1992ねんイギリス労働党ろうどうとう党首とうしゅ選挙せんきょ

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1992ねんイギリス労働党ろうどうとう党首とうしゅ選挙せんきょLabour Party leadership election of 1992)はイギリスの政党せいとう労働党ろうどうとう党首とうしゅ決定けっていした選挙せんきょ1992ねんそう選挙せんきょにおける労働党ろうどうとう敗北はいぼくと、それにともなうのぜん党首とうしゅニール・キノック辞任じにんをうけて実施じっしされた。

党首とうしゅ選挙せんきょ[編集へんしゅう]

党首とうしゅせんには、2人ふたり候補者こうほしゃ立候補りっこうほしたが、かねてからジョン・スミス圧倒的あっとうてき勝利しょうり予想よそうされていた。

党首とうしゅせんは、労働党ろうどうとう1981ねん以降いこう採用さいようしているシステムにのっとり、労働党ろうどうとう庶民しょみんいん議員ぎいん欧州おうしゅう議会ぎかい議員ぎいんひょう労働党ろうどうとういんひょうを30%ずつ、労働党ろうどうとう系列けいれつの3つの労働ろうどう組合くみあいいんひょうを40%にふりわけた投票とうひょうおこなわれた。7がつ18にち投票とうひょう実施じっし

候補者こうほしゃ 労働ろうどう組合くみあいひょう 党員とういんひょう 議員ぎいんひょう 総合そうごう
ジョン・スミス 38.5% 29.3% 23.2% 91.0%
ブライアン・グールド 1.5% 0.7% 6.8% 9.0%

圧倒的あっとうてき得票とくひょうにより、ジョン・スミスが党首とうしゅえらばれた。かれはこののち2年間ねんかん党首とうしゅつとめるが、1994ねん急死きゅうししてしまう。

ふく党首とうしゅ選挙せんきょ[編集へんしゅう]

ふく党首とうしゅえらばれたマーガレット・ベケットのちにスミス党首とうしゅ急死きゅうしけて臨時りんじ党首とうしゅ就任しゅうにんする。

党首とうしゅせんにあわせて、ふく党首とうしゅ選挙せんきょ実施じっしされた。党首とうしゅ選挙せんきょ大勢おおぜいがスミスの圧勝あっしょうかたむいていたため、衆目しゅうもくはむしろこのふく党首とうしゅせんにそそがれた。党首とうしゅ選挙せんきょやぶれたグールドをはじめ、3にん立候補りっこうほした。

なお、このふく党首とうしゅ選挙せんきょには、のちの労働党ろうどうとう党首とうしゅトニー・ブレア出馬しゅつば模索もさくしていた。かれ出馬しゅつばすすめたのは、ブレア側近そっきんで、モダナイザーとばれるとう改革かいかくピーター・マンデルソンハリエット・ハーマンで、そこには、スミスではとう改革かいかくなまぬるいだろうから、ブレアがふく党首とうしゅとして改革かいかく強力きょうりょくすすめるべきとの意図いとがあった。しかし、ブレアの後見こうけんやくであるロイ・ハタズリーは、ブレアの将来しょうらいかんがえたうえで、かれとうナンバなんばつー位置いちけるのはもったいないとして出馬しゅつば反対はんたい。ブレアの盟友めいゆうであり、ライバルでもあるゴードン・ブラウンも、ここでブレアがふく党首とうしゅになれば、かれとのひろがってしまうとの理由りゆうから反対はんたい辞任じにんした党首とうしゅニール・キノックもブレアの実力じつりょくみとめてはいたものの、まだはやすぎると判断はんだんして反対はんたいした。

ブレアは本心ほんしんでは出馬しゅつばのぞんでいたが、スミスの「ふく党首とうしゅには女性じょせいのぞむ」との一言ひとこと決定けっていとなり、情勢じょうせいはマーガレット・ベケットの優位ゆういかたむいた。結局けっきょく、ブレアはこのふく党首とうしゅ選挙せんきょには出馬しゅつばせず、つぎ党首とうしゅ選挙せんきょ党首とうしゅ就任しゅうにんする。

投票とうひょう結果けっか
候補者こうほしゃ 得票とくひょうりつ
マーガレット・ベケット 57.3%
ジョン・プレスコット 28.1%
ブライアン・グールド 14.6%

結果けっかマーガレット・ベケットふく党首とうしゅえらばれた。

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]