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パリの聖 せい セヴラン教会 きょうかい (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) が所蔵 しょぞう する聖 せい ウルスラ の聖 せい 遺物 いぶつ 。
ディジョン の宗教 しゅうきょう 芸術 げいじゅつ 美術館 びじゅつかん 所蔵 しょぞう の聖 せい ベニーニュの聖 せい 遺物 いぶつ 。
フランスのティーレンバッハ小 しょう 修道院 しゅうどういん の聖母 せいぼ 聖堂 せいどう 所蔵 しょぞう の聖 せい 遺物 いぶつ 。
ブリュージュ の救世主 きゅうせいしゅ 教会 きょうかい (en ) の聖 せい 血 ち 。
聖 せい 遺物 いぶつ (せいいぶつ、羅 ら : Reliquiae 、英 えい : Relic )は、キリスト教 きりすときょう の教派 きょうは 、カトリック教会 きょうかい において、イエス・キリスト や聖母 せいぼ マリアの遺品 いひん 、キリストの受難 じゅなん にかかわるもの、また諸 しょ 聖人 せいじん の遺骸 いがい や遺品 いひん をいう。これらの品物 しなもの は大切 たいせつ に保管 ほかん され、日々 ひび の祭儀 さいぎ で用 もち いられてきた。聖 せい 遺物 いぶつ のうち聖人 せいじん の遺骸 いがい については、正教会 せいきょうかい での不朽 ふきゅう 体 たい に相当 そうとう する。古代 こだい から中世 ちゅうせい において、盛 さか んに崇敬 すうけい の対象 たいしょう となった。
聖人 せいじん 崇敬 すうけい は2世紀 せいき 半 なか ば頃 ごろ にロ ろ ーマ帝国 まていこく におけるキリスト教 きりすときょう の迫害 はくがい で命 いのち を落 お とした殉教者 じゅんきょうしゃ の遺体 いたい を信徒 しんと が手厚 てあつ く葬 ほうむ ってその生涯 しょうがい と徳 とく をたたえ、信仰 しんこう 生活 せいかつ の模範 もはん として仰 あお いだことに始 はじ まる。信徒 しんと たちは聖人 せいじん の命日 めいにち に墓 はか に集 あつ まり儀式 ぎしき を執 と り行 おこな った。やがて殉教者 じゅんきょうしゃ の遺体 いたい を中心 ちゅうしん に聖堂 せいどう が建立 こんりゅう されるようになった。4世紀 せいき にキリスト教 きりすときょう がロ ろ ーマ帝国 まていこく の国教 こっきょう となってのち、殉教者 じゅんきょうしゃ や神意 しんい にかなった生 い き方 かた を貫 つらぬ いたとみなされる聖職 せいしょく 者 しゃ や信徒 しんと に、死後 しご 「聖人 せいじん 」の称号 しょうごう が与 あた えられるようになった。そして聖人 せいじん とその遺物 いぶつ に加護 かご と神 かみ への取 と り次 つ ぎを求 もと める様々 さまざま な宗教 しゅうきょう 実践 じっせん が形成 けいせい されていった。これには日々 ひび の願掛 がんか け 、治癒 ちゆ の奇跡 きせき などが含 ふく まれる。
8世紀 せいき にはキリスト教 きりすときょう でもっとも重要 じゅうよう な祭儀 さいぎ である「聖餐 せいさん 」を執 と り行 おこな う主祭 しゅさい 壇 だん の下 した には、聖人 せいじん の遺体 いたい か、少 すく なくともその一部 いちぶ が埋葬 まいそう されていなくてはならないと定 さだ められた。このため聖堂 せいどう を建 た てるときには聖 せい 遺物 いぶつ の入手 にゅうしゅ が不可欠 ふかけつ となった[1] 。
