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アリウス派 は (アリウスは、コイネー : Ἀρειανισμός)は、アレクサンドリア の司祭 しさい 、アリウス (古典 こてん ギリシア語 ご 表記 ひょうき でアレイオス [注釈 ちゅうしゃく 1] 、250年 ねん 頃 ごろ - 336年 ねん 頃 ころ )とその追随 ついずい 者 しゃ の集団 しゅうだん を指 さ す。この派 は の名前 なまえ は、この教義 きょうぎ を提唱 ていしょう したアリウスの名前 なまえ に由来 ゆらい している[1] [2] 。325年 ねん に開 ひら かれた第 だい 1ニカイア公 こう 会議 かいぎ においてニカイア派 は (アタナシオス派 は ) と対峙 たいじ し、ニカイア派 は を主導 しゅどう するアレクサンドリアの主教 しゅきょう アレクサンドロス によって弾劾 だんがい ・破門 はもん されたが、アリウス派 は はゲルマン人 じん への布教 ふきょう により、教団 きょうだん としてはその後 ご も200年 ねん ほど存続 そんぞく した。
集団 しゅうだん は「アリウス派 は 」と呼 よ ばれ、その主張 しゅちょう 内容 ないよう は「アリウス主義 しゅぎ 」(羅 ら : Arianismus 、英 えい : Arianism )として知 し られており、この教義 きょうぎ の本質 ほんしつ であるイエスは被 ひ 造物 ぞうぶつ である、という考 かんが え方 かた はアリウスに起因 きいん している[1] [3] 。
アリウス主義 しゅぎ の教義 きょうぎ に含 ふく まれている、キリストの神性 しんせい を父 ちち なる神 かみ よりも下位 かい に置 お くキリスト従属 じゅうぞく 説 せつ (英語 えいご 版 ばん ) は、アリウスが最初 さいしょ に主張 しゅちょう を始 はじ めたわけではなく、ユスティノスやオリゲネスなど、護 まもる 教 きょう 教父 きょうふ たち[4] も教 おし えていたものである[3] [5] [6] [7] [8] 。
だからといって、護 まもる 教 きょう 教父 きょうふ たちが、アリウスと同 おな じ従属 じゅうぞく 説 せつ を認識 にんしき していたのではない。護 まもる 教 きょう 教父 きょうふ たちは、子 こ は父 ちち に従属 じゅうぞく はするが、「子 こ が父 ちち と本性 ほんしょう 的 てき に同等 どうとう なものである[9] 」ことも主張 しゅちょう していた。アリウスは従属 じゅうぞく 説 せつ を極端 きょくたん に推 お し進 すす めた。その結果 けっか 生 しょう じたのが、イエスは被 ひ 造物 ぞうぶつ である、という考 かんが えである[10] 。
このアリウスの思想 しそう は「アンティオケイアのイグナティオスとテルトゥリアヌスがすでに表現 ひょうげん していた教会 きょうかい の基本 きほん 的 てき 理解 りかい 、つまりイエスは真 しん なる神 かみ であると同時 どうじ に人間 にんげん であるという理解 りかい から逸脱 いつだつ [10] 」していた。
これに近 ちか い思想 しそう を持 も つ人物 じんぶつ としてはサモサタのパウロス (英語 えいご 版 ばん ) が挙 あ げられるが[5] 、アリウスの教 きょう 説 せつ は彼 かれ の師 し であった神学 しんがく 者 しゃ 、アンティオキアのルキアノス (英語 えいご 版 ばん ) (サモサタ出身 しゅっしん 、240以前 いぜん -312年 ねん )から継承 けいしょう されたものと言 い われる[3] [11] [6] (ただしルキアノスは殉教 じゅんきょう したことにより列聖 れっせい され、カトリック教会 きょうかい および正教会 せいきょうかい において聖人 せいじん [注釈 ちゅうしゃく 2] として崇敬 すうけい されている[12] [13] )。
