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アレクサンドル・デュマ・ペール

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
アレクサンドル・デュマ
Alexandre Dumas
アレクサンドル・デュマ Alexandre Dumas
べつ名義めいぎ だいデュマ(Dumas, père)
生年月日せいねんがっぴ (1802-07-24) 1802ねん7がつ24にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1870-12-05) 1870ねん12月5にち(68さいぼつ
出生しゅっしょう フランス共和きょうわこく
ヴィレル・コトレフランス語ふらんすごばん
死没しぼつ フランスの旗 フランス共和きょうわこく
ピュイ
国籍こくせき フランス
職業しょくぎょう 作家さっか
ジャンル ロマン主義しゅぎ 歴史れきし小説しょうせつ 戯曲ぎきょく
著名ちょめい家族かぞく トマ=アレクサンドル・デュマ
マリー=ルイーズ=エリザベート・ラブーレ
アレクサンドル・デュマ・フィス
おも作品さくひん
ダルタニャン物語ものがたり
モンテ・クリストはく
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アレクサンドル・デュマAlexandre Dumasフランス語ふらんすご: [alɛksɑ̃dʁ dymɑ]生誕せいたんデュマ・ダヴィ・ド・ラ・パイユトリーDumas Davy de la Pailleterie[dymɑ davi də la pajət(ə)ʁi])、1802ねん7がつ24にち - 1870ねん12月5にち)は、19世紀せいきフランス小説しょうせつげき作家さっか

椿つばきひめ』をいた息子むすこアレクサンドル・デュマ・フィスしょうデュマ[1]区別くべつして、だいデュマデュマ・ペールDumas, père)とばれる。

人物じんぶつ

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1802ねん7がつ24にちトマ=アレクサンドル・ダヴィ・ド・ラ・パイユトリートマ=アレクサンドル・デュマ)とははマリー=ルイーズ=エリザベート・ラブーレのとしてきたフランスエーヌけんヴィレル・コトレにまれる。

ちちデュマはふつりょうサン=ドマングげんハイチ)で、アレクサンドル=アントワーヌ・ダヴィ・ド・ラ・パイユトリー侯爵こうしゃく黒人こくじん奴隷どれい女性じょせいであるマリー=セゼットのあいだまれた私生児しせいじムラート混血こんけつ)で、トマ=アレクサンドルとづけられた。

アレクサンドル・デュマは、ヴォードヴィル演劇えんげきから出発しゅっぱつして最初さいしょ成功せいこうした『アンリさんせいとその宮廷きゅうてい[2]』(1829ねん)、『ネールのとう[3]』(1832ねん)、『キーン[4]』(1836ねん)などの歴史れきしドラマをき、一躍いちやく有名ゆうめいになり、『さんじゅう』(1844)、『じゅうねん』(1845)、『ブラジロンヌ子爵ししゃく』(1847)のさんさくはじめ、『モンテ・クリストはく』(1844-1846)などの歴史れきし小説しょうせつ発表はっぴょう、さらに『王妃おうひマルゴ』(1845)、『モンソローの婦人ふじん』(1846)など多作たさくとして一世いっせい風靡ふうびした。

デュマは、生前せいぜんなん著作ちょさくけん訴訟そしょうこされている。デュマが混血こんけつしゃであることから、きょう作者さくしゃ黒子くろこしょうして小説しょうせつ工場こうじょう揶揄やゆするきもあった。とりわけ『さんじゅう』で協力きょうりょくしたオーギュスト・マケとの訴訟そしょう合戦かっせんはデュマの名誉めいよけがすことになった。文献ぶんけん研究けんきゅう進展しんてんした現在げんざいでは、たしかにきょう作者さくしゃ何人なんにんいたが、作品さくひん原作げんさくしゃデュマの存在そんざい否定ひていすることができないこと[5]証明しょうめいされている。

生涯しょうがい

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幼年ようねん

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アレクサンドル・デュマのちち
デュマの生家せいか

アレクサンドル・デュマは、1802ねん7がつ24にちトマ=アレクサンドル・ダヴィ・ド・ラ・パイユトリートマ=アレクサンドル・デュマ)とははマリー=ルイーズ=エリザベート・ラブーレのとしてきたフランスエーヌけんヴィレル・コトレにまれる。生家せいか宿屋やどやで、現在げんざいはアレクサンドル・デュマどおり46番地ばんち改名かいめいされて、のこされている[6]

『わが回想かいそう』のなかで、デュマは生家せいかのことをつぎのようにいている。「わたしはパリからランへのみち沿いにある、作家さっかドモスティエがくなったヌーどおりから200、ラシーヌがまれたフェルテ・ミロンから2、ラフォンテーヌがまれたシャトー・ティエリーから7、エーヌけんちいさなまちヴィレール・コテレットでまれた。」[7]

1804ねんから1806ねんにかけて、ちちりたフォセじょうんでいた。その記憶きおくはデュマの小説しょうせつかれている。

わたしおぼえているもっともふる記憶きおくでは、3さいのとき、ちちははわたしはエーヌけんとオワーズけん県境けんきょうのアラモンとロンプレのあいだにあるレ・フォセ(Les Fossé)とばれるちいさなしろんでいた。このちいさなしろは、おそらくみずたされた巨大きょだいほり(fossé)にかこまれていたため、Fossé(フォセ)とばれていたのだ。」[8]

デュマ将軍しょうぐん息子むすこ誕生たんじょうから4ねんの1806ねん2がつ26にちくなる。 アレクサンドル・デュマの祖父そふは1760ねんふつりょうサン=ドマングげんハイチ)に移住いじゅうした貧乏びんぼう侯爵こうしゃく祖母そぼ黒人こくじん解放かいほう奴隷どれいだったため、母親ははおやマリー=ルイーズ・ラブーレは、アレクサンドルをれてヴィレル・コトレにある両親りょうしんいえきゅうオテル・ド・レペ)[9]もどり、母方ははかた祖父母そふぼがアレクサンドルといもうとそだてる。

青春せいしゅん時代じだい

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デュマ将軍しょうぐんナポレオン・ボナパルトともエジプト遠征えんせい従軍じゅうぐんしていたさい、エジプト遠征えんせいを「ナポレオンの個人こじんてき野心やしんもとづくもの」と批判ひはんしたため、ナポレオンとの関係かんけい悪化あっかし、フランスに帰国きこくすることとなった。「かれらは実際じっさいひどく不幸ふこうであった。将軍しょうぐん全然ぜんぜん財産ざいさんのこさなかった。皇帝こうてい引続ひきつづ反逆はんぎゃくしゃつま謁見えっけんすることを拒否きょひしていたので、皇帝こうていにはなに期待きたいできなかった。ブリュヌ、オージュロー、ランヌなどの戦友せんゆうがデュマの功績こうせき皇帝こうていおもいおこさせようとしたが、ナポレオンはひややかに、「あのおとこのことは今後こんごいち切口きりくちにするな」とこたえた。」[10] そのため、デュマ将軍しょうぐんくなったあと、のこされた寡婦かふにはまった収入しゅうにゅうがなかった。母親ははおやは9さいになるとかれ正規せいき学校がっこうではなく、ヴィレル・コトレのルイ・クリソストーム・グレゴワール神父しんぷ[11]じゅくれた。

