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せい遺物いぶつ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
パリのせいセヴラン教会きょうかいフランス語ふらんすごばん所蔵しょぞうするせいウルスラせい遺物いぶつ
ディジョン宗教しゅうきょう芸術げいじゅつ美術館びじゅつかん所蔵しょぞうせいベニーニュのせい遺物いぶつ
フランスのティーレンバッハしょう修道院しゅうどういん聖母せいぼ聖堂せいどう所蔵しょぞうせい遺物いぶつ
ブリュージュ救世主きゅうせいしゅ教会きょうかい (en) のせい

せい遺物いぶつ(せいいぶつ、: Reliquiaeえい: Relic)は、キリスト教きりすときょう教派きょうはカトリック教会きょうかいにおいて、イエス・キリスト聖母せいぼマリアの遺品いひん、キリストの受難じゅなんにかかわるもの、またしょ聖人せいじん遺骸いがい遺品いひんをいう。これらの品物しなもの大切たいせつ保管ほかんされ、日々ひび祭儀さいぎもちいられてきた。せい遺物いぶつのうち聖人せいじん遺骸いがいについては、正教会せいきょうかいでの不朽ふきゅうたい相当そうとうする。古代こだいから中世ちゅうせいにおいて、さかんに崇敬すうけい対象たいしょうとなった。

初期しょき信仰しんこう

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聖人せいじん崇敬すうけいは2世紀せいきなかごろマ帝国まていこくにおけるキリスト教きりすときょう迫害はくがいいのちとした殉教者じゅんきょうしゃ遺体いたい信徒しんと手厚てあつほうむってその生涯しょうがいとくをたたえ、信仰しんこう生活せいかつ模範もはんとしてあおいだことにはじまる。信徒しんとたちは聖人せいじん命日めいにちはかあつまり儀式ぎしきおこなった。やがて殉教者じゅんきょうしゃ遺体いたい中心ちゅうしん聖堂せいどう建立こんりゅうされるようになった。4世紀せいきキリスト教きりすときょうマ帝国まていこく国教こっきょうとなってのち、殉教者じゅんきょうしゃ神意しんいにかなったかたつらぬいたとみなされる聖職せいしょくしゃ信徒しんとに、死後しご聖人せいじん」の称号しょうごうあたえられるようになった。そして聖人せいじんとその遺物いぶつ加護かごかみへのぎをもとめる様々さまざま宗教しゅうきょう実践じっせん形成けいせいされていった。これには日々ひび願掛がんか治癒ちゆ奇跡きせきなどがふくまれる。

入手にゅうしゅ必要ひつようせい手段しゅだん

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8世紀せいきにはキリスト教きりすときょうでもっとも重要じゅうよう祭儀さいぎである「聖餐せいさん」をおこな主祭しゅさいだんしたには、聖人せいじん遺体いたいか、すくなくともその一部いちぶ埋葬まいそうされていなくてはならないとさだめられた。このため聖堂せいどうてるときにはせい遺物いぶつ入手にゅうしゅ不可欠ふかけつとなった[1]

フランス革命かくめいではおおくの寺院じいんひじりぞう破壊はかい運動うんどうによってやぶ却された。そのナポレオンとローマ教皇きょうこうピウス7せいのもとでむすばれたコンコルダート英語えいごばんによってながらくんでいたローマとフランスのあいだ融和ゆうわてき関係かんけいまれた。王政おうせい復古ふっこにかけてやぶ却された聖堂せいどう再建さいけんするために、ローマのカタコンベからおおくのせい遺物いぶつがフランスにまれた。1835ねんから1850ねんあいだやく300たいせい遺骸いがいがフランスにまれたが[2]、その真贋しんがん科学かがくてき考古学こうこがくてき議論ぎろんこり、この現象げんしょう下火したびとなった。

せい遺物いぶつ入手にゅうしゅ方法ほうほう

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せい遺物いぶつ入手にゅうしゅにはさまざまな手段しゅだんこうじられた。

  1. 殉教者じゅんきょうしゃおおたローマなどの都市とし司教しきょう権力けんりょくしゃからの贈与ぞうよ
  2. それまでられていなかった聖人せいじん遺体いたいの「しん発見はっけん」。
  3. 業者ぎょうしゃからの購入こうにゅう
  4. 他所よそからの強奪ごうだつ

