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ウリヤノフスク

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ウリヤノフスク
Ульяновск
ウリヤノフスク市街
ウリヤノフスク市街しがい
ウリヤノフスクの市旗 ウリヤノフスクの市章
はた あきら
位置いち
ロシア内のウリヤノフスク州の位置の位置図
ロシアないのウリヤノフスクしゅう位置いち
位置いち
ウリヤノフスクの位置(ウリヤノフスク州内)
ウリヤノフスク
ウリヤノフスク (ウリヤノフスクしゅう)
ウリヤノフスクの位置(沿ヴォルガ連邦管区内)
ウリヤノフスク
ウリヤノフスク (沿ヴォルガ連邦れんぽう管区かんく)
ウリヤノフスクの位置(ヨーロッパロシア内)
ウリヤノフスク
ウリヤノフスク (ヨーロッパロシア)
ウリヤノフスクの位置(ロシア内)
ウリヤノフスク
ウリヤノフスク (ロシア)
地図
座標ざひょう : 北緯ほくい5419ふん 東経とうけい4823ふん / 北緯ほくい54.317 東経とうけい48.383 / 54.317; 48.383
歴史れきし
建設けんせつ 1648ねん
行政ぎょうせい
くに ロシアの旗 ロシア
 連邦れんぽう管区かんく 沿ヴォルガ連邦れんぽう管区かんく
 行政ぎょうせい区画くかく ウリヤノフスク州の旗 ウリヤノフスクしゅう
  ウリヤノフスク
市長しちょう Sergey Yermakov
地理ちり
面積めんせき  
  市域しいき 622.46 km2
標高ひょうこう 140 m
人口じんこう
人口じんこう (2021ねん現在げんざい
  市域しいき 617,352にん
  備考びこう [1]
その
ひとしときおび サマラ時間じかん (UTC+4)
郵便ゆうびん番号ばんごう 432000–433329
市外しがい局番きょくばん +7 8422
ナンバープレート 73, 173
公式こうしきウェブサイト : https://ulmeria.ru/

ウリヤノフスク(ウリヤーノフスク、Ульяновск, Ulyanovsk)は、ロシア連邦れんぽう都市としウリヤノフスクしゅう州都しゅうと人口じんこうやく61まんにん(2021ねん)。

モスクワからはひがしへ893kmはなれており、ヴォルガがわクイビシェフ)にのぞむ。ロシアじん人口じんこうの8わりめ、いでタタールじん1わりチュヴァシじんモルドヴィンじんなどがむ。

レーニンは1870ねんにこのまれ、17さいまでらした。旧称きゅうしょうシンビルスクСимби́рск, Simbirsk)だったが、レーニンのせいウリヤノフにちなんで現在げんざい名称めいしょうあらためられた。

歴史れきし[編集へんしゅう]

ロシア文学ぶんがくたかめた19世紀せいき初頭しょとう作家さっか歴史れきしで、このまちんだニコライ・カラムジン記念きねん

1648ねんにロシアの有力ゆうりょくボヤーレだい貴族きぞく)のボグダン・ヒトロヴォ(Bogdan Khitrovo)がシンビルスク要塞ようさい建設けんせつしたのがまちはじまりである。このクレムリ要塞ようさい)はヴォルガがわ西岸せいがんおかうえ戦略せんりゃくてき重要じゅうよう地点ちてん構築こうちくされていた。シンビルスクという地名ちめい語源ごげん不明ふめいだが、このジョチ・ウルスてていたシンバルという要塞ようさい語源ごげんとのせつもある。シンビルスク要塞ようさいはロシアのひがし国境こっきょう遊牧ゆうぼく民族みんぞくからまもり、このをロシア帝国ていこく領土りょうどとして確立かくりつする役目やくめたしてきた。

シンビルスクは1668ねんステンカ・ラージンのらん戦場せんじょうとなり、1ヶ月かげつにわたって2まんにん反乱はんらんぐん包囲ほういされた。プガチョフのらんではエメリヤン・プガチョフ逮捕たいほ収監しゅうかんされた場所ばしょでもある。この反乱はんらん題材だいざいにしたプーシキンの「大尉たいいむすめ」では主人公しゅじんこう・ニコライの実家じっかがあるまちという設定せっていになっている。木造もくぞうのクレムリの建物たてものは18世紀せいき火災かさい焼失しょうしつ現存げんそんしない。