アリウス派 は の主張 しゅちょう 内容 ないよう については、「イエス・キリスト の神性 しんせい を否定 ひてい した」とも[5] 、あるいは「イエス・キリストは神 かみ 的 てき であるとは言 い おうとしていたが、その神性 しんせい は神 かみ の養子 ようし とされたことによる[14] 」とも、「イエス・キリストの人性 じんせい を主張 しゅちょう し、三位一体 さんみいったい 説 せつ を退 しりぞ けた」とも[11] 言 い われる。
ただし、「人性 じんせい の主張 しゅちょう 」との要約 ようやく についてはやや正確 せいかく さを欠 か くもので、アリウス派 は と対峙 たいじ したニカイア派 は (アタナシウス派 は ) も、イエスの神性 しんせい と人性 じんせい の両方 りょうほう を認 みと めている[注釈 ちゅうしゃく 3] 。また、アリウスはキリストの先 さき 在 ざい 性 せい (マリアによる出産 しゅっさん 以前 いぜん から、また万物 ばんぶつ の創造 そうぞう 以前 いぜん から、キリストが自立 じりつ 存在 そんざい として存在 そんざい したこと)を認 みと めている。
さらに、「神性 しんせい を否定 ひてい した」については、正統 せいとう 派 は の立場 たちば から見 み た場合 ばあい の話 はなし で、先述 せんじゅつ のように「神 かみ 的 てき であるとは言 い おうとしていた」と評 ひょう される事 こと もあり、議論 ぎろん が分 わ かれる。アリウス自身 じしん はキリストを「ロゴスなる神 かみ 」「独 ひと り子 ご なる神 かみ 」として言及 げんきゅう している[15] [16] 。このように、アリウスと正統 せいとう 派 は の違 ちが いは当事 とうじ 者 しゃ 以外 いがい にとっては論点 ろんてん を捉 とら えにくい微妙 びみょう な問題 もんだい である。
そこで彼 かれ らの主張 しゅちょう を理解 りかい するためには、アリウス とアタナシウス の主張 しゅちょう の違 ちが いよりも、まず双方 そうほう の共通 きょうつう 認識 にんしき に注目 ちゅうもく する必要 ひつよう がある。
彼 かれ らに共通 きょうつう する認識 にんしき で重要 じゅうよう なものは神 かみ による「無 む からの(万物 ばんぶつ の)創造 そうぞう 」の教義 きょうぎ であった。アリウスもアタナシウスも「無 む からの創造 そうぞう 」の教義 きょうぎ をきわめて明確 めいかく な形 かたち で持 も っていた。「無 む からの創造 そうぞう 」の教義 きょうぎ は異教 いきょう 哲学 てつがく のまったく知 し らないものであり、しかも、初期 しょき キリスト教 きりすときょう 神学 しんがく のなかで徐々 じょじょ に漠然 ばくぜん とした仕方 しかた で現 あらわ れて来 き たものであり[注釈 ちゅうしゃく 4] 、それはきわめて驚 おどろ くべきことであった。「無 む からの創造 そうぞう 」の教義 きょうぎ は彼 かれ らにとって、神 かみ と被 ひ 造物 ぞうぶつ の間 あいだ には完全 かんぜん な断絶 だんぜつ があることを意味 いみ していたからである。神 かみ と世界 せかい の間 あいだ には、両者 りょうしゃ を媒介 ばいかい するどのような領域 りょういき も存在 そんざい しないのである。
これ以前 いぜん の初期 しょき のキリスト教徒 きりすときょうと たちは、神 かみ と世界 せかい との関係 かんけい についての理解 りかい を定式 ていしき 化 か する試 こころ みに際 さい し、ある中間 ちゅうかん 領域 りょういき を設定 せってい して、これを神 かみ のロゴスと同一 どういつ 視 し していた。ところがもはや、このような中 なか 間 あいだ 領域 りょういき は認 みと められなくなってしまった。
