バッハにゆかりのある土地 とち
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ (独 どく : Johann Sebastian Bach , 1685年 ねん 3月31日 にち (ユリウス暦 れき 1685年 ねん 3月21日 にち )- 1750年 ねん 7月 がつ 28日 にち )は、ドイツ の作曲 さっきょく 家 か ・オルガニスト 。
バロック音楽 おんがく の重要 じゅうよう な作曲 さっきょく 家 か の一人 ひとり で、鍵盤 けんばん 楽器 がっき の演奏 えんそう 家 か としても高名 こうみょう であり、当時 とうじ から即興 そっきょう 演奏 えんそう の大家 たいか として知 し られていた。バッハ研究 けんきゅう 者 しゃ の見解 けんかい では、バッハはバロック音楽 おんがく の最 さい 後尾 こうび に位置 いち する作曲 さっきょく 家 か としてそれまでの音楽 おんがく を集大成 しゅうたいせい したとも評価 ひょうか されるが、後世 こうせい には、西洋 せいよう 音楽 おんがく の基礎 きそ を構築 こうちく した作曲 さっきょく 家 か であり音楽 おんがく の源流 げんりゅう であるとも捉 とら えられ、日本 にっぽん の音楽 おんがく 教育 きょういく では「音楽 おんがく の父 ちち 」と称 しょう された[1] 。
バッハ一族 いちぞく は音楽家 おんがくか の家系 かけい で(バッハ家 か 参照 さんしょう )、数 すう 多 おお くの音楽家 おんがくか を輩出 はいしゅつ したが、中 なか でもヨハン・ゼバスティアン・バッハはその功績 こうせき の大 おお きさから「大 だい バッハ 」とも呼 よ ばれている。また、他 た のバッハ一族 いちぞく と区別 くべつ するため、J.S.バッハ とも略記 りゃっき される。今日 きょう 、単 たん に「バッハ」といえばこの人物 じんぶつ を指 さ す。
生涯 しょうがい
生誕 せいたん ~リューネブルク時代 じだい (1685年 ねん -1702年 ねん )
アイゼナハ - 聖 せい ゲオルク教会 きょうかい
1685年 ねん 3月31日 にち 、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(以下 いか 、「バッハ」とする)は、アイゼナハ の町 まち 楽師 がくし 及 およ び宮廷 きゅうてい 音楽家 おんがくか であったヨハン・アンブロジウス・バッハ の8人 にん 兄弟 きょうだい の末子 まっし として生 う まれた。アイゼナハ周辺 しゅうへん の中部 ちゅうぶ ドイツには、音楽 おんがく 一家 いっか であったバッハ一族 いちぞく 80余 よ 名 めい が生活 せいかつ しており、同姓 どうせい 同名 どうめい の者 もの も数多 あまた くいるため、そのことはバッハ史 し 研究 けんきゅう の難易 なんい 度 ど を上 あ げている。
生誕 せいたん 日 び 二 に 日 にち 後 ご に、幼児 ようじ 洗礼 せんれい が聖 せい ゲオルク教会 きょうかい (ドイツ語 ご 版 ばん ) で行 おこな われ、ゴータの町 まち 楽師 がくし セバスティアン・ナーゲルと、アイゼナハの森林 しんりん 官 かん ヨハン・ゲオルク・コッホが代 だい 父 ちち を務 つと めた。1692年 ねん (7歳 さい ) に、この教会 きょうかい に付属 ふぞく したラテン語 らてんご 学校 がっこう に入学 にゅうがく している[注釈 ちゅうしゃく 1] 。幼少 ようしょう 時 じ のバッハがどのように育 そだ ったか詳 くわ しいことは分 わ かっていないが、恐 おそ らく父 ちち アンブロジウスの指導 しどう のもと楽器 がっき を演奏 えんそう し始 はじ め、同 どう 教会 きょうかい に務 つと めていた父 ちち の従兄 じゅうけい ヨハン・クリストフ・バッハ (1642-1703) のオルガン演奏 えんそう も聴 き いていたと思 おも われる。
1694年 ねん 5月(9歳 さい )には母 はは エリザベートが亡 な くなり、父 ちち は同年 どうねん 11月 がつ に再婚 さいこん したものの、翌年 よくねん の1695年 ねん 2月 がつ に父 ちち も他界 たかい した。その後 ご 、バッハは兄 あに ヨハン・ヤーコプ (1682-1722) と共 とも にオーアドルフ の教会 きょうかい オルガニスト を務 つと めていた兄 あに ヨハン・クリストフ (1671-1721) の家 いえ に引 ひ き取 と られて勉学 べんがく に励 はげ み、クラヴィーア演奏 えんそう の基礎 きそ もここで学 まな んだ。
幼少 ようしょう 期 き のバッハの音楽 おんがく に対 たい する情熱 じょうねつ を伝 つた える有名 ゆうめい な逸話 いつわ がある。パッヘルベル の弟子 でし でもあった兄 あに ヨハン・クリストフは、フローベルガー やケルル といった南 みなみ ドイツの作曲 さっきょく 家 か の楽譜 がくふ を所有 しょゆう していたが、それをバッハには決 けっ して見 み せなかった。それを見 み たかったバッハは、夜 よ な夜 よ な月明 つきあか りの下 した で半年 はんとし もかけて写 うつし 譜 ふ したが、最終 さいしゅう 的 てき にこの写 うつし 譜 ふ した曲 きょく 集 しゅう の存在 そんざい を兄 あに に知 し られてしまい没収 ぼっしゅう されてしまう、というものである。
聖 ひじり ミカエル教会 きょうかい
1700年 ねん にはオーアドルフの学校 がっこう を退学 たいがく して、同年 どうねん 3月 がつ 15日 にち に親友 しんゆう のゲオルク・エルトマン (1682-1736) と共 とも にリューネブルク に移 うつ る。そこで、聖 ひじり ミカエル教会 きょうかい 付属 ふぞく の学校 がっこう [注釈 ちゅうしゃく 2] の給費 きゅうひ 生 せい となり、ボーイ・ソプラノ として「朝 ちょう 課 か 合唱 がっしょう 隊 たい 」の聖歌 せいか 隊 たい 員 いん に採用 さいよう される。この15名 めい から構成 こうせい された合唱 がっしょう 団 だん への入団 にゅうだん には、高 たか い音楽 おんがく 的 てき 能力 のうりょく が必要 ひつよう とされ、遠 とお くのテューリンゲン やザクセン からも応募 おうぼ が来 く るほど入団 にゅうだん が難 むずか しかったが、バッハは自身 じしん の優 すぐ れた音楽 おんがく 的 てき 能力 のうりょく によって難 なん なく合格 ごうかく したと思 おも われる。入団 にゅうだん 当時 とうじ バッハは既 すで に15歳 さい だったため入団 にゅうだん からまもなく変声期 へんせいき を迎 むか え、ボーイ・ソプラノ として歌 うた うことは出来 でき なくなったが、ヴァイオリン・ヴィオラや通 つう 奏 そう 低音 ていおん の楽器 がっき の演奏 えんそう をすることで楽団 がくだん の中 なか で活躍 かつやく していた。
リューネブルク時代 じだい のバッハは、北 きた ドイツでの音楽 おんがく 生活 せいかつ を満喫 まんきつ し、その音楽 おんがく を吸収 きゅうしゅう していった。同 おな じリューネブルクの聖 ひじり ヨハネ教会 きょうかい には、ゲオルク・ベーム がオルガニストとして活躍 かつやく しており、バッハは彼 かれ に敬意 けいい を払 はら っていたとされる。リューネブルクから少 すこ し離 はな れたハンブルク には、従兄 じゅうけい のヨハン・エルンスト・バッハ (1683-1739) が、同 おな じくハンブルクの聖 せい カタリナ教会 きょうかい にはラインケン [注釈 ちゅうしゃく 3] がおり、更 さら には鵞鳥 がちょう 市場 いちば のオペラ劇場 げきじょう では、カイザー のオペラ[注釈 ちゅうしゃく 4] が度々 たびたび 上演 じょうえん されていた。バッハが、どこまで聴 き いていたかは定 さだ かでないが、彼 かれ らの音楽 おんがく を聴 き き自身 じしん の音楽 おんがく の糧 かて にしていったと思 おも われる。
また、バッハはリューネブルクから少 すこ し南 みなみ に位置 いち するツェレ にもしばしば赴 おもむ き、そこの宮廷 きゅうてい 楽団 がくだん の演奏 えんそう を聴 き いていた。当時 とうじ のツェレ宮廷 きゅうてい は、楽団 がくだん 員 いん がほぼフランス人 じん で構成 こうせい され、楽譜 がくふ もフランスからの直輸入 ちょくゆにゅう に頼 たよ るなどフランス文化 ぶんか が色濃 いろこ く反映 はんえい されており、これはツェレの領主 りょうしゅ ゲオルク・ヴィルヘルム公 こう が若 わか い頃 ころ にフランスを度々 たびたび 訪問 ほうもん したことや、公 おおやけ 妃 ひ エレオノール がフランスの貴族 きぞく 出 で であることも関係 かんけい している。当時 とうじ 貧乏 びんぼう な学生 がくせい であったバッハが宮廷 きゅうてい 楽団 がくだん に出入 でい りするのは本来 ほんらい 困難 こんなん なはずだったが、リューネブルクの騎士 きし 学院 がくいん で舞踏 ぶとう 教師 きょうし を務 つと め、ツェレ宮廷 きゅうてい 楽団 がくだん の楽師 がくし も兼任 けんにん していたトーマ・ド・ラ・セルという人物 じんぶつ の紹介 しょうかい により、宮廷 きゅうてい 楽団 がくだん の演奏 えんそう を聴 き くことができたとされている[注釈 ちゅうしゃく 5] 。
