独立 どくりつ 労働党 ろうどうとう の指導 しどう 者 しゃ ・ ケア・ハーディ(1893年 ねん )
独立 どくりつ 労働党 ろうどうとう (どくりつろうどうとう、Independent Labour Party 、略称 りゃくしょう :ILP )は、かつてイギリス に存在 そんざい した社会 しゃかい 主義 しゅぎ 政党 せいとう 。1893年 ねん 設立 せつりつ 。1906年 ねん から1932年 ねん まで労働党 ろうどうとう と合流 ごうりゅう しており、1947年 ねん に3名 めい の議会 ぎかい 議員 ぎいん が同 どう 党 とう へ移籍 いせき 。1975年 ねん には独立 どくりつ 労働 ろうどう パブリケーション として同 どう 党 とう へ再 さい 加入 かにゅう を果 は たしている。
19世紀 せいき 後半 こうはん 以降 いこう 、労働 ろうどう 者 しゃ 階級 かいきゅう の代表 だいひょう 者 しゃ を政治 せいじ の場 ば に送 おく り出 だ すのが、多 おお くのイギリス人 じん にとって最大 さいだい の関心事 かんしんじ となった。この目的 もくてき を果 は たすための主 しゅ たる手段 しゅだん として、イギリス議会 ぎかい では自由党 じゆうとう にその役割 やくわり を見出 みいだ した者 もの は多 おお い。例 たと えば1869年 ねん には早 はや くも、独立 どくりつ 代表 だいひょう 同盟 どうめい が自由党 じゆうとう 候補 こうほ 支援 しえん のため労働 ろうどう 者 しゃ を動員 どういん 。
また、多 おお くの労働 ろうどう 組合 くみあい も自 みずか らの目標 もくひょう を達成 たっせい すべく、議会 ぎかい に代表 だいひょう を得 え るのに関心 かんしん を持 も っていた。1870年代 ねんだい 以降 いこう 、労働 ろうどう 組合 くみあい から資金 しきん 面 めん での援助 えんじょ を受 う けている労働 ろうどう 者 しゃ 階級 かいきゅう の候補 こうほ が、自由党 じゆうとう の支援 しえん も受 う けるようになる。
多 おお くの革新 かくしん 系 けい 知識 ちしき 人 じん 、就中 なかんづく キリスト教 きりすときょう 社会 しゃかい 主義 しゅぎ や、社会 しゃかい の再 さい 構築 こうちく という倫理 りんり 的 てき 義務 ぎむ を帯 お びた同様 どうよう の概念 がいねん の影響 えいきょう を受 う けた者 もの も、自由党 じゆうとう を労働 ろうどう 者 しゃ 階級 かいきゅう の代表 だいひょう を得 え るための最良 さいりょう の手段 しゅだん と見 み 做した。漸進 ぜんしん 主義 しゅぎ 組織 そしき のフェビアン協会 きょうかい も1884年 ねん の設立 せつりつ から暫 しばら くの間 あいだ 、自由党 じゆうとう の政策 せいさく へ公式 こうしき に関与 かんよ 。
その後 ご 、所謂 いわゆる 「リブ・ラブ協定 きょうてい 」の候補 こうほ で、労働 ろうどう 組合 くみあい 及 およ び自由 じゆう 党内 とうない の急進 きゅうしん 派 は 知識 ちしき 人 じん との共闘 きょうとう により、議員 ぎいん に当選 とうせん を果 は たした者 もの は多 おお い[1] 。
しかし、議会 ぎかい に労働 ろうどう 者 しゃ 階級 かいきゅう の代表 だいひょう を送 おく り出 だ すため、中産 ちゅうさん 階級 かいきゅう に属 ぞく する自由党 じゆうとう と共闘 きょうとう するという考 かんが えが、広 ひろ く受 う け入 い れられた訳 わけ では無 な かった。
労働 ろうどう 者 しゃ 階級 かいきゅう と資本 しほん 家 か 階級 かいきゅう との間 あいだ に階級 かいきゅう 闘争 とうそう があると信 しん ずるマルクス主義 まるくすしゅぎ 者 もの は、議会 ぎかい から得 え られるほんの僅 わず かな慈善 じぜん と引 ひ き換 か えに、小 しょう ブルジョア の自由党 じゆうとう と手 て を組 く むのを拒否 きょひ 。
イギリスの古典 こてん 的 てき マルクス主義 まるくすしゅぎ 者 しゃ は1881年 ねん 、社会 しゃかい 民主 みんしゅ 同盟 どうめい (SDF)を結成 けっせい するに至 いた る。続 つづ く1886年 ねん には、国内 こくない の労働 ろうどう 組合 くみあい の連合体 れんごうたい である労働 ろうどう 組合 くみあい 会議 かいぎ (TUC)が、選挙 せんきょ 母体 ぼたい として結成 けっせい された。