これにより遺体いたい移動いどう分割ぶんかつすすんだ。窃盗せっとうちょう自然しぜんてき経緯けいいせい遺物いぶつれた教会きょうかい縁起えんぎたんおおく、複数ふくすう聖堂せいどうどういち聖人せいじん遺体いたい所有しょゆうしていると主張しゅちょうしているれいもある。古代こだい末期まっきにはかつての殉教者じゅんきょうしゃ遺体いたい高値たかね取引とりひきするものて、批判ひはん対象たいしょうとなった。まがいもの数多かずおお出回でまわり、カトリック百科ひゃっか事典じてんによれば、イエス・キリストの手足てあし十字架じゅうじかけたせいくぎは、世界中せかいじゅうで30ほんくだらないだろうとわれている。

入手にゅうしゅ手段しゅだん正当せいとう

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せい遺物いぶつ略奪りゃくだつ盗掘とうくつ犯罪はんざい行為こういで、ローマでは死罪しざいにあたった。だが略奪りゃくだつゆるされざる行為こういなら、せい遺物いぶつ聖人せいじん抵抗ていこうしたにちがいない。ゆえに略奪りゃくだつ成功せいこうは、聖人せいじん従来じゅうらい墓所はかしょ管理かんり対応たいおう不満ふまんだった証左しょうさである。よって略奪りゃくだつによるうつりそう聖人せいじん意志いしにかなっていた。このような正当せいとうのロジックが普及ふきゅうした[3]

せい遺物いぶつ社会しゃかいてき機能きのう

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権力けんりょく正当せいとう

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せい遺物いぶつかみ恩寵おんちょう地上ちじょう媒介ばいかいすることで奇跡きせきこすとかんがえられた。そのため奇跡きせき評判ひょうばんせい遺物いぶつ所有しょゆうするものは、自分じぶんこそかみ恩寵おんちょうにあずかるただしいすべを保持ほじする正当せいとう権力けんりょくしゃであることを証明しょうめいできた。そこで中世ちゅうせいヨーロッパ社会しゃかいでは高位こうい聖職せいしょくしゃ王侯おうこう貴族きぞくなどの権力けんりょくしゃ人脈じんみゃく財力ざいりょく駆使くしして、キリストや人気にんきたか聖人せいじんせい遺物いぶつ入手にゅうしゅしようときそった。

聖堂せいどう地域ちいき繁栄はんえい

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せい遺物いぶつには奇跡きせきこすちからによって大勢おおぜい巡礼じゅんれいしゃけ、教会きょうかいのひいてはまちくにかくたかめ、さらには巡礼じゅんれいもの現在げんざいえば観光かんこうきゃく)をせられるというメリットもあった。そのため高名こうみょうせい遺物いぶつ導入どうにゅう成功せいこうすれば、聖堂せいどう所在地しょざいち一帯いったいには繁栄はんえいがもたらされた。膨大ぼうだいなコレクションをほこ巡礼じゅんれい存在そんざいした。

聖俗せいぞく権力けんりょくしゃきよし遺物いぶつ

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十字軍じゅうじぐんによる略奪りゃくだつ

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11世紀せいきすえから13世紀せいきにかけて、十字軍じゅうじぐんおおくのせい遺物いぶつ西にしヨーロッパんだ。宗教しゅうきょう指導しどうしゃたちは教会きょうかい修道院しゅうどういん略奪りゃくだつ禁止きんししていた。だがだい4かい十字軍じゅうじぐん(1202ねん - 1204ねん)の攻撃こうげきによりコンスタンチノープルが陥落かんらくし、なに世紀せいきものあいだその大量たいりょうせい遺物いぶつ所蔵しょぞうとして有名ゆうめいだったビザンツ世界せかい首都しゅともんひらかれると、すうおおくの信徒しんと聖職せいしょくしゃ教会きょうかいり、略奪りゃくだつしたせいなる品物しなもの西方せいほうへとった[4]。これら「敬虔けいけん盗人ぬすっと」にはつぎ聖職せいしょくしゃふくまれる。

権力けんりょくしゃせい遺物いぶつ収集しゅうしゅう

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中世ちゅうせいにおいては、価値かちあるせい遺物いぶつ所有しょゆうすることは、たん信仰しんこうしんからくるだけでなく、政治せいじ経済けいざいてき意図いとはたらいて高額こうがくきされることもおおかった。たとえば、信仰しんこうしんつよかったフランスルイ9せいは、キリストのかぶったという「イバラのかんむり」や「せい十字架じゅうじか」を高額こうがくもとめたとう。キリスト教会きょうかいせい遺物いぶつ分与ぶんよつうじてキリストきょう勢力せいりょく拡大かくだいし、ヨーロッパにのこっていた異教いきょう習慣しゅうかんをキリスト教化きょうかしようとしたのにたいし、世俗せぞく権力けんりょくしゃキリスト教きりすときょう権威けんいによってみずからの権威けんい確立かくりつし、贈答ぞうとうつうじて権力けんりょくしゃとのあいだ友好ゆうこう関係かんけいむすぶためにせい遺物いぶつ活用かつようした。13世紀せいき以降いこうせい遺物いぶつ認定にんてい移動いどうたいする教皇きょうこうちょう統制とうせいつよまるが、これはキリスト教会きょうかい中央ちゅうおう集権しゅうけんとかかわっている。

