リッチー・ブラックモア

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リッチー・ブラックモア
Ritchie Blackmore
レインボー - えいロンドン公演こうえん(2017ねん
基本きほん情報じょうほう
出生しゅっしょうめい Richard Hugh Blackmore
生誕せいたん (1945-04-14) 1945ねん4がつ14にち(79さい
出身しゅっしん イングランドの旗 イングランド
サマセットしゅうウェストン=スーパー=メア
ジャンル ハードロック[1]
ヘヴィメタル[2]
職業しょくぎょう ミュージシャンギタリスト作曲さっきょく
担当たんとう楽器がっき ギター
活動かつどう期間きかん 1961ねん - 現在げんざい
レーベル ポリドール・レコード
BMG
共同きょうどう作業さぎょうしゃ ディープ・パープル
レインボー
ブラックモアズ・ナイト
公式こうしきサイト blackmoresnight.com
著名ちょめい使用しよう楽器がっき
フェンダー・ストラトキャスター
J.S.バッハ
ジミ・ヘンドリックス
ダス・ガイヤー・シュワッサー・ハウフェン

リッチー・ブラックモア(Ritchie Blackmore, 本名ほんみょう:Richard Hugh Blackmore(リチャード・ヒュー・ブラックモア[注釈ちゅうしゃく 1]1945ねん4がつ14にち - )は、イングランドギタリストアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく在住ざいじゅう身長しんちょう179cm。

1970年代ねんだいから80年代ねんだいにかけて人気にんき支持しじたギター・ヒーローハード・ロックバンドディープ・パープル」の創設そうせつメンバーとしてせ、「レインボー」や「ブラックモアズ・ナイト」を結成けっせいして主宰しゅさいつとめてきた。

ローリング・ストーン選出せんしゅつ歴史れきしじょうもっと偉大いだいな100にんのギタリスト」において2003ねんだい552011ねん改訂かいていばんではだい502016ねん、ディープ・パープル名義めいぎロックの殿堂でんどうはいり。

概要がいよう[編集へんしゅう]

ブルースロック全盛期ぜんせいき1970年代ねんだいに、ロック・ギターにクラシック音楽おんがくフレーズ導入どうにゅう。ロックの音楽おんがくはばおおきくひろげ、1970年代ねんだい以降いこうハードロックシーンにはかれない影響えいきょうあたえた。

ステージでのストラトキャスター多用たよう破壊はかいは、ハードロックやヘヴィメタルのギター・ヒーローのパフォーマンス象徴しょうちょうとして、現在げんざいいたるまでがれてきた。

少年しょうねん時代じだい[編集へんしゅう]

イングランド西部せいぶ保養ほようサマセットしゅうウェストン=スーパー=メアまれ、ロンドン近郊きんこうミドルセックスしゅうヘストンでそだつ。

1956ねん、11さい誕生たんじょう父親ちちおやから当時とうじ価格かかくで7ポンドスパニッシュ・ギターをプレゼントされ、クラシック・ギターのレッスンをやく1年間ねんかんける[3][注釈ちゅうしゃく 2]。まもなく、当時とうじ近所きんじょんでいたビッグ・ジム・サリヴァンロックン・ロールのギターをならはじめた[4]

14さいときはじめてエレクトリックギターカール・ヘフナー (Höfner)・クラブ=50 をにして、人前ひとまえはじめての演奏えんそう披露ひろうした。エレクトリック・ギターの魅力みりょくかれたかれは、さらに腕前うでまえ向上こうじょうさせていった[3][5]

下積したづ時代じだい(1961ねん - 1966ねん[編集へんしゅう]

1960ねん、15さいとき学校がっこうってロンドンヒースロー空港くうこう技師ぎしとしてはたらはじめ、かねはつのプロ・ユース・エレクトリックギター、ギブソンES335れた[6]1961ねんジャズ・ギターの練習れんしゅうやバンド活動かつどうにいそしみ、スキッフル・バンドのザ・ドミネイションズザ・サフォナイツザ・デトネイターズマイク・ディーン・アンド・ザ・ジェイウォーカーズ(Mike Dee & The Jaywalkers)といったローカル・バンドで活動かつどうした[3][注釈ちゅうしゃく 3][7]