階級 かいきゅう 闘争 とうそう に与 くみ しない革新 かくしん 系 けい 知識 ちしき 人 じん も、自由党 じゆうとう のイデオロギー や組織 そしき 形態 けいたい の他 ほか 、労働 ろうどう 者 しゃ 階級 かいきゅう を二 に の次 つぎ にするような施策 しさく に不満 ふまん を抱 いだ く。こうした考 かんが えや行動 こうどう の中 なか から、ケア・ハーディ を筆頭 ひっとう とする新 しん 世代 せだい の活動 かつどう 家 か が生 う まれる事 こと となる。
ハーディはウィリアム・グラッドストン 率 ひき いる自由 じゆう 党員 とういん で、ランカシャー の炭鉱 たんこう にて労働 ろうどう 組合 くみあい のオルグ に携 たずさ わっていたが、独立 どくりつ した労働 ろうどう 者 しゃ 政党 せいとう を欲 ほっ するスコットランド人 じん であった。
1888年 ねん 、ヘンリー・ハイド・チャンピオン やトム・マン ら社会 しゃかい 民主 みんしゅ 同盟 どうめい の党員 とういん と協力 きょうりょく しながら、スコットランド労働党 ろうどうとう の設立 せつりつ に尽力 じんりょく 。
1890年 ねん には、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく が外国 がいこく 産 さん の布 ぬの に対 たい し関税 かんぜい を掛 か けた事 こと により、国内 こくない の織物 おりもの 業 ぎょう 全般 ぜんぱん が賃金 ちんぎん カットに見舞 みま われる。これを受 う け、ブラッドフォード のマニンガム製作所 せいさくしょ でストライキ が発生 はっせい するが、副産物 ふくさんぶつ として如何 いか なる主要 しゅよう 政党 せいとう からも独立 どくりつ した組織 そしき ブラッドフォード労働 ろうどう 組合 くみあい が誕生 たんじょう 。労働 ろうどう 者 しゃ 階級 かいきゅう が自由党 じゆうとう から離反 りはん する動 うご きが、力 ちから を持 も ちつつある事 こと が示 しめ された出来事 できごと であった。
新党 しんとう 結成 けっせい への議論 ぎろん がロバート・ブラッチフォード の新聞 しんぶん クラリオン (1891年 ねん 創刊 そうかん )や、ジョセフ・バージェス の編集 へんしゅう するワークマンズ・タイムズ でも見 み られるようになった。後者 こうしゃ は、既存 きそん の政治 せいじ 団体 だんたい から独立 どくりつ した労働 ろうどう 者 しゃ 政党 せいとう の設立 せつりつ を支持 しじ する署名 しょめい を、3500筆 ぴつ 程度 ていど 集 あつ めた事 こと でも知 し られる。
1892年 ねん 7月 がつ に行 おこな われたイギリス総 そう 選挙 せんきょ では、3名 めい の労働 ろうどう 者 しゃ (ケア・ハーディ、ジョン・バーンズ 、ジョセフ・ハヴロック・ウィルソン )が自由党 じゆうとう から支援 しえん を受 う けずに当選 とうせん 。
同年 どうねん 9月 がつ にはTUCの席上 せきじょう 、独立 どくりつ した労働 ろうどう 組織 そしき の支持 しじ 者 しゃ による会合 かいごう を求 もと める声明 せいめい を出 だ す。準備 じゅんび 委員 いいん 会 かい 設置 せっち を経 へ て、翌年 よくねん 1月 がつ にブラッドフォードで党 とう 大会 たいかい が開 ひら かれた。ウィリアム・ヘンリー・ドリュー が議長 ぎちょう を務 つと めたこの党 とう 大会 たいかい にて、独立 どくりつ 労働党 ろうどうとう の結党 けっとう が示 しめ され、ケア・ハーディが初代 しょだい 議長 ぎちょう に就任 しゅうにん [2] 。
党名 とうめい こそ「社会党 しゃかいとう 」ではなく「労働党 ろうどうとう 」としたものの、党是 とうぜ を「生産 せいさん や流通 りゅうつう 、取引 とりひき 手段 しゅだん の集団 しゅうだん 的 てき 、公的 こうてき 所有 しょゆう を目指 めざ す」事 こと が、圧倒的 あっとうてき に受 う け入 い れられた。また綱領 こうりょう では、以下 いか に掲 かか げる進歩 しんぽ 主義 しゅぎ 的 てき な社会 しゃかい 改革 かいかく を実行 じっこう に移 うつ すとしている[3] 。