かれはあまりたいしたことはおそわらなかった。ならったのはラテン語らてんごすこしと文法ぶんぽうすこし、だがその習字しゅうじだけはふでおわりのかざりやハートがたやバラがたかざりをぜてますます進歩しんぽした。それは見事みごとだがはなもちならなかった。算数さんすうにおけると同様どうよういのりのほうも、しゅいのりぶん(パテール)、天使てんし祝詞のりと(アヴェ・マリア)、使徒しとしんけい(クレド)のみっ以上いじょうはおぼえなかった。うまれつきのこのみのせいで、かれはいつまでたってもいっこうに教育きょういくにつかず、野蛮やばんれとともにもりなかにまきおこる自然しぜんおとみみかたむけるもり子供こどもであった。」[12]

演劇えんげきひら先達せんだつ役割やくわりたしたのはおなどしのアドルフ・ド・ルーヴァンであった。1820―21ねんごろ2人ふたりすうへんのヴォードヴィル台本だいほんいた。もちろん、台本だいほん上演じょうえんにはいたらなかった。当代とうだいのシェークスピアげき俳優はいゆうタルマにわせたのもかれである。

「タルマ、あなたにおれいいにたんです」と、ルーヴァンがった。

「やあ、きみのおわか詩人しじん満足まんぞくしてますか」と、タルマ。「明日あしたください。ぼくはレギュルスをえんずるよ」

「あーあ」とデュマは溜息ためいきをついた。「明日あしたぼくはパリをたねばならないんです。ぼく田舎いなか公証こうしょうじん書記しょきなんです」

「へえっ」と、タルマ。「コルネイユ弁護士べんごし書記しょきでしたよ......諸君しょくん未来みらいのコルネイユを紹介しょうかいもうげます」

デュマはあおざめた。「ぼくがくにさわってください」と、かれはタルマにたのんだ。「そうすると幸運こううんるんです」

「いいとも」と、タルマ。「シェクスピアコルネイユシラーにおいて、なんじ詩人しじんとして洗礼せんれいする」

それから、つけくわえて、「いいかね。この青年せいねん情熱じょうねつえている。それだけでも、きっとなにかになるよ」[13]

げき作家さっか

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よく1823ねんちち友人ゆうじんであったフォア将軍しょうぐんのおかげでのちにフランスおうルイ=フィリップ1せいとなるオルレアンこう秘書ひしょしょくることができ、給料きゅうりょうたためイタリアじん広場ひろば現在げんざいはPlace Boieldieuボイエルデュー広場ひろば)のアパートに田舎いなかからははせることができた。かれ早速さっそく2かい隣人りんじん縫製ほうせいぎょういとなむカトリーヌ・ラベ―を誘惑ゆうわくして、翌年よくねん私生児しせいじませた。それがしょうデュマである。野生やせい発展はってんのデュマは次々つぎつぎ女性じょせいし、私生児しせいじかれだけではない。1831ねんにはベル・クレイサメールとのあいだ女児じょじマリー=アレクサンドリーヌをもうけた。また1840ねんには女優じょゆうイダ・フェリエと結婚けっこんしてフィレンツェにんだ。22さい父親ちちおやになったデュマは家族かぞくのためにはたらくことを余儀よぎなくされたが、げき作家さっかゆめ実現じつげんするためせっせと観劇かんげきつづけて舞台ぶたいのメモをつづけた。このころ舞台ぶたいは、シェイクスピアをはじめとするイギリス演劇えんげき上演じょうえん相次あいつぎ、厳格げんかくさん一致いっち法則ほうそくしばられた伝統でんとうてき古典こてん演劇えんげき一辺倒いっぺんとうのフランス演劇えんげきかい激変げきへんこる準備じゅんび次第しだいととのった。ロマンわかげき作家さっかたちに好都合こうつごうだったのは当時とうじコメディ・フランセーズ王室おうしつ代表だいひょう委員いいんになったイジドール・テイラー男爵だんしゃくがいたことであった。かれヴィクトル・ユーゴーアルフレッド・ド・ヴィニー友人ゆうじんだった。1828ねんシャルル・ノディエたのんでデュマは5まく韻文いんぶんげき『クリスチーヌ』を仕上しあげてテイラー男爵だんしゃく面会めんかいすることになった。

デュマは指定していされた時刻じこく王室おうしつ代表だいひょう委員いいんいえった。年老としおいた女中じょちゅうとびらけてくれた。

「さあはじめたまえ。くんぼくいてるから」と、入浴にゅうよくちゅうのテイラーがった。

「それでは一幕ひとまくだけみますから、らなければそこでめさせてください」

「それはありがたい」と、テイラーはつぶやいた。「きみ連中れんちゅうよりぼく同情どうじょうてきなんだね。いい傾向けいこうだ。さあ、いてるよ」

デュマはだい一幕ひとまくえると、げる勇気ゆうきもなくいた。

「あの、つづけたほうがいいでしょうか」

「もちろん、もちろん」と、テイラーはふるえながらった。「ぼくはベッドににゅうろう......まったく、非常ひじょうによい出来できだよ」

だいまくおわると、王室おうしつ代表だいひょう委員いいんほうからだいさんまくんでくれとたのんだ。そしてだいよんまくも、だいまくもだった。おわるとかれはベッドからびおりてさけんだ。

「さあ、これからすぐに、ぼくといっしょにフランスたまえ」

「どうしてなのですか」

きみ脚本きゃくほん順番じゅんばんをとるためだ」[14]

しかし、『クリスチーヌ』の上演じょうえん延期えんきされ、デュマはわりにあたらしい題材だいざいをフランスの歴史れきしもとめた。それがデュマがフランス劇壇げきだん華々はなばなしいデビューをたした5まく散文さんぶんドラマ『アンリさんせいとその宮廷きゅうてい』である。

『アントニー』の幕切まくぎれの風刺ふうし

1829ねん2がつ10日とおか、「フランス」において翌年よくねんユーゴーの『エルナニ』に先立さきだつこと1ねん本格ほんかくてきなロマン主義しゅぎ演劇えんげき幕開まくあけとなったのである。『エルナニ』は韻文いんぶんであったが、デュマの『アンリさんせいとその宮廷きゅうてい』は散文さんぶんであり、一躍いちやくロマン演劇えんげき旗頭はたがしらとして、そのつづけに戯曲ぎきょく上演じょうえんすることになる。みずからの不倫ふりん体験たいけん題材だいざいにした『アントニー[15]』(1831ねん)はもはや歴史れきしげきではなく現代げんだいげきであり、主人公しゅじんこうのアントニーは当時とうじ社会しゃかい現象げんしょうにすらなったほどである。

