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コージー・パウエル

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コージー・パウエル
Cozy Powell
EMI主催しゅさいミッキー・モスト主賓しゅひんのイベントにて(1974ねん
基本きほん情報じょうほう
出生しゅっしょうめい Colin Trevor Flooks
生誕せいたん 1947ねん12月29にち
イングランドの旗 イングランド
グロスタシャーしゅう サイレンセスター
死没しぼつ (1998-04-05) 1998ねん4がつ5にち(50さいぼつ
イングランドの旗 イングランド ブリストル
ジャンル ハードロック
ヘヴィメタル
ブルースロック
職業しょくぎょう ミュージシャンドラマー音楽おんがくプロデューサー
担当たんとう楽器がっき ドラム
活動かつどう期間きかん 1968ねん - 1998ねん
共同きょうどう作業さぎょうしゃ ジェフ・ベック・グループ
コージー・パウエルズ・ハマー
レインボー
マイケル・シェンカー・グループ
ホワイトスネイク
エマーソン・レイク・アンド・パウエル
ブラック・サバス
ブライアン・メイ・バンド
イングヴェイ・マルムスティーン・バンド
フォースフィールド
公式こうしきサイト www.cozypowell.com

コージー・パウエルCozy Powell本名ほんみょうColin Flooks1947ねん12月29にち - 1998ねん4がつ5にち)は、イングランド出身しゅっしんドラマーロックミュージシャン

その実力じつりょくわれすうおおくのロックバンドをわたあるき、ロック・ドラムヒーローの先駆せんくしゃとしてもられる[1]身長しんちょう175cm。

ローリング・ストーン選出せんしゅつ歴史れきしじょうもっと偉大いだいな100にんのドラマー」43

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

[2] 12さいときに、学校がっこうオーケストラ一員いちいんとしてドラムをはじめる。1960年代ねんだいに、セミプロのポップ・バンド「ザ・ソーセラーズ」にくわわり、ドイツのライブハウスめぐる。1968ねんにイギリス・バーミンガムうつみ、ザ・ムーヴのベーシスト、エース・ケフォードの「エース・ケフォード・スタンド」やセッション・ドラマーとして活動かつどうする一方いっぽう、ザ・ソーセラーズのメンバー、デイヴ・ボール、デニス・ボールらと「ビッグ・バーサ」を結成けっせいして活動かつどうする。

1970ねんジェフ・ベック見出みいだされ、1971ねんだいジェフ・ベック・グループのドラマーとしてげる。

コージー・パウエルズ・ハマー時代じだい(中央ちゅうおう、1974ねん)

グループ消滅しょうめつはセッション・ドラマーとして仕事しごとつづけ、録音ろくおんした個人こじん名義めいぎEP『Dance with The Devil』(1972ねん)が、1974ねんになってスマッシュ・ヒットさくとなり、自身じしんかんしたバンド、コージー・パウエルズ・ハマーを結成けっせいする。1975ねんリッチー・ブラックモアレインボーのオーディションに応募おうぼし、だい2レインボーをささえるドラマーとなる。また、1979ねんはつのソロ・アルバム『オーヴァー・ザ・トップ』発表はっぴょう。「Theme one」は、BBCの音楽おんがく番組ばんぐみトップ・オブ・ザ・ポップスのオープニングきょく使つかわれ、タイトルきょくは、チャイコフスキー序曲じょきょく1812ねん」にわせてのドラム・ソロ(レインボーのライブでも披露ひろうされていた演出えんしゅつ)が収録しゅうろくされている[3]

レインボーでのパフォーマンスがみとめられ、1980年代ねんだいにはグラハム・ボネットロバート・プラントマイケル・シェンカー・グループホワイトスネイクエマーソン・レイク・アンド・パウエルブラック・サバスひとしハード・ロック代表だいひょうするドラマーとして数々かずかずのレコーディングやバンド・メンバーとして契約けいやくした。1990年代ねんだいには、ベーシストニール・マーレイんで、ブライアン・メイピーター・グリーンのバンドに参加さんか。そのイングヴェイ・マルムスティーンひとし共演きょうえん

