゅう可能かのうせい打診だしんかれらの協力きょうりょくコロンビア大学ころんびあだいがく客員きゃくいん研究けんきゅういんとしてみなみスラブの民俗みんぞく音楽おんがく研究けんきゅうはずをととのえると一旦いったん帰国きこく10月8にちにブダペストのリスト音楽おんがくいんだいホールで告別こくべつコンサートをひらき、ハンガリー国鉄こくてつ技術ぎじゅつしゃになっていた長男ちょうなん、そしてコダーイにこうたくし、ザッハーやかつての恋人こいびと・ゲイエルなど友人ゆうじんたち助力じょりょくけ、つま膨大ぼうだい研究けんきゅう資料しりょう自作じさく資料しりょうともアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく移住いじゅうした。なお、次男じなんペーテルは全寮ぜんりょうせい学校がっこう在学ざいがくちゅうのためハンガリーにのこったが1ねん単身たんしんアメリカにわたり、そのアメリカ海軍かいぐん招集しょうしゅうおうじた。

少々しょうしょう自己じこ中心ちゅうしんてきでなかなか他人たにんけないタイプであったバルトークにとって、アメリカはけっして居心地いごこちくなかったし、研究けんきゅう講演こうえん以外いがいはピアニストとして生計せいけいてるつもりだったとはいえ、作曲さっきょくするにもならなかったようで、演奏えんそうかい活動かつどうおこな以外いがいは、さきコロンビア大学ころんびあだいがくでの研究けんきゅうほか、ヨーロッパからんだ民俗みんぞく音楽おんがく研究けんきゅう没頭ぼっとうしていた。しかし1940ねんごろから右肩みぎかた周辺しゅうへんいたみをかんじるなどの不調ふちょうがあった健康けんこう状態じょうたい次第しだい悪化あっか、1942ねんになると断続だんぞくてき発熱はつねつかえすようになった。1943ねん初頭しょとうにはついに入院にゅういんしてそれまでの活動かつどうすべ中断ちゅうだんする。

フリッツ・ライナーなどアメリカ在住ざいじゅうのバルトークの友人ゆうじんたちは、戦争せんそう印税いんぜい収入しゅうにゅうとどこおるなど収入しゅうにゅうげんくなってしまったかれ支援しえんするため「作曲さっきょくしゃ著作ちょさくしゃ出版しゅっぱんしゃためのアメリカ協会きょうかい (the American Society for Composers, Authors, and Publishers) 」に医療いりょう負担ふたんさせるようはたらきかけ[5]さら当時とうじボストン交響こうきょう楽団がくだんひきいていた指揮しきしゃセルゲイ・クーセヴィツキーに、かれ財団ざいだん夫人ふじんおものための作品さくひんをバルトークに依頼いらいさせる。すると驚異きょういてきなスピードで『管弦楽かんげんがくのための協奏曲きょうそうきょく』を完成かんせい。この依頼いらいがあって作曲さっきょくへの意欲いよくこされたようで、ヴァイオリン・ソナタを演奏えんそうかいげるさいにアドヴァイスをもとめにしたしくなったユーディ・メニューイン依頼いらいで『伴奏ばんそうヴァイオリンソナタ』にも着手ちゃくしゅし、1944ねんにはりょうきょく初演しょえんにそれぞれう。『子供こどものために』や『ミクロコスモス』の改訂かいていばん出版しゅっぱんしゃとのあたらしい契約けいやく収入しゅうにゅうめん不安ふあんもやや改善かいぜんされ、健康けんこう状態じょうたい小康しょうこうもどして民俗みんぞく音楽おんがく研究けんきゅう再開さいかいした。しかし、そのやまい白血病はっけつびょうだった。

1945ねん、『管弦楽かんげんがくのための協奏曲きょうそうきょく』の改訂かいてい完成かんせいさせたのちつま誕生たんじょうプレゼントにしようとかろやかでしん古典こてんてきな『ピアノ協奏曲きょうそうきょくだい3ばん』、ウィリアム・プリムローズから依頼いらいされた『ヴィオラ協奏曲きょうそうきょく』に着手ちゃくしゅするが、白血病はっけつびょう急性きゅうせいのために9月26にちにニューヨークのブルックリン病院びょういん死去しきょした(まん64さいぼつ)。の4にちまえまで作曲さっきょくつづけた前者ぜんしゃのこり17小節しょうせつオーケストレーション指示しじとものこされ、草稿そうこう段階だんかいにとどまった後者こうしゃとともに、友人ゆうじんでハンガリーけい作曲さっきょくシェルイ・ティボール(Sérly Tibór)によって補筆ほひつ完成かんせいされた。

