バルトーク・ベーラ
バルトーク・ベーラ Bartók Béla | |
---|---|
1927 | |
1881 オーストリア=ハンガリー ハンガリー ナジセントミクローシュ | |
1945 ブルックリン | |
ジャンル |
クラシック |
ピアニスト | |
ピアノ |
バルトーク・ベーラ・ヴィクトル・ヤーノシュ(Bartók Béla Viktor János [ˈbɒrtoːkˌbe̝ːlɒˈviktorˌjɑ̈ːnoʃ], 1881
生涯
[幼少 期
[1881
7
音楽家 への道 と民謡 との出会 い
[1902
1905
1906
1907
スタイル確立 と第 一 次 世界 大戦
[1909
1911
1914
1921
様々 な活躍 と、第 二 次 世界 大戦
[1923
1934
1939
アメリカ移住 と死
[フリッツ・ライナーなどアメリカ
1945
作風
[- - 1905
年 - ヨハネス・ブラームスやリヒャルト・シュトラウスの
影響 が強 い、後期 ロマン主義 的 な作風 。ハンガリー民族 としての意識 を曲 で表現 しようとする作品 もあったが、まだ先人 達 同様 にジプシー音楽 的 な要素 を取 り入 れる形 であった。 - 1906
年 - 1923年 頃 盟友 のコダーイ・ゾルターンと共 に、当時 のハンガリー王国 の各地 から民謡 収集 を行 い、一方 では民謡 を編曲 したピアノ曲 などを作 り、他方 では民謡 の語法 を科学 的 に分析 した形 で自身 の作品 に活 かし出 した時期 。また自身 の作品 には、民謡 以外 にもクロード・ドビュッシーやイーゴリ・ストラヴィンスキー、新 ウィーン楽 派 など当時 の最先端 の音楽 の影響 も強 く反映 されている。- この
末期 には民謡 の語法 を消化 し、独自 のスタイルをほぼ確立 する。 - 1926
年 - 1930年 頃 特 に室内楽 作品 において尖鋭 的 な和声 と荒々 しいまでの強烈 な推進 力 を持 ちながら、緻密 な構造 を持 つ数々 の作品 を生 み出 した。「無 調 的 」ともいわれるが、本人 は無 調音 楽 は存在 しないとの立場 をとっており、この時期 の作品 でも調 的 中心 は存在 している。またバロック音楽 や古典 派 の影響 を如実 に感 じさせるなど、新 古典 主義 の流 れに乗 っている面 も見 られる。- 1930
年 - 1940年 - その
前 の時代 と同様 に緻密 な楽曲 構造 を持 ちながら、もう少 し和声 的 にも明快 で、より新 古典 的 なスタイルを打 ち出 した時期 。数々 の傑作 を発表 している。 - 1943
年 - 1945年 - アメリカ
時代 。傾向 としてはその前 の時代 の末期 の延長線 上 にあり、細 かい動機 よりも旋律 的 な要素 を重視 する傾向 がある。より明快 、明朗 に大衆 に受 ける方向 へ変化 したとも言 われるが、曲 によってはそれ以前 の厳 しい顔 をのぞかせる。
なお、アメリカ
そのため、
ピアニストとして
[ドイツ・オーストリア
また
年譜
[- 1881
年 3月25日 、ナジセントミクローシュに生 まれる。母 によれば、子供 のころから音楽 への才能 を見 せていたという。 - 1885
年 (4歳 ) 7月 11日 に妹 、エルザ(- 1955年 9月11日 )が生 まれる。 - 1888
年 (7歳 ) 8月 4日 に父 が死亡 。 - 1894
年 (13歳 ) ポジョニへ引 っ越 し、当地 でギムナジウムに通 う。 - 1899
年 (18歳 ) ブダペスト王立 音楽 院 に入学 。 - 1902
年 (21歳 )交響 詩 『コシュート』を作曲 。世論 を騒 がせる。 - 1903