ミカエル学校 がっこう には最上級 さいじょうきゅう の生徒 せいと として入学 にゅうがく していたため、おそらく1702年 ねん の復活 ふっかつ 祭 さい の前 まえ には卒業 そつぎょう していたと思 おも われている[注釈 ちゅうしゃく 1] 。金銭 きんせん 的 てき な余裕 よゆう もなく大学 だいがく へ進学 しんがく しなかったバッハは、1702年 ねん 8月 がつ にゴットフリート・クリストフ・グレーフェンハインの後任 こうにん として募集 ぼしゅう していたハレ 近郊 きんこう のザンゲルハウゼン (英語 えいご 版 ばん ) のオルガニストに応募 おうぼ した。バッハは、そこで優秀 ゆうしゅう な成績 せいせき は残 のこ したものの、採用 さいよう されることはなかった[注釈 ちゅうしゃく 6] 。
アルンシュタット~ミュールハウゼン時代 じだい (1703年 ねん -1708年 ねん )
アルンシュタット - バッハ教会 きょうかい
バッハはその後 ご 、1703年 ねん 3月から9月 がつ までの半年 はんとし 間 あいだ 、ヴァイマル 公 おおやけ ヴィルヘルム・エルンストの弟 おとうと である、ヨハン・エルンスト公 こう の小 ちい さな宮廷 きゅうてい 楽団 がくだん に就職 しゅうしょく した。バッハはヴァイオリン を担当 たんとう したが、ヨハン・エフラーの代役 だいやく でオルガン 演奏 えんそう もこなした[9] 。
同年 どうねん 6月 がつ 、アルンシュタット の新 しん 教会 きょうかい (現在 げんざい はバッハ教会 きょうかい (英語 えいご 版 ばん ) と呼 よ ばれる) に新 あたら しいオルガンが設置 せっち される。その試 ためし 奏者 そうしゃ に選 えら ばれたバッハは優 すぐ れた演奏 えんそう を披露 ひろう し[注釈 ちゅうしゃく 7] 、そのまま8月 がつ 9日 にち には同 どう 教会 きょうかい のオルガニストの地位 ちい を提示 ていじ され、8月 がつ 14日 にち には契約 けいやく が交 かわ された。教会 きょうかい での仕事 しごと は、日曜 にちよう と木曜 もくよう の朝 あさ の礼拝 れいはい で二 に 時 じ 間 あいだ ずつ、そして月曜日 げつようび の臨時 りんじ 礼拝 れいはい にコラールの伴奏 ばんそう をすることに加 くわ え、カントルの代 か わりに少年 しょうねん 聖歌 せいか 隊 たい の指導 しどう を行 おこな うことだった[9] 。この聖歌 せいか 隊 たい がらみで、ある事件 じけん が発生 はっせい する。1705年 ねん 8月 がつ 4日 にち 、バッハは聖歌 せいか 隊員 たいいん であるガイエルスバッハに顔 かお を殴 なぐ られ、またバッハ自身 じしん も剣 けん を抜 ぬ いて応戦 おうせん しようしたというものである。これは、バッハが、ガイエルスバッハのファゴットを「山羊 やぎ のファゴット」と嘲笑 ちょうしょう したのが原因 げんいん であった。この騒動 そうどう を収 おさ めるため、聖職 せいしょく 会議 かいぎ はバッハにコラール伴奏 ばんそう に加 くわ え、カンタータ等 とう の演奏 えんそう をすることも要求 ようきゅう したが、バッハは最終 さいしゅう 的 てき にこれを拒否 きょひ した。
1704年 ねん 頃 ごろ には、兄 あに ヨハン・ヤーコプのために書 か かれた『カプリッチョ 変 へん ロ長調 ちょうちょう 「最愛 さいあい なる兄 あに の旅立 たびだ ちに寄 よ せて」BWV992』 や、もう一人 ひとり の兄 あに ヨハン・クリストフのために書 か かれた『カプリッチョ ホ長調 ちょうちょう 「ヨハン・クリストフを讃 たた えて」BWV993』等 とう の作品 さくひん がある。
ブクステフーデ
1705年 ねん 10月 がつ 18日 にち 頃 ごろ 、バッハは4週間 しゅうかん の休暇 きゅうか を要求 ようきゅう し、リューベック に出掛 でか けた。アルンシュタットからリューベックまでの約 やく 400kmを徒歩 とほ で向 む かったと言 い われる。当地 とうち の聖母 せいぼ マリア教会 きょうかい (英語 えいご 版 ばん ) のオルガニストは北 きた ドイツ楽 らく 派 は のブクステフーデ が務 つと めており、彼 かれ が催 もよお した「夕 ゆう べの音楽 おんがく 」という教会 きょうかい 音楽 おんがく 会 かい を聴 き き、多 おお くを学 まな んだと思 おも われる。そして、ブクステフーデの半音 はんおん 階 かい や不協和音 ふきょうわおん の積極 せっきょく 的 てき な使用 しよう 、大胆 だいたん な転調 てんちょう を用 もち いた演奏 えんそう は、たちまちバッハを魅了 みりょう した。当時 とうじ 68歳 さい と高齢 こうれい だったブクステフーデもバッハの才能 さいのう を買 か い、自分 じぶん の娘 むすめ マリア・マルグレータとの結婚 けっこん を条件 じょうけん に後継 こうけい 者 しゃ になるよう持 も ちかけた。聖母 せいぼ マリア教会 きょうかい のオルガニストの地位 ちい は若 わか いバッハにとって破格 はかく であったが、彼 かれ はブクステフーデの申 もう し出 で を辞退 じたい した[9] 。マルグレータはバッハより10歳 さい も年上 としうえ の約 やく 30歳 さい であり、2年 ねん 前 まえ にもゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル とヨハン・マッテゾン が付帯 ふたい 条件 じょうけん を聞 き いて後任 こうにん を辞退 じたい している[9] 。
バッハがアルンシュタットに戻 もど ったのは1706年 ねん 2月 がつ 7日 にち 直前 ちょくぜん で、元々 もともと 提出 ていしゅつ していた4週間 しゅうかん の休暇 きゅうか に対 たい し、3か月 げつ 以上 いじょう も留守 るす にしていた。オルガン演奏 えんそう の代役 だいやく は従弟 じゅうてい のヨハン・エルンスト・バッハに頼 たの んでいたが、聖職 せいしょく 会議 かいぎ は彼 かれ を叱責 しっせき した。1706年 ねん 2月 がつ 21日 にち に、聖職 せいしょく 会議 かいぎ は、ブクステフーデから受 う けた影響 えいきょう であろう「耳慣 みみな れない」前衛 ぜんえい 的 てき な音楽 おんがく を演奏 えんそう すること[注釈 ちゅうしゃく 8] や、休暇 きゅうか の無断 むだん 延長 えんちょう 、聖歌 せいか 隊 たい に対 たい する指導 しどう の不備 ふび を非難 ひなん した[9] 。その後 ご の11月11日 にち の聖職 せいしょく 会議 かいぎ では、合唱 がっしょう 隊 たい の中 なか に「見知 みし らぬ婦人 ふじん 」を教会 きょうかい 内 ない に招 まね き入 い れて歌 うた わせたということも糾弾 きゅうだん された。この娘 むすめ は後 のち に最初 さいしょ の妻 つま となる遠戚 えんせき でひとつ歳上 としうえ のマリア・バルバラ であったとも考 かんが えられる[9] 。
こうして、聖職 せいしょく 会議 かいぎ や教会 きょうかい との軋轢 あつれき が深 ふか まる中 なか 、バッハは新天地 しんてんち を求 もと めた。1706年 ねん 12月、帝国 ていこく 自由 じゆう 都市 とし ミュールハウゼン の聖 せい ブラジウス教会 きょうかい のオルガニストであったヨハン・ゲオルク・アーレ (1651-1706) が死去 しきょ し、後任 こうにん の募集 ぼしゅう が行 おこな われ、バッハは1707年 ねん 4月 がつ 24日 にち の復活 ふっかつ 祭 さい の日 ひ に試験 しけん 演奏 えんそう を行 おこな った。おそらくカンタータ『キリストは死 し の絆 きずな につきたまえり』BWV4を演奏 えんそう したとされる。ミュールハウゼンはマリア・バルバラの親戚 しんせき が市 し 参事 さんじ 会員 かいいん であった縁 えん もあり、バッハは応募 おうぼ し合格 ごうかく した[9] 。同年 どうねん 5月 がつ 15日 にち には、聖 せい ブラジウス教会 きょうかい との契約 けいやく が交 か わされ、6月29日 にち にはアルンシュタットを去 さ り、ミュールハウゼンに移 うつ り住 す んだ[9] 。その報酬 ほうしゅう はアルンシュタット時代 じだい とさほど変 か わらないが、いくぶんか条件 じょうけん は良 よ かった[9] 。同 おな じく1707年 ねん にバッハはマリア・バルバラと結婚 けっこん し、10月7日 にち にアルンシュタット近 ちか くの村 むら ドルンハイムで、ローレンツ・シュタウバー牧師 ぼくし のもと、結婚式 けっこんしき をとり行 い った[注釈 ちゅうしゃく 9] 。2人 ふたり の間 あいだ に生 う まれた7人 にん の子供 こども のうち、フリーデマン とエマヌエル は高名 こうみょう な音楽家 おんがくか になった。