1961ねん以降いこう、そういった活動かつどう見切みきりをつけ、ドイツのハンブルクわたったときスター・クラブ英語えいごばんスクリーミング・ロード・サッチ出会であい、セッションをおこなった。さらに後日ごじつ、ブラックモアをったサッチは、かれ自分じぶんひきいるスクリーミング・ロード・サッチ・アンド・ザ・サヴェイジス(Screaming Lord Sutch & The Savages)にむかえた[8][注釈ちゅうしゃく 4]。サッチは音楽おんがくてき実力じつりょくよりもショーマンとしての能力のうりょくひいでたミュージシャンで[3]実力じつりょくはあっても地味じみ印象いんしょうしかなかったブラックモアにメイクをさせ、ステージでおおきなアクションをするように要求ようきゅうした[注釈ちゅうしゃく 5]。ザ・サヴェイジスに在籍ざいせきした2年間ねんかん、サッチとの活動かつどうくわえて、ヒットきょくテルスター[注釈ちゅうしゃく 6][9]発表はっぴょうしたトルネイドース[注釈ちゅうしゃく 7](The Tornadors)のレコーディング・セッションなどもこなし、次第しだい実績じっせきたくわえていく。

1963ねんからはRGMスタジオのセッション・ミュージシャンとなり、無名むめい時代じだいトム・ジョーンズトルネイドースの「テルスター」を手掛てがけたれっプロデューサーのジョー・ミーク (Joe Meek) のしたおおくのセッション活動かつどうをこなした。同年どうねん、トルネイドーズのベーシストだった歌手かしゅハインツ・バート (Heinz) の伴奏ばんそうつとめている。6月には再度さいどハンブルクにき、ミークの関連かんれんジ・アウトローズThe Outlaws) に加入かにゅうした[10]。アウトローズは自分じぶんたちレコード本業ほんぎょうかたわら、ハインツやジェリー・リー・ルイスジーン・ヴィンセント伴奏ばんそうがけたが、ブラックモアは1964ねん5がつ脱退だったい[注釈ちゅうしゃく 8][11]。ハインツの要請ようせいで、かれハインツ・アンド・ザ・ワイルド・ボーイズ(Heinz & The Wild Boys)にリーダーとして加入かにゅうした[12]が、音楽おんがくてき限界げんかいかんじてよく1965ねん1がつ脱退だったい[注釈ちゅうしゃく 9]、2がつにスクリーミング・ロード・サッチ・アンド・ザ・サヴェイジスにさい加入かにゅう[13]ジェフ・ベックジミー・ペイジ短期間たんきかんセッションをおこなったのもこのころである。1965ねん3がつにソロ・シングル'Getaway'/'Little Brown Jug'を発表はっぴょう[14]

1966ねん二人ふたり友人ゆうじんとハンブルクに再々さいさい渡航とこうし、スリー・マスケティアーズ(Three Musketeers)[13]結成けっせいするが、すぐに解散かいさん[注釈ちゅうしゃく 10]。11月にスクリーミング・ロード・サッチ・アンド・ザ・サヴェイジスに再々さいさい加入かにゅうして1967ねん5がつまで在籍ざいせき[注釈ちゅうしゃく 11][15][16]。さらにマンドレイク・ルート(Mandrake Root)を結成けっせいするが、資金しきんめん困難こんなんさからすぐに消滅しょうめつ[17][注釈ちゅうしゃく 12]低迷ていめいした時期じきだったが、このころクリス・カーティス (Chris Curtis) やイアン・ペイス[18][注釈ちゅうしゃく 13]った。

ディープ・パープル時代じだい(1967ねん - 1975ねん、1984ねん - 1993ねん[編集へんしゅう]

ディープ・パープル時代じだい (1971ねん)