年 (22歳 ) 4月 13日 に故郷 ナジセントミクローシュで初 の公開 リサイタルを行 う。プログラムはシューマンの『ピアノソナタ第 3番 』や自作 など。12月にベルリンでデビューリサイタルを行 い、ブゾーニやゴドフスキーから称賛 される。 - 1904
年 (23歳 )初 めてマジャール民謡 に触 れる。11月に妹 が結婚 。 - 1905
年 (24歳 )妹 夫婦 の住 んでいたヴェーステーで民謡 採集 を行 う。ルビンシュタイン音楽 コンクールにピアノ部門 と作曲 部門 で出場 、ピアノ部門 2位 。秋 にコダーイ・ゾルターンと知 り合 う。 - 1906
年 (25歳 ) コダーイと連名 で組織 的 民謡 研究 の必要 性 を説 くアピールを発表 。夏 から彼 や他 の研究 者 と共 にハンガリー各地 の農民 音楽 を採集 し始 める。 - 1907
年 (26歳 ) トマーンの後任 としてブダペスト音楽 院 ピアノ科 教授 に就任 。教育 者 として働 く傍 ら、長期 休暇 時 に民謡 の採集 を進 める。 - 1908
年 (27歳 ) ピアノ曲 『14のバガテル』や『弦楽 四 重奏 曲 第 1番 』を作曲 。前者 は自筆 譜 を見 せに行 ったブゾーニから「やっと新 しい音楽 が聴 ける」と高 い評価 を受 ける。 - 1909
年 (28歳 ) ツィーグレル・マールタ(Ziegler Mártá 1893年 - 1967年 5月14日 )と結婚 。 - 1910
年 (29歳 ) 8月 22日 、長男 ベーラJr(- 1994年 6月17日 )誕生 。 - 1911
年 (30歳 ) ハンガリー芸術 委員 会 賞 のために『青 ひげ公 の城 』を作曲 するも演奏 を拒否 される。公的 な立場 から身 を引 き、民謡 の収集 と整理 に集中 。 - 1913
年 (32歳 ) ハンガリー以外 に、6月 にはアルジェリアにて民謡 採集 。 - 1914
年 (33歳 )第 1次 世界 大戦 勃発 。作曲 活動 に戻 り、『かかし王子 』の作曲 にとりかかる。 - 1917
年 (36歳 ) ユニテリアン教会 の信徒 となる。5月12日 にバレエ『かかし王子 』がブダペスト歌劇 場 で初演 され大 成功 。 - 1918
年 (37歳 ) オーストリアのウニヴェルザール出版 社 と楽譜 出版 契約 を結 ぶ。『青 ひげ公 の城 』初演 。『中国 の不思議 な役人 』作曲 開始 。 - 1919
年 (38歳 ) クン・ベーラらによるハンガリー革命 に際 し音楽 監理 委員 会 に参加 。その後 のホルティ・ミクローシュによる反 革命 によりハンガリーは混乱 する。 - 1920
年 (39歳 ) ハンガリーの混乱 から移住 を検討 、2月 から5月 まで音楽 院 から休暇 をもらい比較 音楽 学 の盛 んだったベルリンに赴 くが断念 する。アメリカからハンガリー民謡 についての論文 の依頼 を受 け執筆 し、これを書籍 にまとめることを企図 する。 - 1921
年 -1922年 (40歳 -41歳 )古 い知 り合 いだったイェリー・ダラーニと再会 。彼女 と共演 するために『ヴァイオリンソナタ第 1番 』を書 きあげ、イギリスやフランスで演奏 旅行 を行 う。 - 1923
年 (42歳 ) 6月 にマールタと離婚 。遅 くとも8月 には生徒 のパーストリ・ディッタ(Pásztory Ditta 1903年 10月31日 -1982年 11月21日 )と結婚 。『ヴァイオリンソナタ第 2番 』『舞踏 組曲 』を作曲 。 - 1924
年 (43歳 ) 2月 に国際 現代 音楽 協会 のチューリヒの音楽 祭 に審査 員 として参加 。7月 31日 に次男 ペーテル(- 2020年 12月7日 )誕生 。『ハンガリー民謡 』がハンガリーで出版 。翌年 にドイツ語 版 出版 。10月24日 にブカレストでヴァイオリニスト・作曲 家 のジョルジェ・エネスクと自作 の『ヴァイオリンソナタ第 2番 』で共演 。 - 1925