フランス革命 かくめい では多 おお くの寺院 じいん が聖 ひじり 像 ぞう 破壊 はかい 運動 うんどう によって破 やぶ 却された。その後 ご 、ナポレオン とローマ教皇 きょうこう ピウス7世 せい のもとで結 むす ばれたコンコルダート (英語 えいご 版 ばん ) によって長 なが らく冷 ひ え込 こ んでいたローマとフランスの間 あいだ に融和 ゆうわ 的 てき な関係 かんけい が生 う まれた。王政 おうせい 復古 ふっこ 期 き にかけて破 やぶ 却された聖堂 せいどう を再建 さいけん するために、ローマのカタコンベ から多 おお くの聖 せい 遺物 いぶつ がフランスに持 も ち込 こ まれた。1835年 ねん から1850年 ねん の間 あいだ に約 やく 300体 たい の聖 せい 遺骸 いがい がフランスに持 も ち込 こ まれたが、その真贋 しんがん に科学 かがく 的 てき 考古学 こうこがく 的 てき な議論 ぎろん が起 お こり、この現象 げんしょう は下火 したび となった。
聖 せい 遺物 いぶつ の入手 にゅうしゅ にはさまざまな手段 しゅだん が講 こう じられた。
殉教者 じゅんきょうしゃ が多 おお く出 で たローマなどの都市 とし の司教 しきょう や権力 けんりょく 者 しゃ からの贈与 ぞうよ 。
それまで知 し られていなかった聖人 せいじん の遺体 いたい の「新 しん 発見 はっけん 」。
業者 ぎょうしゃ からの購入 こうにゅう 。
他所 よそ からの強奪 ごうだつ 。
これにより遺体 いたい の移動 いどう や分割 ぶんかつ が進 すす んだ。窃盗 せっとう や超 ちょう 自然 しぜん 的 てき な経緯 けいい で聖 せい 遺物 いぶつ を手 て に入 い れた教会 きょうかい の縁起 えんぎ 譚 たん も多 おお く、複数 ふくすう の聖堂 せいどう が同 どう 一 いち 聖人 せいじん の遺体 いたい を所有 しょゆう していると主張 しゅちょう している例 れい もある。古代 こだい 末期 まっき にはかつての殉教者 じゅんきょうしゃ の遺体 いたい を高値 たかね で取引 とりひき する者 もの も出 で て、批判 ひはん の対象 たいしょう となった。まがい物 もの も数多 かずおお く出回 でまわ り、カトリック百科 ひゃっか 事典 じてん によれば、イエス・キリストの手足 てあし を十字架 じゅうじか に打 う ち付 つ けた聖 せい 釘 くぎ は、世界中 せかいじゅう で30本 ほん を下 くだ らないだろうと言 い われている。
聖 せい 遺物 いぶつ の略奪 りゃくだつ ・盗掘 とうくつ は犯罪 はんざい 行為 こうい で、ローマでは死罪 しざい にあたった。だが略奪 りゃくだつ が許 ゆる されざる行為 こうい なら、聖 せい 遺物 いぶつ =聖人 せいじん が抵抗 ていこう したに違 ちが いない。ゆえに略奪 りゃくだつ の成功 せいこう は、聖人 せいじん が従来 じゅうらい の墓所 はかしょ 管理 かんり や対応 たいおう に不満 ふまん だった証左 しょうさ である。よって略奪 りゃくだつ による移 うつり 葬 そう は聖人 せいじん の意志 いし にかなっていた。このような正当 せいとう 化 か のロジックが普及 ふきゅう した[3] 。
聖 せい 遺物 いぶつ は神 かみ の恩寵 おんちょう を地上 ちじょう に媒介 ばいかい することで奇跡 きせき を起 お こすと考 かんが えられた。そのため奇跡 きせき で評判 ひょうばん の聖 せい 遺物 いぶつ を所有 しょゆう する者 もの は、自分 じぶん こそ神 かみ の恩寵 おんちょう にあずかる正 ただ しいすべを保持 ほじ する正当 せいとう な権力 けんりょく 者 しゃ であることを証明 しょうめい できた。そこで中世 ちゅうせい ヨーロッパ社会 しゃかい では高位 こうい 聖職 せいしょく 者 しゃ や王侯 おうこう 貴族 きぞく などの権力 けんりょく 者 しゃ が人脈 じんみゃく や財力 ざいりょく を駆使 くし して、キリストや人気 にんき の高 たか い聖人 せいじん の聖 せい 遺物 いぶつ を入手 にゅうしゅ しようと競 きそ った。
聖 せい 遺物 いぶつ には奇跡 きせき を起 お こすちからによって大勢 おおぜい の巡礼 じゅんれい 者 しゃ を引 ひ き付 つ け、教会 きょうかい のひいては町 まち 、国 くに の格 かく を高 たか め、さらには巡礼 じゅんれい 者 もの (現在 げんざい で言 い えば観光 かんこう 客 きゃく )を引 ひ き寄 よ せられるというメリットもあった。そのため高名 こうみょう な聖 せい 遺物 いぶつ の導入 どうにゅう に成功 せいこう すれば、聖堂 せいどう の所在地 しょざいち 一帯 いったい には繁栄 はんえい がもたらされた。膨大 ぼうだい なコレクションを誇 ほこ る巡礼 じゅんれい 地 ち も存在 そんざい した。
