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ヨハン・ゼバスティアン・バッハ

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ヨハン・ゼバスティアン・バッハ
Johann Sebastian Bach
肖像しょうぞう(1746ねん
基本きほん情報じょうほう
別名べつめい だいバッハ
音楽おんがくちち
生誕せいたん 1685ねん3月31にち(ユリウスれき3月21にち
神聖ローマ帝国の旗 ドイツ国民こくみん神聖しんせいマ帝国まていこく
ザクセンせんみかどほうりょう
アイゼナハ
死没しぼつ (1750-07-28) 1750ねん7がつ28にち(65さいぼつ
神聖ローマ帝国の旗 ドイツ国民こくみん神聖しんせいマ帝国まていこく
ザクセンせんみかどほうりょう
ライプツィヒ
ジャンル バロック音楽おんがく
職業しょくぎょう 作曲さっきょく
オルガニスト
担当たんとう楽器がっき オルガン
チェンバロ
ヴァイオリン
バッハにゆかりのある土地とち

ヨハン・ゼバスティアン・バッハどく: Johann Sebastian Bach, 1685ねん3月31にちユリウスれき1685ねん3月21にち)- 1750ねん7がつ28にち)は、ドイツ作曲さっきょくオルガニスト

バロック音楽おんがく重要じゅうよう作曲さっきょく一人ひとりで、鍵盤けんばん楽器がっき演奏えんそうとしても高名こうみょうであり、当時とうじから即興そっきょう演奏えんそう大家たいかとしてられていた。バッハ研究けんきゅうしゃ見解けんかいでは、バッハはバロック音楽おんがくさい後尾こうび位置いちする作曲さっきょくとしてそれまでの音楽おんがく集大成しゅうたいせいしたとも評価ひょうかされるが、後世こうせいには、西洋せいよう音楽おんがく基礎きそ構築こうちくした作曲さっきょくであり音楽おんがく源流げんりゅうであるともとらえられ、日本にっぽん音楽おんがく教育きょういくでは「音楽おんがくちち」としょうされた[1]

バッハ一族いちぞく音楽家おんがくか家系かけいで(バッハ参照さんしょう)、すうおおくの音楽家おんがくか輩出はいしゅつしたが、なかでもヨハン・ゼバスティアン・バッハはその功績こうせきおおきさから「だいバッハ」ともばれている。また、のバッハ一族いちぞく区別くべつするため、J.S.バッハとも略記りゃっきされる。今日きょうたんに「バッハ」といえばこの人物じんぶつす。

生涯しょうがい

生誕せいたん~リューネブルク時代じだい (1685ねん-1702ねん)

アイゼナハ - せいゲオルク教会きょうかい

1685ねん3月31にち、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(以下いか、「バッハ」とする)は、アイゼナハまち楽師がくしおよ宮廷きゅうてい音楽家おんがくかであったヨハン・アンブロジウス・バッハの8にん兄弟きょうだい末子まっしとしてまれた[2][3]。アイゼナハ周辺しゅうへん中部ちゅうぶドイツには、音楽おんがく一家いっかであったバッハ一族いちぞく80めい生活せいかつしており、同姓どうせい同名どうめいもの数多あまたくいるため、そのことはバッハ研究けんきゅう難易なんいげている。

生誕せいたんにちに、幼児ようじ洗礼せんれいせいゲオルク教会きょうかいドイツばんおこなわれ、ゴータのまち楽師がくしセバスティアン・ナーゲルと、アイゼナハの森林しんりんかんヨハン・ゲオルク・コッホがだいちちつとめた[3]1692ねん(7さい) に、この教会きょうかい付属ふぞくしたラテン語らてんご学校がっこう入学にゅうがくしている[3][注釈ちゅうしゃく 1]幼少ようしょうのバッハがどのようにそだったかくわしいことはかっていないが、おそらくちちアンブロジウスの指導しどうのもと楽器がっき演奏えんそうはじめ、どう教会きょうかいつとめていたちち従兄じゅうけいヨハン・クリストフ・バッハ (1642-1703) のオルガン演奏えんそういていたとおもわれる[3]

1694ねん5月(9さい)にはははエリザベートがくなり、ちち同年どうねん11がつ再婚さいこんしたものの、翌年よくねん1695ねん2がつちち他界たかいした[4]。その、バッハはあにヨハン・ヤーコプ (1682-1722) とともオーアドルフ教会きょうかいオルガニストつとめていたあにヨハン・クリストフ (1671-1721) のいえられて勉学べんがくはげみ、クラヴィーア演奏えんそう基礎きそもここでまなんだ[4]

幼少ようしょうのバッハの音楽おんがくたいする情熱じょうねつつたえる有名ゆうめい逸話いつわがある。パッヘルベル弟子でしでもあったあにヨハン・クリストフは、フローベルガーケルルといったみなみドイツの作曲さっきょく楽譜がくふ所有しょゆうしていたが、それをバッハにはけっしてせなかった[4]。それをたかったバッハは、月明つきあかりのした半年はんとしもかけてうつししたが、最終さいしゅうてきにこのうつししたきょくしゅう存在そんざいあにられてしまい没収ぼっしゅうされてしまう、というものである[4]

ひじりミカエル教会きょうかい

1700ねんにはオーアドルフの学校がっこう退学たいがくして、同年どうねん3がつ15にち親友しんゆうのゲオルク・エルトマン (1682-1736) とともリューネブルクうつ[5]。そこで、ひじりミカエル教会きょうかい付属ふぞく学校がっこう[注釈ちゅうしゃく 2]給費きゅうひせいとなり、ボーイ・ソプラノとして「ちょう合唱がっしょうたい」の聖歌せいかたいいん採用さいようされる[5][6]。この15めいから構成こうせいされた合唱がっしょうだんへの入団にゅうだんには、たか音楽おんがくてき能力のうりょく必要ひつようとされ、とおくのテューリンゲンザクセンからも応募おうぼるほど入団にゅうだんむずかしかったが、バッハは自身じしんすぐれた音楽おんがくてき能力のうりょくによってなんなく合格ごうかくしたとおもわれる[5]入団にゅうだん当時とうじバッハはすでに15さいだったため入団にゅうだんからまもなく変声期へんせいきむかえ、ボーイ・ソプラノとしてうたうことは出来できなくなったが、ヴァイオリン・ヴィオラやつうそう低音ていおん楽器がっき演奏えんそうをすることで楽団がくだんなか活躍かつやくしていた[5]

リューネブルク時代じだいのバッハは、きたドイツでの音楽おんがく生活せいかつ満喫まんきつし、その音楽おんがく吸収きゅうしゅうしていった[7]おなじリューネブルクのひじりヨハネ教会きょうかいには、ゲオルク・ベームがオルガニストとして活躍かつやくしており、バッハはかれ敬意けいいはらっていたとされる[7]。リューネブルクからすこはなれたハンブルクには、従兄じゅうけいのヨハン・エルンスト・バッハ (1683-1739) が、おなじくハンブルクのせいカタリナ教会きょうかいにはラインケン[注釈ちゅうしゃく 3]がおり、さらには鵞鳥がちょう市場いちばのオペラ劇場げきじょうでは、カイザーのオペラ[注釈ちゅうしゃく 4]度々たびたび上演じょうえんされていた[7]。バッハが、どこまでいていたかはさだかでないが、かれらの音楽おんがく自身じしん音楽おんがくかてにしていったとおもわれる[7]