アリウス論争 ろんそう において提示 ていじ されたのは、このような状況 じょうきょう のなかで神 かみ と世界 せかい との関係 かんけい をいかに考 かんが えなおすか、ということだったのである。そして、この再考 さいこう の結果 けっか は劇的 げきてき な結果 けっか をもたらした。主教 しゅきょう アレクサンドロス やアタナシウス が神 かみ のロゴス(キリスト)を厳密 げんみつ な意味 いみ で神 かみ の領域 りょういき に帰 かえ したのに対 たい し、ルキアノスやアリウスはロゴス(キリスト)を被 ひ 造物 ぞうぶつ の領域 りょういき に帰 かえ したのである。
このような考 かんが え方 かた から、キリストを「被 ひ 造物 ぞうぶつ から神 かみ への養子 ようし 」と考 かんが える「養子 ようし 論 ろん 的 てき 従属 じゅうぞく 説 せつ 」は生 う まれた。養子 ようし としての神 かみ 、あるいは神格 しんかく は被 ひ 造 みやつこ 性 せい を持 も った神格 しんかく となる。このことからアリウス主義 しゅぎ はキリストの被 ひ 造 みやつこ 性 せい を主張 しゅちょう することにその本質 ほんしつ があることがわかる。キリストの被 ひ 造 みやつこ 性 せい を主張 しゅちょう することには、当然 とうぜん その永遠 えいえん 性 せい を否定 ひてい することも含 ふく まれる[17] 。そして、神 かみ の被 ひ 造物 ぞうぶつ たるイエスは、神 かみ から直接 ちょくせつ 創造 そうぞう された被 ひ 造物 ぞうぶつ であり、他 た の被 ひ 造物 ぞうぶつ はキリストを介 かい して創造 そうぞう された、と理解 りかい されている[18] 。
先 さき に述 の べられているように、アリウスの思想 しそう は教会 きょうかい の基本 きほん 的 てき 理解 りかい から逸脱 いつだつ [10] している。このアリウスの神 かみ に対 たい する概念 がいねん はギリシャ的 てき [19] [注釈 ちゅうしゃく 5] であり、アリウスの教義 きょうぎ によって、長 なが い間 あいだ 隠 かく れていた従属 じゅうぞく 説 せつ の潜在 せんざい 的 てき な危険 きけん が表面 ひょうめん 化 か した[20] 。さらに、この見解 けんかい は、従属 じゅうぞく 主義 しゅぎ の極端 きょくたん な見解 けんかい に位置 いち し、新 あたら しい多神教 たしんきょう の形 かたち に繋 つな がる要素 ようそ があった[20] [注釈 ちゅうしゃく 6] 。
アリウスの教義 きょうぎ には矛盾 むじゅん がある。
第 だい 一 いち に、多神教 たしんきょう の形 かたち になる要素 ようそ を持 も っている[20] [注釈 ちゅうしゃく 7] 。
第 だい 二 に に、神 かみ は不変 ふへん だと聖書 せいしょ は語 かた っているが、イエスが被 ひ 造物 ぞうぶつ である場合 ばあい 、父 ちち なる神 かみ はずっと父 ちち ではなかったことになる[20] [21] 。何故 なぜ なら、父 ちち なる神 かみ はイエスを創造 そうぞう して初 はじ めて「父 ちち 」になれるのだ。
アリウスの立場 たちば に同情 どうじょう 的 てき だったエウセビオスも、アリウスの教義 きょうぎ の本質 ほんしつ であるイエスは「造 つく られた」という主張 しゅちょう には断固 だんこ 反対 はんたい していた[22] 。
なお、アリウス派 は と対峙 たいじ した、いわゆる正統 せいとう 派 は となった派 は を「アタナシオス派 は 」(もしくはラテン語 らてんご から転写 てんしゃ して「アタナシウス派 は 」)と呼 よ ぶ例 れい が高校 こうこう 世界 せかい 史 し で一般 いっぱん 的 てき であるが、こちらの派 は もアタナシオスが創始 そうし したわけではない。実際 じっさい 、初期 しょき にアリウスと対峙 たいじ し、アリウスを破門 はもん したのはアレクサンドリアの主教 しゅきょう アレクサンドロス である。そのため、専門 せんもん 書 しょ では、いわゆるアタナシオス派 は はニカイア信条 しんじょう から名 な をとって「ニカイア派 は 」と呼 よ ばれる[23] [24] 。
