フランス共産党 きょうさんとう (フランスきょうさんとう、フランス語 ふらんすご : Parti communiste français 、略称 りゃくしょう : PCF )は、1920年 ねん に結成 けっせい されたフランスの政党 せいとう 。
前身 ぜんしん のフランス社会党 しゃかいとう (労働 ろうどう インターナショナル・フランス支部 しぶ 、SFIO) が1920年 ねん 12月のトゥール 党 とう 大会 たいかい においてコミンテルン (第 だい 三 さん インターナショナル)への加盟 かめい を決議 けつぎ し、党名 とうめい を「共産 きょうさん 主義 しゅぎ インターナショナル ・フランス支部 しぶ 」(フランス語 ふらんすご : Section française de l'Internationale communiste 、SFIC)に改称 かいしょう し(加盟 かめい に反対 はんたい した少数 しょうすう 派 は は SFIO として活動 かつどう を継続 けいぞく )[8] [9] [10] 、翌 よく 1921年 ねん に「社会党 しゃかいとう SFIC(Parti socialiste SFIC)」、1943年 ねん にコミンテルンが解散 かいさん した際 さい に現在 げんざい の「フランス共産党 きょうさんとう 」に改称 かいしょう した[11] 。
マルクス・レーニン主義 しゅぎ を掲 かか げ、パブロ・ピカソ やエリック・サティ 、イヴ・モンタン 、シモーヌ・シニョレ らも党員 とういん だった時期 じき がある。
フランス共産党 きょうさんとう は、コミンテルン のフランス支部 しぶ として活動 かつどう し、スターリン がコミンテルンを実質 じっしつ 支配 しはい した1930年 ねん に「左翼 さよく 反対 はんたい 派 は 」を追放 ついほう してモーリス・トレーズ が実権 じっけん を握 にぎ って以降 いこう 、コミンテルンが解散 かいさん した戦後 せんご においても各国 かっこく の共産党 きょうさんとう に比 くら べても際立 きわだ ってソ連 それん の政策 せいさく を支持 しじ する傾向 けいこう が強 つよ く、モスクワ の長女 ちょうじょ (La fille aînée de Moscou) と揶揄 やゆ された。その傾向 けいこう は1991年 ねん のソビエト連邦 れんぽう の崩壊 ほうかい まで続 つづ いた。
人民戦線 じんみんせんせん からレジスタンスまで[ 編集 へんしゅう ]
フランス共産党 きょうさんとう は1930年代 ねんだい 初頭 しょとう 、スターリンとコミンテルンが提唱 ていしょう した「社会 しゃかい ファシズム論 ろん 」を実践 じっせん してフランス社会党 しゃかいとう (SFIO) に激 はげ しい攻撃 こうげき を加 くわ えたが、1933年 ねん にドイツ でナチス が政権 せいけん を獲 え ると、フランスでもファシズム 運動 うんどう が起 お こっていたことから労働 ろうどう 者 しゃ の間 あいだ で「反 はん ファシズム統一 とういつ 戦線 せんせん 」の気運 きうん が高 たか まった。その気運 きうん は2月 がつ 6日 にち に起 お こった「火 ひ の十字 じゅうじ 団 だん 」「王 おう 党派 とうは 青年 せいねん 団 だん 」「愛国 あいこく 青年 せいねん 団 だん 」「フランス連盟 れんめい 」などの極右 きょくう ・ファシスト組織 そしき が合同 ごうどう してコンコルド広場 ひろば からエリゼ宮 えりぜきゅう に進撃 しんげき した武装 ぶそう デモをきっかけに、ファシズムに対抗 たいこう する統一 とういつ 戦線 せんせん としての人民戦線 じんみんせんせん 運動 うんどう として結実 けつじつ し、1936年 ねん にはフランス人民戦線 じんみんせんせん 政府 せいふ が樹立 じゅりつ された。
1965年 ねん にソビエト連邦 れんぽう で発行 はっこう されたモーリス・トレーズ書記 しょき 長 ちょう を描 えが いた切手 きって 。