また、バッハはリューネブルクからすこみなみ位置いちするツェレにもしばしばおもむき、そこの宮廷きゅうてい楽団がくだん演奏えんそういていた[7]当時とうじのツェレ宮廷きゅうていは、楽団がくだんいんがほぼフランスじん構成こうせいされ、楽譜がくふもフランスからの直輸入ちょくゆにゅうたよるなどフランス文化ぶんか色濃いろこ反映はんえいされており、これはツェレの領主りょうしゅゲオルク・ヴィルヘルムこうわかころにフランスを度々たびたび訪問ほうもんしたことや、おおやけエレオノールがフランスの貴族きぞくであることも関係かんけいしている[7]当時とうじ貧乏びんぼう学生がくせいであったバッハが宮廷きゅうてい楽団がくだん出入でいりするのは本来ほんらい困難こんなんなはずだったが、リューネブルクの騎士きし学院がくいん舞踏ぶとう教師きょうしつとめ、ツェレ宮廷きゅうてい楽団がくだん楽師がくし兼任けんにんしていたトーマ・ド・ラ・セルという人物じんぶつ紹介しょうかいにより、宮廷きゅうてい楽団がくだん演奏えんそうくことができたとされている[7][注釈ちゅうしゃく 5]

ミカエル学校がっこうには最上級さいじょうきゅう生徒せいととして入学にゅうがくしていたため、おそらく1702ねん復活ふっかつさいまえには卒業そつぎょうしていたとおもわれている[8][注釈ちゅうしゃく 1]金銭きんせんてき余裕よゆうもなく大学だいがく進学しんがくしなかったバッハは、1702ねん8がつにゴットフリート・クリストフ・グレーフェンハインの後任こうにんとして募集ぼしゅうしていたハレ近郊きんこうザンゲルハウゼン英語えいごばんのオルガニストに応募おうぼした[8]。バッハは、そこで優秀ゆうしゅう成績せいせきのこしたものの、採用さいようされることはなかった[8][注釈ちゅうしゃく 6]

アルンシュタット~ミュールハウゼン時代じだい (1703ねん-1708ねん)

アルンシュタット - バッハ教会きょうかい

バッハはその1703ねん3月から9がつまでの半年はんとしあいだヴァイマルおおやけヴィルヘルム・エルンストのおとうとである、ヨハン・エルンストこうちいさな宮廷きゅうてい楽団がくだん就職しゅうしょくした[8]。バッハはヴァイオリン担当たんとうしたが、ヨハン・エフラーの代役だいやくオルガン演奏えんそうもこなした[9]

同年どうねん6がつアルンシュタットしん教会きょうかい (現在げんざいバッハ教会きょうかい英語えいごばんばれる) にあたらしいオルガンが設置せっちされる。そのためし奏者そうしゃえらばれたバッハはすぐれた演奏えんそう披露ひろう[注釈ちゅうしゃく 7]、そのまま8がつ9にちにはどう教会きょうかいのオルガニストの地位ちい提示ていじされ、8がつ14にちには契約けいやくかわされた[10]教会きょうかいでの仕事しごとは、日曜にちよう木曜もくようあさ礼拝れいはいあいだずつ、そして月曜日げつようび臨時りんじ礼拝れいはいにコラールの伴奏ばんそうをすることにくわえ、カントルのわりに少年しょうねん聖歌せいかたい指導しどうおこなうことだった[10][9] 。この聖歌せいかたいがらみで、ある事件じけん発生はっせいする。1705ねん8がつ4にち、バッハは聖歌せいか隊員たいいんであるガイエルスバッハにかおなぐられ、またバッハ自身じしんけんいて応戦おうせんしようしたというものである[10]。これは、バッハが、ガイエルスバッハのファゴットを「山羊やぎのファゴット」と嘲笑ちょうしょうしたのが原因げんいんであった[10]。この騒動そうどうおさめるため、聖職せいしょく会議かいぎはバッハにコラール伴奏ばんそうくわえ、カンタータとう演奏えんそうをすることも要求ようきゅうしたが、バッハは最終さいしゅうてきにこれを拒否きょひした[10]

1704ねんごろには、あにヨハン・ヤーコプのためにかれた『カプリッチョ へん長調ちょうちょう最愛さいあいなるあに旅立たびだちにせて」BWV992』や、もう一人ひとりあにヨハン・クリストフのためにかれた『カプリッチョ ホ長調ちょうちょう「ヨハン・クリストフをたたえて」BWV993』とう作品さくひんがある[10]

ブクステフーデ

1705ねん10がつ18にちごろ、バッハは4週間しゅうかん休暇きゅうか要求ようきゅうし、リューベック出掛でかけた[11]。アルンシュタットからリューベックまでのやく400kmを徒歩とほかったとわれる[12]当地とうち聖母せいぼマリア教会きょうかい英語えいごばんのオルガニストはきたドイツらくブクステフーデつとめており、かれもよおした「ゆうべの音楽おんがく」という教会きょうかい音楽おんがくかいき、おおくをまなんだとおもわれる[11]。そして、ブクステフーデの半音はんおんかい不協和音ふきょうわおん積極せっきょくてき使用しよう大胆だいたん転調てんちょうもちいた演奏えんそうは、たちまちバッハを魅了みりょうした[11]当時とうじ68さい高齢こうれいだったブクステフーデもバッハの才能さいのうい、自分じぶんむすめマリア・マルグレータとの結婚けっこん条件じょうけん後継こうけいしゃになるようちかけた。聖母せいぼマリア教会きょうかいのオルガニストの地位ちいわかいバッハにとって破格はかくであったが、かれはブクステフーデのもう辞退じたいした[9]。マルグレータはバッハより10さい年上としうえやく30さいであり、2ねんまえにもゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルヨハン・マッテゾン付帯ふたい条件じょうけんいて後任こうにん辞退じたいしている[9]

バッハがアルンシュタットにもどったのは1706ねん2がつ7にち直前ちょくぜんで、元々もともと提出ていしゅつしていた4週間しゅうかん休暇きゅうかたいし、3かげつ以上いじょう留守るすにしていた[11]。オルガン演奏えんそう代役だいやく従弟じゅうていのヨハン・エルンスト・バッハにたのんでいたが、聖職せいしょく会議かいぎかれ叱責しっせきした。1706ねん2がつ21にちに、聖職せいしょく会議かいぎは、ブクステフーデからけた影響えいきょうであろう「耳慣みみなれない」前衛ぜんえいてき音楽おんがく演奏えんそうすること[注釈ちゅうしゃく 8]や、休暇きゅうか無断むだん延長えんちょう聖歌せいかたいたいする指導しどう不備ふび非難ひなんした[11][9]。そのの11月11にち聖職せいしょく会議かいぎでは、合唱がっしょうたいなかに「見知みしらぬ婦人ふじん」を教会きょうかいないまねれてうたわせたということも糾弾きゅうだんされた[11]。このむすめのち最初さいしょつまとなる遠戚えんせきでひとつ歳上としうえマリア・バルバラであったともかんがえられる[9]

こうして、聖職せいしょく会議かいぎ教会きょうかいとの軋轢あつれきふかまるなか、バッハは新天地しんてんちもとめた[13]。1706ねん12月、帝国ていこく自由じゆう都市としミュールハウゼンせいブラジウス教会きょうかいのオルガニストであったヨハン・ゲオルク・アーレ (1651-1706) が死去しきょし、後任こうにん募集ぼしゅうおこなわれ、バッハは1707ねん4がつ24にち復活ふっかつさい試験しけん演奏えんそうおこなった[13]。おそらくカンタータ『キリストはきずなにつきたまえり』BWV4を演奏えんそうしたとされる[13]。ミュールハウゼンはマリア・バルバラの親戚しんせき参事さんじ会員かいいんであったえんもあり、バッハは応募おうぼ合格ごうかくした[9]同年どうねん5がつ15にちには、せいブラジウス教会きょうかいとの契約けいやくわされ、6月29にちにはアルンシュタットをり、ミュールハウゼンにうつんだ[13][9]。その報酬ほうしゅうはアルンシュタット時代じだいとさほどわらないが、いくぶんか条件じょうけんかった[9]おなじく1707ねんにバッハはマリア・バルバラと結婚けっこんし、10月7にちにアルンシュタットちかくのむらドルンハイムで、ローレンツ・シュタウバー牧師ぼくしのもと、結婚式けっこんしきをとりった[13][注釈ちゅうしゃく 9]2人ふたりあいだまれた7にん子供こどものうち、フリーデマンエマヌエル高名こうみょう音楽家おんがくかになった。