バッハの生活 せいかつ は決 けっ して楽 らく なものではなく、常 つね に良 よ い条件 じょうけん の職場 しょくば を探 さが し求 もと めていた。生活 せいかつ の足 た しにするために、短 みじか い曲 きょく を作曲 さっきょく してはそれを1曲 きょく 3ターラー 程度 ていど で売 う るという事 こと もしていた。その一方 いっぽう で、契約 けいやく した先々 さきざき で様々 さまざま な些細 ささい なトラブルも起 お こしていた。あるときは5つの仕事 しごと を同時 どうじ に引 ひ き受 う けていたが、5つのうち4つでトラブルを抱 かか えていた。
ミュールハウゼン時代 じだい の作品 さくひん として、『神 かみ はいにしえよりわが王 おう なり』BWV71 などの大 だい 規模 きぼ なカンタータが挙 あ げられる。
ヴァイマル時代 じだい (1708年 ねん -1717年 ねん )
1708年 ねん 6月25日 にち 、バッハは突然 とつぜん ミュールハウゼンの市 し 参事 さんじ 会 かい に辞表 じひょう を提出 ていしゅつ し、再 ふたた びヴァイマルに移 うつ り、ザクセン=ヴァイマル公国 こうこく の領主 りょうしゅ ヴィルヘルム・エルンスト公 こう の宮廷 きゅうてい オルガニスト兼 けん 宮廷 きゅうてい 楽師 がくし となった。ミュールハウゼンでは年額 ねんがく 85フローリン を得 え ていたが、ヴァイマルでは倍 ばい 近 ちか い150フローリンを得 え ることとなった。エルンスト公 こう は厳 きび しい宗教 しゅうきょう 政策 せいさく を推進 すいしん し音楽 おんがく の保護 ほご につとめ、宮廷 きゅうてい 楽団 がくだん の質 しつ を向上 こうじょう させており、その一環 いっかん として、ヴァイオリン奏者 そうしゃ ヨハン・パウル・フォン・ヴェストホフを招聘 しょうへい したり、郊外 こうがい のヴィルヘルム城 じょう にオペラ劇場 げきじょう を建設 けんせつ したりもしていた。多 おお くのオルガン曲 きょく はこの時期 じき の作品 さくひん である。また、この時期 じき にアントニオ・ヴィヴァルディ の協奏曲 きょうそうきょく 様式 ようしき を取 と り入 い れている。
しかしバッハはここでの待遇 たいぐう にもあまり満足 まんぞく しておらず、1712年 ねん に死去 しきょ したオルガニスト、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ツァハウの後任 こうにん として1713年 ねん 12月に募集 ぼしゅう されていたハレ の聖母 せいぼ 教会 きょうかい オルガニストに応募 おうぼ した。同年 どうねん 12月 がつ 13日 にち 無事 ぶじ 採用 さいよう されたものの、ザクセン=ヴァイマル公 こう が大幅 おおはば な昇給 しょうきゅう と昇進 しょうしん を提示 ていじ して慰留 いりゅう されたことで、ヴァイマルに留 と まることとなった。1714年 ねん 3月 がつ には楽師 がくし 長 ちょう に昇進 しょうしん 、毎月 まいつき 1曲 きょく のカンタータ の作曲 さっきょく 及 およ び上演 じょうえん が義務付 ぎむづ けられた。1717年 ねん 9月 がつ 、バッハは楽師 がくし 長 ちょう のヴァイオリニスト、ジャン・バプティスト・ヴォリュミエ の招待 しょうたい に応 おう じてルイ・マルシャン との即興 そっきょう 演奏 えんそう の対決 たいけつ のためにドレスデン を訪 おとず れていたが、マルシャンは姿 すがた を現 あらわ さなかった。
最終 さいしゅう 的 てき には1717年 ねん 、アンハルト=ケーテン侯 こう 国 こく 宮廷 きゅうてい 楽長 がくちょう として招聘 しょうへい され、ヴァイマルを離 はな れることとなった。この時 とき ザクセン=ヴァイマル公 こう は辞職 じしょく を承諾 しょうだく せず、このトラブルによってバッハは同年 どうねん 11月 がつ 6日 にち から約 やく 1ヶ月 かげつ 間 あいだ 投獄 とうごく され、その後 ご 12月 がつ 2日 にち に釈放 しゃくほう と共 とも に解任 かいにん された[22] 。問題 もんだい となったのはバッハの契約 けいやく 問題 もんだい で主家 しゅか の許可 きょか なく他 ほか の契約 けいやく をしたためといわれる。
ケーテン時代 じだい (1717年 ねん -1723年 ねん )
1717年 ねん 、バッハはケーテン に移 うつ り、アンハルト=ケーテン侯 こう 国 こく の宮廷 きゅうてい 楽長 がくちょう となった。当時 とうじ のアンハルト=ケーテン侯 こう 国 こく は音楽 おんがく に理解 りかい のあるアンハルト=ケーテン侯 こう レオポルト の統治 とうち 下 か にあり、バッハがもらった400ターラーという年俸 ねんぽう も前任 ぜんにん 者 しゃ シュトリッカーの倍額 ばいがく であった。こうした恵 めぐ まれた環境 かんきょう の中 なか で、数 すう 多 おお くの世俗 せぞく 音楽 おんがく の名作 めいさく を作曲 さっきょく した。これにはアンハルト=ケーテン侯 こう 国 こく がカルヴァン派 は を信奉 しんぽう していたため、教会 きょうかい 音楽 おんがく を作 つく る必要 ひつよう がなかったことも関係 かんけい している[25] 。しかし、このような環境 かんきょう 下 か でもレオポルトの誕生 たんじょう 日 び 12月 がつ 10日 とおか と元旦 がんたん 1月 がつ 1日 にち の年 とし 2回 かい は、教会 きょうかい カンタータ が演奏 えんそう されたとされている。
1718年 ねん 5月9日 にち 、バッハはレオポルト候 こう と5人 にん の楽師 がくし とともに、チェンバロ 持参 じさん のうえ、ボヘミア の保養 ほよう 地 ち カールスバートに行 い っている。また1718年 ねん 秋 あき には、バッハはレオポルト侯 こう の命 いのち により二 に 段 だん 鍵盤 けんばん のチェンバロをベルリン のチェンバロ製作 せいさく 者 しゃ ミヒャエル・ミートケに注文 ちゅうもん し、それを引 ひ き取 と るために1719年 ねん 3月 がつ にベルリンを訪 おとず れていることが分 わ かっている。1719年 ねん 5月、ハレに帰郷 ききょう し家族 かぞく とともに過 すご していたヘンデル に、そこから4マイル離 はな れたケーテンにいたバッハが会 あ いに訪 おとず れたが、到着 とうちゃく した日 ひ にはヘンデルが出発 しゅっぱつ した後 のち であったため会 あ うことができなかった。1720年 ねん 5月、領主 りょうしゅ レオポルト 侯 ほう に随行 ずいこう し、再 ふたた び訪 おとず れていたカールスバートへの2ヶ月 かげつ 間 あいだ の旅行 りょこう 中 ちゅう に妻 つま が急死 きゅうし する不幸 ふこう に見舞 みま われた。バッハが帰郷 ききょう した時 とき には、既 すで に妻 つま が7月 がつ 7日 にち に埋葬 まいそう された後 のち であった。
1720年 ねん 9月 がつ 12日 にち 、ハンブルク の聖 せい ヤコビ教会 きょうかい のオルガニスト、ハインリヒ・フリーゼが死去 しきょ し、バッハはその後任 こうにん を決 き めるための11月28日 にち に行 おこな われた試験 しけん 演奏 えんそう に応募 おうぼ していた。この聖 せい ヤコビ教会 きょうかい のオルガンはアルプ・シュニットガー作 さく の大 だい オルガンで、4段 だん 鍵盤 けんばん 、60ストップもある楽器 がっき であった。しかし、彼 かれ は12月10日 にち のレオポルト候 こう の誕生 たんじょう 日 び の準備 じゅんび のため、ハンブルクに滞在 たいざい することができなかったため、それに先立 さきだ ち聖 せい カタリナ教会 きょうかい で2時間 じかん 以上 いじょう に及 およ ぶオルガン演奏 えんそう 会 かい を行 おこな った。バッハの演奏 えんそう でも特 とく に即興 そっきょう 演奏 えんそう は、当時 とうじ 聖 せい カタリナ教会 きょうかい オルガニストだったラインケン や市 し 参事 さんじ 会員 かいいん 、市 し の有力 ゆうりょく 者 しゃ たちを含 ふく む聴衆 ちょうしゅう を驚 おどろ かせた。バッハはこの時 とき 、コラール『バビロンの川 かわ のほとりにて』の主題 しゅだい に基 もと づいて即興 そっきょう 演奏 えんそう を行 おこな い、聴衆 ちょうしゅう を熱狂 ねっきょう させた。そして、厳格 げんかく なことで知 し られるラインケンは次 つぎ のような賛辞 さんじ を送 おく っている。
「私 わたし は、この芸術 げいじゅつ は死 し に絶 た えたと思 おも っておりましたが、今 いま それがあなたの中 なか に生 い きているのを目 ま のあたりにしました。」