年 (44歳 )作曲 家 としては作品 を発表 せず、ピアニストとしてイタリアやオランダで演奏 会 を行 う。 - 1926
年 (45歳 )夏 から作曲 活動 を再開 。『ピアノソナタ』、『ピアノ協奏曲 第 1番 』などを手 がける。『中国 の不思議 な役人 』のケルンでの世界 初演 に立 ち会 うが、初日 のみで中止 の大 スキャンダルになる。 - 1927
年 (46歳 ) 『ピアノ協奏曲 第 1番 』をフルトヴェングラーの指揮 で初演 。『弦楽 四 重奏 曲 第 3番 』を作曲 。 - 1928
年 (47歳 )前年 末 から2月 末 まで演奏 旅行 で初 めてアメリカを訪 れる。『弦楽 四 重奏 曲 第 4番 』、2曲 の『ヴァイオリンとピアノのためのラプソディ』作曲 。 - 1929
年 -1930年 (48歳 -49歳 ) ソヴィエトへ演奏 旅行 。ヨゼフ・シゲティやパブロ・カザルスらと共演 。帰国 後 『ピアノ協奏曲 第 2番 』を作曲 。 - 1931
年 (50歳 ) 1月 にスペイン旅行 。夏 は国際 連盟 の国際 知的 協力 委員 会 の委員 に選 ばれてジュネーブの会議 に参加 し、モントゼーで行 われた夏期 講習 会 でピアノ講師 を行 うかたわら旧作 ピアノ曲 のオーケストラ編曲 を行 う。ヴァイオリン教育 家 エーリヒ・ドフレインの求 めに応 じて『44のヴァイオリン二 重奏 曲 』を作曲 。『ハンガリー民謡 』英語 版 出版 。 - 1932
年 (51歳 ) パウル・ヒンデミットらと共 にカイロで行 われたアラビア音楽 会議 に参加 。後 に『ミクロコスモス』となるピアノ練習 曲 集 の構想 を初 めて公 に語 る。 - 1933
年 (52歳 ) 1月 23日 に『ピアノ協奏曲 第 2番 』の初演 をフランクフルトで行 う。これがドイツでの最後 の公開 演奏 だった。 - 1934
年 (53歳 ) 4月 にストックホルムに演奏 旅行 。夏 に『弦楽 四 重奏 曲 第 5番 』作曲 。9月から音楽 院 を去 り、科学 アカデミーの民俗 音楽 研究 員 就任 。 - 1936
年 (55歳 ) 5月2日 にヴァイオリニストのザトゥレツキー・エデと共 に故郷 に近 いティミショアラで演奏 会 を行 う。これが生前 最後 の帰郷 となった。6月 末 にパウル・ザッハーから委嘱 を受 け、夏 一 杯 をかけて『弦楽器 、打楽器 とチェレスタのための音楽 』作曲 。11月にはトルコへの演奏 旅行 と講演 、民俗 音楽 採集 を行 う。 - 1937
年 (56歳 ) 1月 に『弦楽器 、打楽器 とチェレスタのための音楽 』の初演 に立 ち会 うためスイス旅行 。8月から『ヴァイオリン協奏曲 第 2番 』の作曲 を始 める(翌年 末 に完成 )。 - 1938
年 (57歳 ) オーストリア併合 に際 し、ウニヴェルザール出版 社 との契約 をあきらめ、同社 のロンドン代理 店 業務 を担当 していたイギリスのブージー・アンド・ホークスと契約 を結 ぶ。 - 1939
年 (58歳 ) アフメト・アドナン・サイグンを通 してトルコのアンカラへ移住 する可能 性 を探 るが、思 うような返事 は得 られず。『弦楽 のためのディヴェルティメント』『弦楽 四 重奏 曲 第 6番 』作曲 。母 没 。 - 1940
年 (59歳 ) 5月 から6月 にかけてアメリカ合衆国 で演奏 会 。10月には夫妻 でリスボン経由 で同国 へ移住 。コロンビア大学 から民俗 音楽 研究 についての名誉 博士 号 を授与 され、客員 教授 として民俗 音楽 の研究 を開始 。 - 1943