バッハの生活せいかつけっしてらくなものではなく、つね条件じょうけん職場しょくばさがもとめていた。生活せいかつしにするために、みじかきょく作曲さっきょくしてはそれを1きょく3ターラー程度ていどるということもしていた。その一方いっぽうで、契約けいやくした先々さきざき様々さまざま些細ささいなトラブルもこしていた。あるときは5つの仕事しごと同時どうじけていたが、5つのうち4つでトラブルをかかえていた。

ミュールハウゼン時代じだい作品さくひんとして、かみはいにしえよりわがおうなり』BWV71などのだい規模きぼなカンタータがげられる[13]

ヴァイマル時代じだい (1708ねん-1717ねん)

1708ねん6月25にち、バッハは突然とつぜんミュールハウゼンの参事さんじかい辞表じひょう提出ていしゅつ[14]ふたたびヴァイマルにうつり、ザクセン=ヴァイマル公国こうこく領主りょうしゅヴィルヘルム・エルンストこう宮廷きゅうていオルガニストけん宮廷きゅうてい楽師がくしとなった[15]。ミュールハウゼンでは年額ねんがく85フローリンていたが、ヴァイマルではばいちかい150フローリンをることとなった[16]。エルンストこうきびしい宗教しゅうきょう政策せいさく推進すいしん音楽おんがく保護ほごにつとめ、宮廷きゅうてい楽団がくだんしつ向上こうじょうさせており、その一環いっかんとして、ヴァイオリン奏者そうしゃヨハン・パウル・フォン・ヴェストホフを招聘しょうへいしたり、郊外こうがいのヴィルヘルムじょうオペラ劇場げきじょう建設けんせつしたりもしていた[16]おおくのオルガンきょくはこの時期じき作品さくひんである。また、この時期じきアントニオ・ヴィヴァルディ協奏曲きょうそうきょく様式ようしきれている[17]

しかしバッハはここでの待遇たいぐうにもあまり満足まんぞくしておらず、1712ねん死去しきょしたオルガニスト、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ツァハウの後任こうにんとして1713ねん12月に募集ぼしゅうされていたハレ聖母せいぼ教会きょうかいオルガニストに応募おうぼした[18]同年どうねん12がつ13にち無事ぶじ採用さいようされたものの、ザクセン=ヴァイマルこう大幅おおはば昇給しょうきゅう昇進しょうしん提示ていじして慰留いりゅうされたことで、ヴァイマルにまることとなった[19]1714ねん3がつには楽師がくしちょう昇進しょうしん毎月まいつき1きょくカンタータ作曲さっきょくおよ上演じょうえん義務付ぎむづけられた[20]。1717ねん9がつ、バッハは楽師がくしちょうのヴァイオリニスト、ジャン・バプティスト・ヴォリュミエ招待しょうたいおうじてルイ・マルシャンとの即興そっきょう演奏えんそう対決たいけつのためにドレスデンおとずれていたが、マルシャンは姿すがたあらわさなかった。[21]

最終さいしゅうてきには1717ねん、アンハルト=ケーテンこうこく宮廷きゅうてい楽長がくちょうとして招聘しょうへいされ、ヴァイマルをはなれることとなった。このときザクセン=ヴァイマルこう辞職じしょく承諾しょうだくせず、このトラブルによってバッハは同年どうねん11がつ6にちからやく1ヶ月かげつあいだ投獄とうごくされ、その12がつ2にち釈放しゃくほうとも解任かいにんされた[22][23]問題もんだいとなったのはバッハの契約けいやく問題もんだい主家しゅか許可きょかなくほか契約けいやくをしたためといわれる。

ケーテン時代じだい (1717ねん-1723ねん)

1717ねん、バッハはケーテンうつり、アンハルト=ケーテンこうこく宮廷きゅうてい楽長がくちょうとなった。当時とうじのアンハルト=ケーテンこうこく音楽おんがく理解りかいのあるアンハルト=ケーテンこうレオポルト統治とうちにあり、バッハがもらった400ターラーという年俸ねんぽう前任ぜんにんしゃシュトリッカーの倍額ばいがくであった[24]。こうしためぐまれた環境かんきょうなかで、すうおおくの世俗せぞく音楽おんがく名作めいさく作曲さっきょくした。これにはアンハルト=ケーテンこうこくカルヴァン信奉しんぽうしていたため、教会きょうかい音楽おんがくつく必要ひつようがなかったことも関係かんけいしている[25]。しかし、このような環境かんきょうでもレオポルトの誕生たんじょう12がつ10日とおか元旦がんたん1がつ1にちとし2かいは、教会きょうかいカンタータ演奏えんそうされたとされている[26]

1718ねん5月9にち、バッハはレオポルトこうと5にん楽師がくしとともに、チェンバロ持参じさんのうえ、ボヘミア保養ほようカールスバートにっている[26]。また1718ねんあきには、バッハはレオポルトこういのちによりだん鍵盤けんばんのチェンバロをベルリンのチェンバロ製作せいさくしゃミヒャエル・ミートケに注文ちゅうもんし、それをるために1719ねん3がつにベルリンをおとずれていることがかっている[27]1719ねん5月、ハレに帰郷ききょう家族かぞくとともにすごしていたヘンデルに、そこから4マイルはなれたケーテンにいたバッハがいにおとずれたが、到着とうちゃくしたにはヘンデルが出発しゅっぱつしたのちであったためうことができなかった。1720ねん5月、領主りょうしゅレオポルトほう随行ずいこうし、ふたたおとずれていたカールスバートへの2ヶ月かげつあいだ旅行りょこうちゅうつま急死きゅうしする不幸ふこう見舞みまわれた。バッハが帰郷ききょうしたときには、すでつまが7がつ7にち埋葬まいそうされたのちであった[28]

1720ねん9がつ12にちハンブルクせいヤコビ教会きょうかいのオルガニスト、ハインリヒ・フリーゼが死去しきょし、バッハはその後任こうにんめるための11月28にちおこなわれた試験しけん演奏えんそう応募おうぼしていた[29]。このせいヤコビ教会きょうかいのオルガンはアルプ・シュニットガーさくだいオルガンで、4だん鍵盤けんばん、60ストップもある楽器がっきであった[30]。しかし、かれは12月10にちのレオポルトこう誕生たんじょう準備じゅんびのため、ハンブルクに滞在たいざいすることができなかったため、それに先立さきだせいカタリナ教会きょうかいで2時間じかん以上いじょうおよぶオルガン演奏えんそうかいおこなった[30]。バッハの演奏えんそうでもとく即興そっきょう演奏えんそうは、当時とうじせいカタリナ教会きょうかいオルガニストだったラインケン参事さんじ会員かいいん有力ゆうりょくしゃたちをふく聴衆ちょうしゅうおどろかせた[30]。バッハはこのとき、コラール『バビロンのかわのほとりにて』の主題しゅだいもとづいて即興そっきょう演奏えんそうおこない、聴衆ちょうしゅう熱狂ねっきょうさせた[30]。そして、厳格げんかくなことでられるラインケンはつぎのような賛辞さんじおくっている[31]

