アレクサンドル・デュマ (Alexandre Dumas 、フランス語 ふらんすご : [alɛksɑ̃dʁ dymɑ] 、生誕 せいたん 時 じ 、デュマ・ダヴィ・ド・ラ・パイユトリー (Dumas Davy de la Pailleterie 、[dymɑ davi də la pajət(ə)ʁi] )、1802年 ねん 7月 がつ 24日 にち - 1870年 ねん 12月5日 にち )は、19世紀 せいき フランス の小説 しょうせつ 家 か 、劇 げき 作家 さっか 。
『椿 つばき 姫 ひめ 』を書 か いた息子 むすこ アレクサンドル・デュマ・フィス (小 しょう デュマ )[1] と区別 くべつ して、大 だい デュマ (デュマ・ペール 、Dumas, père )と呼 よ ばれる。
1802年 ねん 7月 がつ 24日 にち にトマ=アレクサンドル・ダヴィ・ド・ラ・パイユトリー (トマ=アレクサンドル・デュマ )と母 はは マリー=ルイーズ=エリザベート・ラブーレの子 こ として北 きた フランスエーヌ県 けん ヴィレル・コトレに生 う まれる。
父 ちち デュマは仏 ふつ 領 りょう サン=ドマング (現 げん ハイチ )で、アレクサンドル=アントワーヌ・ダヴィ・ド・ラ・パイユトリー侯爵 こうしゃく と黒人 こくじん 奴隷 どれい 女性 じょせい であるマリー=セゼットの間 あいだ に生 う まれた私生児 しせいじ のムラート (混血 こんけつ )で、トマ=アレクサンドルと名 な づけられた。
アレクサンドル・デュマは、ヴォードヴィル 演劇 えんげき から出発 しゅっぱつ して最初 さいしょ に成功 せいこう した『アンリ三 さん 世 せい とその宮廷 きゅうてい [2] 』(1829年 ねん )、『ネールの塔 とう [3] 』(1832年 ねん )、『キーン[4] 』(1836年 ねん )などの歴史 れきし ドラマを書 か き、一躍 いちやく 有名 ゆうめい になり、『三 さん 銃 じゅう 士 し 』(1844)、『二 に 十 じゅう 年 ねん 後 ご 』(1845)、『ブラジロンヌ子爵 ししゃく 』(1847)の三 さん 部 ぶ 作 さく を始 はじ め、『モンテ・クリスト伯 はく 』(1844-1846)などの歴史 れきし 小説 しょうせつ を発表 はっぴょう 、さらに『王妃 おうひ マルゴ 』(1845)、『モンソローの婦人 ふじん 』(1846)など多作 たさく 家 か として一世 いっせい を風靡 ふうび した。
デュマは、生前 せいぜん 何 なん 度 ど も著作 ちょさく 権 けん 訴訟 そしょう を起 お こされている。デュマが混血 こんけつ 者 しゃ であることから、共 きょう 作者 さくしゃ を黒子 くろこ と称 しょう して小説 しょうせつ 工場 こうじょう と揶揄 やゆ する向 む きもあった。とりわけ『三 さん 銃 じゅう 士 し 』で協力 きょうりょく したオーギュスト・マケ との訴訟 そしょう 合戦 かっせん はデュマの名誉 めいよ を汚 けが すことになった。文献 ぶんけん 研究 けんきゅう が進展 しんてん した現在 げんざい では、確 たし かに共 きょう 作者 さくしゃ は何人 なんにん いたが、作品 さくひん で原作 げんさく 者 しゃ デュマの存在 そんざい を否定 ひてい することができないこと[5] が証明 しょうめい されている。
アレクサンドル・デュマの父 ちち
デュマの生家 せいか
アレクサンドル・デュマは、1802年 ねん 7月 がつ 24日 にち 、トマ=アレクサンドル・ダヴィ・ド・ラ・パイユトリー (トマ=アレクサンドル・デュマ )と母 はは マリー=ルイーズ=エリザベート・ラブーレの子 こ として北 きた フランスエーヌ県 けん ヴィレル・コトレに生 う まれる。生家 せいか は宿屋 やどや で、現在 げんざい はアレクサンドル・デュマ通 どお り46番地 ばんち と改名 かいめい されて、残 のこ されている[6] 。
『わが回想 かいそう 』のなかで、デュマは生家 せいか のことを次 つぎ のように書 か いている。「私 わたし はパリからランへの道 みち 沿 ぞ いにある、作家 さっか ドモスティエが亡 な くなったヌー通 どお りから200歩 ほ 、ラシーヌが生 う まれたフェルテ・ミロンから2里 り 、ラフォンテーヌが生 う まれたシャトー・ティエリーから7里 り 、エーヌ県 けん の小 ちい さな町 まち ヴィレール・コテレットで生 う まれた。」[7]
1804年 ねん から1806年 ねん にかけて、父 ちち が借 か りたフォセ城 じょう に住 す んでいた。その記憶 きおく はデュマの小説 しょうせつ に書 か かれている。
「私 わたし が覚 おぼ えているもっとも古 ふる い記憶 きおく では、3歳 さい のとき、父 ちち と母 はは と私 わたし はエーヌ県 けん とオワーズ県 けん の県境 けんきょう のアラモンとロンプレの間 あいだ にあるレ・フォセ(Les Fossé)と呼 よ ばれる小 ちい さな城 しろ に住 す んでいた。この小 ちい さな城 しろ は、おそらく水 みず で満 み たされた巨大 きょだい な濠 ほり (fossé)に囲 かこ まれていたため、Fossé(フォセ)と呼 よ ばれていたのだ。」[8]
デュマ将軍 しょうぐん は息子 むすこ の誕生 たんじょう から4年 ねん 後 ご の1806年 ねん 2月 がつ 26日 にち に亡 な くなる。 アレクサンドル・デュマの祖父 そふ は1760年 ねん に仏 ふつ 領 りょう サン=ドマング (現 げん ハイチ )に移住 いじゅう した貧乏 びんぼう 侯爵 こうしゃく 、祖母 そぼ は黒人 こくじん (解放 かいほう )奴隷 どれい だったため、母親 ははおや マリー=ルイーズ・ラブーレは、アレクサンドルを連 つ れてヴィレル・コトレにある両親 りょうしん の家 いえ (旧 きゅう オテル・ド・レペ)[9] に戻 もど り、母方 ははかた の祖父母 そふぼ がアレクサンドルと妹 いもうと を育 そだ てる。
デュマ将軍 しょうぐん はナポレオン・ボナパルト と共 とも にエジプト遠征 えんせい に従軍 じゅうぐん していた際 さい 、エジプト遠征 えんせい を「ナポレオンの個人 こじん 的 てき 野心 やしん に基 もと づくもの」と批判 ひはん したため、ナポレオンとの関係 かんけい が悪化 あっか し、フランスに帰国 きこく することとなった。「彼 かれ らは実際 じっさい ひどく不幸 ふこう であった。将軍 しょうぐん は全然 ぜんぜん 財産 ざいさん を残 のこ さなかった。皇帝 こうてい は引続 ひきつづ き反逆 はんぎゃく 者 しゃ の妻 つま に謁見 えっけん することを拒否 きょひ していたので、皇帝 こうてい には何 なに も期待 きたい できなかった。ブリュヌ、オージュロー、ランヌなどの戦友 せんゆう がデュマの功績 こうせき を皇帝 こうてい に思 おも いおこさせようとしたが、ナポレオンは冷 ひや やかに、「あの男 おとこ のことは今後 こんご 一 いち 切口 きりくち にするな」と答 こた えた。」[10] そのため、デュマ将軍 しょうぐん が亡 な くなったあと、残 のこ された寡婦 かふ と子 こ には全 まった く収入 しゅうにゅう がなかった。母親 ははおや は9歳 さい になると彼 かれ を正規 せいき の学校 がっこう ではなく、ヴィレル・コトレのルイ・クリソストーム・グレゴワール神父 しんぷ [11] の塾 じゅく に入 い れた。
「彼 かれ はあまりたいしたことは教 おそ わらなかった。習 なら ったのはラテン語 らてんご を少 すこ しと文法 ぶんぽう を少 すこ し、だがその習字 しゅうじ だけは筆 ふで の終 おわ りの飾 かざ りやハート形 がた やバラ形 がた の飾 かざ りを混 ま ぜてますます進歩 しんぽ した。それは見事 みごと だが鼻 はな もちならなかった。算数 さんすう におけると同様 どうよう お祈 いの りの方 ほう も、主 しゅ 祷 いのり 文 ぶん (パテール)、天使 てんし 祝詞 のりと (アヴェ・マリア)、使徒 しと 信 しん 経 けい (クレド)の三 みっ つ以上 いじょう はおぼえなかった。生 うま れつきの好 この みのせいで、彼 かれ はいつまでたってもいっこうに教育 きょういく が身 み につかず、野蛮 やばん で日 ひ の暮 く れとともに森 もり の中 なか にまきおこる自然 しぜん の音 おと に耳 みみ を傾 かたむ ける森 もり の子供 こども であった。」[12]