1967ねん当時とうじサーチャーズドラムヴォーカル担当たんとうしていたクリス・カーティス (Chris Curtis) があたらしいバンド「ラウンドアバウト」のメンバーをさがはじめた。同年どうねん12がつにカーティスが最初さいしょにメンバーにしたのはフラワー・ポットメン (The Flower Pot Men) のバック・バンドのメンバーだったジョン・ロード(キーボード)で、つぎがブラックモアだった。さらにカーティスはボビー・クラーク(ドラムス)をくわえたが、ほどなく失踪しっそう。ラウンドアバウトのメンバーさがしは中断ちゅうだんし、ブラックモアはクリスマスにふたたびハンブルクにわたった[19]よく1968ねん、ロードとブラックモアはメンバーさがしを再開さいかいして、ニック・シンパー(ベース)、ロッド・エヴァンス(ボーカル)をむかえた、さらにエヴァンスが在籍ざいせきしていたバンドのメンバーでオーディションに偶然ぐうぜん一緒いっしょてブラックモアと再会さいかいしたペイスを、クラークにえてむかえた。こうしてメンバー5にんそろった時点じてんでバンドめいを「ディープ・パープル」にあらため、アメリカの新興しんこうレコード会社かいしゃテトラグラマトン・レコード (Tetragrammaton Records) よりデビューをかざる)。

だい1代表だいひょうきょくには「ハッシュ」、ハードロック・バンドとなっただい2以降いこう代表だいひょうきょくには「ハイウェイ・スター」、「スモーク・オン・ザ・ウォーター」、「ブラック・ナイト」、「むらさきほのお」、「スピード・キング」など多数たすうがある。かれ商業しょうぎょうてきもっと成功せいこうしただい2以後いご楽曲がっきょくおおくを中心ちゅうしんとなってつくったとされている。

だい2の1971ねん4がつ、ロンドンのCountry Clubでサッチのライブ活動かつどう参加さんか[20]。1972ねんにサッチがロード・サッチ・アンド・ヘヴィフレンズ名義めいぎ発表はっぴょうしたライブ・アルバム『ハンズ・オブ・ジャック・ザ・リッパー』[21]参加さんか

だい2末期まっきの1973ねんごろに、ブラックモアはペイスをさそってディープ・パープルを脱退だったいし、シン・リジィフィル・ライノットとベイビー・フェイスなるニュー・トリオの結成けっせい画策かくさくしていたことがあった。しかしペイスにはことわられたうえ残留ざんりゅうつようながされ、ライノットからもことわられて計画けいかくながれてしまった。かれ結局けっきょくだい3まで在籍ざいせきして1975ねん4がつ脱退だったい在籍ざいせき末期まっき水面すいめんはじめたソロ活動かつどう発展はってんさせるために、リッチー・ブラックモアズ・レインボーを結成けっせいした。

1984ねんだい2メンバーによるディープ・パープルのさい結成けっせい主導しゅどう。しかしのメンバーとの音楽おんがくてき相違そういなどから1993ねん再度さいど脱退だったい契約けいやくレーベルがわには、ソロ形態けいたいのアルバムを条件じょうけん脱退だったいみとめさせ、結果けっかリッチー・ブラックモアズ・レインボーの活動かつどう再開さいかいかった(後述こうじゅつ)。

レインボー時代じだい(1975ねん - 1984ねん、1995ねん - 1997ねん[編集へんしゅう]

レインボー時代じだい(1977ねん

1975ねんロニー・ジェイムス・ディオ(ボーカル)を起用きようしてソロ作品さくひん制作せいさくする過程かていでディープ・パープルを脱退だったい。ディオが在籍ざいせきしていた「エルフ」を母体ぼたいにして「リッチー・ブラックモアズ・レインボー」を結成けっせいした。合意ごうい形成けいせいがたのディープ・パープルとちがい、あくまでかれのソロ活動かつどう延長線えんちょうせんじょうにあるワン・マン・バンドであった。