わたしは、この芸術げいじゅつえたとおもっておりましたが、いまそれがあなたのなかきているのをのあたりにしました。」[31]

このような評価ひょうかあいまってバッハの採用さいよう決定けっていし、ケーテンにそのむねつたえられたが、12月12にち委員いいんかいにもバッハの回答かいとうとどかず、その結局けっきょくバッハはこのもうってしまう[32]もうことわった直接ちょくせつ理由りゆうかっていないが、バッハのわりにヨハン・ヨアヒム・ハイトマンという人物じんぶつが4せんマルクという多額たがく寄付きふをして教会きょうかい地位ちいている[32]

1721ねん宮廷きゅうていソプラノ歌手かしゅアンナ・マクダレーナ・ヴィルケ再婚さいこんした[33]同年どうねん12がつ3にちにレオポルトこう許可きょかて、バッハの自宅じたくでバッハとの結婚式けっこんしきおこなわれた[34]。アンナは、有能ゆうのう音楽家おんがくか結婚けっこんもケーテン宮廷きゅうていにつとめ、おっと半額はんがくの200ターラーにもおよ収入しゅうにゅうていた[34]彼女かのじょは、おっと仕事しごとたすけ、作品さくひんうつしなどもしているだけでなく、バッハの作品さくひんとされていたきょくのいくつかは彼女かのじょ作曲さっきょくであることが確実視かくじつしされている[35]有名ゆうめいな『アンナ・マクダレーナ・バッハのための音楽おんがくちょう』は彼女かのじょのためにバッハがおくった楽譜がくふちょうで、『フランス組曲くみきょく』の最初さいしょの5きょくとうふくだい1のきょくしゅうは1722ねんに、『パルティータ』とうふくだい2のきょくしゅうは1725ねんおくられている[36]とくに、だい2のきょくしゅうにはマグレダーナが自由じゆう記入きにゅうをしており、バッハの家庭かてい演奏えんそうされたとおもわれるきょく折々おりおりまれている[37]。バッハは長男ちょうなんのフリーデマンのためにも1720ねん1がつ22にちから『クラヴィーア小曲しょうきょくしゅう』をはじめており、ここには『平均へいきんりつクラヴィーアきょくしゅう』の初期しょき稿こうと、『インヴェンションとシンフォニア』の初期しょき稿こうられる。[38]

アンナ・マクダレーナとのあいだまれた13にんどものうち、おおくはおさないうちにっている。しかし末子まっしクリスティアン兄弟きょうだいなかでは音楽家おんがくかとしてもっと社会しゃかいてき成功せいこうし、イングランド王妃おうひ専属せんぞく音楽家おんがくかとなったほかモーツァルトおおきな影響えいきょうあたえた。かれらのほかにも、バッハには成人せいじんした4にん息子むすこがいるが、みな音楽家おんがくかとして活動かつどうした(下記かき)。バッハの再婚さいこんからわずか8にちの12月11にち、レオポルトこう従妹じゅうまいのアンハルト=ベルンブルクこうおんなフリーデリカと結婚けっこんした[39]。このはバッハから「音楽おんがくぎらい amusa」とばれており、この結婚けっこん影響えいきょうもあってか1720ねんごろからレオポルトの音楽おんがくたいする出費しゅっぴ減少げんしょうし、ケーテンの宮廷きゅうてい楽団がくだん規模きぼ縮小しゅくしょうされるようになった[39]

ライプツィヒ時代じだい (1723ねん-1750ねん)

ライプツィヒひじりトーマス教会きょうかいまえつバッハぞう
バッハのはかライプツィヒひじりトーマス教会きょうかい内部ないぶ

1723ねん、バッハはライプツィヒひじりトーマス教会きょうかいカントルトーマスカントル」に就任しゅうにんする。

1722ねん6がつ5にちに、トマス・カントル、ヨハン・クーナウ死去しきょし、後任こうにん募集ぼしゅうおこなわれた[40]。まず、候補こうほとしてがった人物じんぶつが、市民しみん人気にんきはく知名度ちめいどたかかったテレマンだったが、かれラテン語らてんごおしえることをこばみ、かつハンブルクでの昇給しょうきゅう約束やくそくされたため、辞退じたいした[40]。バッハの同年どうねん12がつ21にち参事さんじかい議事ぎじろく登場とうじょうするが、この時点じてんすでに8にんげられていた[40]。そのつぎに、候補こうほとしてがった人物じんぶつが、ダルムシュタットの宮廷きゅうてい学長がくちょうクリストフ・グラウプナーで、1723ねん1がつ17にちに2きょくのカンタータを上演じょうえんだい成功せいこうおさめたが、そのとき主君しゅくんヘッセンこう解雇かいこ拒否きょひ昇給しょうきゅうをしてかれめたため、同年どうねん3がつ23にちかれ辞退じたいした[41]。そのつぎに、バッハとそのに、メンゼブルクの宮廷きゅうていオルガニスト、ゲオルク・フリードリヒ・カウフマンと、ライプツィヒのしん教会きょうかいオルガニスト、ゲオルク・バルタザル・ショットの3にん候補こうほがるが、3にんとも学科がっか授業じゅぎょう難色なんしょくしめしており、4がつ9にち議事ぎじろくには「最良さいりょうひとられなければ、なかくらいのものでも採用さいようしなければならない」という意見いけんがっている[41]市長しちょうランゲは4がつ22にち正式せいしき選抜せんばつ会議かいぎにて、2がつ7にちおこなわれたバッハのクラヴィーア演奏えんそう称賛しょうさんしているが、バッハが採用さいようされた最大さいだい理由りゆう教理きょうり問答もんどうとラテン文法ぶんぽう授業じゅぎょう担当たんとうすることに同意どういしたてんだった[41]

こうして、5月5にち正式せいしき契約けいやくむすばれ、15にちには四半期しはんきぶん給料きゅうりょう支払しはらわれた[42]。バッハにライプツィヒ音楽おんがく監督かんとくにもなり、教会きょうかい音楽おんがく中心ちゅうしんとした幅広はばひろ創作そうさく活動かつどうつづけた。ルター音楽家おんがくかとして活動かつどうしていたが、おうのカトリックへの宗旨しゅうしえにおうじ、宮廷きゅうてい作曲さっきょくしょくもとめカトリックのミサきょく作曲さっきょくした。

1729ねん1がつにはハレ滞在たいざいちゅうのヘンデルに長男ちょうなんフリーデマンを派遣はけん。ヘンデルのライプツィヒ招待しょうたいもうたがことわられた。結局けっきょく、バッハはヘンデルとの面会めんかいつよのぞんでいたものの、ヘンデルとの面会めんかい生涯しょうがい実現じつげんすることはなかった。当時とうじのヨーロッパにおいては、ヘンデルはバッハよりもはるかに有名ゆうめいであり、バッハはヘンデルの名声めいせいつよ意識いしきしていたが、ヘンデルのほうはバッハをあまり意識いしきしていなかったとわれる。ただし、ゲオルク・フィリップ・テレマンやヨハン・マッテゾンクリストフ・グラウプナーなど、バッハとヘンデルのりょう交流こうりゅうのあった作曲さっきょくなんめい存在そんざいしている。1735ねんすえには、自身じしん一族いちぞくの53めい男子だんしについて番号ばんごうけでしるした「音楽家おんがくかけいバッハ一族いちぞく起源きげん」とだいした年代ねんだいのこしている[43]