聖俗 せいぞく の権力 けんりょく 者 しゃ と聖 きよし 遺物 いぶつ [ 編集 へんしゅう ]
11世紀 せいき 末 すえ から13世紀 せいき にかけて、十字軍 じゅうじぐん は多 おお くの聖 せい 遺物 いぶつ を西 にし ヨーロッパ に持 も ち込 こ んだ。宗教 しゅうきょう 指導 しどう 者 しゃ たちは教会 きょうかい や修道院 しゅうどういん の略奪 りゃくだつ を禁止 きんし していた。だが第 だい 4回 かい 十字軍 じゅうじぐん (1202年 ねん - 1204年 ねん )の攻撃 こうげき によりコンスタンチノープルが陥落 かんらく し、何 なに 世紀 せいき もの間 あいだ その大量 たいりょう の聖 せい 遺物 いぶつ の所蔵 しょぞう 地 ち として有名 ゆうめい だったビザンツ世界 せかい の首都 しゅと の門 もん が開 ひら かれると、数 すう 多 おお くの信徒 しんと や聖職 せいしょく 者 しゃ が教会 きょうかい に押 お し入 い り、略奪 りゃくだつ した聖 せい なる品物 しなもの を西方 せいほう へと持 も ち去 さ った[4] 。これら「敬虔 けいけん な盗人 ぬすっと 」には次 つぎ の聖職 せいしょく 者 しゃ が含 ふく まれる。
権力 けんりょく 者 しゃ の聖 せい 遺物 いぶつ 収集 しゅうしゅう [ 編集 へんしゅう ]
中世 ちゅうせい においては、価値 かち ある聖 せい 遺物 いぶつ を所有 しょゆう することは、単 たん に信仰 しんこう 心 しん からくるだけでなく、政治 せいじ ・経済 けいざい 的 てき な意図 いと が働 はたら いて高額 こうがく で取 と り引 ひ きされることも多 おお かった。例 たと えば、信仰 しんこう 心 しん の強 つよ かったフランス のルイ9世 せい は、キリストのかぶったという「イバラの冠 かんむり 」や「聖 せい 十字架 じゅうじか 」を高額 こうがく で買 か い求 もと めたと言 い う。キリスト教会 きょうかい が聖 せい 遺物 いぶつ の分与 ぶんよ を通 つう じてキリスト教 きょう の勢力 せいりょく を拡大 かくだい し、ヨーロッパに残 のこ っていた異教 いきょう の習慣 しゅうかん をキリスト教化 きょうか しようとしたのに対 たい し、世俗 せぞく の権力 けんりょく 者 しゃ はキリスト教 きりすときょう の権威 けんい によってみずからの権威 けんい を確立 かくりつ し、贈答 ぞうとう を通 つう じて他 た の権力 けんりょく 者 しゃ との間 あいだ に友好 ゆうこう 関係 かんけい を結 むす ぶために聖 せい 遺物 いぶつ を活用 かつよう した。13世紀 せいき 以降 いこう 、聖 せい 遺物 いぶつ の認定 にんてい や移動 いどう に対 たい する教皇 きょうこう 庁 ちょう の統制 とうせい が強 つよ まるが、これはキリスト教会 きょうかい の中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 化 か とかかわっている。
カトリック神学 しんがく では、神 かみ のみが崇拝 すうはい の対象 たいしょう である。そのため、聖 せい 遺物 いぶつ は崇拝 すうはい ではなく崇敬 すうけい の対象 たいしょう である。
聖 きよし ヒエロニムス は次 つぎ のように「創造 そうぞう 主 ぬし よりもむしろ創造 そうぞう 物 ぶつ に屈 くっ するべきであることを恐 おそ れて、私 わたし たちは礼拝 れいはい をしない。崇拝 すうはい することはないが、殉教者 じゅんきょうしゃ を崇敬 すうけい するために聖 せい 遺物 いぶつ を崇敬 すうけい する」と宣言 せんげん した[7] 。