カトリック教会きょうかい分類ぶんるい規制きせい

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カトリック神学しんがくでは、かみのみが崇拝すうはい対象たいしょうである。そのため、せい遺物いぶつ崇拝すうはいではなく崇敬すうけい対象たいしょうである。 きよしヒエロニムスつぎのように「創造そうぞうぬしよりもむしろ創造そうぞうぶつくっするべきであることをおそれて、わたしたちは礼拝れいはいをしない。崇拝すうはいすることはないが、殉教者じゅんきょうしゃ崇敬すうけいするためにせい遺物いぶつ崇敬すうけいする」と宣言せんげんした[7]

カトリック教会きょうかい遺物いぶつを3つの等級とうきゅう分類ぶんるいしている:

だい1きゅうせい遺物いぶつ
キリストの生涯しょうがい出来事できごと(かいばおけ、十字架じゅうじかなど)または聖人せいじん遺物いぶつほねかみ頭蓋骨ずがいこつ四肢ししなど)に直接ちょくせつ関連かんれんする遺物いぶつ伝統でんとうてきに、殉教者じゅんきょうしゃ遺物いぶつは、おおくの場合ばあい聖人せいじん遺物いぶつよりもおもんじられている。その聖人せいじん生涯しょうがいにとって重要じゅうよう部分ぶぶんは、より価値かちのあるせい遺物いぶつである。たとえば、ハンガリーのきよしイシュトヴァーン1せい右腕うわんは、支配しはいしゃとしての地位ちいのためにとく重要じゅうようである。有名ゆうめい神学しんがくしゃあたまは、その人物じんぶつもっと重要じゅうようせい遺物いぶつといえるであろう。(きよしトマス・アクィナスあたまは、かれんだフォッサノヴァのシトーかい修道院しゅうどういん修道しゅうどうによってはなされた)聖人せいじんおおくのたびをした場合ばあいあしほね賞賛しょうさんされるかもしれない。カトリックの教義きょうぎでは、せい遺物いぶつ典礼てんれい使用しようされる場合ばあいせい遺物いぶつちいさな部分ぶぶん分割ぶんかつすることを禁止きんししている。(すなわち祭壇さいだんのように。教会きょうかい祭壇さいだん奉献ほうけん儀式ぎしき記載きさいされているルーブリックを参照さんしょう
だい2きゅうせい遺物いぶつ
聖人せいじん所有しょゆうしているか頻繁ひんぱん使用しようしていた遺物いぶつ。(たとえば、十字架じゅうじかロザリオほんなど)また、聖人せいじん生涯しょうがいなかでより重要じゅうよう部分ぶぶんは、より重要じゅうようせい遺物いぶつである。時折ときおりだい2きゅうきよし遺物いぶつ聖人せいじんけていたもの(シャツ、手袋てぶくろなど)の一部いちぶで、Ex indumentis英語えいごばん(「衣服いふくから」という意味いみラテン語らてんご)としてられている。
だい3きゅうせい遺物いぶつ
だい1きゅうまたはだい2きゅうきよし遺物いぶつ接触せっしょくしたあらゆるもの[8]。ほとんどのだい3きゅうきよし遺物いぶつちいさなぬのであるが、紀元きげん1千年紀せんねんきあぶら人気にんきがあった。Monza ampullae英語えいごばんは、キリストの生涯しょうがい主要しゅよう場所ばしょまええているランプからあつめられたあぶらふくんでおり、いくつかの遺物いぶつには、あぶらふたたれするためのあながあった。おおくの人々ひとびとは、聖人せいじんほねれたぬのを “ex brandea” とんでいる。だが、“ex brandea” は厳密げんみつには身体しんたい使徒しとはか接触せっしょくした衣服いふく一部いちぶす。それはそのような目的もくてきにのみ使用しようされる用語ようごであり、だい3きゅうせい遺物いぶつ同義語どうぎごではない。

教会きょうかいほうだい1190ごうでは、使徒しと許可きょかずに手段しゅだんせい遺物いぶつ売買ばいばいおこなうことは厳重げんじゅうきんじられている[9]せい遺物いぶつは、聖体せいたいミサでの奉献ほうけんのキリストのからだ葡萄酒ぶどうしゅしめす)のための祭壇さいだんうえくことはできない[10]

