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フランス6人組にんぐみ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジャック=エミール・ブランシュ『6人組にんぐみ面々めんめん』(1921ねん)。中央ちゅうおうはピアニストのマルセル・メイエ左側ひだりがわしたからタイユフェール、ミヨー、オネゲル、ピアニストのジャン・ヴィエネル英語えいごばん右側みぎがわ左上ひだりうえがプーランク、となりジャン・コクトーしたがオーリック。デュレはこのころすでに6人組にんぐみからはなれていたためえがかれていない。

フランス6人組にんぐみ(フランスろくにんぐみ ふつLes Six)は、20世紀せいき前半ぜんはんフランス活躍かつやくした作曲さっきょく集団しゅうだんたんに「6人組にんぐみ」ともばれる。全員ぜんいん活動かつどうしたのはたったの1かいであった。

ロマン音楽おんがく印象いんしょう主義しゅぎ音楽おんがくとは一線いっせんかくし、しん古典こてん主義しゅぎ音楽おんがくふくまれる傾向けいこうしめす。

彼等かれらひとつのグループであっても「おな音楽おんがくてき傾向けいこうわせていない」とかたっていたものの、今日きょう音楽おんがく学者がくしゃ批評ひひょうかれらの音楽おんがくを「家族かぞくてき作風さくふう」というひとつの傾向けいこうにまとめている。また、つねあたらしい音楽おんがく提案ていあんしていたグループとしてもられ、ぜん音階おんかい(ドレミファソラシド)に最後さいご可能かのうせいもとめた音楽家おんがくか集団しゅうだんでもあった[1]

フランス6人組にんぐみ作曲さっきょく

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結成けっせい経緯けいい

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オネゲル、ミヨー、タイユフェールの3にんパリ音楽おんがくいん同期生どうきせいであり、デュレ、オネゲル、オーリックはエリック・サティらと「あたらしい若者わかもののためのグループ(ヌヴォー・ジュンヌ)」を結成けっせいしていた。1917ねんころにはサティの『パラード』に感銘かんめいけたプーランクが合流ごうりゅうする。

プーランクによれば、当時とうじヴィユ・コロンビエ劇場げきじょう運営うんえいまかされていた声楽せいがくジャーヌ・バトリ企画きかくした、上記じょうき6にん作曲さっきょくのコンサートが「6人組にんぐみ成立せいりつ発端ほったんとなった[2]。また、かれらはモンパルナス画家がかたちのアトリエにおいて、パブロ・ピカソジョルジュ・ブラックアメデオ・モディリアーニらと共同きょうどうで、音楽おんがく美術びじゅつのコラボレーション「竪琴たてごととパレット」を企画きかくするなどの活動かつどうおこなった[2]

かれらとつながりがふかかった詩人しじんジャン・コクトーは、『雄鶏おんどりとアルルカン』(1918ねん3がつ)、『パリ・ミディ』1919ねん)において印象派いんしょうはにかわるあたらしいフランス音楽おんがく必要ひつようせいき、コクトーの影響えいきょうけた批評ひひょうアンリ・コレかれらを「6人組にんぐみ」とづけ、1920ねん1がつ16にちづけの『コメディア』に「ロシア5人組にんぐみ、フランス6人組にんぐみ、そしてエリック・サティ」を掲載けいさいし、この名称めいしょうひろめた[3]

メンバーとしての創作そうさく活動かつどうすくなく、共同きょうどう制作せいさくによるピアノ小品しょうひんしゅう6人組にんぐみのアルバム』(1920ねん)、デュレをのぞく5にん合作がっさくによる『エッフェル塔えっふぇるとう花嫁はなよめ花婿はなむこ』(1921ねんバレエ・スエドワ委嘱いしょくによる)などがあるのみである。

出典しゅってん

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  1. ^ エヴリン・ユラール=ヴィルタール ちょはたゆうぶんまわし やく『フランス6人組にんぐみ 20年代ねんだいパリ音楽家おんがくかぐんぞう晶文社しょうぶんしゃ、1989ねん、15ぺーじISBN 479-495073X 
  2. ^ a b フランシス・プーランク、ステファヌ・オーデル へん千葉ちば文夫ふみお やく『プーランクはかた音楽家おんがくか詩人しじんたち』筑摩書房ちくましょぼう、1994ねんISBN 978-4-48-087244-9 
  3. ^ 今谷いまたに和徳かずのり井上いのうえさつき『フランス音楽おんがく春秋しゅんじゅうしゃ、2010ねんISBN 978-4-39-393187-5 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク/参考さんこう文献ぶんけん

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