年 (62歳 ) ハーバード大学 での連続 講演 期間 中 に白血病 により入院 。『管弦楽 のための協奏曲 』を完成 。『無 伴奏 ヴァイオリンソナタ』にも着手 。 - 1944
年 (63歳 ) 『無 伴奏 ヴァイオリンソナタ』、『管弦楽 のための協奏曲 』初演 。 - 1945
年 (64歳 ) 9月26日 、ニューヨークにて没 。完成 寸前 の『ピアノ協奏曲 第 3番 』、スケッチのみの『ヴィオラ協奏曲 』を遺 す(いずれもシェルイ・ティボールにより補筆 完成 ) - 1967
年 アメリカまで持 ち込 んで死 の直前 に完成 させた『ルーマニア民俗 音楽 』の刊行 開始 (1975年 に完結 。全 5巻 )。 - 1988
年 7月 7日 ハンガリー国葬 。ゲオルク・ショルティにより遺骨 が母国 へ持 ち帰 られる。
作品
[バルトークは「
交響曲
[管弦楽 曲
[交響 詩 『コシュート』 (1903年 ) Sz.21管弦楽 のための組曲 第 1番 (1905年 、1920年 改訂 ) Op.3 Sz.31小 管弦楽 のための組曲 第 2番 (1905年 -1907年 、1943年 改訂 ) Op.4 Sz.34管弦楽 のための2つの肖像 (1907年 -1911年 ) Op.5 Sz.37第 1曲 はヴァイオリン協奏曲 第 1番 の第 1楽章 を流用 。第 2曲 はピアノ曲 『14のバガテル』最終 曲 の編曲
管弦楽 のための2つの映像 (1910年 ) Op.10 Sz.46- ルーマニア
舞曲 (1910年 ) Sz.47a- 『2つのルーマニア
舞曲 』の第 1曲 を編曲
- 『2つのルーマニア
- 4つの
小品 (作曲 1912年 、管弦楽 化 1921年 ) Op.12 Sz.51 - ルーマニア
民俗 舞曲 (1917年 ) Sz.68- ピアノ
版 (Sz.56)の編曲
- ピアノ
舞踏 組曲 (1923年 ) Sz.77- トランシルヴァニア
舞曲 (1931年 ) Sz.96- ピアノ
曲 『ソナチネ』の編曲
- ピアノ
- ハンガリーの
風景 (1931年 ) Sz.97- ピアノ
曲 集 の『10のやさしい小品 』『3つのブルレスク』『4つの挽歌 』『子供 のために』より5曲 を抜粋 して編曲
- ピアノ
- 9つのハンガリーの
農民 歌 (1933年 ) Sz.100- ピアノ
曲 『15のハンガリー農民 歌 』の後半 9曲 を編曲
- ピアノ
弦楽器 、打楽器 とチェレスタのための音楽 (1936年 ) Sz.106弦楽 のためのディヴェルティメント (1939年 ) Sz.113管弦楽 のための協奏曲 (1943年 ) Sz.116
協奏曲
[- ピアノと
管弦楽 のためのラプソディー (1904年 ) Op.1 Sz.27- 『ピアノのためのラプソディー』の
編曲
- 『ピアノのためのラプソディー』の
- ピアノと
管弦楽 のためのスケルツォ(ブルレスク)(1904年 ) Op.2 Sz.28 - ヴァイオリン
協奏曲 第 1番 (1907年 -1908年 ) Sz.36 - ピアノ
協奏曲 第 1番 (1926年 ) Sz.83 - ヴァイオリンとオーケストラのためのラプソディー
第 1番 (1928年 ) Sz.87- 『ヴァイオリンとピアノのためのラプソディー
第 1番 』の編曲
- 『ヴァイオリンとピアノのためのラプソディー
- ヴァイオリンとオーケストラのためのラプソディー
第 2番 (1928年 、1944年 改訂 ) Sz.90- 『ヴァイオリンとピアノのためのラプソディー
第 2番 』の編曲
- 『ヴァイオリンとピアノのためのラプソディー
- ピアノ
協奏曲 第 2番 (1930年 -1931年 ) Sz.95 - ヴァイオリン