1736ねんにはザクセン宮廷きゅうてい作曲さっきょく任命にんめいされた。1747ねんにはエマヌエルつかえていたベルリンのフリードリヒ大王だいおう宮廷きゅうていを、長男ちょうなんヴィルヘルム・フリーデマン随伴ずいはんさせて訪問ほうもん、これは『音楽おんがくささげもの』がまれるきっかけになった[44]

しかし1749ねん5がつまつ、バッハは脳卒中のうそっちゅうたおれた。ひじりトーマス教会きょうかい楽長がくちょうというたか地位ちいねたものたちがはたらきかけ、参事さんじかい後任こうにんにゴットロープ・ハラーを任命にんめいした。さらに、以前いぜんよりわずらっていたうちさわ悪化あっか視力しりょくもほとんどうしなっていた。しかしバッハは健康けんこう回復かいふくしたため、ハラーの仕事しごとはおあづけとなった[45]

よく1750ねん3がつイギリス高名こうみょう眼科がんかジョン・テイラーがドイツ旅行りょこう最中さいちゅうライプツィヒをおとずれた[45]。バッハは3がつまつと4がつなかばに2にわたって手術しゅじゅつけた。手術しゅじゅつ、テイラーは新聞しんぶん記者きしゃあつめて「手術しゅじゅつ成功せいこうし、バッハの視力しりょく完全かんぜん回復かいふくした」とべた[45]。しかし実際じっさいには、手術しゅじゅつ失敗しっぱいしていた[46]。テイラー帰国きこくにバッハを診察しんさつしたライプツィヒ大学だいがく医学部いがくぶ教授きょうじゅによると、視力しりょく回復かいふくどころか炎症えんしょうなど後遺症こういしょうこり、これをおさえるための投薬とうやくなどが必要ひつようになったという[45]

2手術しゅじゅつ後遺症こういしょう薬品やくひん投与とうよなどの治療ちりょうはすでに高齢こうれいなバッハの体力たいりょくうば[45]、その病床びょうしょうし、7がつ28にち午後ごご840ふんに65さいでこのった[46]。なお、後年こうねんヘンデルどう医師いしによる疾患しっかん手術しゅじゅつけたが失敗しっぱいわっている[45]

家族かぞく

バッハは生涯しょうがいに2結婚けっこんし、じゅういちなんきゅうじょの20にん子供こどもをもうけたが、10にん夭逝ようせいし、成長せいちょうしたのは男子だんしろくにん女子じょしよんにんの10にんぎなかった。

最初さいしょ結婚けっこんは1707ねんにヴァイマルでマリア・バルバラと結婚けっこんしたもので、1720ねんにマリア・バルバラが死去しきょするまでのあいだにカタリーナ・ドロテーア、ヴィルヘルム・フリーデマン、マリーア・ゾフィア、ヨハン・クリストフ、カール・フィリップ・エマヌエル、ヨハン・ゴットフリート・ベルンハルト、レオポルト・アウグストゥスのなん二女じじょをもうけた[47]。このうちマリーア・ゾフィア、ヨハン・クリストフ、レオポルト・アウグストゥスの3にん夭逝ようせいしたものの、長男ちょうなんヴィルヘルム・フリーデマン (Wilhelm Friedemann、1710 - 1784、通称つうしょう「ハレのバッハ」)と次男じなんカール・フィリップ・エマヌエル (Carl Philipp Emanuel または C.P.E.、1714 - 1788、通称つうしょう「ベルリンのバッハ」、「ハンブルクのバッハ」) は音楽家おんがくかとして大成たいせいした。

1720ねんにマリア・バルバラが死去しきょすると、同年どうねんケーテンでアンナ・マクダレーナ・ヴィルケ結婚けっこんした。アンナ・マクダレーナとのあいだにはクリスティーナ・ゾフィア・ヘンリエッタ、ゴットフリート・ハインリヒ (Gottfried Heinrich、1724 - 1763) 、クリスティアン・ゴットリープ、エリザベト・ユリアーナ・フレデリカ、エルネストゥス・アンドレアス、レジーナ・ヨハンナ、クリスティーナ・ベネディクタ・ルイーザ、クリスティーナ・ドロテーア、ヨハン・クリストフ・フリードリヒ、ヨハン・アウグスト・アブラハム、ヨハン・クリスティアン、ヨハンナ・カロリーナ、レジーナ・スザンナのろくなんななじょをもうけた[48]。このうちクリスティーナ・ゾフィア・ヘンリエッタ、クリスティアン・ゴットリープ、エルネストゥス・アンドレアス、レジーナ・ヨハンナ、クリスティーナ・ベネディクタ・ルイーザ、クリスティーナ・ドロテーア、ヨハン・アウグスト・アブラハムの7にん夭逝ようせいしたが、ヨハン・クリストフ・フリードリヒ (Johann Christoph Friedrich、1732 - 1795、通称つうしょう「ビュッケンブルクのバッハ」)と、ヨハン・クリスティアン (Johann Christian、1735 - 1782、通称つうしょう「ロンドンのバッハ」) は音楽家おんがくかとして大成たいせいした。

また、架空かくう息子むすこ(?)も存在そんざいする。

作品さくひん

作品さくひんについてはヨハン・ゼバスティアン・バッハの作品さくひん一覧いちらんをごらんください。

ヨハン・ゼバスティアン・バッハは、幅広はばひろいジャンルにわたって作曲さっきょくおこない、オペラ以外いがいのあらゆるきょくしゅがけた。その様式ようしきは、つうそう低音ていおんによる和声わせい充填じゅうてん基礎きそとした対位法たいいほうてき音楽おんがくという、バロック音楽おんがく共通きょうつうしてられるものであるが、とく対位法たいいほうてき要素ようそおもんじる傾向けいこうつよく、当時とうじまでに存在そんざいした音楽おんがく語法ごほう集大成しゅうたいせいし、さらにそれを極限きょくげんまで洗練せんれん進化しんかさせたものである。したがって、バロック時代じだい以前いぜん主流しゅりゅうであった対位法たいいほうてきポリフォニー音楽おんがく古典こてん時代じだい以降いこう主流しゅりゅうとなった和声わせいてきホモフォニー音楽おんがくという2つの音楽おんがくスタイルにまたがり、結果けっかてきには音楽おんがく史上しじょうおおきな分水嶺ぶんすいれいのような存在そんざいとなっている[49]

バッハはドイツをはなれたことこそなかったが、勉強べんきょう熱心ねっしんであらゆる伝統でんとう幅広はばひろ音楽おんがく吸収きゅうしゅうした[43]フランドルらく声楽せいがくポリフォニー、ジョヴァンニ・ガブリエリからヴィヴァルディいたるまでのヴェネツィアふう協奏曲きょうそうきょく様式ようしき、バロック音楽おんがく基本きほんであるつうそう低音ていおん独唱どくしょうによるモノディー原理げんりフランスふう序曲じょきょくやイタリア協奏曲きょうそうきょくとう各国かっこくしょ形式けいしき組曲くみきょく変奏曲へんそうきょくといった様々さまざま様式ようしき自身じしん音楽おんがく反映はんえいした[43]さらには、オルガニストブクステフーデやラインケン、ヴァイオリン奏者そうしゃピゼンデル、フルート奏者そうしゃのビュファルダン、リュート奏者そうしゃのヴァイスといったどう世代せだい音楽家おんがくかたちからの影響えいきょうけて、バッハの楽曲がっきょく誕生たんじょうした[43][注釈ちゅうしゃく 10]。 とりわけ、古典こてんソナタにもすべき論理ろんりせい音楽おんがくせいフーガ巨匠きょしょうとして名高なだかい。