レーサーへの転向てんこうかんがえて一時期いちじき音楽おんがくをやめた[ちゅう 1]こともあるほど自動車じどうしゃ運転うんてんきだった。1998ねん4がつ5にち未明みめいイギリスブリストル郊外こうがい高速こうそく道路どうろにて、サーブ・9000ターボをシート・ベルトをせず酩酊めいてい運転うんてんかつガールフレンドと携帯けいたい電話でんわ会話かいわしており、時速じそく167kmで中央ちゅうおう分離ぶんりたい衝突しょうとつ事故じここし、このる。その2ヶ月かげつ発売はつばいされたブライアン・メイのアルバム『アナザー・ワールド』が遺作いさくとなった。コリン・ブランストーンのアルバム『ザ・ライト・インサイド』が最後さいごのレコーディングであるとのはなしもある。

後述こうじゅつするように、死去しきょから20ねん以上いじょうたった現在げんざいでも、根強ねづよいファンがいる。

ドラム・ヒーロー[編集へんしゅう]

わかくしてその実力じつりょくみとめられ、1970年代ねんだいからおおくのロックバンドを中心ちゅうしん在籍ざいせきした。しかもだたる著名ちょめいなグループがおもであり、セッションやレコーディングのみの仕事しごと数多かずおおかった。また、ドラマーとしては稀有けうな、ソロやかんむり名義めいぎのアルバムも数多かずおお制作せいさくしている。実像じつぞう職人しょくにんはだ自分じぶん正直しょうじき性分しょうぶんからひとつのわくおさまるうつわではなく、バンドを転々てんてんとした経緯けいいから業界ぎょうかいからは「わたどり」などともわれた。

ザ・フー」の キース・ムーンや「レッド・ツェッペリン」の ジョン・ボーナムらとならぶ『ロック・ドラムヒーロー』の先駆せんくしゃとしてもられ、当時とうじ地味じみだったドラマーの存在そんざいはなやかなプレイで一変いっぺんさせた。その実力じつりょくったツェッペリンのマネージャー ピーター・グラントジェフ・ベック担当たんとうしていたつながりで、「ジェフ・ベック・グループ」のオーディションに推薦すいせんしてもらった経緯けいい後年こうねんかしている[4]

そのイメージとは裏腹うらはら音楽おんがくたいしては几帳面きちょうめんであり、音楽おんがくプロデュース方面ほうめんたずさわることもおおかった。これまで在籍ざいせきしていたバンドの貴重きちょうデモテープを、個人こじん管理かんりしていたことが死後しご判明はんめいしている。

トリビュート[編集へんしゅう]

死後しご、コージーの功績こうせきたたえるセレモニーやトリビュート・ライブが各地かくちおこなわれている[5]

2016ねん1がつ7にち、イタリアじん女性じょせいピアニストのこえけでたかった生前せいぜん仲間なかまたちした、コージーの故郷こきょうであるグロスタシャーしゅうサイレンセスターのコーン・ホールにて、青色あおいろ記念きねん銅板どうばん(Blue Plaque)が設置せっちされた。 没後ぼつご18ねん開催かいさいされたこの除幕じょまくしきにはサイレンセスター市長しちょうマーク・ハリス、ブライアン・メイトニー・アイオミカール・パーマースージー・クアトロニール・マーレイバーニー・マースデン、トニー・マーチン、テッド・マッケンナ、ポール・レイモンド、ジョー・ゲーシン、フレッド・リーなど、デビューまえから晩年ばんねんわたって音楽おんがく活動かつどうともにしたおおくのアーティストがあつまった[6]

2019ねんには日本にっぽんでも、ファンだった有志ゆうし岡山おかやまにてコージーをたたえる私設しせつ博物館はくぶつかん開設かいせつし、話題わだいとなっている[7]

使用しよう機材きざい[編集へんしゅう]

デビューからレインボーの末期まっきまではラディック使用しようしていたが、そのYAMAHA転向てんこうし、生涯しょうがいわたってYAMAHAのドラムを使用しようつづけていた。シンバルパイステ使用しよう

スティックは18~20mmみちとかなりふとおもいものを使用しようしていた。本人ほんにんはギターアンプをかべのようにするリッチー・ブラックモア対抗たいこうできるように、レインボー加入かにゅう以後いごふといスティックにえたと生前せいぜんのインタビューでかたっている。グリップはレインボーのころまではレギュラーグリップとマッチドグリップを使つかけていたが、晩年ばんねんもっぱらレギュラーグリップでとおすようになっていた。