このような評価 ひょうか も相 あい まってバッハの採用 さいよう が決定 けってい し、ケーテンにその旨 むね が伝 つた えられたが、12月12日 にち の委員 いいん 会 かい にもバッハの回答 かいとう は届 とど かず、その後 ご 結局 けっきょく バッハはこの申 もう し出 で を断 た ってしまう。申 もう し出 で を断 ことわ った直接 ちょくせつ の理由 りゆう は分 わ かっていないが、バッハの代 か わりにヨハン・ヨアヒム・ハイトマンという人物 じんぶつ が4千 せん マルクという多額 たがく の寄付 きふ をして教会 きょうかい の地位 ちい を得 え ている。
1721年 ねん 、宮廷 きゅうてい ソプラノ歌手 かしゅ のアンナ・マクダレーナ・ヴィルケ と再婚 さいこん した。同年 どうねん 12月 がつ 3日 にち にレオポルト候 こう の許可 きょか を得 え て、バッハの自宅 じたく でバッハとの結婚式 けっこんしき が行 おこな われた。アンナは、有能 ゆうのう な音楽家 おんがくか で結婚 けっこん 後 ご もケーテン宮廷 きゅうてい につとめ、夫 おっと の半額 はんがく の200ターラーにも及 およ ぶ収入 しゅうにゅう を得 え ていた。彼女 かのじょ は、夫 おっと の仕事 しごと を助 たす け、作品 さくひん の写 うつし 譜 ふ などもしているだけでなく、バッハの作品 さくひん とされていた曲 きょく のいくつかは彼女 かのじょ の作曲 さっきょく であることが確実視 かくじつし されている[35] 。有名 ゆうめい な『アンナ・マクダレーナ・バッハのための音楽 おんがく 帳 ちょう 』は彼女 かのじょ のためにバッハが贈 おく った楽譜 がくふ 帳 ちょう で、『フランス組曲 くみきょく 』の最初 さいしょ の5曲 きょく 等 とう を含 ふく む第 だい 1の曲 きょく 集 しゅう は1722年 ねん に、『パルティータ』等 とう を含 ふく む第 だい 2の曲 きょく 集 しゅう は1725年 ねん に贈 おく られている。特 とく に、第 だい 2の曲 きょく 集 しゅう にはマグレダーナが自由 じゆう に記入 きにゅう をしており、バッハの家庭 かてい で演奏 えんそう されたと思 おも われる曲 きょく が折々 おりおり に書 か き込 こ まれている。バッハは長男 ちょうなん のフリーデマンのためにも1720年 ねん 1月 がつ 22日 にち から『クラヴィーア小曲 しょうきょく 集 しゅう 』を書 か き始 はじ めており、ここには『平均 へいきん 律 りつ クラヴィーア曲 きょく 集 しゅう 』の初期 しょき 稿 こう と、『インヴェンションとシンフォニア 』の初期 しょき 稿 こう が見 み られる。。
アンナ・マクダレーナとの間 あいだ に生 う まれた13人 にん の子 こ どものうち、多 おお くは幼 おさな いうちに世 よ を去 さ っている。しかし末子 まっし クリスティアン は兄弟 きょうだい の中 なか では音楽家 おんがくか として最 もっと も社会 しゃかい 的 てき に成功 せいこう し、イングランド王妃 おうひ 専属 せんぞく の音楽家 おんがくか となった他 ほか 、モーツァルト に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた。彼 かれ らの他 ほか にも、バッハには成人 せいじん した4人 にん の息子 むすこ がいるが、みな音楽家 おんがくか として活動 かつどう した(下記 かき )。バッハの再婚 さいこん からわずか8日 にち 後 ご の12月11日 にち 、レオポルト候 こう も従妹 じゅうまい のアンハルト=ベルンブルク公 こう 女 おんな フリーデリカと結婚 けっこん した。この妃 ひ はバッハから「音楽 おんがく 嫌 ぎら い amusa」と呼 よ ばれており、この結婚 けっこん の影響 えいきょう もあってか1720年 ねん 頃 ごろ からレオポルトの音楽 おんがく に対 たい する出費 しゅっぴ は減少 げんしょう し、ケーテンの宮廷 きゅうてい 楽団 がくだん の規模 きぼ も縮小 しゅくしょう されるようになった。
ライプツィヒ時代 じだい (1723年 ねん -1750年 ねん )
ライプツィヒ ・聖 ひじり トーマス教会 きょうかい 前 まえ に立 た つバッハ像 ぞう
バッハの墓 はか (ライプツィヒ ・聖 ひじり トーマス教会 きょうかい 内部 ないぶ )
1723年 ねん 、バッハはライプツィヒ の聖 ひじり トーマス教会 きょうかい のカントル 「トーマスカントル 」に就任 しゅうにん する。
1722年 ねん 6月 がつ 5日 にち に、トマス・カントル、ヨハン・クーナウ が死去 しきょ し、後任 こうにん の募集 ぼしゅう が行 おこな われた。まず、候補 こうほ として挙 あ がった人物 じんぶつ が、市民 しみん の人気 にんき を博 はく し知名度 ちめいど も高 たか かったテレマン だったが、彼 かれ はラテン語 らてんご を教 おし えることを拒 こば み、かつハンブルクでの昇給 しょうきゅう が約束 やくそく されたため、辞退 じたい した。バッハの名 な は同年 どうねん 12月 がつ 21日 にち に市 し 参事 さんじ 会 かい の議事 ぎじ 録 ろく に登場 とうじょう するが、この時点 じてん で既 すで に8人 にん の名 な が挙 あ げられていた。その次 つぎ に、候補 こうほ として挙 あ がった人物 じんぶつ が、ダルムシュタットの宮廷 きゅうてい 学長 がくちょう クリストフ・グラウプナー で、1723年 ねん 1月 がつ 17日 にち に2曲 きょく のカンタータを上演 じょうえん し大 だい 成功 せいこう を収 おさ めたが、その時 とき の主君 しゅくん ヘッセン公 こう が解雇 かいこ を拒否 きょひ し昇給 しょうきゅう をして彼 かれ を引 ひ き留 と めたため、同年 どうねん 3月 がつ 23日 にち に彼 かれ も辞退 じたい した。その次 つぎ に、バッハとその他 た に、メンゼブルクの宮廷 きゅうてい オルガニスト、ゲオルク・フリードリヒ・カウフマン と、ライプツィヒの新 しん 教会 きょうかい オルガニスト、ゲオルク・バルタザル・ショットの3人 にん の候補 こうほ が挙 あ がるが、3人 にん とも学科 がっか の授業 じゅぎょう に難色 なんしょく を示 しめ しており、4月 がつ 9日 にち の議事 ぎじ 録 ろく には「最良 さいりょう の人 ひと が得 え られなければ、中 なか くらいのものでも採用 さいよう しなければならない」という意見 いけん も上 あ がっている。市長 しちょう ランゲは4月 がつ 22日 にち の正式 せいしき な選抜 せんばつ 会議 かいぎ にて、2月 がつ 7日 にち に行 おこな われたバッハのクラヴィーア演奏 えんそう を称賛 しょうさん しているが、バッハが採用 さいよう された最大 さいだい の理由 りゆう は教理 きょうり 問答 もんどう とラテン文法 ぶんぽう の授業 じゅぎょう を担当 たんとう することに同意 どうい した点 てん だった。
こうして、5月5日 にち 正式 せいしき の契約 けいやく が結 むす ばれ、15日 にち には四半期 しはんき 分 ぶん の給料 きゅうりょう が支払 しはら われた。バッハにライプツィヒ市 し の音楽 おんがく 監督 かんとく にもなり、教会 きょうかい 音楽 おんがく を中心 ちゅうしん とした幅広 はばひろ い創作 そうさく 活動 かつどう を続 つづ けた。ルター派 は の音楽家 おんがくか として活動 かつどう していたが、王 おう のカトリックへの宗旨 しゅうし 変 か えに応 おう じ、宮廷 きゅうてい 作曲 さっきょく 家 か の職 しょく を求 もと めカトリックのミサ曲 きょく も作曲 さっきょく した。
1729年 ねん 1月 がつ にはハレ滞在 たいざい 中 ちゅう のヘンデルに長男 ちょうなん フリーデマンを派遣 はけん 。ヘンデルのライプツィヒ招待 しょうたい を申 もう し出 で たが断 ことわ られた。結局 けっきょく 、バッハはヘンデルとの面会 めんかい を強 つよ く望 のぞ んでいたものの、ヘンデルとの面会 めんかい は生涯 しょうがい 実現 じつげん することはなかった。当時 とうじ のヨーロッパにおいては、ヘンデルはバッハよりもはるかに有名 ゆうめい であり、バッハはヘンデルの名声 めいせい を強 つよ く意識 いしき していたが、ヘンデルの方 ほう はバッハをあまり意識 いしき していなかったと言 い われる。ただし、ゲオルク・フィリップ・テレマンやヨハン・マッテゾン 、クリストフ・グラウプナー など、バッハとヘンデルの両 りょう 名 な と交流 こうりゅう のあった作曲 さっきょく 家 か は何 なん 名 めい か存在 そんざい している。1735年 ねん の末 すえ には、自身 じしん と一族 いちぞく の53名 めい の男子 だんし について番号 ばんごう 付 づ けで記 しる した「音楽家 おんがくか 系 けい バッハ一族 いちぞく の起源 きげん 」と題 だい した年代 ねんだい 記 き を残 のこ している。
1736年 ねん にはザクセン の宮廷 きゅうてい 作曲 さっきょく 家 か に任命 にんめい された。1747年 ねん にはエマヌエル が仕 つか えていたベルリンのフリードリヒ大王 だいおう の宮廷 きゅうてい を、長男 ちょうなん のヴィルヘルム・フリーデマン を随伴 ずいはん させて訪問 ほうもん 、これは『音楽 おんがく の捧 ささ げもの 』が生 う まれるきっかけになった。