演劇 えんげき に目 め を開 ひら く先達 せんだつ の役割 やくわり を果 は たしたのは同 おな い年 どし のアドルフ・ド・ルーヴァンであった。1820―21年 ねん 頃 ごろ 、2人 ふたり で数 すう 編 へん のヴォードヴィル台本 だいほん を書 か いた。もちろん、台本 だいほん は上演 じょうえん には至 いた らなかった。当代 とうだい のシェークスピア劇 げき の俳優 はいゆう タルマに引 ひ き合 あ わせたのも彼 かれ である。
「タルマ、あなたにお礼 れい を言 い いに来 き たんです」と、ルーヴァンが言 い った。
「やあ、君 きみ のお若 わか い詩人 しじん は満足 まんぞく してますか」と、タルマ。「明日 あした も来 き て下 くだ さい。僕 ぼく はレギュルスを演 えん ずるよ」
「あーあ」とデュマは溜息 ためいき をついた。「明日 あした 、僕 ぼく はパリを発 た たねばならないんです。僕 ぼく は田舎 いなか の公証 こうしょう 人 じん の書記 しょき なんです」
「へえっ」と、タルマ。「コルネイユ も弁護士 べんごし の書記 しょき でしたよ......諸君 しょくん 、未来 みらい のコルネイユを御 ご 紹介 しょうかい 申 もう し上 あ げます」
デュマは青 あお ざめた。「僕 ぼく の額 がく にさわって下 くだ さい」と、彼 かれ はタルマに頼 たの んだ。「そうすると幸運 こううん が来 く るんです」
「いいとも」と、タルマ。「余 よ はシェクスピア とコルネイユ とシラー の名 な において、汝 なんじ を詩人 しじん として洗礼 せんれい する」
それから、つけ加 くわ えて、「いいかね。この青年 せいねん は情熱 じょうねつ に燃 も えている。それだけでも、きっと何 なに かになるよ」[13]
翌 よく 1823年 ねん 、父 ちち の友人 ゆうじん であったフォア将軍 しょうぐん のおかげで後 のち にフランス王 おう ルイ=フィリップ1世 せい となるオルレアン公 こう の秘書 ひしょ 課 か に職 しょく を得 え ることができ、給料 きゅうりょう を得 え たためイタリア人 じん 広場 ひろば (現在 げんざい はPlace Boieldieuボイエルデュー広場 ひろば )のアパートに田舎 いなか から母 はは を呼 よ び寄 よ せることができた。彼 かれ は早速 さっそく 2階 かい の隣人 りんじん で縫製 ほうせい 業 ぎょう を営 いとな むカトリーヌ・ラベ―を誘惑 ゆうわく して、翌年 よくねん 私生児 しせいじ を産 う ませた。それが小 しょう デュマ である。野生 やせい 児 じ で発展 はってん 家 か のデュマは次々 つぎつぎ と女性 じょせい に手 て を出 だ し、私生児 しせいじ は彼 かれ だけではない。1831年 ねん にはベル・クレイサメールとの間 あいだ に女児 じょじ マリー=アレクサンドリーヌをもうけた。また1840年 ねん には女優 じょゆう イダ・フェリエと結婚 けっこん してフィレンツェに住 す んだ。22歳 さい で父親 ちちおや になったデュマは家族 かぞく のために働 はたら くことを余儀 よぎ なくされたが、劇 げき 作家 さっか の夢 ゆめ を実現 じつげん するためせっせと観劇 かんげき を続 つづ けて見 み た舞台 ぶたい のメモを取 と り続 つづ けた。この頃 ころ の舞台 ぶたい は、シェイクスピアを始 はじ めとするイギリス演劇 えんげき の上演 じょうえん が相次 あいつ ぎ、厳格 げんかく な三 さん 一致 いっち の法則 ほうそく に縛 しば られた伝統 でんとう 的 てき な古典 こてん 演劇 えんげき 一辺倒 いっぺんとう のフランス演劇 えんげき 界 かい に激変 げきへん が起 お こる準備 じゅんび が次第 しだい に整 ととの った。ロマン派 は の若 わか い劇 げき 作家 さっか たちに好都合 こうつごう だったのは当時 とうじ のコメディ・フランセーズ の王室 おうしつ 代表 だいひょう 委員 いいん になったイジドール・テイラー男爵 だんしゃく がいたことであった。彼 かれ はヴィクトル・ユーゴー とアルフレッド・ド・ヴィニー の友人 ゆうじん だった。1828年 ねん シャルル・ノディエ に頼 たの んでデュマは5幕 まく の韻文 いんぶん 劇 げき 『クリスチーヌ』を仕上 しあ げてテイラー男爵 だんしゃく に面会 めんかい することになった。
デュマは指定 してい された時刻 じこく に王室 おうしつ 代表 だいひょう 委員 いいん の家 いえ に行 い った。年老 としお いた女中 じょちゅう が扉 とびら を開 あ けてくれた。
「さあ始 はじ めたまえ。君 くん 。僕 ぼく は聴 き いてるから」と、入浴 にゅうよく 中 ちゅう のテイラーが言 い った。
「それでは一幕 ひとまく だけ読 よ みますから、気 き に入 い らなければそこで止 と めさせて下 くだ さい」
「それはありがたい」と、テイラーは呟 つぶや いた。「君 きみ は他 た の連中 れんちゅう より僕 ぼく に同情 どうじょう 的 てき なんだね。いい傾向 けいこう だ。さあ、聴 き いてるよ」
デュマは第 だい 一幕 ひとまく を読 よ み終 お えると、目 め を上 あ げる勇気 ゆうき もなく訊 き いた。
「あの、続 つづ けた方 ほう がいいでしょうか」
「もちろん、もちろん」と、テイラーは震 ふる えながら言 い った。「僕 ぼく はベッドに入 にゅう ろう......全 まった く、非常 ひじょう によい出来 でき だよ」
第 だい 二 に 幕 まく が終 おわ ると、王室 おうしつ 代表 だいひょう 委員 いいん の方 ほう から第 だい 三 さん 幕 まく を読 よ んでくれと頼 たの んだ。そして第 だい 四 よん 幕 まく も、第 だい 五 ご 幕 まく もだった。終 おわ ると彼 かれ はベッドから跳 と びおりて叫 さけ んだ。
「さあ、これからすぐに、僕 ぼく といっしょにフランス座 ざ に来 き たまえ」
「どうしてなのですか」
「君 きみ が脚本 きゃくほん を読 よ む順番 じゅんばん をとるためだ」[14]
しかし、『クリスチーヌ』の上演 じょうえん は延期 えんき され、デュマは代 か わりに新 あたら しい題材 だいざい をフランスの歴史 れきし に求 もと めた。それがデュマがフランス劇壇 げきだん に華々 はなばな しいデビューを果 は たした5幕 まく 散文 さんぶん ドラマ『アンリ三 さん 世 せい とその宮廷 きゅうてい 』である。
『アントニー』の幕切 まくぎ れの風刺 ふうし 絵 え
1829年 ねん 2月 がつ 10日 とおか 、「フランス座 ざ 」において翌年 よくねん のユーゴー の『エルナニ』に先立 さきだ つこと1年 ねん 、本格 ほんかく 的 てき なロマン主義 しゅぎ 演劇 えんげき の幕開 まくあ けとなったのである。『エルナニ』は韻文 いんぶん であったが、デュマの『アンリ三 さん 世 せい とその宮廷 きゅうてい 』は散文 さんぶん であり、一躍 いちやく ロマン派 は 演劇 えんげき の旗頭 はたがしら として、その後 ご 、立 た て続 つづ けに戯曲 ぎきょく を上演 じょうえん することになる。自 みずか らの不倫 ふりん 体験 たいけん を題材 だいざい にした『アントニー[15] 』(1831年 ねん )はもはや歴史 れきし 劇 げき ではなく現代 げんだい 劇 げき であり、主人公 しゅじんこう のアントニーは当時 とうじ 、社会 しゃかい 現象 げんしょう にすらなったほどである。