現代げんだいにおいてもなお新鮮しんせんさをうしなうことなく、ポップスジャズいたるまで、あらゆる分野ぶんや音楽おんがく応用おうようされ、おおくの人々ひとびと刺激しげきあたつづけている。

ヨハン・ゼバスティアン・バッハの作品さくひんはシュミーダー番号ばんごうBWV、「バッハ作品さくひん目録もくろくBach Werke Verzeichnisりゃく)によって整理せいりされている。「バッハ作品さくひん目録もくろく」は、1950ねんヴォルフガング・シュミーダーによって編纂へんさんされ、バッハのすべての作品さくひん分野ぶんやべつ配列はいれつされている。また、1951ねんからドイツのヨハン・ゼバスティアン・バッハ研究所けんきゅうじょゲッティンゲン)で「しんバッハ全集ぜんしゅう」の編纂へんさん開始かいしされ、1953ねんにバッハアルヒーフ(ライプツィヒ)もこの編纂へんさん参加さんかするが、10ねんわると予想よそうされていた編纂へんさん作業さぎょうはドイツの東西とうざい分断ぶんだんなどの事情じじょう難航なんこうし、「しんバッハ全集ぜんしゅう」103かん完成かんせいしたのは2007ねんのことであった。「しんバッハ全集ぜんしゅう」には1100の作品さくひんおさめられている。現在げんざい作品さくひん整理せいり継続けいぞくちゅうである。

管弦楽かんげんがく協奏曲きょうそうきょく

器楽きがくだけによる合奏がっそうきょくでは、ブランデンブルク協奏曲きょうそうきょく管弦楽かんげんがく組曲くみきょく複数ふくすうのヴァイオリン協奏曲きょうそうきょくチェンバロ協奏曲きょうそうきょくなどがある。とくにブランデンブルク協奏曲きょうそうきょく管弦楽かんげんがく組曲くみきょくには、G線上せんじょうのアリアのもととなる楽章がくしょうなど、ひろしたしまれている作品さくひんおおい。 なお、4だいのチェンバロのための協奏曲きょうそうきょくBWV1065は、アントニオ・ヴィヴァルディの協奏曲きょうそうきょく協奏曲きょうそうきょくしゅう調和ちょうわ霊感れいかん』Op.3の10、4つのヴァイオリンとチェロのための協奏曲きょうそうきょく」の編曲へんきょくである。

室内楽しつないがくきょく

室内楽しつないがくきょく作品さくひんはそれまで伴奏ばんそうとしてあつかわれてきたチェンバロの右手みぎてパートを作曲さっきょくすることによって、旋律せんりつ楽器がっき同等どうとう、もしくはそれを上回うわまわ重要じゅうようせいあたえ、古典こてん二重奏にじゅうそうソナタへのみちひらいたヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ、フルートとチェンバロのためのソナタ、ヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのためのソナタなどが作曲さっきょくされた。なお、バッハの場合ばあいの「ソナタ」とはいわゆるバロック・ソナタ(だい部分ぶぶんなるきゅうなるきゅうの4楽章がくしょうからなる教会きょうかいソナタのスタイルをとる)であり、古典こてん以後いごの「ソナタ」より簡潔かんけつかたちである。

器楽きがくきょく

オルガンきょく

バッハの器楽きがくきょくなかでもオルガンきょく歴史れきしてき重要じゅうようである[51]生前せいぜんのバッハはオルガンの名手めいしゅとして著名ちょめいで、その構造こうぞうにも精通せいつうしていた。また、聴覚ちょうかくすぐれ、教会堂きょうかいどうやホールの音響おんきょう効果こうか精緻せいち判別はんべつできた。 そのため、各地かくちでオルガンが新造しんぞうされたり改造かいぞうされたさいにはたびたび楽器がっき鑑定かんていまねかれ、的確てきかくなアドバイスとあわせて即興そっきょう演奏えんそうをはじめとしためいわざ披露ひろうし、聴衆ちょうしゅう圧倒的あっとうてき印象いんしょうあたえたとつたえられている。『故人こじん略伝りゃくでん』がつたえる有名ゆうめい逸話いつわとして、1717ねん、ドレスデンにおいてフランス神童しんどううたわれたルイ・マルシャンと対戦たいせんすることになったさい、マルシャンはバッハのあまりに卓越たくえつした演奏えんそうおそれをなして対戦たいせん当日とうじつし、バッハの不戦勝ふせんしょうとなったという[52]

バッハのオルガン作品さくひんは、コラールもとづいた「コラール編曲へんきょく」と、コラールにもとづかない「自由じゆう作品さくひん」(前奏ぜんそうきょくトッカータやフーガなど)の2つに分類ぶんるいされる。現存げんそんする主要しゅよう作品さくひんは、30きょくあまりの自由じゆう作品さくひんと、コラール前奏ぜんそうきょくの4つの集成しゅうせい(オルガン小曲しょうきょくしゅうふくむ)、いくつかのコラール変奏曲へんそうきょくである。

クラヴィーアきょく

バッハの時代じだいには、ピアノはまだ普及ふきゅうするにいたっておらず、バッハのクラヴィーア(オルガン以外いがい鍵盤けんばん楽器がっき総称そうしょう作品さくひんは、おおむねチェンバロやクラヴィコードのためにかれたものとされている。そのおおくはケーテンの宮廷きゅうてい楽長がくちょう時代じだいなんらかの起源きげんち、息子むすこ弟子でし教育きょういくたいする配慮はいりょうかがえるものとなっている。

その器楽きがくきょく

旋律せんりつ楽器がっきのための伴奏ばんそう作品さくひんしゅうには伴奏ばんそうヴァイオリンのためのソナタとパルティータ伴奏ばんそうチェロ組曲くみきょくの2つがある(このほか伴奏ばんそうフルートのためのパルティータが1きょくある)。これらは、それぞれの楽器がっき能力のうりょく限界げんかいせまってこえてきかれた作品さくひんぐんであり、それぞれの楽器がっき演奏えんそうしゃにとっては聖典せいてんてき存在そんざいとなっている。とくに、伴奏ばんそうヴァイオリンのためのパルティータだい2ばん終曲しゅうきょくにあたる「シャコンヌ」は人気にんきたか作品さくひんで、オーケストラようやピアノようなど、19世紀せいき以降いこう様々さまざま編曲へんきょくおこなわれている。

また、バッハは当時とうじすたれつつあったリュートにもつよ関心かんしんしめし、複数ふくすう楽曲がっきょく(BWV 995-1000、1006a)をのこした。ただし、近年きんねん研究けんきゅうでは、BWV 996などいくつかの作品さくひんは、ガットつるった鍵盤けんばん楽器がっきラウテンヴェルクのためにかれたと推定すいていされている。これらの作品さくひんは、今日きょう20世紀せいき復活ふっかつしたバロックリュートでかれるほか、クラシックギターけの編曲へんきょく作品さくひんひろ演奏えんそうされている。

声楽せいがくきょく

バッハはその音楽おんがくてき経歴けいれきだい部分ぶぶん教会きょうかい音楽家おんがくかとしておくり、宗教しゅうきょうてき声楽せいがくきょくはバッハの作品さくひんぐんなかでも重要じゅうよう位置いちめる。とくに、ライプツィヒ時代じだい初期しょきすう年間ねんかんにおいては、毎日まいにち曜日ようび礼拝れいはいわせて年間ねんかん50~60きょくほど必要ひつようとなるカンタータをほぼ毎週まいしゅう作曲さっきょく上演じょうえんするという、驚異きょういてき活動かつどうおこなった。