いたりひじりさんしゃだい聖堂せいどう(1900ねんごろ撮影さつえい)。ソ連それん時代じだい解体かいたいされた

ロシアの国境こっきょうひがしのシベリア方面ほうめん拡大かくだいするにつれ、国境こっきょう軍事ぐんじ都市としとしての役割やくわりわったが、ヴォルガがわ水運すいうんめぐまれた地方ちほう拠点きょてん都市としとして成長せいちょうカザンけんアストラハンけんぞくしていたシンビルスクは1796ねん都市としとして登録とうろくされシンビルスクけん中心ちゅうしんとなる。1864ねんなつには大火たいか甚大じんだい被害ひがいしたが、急速きゅうそく再建さいけんされ成長せいちょうつづけた。のシンボルとなるしん古典こてん主義しゅぎ建築けんちくいたりひじりさんしゃだい聖堂せいどう1827ねんから1841ねんにかけて建設けんせつされた。シンビルスクの人口じんこう1856ねん時点じてんでは26,000にんだったが、1897ねんには43,000にん増加ぞうかしていた。1898ねんには鉄道てつどう開通かいつうし、1913ねんには発電はつでんしょ稼働かどうし、1916ねんにはヴォルガがわとの対岸たいがんむす鉄道てつどうきょう開通かいつう対岸たいがんにも市街しがいひろがった。

ロシア革命かくめい時期じき重要じゅうよう政治せいじであった臨時りんじ政府せいふ首相しゅしょうアレクサンドル・ケレンスキーと、かれ打倒だとうしたボリシェヴィキの指導しどうしゃウラジーミル・レーニンはともにシンビルスク出身しゅっしんであった。1924ねん、レーニンがぼっするとソ連それん政府せいふかれにちなんでシンビルスクをウリヤノフスクと改名かいめいした。

1957ねん、ウリヤノフスクから200Kmヴォルガがわくだったところにクイビシェフ水力すいりょく発電はつでんしょとクイビシェフ・ダムが完成かんせいし、ウリヤノフスクの下流かりゅう上流じょうりゅうではダムみずうみひろがり川幅かわはば場所ばしょによっては35kmにもたっするところもあらわれた。ウリヤノフスクの人口じんこう密集みっしゅうはダムみずうみ湖面こめんよりもひく部分ぶぶんもあり、堤防ていぼうによってまもられている。ソビエト連邦れんぽう時期じきにはソ連それん各地かくちからレーニンの聖地せいちであるウリヤノフスクにおおくの観光かんこうきゃく学習がくしゅうのためおとずれていた。

1920年代ねんだい以降いこう教会きょうかいモスクなど古来こらい建造けんぞうぶつはほとんどが破壊はかいされ、とおりにはルクセンブルクリープクネヒトなどの革命かくめい名前なまえけられた。さらに墓地ぼち破壊はかいされ、レーニンのちちイリヤ・ウリヤーノフのはかだけが十字架じゅうじかはずした状態じょうたいのこされた。このため、19世紀せいき当時とうじ建物たてものはレーニンの生家せいかイワン・ゴンチャロフ生家せいかなどなどごくわずかしか現存げんそんしていない。撤去てっきょされていたいたりひじりさんしゃだい聖堂せいどう再建さいけん計画けいかく頓挫とんざしている。

ソビエト連邦れんぽう崩壊ほうかい2008ねんセルゲイ・エルマコフロシアばん市長しちょう当時とうじ)が、シンビルスクへ名称めいしょうもど提案ていあんをしたが、市民しみん反対はんたい多数たすうにより否決ひけつされた。2018ねん現在げんざい名称めいしょうはウリヤノフスクのままである。

気候きこう地理ちり[編集へんしゅう]

ウリヤノフスクの路面ろめん電車でんしゃウリヤノフスク市電しでん

ウリヤノフスクは湿潤しつじゅん大陸たいりくせい気候きこうで、なつあつふゆきびしい。1月の平均へいきん気温きおんはマイナス11で、7がつ平均へいきん気温きおんは19となる。とし平均へいきん降水こうすいりょうは480mmほど。

あき一般いっぱんてき温暖おんだんで11月なかばごろからゆきる。ふゆ積雪せきせつおおく、また気温きおんさむ夜間やかんにはマイナス25ちることもある。なつは5がつなかばごろからはじまる。