遺体いたいは「ナチスドイツや共産きょうさん主義しゅぎソ連それん名前なまえのこっているうち祖国そこく埋葬まいそうしない」との遺言ゆいごんもとづき、ニューヨークしゅうハーツデイル英語えいごばんファーンクリフ墓地ぼち埋葬まいそうされたが[6]ハンガリー社会しゃかい主義しゅぎ労働ろうどうしゃとういちとう独裁どくさい放棄ほうきめるなど民主みんしゅすすんだことから、ハンガリー在住ざいじゅう長男ちょうなんベーラとアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく在住ざいじゅう次男じなんのぺーテル、そして指揮しきしゃゲオルク・ショルティらの尽力じんりょく亡骸なきがら1988ねん7がつ7にちハンガリーに移送いそうされ、国葬こくそうによりブダペストのファルカシュレーティ墓地ぼち英語えいごばん埋葬まいそうされた[7]現在げんざいファーンクリフには記念きねんのこされている。

作風さくふう

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本人ほんにんが「わかころわたしにとって、理想りそうベートーヴェンだった」と回想かいそうしているようにドイツ・オーストリア音楽おんがくつよ影響えいきょうから出発しゅっぱつしたが、ハンガリー民族みんぞくハンガリー王国おうこくうち少数しょうすう民族みんぞく民謡みんようをはじめとした民俗みんぞく音楽おんがく収集しゅうしゅうとそれらについての科学かがくてき分析ぶんせきから、その語法ごほう自分じぶんのものにしていった(同様どうよう活動かつどうおこなった先人せんじんにチェコのレオシュ・ヤナーチェクがいる)側面そくめんと、どう時期じき音楽おんがく影響えいきょうけた側面そくめんのバランスのなか作品さくひんす、という独自どくじみちあゆんだ。ただし、かれ楽曲がっきょく民俗みんぞく音楽おんがく旋律せんりつやリズムだけではなく構造こうぞうめん分析ぶんせきしたうえで、なおかつソナタ形式けいしきなど西洋せいよう音楽おんがく技法ぎほう発展はってんけい同時どうじれて成立せいりつしていることや、過去かこ音楽おんがくけてあたらしい音楽おんがくそうとしたてんなど、音楽おんがくてきにはしん古典こてん主義しゅぎながれの1人ひとり位置付いちづけても間違まちがいではないだろう。