カトリック教会 きょうかい は遺物 いぶつ を3つの等級 とうきゅう に分類 ぶんるい している:
第 だい 1級 きゅう の聖 せい 遺物 いぶつ
キリストの生涯 しょうがい の出来事 できごと (かいばおけ、十字架 じゅうじか など)または聖人 せいじん の遺物 いぶつ (骨 ほね 、髪 かみ 、頭蓋骨 ずがいこつ 、四肢 しし など)に直接 ちょくせつ 関連 かんれん する遺物 いぶつ 。伝統 でんとう 的 てき に、殉教者 じゅんきょうしゃ の遺物 いぶつ は、多 おお くの場合 ばあい 、他 た の聖人 せいじん の遺物 いぶつ よりも重 おも んじられている。その聖人 せいじん の生涯 しょうがい にとって重要 じゅうよう な部分 ぶぶん は、より価値 かち のある聖 せい 遺物 いぶつ である。例 たと えば、ハンガリーの聖 きよし イシュトヴァーン1世 せい の右腕 うわん は、支配 しはい 者 しゃ としての地位 ちい のために特 とく に重要 じゅうよう である。有名 ゆうめい な神学 しんがく 者 しゃ の頭 あたま は、その人物 じんぶつ の最 もっと も重要 じゅうよう な聖 せい 遺物 いぶつ といえるであろう。(聖 きよし トマス・アクィナス の頭 あたま は、彼 かれ が死 し んだフォッサノヴァのシトー会 かい 修道院 しゅうどういん の修道 しゅうどう 士 し によって切 き り離 はな された)聖人 せいじん が多 おお くの旅 たび をした場合 ばあい 、足 あし の骨 ほね が賞賛 しょうさん されるかもしれない。カトリックの教義 きょうぎ では、聖 せい 遺物 いぶつ が典礼 てんれい で使用 しよう される場合 ばあい 、聖 せい 遺物 いぶつ を小 ちい さな部分 ぶぶん に分割 ぶんかつ することを禁止 きんし している。(すなわち祭壇 さいだん のように。教会 きょうかい と祭壇 さいだん の奉献 ほうけん の儀式 ぎしき に記載 きさい されているルーブリックを参照 さんしょう )
第 だい 2級 きゅう の聖 せい 遺物 いぶつ
聖人 せいじん が所有 しょゆう しているか頻繁 ひんぱん に使用 しよう していた遺物 いぶつ 。(例 たと えば、十字架 じゅうじか 、ロザリオ 、本 ほん など)また、聖人 せいじん の生涯 しょうがい の中 なか でより重要 じゅうよう な部分 ぶぶん は、より重要 じゅうよう な聖 せい 遺物 いぶつ である。時折 ときおり 、第 だい 2級 きゅう 聖 きよし 遺物 いぶつ は聖人 せいじん が身 み に着 つ けていたもの(シャツ、手袋 てぶくろ など)の一部 いちぶ で、Ex indumentis (英語 えいご 版 ばん ) (「衣服 いふく から」という意味 いみ のラテン語 らてんご )として知 し られている。
第 だい 3級 きゅう の聖 せい 遺物 いぶつ
第 だい 1級 きゅう または第 だい 2級 きゅう 聖 きよし 遺物 いぶつ に接触 せっしょく したあらゆる物 もの [8] 。ほとんどの第 だい 3級 きゅう 聖 きよし 遺物 いぶつ は小 ちい さな布 ぬの であるが、紀元 きげん 1千年紀 せんねんき の油 あぶら は人気 にんき があった。Monza ampullae (英語 えいご 版 ばん ) は、キリストの生涯 しょうがい の主要 しゅよう な場所 ばしょ の前 まえ で燃 も えているランプから集 あつ められた油 あぶら を含 ふく んでおり、いくつかの遺物 いぶつ には、油 あぶら を再 ふたた び出 だ し入 い れするための穴 あな があった。多 おお くの人々 ひとびと は、聖人 せいじん の骨 ほね に触 ふ れた布 ぬの を “ex brandea” と呼 よ んでいる。だが、“ex brandea” は厳密 げんみつ には身体 しんたい や使徒 しと の墓 はか に接触 せっしょく した衣服 いふく の一部 いちぶ を指 さ す。それはそのような目的 もくてき にのみ使用 しよう される用語 ようご であり、第 だい 3級 きゅう の聖 せい 遺物 いぶつ の同義語 どうぎご ではない。