フランス共産党 きょうさんとう も人民戦線 じんみんせんせん 運動 うんどう に貢献 こうけん したが、入閣 にゅうかく せず閣外 かくがい 協力 きょうりょく の形 かたち でこの政府 せいふ に協力 きょうりょく した。したがって、フランス共産党 きょうさんとう はこの政府 せいふ に協力 きょうりょく するために労働 ろうどう 者 しゃ のストライキ 運動 うんどう を「権利 けんり 獲得 かくとく 運動 うんどう 」の枠 わく 内 ない に抑制 よくせい した。1936年 ねん 5月 がつ 27日 にち に社会党 しゃかいとう 左派 さは のマルソー・ピヴェール が、ストライキ運動 うんどう の広 ひろ がりに革命 かくめい まで展望 てんぼう して「いまや、すべてが可能 かのう である」と社会党 しゃかいとう 機関 きかん 紙 し 『ポピュレール』にて表現 ひょうげん したことに対 たい し、フランス共産党 きょうさんとう 書記 しょき 長 ちょう であるモーリス・トレーズ は、農民 のうみん と中産 ちゅうさん 階級 かいきゅう の支持 しじ が充分 じゅうぶん でない、として「すべてが可能 かのう なわけじゃない。権利 けんり 闘争 とうそう は終 お わらせる術 じゅつ を知 し らなくてはならない」と6月 がつ 11日 にち の共産党 きょうさんとう 活動 かつどう 家 か 集会 しゅうかい で反論 はんろん した。このようなフランス共産党 きょうさんとう の「社会 しゃかい ファシズム論 ろん 」から「人民戦線 じんみんせんせん 」への転換 てんかん は、ナチスの軍事 ぐんじ 的 てき 脅威 きょうい からソ連邦 それんぽう を守 まも り、かつヨーロッパ におけるトロツキズム の高揚 こうよう を怖 こわ れたヨシフ・スターリンの意向 いこう が働 はたら いている。
1937年 ねん 6月 がつ にレオン・ブルム 首相 しゅしょう の辞職 じしょく によって人民戦線 じんみんせんせん 政府 せいふ が崩壊 ほうかい し、1939年 ねん にスターリンがナチス・ドイツ のヒトラー と独 どく ソ不可侵 ふかしん 条約 じょうやく を締結 ていけつ すると、フランス共産党 きょうさんとう は一転 いってん して「反 はん ファシズム 」ではなく、「フランス帝国 ていこく 主義 しゅぎ およびアメリカ ・イギリス 帝国 ていこく 主義 しゅぎ 反対 はんたい 」を強 つよ く打 う ち出 だ すようになる。独 どく ソ不可侵 ふかしん 条約 じょうやく を支持 しじ したことで、党員 とういん の三 さん 分 ぶん の一 いち が反発 はんぱつ して離脱 りだつ し、政府 せいふ から「利敵 りてき 団体 だんたい 」と規定 きてい されて非合法 ひごうほう 化 か される。1940年 ねん のナチス・ドイツによるフランス侵攻 しんこう という段階 だんかい に至 いた っても、(のちに捏造 ねつぞう される伝説 でんせつ とは違 ちが って)秘密 ひみつ 地下 ちか 組織 そしき となったフランス共産党 きょうさんとう は反 はん ナチ・レジスタンス運動 うんどう を開始 かいし するどころか、モスクワからの意向 いこう に従 したが い兵器 へいき 工場 こうじょう でのサボタージュを労働 ろうどう 者 しゃ に呼 よ びかけ、いくつかの工場 こうじょう をテロによって破壊 はかい した。フランス敗北 はいぼく 後 ご は、当初 とうしょ は合法 ごうほう 政党 せいとう 化 か を期待 きたい して占領 せんりょう 当局 とうきょく に機関 きかん 紙 し 『ユマニテ 』の発行 はっこう を請願 せいがん し(指導 しどう 者 しゃ のジャック・デュクロ は回想 かいそう 録 ろく でこのことを認 みと めている)、アナーキスト やトロツキストの名簿 めいぼ をナチスに渡 わた したりしている。ジャック・ドリオ やジャン・フォントノワ などのように共産党 きょうさんとう から転向 てんこう した者 しゃ も少 すく なからず存在 そんざい した。
1941年 ねん のナチス・ドイツのソ連 それん 侵攻 しんこう によって、フランス共産党 きょうさんとう も武装 ぶそう してレジスタンス運動 うんどう を開始 かいし する。当時 とうじ 、すでに「地下 ちか 組織 そしき 」であったことから、武装 ぶそう 闘争 とうそう への転換 てんかん はスムーズに行 おこな われた。フランス共産党 きょうさんとう のレジスタンス活動 かつどう は「ドイツ兵 へい を一 いち 兵 へい でも多 おお くソ連 それん から引 ひ き離 はな せ」というスターリンの指令 しれい によって、その開始 かいし の当初 とうしょ からナチ将校 しょうこう の射殺 しゃさつ を繰 く り返 かえ す激 はげ しい戦術 せんじゅつ を採用 さいよう する。