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浦上うらかみ一番いちばんくず

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

浦上うらかみ一番いちばんくず(うらかみいちばんくずれ)とは、現在げんざい長崎ながさき浦上うらかみ地区ちく江戸えど時代じだい中期ちゅうききたかくれキリシタン摘発てきはつ偽証ぎしょう事件じけんである。 長崎ながさき江戸えど時代じだい中期ちゅうきから4にわたって発生はっせいしたキリシタン摘発てきはつ事件じけん浦上うらかみくずの1度目どめ

寛政かんせい2ねん1790ねん)に浦上うらかみむら庄屋しょうや高谷たかやえい左衛門さえもん自分じぶん信仰しんこうしていた円福寺えんぷくじ廃仏毀釈はいぶつきしゃく山王さんのう神社じんじゃとなる)に88たい石仏いしぼとけ寄付きふすることをめて、村人むらびと寄進きしんせまったところ、おおくの人々ひとびとから拒絶きょぜつされた。これに激怒げきどした庄屋しょうや反対はんたい村人むらびと19めいをキリシタンとして告発こくはつした。ところが、証拠しょうこ不十分ふじゅうぶんであったうえとう庄屋しょうやによる不正ふせい事件じけん発覚はっかくしたため、事態じたい複雑ふくざつした。最終さいしゅうてき寛政かんせい7ねん1795ねん)になって村人むらびと放免ほうめんされ、かれらが円福寺えんぷくじ本寺ほんじにあたる延命寺えんめいじびの一札いっさつれることで事態じたい収拾しゅうしゅうとなった。

なお、えい左衛門さえもん子孫しそん明治維新めいじいしんのち没落ぼつらくし、その屋敷やしき浦上うらかみよんばんくず浦上うらかみ教徒きょうと事件じけん)で迫害はくがいのち帰還きかんゆるされた浦上うらかみのキリシタンたちによってられて浦上うらかみ天主堂てんしゅどうもととなった。

参考さんこう文献ぶんけん

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