作品さくひん変遷へんせんおおまかに以下いかのように区分くぶんできる。

- 1905ねん
ヨハネス・ブラームスリヒャルト・シュトラウス影響えいきょうつよい、後期こうきロマン主義しゅぎてき作風さくふう。ハンガリー民族みんぞくとしての意識いしききょく表現ひょうげんしようとする作品さくひんもあったが、まだ先人せんじんたち同様どうようにジプシー音楽おんがくてき要素ようそれるかたちであった。
1906ねん - 1923ねんごろ
盟友めいゆうコダーイ・ゾルターンともに、当時とうじハンガリー王国おうこく各地かくちから民謡みんよう収集しゅうしゅうおこない、一方いっぽうでは民謡みんよう編曲へんきょくしたピアノきょくなどをつくり、他方たほうでは民謡みんよう語法ごほう科学かがくてき分析ぶんせきしたかたち自身じしん作品さくひんかしした時期じき。また自身じしん作品さくひんには、民謡みんよう以外いがいにもクロード・ドビュッシーイーゴリ・ストラヴィンスキーしんウィーンらくなど当時とうじ最先端さいせんたん音楽おんがく影響えいきょうつよ反映はんえいされている。
この末期まっきには民謡みんよう語法ごほう消化しょうかし、独自どくじのスタイルをほぼ確立かくりつする。
1926ねん - 1930ねんごろ
とく室内楽しつないがく作品さくひんにおいて尖鋭せんえいてき和声わせい荒々あらあらしいまでの強烈きょうれつ推進すいしんりょくちながら、緻密ちみつ構造こうぞう数々かずかず作品さくひんした。「調しらべてき」ともいわれるが、本人ほんにん調音ちょうおんらく存在そんざいしないとの立場たちばをとっており、この時期じき作品さくひんでも調しらべてき中心ちゅうしん存在そんざいしている。またバロック音楽おんがく古典こてん影響えいきょう如実にょじつかんじさせるなど、しん古典こてん主義しゅぎながれにっているめんられる。
1930ねん - 1940ねん
そのまえ時代じだい同様どうよう緻密ちみつ楽曲がっきょく構造こうぞうちながら、もうすこ和声わせいてきにも明快めいかいで、よりしん古典こてんてきなスタイルをした時期じき数々かずかず傑作けっさく発表はっぴょうしている。
1943ねん - 1945ねん
アメリカ時代じだい傾向けいこうとしてはそのまえ時代じだい末期まっき延長線えんちょうせんじょうにあり、こまかい動機どうきよりも旋律せんりつてき要素ようそ重視じゅうしする傾向けいこうがある。より明快めいかい明朗めいろう大衆たいしゅうける方向ほうこう変化へんかしたともわれるが、きょくによってはそれ以前いぜんきびしいかおをのぞかせる。

なお、アメリカ移住いじゅうまえ手紙てがみ吐露とろしているように「作曲さっきょくおしえるものではないし、わたしには不可能ふかのうです」というかんがえのぬしで、その生涯しょうがい作曲さっきょく指導しどうしたのは盟友めいゆうコダーイのつまシャーンドル・エンマくらいとされている(先述せんじゅつのシェルイを「弟子でし」とする記述きじゅつおおいが、それはただしくない)。作曲さっきょく理論りろんてきめんについても自身じしんではほとんどあきらかにしておらず、手紙てがみ自身じしん音楽おんがく語法ごほうがハンガリー、ルーマニア、スロヴァキアの民俗みんぞく音楽おんがくつよ影響えいきょうをされているといている程度ていどである。

そのため、かれ理論りろんについては様々さまざま音楽おんがく学者がくしゃたちが研究けんきゅうおこなっており、ハンガリーの音楽おんがく学者がくしゃレンドヴァイ・エルネー英語えいごばんは、バルトークは機能きのう和声わせい代理だいり和音わおん拡張かくちょうすることで12半音はんおんかい等質とうしつあつかう「中心ちゅうしんじくシステム[注釈ちゅうしゃく 3]や、作品さくひん構成こうせいらくしき)から和音わおん構成こうせいいたるまで黄金おうごん分割ぶんかつ基礎きそき、そのためにフィボナッチ数列すうれつ活用かつようしたとの論文ろんぶん発表はっぴょうしている。ただし、前者ぜんしゃはともかく後者こうしゃについてはてはまらない作品さくひんがかなりあり、このせつ妥当だとうせい支持しじするスケッチのみや計算けいさんメモとう見当みあたらない[注釈ちゅうしゃく 4]ため、現在げんざいではハンガリー国内こくない国外こくがいいずれにおいても、せんもん研究けんきゅうしゃでこのせつ支持しじするひとはあまりおおくない。

ピアニストとして

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身長しんちょう165センチ程度ていど体格たいかくてきにはけっして大柄おおがらではなかったが、はかなりおおきかった。そしてヴィルトゥオーゾとして自身じしん未来みらいおもえがくほどの実力じつりょくつリスト直系ちょっけい弟子でしであり、晩年ばんねんまでピアニストとしての活動かつどうおこなった。手紙てがみなどでは伴奏ばんそうとしての腕前うでまえ自負じふしていたようで、おおくのソリストとの共演きょうえんれきもある。自作じさく自演じえんやリストのピアノきょくのスタジオ録音ろくおん、1940ねんにはシゲティと共演きょうえんした演奏えんそうかいでベートーヴェンの『「クロイツェル・ソナタ 』、『ドビュッシーのヴァイオリンソナタ』などのライヴ録音ろくおんなどをのこしており、かれ演奏えんそうはCDなどでくことが出来できる。