当初とうしょはディープ・パープルの路線ろせん踏襲とうしゅうしつつも、ブルースロックと中世ちゅうせいてき音楽おんがく両方りょうほうれたハードロック目指めざしていた。ディオ以外いがいのメンバーを一新いっしんしてコージー・パウエル(ドラム)らをむかえ、セカンド・アルバム『にじかけ覇者はしゃ』を発表はっぴょう。「レインボー」として黄金おうごん時代じだいむかえた。そのもアルバムごとにメンバー交代こうたいおこなわれ、次第しだいにアメリカ市場いちば意識いしきしたポップセンスのある曲調きょくちょうおおくなっていった。

1984ねん、ブラックモアがディープ・パープルのさい結成けっせい合流ごうりゅうするため活動かつどう停止ていし

ディープ・パープル再度さいど脱退だったい1995ねん新規しんき編成へんせいしたメンバーでリッチー・ブラックモアズ・レインボーを再興さいこう[注釈ちゅうしゃく 14]。アルバム『孤高ここうのストレンジャー』を発表はっぴょう来日らいにち公演こうえんふくむツアーをおこなうが1997ねんふたた自然しぜん消滅しょうめつてき状態じょうたい活動かつどう停止ていしする。

その、ディオやパウエルをふくんだクラシック・メンバーによるさい結成けっせいはなしがったが、実現じつげんいたらないまま、彼等かれら死去しきょによりまぼろしわった。

ブラックモアズ・ナイト(1997ねん - 現在げんざい[編集へんしゅう]

ブラックモアズ・ナイト - N.Y.公演こうえん(2012ねん

1997ねん婚約こんやくしゃキャンディス・ナイト(ボーカル)とブラックモアズ・ナイト結成けっせい。 イギリス中世ちゅうせい音楽おんがく現代げんだいふうアレンジした音楽おんがく演奏えんそう。 

ロシア、ドイツ、チェコでは、アルバムのいくつかがゴールドディスクに認定にんていされた。アメリカやイギリスではほとんどヒットしていないがニューエイジしょうやニューエイジ部門ぶもんベストヴォーカリストしょうなどを獲得かくとくした。日本にっぽんではファースト・アルバムが10まんまいちかれたが、そののアルバム販売はんばい枚数まいすう発表はっぴょうごと減少げんしょう傾向けいこうにある[22]。2020ねん時点じてんで、アルバムの発表はっぴょうすうはライブばんふくめるとけたたっしている。

アルバム『ダンサー・アンド・ザ・ムーン』(2013ねん)に、前年ぜんねんの2012ねん病没びょうぼつしたロードを追悼ついとうしたインストゥルメンタルの単独たんどくさく'Carry On... Jon'を収録しゅうろくした。

ナイトはげん夫人ふじん。ブラックモアには4にん結婚けっこん相手あいてにあたる(#結婚けっこんれき参照さんしょう)。

2010年代ねんだい以降いこう(2010ねん - 現在げんざい[編集へんしゅう]

2015ねん7がつ音楽おんがく媒体ばいたいのインタビューで「来年らいねんの6がつにRock(HR/HM)の欧州おうしゅう公演こうえん企画きかくしている。それはレインボーディープ・パープルになる」とかした。70さいになったのでからだうごけるうちにという考慮こうりょと、ノスタルジア気持きもちになったのがおおきな理由りゆうだとべている[23]公式こうしきFacebookページで、リッチー・ブラックモアズ・レインボー(Ritchie Blackmore's Rainbow)名義めいぎのツアーのポスター画像がぞう公開こうかいされた[24]。そのツアー・メンバーが発表はっぴょうされ[25]、ドイツで2公演こうえんモンスターズ・オブ・ロック)、イングランドで1公演こうえん決定けっていした[26]

2016ねん2がつ、ディープ・パープル名義めいぎロックの殿堂でんどうりが決定けってい。しかしおな受賞じゅしょうしゃであるディープ・パープルのげんメンバーが共演きょうえん拒否きょひしたので授賞じゅしょうしき欠席けっせき[27]。「実際じっさい殿堂でんどうりにはまった興味きょうみない」とかたっていた。