しかし1749年 ねん 5月 がつ 末 まつ 、バッハは脳卒中 のうそっちゅう で倒 たお れた。聖 ひじり トーマス教会 きょうかい の楽長 がくちょう という高 たか い地位 ちい を妬 ねた む者 もの たちが働 はたら きかけ、市 し 参事 さんじ 会 かい は後任 こうにん にゴットロープ・ハラーを任命 にんめい した。さらに、以前 いぜん より患 わずら っていた内 うち 障 さわ 眼 め が悪化 あっか し視力 しりょく もほとんど失 うしな っていた。しかしバッハは健康 けんこう を回復 かいふく したため、ハラーの仕事 しごと はお預 あづ けとなった[45] 。
翌 よく 1750年 ねん 3月 がつ 、イギリス の高名 こうみょう な眼科 がんか 医 い ジョン・テイラー がドイツ旅行 りょこう の最中 さいちゅう ライプツィヒを訪 おとず れた[45] 。バッハは3月 がつ 末 まつ と4月 がつ 半 なか ばに2度 ど にわたって手術 しゅじゅつ を受 う けた。手術 しゅじゅつ 後 ご 、テイラーは新聞 しんぶん 記者 きしゃ を集 あつ めて「手術 しゅじゅつ は成功 せいこう し、バッハの視力 しりょく は完全 かんぜん に回復 かいふく した」と述 の べた[45] 。しかし実際 じっさい には、手術 しゅじゅつ は失敗 しっぱい していた。テイラー帰国 きこく 後 ご にバッハを診察 しんさつ したライプツィヒ大学 だいがく 医学部 いがくぶ 教授 きょうじゅ によると、視力 しりょく の回復 かいふく どころか炎症 えんしょう など後遺症 こういしょう が起 お こり、これを抑 おさ えるための投薬 とうやく などが必要 ひつよう になったという[45] 。
2度 ど の手術 しゅじゅつ に後遺症 こういしょう 、薬品 やくひん 投与 とうよ などの治療 ちりょう はすでに高齢 こうれい なバッハの体力 たいりょく を奪 うば い[45] 、その後 ご は病床 びょうしょう に伏 ふ し、7月 がつ 28日 にち 午後 ごご 8時 じ 40分 ふん に65歳 さい でこの世 よ を去 さ った。なお、後年 こうねん にヘンデル も同 どう 医師 いし による眼 め 疾患 しっかん の手術 しゅじゅつ を受 う けたが失敗 しっぱい に終 お わっている[45] 。
家族 かぞく
バッハは生涯 しょうがい に2度 ど 結婚 けっこん し、十 じゅう 一 いち 男 なん 九 きゅう 女 じょ の20人 にん の子供 こども をもうけたが、10人 にん は夭逝 ようせい し、成長 せいちょう したのは男子 だんし 六 ろく 人 にん と女子 じょし 四 よん 人 にん の10人 にん に過 す ぎなかった。
最初 さいしょ の結婚 けっこん は1707年 ねん にヴァイマルでマリア・バルバラと結婚 けっこん したもので、1720年 ねん にマリア・バルバラが死去 しきょ するまでの間 あいだ にカタリーナ・ドロテーア、ヴィルヘルム・フリーデマン、マリーア・ゾフィア、ヨハン・クリストフ、カール・フィリップ・エマヌエル、ヨハン・ゴットフリート・ベルンハルト 、レオポルト・アウグストゥスの五 ご 男 なん 二女 じじょ をもうけた[47] 。このうちマリーア・ゾフィア、ヨハン・クリストフ、レオポルト・アウグストゥスの3人 にん は夭逝 ようせい したものの、長男 ちょうなん のヴィルヘルム・フリーデマン (Wilhelm Friedemann、1710 - 1784、通称 つうしょう 「ハレのバッハ」)と次男 じなん のカール・フィリップ・エマヌエル (Carl Philipp Emanuel または C.P.E.、1714 - 1788、通称 つうしょう 「ベルリンのバッハ」、「ハンブルクのバッハ」) は音楽家 おんがくか として大成 たいせい した。
1720年 ねん にマリア・バルバラが死去 しきょ すると、同年 どうねん ケーテンでアンナ・マクダレーナ・ヴィルケ と結婚 けっこん した。アンナ・マクダレーナとの間 あいだ にはクリスティーナ・ゾフィア・ヘンリエッタ、ゴットフリート・ハインリヒ (Gottfried Heinrich、1724 - 1763) 、クリスティアン・ゴットリープ、エリザベト・ユリアーナ・フレデリカ、エルネストゥス・アンドレアス、レジーナ・ヨハンナ、クリスティーナ・ベネディクタ・ルイーザ、クリスティーナ・ドロテーア、ヨハン・クリストフ・フリードリヒ、ヨハン・アウグスト・アブラハム、ヨハン・クリスティアン、ヨハンナ・カロリーナ、レジーナ・スザンナの六 ろく 男 なん 七 なな 女 じょ をもうけた[48] 。このうちクリスティーナ・ゾフィア・ヘンリエッタ、クリスティアン・ゴットリープ、エルネストゥス・アンドレアス、レジーナ・ヨハンナ、クリスティーナ・ベネディクタ・ルイーザ、クリスティーナ・ドロテーア、ヨハン・アウグスト・アブラハムの7人 にん は夭逝 ようせい したが、ヨハン・クリストフ・フリードリヒ (Johann Christoph Friedrich、1732 - 1795、通称 つうしょう 「ビュッケンブルクのバッハ」)と、ヨハン・クリスティアン (Johann Christian、1735 - 1782、通称 つうしょう 「ロンドンのバッハ」) は音楽家 おんがくか として大成 たいせい した。
また、架空 かくう の息子 むすこ (?)も存在 そんざい する。
作品 さくひん
ヨハン・ゼバスティアン・バッハは、幅広 はばひろ いジャンルにわたって作曲 さっきょく を行 おこな い、オペラ 以外 いがい のあらゆる曲 きょく 種 しゅ を手 て がけた。その様式 ようしき は、通 つう 奏 そう 低音 ていおん による和声 わせい の充填 じゅうてん を基礎 きそ とした対位法 たいいほう 的 てき 音楽 おんがく という、バロック音楽 おんがく に共通 きょうつう して見 み られるものであるが、特 とく に対位法 たいいほう 的 てき 要素 ようそ を重 おも んじる傾向 けいこう は強 つよ く、当時 とうじ までに存在 そんざい した音楽 おんがく 語法 ごほう を集大成 しゅうたいせい し、さらにそれを極限 きょくげん まで洗練 せんれん 進化 しんか させたものである。したがって、バロック時代 じだい 以前 いぜん に主流 しゅりゅう であった対位法 たいいほう 的 てき なポリフォニー音楽 おんがく と古典 こてん 派 は 時代 じだい 以降 いこう 主流 しゅりゅう となった和声 わせい 的 てき なホモフォニー 音楽 おんがく という2つの音楽 おんがく スタイルにまたがり、結果 けっか 的 てき には音楽 おんがく 史上 しじょう の大 おお きな分水嶺 ぶんすいれい のような存在 そんざい となっている[49] 。
バッハはドイツを離 はな れたことこそなかったが、勉強 べんきょう 熱心 ねっしん であらゆる伝統 でんとう の幅広 はばひろ い音楽 おんがく を吸収 きゅうしゅう した。フランドル楽 らく 派 は の声楽 せいがく ポリフォニー、ジョヴァンニ・ガブリエリ からヴィヴァルディ に至 いた るまでのヴェネツィア風 ふう の協奏曲 きょうそうきょく 様式 ようしき 、バロック音楽 おんがく の基本 きほん である通 つう 奏 そう 低音 ていおん と独唱 どくしょう によるモノディー の原理 げんり 、フランス風 ふう 序曲 じょきょく やイタリア協奏曲 きょうそうきょく 等 とう の各国 かっこく の諸 しょ 形式 けいしき 、組曲 くみきょく や変奏曲 へんそうきょく といった様々 さまざま な様式 ようしき を自身 じしん の音楽 おんがく に反映 はんえい した。更 さら には、オルガニスト のブクステフーデ やラインケン、ヴァイオリン奏者 そうしゃ のピゼンデル 、フルート奏者 そうしゃ のビュファルダン、リュート奏者 そうしゃ のヴァイスといった同 どう 世代 せだい の音楽家 おんがくか たちからの影響 えいきょう を受 う けて、バッハの楽曲 がっきょく は誕生 たんじょう した[注釈 ちゅうしゃく 10] 。
とりわけ、古典 こてん 派 は のソナタ にも比 ひ すべき論理 ろんり 性 せい と音楽 おんがく 性 せい を持 も つフーガ の巨匠 きょしょう として名高 なだか い。
現代 げんだい においてもなお新鮮 しんせん さを失 うしな うことなく、ポップス やジャズ に至 いた るまで、あらゆる分野 ぶんや の音楽 おんがく に応用 おうよう され、多 おお くの人々 ひとびと に刺激 しげき を与 あた え続 つづ けている。
ヨハン・ゼバスティアン・バッハの作品 さくひん はシュミーダー番号 ばんごう (BWV 、「バッハ作品 さくひん 目録 もくろく 」 Bach Werke Verzeichnis の略 りゃく )によって整理 せいり されている。「バッハ作品 さくひん 目録 もくろく 」は、1950年 ねん にヴォルフガング・シュミーダー によって編纂 へんさん され、バッハの全 すべ ての作品 さくひん が分野 ぶんや 別 べつ に配列 はいれつ されている。また、1951年 ねん からドイツのヨハン・ゼバスティアン・バッハ研究所 けんきゅうじょ (ゲッティンゲン )で「新 しん バッハ全集 ぜんしゅう 」の編纂 へんさん が開始 かいし され、1953年 ねん にバッハアルヒーフ(ライプツィヒ )もこの編纂 へんさん に参加 さんか するが、10年 ねん で終 お わると予想 よそう されていた編纂 へんさん 作業 さぎょう はドイツの東西 とうざい 分断 ぶんだん などの事情 じじょう で難航 なんこう し、「新 しん バッハ全集 ぜんしゅう 」103巻 かん が完成 かんせい したのは2007年 ねん のことであった。「新 しん バッハ全集 ぜんしゅう 」には1100の作品 さくひん が収 おさ められている。現在 げんざい も作品 さくひん の整理 せいり が継続 けいぞく 中 ちゅう である。