教会 きょうかい 法 ほう 第 だい 1190号 ごう では、使徒 しと 座 ざ の許可 きょか を得 え ずに他 た の手段 しゅだん で聖 せい 遺物 いぶつ の売買 ばいばい を行 おこな うことは厳重 げんじゅう に禁 きん じられている[9] 。聖 せい 遺物 いぶつ は、御 お 聖体 せいたい (ミサ での奉献 ほうけん 後 ご のキリストの体 からだ と葡萄酒 ぶどうしゅ を示 しめ す)のための祭壇 さいだん の上 うえ に置 お くことはできない[10] 。
特別 とくべつ な力 ちから を認 みと められた人物 じんぶつ の墓 はか や聖廟 せいびょう に詣 もう でて祈願 きがん する宗教 しゅうきょう 実践 じっせん や、遺体 いたい 、遺骨 いこつ の分与 ぶんよ が社会 しゃかい において一定 いってい の役割 やくわり を果 は たす状況 じょうきょう は、仏教 ぶっきょう 、ユダヤ教 きょう 、イスラーム世界 せかい にも認 みと められる。だがキリスト教 きりすときょう の聖 せい 遺物 いぶつ には「キリストの身体 しんたい との関係 かんけい 」という特徴 とくちょう がある。キリスト教 きょう ではキリストが十字架 じゅうじか にかかって自 みずか らの肉 にく と血 ち を神 かみ にささげた「受難 じゅなん 」によって神 かみ の恩寵 おんちょう がこの世界 せかい にもたらされ、人 ひと の罪 つみ が購 あがな われたとされる。この救 すく いの業 ごう を受 う け継 つ ぐのが聖体 せいたい 拝領 はいりょう の祭儀 さいぎ である。その中 なか で神 かみ にささげられ信徒 しんと に分 わ け与 あた えられる「聖体 せいたい (パンと葡萄酒 ぶどうしゅ )」は、受難 じゅなん におけるキリストの肉 にく と血 ち と同 おな じように神 かみ の恩寵 おんちょう を媒介 ばいかい すると早 はや くから考 かんが えられていた。その後 ご 、苦 くる しみながら神 かみ に命 いのち をささげる殉教 じゅんきょう にも受難 じゅなん と同 おな じ価値 かち があると考 かんが えられるようになり、聖人 せいじん の遺体 いたい 、聖 せい 遺物 いぶつ にも恩寵 おんちょう を媒介 ばいかい する力 ちから が認 みと められていった。13世紀 せいき には聖 せい 遺物 いぶつ と司祭 しさい の仲介 ちゅうかい によって聖体 せいたい がキリストの真 しん の肉 にく と血 ち となるという聖体 せいたい 神学 しんがく が確立 かくりつ する。
聖 せい 遺物 いぶつ 、聖 せい 遺物 いぶつ 容器 ようき とプロテスタントの宗教 しゅうきょう 改革 かいかく [ 編集 へんしゅう ]
16世紀 せいき になると聖書 せいしょ とキリストが定 さだ めた祭儀 さいぎ 以外 いがい に恩寵 おんちょう にあずかるすべはないとするプロテスタント諸派 しょは では、聖職 せいしょく 位階 いかい 制 せい とともに聖 せい 遺物 いぶつ が否定 ひてい されるようになった。プロテスタントは聖人 せいじん 崇拝 すうはい と共 とも に聖 せい 遺物 いぶつ 信仰 しんこう も禁 きん じ、プロテスタントが支配 しはい 的 てき となった地方 ちほう の聖 せい 遺物 いぶつ は聖 せい 遺物 いぶつ 容器 ようき (英語 えいご 版 ばん ) とともに破壊 はかい された。
《キリストの鞭打 むちう ちの際 さい に用 もち いられた円柱 えんちゅう 》ローマ、サンタ・プラッセーデ教会 きょうかい 。
マルセイユの聖 せい ヴィクトワール修道院 しゅうどういん の聖 せい 遺物 いぶつ 容器 ようき 群 ぐん 。
アヴィニョンの聖 せい ピエール教会 きょうかい にあるリュクサンブールの聖 せい ピエールの聖 せい 遺物 いぶつ 。
ケルン大 だい 聖堂 せいどう のモンストランツ型 がた 聖 せい 遺物 いぶつ 容器 ようき 。
ディジョンの宗教 しゅうきょう 芸術 げいじゅつ 美術館 びじゅつかん 所蔵 しょぞう の聖 ひじり ベルナールの聖 せい 遺物 いぶつ 。