同年どうねん6がつ、レインボー名義めいぎ当初とうしょ予定よていどおぜん3かい公演こうえん実施じっし[28]。ブラックモアは「反応はんのう次第しだいでは、まだ継続けいぞくする可能かのうせいがある」とふくみをのこした[29]。そしてよく2017ねんからもとしすうかい公演こうえん開催かいさいしている[30]

音楽おんがくせい[編集へんしゅう]

それまでペンタトニック・スケール一辺倒いっぺんとうだったロック・ギターに、クロマチック・スケールやハーモニック・マイナー、さらにクラシックのきょく大胆だいたんれ、音楽おんがく表現ひょうげん拡大かくだい寄与きよした。ディープ・パープルやレインボーに在籍ざいせきしたハードロック時代じだいにも、ライヴの即興そっきょう演奏えんそうでバッハのガヴォットやイングランド民謡みんようであるグリーンスリーヴス披露ひろうした。

プロになったころからだい1ディープ・パープルまではビッグ・ジム・サリヴァンの影響えいきょう色濃いろこのこっていたが、ブルース・ブレイカーズ在籍ざいせきからクリーム在籍ざいせきのエリック・クラプトンに影響えいきょうけ、ブルースロックてきなテクニック、ベンディングやおおきなヴィブラートをみずからのプレイにれた[注釈ちゅうしゃく 15]。こうしてだい2ディープ・パープルのアルバム『ディープ・パープル・イン・ロック以降いこうのスタイルを確立かくりつした。

ジミ・ヘンドリックスからの影響えいきょう[編集へんしゅう]

(2012ねん

ブラックモアはジミ・ヘンドリックス影響えいきょうつよけていることを公言こうげんしており、ブラックモアズ・ナイトではヘンドリックスをしの楽曲がっきょく発表はっぴょうしている。

ディープ・パープルはデビュー・アルバムで、ヘンドリックスがカバーした「ヘイ・ジョー」(Hey Joe)をカバーした。 また『ディープ・パープル・イン・ロック』の「スピード・キング」は、かれの「ファイア」をヒントにした[注釈ちゅうしゃく 16]

ブラックモアは1969ねんせいブラックストラトキャスターを入手にゅうしゅして1972ねん中期ちゅうきまでトレードマークとして使用しようしたほか、テレキャスターネックを装着そうちゃくしたホワイト・ストラトキャスターを演奏えんそうしたり、時折ときおりステージで左利ひだりきようストラトキャスターを使用しようしたりするなど、ヘンドリックスへのつよ傾倒けいとうりをしめしていた[注釈ちゅうしゃく 17]。ギターの破壊はかいなどのパフォーマンスもヘンドリックスからの影響えいきょうだと論評ろんぴょうおお[注釈ちゅうしゃく 18]

ディープ・パープルが1968ねん10がつはつのアメリカ・ツアーでクリーム解散かいさんコンサートの前座ぜんざつとめた[31]さい、コンサートをにきたヘンドリックスからパーティに招待しょうたいされている[注釈ちゅうしゃく 19]。メンバーのニック・シンパー(ベース)は、ヘンドリックスに「TVでたけどきみのバンドにいる黒装束くろしょうぞくのギタリストはすごいな」とわれたという。

レインボーのアルバム『やみからの一撃いちげき』(1982ねん)の原題げんだい"Straight between the Eyes"は、ジェフ・ベックがブラックモアにかたった「ジミの演奏えんそう視覚しかくへストレートにんでくる」という言葉ことば由来ゆらいする。

使用しよう機材きざい[編集へんしゅう]

愛用あいようのフェンダー・ストラトキャスター(1985ねん

ハード・ロック演奏えんそう使用しよう楽器がっきはラージヘッド仕様しようフェンダー・ストラトキャスター有名ゆうめい。ストラトキャスターにはゆびばんをえぐる(スキャロップド・フィンガーボード)、トレモロアーム交換こうかんする[注釈ちゅうしゃく 20]ピックアップのワイアリングをえるなどの改造かいぞう[注釈ちゅうしゃく 21]ほどこされていた。