『ネールのとう』(1832ねん)は、フレデリック・ガイヤルデという青年せいねんんだ原作げんさくをジュール・ジャナンがれたが、途中とちゅう放棄ほうきした作品さくひんをデュマが最終さいしゅうてきなおした。この作品さくひんは14世紀せいき初頭しょとうのフランス王妃おうひとビュリダンとの権力けんりょく知力ちりょくたたかい、尊属そんぞく殺人さつじん嬰児えいじころし、近親きんしん相姦そうかんというおそれるべき人倫じんりん蹂躙じゅうりん舞台ぶたいにのせ、デュマとガイヤルデの代表だいひょうさくになった歴史れきし秘話ひわであった。その演劇えんげきへの貢献こうけんむことなく、『キーン』(1836ねん)、『ベル=イルじょう[16]』、『カリギュラ』(1837ねん) など、フランスはじめポルト・サンマルタン劇場げきじょう、オデオン、シャルパンティエ、ルネサンスなどパリのあらゆる劇場げきじょう上演じょうえんされた。デュマが生涯しょうがいいた戯曲ぎきょく総数そうすう117[17] とされ、すべてが上演じょうえんされた。上演じょうえんのための台本だいほん収入しゅうにゅう以外いがいに、台本だいほん出版しゅっぱんけん高額こうがくのぼったため当然とうぜん収入しゅうにゅうもうなぎのぼりになった。

小説しょうせつ

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デュマの歴史れきしてき知識ちしきについて否定ひていてき懐疑かいぎてき意見いけんおおいが、ウォルター・スコットいつけせとばかりGaule et France 『ガリアとフランス』(1833ねん)でトゥールのグレゴリウスの『フランク』をもとに真面目まじめ歴史れきし研究けんきゅうんだ。

シャルル6せい治世ちせいから現代げんだいいた一連いちれん小説しょうせつつくること。この観点かんてんかられば、『ガリアとフランス』は作品さくひん前庭ぜんていをなす。ガリアはどのようにしてフランスになったのか?デュマは1832ねんわりにほとんど作品さくひんかず、オーギュスタン・ティエリーによるフランスの歴史れきしかんする手紙てがみみ、シャトーブリアンの『歴史れきし研究けんきゅう』をんだ。かれはメモをとり、歴史れきし人々ひとびとおしえるような、自由じゆう友愛ゆうあいかうこの歴史れきし不可避ふかひ感覚かんかくしめすような、この壮大そうだい小説しょうせつシリーズを夢見ゆめみている。[18]

連載れんさい小説しょうせつ

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さて、フランスではエミール・ド・ジラルダンのLa Presse『プレス』とアルノー・デュタクのLe Siècle『世紀せいき』が1836ねん発行はっこうされて、新聞しんぶんというあたらしいメディア時代じだい到来とうらいげられていた。新聞しんぶん定期ていき購読こうどくしゃ資金しきんげんとし、購読こうどくしゃをつなぎとめる有力ゆうりょく武器ぶきとして、いまうテレビの連続れんぞくドラマの原型げんけいとして連載れんさい小説しょうせつ(La suite au prochain numéro 「次号じごうつづく」)という手法しゅほうした。バルザックをはじめ、ウージェーヌ・シュー、フレデリック・スーリエなどとならんでアレクサンドル・デュマも作家さっかとして新聞しんぶん小説しょうせつでも花形はながたになった。

1836ねん小説しょうせつ新聞しんぶん結合けつごう象徴しょうちょうした連続れんぞく小説しょうせつはどのようにまれたか?バルザックサンド、ヴィニー、デュマ、シュー、およびカーの小説しょうせつ短編たんぺんは、『パリ評論ひょうろん』と『りょう世界せかい評論ひょうろん』という主要しゅよう隔月かくげつかん文学ぶんがく雑誌ざっしにすでに登場とうじょうしていた。1836ねんあたらしさは、おも政治せいじあつか日刊にっかん連載れんさい小説しょうせつんだことであった。それまでおも演劇えんげき音楽おんがく芸術げいじゅつ批評ひひょう専用せんようだった新聞しんぶんの「最下さいからん」に侵入しんにゅうしたからだ。1830ねん、7がつ王政おうせい出現しゅつげんで、検閲けんえつ出版しゅっぱんぶつ印紙いんしぜい廃止はいしされたため新聞しんぶんつくられた。パリの日刊にっかん当時とうじ、80フランという高額こうがくやく購読こうどくりょう独占どくせんてき販売はんばいされていた。1836ねん、エミール・ド・ジラルダンが『ラ・プレス』をアルマン・デュタック(かれ以前いぜん共同きょうどう経営けいえいしゃ)が『世紀せいき』をげた。『世紀せいき』は、やく購読こうどくりょうを40フランに設定せっていし、連載れんさい小説しょうせつ読者どくしゃ魅了みりょうした。かれらは大衆たいしゅう発明はつめいしたのだ。1836ねんから1845ねんあいだ主要しゅよう日刊にっかんはそれを真似まね発行はっこう部数ぶすうを2ばいにする。新聞しんぶん発行はっこうごうごとにバラりされるのはそのである。1846ねん、『世紀せいき』は32,885にん加入かにゅうしゃ、『ラ・プレス』は22,170にん、『ル・コンスティチュショナル』は24,771にんたっした。これらの予約よやく家族かぞく世帯せたい読書どくしょクラブ、および貸本かしほん業者ぎょうしゃによっておこなわれているため、ミシュレ―によると、新聞しんぶん全体ぜんたいで1,500,000にん読者どくしゃんでいたという。さらに、連載れんさい小説しょうせつ地方ちほうおよ外国がいこく新聞しんぶんさい掲載けいさいされる。これらの連載れんさいは、そのほんとして印刷いんさつされる。 連載れんさい小説しょうせつ読者どくしゃだれか?とく中流ちゅうりゅう階級かいきゅう一般いっぱん大衆たいしゅうである。きのできないひとにはそのごうげられるのだ。[19]

デュマはげき作家さっかのち最初さいしょ歴史れきし研究けんきゅう、ニュース、旅行りょこう印象いんしょうく。1831ねんから1836ねんまで、かれは『りょう世界せかい評論ひょうろん』に『フランスの歴史れきし歴史れきしてき情景じょうけい』(1831~1832ねん)を、『ラ・プレス』で『歴史れきしてき風景ふうけい』と『イタリア旅行りょこう印象いんしょう』を出版しゅっぱんする。