ドイツ・オーストリア音楽おんがくをレパートリーとしていたが、スカルラッティの編纂へんさんおこなってみずか演奏えんそうしたり、みずからに多大ただい影響えいきょうあたえたドビュッシーの作品さくひんおおげていた。自作じさくのピアノきょく自身じしん演奏えんそうかいげるためにかれたものがすくなくない。

また作曲さっきょくおしえなかったが、ピアノ教育きょういくには熱心ねっしんだった。自作じさくでも教育きょういくのための作品さくひん重要じゅうよう位置いちめており、リスト音楽おんがくいんではピアノの教授きょうじゅとしておおくの弟子でしそだてた。シャーンドル・ジェルジリリー・クラウスゲザ・アンダなどのピアニストを直接ちょくせつ指導しどうしたほか、指揮しきしゃアンタル・ドラティや、作曲さっきょくでバルトークの民俗みんぞく音楽おんがく研究けんきゅう助手じょしゅつとめたヴェレッシュ・シャーンドルなどがピアノの弟子でしである。また、指揮しきしゃゲオルク・ショルティ直接ちょくせつ弟子でしではなかったが、指導しどう教授きょうじゅ代役だいやくとして一時いちじバルトークのピアノのレッスンをけたことがあったことを回想かいそうしている。

年譜ねんぷ

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作品さくひん

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バルトークは「作品さくひん番号ばんごう」を習作しゅうさく時点じてんからつけており、「Op.1」と付記ふきされている作品さくひんは3つある。その3つめである1904ねんの『ピアノのためのラプソディ』以降いこうはオリジナルの作品さくひんには作品さくひん番号ばんごうけ、民謡みんようからの編曲へんきょく作品さくひんにはけないというルールけをおこなった。しかし前述ぜんじゅつのように『ヴァイオリン・ソナタだい1ばん』の出版しゅっぱんさいからこれをめる。このような事情じじょうから後年こうねん学者がくしゃたち習作しゅうさくなどもふくめて分類ぶんるいした番号ばんごうけられることもおおく、すくなくとも3種類しゅるい体系たいけいがある。ここではハンガリーの作曲さっきょくセールレーシ・アンドラーシュ作成さくせいした「バルトークの音楽おんがく作品さくひん音楽おんがくがく論文ろんぶん目録もくろく」でのづけばん「Sz.」を付記ふきする。

交響曲こうきょうきょく

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  • 交響こうきょうきょくへん長調ちょうちょう 1902ねん-1903ねん Sz.16 ※未完みかん楽譜がくふ自体じたい紛失ふんしつ。スケルツォ楽章がくしょうのみ現存げんそん(Sz.17)

管弦楽かんげんがくきょく

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協奏曲きょうそうきょく

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協奏曲きょうそうきょくるいするものもふくむ。

舞台ぶたい作品さくひん

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室内楽しつないがくきょく

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ピアノきょく

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ピアニストで教育きょういくしゃでもあったバルトークは、ここにげた以外いがいにも多数たすう作品さくひん教則きょうそくほんふくむ)がある。