アリウス派 は の主張 しゅちょう 内容 ないよう と、ニカイア派 は (アタナシオス派 は ) の主張 しゅちょう を、以下 いか の表 ひょう で比較 ひかく する。
アリウス派 は と呼 よ ばれる(いわゆる正統 せいとう 派 は からみた場合 ばあい のいわゆる)異端 いたん 、もしくは神学 しんがく 的 てき 誤謬 ごびゅう の登場 とうじょう は、ロ ろ ーマ帝国 まていこく において迫害 はくがい が停止 ていし した後 のち の最初 さいしょ の大 だい 規模 きぼ な神学 しんがく 論争 ろんそう のきっかけとなった[14] 。
アリウス派 は の思想 しそう は、第 だい 1ニカイア公 こう 会議 かいぎ (第 だい 一 いち 全 ぜん 地 ち 公会 こうかい 、325年 ねん )で否定 ひてい されたが[14] 、その後 ご もアリウス派 は を巡 めぐ る議論 ぎろん は収 おさ まることなく継続 けいぞく した。アリウス派 は はその後 ご 、三 みっ つの派 は に分裂 ぶんれつ し半 はん アリウス主義 しゅぎ と呼 よ ばれる主張 しゅちょう も登場 とうじょう したが、それらの中 なか のある者 もの はニカイア派 は と和解 わかい が成立 せいりつ し、ある者 もの は決裂 けつれつ を迎 むか えた[26] 。
アリウス派 は は第 だい 1コンスタンティノポリス公 こう 会議 かいぎ (第 だい 二 に 全 ぜん 地 ち 公会 こうかい 、381年 ねん )でエウノミオス派 は (アノモイオス派 は 、非 ひ 類似 るいじ 派 は )、プネウマトマコイ派 は (英語 えいご 版 ばん ) (マケドニオス主義 しゅぎ 、聖霊 せいれい 神性 しんせい 否定 ひてい 論 ろん )、サベリウス派 は 、アポリナリオス派 は などの異説 いせつ と共 とも に再 ふたた び否定 ひてい された[14] [27] 。
西 にし ロ ろ ーマ帝国 まていこく 領 りょう 、東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく 領 りょう のアリウス派 は は国法 こくほう で禁 きん じられ、「正統 せいとう 派 は 」(ニカイア派 は )へ合流 ごうりゅう していった[14] 。しかし、それ以前 いぜん にアリウス派 は の元 もと で学 まな び、ニコメディアのエウセビオス (英語 えいご 版 ばん ) によって主教 しゅきょう に叙 じょ 階 かい されたゴート人 じん のウルフィラス はすでにゴート族 ぞく の間 あいだ にキリスト教 きりすときょう を布教 ふきょう していた[28] 。彼 かれ はゴート文字 もじ を考案 こうあん し、聖書 せいしょ をゴート語 ご に翻訳 ほんやく した。そしてその後 ご 、彼 かれ の弟子 でし たちが広 ひろ くゲルマン系 けい 諸 しょ 民族 みんぞく に布教 ふきょう して行 い った[28] 。こうしてアリウス派 は はゲルマン民族 みんぞく の間 あいだ で、その後 ご も約 やく 200年 ねん にわたり存続 そんぞく することになる。
東 ひがし ゴート族 ぞく は553年 ねん まで、西 にし ゴート族 ぞく は589年 ねん のトレド教会 きょうかい 会議 かいぎ まで、ヴァンダル族 ぞく は530年 ねん 頃 ごろ まで、ブルグント族 ぞく は534年 ねん フランク王国 おうこく に統合 とうごう されるまで、イタリアのロンゴバルド族 ぞく は7世紀 せいき 中 ちゅう ごろまで、それぞれアリウス派 は であった[27] 。