『ネールの塔 とう 』(1832年 ねん )は、フレデリック・ガイヤルデという青年 せいねん が持 も ち込 こ んだ原作 げんさく をジュール・ジャナンが手 て を入 い れたが、途中 とちゅう で放棄 ほうき した作品 さくひん をデュマが最終 さいしゅう 的 てき に書 か き直 なお した。この作品 さくひん は14世紀 せいき 初頭 しょとう のフランス王妃 おうひ とビュリダンとの権力 けんりょく と知力 ちりょく の戦 たたか い、尊属 そんぞく 殺人 さつじん 、嬰児 えいじ 殺 ころ し、近親 きんしん 相姦 そうかん という恐 おそれ るべき人倫 じんりん の蹂躙 じゅうりん を舞台 ぶたい にのせ、デュマとガイヤルデの代表 だいひょう 作 さく になった歴史 れきし 秘話 ひわ であった。その後 ご も演劇 えんげき への貢献 こうけん は止 や むことなく、『キーン』(1836年 ねん )、『ベル=イル嬢 じょう [16] 』、『カリギュラ』(1837年 ねん ) など、フランス座 ざ を始 はじ めポルト・サンマルタン劇場 げきじょう 、オデオン座 ざ 、シャルパンティエ座 ざ 、ルネサンス座 ざ などパリのあらゆる劇場 げきじょう で上演 じょうえん された。デュマが生涯 しょうがい で書 か いた戯曲 ぎきょく は総数 そうすう 117[17] とされ、全 すべ てが上演 じょうえん された。上演 じょうえん のための台本 だいほん 収入 しゅうにゅう 以外 いがい に、台本 だいほん の出版 しゅっぱん 権 けん も高額 こうがく に登 のぼ ったため当然 とうぜん 収入 しゅうにゅう もうなぎのぼりになった。
デュマの歴史 れきし 的 てき 知識 ちしき について否定 ひてい 的 てき ・懐疑 かいぎ 的 てき な意見 いけん が多 おお いが、ウォルター・スコット に追 お いつけ追 お い越 こ せとばかりGaule et France 『ガリアとフランス』(1833年 ねん )でトゥールのグレゴリウス の『フランク史 し 』をもとに真面目 まじめ に歴史 れきし 研究 けんきゅう に取 と り組 く んだ。
シャルル6世 せい の治世 ちせい から現代 げんだい に至 いた る一連 いちれん の小説 しょうせつ を作 つく ること。この観点 かんてん から見 み れば、『ガリアとフランス』は作品 さくひん の前庭 ぜんてい をなす。ガリアはどのようにしてフランスになったのか?デュマは1832年 ねん の終 お わりにほとんど作品 さくひん を書 か かず、オーギュスタン・ティエリー によるフランスの歴史 れきし に関 かん する手紙 てがみ を読 よ み、シャトーブリアン の『歴史 れきし 研究 けんきゅう 』を読 よ んだ。彼 かれ はメモをとり、歴史 れきし を人々 ひとびと に教 おし えるような、自由 じゆう と友愛 ゆうあい に向 む かうこの歴史 れきし の不可避 ふかひ の感覚 かんかく を示 しめ すような、この壮大 そうだい な小説 しょうせつ シリーズを夢見 ゆめみ ている。[18]
さて、フランスではエミール・ド・ジラルダンのLa Presse『プレス』とアルノー・デュタクのLe Siècle『世紀 せいき 』が1836年 ねん に発行 はっこう されて、新聞 しんぶん という新 あたら しいメディア時代 じだい の到来 とうらい が告 つ げられていた。新聞 しんぶん は定期 ていき 購読 こうどく 者 しゃ を資金 しきん 源 げん とし、購読 こうどく 者 しゃ をつなぎとめる有力 ゆうりょく な武器 ぶき として、今 いま で言 い うテレビの連続 れんぞく ドラマの原型 げんけい として連載 れんさい 小説 しょうせつ (La suite au prochain numéro 「次号 じごう に続 つづ く」)という手法 しゅほう を生 う み出 だ した。バルザックを始 はじ め、ウージェーヌ・シュー 、フレデリック・スーリエなどと並 なら んでアレクサンドル・デュマも作家 さっか として新聞 しんぶん 小説 しょうせつ でも花形 はながた になった。
1836年 ねん に小説 しょうせつ と新聞 しんぶん の結合 けつごう を象徴 しょうちょう した連続 れんぞく 小説 しょうせつ はどのように生 う まれたか?バルザック 、サンド 、ヴィニー、デュマ、シュー、およびカーの小説 しょうせつ や短編 たんぺん は、『パリ評論 ひょうろん 』と『両 りょう 世界 せかい 評論 ひょうろん 』という主要 しゅよう な隔月 かくげつ 刊 かん の文学 ぶんがく 雑誌 ざっし にすでに登場 とうじょう していた。1836年 ねん の新 あたら しさは、主 おも に政治 せいじ を扱 あつか う日刊 にっかん 紙 し に連載 れんさい 小説 しょうせつ を持 も ち込 こ んだことであった。それまで主 おも に演劇 えんげき 、音楽 おんがく 、芸術 げいじゅつ 批評 ひひょう の専用 せんよう だった新聞 しんぶん の「最下 さいか 欄 らん 」に侵入 しんにゅう したからだ。1830年 ねん 、7月 がつ 王政 おうせい の出現 しゅつげん で、検閲 けんえつ と出版 しゅっぱん 物 ぶつ の印紙 いんし 税 ぜい が廃止 はいし されたため新聞 しんぶん が作 つく られた。パリの日刊 にっかん 紙 し は当時 とうじ 、80フランという高額 こうがく の予 よ 約 やく 購読 こうどく 料 りょう で独占 どくせん 的 てき に販売 はんばい されていた。1836年 ねん 、エミール・ド・ジラルダンが『ラ・プレス』をアルマン・デュタック(彼 かれ の以前 いぜん の共同 きょうどう 経営 けいえい 者 しゃ )が『世紀 せいき 』を立 た ち上 あ げた。『世紀 せいき 』は、予 よ 約 やく 購読 こうどく 料 りょう を40フランに設定 せってい し、連載 れんさい 小説 しょうせつ で読者 どくしゃ を魅了 みりょう した。彼 かれ らは大衆 たいしゅう 紙 し を発明 はつめい したのだ。1836年 ねん から1845年 ねん の間 あいだ 、主要 しゅよう な日刊 にっかん 紙 し はそれを真似 まね て発行 はっこう 部数 ぶすう を2倍 ばい にする。新聞 しんぶん が発行 はっこう 号 ごう ごとにバラ売 う りされるのはその後 ご である。1846年 ねん 、『世紀 せいき 』は32,885人 にん の加入 かにゅう 者 しゃ 、『ラ・プレス』は22,170人 にん 、『ル・コンスティチュショナル』は24,771人 にん に達 たっ した。これらの予約 よやく は家族 かぞく 、世帯 せたい 、読書 どくしょ クラブ、および貸本 かしほん 業者 ぎょうしゃ によって行 おこな われているため、ミシュレ― によると、新聞 しんぶん 全体 ぜんたい で1,500,000人 にん の読者 どくしゃ が読 よ んでいたという。さらに、連載 れんさい 小説 しょうせつ は地方 ちほう 及 およ び外国 がいこく の新聞 しんぶん に再 さい 掲載 けいさい される。これらの連載 れんさい は、その後 ご 、本 ほん として印刷 いんさつ される。
連載 れんさい 小説 しょうせつ の読者 どくしゃ は誰 だれ か?特 とく に中流 ちゅうりゅう 階級 かいきゅう と一般 いっぱん 大衆 たいしゅう である。読 よ み書 か きのできない人 ひと にはその号 ごう が読 よ み上 あ げられるのだ。[19]
デュマは劇 げき 作家 さっか の後 のち 、最初 さいしょ に歴史 れきし 研究 けんきゅう 、ニュース、旅行 りょこう の印象 いんしょう を書 か く。1831年 ねん から1836年 ねん まで、彼 かれ は『両 りょう 世界 せかい 評論 ひょうろん 』に『フランスの歴史 れきし :歴史 れきし 的 てき 情景 じょうけい 』(1831~1832年 ねん )を、『ラ・プレス』で『歴史 れきし 的 てき 風景 ふうけい 』と『イタリア旅行 りょこう の印象 いんしょう 』を出版 しゅっぱん する。
登場 とうじょう 人物 じんぶつ をブイヤベースの鍋 なべ に入 い れて料理 りょうり するデュマの戯画 ぎが