「ツインバスドラムをノー・ミュートで演奏えんそうできる数少かずすくないドラマーである」といったせつひろがったこともあるが、実際じっさいにはレインボー時代じだい来日らいにちしたさい、ヤマハが開催かいさいした科学かがく技術ぎじゅつかんでのドラムセミナー(1980ねん5がつ10日とおか)でのインタビューで本人ほんにんが「ミュートはしている。そとからはえない部分ぶぶんにミュートをしている」と説明せつめいしている。

所属しょぞくバンド[編集へんしゅう]

ソロ/プロジェクト/かんむりバンド名義めいぎ
グループ

※セッション参加さんかのぞ

ディスコグラフィ[編集へんしゅう]

ソロ・アルバム[編集へんしゅう]

  • 『オーヴァー・ザ・トップ』 - Over the Top (1979ねん)
  • サンダーストーム』 - Tilt (1981ねん)
  • オクトパス』 - Octopuss (1983ねん)
  • 『ザ・ドラムス・アー・バック』 - The Drums are Back (1992ねん)
  • Especially For You (1999ねん)

フォースフィールド[編集へんしゅう]

  • 『フォースフィールド』 - Forcefield I (1987ねん)
  • 『フォースフィールドII - ザ・タリスマン』 - Forcefield II - The Talisman (1988ねん)
  • 『フォースフィールドIII - トゥ・オズ・アンド・バック』 - To Oz And Back (Forcefield III) (1989ねん)
  • 『フォースフィールドIV - レット・ザ・ワイルド・ラン・フリー』 - Let the Wild Run Free (Forcefield IV) (1991ねん)
  • Instrumentals (1992ねん) ※コンピレーション

連名れんめいアルバム[編集へんしゅう]

  • Super Drumming Volume 1 (1987ねん) ※ピート・ヨークらと連名れんめい
  • 『エッジ・オブ・ザ・ワールド』 - Edge of the World (2006ねん) ※ティプトン、エントウィッスル、パウエル名義めいぎ

グループ名義めいぎ[編集へんしゅう]

ジェフ・ベック・グループ
ベドラム
  • 狂人きょうじんどもの舞踏ぶとうかい』 - Bedlam (1973ねん)
レインボー
グラハム・ボネット
  • 孤独こどくのナイト・ゲームス』 - Line Up (1981ねん)
マイケル・シェンカー・グループ
ホワイトスネイク
エマーソン・レイク・アンド・パウエル
ブラック・サバス
ブライアン・メイ
ピーター・グリーン
  • 『スプリンター・グループ』 - Splinter Group (1997ねん)
イングヴェイ・マルムスティーン
客演きゃくえん/その

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ シンコーミュージックかん「リッチーブラックモア レインボーへん」によれば、レインボーに加入かにゅうするまえいち年間ねんかん音楽おんがくをやめてカーレースに没頭ぼっとうしており、レインボーに加入かにゅうしていなければ1976ねんにはフォーミュラ3参加さんかする予定よていだった。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 永遠えいえんのロック・ドラム・ヒーロー“コージー・パウエル”の特集とくしゅうムックほん発売はつばい - CDjournal
  2. ^ コージー・パウエル、1996ねんのインタビュー - Rocqt
  3. ^ CDjournal.com-リサーチ
  4. ^ コージー・パウエル、ジェフ・ベックをかた - Rocqt
  5. ^ 世界中せかいじゅうでコージー・パウエルの功績こうせきつたつづけるイギリスじんドラマー、ジョニー・スーモも来日らいにち参加さんか!『Thanx Cozy Powell』が3月15にち開催かいさい”. MUSIC LIFE CLUB (2019ねん1がつ29にち). 2019ねん8がつ15にち閲覧えつらん
  6. ^ ブライアン・メイ「コージー・パウエルを兄弟きょうだいのようにあいしていた」”. BARKS (2016ねん1がつ12にち). 2019ねん8がつ15にち閲覧えつらん
  7. ^ あこがれのドラマーの博物館はくぶつかん岡山おかやまに コージー・パウエルたたえ開設かいせつ”. 山陽さんよう新聞しんぶん (2019ねん7がつ18にち). 2019ねん8がつ15にち閲覧えつらん伝説でんせつのドラムヒーロー、コージー・パウエル博物館はくぶつかん岡山おかやま誕生たんじょう”. 産経新聞さんけいしんぶん (2019ねん8がつ16にち). 2019ねん8がつ19にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]