協奏曲 第 2番 (1937年 -1938年 ) Sz.112 - 2
台 のピアノと打楽器 のための協奏曲 1940年 Sz.115- 『2
台 のピアノと打楽器 のためのソナタ』の編曲
- 『2
- ピアノ
協奏曲 第 3番 (1945年 ) Sz.119残 り17小節 の管弦楽 についてのみティボール・シェルイが補筆
- ヴィオラ
協奏曲 (1945年 ) Sz.120未完 。ティボール・シェルイによって完成 。他 にも複数 のバージョンがある。
舞台 作品
[- オペラ『
青 ひげ公 の城 』 (1911年 ) Op.11 Sz.48 - バレエ『かかし
王子 』 (1914年 -1916年 、1931年 改訂 ) Op.13 Sz.60改訂 時 に一部 を抜粋 した演奏 会 版 を作成 している
- パントマイム『
中国 の不思議 な役人 』(1918年 -1924年 、1931年 改訂 ) Op.19 Sz.73一部 をカットした演奏 会 版 がある。
室内楽 曲
[弦楽 四 重奏 曲 第 1番 (1908年 -1909年 ) Op.7 Sz.40弦楽 四 重奏 曲 第 2番 (1915年 -1917年 ) Op.17 Sz.67- ヴァイオリン・ソナタ
第 1番 (Vn.&Pf) (1921年 ) Sz.75初演 時 のプログラムにはOp.21とあったが、出版 時 に削除 。
- ヴァイオリン・ソナタ
第 2番 (Vn.&Pf) (1922年 ) Sz.76 弦楽 四 重奏 曲 第 3番 (1927年 ) Sz.85- ヴァイオリンとピアノのためのラプソディー
第 1番 (1928年 ) Sz.86- ヨゼフ・シゲティに
献呈
- ヨゼフ・シゲティに
- チェロとピアノのためのラプソディー
第 1番 (1928年 ) Sz.88演奏 会 で共演 したパブロ・カザルスのためにヴァイオリンからチェロ用 に編曲
- ヴァイオリンとピアノのためのラプソディー
第 2番 (1928年 、1944年 改訂 ) Sz.89- ゾルターン・セーケイに
献呈
- ゾルターン・セーケイに
弦楽 四 重奏 曲 第 4番 (1928年 ) Sz.91- 44のヴァイオリン
二 重奏 曲 1931年 Sz.98 弦楽 四 重奏 曲 第 5番 (1934年 ) Sz.102- 2
台 のピアノと打楽器 のためのソナタ (1937年 ) Sz.110 - ヴァイオリンとクラリネットとピアノの
為 のコントラスツ 1938年 Sz.111- シゲティとベニー・グッドマンに
献呈
- シゲティとベニー・グッドマンに
弦楽 四 重奏 曲 第 6番 1939年 Sz.114無 伴奏 ヴァイオリン・ソナタ 1944年 Sz.117- ユーディ・メニューインに
献呈
- ユーディ・メニューインに
ピアノ曲
[ピアニストで
- ピアノのためのラプソディー (1904
年 ) Op.1 Sz.26 - 14のバガテル (1908
年 ) Op.6 Sz.38 - 10のやさしい
小品 (1908年 ) Sz.39 - 2つのエレジー (1908
年 ) Sz.41 子供 のために (1908年 -1910年 ) Sz.42- ハンガリーとスロヴァキアの
民謡 をもとにした子供 の教育 用 教本 。生前 から教育 用 作品 ・演奏 会 向 け作品 として高 く評価 され、バルトーク自身 も1943年 に改訂 する以前 から何 度 も手直 しをしている。
- ハンガリーとスロヴァキアの
- 2つのルーマニア
舞曲 (1910年 ) Op.8a Sz.43 - 4つの
挽歌 (1910年 ) Op.9a Sz.45 - 3つのブルレスク (1911
年 ) Op.8c Sz.47 - アレグロ・バルバロ (1911