デュマは1838年 ねん の初 はじ めに一時 いちじ 的 てき にジラルダンと揉 も めて、2か月 げつ 後 ご に連載 れんさい 小説 しょうせつ を求 もと めた『世紀 せいき 』に移 うつ った。アメリカ人 じん 作家 さっか ジェイムズ・クーパー の"The Pilot: A Tale of the Sea"『水先案内 みずさきあんない 人 じん 』を下敷 したじ きにした最初 さいしょ の本格 ほんかく 的 てき 連載 れんさい 小説 しょうせつ Le Capitaine Paul『ポール船長 せんちょう 』であった。5月30日 にち から6月 がつ 23日 にち までの19回 かい 連続 れんぞく で発行 はっこう され、新聞 しんぶん に3週間 しゅうかん で5,000人 にん の購読 こうどく 者 しゃ の増加 ぞうか をもたらした。これは、アメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう で反乱 はんらん 軍 ぐん の側 がわ に参加 さんか したスコットランド人 じん のポール・ジョーンズ 少将 しょうしょう (1747-1792)の生涯 しょうがい からの想像 そうぞう 上 じょう のエピソードである。さて、この年 とし からオーギュスト・マケとの実 みの り多 おお いコラボレーションの時代 じだい が始 はじ まる。2人 ふたり は1838年 ねん に会 あ い、様々 さまざま な作品 さくひん を産 う み落 お としていく。1843年 ねん にデュマがサン・ジェルマン・アン・レーに移 うつ ったとき、配達 はいたつ 夫 おっと を使 つか ってマケと頻繁 ひんぱん に連絡 れんらく をとり、次々 つぎつぎ にアイディアを求 もと めた。1844年 ねん コメディ・フランセーズ が受 う け入 い れた戯曲 ぎきょく 『摂政 せっしょう の娘 むすめ 』が検閲 けんえつ によって差 さ し止 と められたとき、デュマはマケとともに、クールティル・ドゥ・サンドラスの『ダルタニャン氏 し の覚 おぼ え書 が き』から、有名 ゆうめい な『三 さん 銃 じゅう 士 し 』を生 う むアイデアを引 ひ き出 だ す。連載 れんさい は、『世紀 せいき 』に1844年 ねん 3月 がつ 14日 にち から始 はじ まる。ユーゴー は「心 しん を掴 つか むドラマ、熱 あつ い情熱 じょうねつ 、真 しん の対話 たいわ 、輝 かがや く文体 ぶんたい 」と賞賛 しょうさん する。彼 かれ の成功 せいこう は、ウージェーヌ・シュー の成功 せいこう に匹敵 ひってき する。突然 とつぜん 、すべての新聞 しんぶん がアレクサンドルを求 もと め、彼 かれ はすべての契約 けいやく を受 う け入 い れる。『ジュルナル・デ・デバ』のために『モンテ・クリスト伯 はく 』を書 か き始 はじ め(連載 れんさい は1846年 ねん 1月 がつ 15日 にち まで続 つづ く)、1844年 ねん 、アレクサンドルは『パリ評論 ひょうろん 』のために、世界 せかい 的 てき な小説 しょうせつ である『フェルナンド』(デュモン、1844、3巻 かん )を書 か いた。La Reine Margot『王妃 おうひ マルゴ 』は、『ラ・プレス』に連載 れんさい されたバルザックのPaysans『農民 のうみん 』が購読 こうどく の更新 こうしん 時 じ に読者 どくしゃ を飽 あ きさせたため、1844年 ねん 12月25日 にち から代 か わりに連載 れんさい された。1845年 ねん 、『世紀 せいき 』に『三 さん 銃 じゅう 士 し 』の続編 ぞくへん 『二 に 十 じゅう 年 ねん 後 ご 』が登場 とうじょう 。La Démocratie pacifique『ラ・デモクラシー・パシフィック』新聞 しんぶん に『赤 あか い館 かん の騎士 きし 』が連続 れんぞく される。これらの連載 れんさい 小説 しょうせつ のほぼすべてが成功 せいこう を収 おさ めた。それらを印刷 いんさつ する日刊 にっかん 紙 し には、新 あたら しい購読 こうどく 者 しゃ が増 ふ える。デュマは1日 にち 12~14時 じ 間 あいだ 働 はたら いていた。
フランス文学 ぶんがく 史 し には、1845年 ねん から1855年 ねん までのデュマに匹敵 ひってき できるような多作 たさく な作家 さっか は、いまだかつていなかった。8巻 かん 、10巻 かん に及 およ ぶ小説 しょうせつ がひっきりなしに新聞 しんぶん 社 しゃ や出版 しゅっぱん 社 しゃ に押 お しよせる。フランスのすべての歴史 れきし がそこを通 とお って行 い く。『三 さん 銃 じゅう 士 し 』の続篇 ぞくへん には、『二 に 十 じゅう 年 ねん 後 ご 』と昔 むかし を懐 なつか しむ『ブラジュロンヌ子爵 ししゃく 』がつづくことになる。もうひとつの三 さん 部 ぶ 作 さく (『女王 じょおう マルゴ』、『モンソローの奥方 おくがた 』、『四 よん 十 じゅう 五 ご 人 にん 隊 たい 』)は、ヴァロワ王朝 おうちょう の人々 ひとびと を舞台 ぶたい に登場 とうじょう させる。『女王 じょおう マルゴ』はカトリーヌ・ド・メディシスとアンリ・ド・ナヴァールの闘争 とうそう の物語 ものがたり である。『モンソローの奥方 おくがた 』はアンリ三 さん 世 せい の時代 じだい をきわめて面白 おもしろ く語 かた っている。『四 よん 十 じゅう 五 ご 人 にん 隊 たい 』はディアーヌ・ド・モンソローがダンジュに対 たい して、彼女 かのじょ の恋人 こいびと ビュッシー・ダンボワーズの死 し の限 きり みを晴 は らす話 はなし である。
これと同時 どうじ に、デュマはもう一 ひと つの連作 れんさく (『女王 じょおう の首飾 くびかざ り』、『騎士 きし メーゾン・ルージュ』、『ジョゼフ・バルサモ』、『アンジュ・ピトゥー』、『シャルニー伯爵 はくしゃく 夫人 ふじん 』)で、フランス君主政体 くんしゅせいたい の衰退 すいたい と没落 ぼつらく を描 えが いていた。ここで、われわれはデュマの〈歴史 れきし 的 てき 帝国 ていこく 主義 しゅぎ 〉について語 かた ってもいいと思 おも う。デュマは初期 しょき のうちから、彼 かれ の小説 しょうせつ の領域 りょういき にフランスの歴史 れきし 全体 ぜんたい を併合 へいごう する計画 けいかく を抱 だ いていた。「わたしの最初 さいしょ の望 のぞ みは」と彼 かれ 自身 じしん がいっている。「限 かぎ りないものだ。わたしの最初 さいしょ の熱望 ねつぼう は、いつも不可能 ふかのう なことに向 む けられている。どうしてこれを達成 たっせい させたらいいのか?誰 だれ もしないように仕事 しごと をして、生活 せいかつ からあらゆる無駄 むだ を省 はぶ き、睡眠 すいみん を斥 しりぞ けて......」こうして読者 どくしゃ を驚 おどろ かすような、5、600冊 さつ の作品 さくひん が生 うま れたのだ。[20]
モンテ・クリスト城 じょう
1846年 ねん 5月 がつ 31日 にち 、デュマは医師 いし の回顧 かいこ 録 ろく の最初 さいしょ の部分 ぶぶん である『ジョゼフ・バルサモ』を『ラ・プレス』で出版 しゅっぱん し始 はじ めたが、1846年 ねん 9月 がつ 6日 にち にその連載 れんさい を放棄 ほうき した。加入 かにゅう 者 しゃ は激怒 げきど し、ジラルダンとヴェロンは彼 かれ を訴 うった えた。1847年 ねん 2月 がつ 19日 にち 、デュマは損害 そんがい 賠償 ばいしょう で6,000フランの判決 はんけつ を受 う け、8巻 かん をジラルダンに、6巻 かん をヴェロンに提供 ていきょう した。また、デュマは「歴史 れきし 劇場 げきじょう 」の特権 とっけん を獲得 かくとく し『女王 じょおう マルゴ』を初演 しょえん (1847年 ねん 2月 がつ 20日 はつか )として採用 さいよう した。大衆 たいしゅう は、彼 かれ のヒーローを生身 なまみ の人間 にんげん の演技 えんぎ で観 み るのを待 ま ち焦 こ がれ、大挙 たいきょ して押 お し寄 よ せた。歴史 れきし 劇場 げきじょう は金鉱 きんこう の可能 かのう 性 せい があった。しかし、デュマは1847年 ねん 7月 がつ 25日 にち に完成 かんせい 披露 ひろう する「モンテ・クリスト」という城 しろ をポール・マルリーに建 た てた。自 みずか ら招 まね いた経済 けいざい 的 てき 必要 ひつよう により、彼 かれ は大車輪 だいしゃりん で書 か くことを余儀 よぎ なくされた。