ウリヤノフスクには、みなみながれるヴォルガかわのほかに、ヴォルガの支流しりゅうであるスヴィヤガがわきたながれている。このかわはウリヤノフスクでヴォルガかわからすうkmのところまで接近せっきんしているが、ヴォルガがわ沿いの丘陵きゅうりょうはばまれて合流ごうりゅうできず、そのままきたへ200kmもながれ、北方ほっぽうタタールスタン共和きょうわこくでヴォルガがわ合流ごうりゅうしている。

経済けいざい[編集へんしゅう]

ウリヤノフスクのしん市街しがい

ウリヤノフスクは重要じゅうよう産業さんぎょう都市としである。ウリヤノフスク自動車じどうしゃ工場こうじょうUAZ)、航空機こうくうき製造せいぞう企業きぎょうのAviastar-SP、兵器へいき企業きぎょうのウリヤノフスク機械きかい工場こうじょう(UMZ)などが本社ほんしゃ工場こうじょうく。また様々さまざま軽工業けいこうぎょう食品しょくひん工業こうぎょう市内しない集積しゅうせきする。観光かんこうぎょう市内しないおよび郊外こうがい成長せいちょうしている。

交通こうつう[編集へんしゅう]

建設けんせつちゅうあたらしいヴォルガがわはし(2008ねん撮影さつえい

ヴォルガがわのダムみずうみクイビシェフはウリヤノフスク市街地しがいち付近ふきんせばまっており、ここにヴォルガ東岸とうがんわたはしがかかっている。2009ねんまで、上流じょうりゅうカザンから下流かりゅうトリヤッチまでの400kmの区間くかんで、ウリヤノフスクのこのはしがヴォルガかわわた唯一ゆいいつはしであった。このはしもと1912ねんから1916ねんにかけて建設けんせつされた鉄道てつどうきょうであり、1953ねんから1958ねんにかけて車線しゃせん車道しゃどう併設へいせつされた。このはしによりかわ対岸たいがんにも市街地しがいちひろがり、ウリヤノフスクはこの地方ちほう交通こうつう中心ちゅうしんともなった。

しかしヴォルガをわた交通こうつうがすべてこの老朽ろうきゅうしたせまはし集中しゅうちゅう慢性まんせいてき渋滞じゅうたいしていた。これを解消かいしょう都市とし成長せいちょう対応たいおうするため、ヴォルガがわほんはし鉄道てつどう道路どうろ併用へいようきょう)が計画けいかくされ、1980年代ねんだい後半こうはん建設けんせつ開始かいしされた。ソビエト連邦れんぽう崩壊ほうかい経済けいざい混乱こんらんなどで建設けんせつ大幅おおはばおくれたが2009ねん完成かんせい[2]同年どうねん11がつ24にちにはメドベージェフ大統領だいとうりょう参列さんれつして落成らくせいしきおこなわれた。このはしながさが5.5kmあり、ヨーロッパでも最長さいちょう部類ぶるいである。はしは「プレジデントヌィ・モスト」(大統領だいとうりょうきょう)とづけられたが、地元じもとでは「ノーヴィ・モスト」(あたらしいはし)とだけばれている。

ウリヤノフスクには鉄道てつどうえき河川かせんみなとのほか、ウリヤノフスク・ヴォストーチヌイ空港くうこうウリヤノフスク・バラタエフカ空港くうこう(ウリヤノフスク中央ちゅうおう空港くうこう)があり、前者ぜんしゃ世界せかい最大さいだいきゅう輸送ゆそうアントノフAn-124運航うんこうするヴォルガ・ドニエプル航空こうくう本拠ほんきょになっている。

教育きょういく[編集へんしゅう]

ウリヤノフスク大学だいがく(USU)は、1988ねんモスクワ大学だいがく支部しぶとしてひらきがくした。今日きょうでは沿ヴォルガ地方ちほう最大さいだいきゅう高等こうとう教育きょういく機関きかんとなっており、おおくの研究所けんきゅうじょと15,000にん学生がくせいようしている。そのほか、技術ぎじゅつけい教育きょういくけい大学だいがく複数ふくすうウリヤノフスクに集積しゅうせきしている。

ギャラリー[編集へんしゅう]

著名ちょめい出身しゅっしんしゃ[編集へんしゅう]

姉妹しまい都市とし[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ city population”. 2023ねん5がつ4にち閲覧えつらん
  2. ^ おもわずいきをのむ、最近さいきんできたロシアのはし10せん. ロシア・ビヨンド. (2015ねん12月21にち). https://jp.rbth.com/multimedia/pictures/2015/12/21/553005 2020ねん8がつ8にち閲覧えつらん 

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]