登場とうじょう人物じんぶつをブイヤベースのなべれて料理りょうりするデュマの戯画ぎが

デュマは1838ねんはじめに一時いちじてきにジラルダンとめて、2かげつ連載れんさい小説しょうせつもとめた『世紀せいき』にうつった。アメリカじん作家さっかジェイムズ・クーパーの"The Pilot: A Tale of the Sea"『水先案内みずさきあんないじん』を下敷したじきにした最初さいしょ本格ほんかくてき連載れんさい小説しょうせつLe Capitaine Paul『ポール船長せんちょう』であった。5月30にちから6がつ23にちまでの19かい連続れんぞく発行はっこうされ、新聞しんぶんに3週間しゅうかんで5,000にん購読こうどくしゃ増加ぞうかをもたらした。これは、アメリカ独立どくりつ戦争せんそう反乱はんらんぐんがわ参加さんかしたスコットランドじんポール・ジョーンズ少将しょうしょう(1747-1792)の生涯しょうがいからの想像そうぞうじょうのエピソードである。さて、このとしからオーギュスト・マケとのみのおおいコラボレーションの時代じだいはじまる。2人ふたりは1838ねんい、様々さまざま作品さくひんとしていく。1843ねんにデュマがサン・ジェルマン・アン・レーにうつったとき、配達はいたつおっと使つかってマケと頻繁ひんぱん連絡れんらくをとり、次々つぎつぎにアイディアをもとめた。1844ねんコメディ・フランセーズれた戯曲ぎきょく摂政せっしょうむすめ』が検閲けんえつによってめられたとき、デュマはマケとともに、クールティル・ドゥ・サンドラスの『ダルタニャンおぼき』から、有名ゆうめいな『さんじゅう』をむアイデアをす。連載れんさいは、『世紀せいき』に1844ねん3がつ14にちからはじまる。ユーゴーは「しんつかむドラマ、あつ情熱じょうねつしん対話たいわかがや文体ぶんたい」と賞賛しょうさんする。かれ成功せいこうは、ウージェーヌ・シュー成功せいこう匹敵ひってきする。突然とつぜん、すべての新聞しんぶんがアレクサンドルをもとめ、かれはすべての契約けいやくれる。『ジュルナル・デ・デバ』のために『モンテ・クリストはく』をはじめ(連載れんさいは1846ねん1がつ15にちまでつづく)、1844ねん、アレクサンドルは『パリ評論ひょうろん』のために、世界せかいてき小説しょうせつである『フェルナンド』(デュモン、1844、3かん)をいた。La Reine Margot『王妃おうひマルゴ』は、『ラ・プレス』に連載れんさいされたバルザックのPaysans『農民のうみん』が購読こうどく更新こうしん読者どくしゃきさせたため、1844ねん12月25にちからわりに連載れんさいされた。1845ねん、『世紀せいき』に『さんじゅう』の続編ぞくへんじゅうねん』が登場とうじょう。La Démocratie pacifique『ラ・デモクラシー・パシフィック』新聞しんぶんに『あかかん騎士きし』が連続れんぞくされる。これらの連載れんさい小説しょうせつのほぼすべてが成功せいこうおさめた。それらを印刷いんさつする日刊にっかんには、あたらしい購読こうどくしゃえる。デュマは1にち12~14あいだはたらいていた。

フランス文学ぶんがくには、1845ねんから1855ねんまでのデュマに匹敵ひってきできるような多作たさく作家さっかは、いまだかつていなかった。8かん、10かんおよ小説しょうせつがひっきりなしに新聞しんぶんしゃ出版しゅっぱんしゃしよせる。フランスのすべての歴史れきしがそこをとおってく。『さんじゅう』の続篇ぞくへんには、『じゅうねん』とむかしなつかしむ『ブラジュロンヌ子爵ししゃく』がつづくことになる。もうひとつのさんさく(『女王じょおうマルゴ』、『モンソローの奥方おくがた』、『よんじゅうにんたい』)は、ヴァロワ王朝おうちょう人々ひとびと舞台ぶたい登場とうじょうさせる。『女王じょおうマルゴ』はカトリーヌ・ド・メディシスとアンリ・ド・ナヴァールの闘争とうそう物語ものがたりである。『モンソローの奥方おくがた』はアンリさんせい時代じだいをきわめて面白おもしろかたっている。『よんじゅうにんたい』はディアーヌ・ド・モンソローがダンジュにたいして、彼女かのじょ恋人こいびとビュッシー・ダンボワーズのきりみをらすはなしである。 これと同時どうじに、デュマはもうひとつの連作れんさく(『女王じょおう首飾くびかざり』、『騎士きしメーゾン・ルージュ』、『ジョゼフ・バルサモ』、『アンジュ・ピトゥー』、『シャルニー伯爵はくしゃく夫人ふじん』)で、フランス君主政体くんしゅせいたい衰退すいたい没落ぼつらくえがいていた。ここで、われわれはデュマの〈歴史れきしてき帝国ていこく主義しゅぎ〉についてかたってもいいとおもう。デュマは初期しょきのうちから、かれ小説しょうせつ領域りょういきにフランスの歴史れきし全体ぜんたい併合へいごうする計画けいかくいていた。「わたしの最初さいしょのぞみは」とかれ自身じしんがいっている。「かぎりないものだ。わたしの最初さいしょ熱望ねつぼうは、いつも不可能ふかのうなことにけられている。どうしてこれを達成たっせいさせたらいいのか?だれもしないように仕事しごとをして、生活せいかつからあらゆる無駄むだはぶき、睡眠すいみんしりぞけて......」こうして読者どくしゃおどろかすような、5、600さつ作品さくひんうまれたのだ。[20]

モンテ・クリストじょう

1846ねん5がつ31にち、デュマは医師いし回顧かいころく最初さいしょ部分ぶぶんである『ジョゼフ・バルサモ』を『ラ・プレス』で出版しゅっぱんはじめたが、1846ねん9がつ6にちにその連載れんさい放棄ほうきした。加入かにゅうしゃ激怒げきどし、ジラルダンとヴェロンはかれうったえた。1847ねん2がつ19にち、デュマは損害そんがい賠償ばいしょうで6,000フランの判決はんけつけ、8かんをジラルダンに、6かんをヴェロンに提供ていきょうした。また、デュマは「歴史れきし劇場げきじょう」の特権とっけん獲得かくとくし『女王じょおうマルゴ』を初演しょえん(1847ねん2がつ20日はつか)として採用さいようした。大衆たいしゅうは、かれのヒーローを生身なまみ人間にんげん演技えんぎるのをがれ、大挙たいきょしてせた。歴史れきし劇場げきじょう金鉱きんこう可能かのうせいがあった。しかし、デュマは1847ねん7がつ25にち完成かんせい披露ひろうする「モンテ・クリスト」というしろをポール・マルリーにてた。みずかまねいた経済けいざいてき必要ひつようにより、かれ大車輪だいしゃりんくことを余儀よぎなくされた。

1848ねん、アレクサンドルは、『ラ・プレス』で『ジョゼフ・バルサモ』のつづきをき、『王妃おうひ首飾くびかざり』の出版しゅっぱん開始かいしした。デュマは、王室おうしつ評判ひょうばんとすために首飾くびかざりの事件じけん扇動せんどうしたのはバルサモだと想像そうぞうしている。この連載れんさいだい成功せいこうをおさめる。 1848ねん革命かくめいはデュマの生活せいかつ台無だいなしにする。革命かくめいかれから収入しゅうにゅううばい(数ヶ月すうかげつあいだ劇場げきじょうけなくなったため)、かれはパリをのちにした。かれは、立法りっぽう選挙せんきょ出馬しゅつばするが落選らくせんする。そのルイ・ナポレオン・ボナパルト対抗たいこうルイ・ウジェーヌ・カヴァニャック支援しえんした。

1850ねんはデュマにとって不吉ふきつとしになった。歴史れきし劇場げきじょう閉鎖へいさ余儀よぎなくされ、1850ねん12がつ20日はつか破産はさん宣言せんげんされ控訴こうそする。一方いっぽう政府せいふ連載れんさい小説しょうせつふくまれる進歩しんぽてきなメッセージをおそれて、印紙いんし条例じょうれい法律ほうりつ復活ふっかつさせた。新聞しんぶん連載れんさい小説しょうせつ出版しゅっぱんしゅう3にちらすことを余儀よぎなくされる。1851ねん、デュマにとってこのとしかなしいわりをむかえる。ルイ・ナポレオンの12月2にちのクーデターをみとめないからだ。また、12月11にち前年度ぜんねんど破産はさん判決はんけつ確認かくにんされ、判決はんけつ通告つうこくされたデュマは、身柄みがら拘束こうそくけるためパスポートを10日とおか査証さしょうさせてブリュッセルきょかまえた。デュマは時々ときどき秘密裏ひみつりにパリにもどる。ブリュッセルに到着とうちゃくするとすぐに、デュマはちゃっかりベルギーの出版しゅっぱんしゃかれ回顧かいころく発行はっこうする。