  • ピアノのためのラプソディー (1904ねん) Op.1 Sz.26
  • 14のバガテル (1908ねん) Op.6 Sz.38
  • 10のやさしい小品しょうひん (1908ねん) Sz.39
  • 2つのエレジー (1908ねん) Sz.41
  • 子供こどものために (1908ねん-1910ねん) Sz.42
    • ハンガリーとスロヴァキアの民謡みんようをもとにした子供こども教育きょういくよう教本きょうほん生前せいぜんから教育きょういくよう作品さくひん演奏えんそうかい作品さくひんとしてたか評価ひょうかされ、バルトーク自身じしんも1943ねん改訂かいていする以前いぜんからなん手直てなおしをしている。
  • 2つのルーマニア舞曲ぶきょく (1910ねん) Op.8a Sz.43
  • 4つの挽歌ばんか (1910ねん) Op.9a Sz.45
  • 3つのブルレスク (1911ねん) Op.8c Sz.47
  • アレグロ・バルバロ (1911ねん) Sz.49
    • 題名だいめいはフランスの新聞しんぶんにバルトークとコダーイの作品さくひん演奏えんそうかいに「ハンガリーのわか2人ふたり野蛮やばんじん」とかれたことにたいする皮肉ひにく
  • ピアノの初歩しょほ (1913ねん) Sz.53
  • ソナチネ (1915ねん) Sz.55
  • ルーマニア民俗みんぞく舞曲ぶきょく (1914ねん) Sz.56
  • ルーマニアのクリスマス・キャロル (1915ねん) Sz.57
  • ピアノのための組曲くみきょく (1916ねん) Op.14 Sz.62
  • 15のハンガリーの農民のうみんうた (1918ねん) Sz.71
  • ハンガリー民謡みんようによる8つの即興そっきょうきょく (1920ねん) Op.20 Sz.74
  • ピアノ・ソナタ (1926ねん) Sz.80
  • 組曲くみきょく戸外こがいにて』 (1926ねん) Sz.81
  • 9つのピアノ小品しょうひん (1926ねん) Sz.82
    • 8きょくに「タンバリン」というきょくがあるが、バルトークがスペインをおとずれたさい印象いんしょうもとにしたものともわれている。
  • ミクロコスモス (1926ねん-1939ねん) Sz.107
    • ピアノ教本きょうほんであると同時どうじ小曲しょうきょくしゅう初心者しょしんしゃから上級じょうきゅうしゃけての段階だんかいてき構成こうせいと、バルトークの確立かくりつした独自どくじ音楽おんがく語法ごほう特徴とくちょう

声楽せいがくきょく

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ここにげた以外いがいにも多数たすう

  • 民謡みんよう様式ようしきによる3つのうた (1904ねん) Sz.24
  • ハンガリー民謡みんよう (1906ねん-1907ねん) Sz.33
  • 5つの歌曲かきょく (1915ねん) Sz.61
  • エンドレ・アディによる5つの歌曲かきょく (1915ねん) Sz.62
  • 8つのハンガリー民謡みんよう (1908ねん-1916ねん) Sz.64
  • むら情景じょうけい (1924ねん) Sz.78
  • 室内しつない管弦楽かんげんがく女声じょせい合唱がっしょうのための『3つのむら情景じょうけい』 (1926ねん) Sz.79
    • むら情景じょうけい』より3きょく抜粋ばっすいし、伴奏ばんそう管弦楽かんげんがくしたもの
  • 4つのハンガリー民謡みんよう (1930ねん) Sz.93
  • カンタータ・プロファーナ 1930ねん Sz.94
  • こえとオーケストラのための5つのハンガリー民謡みんよう (1933ねん) Sz.101

参考さんこう文献ぶんけん資料しりょう

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著作ちょさく手紙てがみほか

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  • 『バルトーク音楽おんがく論集ろんしゅう』(岩城いわきはじめ やく御茶おちゃみず書房しょぼう、1992ねん8がつISBN 4275014774旧版きゅうばんどう[あごら叢書そうしょ]、1988ねん
    • もとはん『バルトークの世界せかい 自伝じでん民俗みんぞく音楽おんがく現代げんだい音楽おんがくろん』(講談社こうだんしゃ、1976ねん
  • 『ある芸術げいじゅつ人間像にんげんぞう バルトークの手紙てがみ記録きろく』(羽仁はに協子きょうこ へんやく冨山とやまぼう、1970ねん
  • 資料しりょう写真しゃしんる バルトークの生涯しょうがい』(フェレンツ・ボーニシュへんちょ国際こくさい文化ぶんか出版しゅっぱんしゃ、1981ねん
  • 『バルトーク・ベーラ ハンガリー民謡みんよう』(間宮まみや芳生よしお伊東いとう信宏のぶひろ 歌詞かし対訳たいやく全音楽譜出版社ぜんおんがくふしゅっぱんしゃ、1995ねんISBN 4116050822
  • 『バルトーク音楽おんがくろんせん』(伊東いとう信宏のぶひろ太田おおた峰夫みねお やくちくま学芸がくげい文庫ぶんこ、2018ねんISBN 4480098399