アタナシオス はその生涯 しょうがい に五 ご 回 かい の追放 ついほう 刑 けい を受 う けたが、第 だい 二 に 回 かい 追放 ついほう の帰還 きかん から第 だい 三 さん 回 かい 追放 ついほう までの十 じゅう 年間 ねんかん (346-356)はニカイア派 は にとって平和 へいわ な期間 きかん であった。ところが、ニカイア派 は の保護 ほご 者 しゃ コンスタンス帝 みかど が帝位 ていい 簒奪 さんだつ 者 しゃ マグネンティウス (在位 ざいい :350-353)によって殺 ころ され、さらにアリウス同情 どうじょう 派 は のコンスタンティウス帝 みかど (在位 ざいい :337-361)がマグネンティウスを滅 ほろ ぼして天下 てんか を統一 とういつ すると万事 ばんじ が逆転 ぎゃくてん してきた。アリウス派 は の指導 しどう 者 しゃ ムルサのウァレンス (英語 えいご 版 ばん ) とコンスタンティウス帝 みかど が結 むす び合 あ ってニカイア派 は の指導 しどう 者 しゃ を次々 つぎつぎ と追放 ついほう し、アリウス主義 しゅぎ が再興 さいこう された。そしてアタナシオスの第 だい 三 さん 回 かい 追放 ついほう 後 ご の357年 ねん 頃 ごろ からアリウス同情 どうじょう 派 は はそれぞれの主張 しゅちょう の違 ちが いから三 さん 派 は に分 わ かれていった[29] 。
「父 ちち と子 こ は本性 ほんしょう において非 ひ 類似 るいじ である」と主張 しゅちょう する。アリウスが示唆 しさ した方向 ほうこう にその教 きょう 説 せつ を発展 はってん させたアリウス以上 いじょう の過激 かげき 的 てき アリウス主義 しゅぎ 者 しゃ の一団 いちだん である。創始 そうし 者 しゃ はアエティオス (英語 えいご 版 ばん ) (-367年 ねん )であり、その弟子 でし キュジコスのエウノミオス (英語 えいご 版 ばん ) (在位 ざいい :360-364)が大成 たいせい 者 しゃ である。他 た にムルサのウァレンス、シンギドゥヌムのウルサキウス、コンスタンティノポリス主教 しゅきょう のエウドクシオス (英語 えいご 版 ばん ) (在位 ざいい :360-370)等 とう がいる[29] 。
「子 こ は父 ちち と本質 ほんしつ において類似 るいじ している」と主張 しゅちょう する。半 はん アリウス派 は (英語 えいご 版 ばん ) とも呼 よ ばれる。アタナシオス、ポワティエのヒラリウス 、カパドキア教父 きょうふ の働 はたら きかけによって、この派 は の多 おお くは後 のち にニカイア正統 せいとう 派 は に合流 ごうりゅう した。この派 は には、アンキュラのバシレイオス (在位 ざいい :336-360)、エルサレムのキュリロス (在位 ざいい :348/9-386)、セバステのエウスタティオス (在位 ざいい :357-380)、キュジコスのエレウシオス、ラオディケイアのゲオルギオス等 とう がいる。コンスタンティウス帝 みかど も一時期 いちじき 、ホモイウシオス派 は に傾 かたむ いていた[29] 。
この派 は の一部 いちぶ は「聖霊 せいれい は被 ひ 造物 ぞうぶつ である」と主張 しゅちょう する聖霊 せいれい 神性 しんせい 否定 ひてい 論 ろん を主張 しゅちょう しプネウマトマコイ派 は (英語 えいご 版 ばん ) と呼 よ ばれ、後 のち にマケドニオス派 は とも呼 よ ばれた[29] 。「プネウマトマコイ」は「聖霊 せいれい に対 たい して戦 たたか う人々 ひとびと 」を意味 いみ する。