管弦楽 かんげんがく ・協奏曲 きょうそうきょく
器楽 きがく だけによる合奏 がっそう 曲 きょく では、ブランデンブルク協奏曲 きょうそうきょく 、管弦楽 かんげんがく 組曲 くみきょく 、複数 ふくすう のヴァイオリン協奏曲 きょうそうきょく 、チェンバロ協奏曲 きょうそうきょく などがある。特 とく にブランデンブルク協奏曲 きょうそうきょく や管弦楽 かんげんがく 組曲 くみきょく には、G線上 せんじょう のアリア のもととなる楽章 がくしょう など、広 ひろ く親 した しまれている作品 さくひん が多 おお い。
なお、4台 だい のチェンバロのための協奏曲 きょうそうきょく BWV1065は、アントニオ・ヴィヴァルディの協奏曲 きょうそうきょく (協奏曲 きょうそうきょく 集 しゅう 『調和 ちょうわ の霊感 れいかん 』Op.3の10、4つのヴァイオリンとチェロのための協奏曲 きょうそうきょく 」の編曲 へんきょく である。
室内楽 しつないがく 曲 きょく
室内楽 しつないがく 曲 きょく 作品 さくひん はそれまで伴奏 ばんそう として扱 あつか われてきたチェンバロの右手 みぎて パートを作曲 さっきょく することによって、旋律 せんりつ 楽器 がっき と同等 どうとう 、もしくはそれを上回 うわまわ る重要 じゅうよう 性 せい を与 あた え、古典 こてん 派 は の二重奏 にじゅうそう ソナタへの道 みち を開 ひら いたヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ、フルートとチェンバロのためのソナタ、ヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのためのソナタなどが作曲 さっきょく された。なお、バッハの場合 ばあい の「ソナタ 」とはいわゆるバロック・ソナタ(大 だい 部分 ぶぶん が緩 なる ・急 きゅう ・緩 なる ・急 きゅう の4楽章 がくしょう からなる教会 きょうかい ソナタ のスタイルをとる)であり、古典 こてん 派 は 以後 いご の「ソナタ 」より簡潔 かんけつ な形 かたち である。
器楽 きがく 曲 きょく
オルガン曲 きょく
バッハの器楽 きがく 曲 きょく の中 なか でもオルガン曲 きょく は歴史 れきし 的 てき に重要 じゅうよう である[51] 。生前 せいぜん のバッハはオルガンの名手 めいしゅ として著名 ちょめい で、その構造 こうぞう にも精通 せいつう していた。また、聴覚 ちょうかく に優 すぐ れ、教会堂 きょうかいどう やホールの音響 おんきょう 効果 こうか を精緻 せいち に判別 はんべつ できた。
そのため、各地 かくち でオルガンが新造 しんぞう されたり改造 かいぞう された際 さい にはたびたび楽器 がっき の鑑定 かんてい に招 まね かれ、的確 てきかく なアドバイスと併 あわ せて即興 そっきょう 演奏 えんそう をはじめとした名 めい 技 わざ を披露 ひろう し、聴衆 ちょうしゅう に圧倒的 あっとうてき な印象 いんしょう を与 あた えたと伝 つた えられている。『故人 こじん 略伝 りゃくでん 』が伝 つた える有名 ゆうめい な逸話 いつわ として、1717年 ねん 、ドレスデンにおいてフランス の神童 しんどう と謳 うた われたルイ・マルシャンと対戦 たいせん することになった際 さい 、マルシャンはバッハの余 あま りに卓越 たくえつ した演奏 えんそう に恐 おそ れをなして対戦 たいせん 当日 とうじつ に逃 に げ出 だ し、バッハの不戦勝 ふせんしょう となったという[52] 。
バッハのオルガン作品 さくひん は、コラール に基 もと づいた「コラール編曲 へんきょく 」と、コラールに基 もと づかない「自由 じゆう 作品 さくひん 」(前奏 ぜんそう 曲 きょく 、トッカータ やフーガなど)の2つに分類 ぶんるい される。現存 げんそん する主要 しゅよう 作品 さくひん は、30曲 きょく 余 あま りの自由 じゆう 作品 さくひん と、コラール前奏 ぜんそう 曲 きょく の4つの集成 しゅうせい (オルガン小曲 しょうきょく 集 しゅう を含 ふく む)、いくつかのコラール変奏曲 へんそうきょく である。
クラヴィーア曲 きょく
バッハの時代 じだい には、ピアノ はまだ普及 ふきゅう するに至 いた っておらず、バッハのクラヴィーア(オルガン以外 いがい の鍵盤 けんばん 楽器 がっき の総称 そうしょう )作品 さくひん は、概 おおむ ねチェンバロやクラヴィコード のために書 か かれたものとされている。その多 おお くはケーテンの宮廷 きゅうてい 楽長 がくちょう 時代 じだい に何 なん らかの起源 きげん を持 も ち、息子 むすこ や弟子 でし の教育 きょういく に対 たい する配慮 はいりょ も窺 うかが えるものとなっている。
平均 へいきん 律 りつ クラヴィーア曲 きょく 集 しゅう (Das wohltemperierte Klavier 独 どく )(全 ぜん 2巻 かん 、第 だい 1巻 かん BWV846‐BWV869、第 だい 2巻 かん BWV870‐BWV893) - 長短 ちょうたん 24調 ちょう による48の前奏 ぜんそう 曲 きょく とフーガ。ベートーヴェン のソナタがピアノの新約 しんやく 聖書 せいしょ と称 しょう されるが、このバッハの平均 へいきん 律 りつ クラヴィーア曲 きょく 集 しゅう はピアノの旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ と称 しょう される。音楽 おんがく 史上 しじょう 最 もっと も重要 じゅうよう な作品 さくひん 群 ぐん のひとつである。
クラヴィーア練習 れんしゅう 曲 きょく 集 しゅう (全 ぜん 4巻 かん 、第 だい 1巻 かん 「パルティータ 」BWV825‐BWV830、第 だい 2巻 かん 「フランス風 ふう 序曲 じょきょく 」BWV831及 およ び「イタリア協奏曲 きょうそうきょく 」BWV971、第 だい 3巻 かん 「前奏 ぜんそう 曲 きょく とフーガ変 へん ホ長調 ちょうちょう 」BWV552、コラール編曲 へんきょく BWV669‐689及 およ び「デュエット 」BWV802‐805、第 だい 4巻 かん 「ゴルトベルク変奏曲 へんそうきょく 」BWV988) - バッハが生前 せいぜん に出版 しゅっぱん した鍵盤 けんばん 作品 さくひん 集 しゅう 。第 だい 1巻 かん 、第 だい 2巻 かん および第 だい 4巻 かん は手 て 鍵盤 けんばん のための作品 さくひん であるが、第 だい 3巻 かん には足 あし 鍵盤 けんばん つきのオルガン曲 きょく が多 おお く含 ふく まれている。
その他 た 器楽 きがく 曲 きょく
旋律 せんりつ 楽器 がっき のための無 む 伴奏 ばんそう 作品 さくひん 集 しゅう には無 む 伴奏 ばんそう ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ 、無 む 伴奏 ばんそう チェロ組曲 くみきょく の2つがある(この他 ほか 、無 む 伴奏 ばんそう フルート のためのパルティータ が1曲 きょく ある)。これらは、それぞれの楽器 がっき の能力 のうりょく の限界 げんかい に迫 せま って多 た 声 こえ 的 てき に書 か かれた作品 さくひん 群 ぐん であり、それぞれの楽器 がっき の演奏 えんそう 者 しゃ にとっては聖典 せいてん 的 てき な存在 そんざい となっている。特 とく に、無 む 伴奏 ばんそう ヴァイオリンのためのパルティータ第 だい 2番 ばん の終曲 しゅうきょく にあたる「シャコンヌ 」は人気 にんき の高 たか い作品 さくひん で、オーケストラ 用 よう やピアノ用 よう など、19世紀 せいき 以降 いこう 様々 さまざま な編曲 へんきょく が行 おこな われている。
また、バッハは当時 とうじ 廃 すた れつつあったリュート にも強 つよ い関心 かんしん を示 しめ し、複数 ふくすう の楽曲 がっきょく (BWV 995-1000、1006a)を残 のこ した。ただし、近年 きんねん の研究 けんきゅう では、BWV 996 などいくつかの作品 さくひん は、ガット弦 つる を張 は った鍵盤 けんばん 楽器 がっき ラウテンヴェルク のために書 か かれたと推定 すいてい されている。これらの作品 さくひん は、今日 きょう 、20世紀 せいき に復活 ふっかつ したバロックリュートで弾 ひ かれるほか、クラシックギター 向 む けの編曲 へんきょく 作品 さくひん も広 ひろ く演奏 えんそう されている。