1848年 ねん 、アレクサンドルは、『ラ・プレス』で『ジョゼフ・バルサモ』の続 つづ きを書 か き、『王妃 おうひ の首飾 くびかざ り』の出版 しゅっぱん を開始 かいし した。デュマは、王室 おうしつ の評判 ひょうばん を落 お とすために首飾 くびかざ りの事件 じけん を扇動 せんどう したのはバルサモだと想像 そうぞう している。この連載 れんさい は大 だい 成功 せいこう をおさめる。 1848年 ねん 革命 かくめい はデュマの生活 せいかつ を台無 だいな しにする。革命 かくめい は彼 かれ から収入 しゅうにゅう を奪 うば い(数ヶ月 すうかげつ 間 あいだ 劇場 げきじょう が開 あ けなくなったため)、彼 かれ はパリを後 のち にした。彼 かれ は、立法 りっぽう 選挙 せんきょ に出馬 しゅつば するが落選 らくせん する。その後 ご 、ルイ・ナポレオン・ボナパルト の対抗 たいこう 馬 ば ルイ・ウジェーヌ・カヴァニャック を支援 しえん した。
1850年 ねん はデュマにとって不吉 ふきつ な年 とし になった。歴史 れきし 劇場 げきじょう は閉鎖 へいさ を余儀 よぎ なくされ、1850年 ねん 12月 がつ 20日 はつか に破産 はさん を宣言 せんげん され控訴 こうそ する。一方 いっぽう 、政府 せいふ は連載 れんさい 小説 しょうせつ に含 ふく まれる進歩 しんぽ 的 てき なメッセージを恐 おそ れて、印紙 いんし 条例 じょうれい の法律 ほうりつ を復活 ふっかつ させた。新聞 しんぶん は連載 れんさい 小説 しょうせつ の出版 しゅっぱん を週 しゅう 3日 にち に減 へ らすことを余儀 よぎ なくされる。1851年 ねん 、デュマにとってこの年 とし は悲 かな しい終 お わりを迎 むか える。ルイ・ナポレオンの12月2日 にち のクーデターを認 みと めないからだ。また、12月11日 にち 、前年度 ぜんねんど の破産 はさん 判決 はんけつ が確認 かくにん され、判決 はんけつ を通告 つうこく されたデュマは、身柄 みがら 拘束 こうそく を避 さ けるためパスポートを10日 とおか に査証 さしょう させてブリュッセル に居 きょ を構 かま えた。デュマは時々 ときどき 秘密裏 ひみつり にパリに戻 もど る。ブリュッセルに到着 とうちゃく するとすぐに、デュマはちゃっかりベルギーの出版 しゅっぱん 社 しゃ で彼 かれ の回顧 かいこ 録 ろく を発行 はっこう する。
一方 いっぽう 、1852年 ねん 6月 がつ 12日 にち に開 ひら かれたデュマの債務 さいむ の主張 しゅちょう 手続 てつづ きは、1853年 ねん 4月 がつ 18日 にち に債務 さいむ 訴訟 そしょう により結審 けっしん し、強制 きょうせい 和議 わぎ への道 みち が開 ひら かれた。デュマはパリに戻 もど ることができた。デュマは自分 じぶん の文学 ぶんがく 日刊 にっかん 誌 し 「銃 じゅう 士 し 」を設立 せつりつ し、1853年 ねん 11月21日 にち から印刷 いんさつ を始 はじ めた。そこに『回想 かいそう 』の継続 けいぞく を不定期 ふていき に出版 しゅっぱん した。その後 ご 、週刊 しゅうかん 新聞 しんぶん 『モンテ・クリスト』(1857年 ねん 4月 がつ 27日 にち -1860年 ねん 5月 がつ 10日 とおか )を設立 せつりつ した。しかし、どちらの新聞 しんぶん も思 おも ったように販売 はんばい 部数 ぶすう を伸 の ばせず、掲載 けいさい した小説 しょうせつ も以前 いぜん のような精彩 せいさい を欠 か くようになる。失意 しつい のデュマは旅 たび に出 で てインスピレーションを得 え ようと計画 けいかく した。1858年 ねん の夏 なつ 、彼 かれ はロシア、そしてコーカサスへの長 なが い旅行 りょこう 記 き を引 ひ き受 う けた。ロシア帝国 ていこく での絵 え のような冒険 ぼうけん と、バクーから黒海 こっかい へのコーカサスの渡航 とこう 中 ちゅう の物語 ものがたり を書 か いた。帰 かえ ると出版 しゅっぱん 社 しゃ のミシェル・レヴィのために署名 しょめい した契約 けいやく のおかげで(1859年 ねん 12月 がつ )大金 たいきん を受 う け取 と ると、たちまち彼 かれ はギリシャから聖地 せいち エルサレムまでの地中海 ちちゅうかい 旅行 りょこう のためにスクーナー船 せん を購入 こうにゅう した。
1860年 ねん 5月 がつ 9日 にち にマルセイユを出発 しゅっぱつ した彼 かれ はシチリア島 とう に渡 わた り、契約 けいやく 金 きん の残 のこ りを友人 ゆうじん のガリバルディ の軍隊 ぐんたい の武器 ぶき を購入 こうにゅう するために気前 きまえ よく差 さ し出 だ した。また、その独立 どくりつ 戦争 せんそう のためにガリバルディよりもガリバルディアン派 は の新聞 しんぶん 「L’Independente」を発刊 はっかん する。その使命 しめい は、イタリアからブルボンの雑草 ざっそう を根絶 こんぜつ することである。しかし、当 とう のガリバルディはシチリア王国 おうこく をイタリア王国 おうこく と統合 とうごう する国民 こくみん 投票 とうひょう 後 ご 引退 いんたい してしまう。残 のこ されたデュマは戦 たたか いを続 つづ け、反 はん ブルボンの小説 しょうせつ 『ラ・サン・フェリーチェ』を書 か いた。
最後 さいご の最後 さいご までデュマはデュマであった。グルメな彼 かれ は、小説 しょうせつ がかけなくなると死後 しご 出版 しゅっぱん となる『料理 りょうり 大 だい 辞典 じてん 』を書 か いていた。
スペインでの長 なが い滞在 たいざい の後 のち 、彼 かれ は息子 むすこ の別荘 べっそう であるディエップの近 ちか くのピュイに移 うつ る。1870年 ねん 9月 がつ 、脳卒中 のうそっちゅう により半 はん 麻痺 まひ 状態 じょうたい になった後 のち 、1870年 ねん 12月5日 にち に亡 な くなった。
小 しょう デュマ よりジョルジュ・サンド ヘ
ピュイにて、1870年 ねん 12月6日 にち
父 ちち は昨日 きのう 、12月5日 にち の月曜 げつよう 、夜 よる 10時 じ に苦 くる しみもなく亡 な くなりました。この死 し を第 だい 一番 いちばん に知 し らせるべきなのは、あなただとつねづね思 おも っておりましたが、それも今 いま はかなわぬようです。父 ちち は他 た の誰 だれ よりもあなたを愛 あい し、あなたを賛美 さんび しておりました......
後 のち になって戦争 せんそう が終 おわ ってから、彼女 かのじょ は同情 どうじょう の気持 きも ちを伝 つた えることができた。[21]
すでにいくつかの旅行 りょこう 書 しょ を上 あ げたが、デュマはパリでじっとして作品 さくひん を書 か いていただけではなかった。出版 しゅっぱん 社 しゃ から出資 しゅっし してもらったり、パリにいられない事情 じじょう ができると様々 さまざま な国 くに を旅行 りょこう した。それが旅行 りょこう 記 き (旅行 りょこう の印象 いんしょう )というジャンルを生 う み出 だ した。(『スイスの旅 たび の印象 いんしょう 』、『南 みなみ フランス物語 ものがたり 』、『フィレンツェの1年 ねん 』、『ル・コリコロ』、『ル・スペロナーレ』、『アレナ船長 せんちょう 』、『ライン川岸 かわぎし の小 しょう 旅行 りょこう 』、『パルミエリのヴィラ』、『パリからカディス』、『ル・ヴェローチェ、またはタンジール、アルジェ、チュニス』、『新 しん ・旅行 りょこう の印象 いんしょう 』、『パリからアストラハン、コーカサスまで』)これらの旅行 りょこう 記 き は今 いま どきの旅行 りょこう ガイドブックの役割 やくわり だけでなく、デュマという作家 さっか の小説 しょうせつ のための実験 じっけん 室 しつ ともなっている。
旅行 りょこう の年代 ねんだい 順 じゅん で並 なら べ、カッコ内 ない に出版 しゅっぱん 年 ねん と巻数 かんすう を上 あ げる。
1833年 ねん 『スイスの旅 たび の印象 いんしょう 』(1834-1837, 5 vol)
1834年 ねん 『新 しん ・旅 たび の印象 いんしょう 南 みなみ フランス』(1841, 3 vol)
1835年 ねん 『フィレンツェの1年 ねん 』(1841, 2 vol)
1835年 ねん 『ル・スペロナーレ』(1842, 4 vol)
1835年 ねん 『アレナ船長 せんちょう 』(1842, 2 vol)
1835年 ねん 『ル・コリコロ』(1843, 4 vol.)