ちなみにバッハは、宗教しゅうきょうきょく清書せいしょ自筆じひつ冒頭ぼうとうに「JJ」(:Jesu juva!=イエスよ、たすけたまえ)とき、最後さいごに「SDG」(Soli Deo Gloria!=ただかみのみに栄光えいこうを)とむことをつねとしていた。

今日きょうのこされているのは、ドイツによるやく200きょく教会きょうかいカンタータ(本来ほんらいは5ねんぶんやく250きょくやく50きょくがすでに紛失ふんしつ)、2つの受難じゅなんきょく(3番目ばんめのマルコ受難じゅなんきょくのレチタティーヴォが紛失ふんしつ)と3つのオラトリオ、6きょくモテットラテン語らてんごによるマニフィカト1きょくしょうミサきょく(ルーテルミサ)4きょくだいミサきょく1きょく主要しゅようなものである(ドイツ作品さくひんでは、ルター伝統でんとう立脚りっきゃくしたコラール音楽おんがくてき基礎きそとなっていることがおおい)。

また、それとはべつに、宗教しゅうきょうてき題材だいざいによらないやく20きょく世俗せぞくカンタータもある。目的もくてき様々さまざまで、領主りょうしゅへの表敬ひょうけい結婚式けっこんしき誕生たんじょういわい、さらにコーヒーてんでの演奏えんそうかいよう作品さくひんられるもの(『コーヒー・カンタータ』、BWV.211)もある。そのなかにはしばしばユーモアがにじており、バッハの人間にんげんせいにじかにれるかのようなたのしさがかんじられる[53]。なお、テクストをえること(パロディとばれる)によって宗教しゅうきょうてき作品さくひん転用てんようされたものも存在そんざいする。

マタイ受難じゅなんきょく (Matthäuspassion) BWV244
古今ここん宗教しゅうきょう音楽おんがく最高峰さいこうほうのひとつとされ、2ぜん68きょくきょくすうしんバッハ全集ぜんしゅう (NBA) のかぞかたによる)からなる。1727ねんライプツィヒにて初演しょえんされた。後世こうせいメンデルスゾーンによってげられ、バッハを一般いっぱんさい認識にんしきさせるきっかけとなったとわれている。
ミサきょく短調たんちょう (MESSE in h-moll) BWV232
ミサきょく短調たんちょうは「バッハ合唱がっしょうきょく最高さいこう傑作けっさく」としょうされている。最初さいしょの2つの部分ぶぶんキリエ(Kyrie )およびグローリア(Gloria ) は1733ねんに、サンクトゥス (Sanctus ) が1724ねんかれ、のこ大半たいはん1747ねんから49ねんにかけて既存きそん作品さくひん利用りようしつつ作曲さっきょくされた。最近さいきん研究けんきゅうでは、バッハが最後さいご完成かんせいさせたきょくとされる。
マニフィカト BWV243
ミサきょく短調たんちょう同様どうようラテン語らてんご歌詞かしによっており、ニ長調ちょうちょう主調しゅちょうとする作品さくひんである。

特殊とくしゅ作品さくひん

バッハがとく晩年ばんねんになってからがけた様々さまざま対位法たいいほうてき作品さくひんぐんが、一般いっぱん特殊とくしゅ作品さくひんとして分類ぶんるいされている。音楽おんがくささげものBWV1079やフーガの技法ぎほうBWV1080に代表だいひょうされる。この2つの作品さくひんは、いずれも1つの主題しゅだいもとづいてつくられており、フーガあるいはカノン様々さまざま様式ようしきもちいられている。

このほか特殊とくしゅ作品さくひんとして、いくつかの単独たんどくのカノンや14のカノンBWV1087がある。カノンふう変奏曲へんそうきょくたかそらより」BWV769もここにふくまれるべきであるが、楽器がっき指定してい明確めいかくであるためオルガンきょくとして分類ぶんるいされている。

評価ひょうか

生前せいぜんのバッハは作曲さっきょくというよりもオルガンの演奏えんそう専門せんもんとして、また国際こくさいてき活躍かつやくしたその息子むすこたちの父親ちちおやとしてられる存在そんざいにすぎず、そのきょく次世代じせだい古典こてんからは古臭ふるくさいものとなされたこともあり、死後しご急速きゅうそくわすられていった。1700年代ねんだい後半こうはんに、通常つうじょう「バッハ」といえば、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハか、ヨハン・クリスティアン・バッハした[54]。バッハの生前せいぜんには2きょくのカンタータと一部いちぶ鍵盤けんばん楽曲がっきょくのみが出版しゅっぱんされたにぎず、没後ぼつご30年間ねんかんでも12てんしか印刷いんさつされなかった[54]。それでも鍵盤けんばん楽器がっききょく中心ちゅうしん息子むすこたちやモーツァルト[注釈ちゅうしゃく 11]ベートーヴェン[注釈ちゅうしゃく 12]メンデルスゾーンショパンシューマンリストなどといった音楽家おんがくかたちによって細々こまごまと、しかし着実ちゃくじつがれ、1829ねんメンデルスゾーンによるマタイ受難じゅなんきょくのベルリン公演こうえんをきっかけに一般いっぱんにもたかさい評価ひょうかされるようになった。それでも場所ばしょによっては、たとえば1860ねん3月31にちボストンユリウス・アイヒベルクおこなったヴァイオリン協奏曲きょうそうきょくだい1ばんアメリカ初演しょえんかんして、当時とうじ批評ひひょう一人ひとり論評ろんぴょうとして「おもくて感動かんどうけ、ふるいこと以外いがい価値かちのないきょくを、アイヒベルクのような大家たいか演奏えんそうしたことは残念ざんねん」と評価ひょうかしない雰囲気ふんいきもあった[56][57]

ベートーヴェンはバッハのことを「小川おがわバッハでなく大海おおうみメールだ」とひょうしており、これは「Bach」というドイツ小川おがわ意味いみすることからきた駄洒落だじゃれだが、バッハの芸術げいじゅつ偉大いだいさをもあらわしているともされる[43]。ただ、西欧せいおう音楽おんがく史家しか大崎おおさきしげるせいによれば、このベートーヴェンのバッハひょう1824ねん1825ねんの7がつごろにオルガニストのカール・ゴットリープ・フロイデンベルクがベートーヴェンのもとおとずれたさい発言はつげんとし、フロイデンベルクの回想かいそうろくおよびセイヤー=ダイダース=リーマン伝記でんきの223ばんおよび224ばんにこのことがれられているが、ベートーヴェンは実際じっさいには「小川おがわでなく大海たいかいばれるべきだ。バッハはオルガニストの理想りそうです」とかたったとしており、大崎おおさきは「オルガニストとしての観点かんてん」で当該とうがい発言はつげんかたるべきとしている[58]。また、この発言はつげんはベートーヴェンの会話かいわじょう自体じたいには記載きさいされておらず[注釈ちゅうしゃく 13]大崎おおさきはフロイデンベルクがベートーヴェンに手帳てちょうして会話かいわをした可能かのうせい示唆しさしている[59]。もっともベートーヴェンはこの発言はつげんらずとも、ことあるごとに作曲さっきょくとしてのバッハを称賛しょうさんしており、1801ねん1がつ15にちごろの出版しゅっぱんしゃのホフマイスターしゃあて書簡しょかん[注釈ちゅうしゃく 14]で「音楽おんがくちち高尚こうしょう偉大いだい芸術げいじゅつわたししん高鳴たかなる」としる[61]1819ねん7がつ29にちづけルドルフ・ヨハネス・フォン・エスターライヒ (ルドルフ大公たいこう)あて書簡しょかんでも、ヘンデルとともに理想りそうめん現実げんじつめん両方りょうほうにおいて芸術げいじゅつ価値かち発揮はっきできたドイツじん作曲さっきょくとしてげている[62]