声楽 せいがく 曲 きょく
バッハはその音楽 おんがく 的 てき 経歴 けいれき の大 だい 部分 ぶぶん を教会 きょうかい 音楽家 おんがくか として送 おく り、宗教 しゅうきょう 的 てき 声楽 せいがく 曲 きょく はバッハの作品 さくひん 群 ぐん の中 なか でも重要 じゅうよう な位置 いち を占 し める。特 とく に、ライプツィヒ時代 じだい の初期 しょき 数 すう 年間 ねんかん においては、毎日 まいにち 曜日 ようび の礼拝 れいはい に合 あ わせて年間 ねんかん 50~60曲 きょく ほど必要 ひつよう となるカンタータをほぼ毎週 まいしゅう 作曲 さっきょく 、上演 じょうえん するという、驚異 きょうい 的 てき な活動 かつどう を行 おこな った。
ちなみにバッハは、宗教 しゅうきょう 曲 きょく の清書 せいしょ 自筆 じひつ 譜 ふ の冒頭 ぼうとう に「JJ」(羅 ら :Jesu juva!=イエスよ、助 たす けたまえ)と書 か き、最後 さいご に「SDG」(羅 ら :Soli Deo Gloria! =ただ神 かみ のみに栄光 えいこう を)と書 か き込 こ むことを常 つね としていた。
今日 きょう 残 のこ されているのは、ドイツ語 ご による約 やく 200曲 きょく の教会 きょうかい カンタータ(本来 ほんらい は5年 ねん 分 ぶん :約 やく 250曲 きょく で約 やく 50曲 きょく がすでに紛失 ふんしつ )、2つの受難 じゅなん 曲 きょく (3番目 ばんめ のマルコ受難 じゅなん 曲 きょく のレチタティーヴォが紛失 ふんしつ )と3つのオラトリオ 、6曲 きょく のモテット 、ラテン語 らてんご によるマニフィカト1曲 きょく 、小 しょう ミサ曲 きょく (ルーテルミサ)4曲 きょく と大 だい ミサ曲 きょく 1曲 きょく が主要 しゅよう なものである(ドイツ語 ご 作品 さくひん では、ルター派 は の伝統 でんとう に立脚 りっきゃく したコラール が音楽 おんがく 的 てき な基礎 きそ となっていることが多 おお い)。
また、それとは別 べつ に、宗教 しゅうきょう 的 てき な題材 だいざい によらない約 やく 20曲 きょく の世俗 せぞく カンタータもある。目的 もくてき は様々 さまざま で、領主 りょうしゅ への表敬 ひょうけい 、結婚式 けっこんしき や誕生 たんじょう 日 び 祝 いわ い、さらにコーヒー店 てん での演奏 えんそう 会 かい 用 よう の作品 さくひん と見 み られるもの(『コーヒー・カンタータ』、BWV.211)もある。その中 なか にはしばしばユーモアが滲 にじ み出 で ており、バッハの人間 にんげん 性 せい にじかに触 ふ れるかのような楽 たの しさが感 かん じられる[53] 。なお、テクストを取 と り替 か えること(パロディと呼 よ ばれる)によって宗教 しゅうきょう 的 てき 作品 さくひん に転用 てんよう されたものも存在 そんざい する。
マタイ受難 じゅなん 曲 きょく (Matthäuspassion ) BWV244
古今 ここん の宗教 しゅうきょう 音楽 おんがく の最高峰 さいこうほう のひとつとされ、2部 ぶ 全 ぜん 68曲 きょく (曲 きょく 数 すう は新 しん バッハ全集 ぜんしゅう (NBA) の数 かぞ え方 かた による)からなる。1727年 ねん にライプツィヒ にて初演 しょえん された。後世 こうせい 、メンデルスゾーン によって取 と り上 あ げられ、バッハを一般 いっぱん に再 さい 認識 にんしき させるきっかけとなったと言 い われている。
ミサ曲 きょく ロ短調 たんちょう (MESSE in h-moll) BWV232
ミサ曲 きょく ロ短調 たんちょう は「バッハ合唱 がっしょう 曲 きょく の最高 さいこう 傑作 けっさく 」と称 しょう されている。最初 さいしょ の2つの部分 ぶぶん 、キリエ (Kyrie )およびグローリア (Gloria ) は1733年 ねん に、サンクトゥス (Sanctus ) が1724年 ねん に書 か かれ、残 のこ り大半 たいはん は1747年 ねん から49年 ねん にかけて既存 きそん 作品 さくひん を利用 りよう しつつ作曲 さっきょく された。最近 さいきん の研究 けんきゅう では、バッハが最後 さいご に完成 かんせい させた曲 きょく とされる。
マニフィカト BWV243
ミサ曲 きょく ロ短調 たんちょう と同様 どうよう 、ラテン語 らてんご の歌詞 かし によっており、ニ長調 ちょうちょう を主調 しゅちょう とする作品 さくひん である。
特殊 とくしゅ 作品 さくひん
バッハが特 とく に晩年 ばんねん になってから手 て がけた様々 さまざま な対位法 たいいほう 的 てき 作品 さくひん 群 ぐん が、一般 いっぱん に特殊 とくしゅ 作品 さくひん として分類 ぶんるい されている。音楽 おんがく の捧 ささ げもの BWV1079やフーガの技法 ぎほう BWV1080に代表 だいひょう される。この2つの作品 さくひん は、いずれも1つの主題 しゅだい に基 もと づいて作 つく られており、フーガ あるいはカノン の様々 さまざま な様式 ようしき が用 もち いられている。
このほか特殊 とくしゅ 作品 さくひん として、いくつかの単独 たんどく のカノンや14のカノンBWV1087がある。カノン風 ふう 変奏曲 へんそうきょく 「高 たか き御 ご 空 そら より」BWV769もここに含 ふく まれるべきであるが、楽器 がっき 指定 してい が明確 めいかく であるためオルガン曲 きょく として分類 ぶんるい されている。
評価 ひょうか
生前 せいぜん のバッハは作曲 さっきょく 家 か というよりもオルガンの演奏 えんそう 家 か ・専門 せんもん 家 か として、また国際 こくさい 的 てき に活躍 かつやく したその息子 むすこ たちの父親 ちちおや として知 し られる存在 そんざい にすぎず、その曲 きょく は次世代 じせだい の古典 こてん 派 は からは古臭 ふるくさ いものと見 み なされたこともあり、死後 しご は急速 きゅうそく に忘 わす れ去 さ られていった。1700年代 ねんだい 後半 こうはん に、通常 つうじょう 「バッハ」といえば、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ か、ヨハン・クリスティアン・バッハ を指 さ した。バッハの生前 せいぜん には2曲 きょく のカンタータと一部 いちぶ の鍵盤 けんばん 楽曲 がっきょく のみが出版 しゅっぱん されたに過 す ぎず、没後 ぼつご 30年間 ねんかん でも12点 てん しか印刷 いんさつ されなかった。それでも鍵盤 けんばん 楽器 がっき の曲 きょく を中心 ちゅうしん に息子 むすこ たちやモーツァルト [注釈 ちゅうしゃく 11] 、ベートーヴェン [注釈 ちゅうしゃく 12] 、メンデルスゾーン 、ショパン 、シューマン 、リスト などといった音楽家 おんがくか たちによって細々 こまごま と、しかし着実 ちゃくじつ に受 う け継 つ がれ、1829年 ねん のメンデルスゾーン によるマタイ受難 じゅなん 曲 きょく のベルリン公演 こうえん をきっかけに一般 いっぱん にも高 たか く再 さい 評価 ひょうか されるようになった。それでも場所 ばしょ によっては、例 たと えば1860年 ねん 3月31日 にち にボストン でユリウス・アイヒベルク が行 おこな ったヴァイオリン協奏曲 きょうそうきょく 第 だい 1番 ばん のアメリカ 初演 しょえん に関 かん して、当時 とうじ の批評 ひひょう 家 か の一人 ひとり の論評 ろんぴょう として「重 おも くて感動 かんどう に欠 か け、古 ふる いこと以外 いがい 価値 かち のない曲 きょく を、アイヒベルクのような大家 たいか が演奏 えんそう したことは残念 ざんねん 」と評価 ひょうか しない雰囲気 ふんいき もあった[56] [57] 。