ディープ・パープル初期しょきは、ハンブルグ下積したづ時代じだいから愛用あいようしていた1961ねんせいギブソン・ES-335をメインに1968ねんせいギブソン・SG(使用しよう遍歴へんれき不明ふめい)、とししき不明ふめいだがビグスビーB5トレモロ・ユニットを装着そうちゃくしたフェンダー・テレキャスター、ローディをつうじてエリック・クラプトンからゆずけたテレキャスターのネックが移植いしょくされたサンバースト・フィニッシュのストラトキャスターを使つかっていた。だい2になってハード・ロックしょく明確めいかくされてからは、全面ぜんめんてきにストラトキャスター[注釈ちゅうしゃく 22]使用しようしている。ディープ・パープルさい結成けっせいから近年きんねんまでは、アームはほとんど使用しようされていない。1995ねんYOUNG GUITARのインタビューでは「あのころ活動かつどう初期しょき)はアームを使つかうプレーヤーがあまりなかったが、現在げんざいおおもちいられるようになったのでめた」と発言はつげんしている。

エフェクターは1970ねんごろ、イギリスせいホーンビー・スキューズ(Hornby Skewes) のトレブル・ブースター[32]入手にゅうしゅしてだい2末期まっきまで使用しようにダラス・アービターのファズフェイスを1969ねんから1971ねんごろまで使用しようしていた[注釈ちゅうしゃく 23]。1973ねんごろからアイワオープンリール・テープデッキTP-1011[33]を、改造かいぞうしエコーマシンとして、1977ねんからモーグのベースペダル・タウラス・ペダル・シンセサイザー(TAURUS Ⅰ)[34]使用しようしている。アンプはマーシャルの200Wアンプ[35]このんで使用しようしていたが、レインボーさい結成けっせい以降いこうではENGLしゃのハイゲインアンプがり、現在げんざいまでシグネイチュア・モデル・アンプヘッドからコンボ・アンプといった具合ぐあいおおもちいている。ピックは鼈甲べっこうせいの「ホームベースがた[注釈ちゅうしゃく 24]ばれるもの長年ながねん愛用あいようしている。

ブラックモアズ・ナイトでは、アコースティック・ギター中心ちゅうしん演奏えんそうしている。

結婚けっこんれき[編集へんしゅう]

1964ねん3がつ18にち、ジ・アウトローズに在籍ざいせきちゅう、ドイツのハンブルクでマーギット(Margit)と結婚けっこん[9]同年どうねんユルゲン・リヒャルト・ブラックモア[12]誕生たんじょう。ユルゲンは一時期いちじきアイアン・エンジェル (Iron Angel) のギタリストをつとめ、現在げんざいもとレインボーのジョー・リン・ターナーらと結成けっせいした「オーヴァー・ザ・レインボー」(Over the Rainbow)で活動かつどうしている[36]。ブラックモアとマーギットは1969ねん離婚りこん[12]

2度目どめ結婚けっこんは1969ねん9がつで、相手あいて前妻ぜんさいおなじくドイツじんのバブス・ハーディー (Bärbel Haerdie、本名ほんみょうはバーベル)[37][38]

3度目どめ結婚けっこんは1981ねん5がつで、相手あいてはエイミー・ロスマン[39]

つまキャンディス・ナイト(2009ねん

ブラックモアズ・ナイトでとも活動かつどうしているキャンディス・ナイトとは1989ねんからはじめ、1991ねんから同棲どうせい、1994ねん婚約こんやく[40]、2008ねん10がつ5にち、キャッスル・オン・ザ・ハドソンで結婚けっこんした[41]。26さい年下としした彼女かのじょとのあいだに、2010ねんむすめオータム・エスメラルダ・ブラックモア誕生たんじょう。さらに2さい息子むすこローリー・ブラックモアもさずかった。

ディスコグラフィ[編集へんしゅう]

ソロ作品さくひん[編集へんしゅう]