党 とう 大会 たいかい では新党 しんとう の母体 ぼたい も設立 せつりつ 。各 かく 地方 ちほう 組織 そしき の代議員 だいぎいん から成 な る月例 げつれい 総会 そうかい が「党 とう の最高 さいこう かつ執行 しっこう 機関 きかん 」とされ、書記 しょき は全国 ぜんこく 管理 かんり 委員 いいん 会 かい (NAC)が直接 ちょくせつ 統制 とうせい 下 か に置 お く事 こと とした。このNACは支部 しぶ 会議 かいぎ で出 だ された指示 しじ に従 したが って、理論 りろん 上 じょう 行動 こうどう を制限 せいげん された地方 ちほう の代議員 だいぎいん から構成 こうせい [4] 。
新党 しんとう は大 おお いなる希望 きぼう と期待 きたい を背負 せお って結成 けっせい されたものの、最初 さいしょ の数 すう 年間 ねんかん は困難 こんなん に満 み ち溢 あふ れていた。党 とう や指導 しどう 、組織 そしき の方向 ほうこう 性 せい を巡 めぐ って論争 ろんそう が絶 た えなかったため、期待 きたい された程 ほど 選挙 せんきょ で躍進 やくしん しなかったのである。
国民 こくみん の信 しん を問 と うて臨 のぞ んだ1895年 ねん の総 そう 選挙 せんきょ では惨敗 ざんぱい 。NACが党 とう の論争 ろんそう を纏 まと め上 あ げる上 うえ で主導 しゅどう 権 けん を握 にぎ り、ILP公認 こうにん 候補 こうほ が28名 めい しかいない中 なか での選挙 せんきょ であった。
個人 こじん 的 てき 人気 にんき がある党首 とうしゅ のケア・ハーディでさえ、保守党 ほしゅとう と直接 ちょくせつ 対決 たいけつ すれば負 ま けるであろうとされ、全員 ぜんいん 落選 らくせん 。なお、この選挙 せんきょ では「リブ・ラブ派 は 」に転向 てんこう し、自由党 じゆうとう 急進 きゅうしん 派 は の支援 しえん を受 う けたバーンズが議席 ぎせき を維持 いじ [5] 。何 いず れにせよ、1895年 ねん の選挙 せんきょ における大敗 たいはい は、とめど無 な い楽観 らっかん 論 ろん が党内 とうない を覆 おお う事 こと になる。
このように、ILPは当初 とうしょ より決 けっ して一枚岩 いちまいいわ の組織 そしき ではなく、寧 むし ろ労働 ろうどう 者 しゃ 階級 かいきゅう の「包括 ほうかつ 政党 せいとう 」を目指 めざ しており、不 ふ 明確 めいかく かつ無定形 むていけい の社会 しゃかい 主義 しゅぎ 的 てき なアジェンダ を主張 しゅちょう 。歴史 れきし 家 か のロバート・E・ドーズは次 つぎ のように述 の べている[6] 。
ILPは当初 とうしょ より労働 ろうどう 者 しゃ 階級 かいきゅう の政党 せいとう として、労働 ろうどう 組合 くみあい に影響 えいきょう を与 あた えようとしていた。ヘンリー・ペイリン が述 の べたように、「議会 ぎかい で権力 けんりょく を握 にぎ るため、労働 ろうどう 組合 くみあい から資金 しきん を得 え て、労働 ろうどう 組合 くみあい との連携 れんけい 」 を模索 もさく していたのである。ILPの社会 しゃかい 主義 しゅぎ は、この目標 もくひょう に達 たっ する上 うえ での理想 りそう であった。如何 いか に理論 りろん 的 てき な基礎 きそ を欠 か いていようが、労働 ろうどう 組合 くみあい 員 いん の要求 ようきゅう に事実 じじつ 上 じょう 応 こた える事 こと が出来 でき た。具体 ぐたい 的 てき には禁酒 きんしゅ 運動 うんどう 、スコットランド民族 みんぞく 主義 しゅぎ 、メソジスト 、マルクス主義 まるくすしゅぎ 、フェビアン主義 しゅぎ そしてバーク流 りゅう の保守 ほしゅ 主義 しゅぎ さえ、問題 もんだい 無 な く包含 ほうがん していたのである。こうした多様 たよう 性 せい は奇妙 きみょう ではあるが、教条 きょうじょう 主義 しゅぎ に基 もと づき如何 いか なる者 もの をも排除 はいじょ しないという計 はか り知 し れない利点 りてん があり、当時 とうじ の事情 じじょう を考 かんが えても軽視 けいし する事 こと は出来 でき ない。
勿論 もちろん 緩 ゆる やかかつ多様 たよう な考 かんが えを擁 よう する党 とう であるが故 こ 、組織 そしき の本性 ほんしょう なり計画 けいかく を巡 めぐ っては論争 ろんそう が絶 た えなかった。党 とう 組織 そしき の決定 けってい は当初 とうしょ は厳格 げんかく な民主 みんしゅ 主義 しゅぎ に基 もと づいており、党 とう 大会 たいかい が1895年 ねん の総 そう 選挙 せんきょ に際 さい しての政策 せいさく を決 き めるために開 ひら かれたように、こうした議論 ぎろん が幾 いく 許 きょ かの強 つよ い影響 えいきょう を与 あた えている。