ベートーヴェン はバッハのことを「小川 おがわ ( バッハ ) でなく大海 おおうみ ( メール ) だ」と評 ひょう しており、これは「Bach」というドイツ語 ご が小川 おがわ を意味 いみ することからきた駄洒落 だじゃれ だが、バッハの芸術 げいじゅつ の偉大 いだい さをも表 あらわ しているともされる。ただ、西欧 せいおう 音楽 おんがく 史家 しか の大崎 おおさき 滋 しげる 生 せい によれば、このベートーヴェンのバッハ評 ひょう は1824年 ねん か1825年 ねん の7月 がつ ごろにオルガニストのカール・ゴットリープ・フロイデンベルクがベートーヴェンの元 もと を訪 おとず れた際 さい の発言 はつげん とし、フロイデンベルクの回想 かいそう 録 ろく およびセイヤー=ダイダース=リーマン伝記 でんき の223番 ばん および224番 ばん にこのことが触 ふ れられているが、ベートーヴェンは実際 じっさい には「小川 おがわ でなく大海 たいかい と呼 よ ばれるべきだ。バッハはオルガニストの理想 りそう です 」と語 かた ったとしており、大崎 おおさき は「オルガニストとしての観点 かんてん 」で当該 とうがい 発言 はつげん を語 かた るべきとしている。また、この発言 はつげん はベートーヴェンの会話 かいわ 帖 じょう 自体 じたい には記載 きさい されておらず[注釈 ちゅうしゃく 13] 、大崎 おおさき はフロイデンベルクがベートーヴェンに手帳 てちょう を差 さ し出 だ して会話 かいわ をした可能 かのう 性 せい を示唆 しさ している。もっともベートーヴェンはこの発言 はつげん に依 よ らずとも、事 こと あるごとに作曲 さっきょく 家 か としてのバッハを称賛 しょうさん しており、1801年 ねん 1月 がつ 15日 にち ごろの出版 しゅっぱん 社 しゃ のホフマイスター社 しゃ 宛 あて の書簡 しょかん [注釈 ちゅうしゃく 14] で「音楽 おんがく の父 ちち の高尚 こうしょう で偉大 いだい な芸術 げいじゅつ に私 わたし の心 しん は高鳴 たかな る」と記 しる し、1819年 ねん 7月 がつ 29日 にち 付 づけ のルドルフ・ヨハネス・フォン・エスターライヒ (ルドルフ大公 たいこう ) 宛 あて の書簡 しょかん でも、ヘンデルとともに理想 りそう 面 めん と現実 げんじつ 面 めん の両方 りょうほう において芸術 げいじゅつ 価値 かち を発揮 はっき できたドイツ人 じん 作曲 さっきょく 家 か として取 と り上 あ げている。
また、19世紀 せいき の指揮 しき 者 しゃ 、ハンス・フォン・ビューロ は、「バッハの平均 へいきん 律 りつ クラヴィーア曲 きょく 集 しゅう は音楽 おんがく の旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ 」と評 ひょう した。平均 へいきん 律 りつ クラヴィーア曲 きょく 集 しゅう に関 かん してはベートーヴェンも、師 し のクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェ を介 かい して少年 しょうねん 期 き にテキストとして利用 りよう していた。
その他 た
バッハのチェンバロ作品 さくひん 全集 ぜんしゅう を世界 せかい で最初 さいしょ に完成 かんせい させたのはモダンピアノとムーア二 に 段 だん ピアノによるグンナー・ヨハンセン 、その次 つぎ にモダンピアノによるジョアン・カルロス・マルティンス とモダンピアノによるイヴォ・ヤンセン (オランダ語 ご 版 ばん ) が達成 たっせい している。モダンチェンバロではマルティン・ガリング (英語 えいご 版 ばん ) ただ1人 ひとり が達成 たっせい 、ヒストリカルチェンバロで達成 たっせい したものは誰 だれ もいない。グレン・グールド とスコット・ロス は完成 かんせい を目指 めざ したが及 およ ばなかった。
それに対 たい しオルガン作品 さくひん 全集 ぜんしゅう を達成 たっせい した人物 じんぶつ は数 すう 十 じゅう 人 にん に及 およ ぶ。ただし、歴史 れきし 的 てき オルガンで新 しん 発見 はっけん の補遺 ほい を含 ふく む最 もっと も完全 かんぜん な集成 しゅうせい を達成 たっせい した人物 じんぶつ は、ゲルハルト・ヴァインベルガー (ドイツ語 ご 版 ばん ) のみである。
映画 えいが (バッハを扱 あつか った作品 さくひん )
メディア
脚注 きゃくちゅう
注釈 ちゅうしゃく
^ a b 当時 とうじ の学校 がっこう は第 だい 5級 きゅう ~最上級 さいじょうきゅう まである級 きゅう の各 かく 級 きゅう を、約 やく 2年 ねん で修了 しゅうりょう し、進級 しんきゅう するものだった。
^ 聖 ひじり ミカエル教会 きょうかい 付属 ふぞく の学校 がっこう は二 ふた つあり、一 ひと つは北側 きたがわ にある騎士 きし 学院 がくいん の貴族 きぞく の子弟 してい のための、もう一 ひと つが南側 みなみがわ にある市民 しみん 階級 かいきゅう の子弟 してい のための寄宿 きしゅく 学校 がっこう だった。
^ バッハは、ラインケンのトリオ・ソナタ集 しゅう 『音楽 おんがく の園 えん 』(1688年 ねん 出版 しゅっぱん ) のうち3曲 きょく をクラヴィーア用 よう に編曲 へんきょく している。音楽 おんがく 学者 がくしゃ ・樋口 ひぐち 隆一 りゅういち は、この時期 じき ににラインケンから直接 ちょくせつ 楽譜 がくふ を受 う け取 と った可能 かのう 性 せい も高 たか いと指摘 してき している。
^ バッハは、カイザーの『マルコ受難 じゅなん 曲 きょく 』をヴァイマル時代 じだい とライプツィヒ時代 じだい の1726年 ねん に2度 ど 上演 じょうえん しており、やはりこの時期 じき にカイザーから影響 えいきょう を受 う け、尊敬 そんけい していた可能 かのう 性 せい が高 たか い。。
^ 樋口 ひぐち 隆一 りゅういち は、当時 とうじ 演奏 えんそう が堪能 かんのう であったバッハが、騎士 きし 学院 がくいん の貴族 きぞく のダンスの伴奏 ばんそう も務 つと め、その際 さい に才能 さいのう を見出 みいだ したド・ラ・セルがツェレ宮廷 きゅうてい に連 つ れて行 い ったのではないかと推察 すいさつ している。
^ ヨハン・アウグスティン・コベリウスというアイセンフェルス宮廷 きゅうてい の楽師 がくし だった人物 じんぶつ が最終 さいしゅう 的 てき に採用 さいよう されたが、これにはヴァイセンフェルス公 こう の介入 かいにゅう があったからだとされている。
^ 7月 がつ 3日 にち 以前 いぜん に鑑定 かんてい が行 おこな われたことが分 わ かっている。
^ 『トッカータとフーガ ニ短調 たんちょう 』BWV565や、『コラール』BWV715, 722, 726, 729, 732, 738は、ブクステフーデから影響 えいきょう を受 う けた可能 かのう 性 せい が高 たか い作品 さくひん であるとされている。
^ この頃 ころ に作曲 さっきょく された『結婚式 けっこんしき クォドリベット』BWV524と、バッハ自身 じしん の結婚式 けっこんしき を結 むす びつけることもできるが、確証 かくしょう はないとされている。
^ 音楽 おんがく 学者 がくしゃ ・皆川 みなかわ 達夫 たつお は、バッハの作品 さくひん の中 なか でも特 とく に宗教 しゅうきょう 曲 きょく やオルガン曲 きょく には、過去 かこ の時代 じだい の作曲 さっきょく 法 ほう や構成 こうせい 法 ほう の影響 えいきょう が強 つよ く見 み られると指摘 してき している。また、過去 かこ の作曲 さっきょく 法 ほう の影響 えいきょう が見 み られるのはバッハに限 かぎ ったことではないと前置 まえお きをしつつも、同 どう 時代 じだい や後輩 こうはい の作曲 さっきょく 家 か の誰 だれ よりも、バッハは過去 かこ の音楽 おんがく を受 う け入 い れて吸収 きゅうしゅう することに「貪婪 どんらん といえるほどに積極 せっきょく 的 てき 」であったと述 の べている。それ故 ゆえ に、どの作品 さくひん にも過去 かこ の伝統 でんとう の一部 いちぶ を垣間見 かいまみ ることが可能 かのう だが、一方 いっぽう でそれがバッハの作品 さくひん として結晶 けっしょう した途端 とたん に、その要素 ようそ 全 すべ てが「バッハ」そのものに変容 へんよう してしまうと語 かた っている。。
^ モーツァルトは息子 むすこ であるヨハン・クリスティアン・バッハ の直接 ちょくせつ の弟子 でし 筋 すじ にあたる
^ ベートーヴェンの師弟 してい 関係 かんけい 上 じょう の系譜 けいふ は、師 し のネーフェからヨハン・アダム・ヒラー を経 へ てバッハの弟子 でし の一人 ひとり であるゴットフリート・アウグスト・ホミリウス にたどり着 つ くことができる。
^ 会話 かいわ 帖 じょう 自体 じたい は、1824年 ねん 7月 がつ 分 ぶん にしろ1825年 ねん 7月 がつ 分 ぶん にしろ欠損 けっそん していない。
^ この時期 じき 、ホフマイスター社 しゃ はベートーヴェン宛 あて にバッハ作品 さくひん 全集 ぜんしゅう の刊行 かんこう の告知 こくち をしており、その返信 へんしん 。ベートーヴェンは4月 がつ に全集 ぜんしゅう 購入 こうにゅう の申 もう し込 こ みを行 おこな った。
出典 しゅってん
参考 さんこう 文献 ぶんけん
関連 かんれん 項目 こうもく
外部 がいぶ リンク
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原文 げんぶん があります。
ここではJ.S.バッハ との関係 かんけい を示 しめ す 本人 ほんにん 妻 つま 先妻 せんさい との子 こ ども後妻 ごさい との子 こ ども父母 ちちはは 、祖父 そふ 、伯父 おじ 兄 あに いとこ、はとこ 甥 おい 孫 まご
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