一方いっぽう、1852ねん6がつ12にちひらかれたデュマの債務さいむ主張しゅちょう手続てつづきは、1853ねん4がつ18にち債務さいむ訴訟そしょうにより結審けっしんし、強制きょうせい和議わぎへのみちひらかれた。デュマはパリにもどることができた。デュマは自分じぶん文学ぶんがく日刊にっかんじゅう」を設立せつりつし、1853ねん11月21にちから印刷いんさつはじめた。そこに『回想かいそう』の継続けいぞく不定期ふていき出版しゅっぱんした。その週刊しゅうかん新聞しんぶん『モンテ・クリスト』(1857ねん4がつ27にち-1860ねん5がつ10日とおか)を設立せつりつした。しかし、どちらの新聞しんぶんおもったように販売はんばい部数ぶすうばせず、掲載けいさいした小説しょうせつ以前いぜんのような精彩せいさいくようになる。失意しついのデュマはたびてインスピレーションをようと計画けいかくした。1858ねんなつかれはロシア、そしてコーカサスへのなが旅行りょこうけた。ロシア帝国ていこくでののような冒険ぼうけんと、バクーから黒海こっかいへのコーカサスの渡航とこうちゅう物語ものがたりいた。かえると出版しゅっぱんしゃのミシェル・レヴィのために署名しょめいした契約けいやくのおかげで(1859ねん12がつ大金たいきんると、たちまちかれはギリシャから聖地せいちエルサレムまでの地中海ちちゅうかい旅行りょこうのためにスクーナーせん購入こうにゅうした。

1860ねん5がつ9にちにマルセイユを出発しゅっぱつしたかれはシチリアとうわたり、契約けいやくきんのこりを友人ゆうじんガリバルディ軍隊ぐんたい武器ぶき購入こうにゅうするために気前きまえよくした。また、その独立どくりつ戦争せんそうのためにガリバルディよりもガリバルディアン新聞しんぶん「L’Independente」を発刊はっかんする。その使命しめいは、イタリアからブルボンの雑草ざっそう根絶こんぜつすることである。しかし、とうのガリバルディはシチリア王国おうこくをイタリア王国おうこく統合とうごうする国民こくみん投票とうひょう引退いんたいしてしまう。のこされたデュマはたたかいをつづけ、はんブルボンの小説しょうせつ『ラ・サン・フェリーチェ』をいた。

晩年ばんねん

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最後さいご最後さいごまでデュマはデュマであった。グルメなかれは、小説しょうせつがかけなくなると死後しご出版しゅっぱんとなる『料理りょうりだい辞典じてん』をいていた。

スペインでのなが滞在たいざいのちかれ息子むすこ別荘べっそうであるディエップのちかくのピュイにうつる。1870ねん9がつ脳卒中のうそっちゅうによりはん麻痺まひ状態じょうたいになったのち、1870ねん12月5にちくなった。

しょうデュマよりジョルジュ・サンド

ピュイにて、1870ねん12月6にち

ちち昨日きのう、12月5にち月曜げつようよる10くるしみもなくくなりました。このだい一番いちばんらせるべきなのは、あなただとつねづねおもっておりましたが、それもいまはかなわぬようです。ちちだれよりもあなたをあいし、あなたを賛美さんびしておりました......

のちになって戦争せんそうおわってから、彼女かのじょ同情どうじょう気持きもちをつたえることができた。[21]

旅行りょこう作家さっか

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すでにいくつかの旅行りょこうしょげたが、デュマはパリでじっとして作品さくひんいていただけではなかった。出版しゅっぱんしゃから出資しゅっししてもらったり、パリにいられない事情じじょうができると様々さまざまくに旅行りょこうした。それが旅行りょこう旅行りょこう印象いんしょう)というジャンルをした。(『スイスのたび印象いんしょう』、『みなみフランス物語ものがたり』、『フィレンツェの1ねん』、『ル・コリコロ』、『ル・スペロナーレ』、『アレナ船長せんちょう』、『ライン川岸かわぎししょう旅行りょこう』、『パルミエリのヴィラ』、『パリからカディス』、『ル・ヴェローチェ、またはタンジール、アルジェ、チュニス』、『しん旅行りょこう印象いんしょう』、『パリからアストラハン、コーカサスまで』)これらの旅行りょこういまどきの旅行りょこうガイドブックの役割やくわりだけでなく、デュマという作家さっか小説しょうせつのための実験じっけんしつともなっている。

旅行りょこう年代ねんだいじゅんならべ、カッコない出版しゅっぱんねん巻数かんすうげる。

1833ねん『スイスのたび印象いんしょう』(1834-1837, 5 vol)

1834ねんしんたび印象いんしょう みなみフランス』(1841, 3 vol)

1835ねん『フィレンツェの1ねん』(1841, 2 vol)

1835ねん『ル・スペロナーレ』(1842, 4 vol)

1835ねん『アレナ船長せんちょう』(1842, 2 vol)

1835ねん『ル・コリコロ』(1843, 4 vol.)

1840-43ねん『パルミエリのヴィラ』(1843, 4 vol)

1840-43ねん『ライン川岸かわぎししょう旅行りょこう』(1841, 3 vol)

1846ねん『パリからカディスへ』(1847-1848, 5 vol)

1846-47ねん『ル・ヴェローチェ、またはタンジール、アルジェ、チュニス』(1848-1851, 4 vol)

1858ねん『パリからアストラハン、コーカサスまで』(1860, 2 vol)

1858-59ねん『コーカサス』(1859)

1860-64ねん『ガリバルディーシチリアとナポリの革命かくめい』(1861)

1864-65ねん オーストリアとハンガリー『しろあお』(1867)

パリのパンテオンに埋葬まいそうされたデュマ

パンテオンへのうつりそう

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2002ねん、アレクサンドル・デュマ生誕せいたん200周年しゅうねん記念きねんしてデュマののこはいパンテオンうつりそうされ、長年ながねん敬愛けいあいしたユーゴーおなじく偉大いだいなフランスじんとしてまつられた。シラク大統領だいとうりょうはインタビューにこたえてデュマをたたえている。

かれ出発しゅっぱつした地点ちてんから到達とうたつした地点ちてんれば、それがいかに素晴すばらしいことかわかります。まだ奴隷どれいせい廃止はいしされていなかった時代じだいに、奴隷どれいまごだったかれげたことのおおきさをわれわれがはかることをわすれてはなりません… デュマのパンテオンへの入場にゅうじょうが、あるしゅ先入観せんにゅうかん最終さいしゅうてきくつがえすことをしんからねがっています。われわれは、この天才てんさいてき作者さくしゃ人気にんきがあるという理由りゆうだけで二流にりゅうだとめつけたのです。それが侮辱ぶじょく欠陥けっかんでもあるかのように!文化ぶんかまんにんのものであること、それをしめすことがパンテオン移転いてん目的もくてきの1つです。『さんじゅう』か『モンテクリストはく』の物語ものがたりなおしてください…これは偉大いだい作品さくひんです。『ブラジロンヌ子爵ししゃく』の権力けんりょく研究けんきゅう真実しんじつ衝撃しょうげきてきちからちています…デュマがパンテオンにはいることで、コレージュやリセの教材きょうざいになることをしんからねがっています。[22]