それに対 たい するナチス側 がわ の弾圧 だんあつ も「疑 うたが わしきは処刑 しょけい 」と熾烈 しれつ を極 きわ めたことから、フランス共産党 きょうさんとう は「銃殺 じゅうさつ を恐 おそ れぬ党 とう 」としてフランス社会 しゃかい で権威 けんい を取 と り戻 もど すことになる。また、フランス共産党 きょうさんとう は、「愛国 あいこく 主義 しゅぎ とインターナショナリズムの融合 ゆうごう 」をレジスタンス運動 うんどう におけるスローガンに掲 かか げ、ド・ゴール派 は らブルジョアジーのレジスタンス組織 そしき とも協調 きょうちょう した。あるいは、レジスタンスの大衆 たいしゅう 組織 そしき として「国民 こくみん 戦線 せんせん 」(現在 げんざい のルペンらの同名 どうめい 組織 そしき とはまったく無関係 むかんけい )を結成 けっせい し、主 おも に中産 ちゅうさん 階級 かいきゅう の取 と り込 こ みを図 はか った。以降 いこう 、「愛国 あいこく 主義 しゅぎ 」は、フランス共産党 きょうさんとう の強烈 きょうれつ なアイデンティティーとなった。
1944年 ねん にナチスを放逐 ほうちく した国民 こくみん 的 てき なレジスタンス運動 うんどう は、共産党 きょうさんとう の権威 けんい の高 たか まりとあいまって「ブルジョアジー すら社会 しゃかい 主義 しゅぎ を希求 ききゅう する」と言 い われたような状況 じょうきょう を現出 げんしゅつ させる。しかし、モスクワに亡命 ぼうめい していたフランス共産党 きょうさんとう の指導 しどう 者 しゃ モーリス・トレーズは帰国 きこく するなりレジスタンスの武装 ぶそう 解除 かいじょ を命 めい じ、資本 しほん 主義 しゅぎ 体制 たいせい 再建 さいけん に協力 きょうりょく することになる。また、フランス共和 きょうわ 国 こく 臨時 りんじ 政府 せいふ のド・ゴール 政権 せいけん では、トレーズが副 ふく 首相 しゅしょう として入閣 にゅうかく した。
1945年 ねん の制憲 せいけん 議会 ぎかい 選挙 せんきょ では126議席 ぎせき を獲得 かくとく して、第 だい 一 いち 党 とう となった。1946年 ねん の制憲 せいけん 議会 ぎかい 選挙 せんきょ では第 だい 2党 とう となったものの、11月10日 にち に行 おこな われた第 だい 四 よん 共和 きょうわ 政 せい 最初 さいしょ の議会 ぎかい 選挙 せんきょ (fr:Élections législatives françaises de novembre 1946 )でも第 だい 一 いち 党 とう となった。この時期 じき に成立 せいりつ した政権 せいけん のいずれにも閣僚 かくりょう を輩出 はいしゅつ している与党 よとう であり、この時期 じき が、同 どう 党 とう のピークといえるだろう。
第 だい 四 よん 共和 きょうわ 政 せい 下 か [ 編集 へんしゅう ]
1947年 ねん 5月、ポール・ラマディエ 政権 せいけん はゼネストをめぐって共産党 きょうさんとう の閣僚 かくりょう を罷免 ひめん し、共産党 きょうさんとう は野党 やとう となった。1951年 ねん の議会 ぎかい 選挙 せんきょ (fr )では第 だい 一 いち 党 とう であったものの、社会党 しゃかいとう や急進 きゅうしん 党 とう などの率 ひき いる「第 だい 三 さん 勢力 せいりょく 」 (fr ) が与党 よとう となった。1956年 ねん の選挙 せんきょ でも第 だい 一 いち 党 とう の座 ざ を確保 かくほ したが、1958年 ねん には引退 いんたい していたド・ゴールが政権 せいけん に復帰 ふっき し、第 だい 五 ご 共和 きょうわ 政 せい が成立 せいりつ した。
第 だい 五 ご 共和 きょうわ 政 せい 下 か [ 編集 へんしゅう ]
ド・ゴールの再 さい 登板 とうばん 後 ご は低迷 ていめい し、1958年 ねん の選挙 せんきょ では得票 とくひょう 率 りつ こそ18.90%だったものの、わずかに10議席 ぎせき しか獲得 かくとく できなかった。1962年 ねん の選挙 せんきょ (fr )では41議席 ぎせき を得 え た。