カディスの大 だい 聖堂 せいどう にある聖 ひじり ディエゴの聖 せい 遺物 いぶつ 。
クロイスターズ にあるフランスの
聖 せい 遺物 いぶつ 容器 ようき 。
1180年 ねん のフランスの聖 せい 遺物 いぶつ 廟 びょう 。
ドイツの
守護 しゅご 聖人 せいじん である
聖 せい ボニファティウスの
聖 せい 遺物 いぶつ 容器 ようき 。
15世紀 せいき のフランスの聖 せい 遺物 いぶつ 容器 ようき 。
アイルランドの
クーダハ (
聖人 せいじん が
使用 しよう した
本 ほん の
納 おさめ 書 しょ 箱 ばこ )。
^ 17世紀 せいき にはルーアンの聖職 せいしょく 者 しゃ マチュー・ド・ラロック Matthieu de Larroque (1619-1684) が著 あらわ した『聖体 せいたい 拝領 はいりょう の歴史 れきし 』(1671年 ねん )には「10世紀 せいき 以来 いらい 聖 ひじり 別 べつ (パンと葡萄酒 ぶどうしゅ をキリストの血 ち と肉 にく へと変 か える聖 せい 変化 へんか )の儀式 ぎしき に必要 ひつよう とされる手順 てじゅん は増加 ぞうか し」、それは当時 とうじ の典礼 てんれい 定式 ていしき 書 しょ に記載 きさい されている通 とお りとなったと書 か かれている。そしてその記述 きじゅつ によれば「司祭 しさい はミサにおける聖体 せいたい の聖 ひじり 別 べつ を執 と り行 おこな う前日 ぜんじつ に、すべての聖 せい 遺物 いぶつ を聖 ひじり 別 べつ を行 おこな う祭壇 さいだん の中 なか に安置 あんち しなければならない」とある (M. de Larroque, Histoire de l'Eucharistie, divisée en trois parties, dont la première traite de la forme de la célébration, la seconde de la doctrine, et la troisième du culte. Seconde édition, revue et corrigée , Amsterdam 1671, p. 80-81.)。
^ この聖 せい 遺物 いぶつ 略奪 りゃくだつ 正当 せいとう 化 か の論理 ろんり はアルビジョア十字軍 じゅうじぐん が緒戦 しょせん においてかかげた「神 かみ はおのれの者 もの を知 し りたまう(異端 いたん 者 しゃ でないものは神 かみ がお守 まも りになるはずである。ゆえに十字軍 じゅうじぐん は相手 あいて が異端 いたん 者 しゃ であるかどうか気 き にする必要 ひつよう はない)」に通 つう じる論理 ろんり であるといえる。
^ A. J. Andrea, B. E. Whale, B. E. Whale, Contemporary Sources for the Fourth Crusade , Leiden, 2000, p. 226.
^ KONRAD von Krosigk († 1225) (ドイツ語 ご ) – Biographia Cisterciensis
^ Martin of Pairis (英語 えいご ) - The Crusades
^ Jerome, Ad Riparium , i, P.L., XXII, 907.
^ The Catholic Source Book A Comprehensive Collection of Information about the Catholic Church ISBN 0-15-950653-0
^ “The ''Code of Canon Law'' ”. Vatican.va. 2013年 ねん 3月 がつ 3日 にち 時点 じてん のオリジナル よりアーカイブ。2013年 ねん 3月 がつ 4日 にち 閲覧 えつらん 。
^ “Venerating Relics at Mass ”. 2018年 ねん 5月 がつ 22日 にち 閲覧 えつらん 。
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