コンピレーション(1960年代ねんだいのセッション編集へんしゅうばん

  • Ritchie Blackmore – Rock Profile Vol. 1 (1989ねん[42]
  • Ritchie Blackmore – Rock Profile Vol. 2 (1991ねん[43]
  • Ritchie Blackmore – Take It! Sessions 63/68 (1994ねん[44]
  • Ritchie Blackmore – Anthology Vol.1 (1998ねん[45]
  • Ritchie Blackmore – Anthology Vol.2 (1998ねん[46]
  • Ritchie Blackmore – Getaway – Groups & Sessions (2005ねん[47]

ディープ・パープル[編集へんしゅう]

スタジオアルバム

ライブアルバム

コンピレーション

レインボー[編集へんしゅう]

ブラックモアズ・ナイト[編集へんしゅう]

その[編集へんしゅう]

  • Lord Sutch And Heavy Friends – Hands Of Jack The Ripper(1972ねん[48]
  • Neil Christian & The Crusaders – Featuring Jimmy Page, Ritchie Blackmore And Nicky Hopkins(1993ねん[49]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 過去かこにミドルネームをハロルド(Harold)と表記ひょうきするメディアがあったが、あやまりである。
  2. ^ 本人ほんにんは、フレットをさえるとき小指こゆび使つかえるのは、そのときのレッスンがきているから、とべている。
  3. ^ Popoffちょの"The Deep Purple Family Year By Year Volume One (to 1979)"によると、ブラックモアは1961ねん5がつから1962ねん4がつまでの期間きかん、Mike Dee & The Jaywalkersに在籍ざいせきしてプロになった。一方いっぽうかれはThe Dominatorsというバンドともステージにったという。
  4. ^ Popoffによると、1962ねん4がつと5がつはThe JaywalkersあらためThe Condors、6がつから10がつ12にちまではロード・サッチ・アンド・ザ・サヴェイジスで演奏えんそうした。
  5. ^ 『リッチー・ブラックモア:狂気きょうきかみなりまい』によれば、この経験けいけんは、そののショーマンとしてのリッチー・ブラックモアの形成けいせいおおきく貢献こうけんしている。
  6. ^ 1962ねん8がつ発表はっぴょうされ、イギリスのバンドのレコードとしてはじめてビルボードだいいち記録きろくしたインストゥルメンタル。
  7. ^ 「トーネイドース」「トーネイドーズ」「トルネイドス」「トルナドース」ともばれる。
  8. ^ Popoffによると、ブラックモアはジ・アウトローズに1962ねん10がつから1964ねん4がつまで在籍ざいせき。ジ・アウトローズは1962ねん10がつ26にちにビートルズ、1964ねん3がつ18にちにはローリング・ストーンズの前座ぜんざつとめた。1964ねん3がつ18にちはブラックモアの最初さいしょ結婚式けっこんしきでもあった。
  9. ^ Popoffによると、そのThe Sessions、Ritchie Blackmore Orchestra、The Lancasters、1965ねんにはNeil Christian and the Crusadersと活動かつどうした。
  10. ^ Popoffによると、1965ねん2がつから5がつにかけてスクリーミング・ロード・サッチ・アンド・ザ・サヴェイジスでの活動かつどうとジェリー・リー・ルイスの伴奏ばんそうおこない、その1966ねんにかけて、スリー・マスケティアーズ、Riki Maiocchi、ふたたNeil Christian and the Crusadersと活動かつどうした。
  11. ^ 1967ねんのヨーロッパ公演こうえんではロード・カエサル・サッチ&ザ・ローマン・エンパイア(Lord Caeser Sutch & The Roman Empire)と名乗なのり、ブラックモアをふくむメンバー全員ぜんいんがサッチと同様どうよう騎士きし格好かっこうをしてステージにった。クリーム前座ぜんざつとめたこともあった。
  12. ^ Popoffによると、Neil Christianとも活動かつどうした。