1967年 ねん の選挙 せんきょ (fr )では議席 ぎせき を倍増 ばいぞう させるなど盛 も り返 かえ した。1968年 ねん 五月 ごがつ 革命 かくめい においてフランス共産党 きょうさんとう は、影響 えいきょう 下 か にある労組 ろうそ ナショナルセンターであるCGT(労働 ろうどう 総 そう 同盟 どうめい )を通 つう じて労働 ろうどう 者 しゃ のストライキを組織 そしき したが、ダニエル・コーン=ベンディット らの急進 きゅうしん 的 てき な学生 がくせい 運動 うんどう を一貫 いっかん して否定 ひてい し、バリケード を構築 こうちく しての衝突 しょうとつ や街頭 がいとう 占拠 せんきょ を積極 せっきょく 的 てき に推 お し進 すす めるアナーキストやトロツキストたちを「挑発 ちょうはつ 者 しゃ 」として、激 はげ しく非難 ひなん した。ド・ゴール 大統領 だいとうりょう は総 そう 選挙 せんきょ を行 おこな って対抗 たいこう し(fr )、事態 じたい を収拾 しゅうしゅう した。共産党 きょうさんとう はわずかであったが得票 とくひょう 率 りつ を減少 げんしょう させた。
ジョルジュ・マルシェ 。
1972年 ねん には、フランス社会党 しゃかいとう と「共同 きょうどう 政府 せいふ 綱領 こうりょう 」に調印 ちょういん し、「左翼 さよく 連合 れんごう 」を形成 けいせい して政権 せいけん をめざすが「政権 せいけん 獲得 かくとく 後 ご の国有 こくゆう 化 か の範囲 はんい の性急 せいきゅう な拡大 かくだい 」を理由 りゆう に、社会党 しゃかいとう から決裂 けつれつ されて1977年 ねん に「左翼 さよく 連合 れんごう 」は崩壊 ほうかい した。
1978年 ねん には共産 きょうさん 党員 とういん 哲学 てつがく 者 しゃ であったルイ・アルチュセール が『共産党 きょうさんとう のなかでこれ以上 いじょう 続 つづ いてはならないこと』を刊行 かんこう している。
1981年 ねん に社会党 しゃかいとう のミッテラン が大統領 だいとうりょう に当選 とうせん すると、フランス共産党 きょうさんとう は同 どう 政権 せいけん に入閣 にゅうかく したが、1984年 ねん に「政策 せいさく 不一致 ふいっち 」で脱退 だったい する。
1985年 ねん に開催 かいさい した第 だい 27回 かい 党 とう 大会 たいかい では、1970年代 ねんだい の「左翼 さよく 連合 れんごう 」および1980年代 ねんだい のミッテラン政権 せいけん での経験 けいけん を「社会党 しゃかいとう との共同 きょうどう を追求 ついきゅう したこと自体 じたい が誤 あやま りだった」と総括 そうかつ し、同 どう 大会 たいかい で「社会 しゃかい 主義 しゅぎ フランスの建設 けんせつ 」を強調 きょうちょう する方針 ほうしん が採択 さいたく された(1990年 ねん の27回 かい 大会 たいかい では「フランス的 てき な社会 しゃかい 主義 しゅぎ プロジェクト」に「発展 はってん 」した)。
フランス共産党 きょうさんとう は、1979年 ねん のソ連 それん 軍 ぐん によるアフガニスタン侵攻 しんこう や1980年 ねん のポーランド 干渉 かんしょう などについて、常 つね にソ連邦 それんぽう 政府 せいふ を全面 ぜんめん 的 てき に支持 しじ した。また、ソ連邦 それんぽう の核兵器 かくへいき 保有 ほゆう を全面 ぜんめん 的 てき に支持 しじ していたが、ソ連 それん 共産党 きょうさんとう のゴルバチョフ 書記 しょき 長 ちょう が1986年 ねん 1月 がつ に「2000年 ねん までに全 ぜん 世界 せかい から核兵器 かくへいき をゼロにする」という提案 ていあん を発表 はっぴょう すると、フランス共産党 きょうさんとう は「ゴルバチョフ同志 どうし の提案 ていあん を我 わ が物 もの にする」と核兵器 かくへいき の廃絶 はいぜつ を訴 うった えるようになった。
ソ連 それん 崩壊 ほうかい と民主 みんしゅ 集中 しゅうちゅう 制 せい の放棄 ほうき [ 編集 へんしゅう ]