聖体せいたい神学しんがくとの関係かんけい

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特別とくべつちからみとめられた人物じんぶつはか聖廟せいびょうもうでて祈願きがんする宗教しゅうきょう実践じっせんや、遺体いたい遺骨いこつ分与ぶんよ社会しゃかいにおいて一定いってい役割やくわりたす状況じょうきょうは、仏教ぶっきょう、ユダヤきょう、イスラーム世界せかいにもみとめられる。だがキリスト教きりすときょうせい遺物いぶつには「キリストの身体しんたいとの関係かんけい」という特徴とくちょうがある。キリストきょうではキリストが十字架じゅうじかにかかってみずからのにくかみにささげた「受難じゅなん」によってかみ恩寵おんちょうがこの世界せかいにもたらされ、ひとつみあがなわれたとされる。このすくいのごうぐのが聖体せいたい拝領はいりょう祭儀さいぎである。そのなかかみにささげられ信徒しんとあたえられる「聖体せいたい(パンと葡萄酒ぶどうしゅ)」は、受難じゅなんにおけるキリストのにくおなじようにかみ恩寵おんちょう媒介ばいかいするとはやくからかんがえられていた。そのくるしみながらかみいのちをささげる殉教じゅんきょうにも受難じゅなんおな価値かちがあるとかんがえられるようになり、聖人せいじん遺体いたいせい遺物いぶつにも恩寵おんちょう媒介ばいかいするちからみとめられていった。13世紀せいきにはせい遺物いぶつ司祭しさい仲介ちゅうかいによって聖体せいたいがキリストのしんにくとなるという聖体せいたい神学しんがく確立かくりつする。

せい遺物いぶつせい遺物いぶつ容器ようきとプロテスタントの宗教しゅうきょう改革かいかく

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16世紀せいきになると聖書せいしょとキリストがさだめた祭儀さいぎ以外いがい恩寵おんちょうにあずかるすべはないとするプロテスタント諸派しょはでは、聖職せいしょく位階いかいせいとともにせい遺物いぶつ否定ひていされるようになった。プロテスタントは聖人せいじん崇拝すうはいともせい遺物いぶつ信仰しんこうきんじ、プロテスタントが支配しはいてきとなった地方ちほうせい遺物いぶつせい遺物いぶつ容器ようき英語えいごばんとともに破壊はかいされた。

せい遺物いぶつのリスト

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 17世紀せいきにはルーアンの聖職せいしょくしゃマチュー・ド・ラロック Matthieu de Larroque (1619-1684) があらわした『聖体せいたい拝領はいりょう歴史れきし』(1671ねん)には「10世紀せいき以来いらいひじりべつ(パンと葡萄酒ぶどうしゅをキリストのにくへとえるせい変化へんか)の儀式ぎしき必要ひつようとされる手順てじゅん増加ぞうかし」、それは当時とうじ典礼てんれい定式ていしきしょ記載きさいされているとおりとなったとかれている。そしてその記述きじゅつによれば「司祭しさいはミサにおける聖体せいたいひじりべつおこな前日ぜんじつに、すべてのせい遺物いぶつひじりべつおこな祭壇さいだんなか安置あんちしなければならない」とある (M. de Larroque, Histoire de l'Eucharistie, divisée en trois parties, dont la première traite de la forme de la célébration, la seconde de la doctrine, et la troisième du culte. Seconde édition, revue et corrigée, Amsterdam 1671, p. 80-81.)。
  2. ^ 柏木かしわぎ 2015, pp. 191–194, 204–212.
  3. ^ このせい遺物いぶつ略奪りゃくだつ正当せいとう論理ろんりはアルビジョア十字軍じゅうじぐん緒戦しょせんにおいてかかげた「かみはおのれのものりたまう(異端いたんしゃでないものはかみがおまもりになるはずである。ゆえに十字軍じゅうじぐん相手あいて異端いたんしゃであるかどうかにする必要ひつようはない)」につうじる論理ろんりであるといえる。
  4. ^ A. J. Andrea, B. E. Whale, B. E. Whale, Contemporary Sources for the Fourth Crusade, Leiden, 2000, p. 226.
  5. ^ KONRAD von Krosigk († 1225)(ドイツ – Biographia Cisterciensis
  6. ^ Martin of Pairis英語えいご - The Crusades
  7. ^ Jerome, Ad Riparium, i, P.L., XXII, 907.
  8. ^ The Catholic Source Book A Comprehensive Collection of Information about the Catholic Church ISBN 0-15-950653-0
  9. ^ The ''Code of Canon Law''”. Vatican.va. 2013ねん3がつ3にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2013ねん3がつ4にち閲覧えつらん
  10. ^ Venerating Relics at Mass”. 2018ねん5がつ22にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん書籍しょせき

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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