1840-43年 ねん 『パルミエリのヴィラ』(1843, 4 vol)
1840-43年 ねん 『ライン川岸 かわぎし の小 しょう 旅行 りょこう 』(1841, 3 vol)
1846年 ねん 『パリからカディスへ』(1847-1848, 5 vol)
1846-47年 ねん 『ル・ヴェローチェ、またはタンジール、アルジェ、チュニス』(1848-1851, 4 vol)
1858年 ねん 『パリからアストラハン、コーカサスまで』(1860, 2 vol)
1858-59年 ねん 『コーカサス』(1859)
1860-64年 ねん 『ガリバルディーシチリアとナポリの革命 かくめい 』(1861)
1864-65年 ねん オーストリアとハンガリー『白 しろ と青 あお 』(1867)
パリのパンテオンに埋葬 まいそう されたデュマ
2002年 ねん 、アレクサンドル・デュマ生誕 せいたん 200周年 しゅうねん を記念 きねん してデュマの遺 のこ 灰 はい はパンテオン に移 うつり 葬 そう され、長年 ながねん 敬愛 けいあい したユーゴー と同 おな じく偉大 いだい なフランス人 じん として祀 まつ られた。シラク大統領 だいとうりょう はインタビューに答 こた えてデュマを讃 たた えている。
彼 かれ が出発 しゅっぱつ した地点 ちてん から到達 とうたつ した地点 ちてん を見 み れば、それがいかに素晴 すば らしいことかわかります。まだ奴隷 どれい 制 せい が廃止 はいし されていなかった時代 じだい に、奴隷 どれい の孫 まご だった彼 かれ が成 な し遂 と げたことの大 おお きさをわれわれが推 お し量 はか ることを忘 わす れてはなりません…
デュマのパンテオンへの入場 にゅうじょう が、ある種 しゅ の先入観 せんにゅうかん を最終 さいしゅう 的 てき に覆 くつがえ すことを心 しん から願 ねが っています。われわれは、この天才 てんさい 的 てき 作者 さくしゃ を人気 にんき があるという理由 りゆう だけで二流 にりゅう だと決 き めつけたのです。それが侮辱 ぶじょく か欠陥 けっかん でもあるかのように!文化 ぶんか が万 まん 人 にん のものであること、それを示 しめ すことがパンテオン移転 いてん の目的 もくてき の1つです。『三 さん 銃 じゅう 士 し 』か『モンテクリスト伯 はく 』の物語 ものがたり を読 よ み直 なお してください…これは偉大 いだい な作品 さくひん です。『ブラジロンヌ子爵 ししゃく 』の権力 けんりょく 研究 けんきゅう は真実 しんじつ で衝撃 しょうげき 的 てき な力 ちから に満 み ちています…デュマがパンテオンに入 はい ることで、コレージュやリセの教材 きょうざい になることを心 しん から願 ねが っています。[22]
一覧 いちらん [23]
出版 しゅっぱん (上演 じょうえん )年 ねん
原題 げんだい
邦題 ほうだい [24]
邦訳 ほうやく (またはその他 た の情報 じょうほう )
1825
La Chasse et l'Amour (théâtre)
狩 かり と恋 こい (戯曲 ぎきょく )
1826
La Noce et l'Enterrement (théâtre)
結婚式 けっこんしき と埋葬 まいそう (戯曲 ぎきょく )
1829
Henri III et sa cour (théâtre)
アンリ三 さん 世 せい とその宮廷 きゅうてい (戯曲 ぎきょく )
中 ちゅう 田平 たひら 訳 やく 、デジタルエステイト、2016
1830
Christine
クリスティーヌまたはストックホルム、フォンテーヌブロー、ローマ(戯曲 ぎきょく )
1831
Napoléon Bonaparte ou Trente ans de l’Histoire de France (théâtre)
ナポレオン・ボナパルト、またはフランスの30年 ねん 史 し (戯曲 ぎきょく )
Antony (théâtre)
アントニー(戯曲 ぎきょく )
中 ちゅう 田平 たひら 訳 やく 、デジタルエステイト、2016
Charles VII chez ses grands vassaux (théâtre)
シャルル7世 せい とその重臣 じゅうしん (戯曲 ぎきょく )
Teresa (théâtre)
テレサ(戯曲 ぎきょく )
1832
La Tour de Nesle (théâtre)
ネールの塔 とう (戯曲 ぎきょく )
中 ちゅう 田平 たひら 訳 やく 、デジタルエステイト、2017
1833
Angèle (théâtre)
アンジェル(戯曲 ぎきょく )
Gaule et France (essai)
ガリアとフランス(歴史 れきし 書 しょ )
Impressions de voyage
旅行 りょこう の印象 いんしょう (旅行 りょこう 記 き )
1834
Catherine Howard (théâtre)
キャサリン・ハワード(戯曲 ぎきょく )
Souvenirs d’Anthony
『アントニー』の思 おも い出 で (回想 かいそう 録 ろく )
1835
Chroniques de France : Isabel de Bavière
フランスのクロニクル。バイエルンのイザベル
1836
Kean (théâtre)
キーン(戯曲 ぎきょく )
中 ちゅう 田平 たひら 訳 やく 、デジタルエステイト、2019
Piquillo (opéra-comique)[38]
ピキロ(戯曲 ぎきょく )
1837
Caligula (théâtre)
カリギュラ(戯曲 ぎきょく )
中 ちゅう 田平 たひら 訳 やく 、デジタルエステイト、2021
Mademoiselle de Belle-Isle (théâtre)
ベル=イル嬢 じょう (戯曲 ぎきょく )
中 ちゅう 田平 たひら 訳 やく 、デジタルエステイト、2018
1838
Pauline
ポーリーヌ
小川 おがわ 節子 せつこ 、日本 にっぽん 図書 としょ 刊行 かんこう 会 かい 、 2005
1839
Le Capitaine Paul
ポール船長 せんちょう
Le Capitaine Pamphile
パンフィル船長 せんちょう
La Comtesse de Salisbury
ソールズベリー伯爵 はくしゃく 夫人 ふじん (フランス代 だい 記 き )
L'Alchimiste (théâtre)
錬金術 れんきんじゅつ 師 し (戯曲 ぎきょく )
Acté
アクテ
Crimes célèbres(Les Cenci, La marquise de Brinvilliers, Karl Ludwig Sand, Marie Stuart, La marquise de Ganges, Murat, Les Borgia, Urbain Grandier, Vaninka, Massacres du Midi, La comtesse de Saint-Géran, Jeanne de Naples, Nisida, Derues, Martin Guerre, Ali Pacha, La Constantin, L'homme au masque de fer.)
有名 ゆうめい な犯罪 はんざい (ブランヴィリエ侯爵 こうしゃく 夫人 ふじん 、カール・ルートヴィヒ・サンド、メアリー・スチュアート、ガンジュ侯爵 こうしゃく 夫人 ふじん 、ミュラ、ボルジア家 か 、ユルバン・グランディエ、ヴァニンカ、南仏 なんふつ の虐殺 ぎゃくさつ 、サン=ゲラン伯爵 はくしゃく 夫人 ふじん 、ナポリのジャンヌ、ニシダ、ドリュー、マルタン・ゲール、アリ・パシャ、ラ・コンスタンタン、鉄 てつ 仮面 かめん の男 おとこ )
メアリー・スチュアート、田房 たふさ 直子 なおこ 訳 やく 、作品社 さくひんしゃ 、2008。
ボルジア家 か 、田房 たふさ 直子 なおこ 訳 やく 、作品社 さくひんしゃ 、2016。
ボルジア家 か 風雲 ふううん 録 ろく (上 うえ ) 教皇 きょうこう 一族 いちぞく の野望 やぼう ・ボルジア家 か 風雲 ふううん 録 ろく (下 した ) 智将 ちしょう チェーザレの激闘 げきとう 、吉田 よしだ 良子 りょうこ 訳 やく 、イースト・プレス 、2013
1840
Napoléon
ナポレオン
Aventures de John Davys
ジョン・デイビスの冒険 ぼうけん
Othon l’archer
射手 しゃしゅ オトン
Les Stuarts
スチュアート家 か の人々 ひとびと
Maître Adam le calabrais
カラブリア人 じん アダム先生 せんせい
Le Maître d’armes
衛兵 えいへい 長 ちょう
1841
Praxède
皇 すめらぎ 妃 ひ プラクセデス
Nouvelles Impressions de voyage (Midi de la France)
新 しん 旅行 りょこう の印象 いんしょう 。南 みなみ フランス(旅行 りょこう 記 き )
南 みなみ フランス物語 ものがたり フォンテーヌブローからマルセイユまで、中 ちゅう 田平 たひら 訳 やく 、デジタルエステイト、2022
Excursions sur les bords du Rhin
ライン川 がわ のほとりの小 しょう 旅行 りょこう (旅行 りょこう 記 き )
Souvenirs de voyage : Une année à Florence
フィレンツェの一 いち 年 ねん (旅行 りょこう 記 き )
Un mariage sous Louis XV (théâtre)
ルイ15世 せい 治下 ちか の結婚 けっこん (戯曲 ぎきょく )
1842
Jeanne la pucelle (1429-1431)
ジェアンヌ・ラ・ピュセル
Lorenzino (théâtre)
ロレンジーノ(戯曲 ぎきょく )
Le Speronare
スペロナーレ(旅行 りょこう 記 き )
Le Capitaine Arena
アレーナ船長 せんちょう
Halifax (théâtre)
ハリファックス(戯曲 ぎきょく )
La Villa Palmieri
ラ・ヴィラ・パルミエリ(フィレンツェ旅行 りょこう 記 き )