1991年 ねん のソビエト連邦 れんぽう の崩壊 ほうかい による各種 かくしゅ 文書 ぶんしょ の情報 じょうほう 公開 こうかい によって、ソ連 それん 共産党 きょうさんとう が長年 ながねん にわたってフランス共産党 きょうさんとう へ資金 しきん 援助 えんじょ していたことが明 あか るみに出 で た[12] 。
1994年 ねん にフランス共産党 きょうさんとう 書記 しょき 長 ちょう に就任 しゅうにん したロベール・ユー
1994年 ねん 1月 がつ の第 だい 28回 かい 大会 たいかい で民主 みんしゅ 集中 しゅうちゅう 制 せい を規約 きやく から外 はず した。そして、同 どう 大会 たいかい で1970年 ねん 以来 いらい 党 とう 運営 うんえい を担 にな ってきたジョルジュ・マルシェ が引退 いんたい し、ロベール・ユー が書記 しょき 長 ちょう に就任 しゅうにん した。[12] 。
1997年 ねん 国民 こくみん 議会 ぎかい 選挙 せんきょ では改選 かいせん 前 まえ を上回 うわまわ る議席 ぎせき を獲得 かくとく して健闘 けんとう 。選挙 せんきょ 後 ご に「第 だい 三 さん 次 じ 保革 ほかく 共存 きょうぞん (コアビタシオン )」として発足 ほっそく した社会党 しゃかいとう 政権 せいけん に、ジャン=クロード・ゲソ (運輸 うんゆ 相 しょう )やマリー・ジョルジュ・ビュフェ (青年 せいねん ・スポーツ相 しょう )などを入閣 にゅうかく させた。この時期 じき の共産党 きょうさんとう 指導 しどう 部 ぶ は新 しん 自由 じゆう 主義 しゅぎ 的 てき 改革 かいかく とそれに伴 ともな うフランスの伝統 でんとう 的 てき な福祉 ふくし 政策 せいさく の転換 てんかん に反対 はんたい せず「ゲソ同志 どうし を困 こま らせるな」をスローガンにして、労働 ろうどう 組合 くみあい などによる「民営 みんえい 化 か 反対 はんたい 」の要求 ようきゅう ・運動 うんどう を抑制 よくせい した。2002年 ねん フランス大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ では、書記 しょき 長 ちょう のロベール・ユーが出馬 しゅつば したが、歴史 れきし 上 じょう 初 はじ めてトロツキスト 政党 せいとう である労働 ろうどう 者 しゃ の闘争 とうそう (LO)や革命 かくめい 的 てき 共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ 同盟 どうめい (LCR)の候補 こうほ の得票 とくひょう を下回 したまわ った。ユー指導 しどう 部 ぶ は、この大敗 たいはい の責任 せきにん を取 と って退陣 たいじん 、ビュフェを全国 ぜんこく 書記 しょき に選出 せんしゅつ すると、新 あたら しい指導 しどう 部 ぶ は「新 しん 自由 じゆう 主義 しゅぎ 反対 はんたい 」を強 つよ く打 う ち出 だ すようになる。しかし、ユーら旧 きゅう 指導 しどう 部 ぶ は、現在 げんざい のビュフェ路線 ろせん を「反対 はんたい ばかりで対案 たいあん がない」と批判 ひはん する。またビュフェ指導 しどう 部 ぶ も、ユー時代 じだい の「民営 みんえい 化 か 推進 すいしん 路線 ろせん 」そのものを自己 じこ 批判 ひはん しているわけではない。
1989年 ねん の段階 だんかい で党員 とういん 数 すう 20万 まん 人 にん と発表 はっぴょう していたが、現在 げんざい は衰退 すいたい 著 いちじる しくその半数 はんすう 以下 いか と思 おも われる。大衆 たいしゅう 運動 うんどう の現場 げんば では、トロツキスト勢力 せいりょく との共闘 きょうとう も深 ふか めており、路線 ろせん に若干 じゃっかん の幅 はば を見 み せている。しかし、近年 きんねん は「社会 しゃかい 主義 しゅぎ 的 てき 理想 りそう 主義 しゅぎ 」を掲 かか げる若手 わかて 党員 とういん は主 おも にLCR(2009年 ねん 2月 がつ に反 はん 資本 しほん 主義 しゅぎ 新党 しんとう -NPAに移行 いこう )に、あるいは同 どう 党 とう の「愛国 あいこく 主義 しゅぎ 的 てき 伝統 でんとう 」をアイデンティティーにする古参 こさん 党員 とういん は極右 きょくう 政党 せいとう の国民 こくみん 戦線 せんせん に(それぞれ場合 ばあい によっては地方 ちほう ・下部 かぶ 組織 そしき ごと)移行 いこう しているケースも少 すく なくなく、フランス共産党 きょうさんとう は組織 そしき 存亡 そんぼう の渕 ふち に立 た たされているといえる。ただし、ナンテール などバンリュー (大都市 だいとし 郊外 こうがい の公営 こうえい 住宅 じゅうたく 地 ち )では依然 いぜん として共産党 きょうさんとう が強 つよ い勢力 せいりょく を維持 いじ している地域 ちいき もある。