また、19世紀せいき指揮しきしゃハンス・フォン・ビューロは、「バッハの平均へいきんりつクラヴィーアきょくしゅう音楽おんがく旧約きゅうやく聖書せいしょ」とひょうした[63]平均へいきんりつクラヴィーアきょくしゅうかんしてはベートーヴェンも、クリスティアン・ゴットロープ・ネーフェかいして少年しょうねんにテキストとして利用りようしていた[64]

その

バッハのチェンバロ作品さくひん全集ぜんしゅう世界せかい最初さいしょ完成かんせいさせたのはモダンピアノとムーアだんピアノによるグンナー・ヨハンセン、そのつぎにモダンピアノによるジョアン・カルロス・マルティンスとモダンピアノによるイヴォ・ヤンセンオランダばん達成たっせいしている。モダンチェンバロではマルティン・ガリング英語えいごばんただ1人ひとり達成たっせい、ヒストリカルチェンバロで達成たっせいしたものはだれもいない。グレン・グールドスコット・ロス完成かんせい目指めざしたがおよばなかった。

それにたいしオルガン作品さくひん全集ぜんしゅう達成たっせいした人物じんぶつすうじゅうにんおよぶ。ただし、歴史れきしてきオルガンでしん発見はっけん補遺ほいふくもっと完全かんぜん集成しゅうせい達成たっせいした人物じんぶつは、ゲルハルト・ヴァインベルガードイツばんのみである。

映画えいが (バッハをあつかった作品さくひん)

メディア

脚注きゃくちゅう

注釈ちゅうしゃく

  1. ^ a b 当時とうじ学校がっこうだい5きゅう最上級さいじょうきゅうまであるきゅうかくきゅうを、やく2ねん修了しゅうりょうし、進級しんきゅうするものだった[3]
  2. ^ ひじりミカエル教会きょうかい付属ふぞく学校がっこうふたつあり、ひとつは北側きたがわにある騎士きし学院がくいん貴族きぞく子弟していのための、もうひとつが南側みなみがわにある市民しみん階級かいきゅう子弟していのための寄宿きしゅく学校がっこうだった[5]
  3. ^ バッハは、ラインケンのトリオ・ソナタしゅう音楽おんがくえん』(1688ねん出版しゅっぱん) のうち3きょくをクラヴィーアよう編曲へんきょくしている[7]音楽おんがく学者がくしゃ樋口ひぐち隆一りゅういちは、この時期じきににラインケンから直接ちょくせつ楽譜がくふった可能かのうせいたかいと指摘してきしている[7]
  4. ^ バッハは、カイザーの『マルコ受難じゅなんきょく』をヴァイマル時代じだいとライプツィヒ時代じだいの1726ねんに2上演じょうえんしており、やはりこの時期じきにカイザーから影響えいきょうけ、尊敬そんけいしていた可能かのうせいたかい。[7]
  5. ^ 樋口ひぐち隆一りゅういちは、当時とうじ演奏えんそう堪能かんのうであったバッハが、騎士きし学院がくいん貴族きぞくのダンスの伴奏ばんそうつとめ、そのさい才能さいのう見出みいだしたド・ラ・セルがツェレ宮廷きゅうていれてったのではないかと推察すいさつしている[7]
  6. ^ ヨハン・アウグスティン・コベリウスというアイセンフェルス宮廷きゅうてい楽師がくしだった人物じんぶつ最終さいしゅうてき採用さいようされたが、これにはヴァイセンフェルスこう介入かいにゅうがあったからだとされている[8]
  7. ^ 7がつ3にち以前いぜん鑑定かんていおこなわれたことがかっている[10]
  8. ^ 『トッカータとフーガ ニ短調たんちょう』BWV565や、『コラール』BWV715, 722, 726, 729, 732, 738は、ブクステフーデから影響えいきょうけた可能かのうせいたか作品さくひんであるとされている[11]
  9. ^ このころ作曲さっきょくされた『結婚式けっこんしきクォドリベット』BWV524と、バッハ自身じしん結婚式けっこんしきむすびつけることもできるが、確証かくしょうはないとされている[13]
  10. ^ 音楽おんがく学者がくしゃ皆川みなかわ達夫たつおは、バッハの作品さくひんなかでもとく宗教しゅうきょうきょくやオルガンきょくには、過去かこ時代じだい作曲さっきょくほう構成こうせいほう影響えいきょうつよられると指摘してきしている。また、過去かこ作曲さっきょくほう影響えいきょうられるのはバッハにかぎったことではないと前置まえおきをしつつも、どう時代じだい後輩こうはい作曲さっきょくだれよりも、バッハは過去かこ音楽おんがくれて吸収きゅうしゅうすることに「貪婪どんらんといえるほどに積極せっきょくてき」であったとべている。それゆえに、どの作品さくひんにも過去かこ伝統でんとう一部いちぶ垣間見かいまみることが可能かのうだが、一方いっぽうでそれがバッハの作品さくひんとして結晶けっしょうした途端とたんに、その要素ようそすべてが「バッハ」そのものに変容へんようしてしまうとかたっている。[50]
  11. ^ モーツァルトは息子むすこであるヨハン・クリスティアン・バッハ直接ちょくせつ弟子でしすじにあたる
  12. ^ ベートーヴェンの師弟してい関係かんけいじょう系譜けいふは、のネーフェからヨハン・アダム・ヒラーてバッハの弟子でし一人ひとりであるゴットフリート・アウグスト・ホミリウスにたどりくことができる。[55]
  13. ^ 会話かいわじょう自体じたいは、1824ねん7がつぶんにしろ1825ねん7がつぶんにしろ欠損けっそんしていない。[59]
  14. ^ この時期じき、ホフマイスターしゃはベートーヴェンあてにバッハ作品さくひん全集ぜんしゅう刊行かんこう告知こくちをしており、その返信へんしん。ベートーヴェンは4がつ全集ぜんしゅう購入こうにゅうもうみをおこなった。[60]

出典しゅってん

  1. ^ いそやまみやび「バッハの生涯しょうがい - バッハ研究けんきゅうをめぐるしょ問題もんだい」『教養きょうようとしてのバッハ - 生涯しょうがい時代じだい音楽おんがくまなぶ14こういそやまみやび久保田くぼた慶一けいいち佐藤さとう真一しんいち 編著へんちょ、アルテスパブリッシング、2012ねん 
  2. ^ フォルケル 1988, p. 30.
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参考さんこう文献ぶんけん

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  • ヨハン・ニコラウス・フォルケル しる柴田しばたおさむ三郎さぶろう わけ『バッハの生涯しょうがい芸術げいじゅつ岩波いわなみ文庫ぶんこ、1988ねん1がつ18にち 
  • 渡邊わたなべまなぶだい作曲さっきょくられざる横顔よこがお丸善まるぜん丸善まるぜんライブラリー〉、1991ねんISBN 4-621-05018-4 
  • 岡田おかだ暁生あきお西洋せいよう音楽おんがく中公新書ちゅうこうしんしょ、2014ねん5がつ24にち 
  • ルイス・ロックウッド『ベートーヴェン 音楽おんがく生涯しょうがい土本どもと英三郎えいざぶろう藤本ふじもと一子かずこ[かんやく]、沼口ぬまぐちたかしほりともひらめ[わけ]、春秋しゅんじゅうしゃ、2010ねん11月30にちISBN 978-4-393-93170-7 
  • 大崎おおさきしげるせい『ベートーヴェン かんぜん詳細しょうさい年譜ねんぷ音楽之友社おんがくのともしゃ、2019ねん 

関連かんれん項目こうもく

外部がいぶリンク