本質 ほんしつ (ウーシア)という言葉 ことば を避 さ け「父 ちち と子 こ はあらゆることにおいて類似 るいじ している」あるいは単 たん に「父 ちち と子 こ は類似 るいじ している」と極 きわ めて漠然 ばくぜん と主張 しゅちょう する。思想 しそう 的 てき には非 ひ 類似 るいじ 派 は に近 ちか い。アカキオス (英語 えいご 版 ばん ) (在位 ざいい :339/40-364/68)がその主唱 しゅしょう 者 しゃ であり、アカキオス派 は (英語 えいご 版 ばん ) とも呼 よ ばれる。この派 は はホモウシオス派 は (同質 どうしつ 派 は :ニカイア派 は )を排撃 はいげき すると共 とも に、ホモイウシオス派 は (類似 るいじ 本質 ほんしつ 派 は )も排撃 はいげき する。エルサレムのキュリロス、アンキュラのバシレイオス、セバステのエウスタティオスはアカキオスによって主 しゅ 教職 きょうしょく を罷免 ひめん されている。359年 ねん から360年 ねん にかけてコンスタンティウス帝 みかど を抱 だ きこみ、首都 しゅと コンスタンティノポリスの地方 ちほう 会議 かいぎ (360年 ねん )で「コンスタンティノポリス信条 しんじょう (ホモイオン信条 しんじょう )」を確立 かくりつ し、政治 せいじ 的 てき に自 じ 派 は を勝利 しょうり に導 みちび いた。しかし、ユリアヌス帝 みかど 討伐 とうばつ に向 む かうコンスタンティウス帝 みかど が病没 びょうぼつ (361年 ねん )するとホモイオス派 は の政治 せいじ 的 てき 基盤 きばん は崩 くず れていった[29] 。
他 た の三位一体 さんみいったい 否定 ひてい 論 ろん との違 ちが い[ 編集 へんしゅう ]
三位一体 さんみいったい を否定 ひてい する考 かんが えはアリウス主義 しゅぎ の他 ほか にもある。例 たと えば様態 ようたい 論 ろん (様態 ようたい 論 ろん 的 てき モナルキア主義 しゅぎ )等 とう が挙 あ げられる。
ユニテリアン主義 しゅぎ は近代 きんだい になって起 お きた思想 しそう 潮流 ちょうりゅう であるが、キリストの神性 しんせい も否定 ひてい する[14] 点 てん がアリウス派 は と異 こと なる上 うえ に、罪 つみ を善 ぜん である人間 にんげん 性 せい における一過 いっか 性 せい の不完全 ふかんぜん さと捉 とら える傾向 けいこう があるなど、三位一体 さんみいったい 論 ろん の否定 ひてい に止 と まらない面 めん をもっており[14] 、単純 たんじゅん にアリウス主義 しゅぎ と同 おな じではない。
ブリタニカ国際 こくさい 大 だい 百科 ひゃっか 事典 じてん によると、「エホバの証人 しょうにん のキリスト論 ろん は、父 ちち なる神 かみ の一致 いっち と優越 ゆうえつ 性 せい を支持 しじ するため、アリウス主義 しゅぎ の一 いち 形態 けいたい である[30] 」という。
^ ギリシア語 ご : Άρειος 、ラテン語 らてんご : Arius …古典 こてん ギリシア語 ご 再建 さいけん 音 おん からは「アレイオス」、現代 げんだい ギリシア語 ご からは「アリオス」、ラテン語 らてんご からは「アリウス」と転写 てんしゃ し得 え る。
^ 致命 ちめい 者 しゃ ・殉教者 じゅんきょうしゃ
^ ニカイア信条 しんじょう 、およびニカイア・コンスタンティノポリス信条 しんじょう (ニケア・コンスタンティノポリ信 しん 経 けい ) の両方 りょうほう に、「人 ひと となり」(人柄 ひとがら という意味 いみ では無 な く「人 ひと となって」の意 い )の文言 もんごん が入 はい っている。後者 こうしゃ の該当 がいとう 箇所 かしょ は以下 いか の通 とお り。
^ 2世紀 せいき の文書 ぶんしょ 『ヘルマスの牧者 ぼくしゃ 』の「第 だい 一 いち のいましめ」の節 ふし には、「何 なに よりもまず、万物 ばんぶつ を創 つく られ、秩序 ちつじょ づけられ万物 ばんぶつ を無 む から有 ゆう へと造 つく られ万物 ばんぶつ を包容 ほうよう したもうが、御 ご 自 みずか らは包容 ほうよう されることのない方 ほう でありたもう神 かみ を、信 しん じなければならない。」