2000年代 ねんだい 以降 いこう [ 編集 へんしゅう ]
フランス共産党 きょうさんとう 地方 ちほう 支部 しぶ の建物 たてもの (2009年 ねん )。
2012年 ねん のパリ に於 お けるフランス共産党 きょうさんとう 支持 しじ 者 しゃ によるデモ行進 こうしん 。
フランス共産党 きょうさんとう は、2005年 ねん のEU 憲法 けんぽう 批准 ひじゅん の是非 ぜひ を問 と う国民 こくみん 投票 とうひょう に際 さい して、「反 はん 新 しん 自由 じゆう 主義 しゅぎ 」の立場 たちば から批准 ひじゅん に反対 はんたい し、反対 はんたい 派 は の勝利 しょうり に一定 いってい の貢献 こうけん を果 は たした。このEU憲法 けんぽう 批准 ひじゅん に反対 はんたい した反 はん 新 しん 自由 じゆう 主義 しゅぎ 左派 さは グループ(フランス共産党 きょうさんとう 、革命 かくめい 的 てき 共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ 同盟 どうめい -LCR、緑 みどり の党 とう 、労働 ろうどう 者 しゃ の闘争 とうそう -LO、など)は、「5月 がつ 29日 にち 全国 ぜんこく コレクティブ」(「5月 がつ 29日 にち 」はEU憲法 けんぽう 批准 ひじゅん 反対 はんたい 派 は が国民 こくみん 投票 とうひょう で勝利 しょうり した日 ひ )を形成 けいせい して2007年 ねん フランス大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ を睨 にら んで左派 さは 統一 とういつ 候補 こうほ を擁立 ようりつ する議論 ぎろん を行 おこな い、「全国 ぜんこく コレクティブ」は投票 とうひょう で共産党 きょうさんとう の全国 ぜんこく 書記 しょき マリー・ジョルジュ・ビュフェ を選出 せんしゅつ した。
しかし、LCRは「共産党 きょうさんとう の組織 そしき 力 りょく を背景 はいけい にした多数 たすう 派 は 工作 こうさく による選出 せんしゅつ 」と反発 はんぱつ した。ビュフェは「共産党 きょうさんとう 色 しょく 」を薄 うす めるために、書記 しょき 長 ちょう 職 しょく の辞任 じにん を示唆 しさ したが結局 けっきょく 「全国 ぜんこく コレクティブ」は決裂 けつれつ し、「反 はん 新 しん 自由 じゆう 主義 しゅぎ 」各党 かくとう がそれぞれ候補者 こうほしゃ を擁立 ようりつ する結果 けっか となった。LCRが共産党 きょうさんとう のユ指導 しどう 部 ぶ 時代 じだい の民営 みんえい 化 か 政策 せいさく の撤回 てっかい を迫 せま ったが、共産党 きょうさんとう がそれを拒否 きょひ したことも決裂 けつれつ の一因 いちいん となった。また、ビュフェを「反 はん 新 しん 自由 じゆう 主義 しゅぎ 勢力 せいりょく の代表 だいひょう としての候補 こうほ 」か、あるいは「伝統 でんとう 的 てき 共産党 きょうさんとう の候補 こうほ 」として擁立 ようりつ するかで共産党 きょうさんとう 内部 ないぶ でも意見 いけん が二分 にぶん したが、最終 さいしゅう 的 てき にはビュフェは「共産党 きょうさんとう と無党派 むとうは 市民 しみん の共同 きょうどう 候補 こうほ 」という体裁 ていさい で、同 どう 党 とう 初 はつ の女性 じょせい 大統領 だいとうりょう 候補 こうほ として立候補 りっこうほ することになった。この共産党 きょうさんとう の動 うご きを「セクト主義 しゅぎ 」とした同 どう 党 とう のエヌ県 けん モン・ドリニィ支部 しぶ では、30数 すう 人 にん で構成 こうせい する共産党 きょうさんとう の支部 しぶ が解散 かいさん することを決定 けってい して、その半数 はんすう がLCRに加盟 かめい してブザンスノーの大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ を支援 しえん することを表明 ひょうめい した。