アレクサンドル・デュマ作品さくひん一覧いちらん

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一覧いちらん[23]

出版しゅっぱん上演じょうえんねん 原題げんだい 邦題ほうだい[24] 邦訳ほうやく(またはその情報じょうほう
1825 La Chasse et l'Amour (théâtre) かりこい戯曲ぎきょく
1826 La Noce et l'Enterrement (théâtre) 結婚式けっこんしき埋葬まいそう戯曲ぎきょく
1829 Henri III et sa cour (théâtre) アンリさんせいとその宮廷きゅうてい戯曲ぎきょく ちゅう田平たひら やく、デジタルエステイト、2016
1830 Christine クリスティーヌまたはストックホルム、フォンテーヌブロー、ローマ(戯曲ぎきょく
1831 Napoléon Bonaparte ou Trente ans de l’Histoire de France (théâtre) ナポレオン・ボナパルト、またはフランスの30ねん戯曲ぎきょく
Antony (théâtre) アントニー(戯曲ぎきょく ちゅう田平たひら やく、デジタルエステイト、2016
Charles VII chez ses grands vassaux (théâtre) シャルル7せいとその重臣じゅうしん戯曲ぎきょく
Teresa (théâtre) テレサ(戯曲ぎきょく
1832 La Tour de Nesle (théâtre) ネールのとう戯曲ぎきょく ちゅう田平たひら やく、デジタルエステイト、2017
1833 Angèle (théâtre) アンジェル(戯曲ぎきょく
Gaule et France (essai) ガリアとフランス(歴史れきししょ
Impressions de voyage 旅行りょこう印象いんしょう旅行りょこう
1834 Catherine Howard (théâtre) キャサリン・ハワード(戯曲ぎきょく
Souvenirs d’Anthony 『アントニー』のおも回想かいそうろく
1835 Chroniques de France : Isabel de Bavière フランスのクロニクル。バイエルンのイザベル
1836 Kean (théâtre) キーン(戯曲ぎきょく ちゅう田平たひら やく、デジタルエステイト、2019
Piquillo (opéra-comique)[38] ピキロ(戯曲ぎきょく
1837 Caligula (théâtre) カリギュラ(戯曲ぎきょく ちゅう田平たひら やく、デジタルエステイト、2021
Mademoiselle de Belle-Isle (théâtre) ベル=イルじょう戯曲ぎきょく ちゅう田平たひら やく、デジタルエステイト、2018
1838 Pauline ポーリーヌ 小川おがわ節子せつこ日本にっぽん図書としょ刊行かんこうかい、 2005
1839 Le Capitaine Paul ポール船長せんちょう
Le Capitaine Pamphile パンフィル船長せんちょう
La Comtesse de Salisbury ソールズベリー伯爵はくしゃく夫人ふじん(フランスだい
L'Alchimiste (théâtre) 錬金術れんきんじゅつ戯曲ぎきょく
Acté アクテ
Crimes célèbres(Les Cenci, La marquise de Brinvilliers, Karl Ludwig Sand, Marie Stuart, La marquise de Ganges, Murat, Les Borgia, Urbain Grandier, Vaninka, Massacres du Midi, La comtesse de Saint-Géran, Jeanne de Naples, Nisida, Derues, Martin Guerre, Ali Pacha, La Constantin, L'homme au masque de fer.) 有名ゆうめい犯罪はんざい(ブランヴィリエ侯爵こうしゃく夫人ふじん、カール・ルートヴィヒ・サンド、メアリー・スチュアート、ガンジュ侯爵こうしゃく夫人ふじん、ミュラ、ボルジア、ユルバン・グランディエ、ヴァニンカ、南仏なんふつ虐殺ぎゃくさつ、サン=ゲラン伯爵はくしゃく夫人ふじん、ナポリのジャンヌ、ニシダ、ドリュー、マルタン・ゲール、アリ・パシャ、ラ・コンスタンタン、てつ仮面かめんおとこ メアリー・スチュアート、田房たふさ直子なおこやく作品社さくひんしゃ、2008。

ボルジア田房たふさ直子なおこやく作品社さくひんしゃ、2016。

ボルジア風雲ふううんろく (うえ) 教皇きょうこう一族いちぞく野望やぼう・ボルジア風雲ふううんろく (した) 智将ちしょうチェーザレの激闘げきとう吉田よしだ良子りょうこやく、イースト・プレス 、2013

1840 Napoléon ナポレオン
Aventures de John Davys ジョン・デイビスの冒険ぼうけん
Othon l’archer 射手しゃしゅオトン
Les Stuarts スチュアート人々ひとびと
Maître Adam le calabrais カラブリアじんアダム先生せんせい
Le Maître d’armes 衛兵えいへいちょう
1841 Praxède すめらぎプラクセデス
Nouvelles Impressions de voyage (Midi de la France) しん旅行りょこう印象いんしょうみなみフランス(旅行りょこう みなみフランス物語ものがたり フォンテーヌブローからマルセイユまで、ちゅう田平たひら やく、デジタルエステイト、2022
Excursions sur les bords du Rhin ラインがわのほとりのしょう旅行りょこう旅行りょこう
Souvenirs de voyage : Une année à Florence フィレンツェのいちねん旅行りょこう
Un mariage sous Louis XV (théâtre) ルイ15せい治下ちか結婚けっこん戯曲ぎきょく
1842 Jeanne la pucelle (1429-1431) ジェアンヌ・ラ・ピュセル
Lorenzino (théâtre) ロレンジーノ(戯曲ぎきょく
Le Speronare スペロナーレ(旅行りょこう
Le Capitaine Arena アレーナ船長せんちょう
Halifax (théâtre) ハリファックス(戯曲ぎきょく
La Villa Palmieri ラ・ヴィラ・パルミエリ(フィレンツェ旅行りょこう
Le Chevalier d'Harmental アルマンタルの騎士きし
1843 Le Corricolo コリコロ(ナポリ旅行りょこう 『コリコロ』上下じょうげまきちゅう田平たひら やく、デジタルエステイト、2021
Les Demoiselles de Saint-Cyr (théâtre) サン=シールのお嬢様じょうさま戯曲ぎきょく
Louise Bernard (théâtre) ルイーズ・ベルナール(戯曲ぎきょく
Filles 少女しょうじょ、ロレット、遊女ゆうじょ
Georges ジョルジュ 小川おがわ節子せつこ日本にっぽん図書としょ刊行かんこうかい 、2001
Ascanio ou l'Orfèvre du roi アスカニオ(戯曲ぎきょく
1844 Sylvandire シルヴァンディール(戯曲ぎきょく
Fernande フェルナンド
Les Trois Mousquetaires さんじゅう さんじゅう生島いくしまりょういちやく岩波いわなみ文庫ぶんこ上下じょうげ)、1970