という記述 きじゅつ がある。(荒井 あらい 献 けんじ /編 へん 『使徒 しと 教父 きょうふ 文書 ぶんしょ 』より引用 いんよう )
^ A short history of the early church、P114に「アリウスの見解 けんかい は、波紋 はもん されたサモサタのパウロ、テオドトスに比 くら べて劣 おと っている」 A short history of Christian doctrine、P50に「 必然 ひつぜん 的 てき に完全 かんぜん で不十分 ふじゅうぶん な啓示 けいじ の教義 きょうぎ に繋 つな がった」とある。
^ Bernhard LohseのA short history of Christian doctrine .P50、アリウスの教義 きょうぎ は、「新 あたら しい形 かたち の多神教 たしんきょう に繋 つな がる」それは、「イエスにおける神 かみ の啓示 けいじ を否定 ひてい するか、複数 ふくすう の神 かみ がいると仮定 かてい しなければならないことを意味 いみ している」と書 か かれている。
^ A short history of Christian doctrine、P50「 アリウスの教義 きょうぎ は、「新 あたら しい形 かたち の多神教 たしんきょう に繋 つな がる」それは、「イエスにおける神 かみ の啓示 けいじ を否定 ひてい するか、複数 ふくすう の神 かみ がいると仮定 かてい しなければならないことを意味 いみ している」と書 か かれている。
^ (ousia):古典 こてん ギリシア語 ご 再建 さいけん 音 おと からはウーシア、現代 げんだい ギリシア語 ご からはウシアもしくはウシーアと転写 てんしゃ し得 え る(現代 げんだい ギリシア語 ご のアクセントは長音 ちょうおん のように転写 てんしゃ されることも多 おお いが、厳密 げんみつ には現代 げんだい ギリシア語 ご には長短 ちょうたん の区別 くべつ は無 な い)。
^ 聖霊 せいれい について、正教会 せいきょうかい の一員 いちいん である日本 にっぽん ハリストス正教会 せいきょうかい は「聖霊 せいれい 」ではなく、「聖 せい 神 かみ (せいしん)」「神聖 しんせい 神 しん (かみせいしん)」を訳語 やくご として採用 さいよう している
^ (hypostasis):古典 こてん ギリシア語 ご 再建 さいけん 音 おと からはヒュポスタシス、現代 げんだい ギリシア語 ご からはイポスタシスと転写 てんしゃ し得 え る。
^ 当初 とうしょ の議論 ぎろん は「子 こ 」の神性 しんせい を巡 めぐ ってのものであったが、聖霊 せいれい の神性 しんせい 、聖霊 せいれい も同 どう 本質 ほんしつ としての神 かみ なのかについての議論 ぎろん が起 お こって来 き た。第 だい 1ニカイア公 こう 会議 かいぎ (第 だい 一 いち 全 ぜん 地 ち 公会 こうかい 、325年 ねん )から議論 ぎろん が続 つづ き、第 だい 1コンスタンティノポリス公 こう 会議 かいぎ (第 だい 二 に 全 ぜん 地 ち 公会 こうかい 、381年 ねん )で、三位一体 さんみいったい の定式 ていしき がまとめられた。
^ a b “ブリタニカ国際 こくさい 大 だい 百科 ひゃっか 事典 じてん 小 しょう 項目 こうもく 事典 じてん 「アリウス派 は 」の解説 かいせつ ”. 2202年 ねん 5月 がつ 22日 にち 閲覧 えつらん 。
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