年 ) Sz.49題名 はフランスの新聞 にバルトークとコダーイの作品 の演奏 会 時 に「ハンガリーの若 き2人 の野蛮 人 」と書 かれたことに対 する皮肉 。
- ピアノの
初歩 (1913年 ) Sz.53 - ソナチネ (1915
年 ) Sz.55 - ルーマニア
民俗 舞曲 (1914年 ) Sz.56 - ルーマニアのクリスマス・キャロル (1915
年 ) Sz.57 - ピアノのための
組曲 (1916年 ) Op.14 Sz.62 - 15のハンガリーの
農民 の歌 (1918年 ) Sz.71 - ハンガリー
民謡 による8つの即興 曲 (1920年 ) Op.20 Sz.74 - ピアノ・ソナタ (1926
年 ) Sz.80 組曲 『戸外 にて』 (1926年 ) Sz.81- 9つのピアノ
小品 (1926年 ) Sz.82- 8
曲 目 に「タンバリン」という曲 があるが、バルトークがスペインを訪 れた際 の印象 を元 にしたものとも言 われている。
- 8
- ミクロコスモス (1926
年 -1939年 ) Sz.107- ピアノ
教本 であると同時 に小曲 集 。初心者 から上級 者 に向 けての段階 的 な構成 と、バルトークの確立 した独自 の音楽 語法 が特徴 。
- ピアノ
声楽 曲
[ここに
民謡 様式 による3つの歌 (1904年 ) Sz.24- ハンガリー
民謡 (1906年 -1907年 ) Sz.33 - 5つの
歌曲 (1915年 ) Sz.61 - エンドレ・アディの
詞 による5つの歌曲 (1915年 ) Sz.62 - 8つのハンガリー
民謡 (1908年 -1916年 ) Sz.64 村 の情景 (1924年 ) Sz.78室内 管弦楽 と女声 合唱 のための『3つの村 の情景 』 (1926年 ) Sz.79- 『
村 の情景 』より3曲 を抜粋 し、伴奏 を管弦楽 化 したもの
- 『
- 4つのハンガリー
民謡 (1930年 ) Sz.93 - カンタータ・プロファーナ 1930
年 Sz.94 声 とオーケストラのための5つのハンガリー民謡 (1933年 ) Sz.101
参考 文献 ・資料
[著作 ・手紙 ほか
[- 『バルトーク
音楽 論集 』(岩城 肇 訳 、御茶 の水 書房 、1992年 8月 ) ISBN 4275014774。旧版 は同 [あごら叢書 ]、1988年 元 版 『バルトークの世界 自伝 ・民俗 音楽 ・現代 音楽 論 』(講談社 、1976年 )
- 『ある
芸術 家 の人間像 バルトークの手紙 と記録 』(羽仁 協子 編 訳 、冨山 房 、1970年 ) - 『
資料 と写真 で見 る バルトークの生涯 』(フェレンツ・ボーニシュ編 ・著 、国際 文化 出版 社 、1981年 ) - 『バルトーク・ベーラ ハンガリー
民謡 』(間宮 芳生 ・伊東 信宏 歌詞 対訳 、全音楽譜出版社 、1995年 ) ISBN 4116050822 - 『バルトーク
音楽 論 選 』(伊東 信宏 ・太田 峰夫 訳 、ちくま学芸 文庫 、2018年 ) ISBN 4480098399
伝記 ・研究
[- セルジュ・モルー『バルトーク
生涯 ・作品 』(柴田 南 雄 訳 、ダヴィッド社 、1957年 10月 ) - アガサ・ファセット『バルトーク
晩年 の悲劇 』(野水 瑞穂 訳 、みすず書房 、新装 版 2021年 ほか) ISBN 4622090635。初版 はシリーズ「亡命 の現代 史 6」、1973年 - ポール・グリフィス『バルトーク
生涯 と作品 』(和田 旦 訳 、泰 流 社 [叢書 ムジカ・ゼピュロス]、1986年 、改訂 新版 1996年 ) ISBN 4812101638 伊東 信宏 『バルトーク民謡 を「発見 」した辺境 の作曲 家 』(中公新書 、1997年 7月 ) ISBN 4121013700。吉田 秀和 賞 受賞 - セーケイ・ユーリア『バルトーク