Le Chevalier d'Harmental
アルマンタルの騎士 きし
1843
Le Corricolo
コリコロ(ナポリ旅行 りょこう 記 き )
『コリコロ』上下 じょうげ 巻 まき 、中 ちゅう 田平 たひら 訳 やく 、デジタルエステイト、2021
Les Demoiselles de Saint-Cyr (théâtre)
サン=シールのお嬢様 じょうさま (戯曲 ぎきょく )
Louise Bernard (théâtre)
ルイーズ・ベルナール(戯曲 ぎきょく )
Filles
少女 しょうじょ 、ロレット、遊女 ゆうじょ
Georges
ジョルジュ
小川 おがわ 節子 せつこ 、日本 にっぽん 図書 としょ 刊行 かんこう 会 かい 、2001
Ascanio ou l'Orfèvre du roi
アスカニオ(戯曲 ぎきょく )
1844
Sylvandire
シルヴァンディール(戯曲 ぎきょく )
Fernande
フェルナンド
Les Trois Mousquetaires
三 さん 銃 じゅう 士 し
『三 さん 銃 じゅう 士 し 』生島 いくしま 遼 りょう 一 いち 訳 やく 、岩波 いわなみ 文庫 ぶんこ (上下 じょうげ )、1970
『三 さん 銃 じゅう 士 し 』竹村 たけむら 猛 たけし 訳 やく 、角川 かどかわ 文庫 ぶんこ (上中 かみなか 下 か )、200
『ダルタニャン物語 ものがたり 』鈴木 すずき 力衛 りきえ 訳 やく 、復刊 ふっかん ドットコム、2011、第 だい 1〜2巻 かん
Albine ou le Château d’Eppstein
エップシュタイン城 じょう
Gabriel Lambert
ガブリエル・ランベール
Louis XIV et son siècle
ルイ14世 せい とその世紀 せいき
1845
Contes
童話 どうわ 集 しゅう
Vingt ans après
二 に 十 じゅう 年 ねん 後 ご (三 さん 銃 じゅう 士 し 続編 ぞくへん )
『ダルタニャン物語 ものがたり 』鈴木 すずき 力衛 りきえ 訳 やく 、復刊 ふっかん ドットコム、2011、第 だい 3〜5巻 かん
Une amazone
アマゾネス
Le Comte de Monte-Cristo
モンテ・クリスト伯 はく
山内 やまうち 義雄 よしお 訳 やく 、岩波書店 いわなみしょてん 、1956
Une fille du régent
摂政 せっしょう の娘 むすめ
La Reine Margot
王妃 おうひ マルゴ
榊原 さかきばら 晃 あきら 三 さん 訳 やく 、河出 かわで 文庫 ぶんこ 、上下 じょうげ 、1997
鹿島 かしま 茂 しげる 訳 やく 、グーテンベルク21、上下 じょうげ 2015、Kindle版 ばん
Les Frères corses
コルシカの兄弟 きょうだい
英語 えいご の映画 えいが あり。The Corsican Brothers
Le Chevalier de Maison-Rouge
赤 あか い館 かん の騎士 きし
鈴木 すずき 豊 ゆたか 訳 やく 、復刊 ふっかん ドットコム、2011、上中 かみなか 下 か Kindle版 ばん
1846
La Dame de Monsoreau
モンソローの奥方 おくがた
小川 おがわ 節子 せつこ 訳 やく 、近代 きんだい 文藝 ぶんげい 社 しゃ 、2004
Joseph Balsamo
ジョゼフ・バルサモ
東 あずま 照 あきら によるWeb翻訳 ほんやく ページhttps://longuemare.gozaru.jp/hon/dumas/mm01jb/jb00a.html
Les Deux Diane
二人 ふたり のダイアナ
1847
Impressions de voyage : De Paris à Cadix
旅行 りょこう の印象 いんしょう 。パリからカディスへ
Les Quarante-cinq
四 よん 十 じゅう 五 ご 人 にん 隊 たい (『王妃 おうひ マルゴ』、『モンソローの奥方 おくがた 』に続 つづ く宗教 しゅうきょう 戦争 せんそう 三 さん 部 ぶ 作 さく の最後 さいご の作品 さくひん )
Le Chevalier de Maison-Rouge (théâtre)
モンソローの奥方 おくがた (戯曲 ぎきょく )
Catilina (théâtre)
カティリーナ(戯曲 ぎきょく )
Hamlet
デンマーク王子 おうじ ハムレット(戯曲 ぎきょく )
Le Vicomte de Bragelonne ou Dix ans plus tard
ブラジロンヌ子爵 ししゃく または10年 ねん 後 ご 、あるいは三 さん 銃 じゅう 士 し の20年 ねん 後 ご
『ダルタニャン物語 ものがたり 』鈴木 すずき 力衛 りきえ 訳 やく 、復刊 ふっかん ドットコム、2011、第 だい 6〜11巻 かん
1849
Les Mille et Un Fantômes
千 せん 霊 れい 一 いち 霊 れい 物語 ものがたり
前山 まえやま 悠 ゆう 訳 やく 、光文社 こうぶんしゃ 、2019
Le Collier de la reine
王妃 おうひ の首飾 くびかざ り
大久保 おおくぼ 和郎 かずお 訳 やく 創 はじめ 元 もと 推理 すいり 文庫 ぶんこ (上下 じょうげ )、1981
1850
La Femme au collier de velours
ベルベットの襟 えり の夫人 ふじん
La Tulipe noire
黒 くろ いチューリップ
横塚 よこつか 光雄 みつお 訳 やく 、グーテンベルク21、2012、Kindle版 ばん
宗 そう 左近 さこん 訳 わけ 、創 はじめ 元 もと 推理 すいり 文庫 ぶんこ 、1971
Le Trou de l’enfer
地獄 じごく の穴 あな (シャルルマーニュのクロニクル)
Le vingt-quatre février
二 に 月 がつ 二 に 十 じゅう 四 よん 日 にち
『二 に 月 がつ 二 に 十 じゅう 四 よん 日 にち 』中 ちゅう 田平 たひら 訳 わけ 、デジタルエステイト、2022
1851
Montevideo ou Une nouvelle Troie
モンテビデオまたは新 あたら しいトロイの木馬 もくば
Le Drame de quatre-vingt-treize
93年 ねん のドラマ
Impressions de voyage : Suisse
旅行 りょこう の印象 いんしょう 。スイス
Ange Pitou
アンジュ・ピトゥー
部分 ぶぶん 訳 やく (継続 けいぞく 中 ちゅう )https://longuemare.gozaru.jp/hon/dumas/mm03ap/ap001.html
Isaac Laquedem
イザーク・ラクデム
Olympe de Clèves
クリーブのオリンパス
Conscience l’innocent
無邪気 むじゃき な心 しん
Un Gil Blas en Californie
カリフォルニアのジル・ブラス
『カリフォルニアのジル・ブラス』中 ちゅう 田平 たひら ・中田 なかた たか子 こ 訳 やく 、デジタルエステイト、2023
Histoire de la vie politique et privée de Louis-Philippe
最後 さいご の王 おう (ルイフィリップの政治 せいじ 的 てき および私生活 しせいかつ の歴史 れきし )
Mes Mémoires
我 わ が回想 かいそう
Mémoires de Jeanne d’Albert de Luynes
神 かみ は定 さだ めたもう
1853
La Comtesse de Charny
シャルニー伯爵 はくしゃく 夫人 ふじん
Le Pasteur d’Ashbourne
アシュボーンの牧師 ぼくし
Les Drames de la mer
海 うみ のドラマ
Ingénue
アンジェニュ
1854
La Jeunesse de Pierrot
ピエロの青春 せいしゅん
Une vie d’artiste
画家 がか の人生 じんせい
Catherine Blum
カトリーヌ・ブルム
小川 おがわ 節子 せつこ 、日本 にっぽん 図書 としょ 刊行 かんこう 会 かい 、2007
Vie et Aventures de la princesse de Monaco
モナコ王女 おうじょ の人生 じんせい と冒険 ぼうけん
Le Marbrier (théâtre)
ル・マルブリエ(戯曲 ぎきょく )
La Conscience (théâtre)
山 やま の紳士 しんし (戯曲 ぎきょく )
Le Capitaine Richard
リシャール大尉 たいい
乾 いぬい 野 の 実歩 みほ 訳 やく 、グーテンベルク21、2007(電子 でんし 書籍 しょせき )
Les Mohicans de Paris
パリのモヒカン族 ぞく
Souvenirs de 1830 à 1842
1830年 ねん から1842年 ねん までの想 おも い出 で
La Jeunesse de Louis XIV (théâtre)
ルイ14世 せい の青春 せいしゅん (戯曲 ぎきょく )
1855
La Dernière Année de Marie Dorval
マリー・ドルバルの晩年 ばんねん
Le Page du duc de Savoie
サボイ公爵 こうしゃく の小姓 こしょう
Les Grands Hommes en robe de chambre : César
オレステイア(戯曲 ぎきょく )
Mémoires d'une aveugle ou Madame du Deffand
ある盲目 もうもく 女性 じょせい の回想 かいそう あるいはデファン夫人 ふじん
1856
Les Compagnons de Jéhu
イエフの仲間 なかま
La Tour Saint-Jacques (théâtre)
サン・ジャック塔 とう
Un cadet de famille ou Mémoires d'un jeune cadet
家 いえ の次男 じなん 坊 ぼう
1857
Charles le Téméraire
無鉄砲 むてっぽう 者 しゃ シャルル