さんじゅう竹村たけむら たけしやく角川かどかわ文庫ぶんこ上中かみなか)、200

『ダルタニャン物語ものがたり鈴木すずき 力衛りきえやく復刊ふっかんドットコム、2011、だい1〜2かん

Albine ou le Château d’Eppstein エップシュタインじょう
Gabriel Lambert ガブリエル・ランベール
Louis XIV et son siècle ルイ14せいとその世紀せいき
1845 Contes 童話どうわしゅう
Vingt ans après じゅうねんさんじゅう続編ぞくへん 『ダルタニャン物語ものがたり鈴木すずき 力衛りきえやく復刊ふっかんドットコム、2011、だい3〜5かん
Une amazone アマゾネス
Le Comte de Monte-Cristo モンテ・クリストはく 山内やまうち 義雄よしおやく岩波書店いわなみしょてん、1956
Une fille du régent 摂政せっしょうむすめ
La Reine Margot 王妃おうひマルゴ 榊原さかきばらあきらさんやく河出かわで文庫ぶんこ上下じょうげ、1997

鹿島かしましげるやく、グーテンベルク21、上下じょうげ2015、Kindleばん

Les Frères corses コルシカの兄弟きょうだい 英語えいご映画えいがあり。The Corsican Brothers
Le Chevalier de Maison-Rouge あかかん騎士きし 鈴木すずき ゆたかやく復刊ふっかんドットコム、2011、上中かみなかKindleばん
1846 La Dame de Monsoreau モンソローの奥方おくがた 小川おがわ節子せつこ やく近代きんだい文藝ぶんげいしゃ、2004
Joseph Balsamo ジョゼフ・バルサモ あずま あきらによるWeb翻訳ほんやくページhttps://longuemare.gozaru.jp/hon/dumas/mm01jb/jb00a.html
Les Deux Diane 二人ふたりのダイアナ
1847 Impressions de voyage : De Paris à Cadix 旅行りょこう印象いんしょう。パリからカディスへ
Les Quarante-cinq よんじゅうにんたい(『王妃おうひマルゴ』、『モンソローの奥方おくがた』につづ宗教しゅうきょう戦争せんそうさんさく最後さいご作品さくひん
Le Chevalier de Maison-Rouge (théâtre) モンソローの奥方おくがた戯曲ぎきょく
Catilina (théâtre) カティリーナ(戯曲ぎきょく
Hamlet デンマーク王子おうじハムレット(戯曲ぎきょく
Le Vicomte de Bragelonne ou Dix ans plus tard ブラジロンヌ子爵ししゃくまたは10ねん、あるいはさんじゅうの20ねん 『ダルタニャン物語ものがたり鈴木すずき 力衛りきえやく復刊ふっかんドットコム、2011、だい6〜11かん
1849 Les Mille et Un Fantômes せんれいいちれい物語ものがたり 前山まえやまゆうやく光文社こうぶんしゃ、2019
Le Collier de la reine 王妃おうひ首飾くびかざ 大久保おおくぼ和郎かずおやく はじめもと推理すいり文庫ぶんこ上下じょうげ)、1981
1850 La Femme au collier de velours ベルベットのえり夫人ふじん
La Tulipe noire くろいチューリップ 横塚よこつか光雄みつお やく、グーテンベルク21、2012、Kindleばん

そう左近さこんわけはじめもと推理すいり文庫ぶんこ、1971

Le Trou de l’enfer 地獄じごくあな(シャルルマーニュのクロニクル)
Le vingt-quatre février がつじゅうよんにち がつじゅうよんにちちゅう田平たひら わけ、デジタルエステイト、2022
1851 Montevideo ou Une nouvelle Troie モンテビデオまたはあたらしいトロイの木馬もくば
Le Drame de quatre-vingt-treize 93ねんのドラマ
Impressions de voyage : Suisse 旅行りょこう印象いんしょう。スイス
Ange Pitou アンジュ・ピトゥー 部分ぶぶんやく継続けいぞくちゅうhttps://longuemare.gozaru.jp/hon/dumas/mm03ap/ap001.html
Isaac Laquedem イザーク・ラクデム
Olympe de Clèves クリーブのオリンパス
Conscience l’innocent 無邪気むじゃきしん
Un Gil Blas en Californie カリフォルニアのジル・ブラス 『カリフォルニアのジル・ブラス』ちゅう田平たひら中田なかたたかやく、デジタルエステイト、2023
Histoire de la vie politique et privée de Louis-Philippe 最後さいごおう(ルイフィリップの政治せいじてきおよび私生活しせいかつ歴史れきし
Mes Mémoires 回想かいそう
Mémoires de Jeanne d’Albert de Luynes かみさだめたもう
1853 La Comtesse de Charny シャルニー伯爵はくしゃく夫人ふじん
Le Pasteur d’Ashbourne アシュボーンの牧師ぼくし
Les Drames de la mer うみのドラマ
Ingénue アンジェニュ
1854 La Jeunesse de Pierrot ピエロの青春せいしゅん
Une vie d’artiste 画家がか人生じんせい
Catherine Blum カトリーヌ・ブルム 小川おがわ節子せつこ日本にっぽん図書としょ刊行かんこうかい、2007
Vie et Aventures de la princesse de Monaco モナコ王女おうじょ人生じんせい冒険ぼうけん
Le Marbrier (théâtre) ル・マルブリエ(戯曲ぎきょく
La Conscience (théâtre) やま紳士しんし戯曲ぎきょく
Le Capitaine Richard リシャール大尉たいい いぬい 実歩みほ やく、グーテンベルク21、2007(電子でんし書籍しょせき
Les Mohicans de Paris パリのモヒカンぞく
Souvenirs de 1830 à 1842 1830ねんから1842ねんまでのおも
La Jeunesse de Louis XIV (théâtre) ルイ14せい青春せいしゅん戯曲ぎきょく
1855 La Dernière Année de Marie Dorval マリー・ドルバルの晩年ばんねん
Le Page du duc de Savoie サボイ公爵こうしゃく小姓こしょう
Les Grands Hommes en robe de chambre : César オレステイア(戯曲ぎきょく
Mémoires d'une aveugle ou Madame du Deffand ある盲目もうもく女性じょせい回想かいそうあるいはデファン夫人ふじん
1856 Les Compagnons de Jéhu イエフの仲間なかま
La Tour Saint-Jacques (théâtre) サン・ジャックとう
Un cadet de famille ou Mémoires d'un jeune cadet いえ次男じなんぼう
1857 Charles le Téméraire 無鉄砲むてっぽうしゃシャルル
Le Meneur de loups オオカミの首領しゅりょう
L'Invitation à la valse (théâtre) ワルツへの招待しょうたい戯曲ぎきょく
1858 Black くろ
Les louves de Machecoul マシュクールのオオカミ
L'Horoscope ホロスコープ 『ホロスコープ:宗教しゅうきょう戦争せんそう前夜ぜんやのルーヴルみやちゅう田平たひら中田なかたたかやく、デジタルエステイト、2023
De Paris à Astrakan ou Voyage en Russie パリからアストラカンまで、あたらしい旅行りょこう印象いんしょう
1859 Voyage au Caucase コーカサスのたび
L'Île de feu しま
Le Fils du forçat 徒刑囚とけいしゅう息子むすこ
1860 La Maison de glace こおりいえ
La Route de Varennes ヴァレンヌへのみち
Mémoires de Garibaldi ガリバルディ回想かいそうろく 『ガリバルディ回想かいそうろくちゅう田平たひら中田なかたたかやく、デジタルエステイト、2024
Une aventure d’amour あい冒険ぼうけん
Le Roman d'Elvire (opéra-comique)[65] エルビラの小説しょうせつ(オペラ・コミック)
Le Père La Ruine ラルイーン神父しんぷ
Le Père Gigogne ジゴーニュ親父おやじ
La Marquise d’Escoman デスコマン侯爵こうしゃく夫人ふじん
L'Envers d'une conspiration (théâtre) 陰謀いんぼう裏側うらがわ
1861 Une nuit à Florence sous Alexandre de Médicis シャンブレー夫人ふじん戯曲ぎきょく
Bric-à-brac がらくた
1863 La Boule de neige ゆきだま
La Dame de volupté ou Mémoires de Jeanne d’Albert de Luynes よろこびの奥方おくがた
1864 La San-Felice サン・フェリーチェ
Emma Lyonna エンマ・リヨナ
La Princesse Flora フローラ王らおうおんな
Le Destin de la San Felice サン・フェリーチェの運命うんめい
Les Deux Reines 二人ふたり女王じょおう
1865 Souvenirs d'une favorite 寵姫ちょうきおも
Le Fils du forçat 徒刑囚とけいしゅう息子むすこ
1866 Le Comte de Mazzara マッツァーラの伯爵はくしゃく
1867 Les Blancs et les Bleus しろあお
Les Hommes de fer てつ仮面かめん 『ダルタニャン物語ものがたり鈴木すずき 力衛りきえやく復刊ふっかんドットコム、2011、だい10かん