ビュフェは大統領 だいとうりょう 選 せん 第 だい 一 いち 次 じ 投票 とうひょう で、707,327票 ひょう の得票 とくひょう (得票 とくひょう 率 りつ 1.94%)の12人 にん の候補者 こうほしゃ 中 ちゅう 7位 い に留 と まり、前回 ぜんかい の3.37%からさらに後退 こうたい した。「トロツキスト候補 こうほ 」であるLCRのオリヴィエ・ブザンスノー 候補 こうほ にも大 おお きく水 みず をあけられ(ブザンスノーは4.11%を獲得 かくとく )、この間 あいだ の共産党 きょうさんとう の退潮 たいちょう 傾向 けいこう にさらに拍車 はくしゃ をかける結果 けっか となった。フランス共産党 きょうさんとう は、フランス社会党 しゃかいとう のセゴレーヌ・ロワイヤル 候補 こうほ と右派 うは のニコラ・サルコジ 候補 こうほ の対決 たいけつ となった決選 けっせん 投票 とうひょう において、ロワイヤルへの投票 とうひょう を呼 よ びかけた。
大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ 第 だい 2回 かい 投票 とうひょう の翌月 よくげつ に行 おこな われた国民 こくみん 議会 ぎかい 議員 ぎいん 選挙 せんきょ (6月 がつ 10日 とおか 、17日 にち 投票 とうひょう )では前回 ぜんかい より6議席 ぎせき 減 げん の15議席 ぎせき を獲得 かくとく した。
2009年 ねん 2月 がつ 、社会党 しゃかいとう から分裂 ぶんれつ した左派 さは グループが結成 けっせい した左翼 さよく 党 とう や反 はん 資本 しほん 主義 しゅぎ 新党 しんとう 内 うち の少数 しょうすう グループであるユニテリアン左翼 さよく とともに、同年 どうねん 6月 がつ に実施 じっし された欧州 おうしゅう 議会 ぎかい 議員 ぎいん 選挙 せんきょ に向 む けた選挙 せんきょ 共闘 きょうとう ブロックとして左翼 さよく 戦線 せんせん (Front de gauche) を結成 けっせい 。左翼 さよく 戦線 せんせん は同 どう 選挙 せんきょ で、5議席 ぎせき を獲得 かくとく した(そのうち3議席 ぎせき が共産党 きょうさんとう )。翌 よく 2010年 ねん 6月 がつ に行 おこな われた第 だい 35回 かい 党 とう 大会 たいかい では『ユマニテ』の元 もと 編集 へんしゅう 長 ちょう であるピエール・ロラン を新 あら たな全国 ぜんこく 書記 しょき に選出 せんしゅつ した[13] 。
2012年 ねん 4月 がつ に行 おこな われたフランス大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ では「左翼 さよく 勢力 せいりょく の結集 けっしゅう 」を旗印 はたじるし に左翼 さよく 党 とう の党首 とうしゅ であるジャン=リュック・メランション 候補 こうほ を支援 しえん 。第 だい 1回 かい 投票 とうひょう で得票 とくひょう 率 りつ 11.13%で4位 い に留 とど まったが、共産党 きょうさんとう 系 けい 候補 こうほ が得票 とくひょう 率 りつ 10%を超 こ えたのは1981年 ねん の大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ 以来 いらい である[14] 。また大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ 直後 ちょくご に行 おこな われた議会 ぎかい 総 そう 選挙 せんきょ で左翼 さよく 戦線 せんせん が獲得 かくとく した10議席 ぎせき のうち、共産党 きょうさんとう は7議席 ぎせき となった。
2013年 ねん 2月 がつ に行 おこな われた第 だい 36回 かい 党 とう 大会 たいかい ではピエール・ロランが全国 ぜんこく 書記 しょき に再選 さいせん された[15] 。
民主 みんしゅ 集中 しゅうちゅう 制度 せいど 放棄 ほうき 以降 いこう の党内 とうない 派閥 はばつ [ 編集 へんしゅう ]