物語 』(羽仁 協子 ・大熊 進 子 訳 、音楽之友社 [音楽 選書 ]、1992年 4月 ) ISBN 4276370620。著者 は弟子 - ペーテル・バルトーク
著 、村上 泰裕 訳 『父 ・バルトーク :息子 による大 作曲 家 の思 い出 』スタイルノート、2013年 。ISBN 978-4-7998-0119-2。 - ひのまどか『バルトーク―
歌 のなる木 と亡命 の日々 』(リブリオ出版 、1989年 8月 ) ISBN 4897840694、児童 書
音楽 論
[- ヤーノシュ・カールパーティ『バルトークの
室内楽 曲 』(江原 望 ・伊東 信宏 訳 、法政大学 出版 局 、1998年 ) ISBN 4588420062 -大著 - レンドヴァイ・エルネー『バルトークの
作曲 技法 』(谷本 一之 訳 、全音楽譜出版社 、1998年 12月、初版 1990年 ) ISBN 4118000806 -音楽 教本 - レンドヴァイ・エルネー『
音 のシンメトリー』(森本 覚 訳 、全音楽譜出版社 、2002年 2月 ) ISBN 4118000814 横井 雅子 『ハンガリー音楽 の魅力 -リスト・バルトーク・コダーイ』(東洋 書店 [ユーラシア選書 ]、2006年 2月 )ISBN 4885956196
その他
[脚注
[注釈
[- ^ 1907
年 頃 、バルトークはコダーイを通 じて、当時 ハンガリーでは知 られていなかったクロード・ドビュッシーの音楽 を知 ることとなる[1]。 - ^
息子 ペーテルはまだ年端 もいかない頃 の自身 が、父親 がピアノ教授 としての仕事 にうんざりしていることを人前 でうっかり明 かしてしまい、父親 を困 らせたエピソードを回想 録 で語 っている。 - ^ ジャズの「コルトレーン・チェンジズ」と
背景 の理論 はほとんど同 じである - ^ バルトークは
周囲 が語 るように規則正 しく几帳面 な人物 で、自作 曲 のスケッチなども破棄 せず残 していた。
出典
[- ^ バルトーク・ベーラ・
著 、岩城 馨 ・訳 『バルトーク音楽 論集 』あごら叢書 、1988年 5月 25日 、ISBN978-4275007988、p.19 - ^
著者 吉澤 ヴィルヘルム、発行 者 矢野 恵二 『ピアニストガイド』株式会社 青 弓 社 、印刷所 ・製本 所 厚 徳 所 、2006年 2月 10日 、251ページ、ISBN 4-7872-7208-X - ^
鹿島 正裕 「1919年 のハンガリー社会 主義 :評議 会 国家 とその国内 政策 」『アジア経済 』第 18巻 第 8号 、アジア経済 研究所 、1977年 8月 、30-46頁 、ISSN 0002-2942、NAID 120000807064。 - ^ P.バルトーク 1992, pp. 136–138.
- ^ バルトークの
次男 ペーテルの回想 では、1943年 の時点 では印税 収入 や演奏 会 での収入 が途絶 えていたこと、治療 費 が高額 であることから、一家 の収入 はハンガリー時代 の数 分 の一 になっていた[4] - ^ [1]
- ^ [2]
- ^ “(4132) Bartok = 1988 EH”. MPC. 2021
年 10月 3日 閲覧 。
外部 リンク
[- バルトーク・ベーラ「
無 調音 楽 」(『音樂 世界 』編集 部 訳 ) - ARCHIVE。バルトークによる無 調音 楽 論 - バルトークの
楽譜 -国際 楽譜 ライブラリープロジェクト - Bela Bartok Piano scores
- Béla Bartókに
関連 する著作 物 - インターネットアーカイブ - 『バルトーク』 - コトバンク