伝記でんき研究けんきゅう

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  • セルジュ・モルー『バルトーク 生涯しょうがい作品さくひん』(柴田しばたみなみつよし わけ、ダヴィッドしゃ、1957ねん10がつ
  • アガサ・ファセット『バルトーク晩年ばんねん悲劇ひげき』(野水のみず瑞穂みずほ やくみすず書房しょぼう新装しんそうばん2021ねんほか) ISBN 4622090635初版しょはんはシリーズ「亡命ぼうめい現代げんだい6」、1973ねん
  • ポール・グリフィス『バルトーク 生涯しょうがい作品さくひん』(和田わだだん やくたいりゅうしゃ叢書そうしょムジカ・ゼピュロス]、1986ねん改訂かいてい新版しんぱん1996ねんISBN 4812101638
  • 伊東いとう信宏のぶひろ『バルトーク 民謡みんようを「発見はっけん」した辺境へんきょう作曲さっきょく』(中公新書ちゅうこうしんしょ、1997ねん7がつISBN 4121013700吉田よしだ秀和ひでかずしょう受賞じゅしょう
  • セーケイ・ユーリア『バルトーク物語ものがたり』(羽仁はに協子きょうこ大熊おおくますすむ やく音楽之友社おんがくのともしゃ音楽おんがく選書せんしょ]、1992ねん4がつISBN 4276370620著者ちょしゃ弟子でし
  • ペーテル・バルトーク ちょ村上むらかみ泰裕やすひろ やくちち・バルトーク : 息子むすこによるだい作曲さっきょくおも』スタイルノート、2013ねんISBN 978-4-7998-0119-2 
  • ひのまどか『バルトーク―うたのなる亡命ぼうめい日々ひび』(リブリオ出版しゅっぱん、1989ねん8がつISBN 4897840694児童じどうしょ

音楽おんがくろん

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その

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小惑星しょうわくせい(4132) Bartokはバルトークの名前なまえにちなんで命名めいめいされた[8]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 1907ねんごろ、バルトークはコダーイをつうじて、当時とうじハンガリーではられていなかったクロード・ドビュッシー音楽おんがくることとなる[1]
  2. ^ 息子むすこペーテルはまだ年端としはもいかないころ自身じしんが、父親ちちおやがピアノ教授きょうじゅとしての仕事しごとにうんざりしていることを人前ひとまえでうっかりかしてしまい、父親ちちおやこまらせたエピソードを回想かいそうろくかたっている。
  3. ^ ジャズの「コルトレーン・チェンジズ」と背景はいけい理論りろんはほとんどおなじである
  4. ^ バルトークは周囲しゅういかたるように規則正きそくただしく几帳面きちょうめん人物じんぶつで、自作じさくきょくのスケッチなども破棄はきせずのこしていた。

出典しゅってん

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  1. ^ バルトーク・ベーラ・ちょ岩城いわきかおるやく『バルトーク音楽おんがく論集ろんしゅう』あごら叢書そうしょ、1988ねん5がつ25にち、ISBN978-4275007988、p.19
  2. ^ 著者ちょしゃ吉澤よしざわヴィルヘルム、発行はっこうしゃ矢野やの恵二けいじ『ピアニストガイド』株式会社かぶしきがいしゃあおゆみしゃ印刷所いんさつしょ製本せいほんしょあつとくしょ、2006ねん2がつ10日とおか、251ページ、ISBN 4-7872-7208-X
  3. ^ 鹿島かしま正裕まさひろ1919ねんのハンガリー社会しゃかい主義しゅぎ : 評議ひょうぎかい国家こっかとその国内こくない政策せいさく」『アジア経済けいざいだい18かんだい8ごう、アジア経済けいざい研究所けんきゅうじょ、1977ねん8がつ、30-46ぺーじISSN 0002-2942NAID 120000807064 
  4. ^ P.バルトーク 1992, pp. 136–138.
  5. ^ バルトークの次男じなんペーテルの回想かいそうでは、1943ねん時点じてんでは印税いんぜい収入しゅうにゅう演奏えんそうかいでの収入しゅうにゅう途絶とだえていたこと、治療ちりょう高額こうがくであることから、一家いっか収入しゅうにゅうはハンガリー時代じだいすうぶんいちになっていた[4]
  6. ^ [1]
  7. ^ [2]
  8. ^ (4132) Bartok = 1988 EH”. MPC. 2021ねん10がつ3にち閲覧えつらん

外部がいぶリンク

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