石川いしかわ登志夫としおやく、グーテンベルク21 、2013、Kindleばん

Histoire d'un lézard (Souvenirs de Naples) トカゲのはなし(ナポリのおも
1868 Les Garibaldiens ガリバルディ義勇軍ぎゆうぐん
La Terreur prussienne プロシャの脅威きょうい
1870(死後しご) Le Grand dictionnaire de cuisine だい料理りょうり事典じてん 『デュマのだい料理りょうり事典じてんつじ 静雄しずお, 林田はやしだ りょうみぎやく岩波書店いわなみしょてん、1993

脚注きゃくちゅう出典しゅってん

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  1. ^ おなじアレクサンドル・デュマを名乗なのった3だい祖父そふちちについて、アンドレ・モーロワは「3にんのデュマ」という伝記でんきいている。André Maurois, Les Trois Dumas, éd.Hachette, 1957。訳書やくしょは『アレクサンドル・デュマ』菊地きくちうつやく筑摩書房ちくましょぼう、1971ねん
  2. ^ アンリさんせいとその宮廷きゅうてい. デジタルエステイト. (ちゅう田平たひら やく、デジタルエステイト、2016) 
  3. ^ ネールのとう. デジタルエステイト. (2017) 
  4. ^ キーン. デジタルエステイト. (2019) 
  5. ^ Fernande Bassan, Histoire de la Tour de Nesle de Dumas père et Gaillardet, Nineteenth-Century French Studies, III、 Nos.1-2 (Fall Winter 1974-75)、 pp.42-43、 Note3.『ネールのとう まくきゅうけいドラマ』デジタルエステイト、2016ねん、128ページ以降いこう
  6. ^ 46 Rue Alexandre Dumas, 02600 Villers-Cotterêts, フランス
  7. ^ Alexandre Dumas, Mes mémoires (https://books.google.fr/books?id=Tp8DAAAAYAAJ&printsec=frontcover#v=onepage& q&f=false), Michel Lévy frères, Paris, 1863, chap. I, p. 3. 『わが回想かいそう』は翻訳ほんやく。アレクサンドル・デュマどおり46のデュマの生家せいかあとから徒歩とほ5ふんほどのドモスティエどおり24にアレクサンドル・デュマ博物館はくぶつかんがある。
  8. ^ Alexandre Dumas, Le Meneur de Loups (https://books.google.fr/books?id=BhlMAAAAMAAJ&printsec=frontcover#v=one page&q&f=false), Michel Lévy frères, Paris, 1868, p. 4. 『おおかみ首領しゅりょう』は翻訳ほんやく
  9. ^ アレクサンドル・デュマどおり46番地ばんちちゅう参照さんしょうのこと。
  10. ^ 『アレクサンドル・デュマ』25ページ。
  11. ^ 1954ねん出版しゅっぱんされた小説しょうせつCatherine Blum『カトリーヌ・ブルム』は少年しょうねん時代じだいごしたヴィレル・コトレを題材だいざいにしていて、そのなかにグレゴワール神父しんぷおもんでいる。『カトリーヌ・ブルム』小川おがわ節子せつこやく日本にっぽん図書としょ刊行かんこうかい、2005ねん
  12. ^ 『アレクサンドル・デュマ』27ページ。
  13. ^ 『アレクサンドル・デュマ』37ページ。
  14. ^ 『アレクサンドル・デュマ』49ページ。
  15. ^ アントニー. デジタルエステイト. (2016) 
  16. ^ ベル=イルじょう. デジタルエステイト. (2018) 
  17. ^ Fernand Bassan (1974). Alexandre Dumas père, Théâtre complet I. Minard 
  18. ^ Claude Schopp, Alexandre Dumas, le genie de la vie, Éditions Mazarine, pp.239-240. クロード・ショップちょ『アレクサンドル・デュマ、人生じんせい天才てんさい翻訳ほんやく
  19. ^ Fernand Bassan (Fall—Winter 1993-1994). “Le roman-feuilleton et Alexandre Dumas père (1802-1870)”. Nineteenth-Century French Studies Vol. 22, No. 1/2: 100-101. 
  20. ^ 『アレクサンドル・デュマ』167ページ。
  21. ^ 『アレクサンドル・デュマ』363ページ。
  22. ^ Alexandre Dumas >”. www.dumaspere.com. 2020ねん2がつ22にち閲覧えつらん
  23. ^ アレクサンドル・デュマの書誌しょしについてはダグラス・マンロー『アレクサンドル・デュマちちの1825ねんから1900ねんまでのフランス語ふらんすごによる作品さくひん書誌しょし』がもっと詳細しょうさいである。Douglas Munro, Alexandre Dumas père A Bibliography of Works, published in French, 1825-1900, Garland Publishing, inc, 1981. また、フランス語ふらんすごによる著作ちょさく検索けんさくについては http://www.dumaspere.com/pages/oeuvre/dictionnaire.html詳細しょうさいである。おおくのリンクさきには作品さくひん概要がいよう分析ぶんせきがついていて非常ひじょう有用ゆうようである。
  24. ^ 邦題ほうだいについて、すでに邦訳ほうやくがあるものはそれを優先ゆうせんし、翻訳ほんやくのものについては原題げんだいしたがった

文献ぶんけん

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外部がいぶリンク

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