  13. ^ 当時とうじハンブルグんでいたブラックモアはイタリアにかうふねなかでペイスに出会であった。ペイスが当時とうじ在籍ざいせきしていたザ・メイズは1967ねん1がつからミラノに3かげつあいだ滞在たいざいして"Chips With Everything"という舞台ぶたい音楽おんがく担当たんとうしていた。後日ごじつ両者りょうしゃハンブルグ再会さいかいしてクラブで一緒いっしょ演奏えんそうし、ブラックモアはペイスのドラミングをって一緒いっしょ活動かつどうしようとさそったが、ペイスはザ・メイズの仕事しごと優先ゆうせんしてことわった。
  14. ^ きゅうメンバーは、ツアー・メンバーとして参加さんかしたチャック・バーギ(ドラムス)のみ。
  15. ^ ハンドヴィブラートはクラプトンから直接ちょくせつならったが、習得しゅうとくするのにすうねんかかったとかたっている。
  16. ^ ロジャー・グローヴァー談話だんわのちにブラックモアもみとめた。
  17. ^ 人気にんき下降かこう気味ぎみだったストラトキャスターの人気にんき復活ふっかつさせたのはヘンドリックスの功績こうせきだとひろかたられている。
  18. ^ ただしブラックモアは、ギターをステージやPAスピーカーのかくこすりつけまわす、げる、みつけるとうのアクションのあと、ネックから破壊はかいするスタイルだった。
  19. ^ ブラックモアが直接ちょくせつヘンドリックスと会話かいわわしたかどうかは不明ふめい
  20. ^ 初期しょき鉄製てつせいふとものへ、中期ちゅうき以降いこうはステンレスへ交換こうかん
  21. ^ 1975ねんごろ、レインボー時代じだいでんかざりにじ』に起因きいんするノイズ対策たいさくため、ジョン・ドーク・スティルウェルがPUコイルのリワイア、ワックス含浸がんしんとピックガードうら全体ぜんたい銅版どうはんシールドの改造かいぞうおこなった。Dawk Sound Limited
  22. ^ とししきとくかかわっていないが、70年代ねんだい前半ぜんはんとくに1969ねんせいりメイプル/BLK 「はつ来日らいにちまえおこなわれた全米ぜんべいツアーちゅうあやまって破壊はかいしてしまった」、1971ねんせいのワンピース・メイプル/SB「のちにヘッドストックのしたれてしまった状態じょうたい使用しようつづけたのは有名ゆうめい」、1972ねんせいのナチュラル/メイプル愛用あいようし、70年代ねんだい中期ちゅうき以降いこうは1974ねんせいのホワイト/ローズ、1976ねんせいのホワイト/ローズを中心ちゅうしん愛用あいよう
  23. ^ アルバム『ディープ・パープル・イン・ロック』(1970ねん)、『ファイアボール』(1971ねん)で、そのサウンドがける。
  24. ^ 本人ほんにん野球やきゅうきらいなので「五角形ごかっけい」とんでいる。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ リッチー・ブラックモア 2022ねん11月29にち閲覧えつらん
  2. ^ ディープ・パープル 2022ねん11月29にち閲覧えつらん
  3. ^ a b c d 三木みき千寿せんじゅ 『リッチー・ブラックモア:狂気きょうきかみなりまい』より。
  4. ^ Popoff (2016), p. 14.
  5. ^ Popoff (2016), p. 15.
  6. ^ Popoff (2016), p. 16.
  7. ^ Popoff (2016), p. 17.
  8. ^ Popoff (2016), p. 18.
  9. ^ a b Popoff (2016), p. 19.
  10. ^ Popoff (2016), pp. 19, 21.
  11. ^ Popoff (2016), pp. 19, 20, 21.
  12. ^ a b c Popoff (2016), p. 23.
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引用いんよう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • Popoff, Martin (2016). The Deep Purple Family Year By Year Volume One (to 1979). Bedford, England: Wymer Publishing. ISBN 978-1-908724-42-7 

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

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  • 天才てんさいギタリストシリーズ『リッチー・ブラックモア』. シンコー・ミュージック. (1998ねん) 
  • シンコー・ミュージック・ムック The Guitar Man : RBギターズ . シンコー・ミュージック. (2008ねん) 

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]