Le Meneur de loups
オオカミの首領 しゅりょう
L'Invitation à la valse (théâtre)
ワルツへの招待 しょうたい (戯曲 ぎきょく )
1858
Black
黒 くろ
Les louves de Machecoul
マシュクールのオオカミ
L'Horoscope
ホロスコープ
『ホロスコープ:宗教 しゅうきょう 戦争 せんそう 前夜 ぜんや のルーヴル宮 みや 』中 ちゅう 田平 たひら ・中田 なかた たか子 こ 訳 やく 、デジタルエステイト、2023
De Paris à Astrakan ou Voyage en Russie
パリからアストラカンまで、新 あたら しい旅行 りょこう の印象 いんしょう
1859
Voyage au Caucase
コーカサスの旅 たび
L'Île de feu
火 ひ の島 しま
Le Fils du forçat
徒刑囚 とけいしゅう の息子 むすこ
1860
La Maison de glace
氷 こおり の家 いえ
La Route de Varennes
ヴァレンヌへの道 みち
Mémoires de Garibaldi
ガリバルディ回想 かいそう 録 ろく
『ガリバルディ回想 かいそう 録 ろく 』中 ちゅう 田平 たひら ・中田 なかた たか子 こ 訳 やく 、デジタルエステイト、2024
Une aventure d’amour
愛 あい の冒険 ぼうけん
Le Roman d'Elvire (opéra-comique)[65]
エルビラの小説 しょうせつ (オペラ・コミック)
Le Père La Ruine
ラルイーン神父 しんぷ
Le Père Gigogne
ジゴーニュ親父 おやじ
La Marquise d’Escoman
デスコマン侯爵 こうしゃく 夫人 ふじん
L'Envers d'une conspiration (théâtre)
陰謀 いんぼう の裏側 うらがわ
1861
Une nuit à Florence sous Alexandre de Médicis
シャンブレー夫人 ふじん (戯曲 ぎきょく )
Bric-à-brac
がらくた
1863
La Boule de neige
雪 ゆき 玉 だま
La Dame de volupté ou Mémoires de Jeanne d’Albert de Luynes
喜 よろこ びの奥方 おくがた
1864
La San-Felice
サン・フェリーチェ
Emma Lyonna
エンマ・リヨナ
La Princesse Flora
フローラ王 らおう 女 おんな
Le Destin de la San Felice
サン・フェリーチェの運命 うんめい
Les Deux Reines
二人 ふたり の女王 じょおう
1865
Souvenirs d'une favorite
寵姫 ちょうき の思 おも い出 で
Le Fils du forçat
徒刑囚 とけいしゅう の息子 むすこ
1866
Le Comte de Mazzara
マッツァーラの伯爵 はくしゃく
1867
Les Blancs et les Bleus
白 しろ と青 あお
Les Hommes de fer
鉄 てつ 仮面 かめん
『ダルタニャン物語 ものがたり 』鈴木 すずき 力衛 りきえ 訳 やく 、復刊 ふっかん ドットコム、2011、第 だい 10巻 かん
石川 いしかわ 登志夫 としお 訳 やく 、グーテンベルク21 、2013、Kindle版 ばん
Histoire d'un lézard (Souvenirs de Naples)
トカゲの話 はなし (ナポリの想 おも い出 で )
1868
Les Garibaldiens
ガリバルディ義勇軍 ぎゆうぐん
La Terreur prussienne
プロシャの脅威 きょうい
1870(死後 しご )
Le Grand dictionnaire de cuisine
大 だい 料理 りょうり 事典 じてん
『デュマの大 だい 料理 りょうり 事典 じてん 』辻 つじ 静雄 しずお , 林田 はやしだ 遼 りょう 右 みぎ 、他 た 訳 やく 、岩波書店 いわなみしょてん 、1993
^ 同 おな じアレクサンドル・デュマを名乗 なの った3代 だい の祖父 そふ ・父 ちち ・子 こ について、アンドレ・モーロワは「3人 にん のデュマ」という伝記 でんき を書 か いている。André Maurois, Les Trois Dumas, éd.Hachette, 1957。訳書 やくしょ は『アレクサンドル・デュマ』菊地 きくち 映 うつ 二 に 訳 やく (筑摩書房 ちくましょぼう 、1971年 ねん )
^ アンリ三 さん 世 せい とその宮廷 きゅうてい . デジタルエステイト. (中 ちゅう 田平 たひら 訳 やく 、デジタルエステイト、2016)
^ ネールの塔 とう . デジタルエステイト. (2017)
^ キーン . デジタルエステイト. (2019)
^ Fernande Bassan, Histoire de la Tour de Nesle de Dumas père et Gaillardet, Nineteenth-Century French Studies, III、 Nos.1-2 (Fall Winter 1974-75)、 pp.42-43、 Note3.『ネールの塔 とう 五 ご 幕 まく 九 きゅう 景 けい ドラマ』デジタルエステイト、2016年 ねん 、128ページ以降 いこう 。
^ 46 Rue Alexandre Dumas, 02600 Villers-Cotterêts, フランス
^ Alexandre Dumas, Mes mémoires (https://books.google.fr/books?id=Tp8DAAAAYAAJ&printsec=frontcover#v=onepage& q&f=false), Michel Lévy frères, Paris, 1863, chap. I, p. 3. 『わが回想 かいそう 』は未 み 翻訳 ほんやく 。アレクサンドル・デュマ通 どお り46のデュマの生家 せいか 跡 あと から徒歩 とほ 5分 ふん ほどのドモスティエ通 どお り24にアレクサンドル・デュマ博物館 はくぶつかん がある。
^ Alexandre Dumas, Le Meneur de Loups (https://books.google.fr/books?id=BhlMAAAAMAAJ&printsec=frontcover#v=one
page&q&f=false), Michel Lévy frères, Paris, 1868, p. 4. 『狼 おおかみ の首領 しゅりょう 』は未 み 翻訳 ほんやく 。
^ アレクサンドル・デュマ通 どお り46番地 ばんち の注 ちゅう を参照 さんしょう のこと。
^ 『アレクサンドル・デュマ』25ページ。
^ 1954年 ねん に出版 しゅっぱん された小説 しょうせつ Catherine Blum『カトリーヌ・ブルム』は少年 しょうねん 時代 じだい を過 す ごしたヴィレル・コトレを題材 だいざい にしていて、その中 なか にグレゴワール神父 しんぷ の思 おも い出 で を盛 も り込 こ んでいる。『カトリーヌ・ブルム』小川 おがわ 節子 せつこ 訳 やく 、日本 にっぽん 図書 としょ 刊行 かんこう 会 かい 、2005年 ねん 。
^ 『アレクサンドル・デュマ』27ページ。
^ 『アレクサンドル・デュマ』37ページ。
^ 『アレクサンドル・デュマ』49ページ。
^ アントニー . デジタルエステイト. (2016)
^ ベル=イル嬢 じょう . デジタルエステイト. (2018)
^ Fernand Bassan (1974). Alexandre Dumas père, Théâtre complet I . Minard
^ Claude Schopp, Alexandre Dumas, le genie de la vie, Éditions Mazarine, pp.239-240. クロード・ショップ著 ちょ 『アレクサンドル・デュマ、人生 じんせい の天才 てんさい 』未 み 翻訳 ほんやく
^ Fernand Bassan (Fall—Winter 1993-1994). “Le roman-feuilleton et Alexandre Dumas père (1802-1870)”. Nineteenth-Century French Studies Vol. 22, No. 1/2 : 100-101.
^ 『アレクサンドル・デュマ』167ページ。
^ 『アレクサンドル・デュマ』363ページ。
^ “Alexandre Dumas > ”. www.dumaspere.com . 2020年 ねん 2月 がつ 22日 にち 閲覧 えつらん 。
^ アレクサンドル・デュマの書誌 しょし についてはダグラス・マンロー『アレクサンドル・デュマ父 ちち の1825年 ねん から1900年 ねん までのフランス語 ふらんすご による作品 さくひん 書誌 しょし 』が最 もっと も詳細 しょうさい である。Douglas Munro, Alexandre Dumas père A Bibliography of Works, published in French, 1825-1900, Garland Publishing, inc, 1981. また、フランス語 ふらんすご による著作 ちょさく の検索 けんさく については http://www.dumaspere.com/pages/oeuvre/dictionnaire.html が詳細 しょうさい である。多 おお くのリンク先 さき には作品 さくひん の概要 がいよう と分析 ぶんせき がついていて非常 ひじょう に有用 ゆうよう である。
^ 邦題 ほうだい について、すでに邦訳 ほうやく があるものはそれを優先 ゆうせん し、未 み 翻訳 ほんやく のものについては原題 げんだい に従 したが った
フランス語 ふらんすご 版 ばん ウィキソースに
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