1807年5月5日、バーデン・バーデン・バーデンにて死去したが、彼の墓には「1807-1742」と書かれている。生年と没年が本来の表記と逆である。CDのジャケット等の生没年も「P. D. Q. Bach(1807–1742?)」と記述される。
多くのコンサートの前口上(プレトーク)において、ピーター・シックリーは、P. D. Q. バッハの生涯についてその他の情報を示している。それによれば、ベートーヴェンの耳が聴こえなくなった主な原因はP. D. Q. バッハであった。それは、P. D. Q. バッハが来訪すると見るや、ベートーヴェンは耳の中にコーヒーのかすを詰め込む習慣を持っていたからだ、という。
1954年、ピーター・シックリーがバイエルン州の古城で自筆譜を発見し、ここから埋もれていた作曲家P. D. Q. バッハが広められることになった。
ピーター・シックリー「教授」は、P. D. Q. バッハについて、「ヨハン・クリスティアン・バッハの独自性、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハの尊大さ、ヨハン・クリストフ・フリードリヒ・バッハの無名さを兼ね備えている」と述べている。そして最も顕著な特徴は「躁病的盗作」であると述べている。これは、P. D. Q. バッハがオリジナルの作品をほとんど作っておらず、他の作曲家の作品を盗用し、主に滑稽な形で編曲していることによる。オーケストラ編成で奏される楽曲においても、通常オーケストラで用いられないトロンブーン(後述)、スライドホイッスル、ハードアート、ラッソ・ダモーレ、カズーといった楽器を用いる傾向があり、さらには風船や自転車といった、楽器ではないようなものまで楽器として扱っている。また、ブルックリンのイフィゲニアにおいて、ホルンを組み立て途中のままの段階で吹奏させるといった、伝統的楽器に対する尋常ではない奏法も要求している。声楽パートに対しても、歌う以外に、咳きこんだり、いびきをかいたり、めそめそしたり、笑ったり、叫んだりすることが求められている。大序曲『1712年』においては、曲の後半(9分30秒付近)で管楽器パートが一斉に「ブレス」(息継ぎを更に声付きで誇張)をする、といった手法まで登場する。
バロックや古典派の音楽に対する揶揄以外にも、P. D. Q. バッハはロマン派や近代の作曲に対しても揶揄しており、時にはカントリー・ミュージック(エディプス・テックス)やラップ(クラシックのラップ)に及ぶこともある。フリッツの上のアインシュタインへの序曲においては、ミニマル音楽の語法で曲が進行する間、1人の男性にいびきをかくように指示している。
ピーター・シックリーは、P. D. Q. バッハの作曲様式を3期に分けて分析している。それぞれ、初期飛び込み期(Initial Plunge)、ずぶ濡れ期(Soused Period)、後悔期(Contrition)である。
^Schickele, Peter. The Definitive Biography of P.D.Q. Bach, page 3: "the night of the 31st of March, 1742," "giving birth to his twenty-first child," "at one minute after midnight"
^Schickele, Peter. The Definitive Biography of P.D.Q. Bach, page 110