フランス共産党 きょうさんとう は、対立 たいりつ が生 う まれるほどの大 おお きな党内 とうない 派閥 はばつ は存在 そんざい していない。これは、各国 かっこく の共産党 きょうさんとう が プロレタリア独裁 どくさい のために維持 いじ してきた「民主 みんしゅ 集中 しゅうちゅう 制 せい 」という組織 そしき 原則 げんそく によるものである。ただし、ソ連 それん 崩壊 ほうかい 後 ご である1994年 ねん 1月 がつ の第 だい 28回 かい 大会 たいかい で民主 みんしゅ 集中 しゅうちゅう 制 せい を規約 きやく から無 な くした以降 いこう に党内 とうない 組織 そしき の改革 かいかく を行 おこな い、党内 とうない の考 かんが えの多元 たげん 化 か を認 みと めており、党内 とうない 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ がフランス共産党 きょうさんとう 内 ない に初 はじ めて誕生 たんじょう した[16] [17] 。以降 いこう から、フランス共産党 きょうさんとう メンバーごとの思想 しそう 傾向 けいこう によって、簡単 かんたん に党内 とうない グループを分類 ぶんるい することができる。
正統 せいとう 派 は :1990年代 ねんだい 以降 いこう のフランス共産党 きょうさんとう の変貌 へんぼう (民主 みんしゅ 社会 しゃかい 主義 しゅぎ 政党 せいとう 化 か )に反対 はんたい し、伝統 でんとう 的 てき なマルクス・レーニン主義 しゅぎ に忠実 ちゅうじつ なグループ。この派閥 はばつ は現在 げんざい のフランス共産党 きょうさんとう が政党 せいとう 連合 れんごう 「左翼 さよく 戦線 せんせん 」を組 く んでいることを手 て ぬるいとしており、また、左翼 さよく 戦線 せんせん の代表 だいひょう ジャン=リュック・メランション を快 こころよ く思 おも っていないとされる。社会党 しゃかいとう との連携 れんけい にも反対 はんたい している。また、欧州 おうしゅう 連合 れんごう やユーロ からの脱退 だったい を支持 しじ している。このグループに属 ぞく していた一部 いちぶ の党員 とういん はフランス共産党 きょうさんとう を離党 りとう し、新党 しんとう を立 た ち上 あ げた。このグループの党内 とうない 比率 ひりつ は約 やく 10%[18] 。
ユー派 は :ロベール・ユー の支持 しじ 者 しゃ による派閥 はばつ 。社会党 しゃかいとう やその他 た 中道 ちゅうどう 左派 さは 政党 せいとう や環境 かんきょう 政党 せいとう との幅広 はばひろ い連立 れんりつ に肯定 こうてい 的 てき である。ただ、ユー自身 じしん は離党 りとう こそしていないものの、現在 げんざい のフランス共産党 きょうさんとう 指導 しどう 部 ぶ との関係 かんけい が疎遠 そえん になっている。
改良 かいりょう 派 は :改良 かいりょう 主義 しゅぎ 者 しゃ による派閥 はばつ 。フェミニズム 、エコ社会 しゃかい 主義 しゅぎ 、ユーロコミュニズム を指向 しこう する。この派閥 はばつ のメンバーの多 おお くはフランス共産党 きょうさんとう を去 さ ったが、かなり昔 むかし から共産党 きょうさんとう 内部 ないぶ に深 ふか く関 かか わってきた派閥 はばつ であるとされる。ジョルジュ・マルシェによるソビエト連邦 れんぽう の意向 いこう に常 つね に従 したが う保守 ほしゅ 的 てき な党 とう 運営 うんえい や、民主 みんしゅ 集中 しゅうちゅう 制 せい 自体 じたい にかなり批判 ひはん 的 てき であったとされている。2002年 ねん と2007年 ねん の大統領 だいとうりょう 選 せん では共産党 きょうさんとう 候補 こうほ を支持 しじ しなかった。その代 か わり、フランス共産党 きょうさんとう 再建 さいけん のために、極左 きょくさ や環境 かんきょう 政党 せいとう 含 ふく む幅広 はばひろ い左派 さは 勢力 せいりょく との連携 れんけい を声高 こわだか に主張 しゅちょう した。
出典 しゅってん :フランスの左翼 さよく (2012年 ねん 10月 がつ 7日 にち 閲覧 えつらん )