にもかかわらず、NACは選挙 せんきょ に纏 まつ わる決定 けってい や他 た 党 とう との関係 かんけい といった、重大 じゅうだい な問題 もんだい に大 おお きく関与 かんよ するなど、党 とう 活動 かつどう に相当 そうとう の権力 けんりょく を保持 ほじ するようになった。1895年 ねん の総 そう 選挙 せんきょ における敗北 はいぼく を契機 けいき に、中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 化 か や反 はん 民主 みんしゅ 的 てき な行為 こうい を加速 かそく させる事 こと となる。
19世紀 せいき 末 まつ のNACにおいて、党首 とうしゅ ケア・ハーディに加 くわ え、党 とう 指導 しどう 部 ぶ において向 む こう20年間 ねんかん の方向 ほうこう 性 せい を共有 きょうゆう する4名 めい の人物 じんぶつ が登場 とうじょう 。1897年 ねん NACに選出 せんしゅつ され、1900年 ねん にハーディの後継 こうけい として議長 ぎちょう に就 つ いたスコットランド人 じん ブルース・グレーシャー 、福音 ふくいん 派 は 社会 しゃかい 主義 しゅぎ 者 しゃ のフィリップ・スノーデン 、労働 ろうどう 組合 くみあい 員 いん としての出馬 しゅつば を拒絶 きょぜつ された事 こと から、自由党 じゆうとう への幻滅 げんめつ を味 あじ わったラムゼイ・マクドナルド である。
4人 にん の間 あいだ にはかなりの個人 こじん 的 てき な確執 かくしつ があったものの、党 とう がマルクス主義 まるくすしゅぎ を標榜 ひょうぼう する社会 しゃかい 民主 みんしゅ 同盟 どうめい のようなイデオロギーに基 もと づく統一 とういつ 体 たい というよりは寧 むし ろ、労働 ろうどう 組合 くみあい との連携 れんけい を模索 もさく すべきとする基本 きほん 的 てき な見解 けんかい は共有 きょうゆう していた。
1895年 ねん の総 そう 選挙 せんきょ における敗北 はいぼく 以後 いご 、党 とう 執行 しっこう 部 ぶ は選挙 せんきょ 戦 せん を通 つう じての党勢 とうせい 拡大 かくだい を断念 だんねん 。1898年 ねん までには、出来 でき るだけ多 おお くの候補 こうほ を擁立 ようりつ して党 とう の露出 ろしゅつ を最大限 さいだいげん まで図 はか り、得票 とくひょう 率 りつ を最大限 さいだいげん にまで積 つ み重 かさ ねるよりは寧 むし ろ、候補 こうほ の擁立 ようりつ を公式 こうしき に控 ひか えるに至 いた る。
労働 ろうどう 組合 くみあい との関係 かんけい もまた問題 もんだい が多 おお かった。1890年代 ねんだい においては労働 ろうどう 組合 くみあい との連携 れんけい が上手 うま くいかず、労働 ろうどう 組合 くみあい 員 いん の入党 にゅうとう が成 な ったものの、党 とう 役員 やくいん との関係 かんけい が希薄 きはく となってゆく。
1900年 ねん には労働 ろうどう 代表 だいひょう 委員 いいん 会 かい の結成 けっせい に中心 ちゅうしん 的 てき な役割 やくわり を果 は たし、労働党 ろうどうとう が1906年 ねん に結党 けっとう された際 さい は直 ただ ちに合流 ごうりゅう 。派閥 はばつ の形成 けいせい や党 とう の存続 そんぞく が許 ゆる される見返 みかえ りに、結党 けっとう から数 すう 年間 ねんかん は労働党 ろうどうとう の活動 かつどう 基盤 きばん を提供 ていきょう する事 こと となる。
SDFやその分派 ぶんぱ である社会 しゃかい 主義 しゅぎ 労働党 ろうどうとう 、イギリス社会党 しゃかいとう とは対照 たいしょう 的 てき に、ILPは新参 しんざん 者 しゃ を比較的 ひかくてき 容易 ようい に惹 ひ き付 つ ける傾向 けいこう にあった。
ヴィクター・グレイソン は1906年 ねん 、特定 とくてい の政治 せいじ 問題 もんだい に触 ふ れる事 こと 無 な く、「信仰 しんこう 復興 ふっこう 運動 うんどう のように」キャンペーンを行 おこな った事 こと を誇 ほこ らしげに回想 かいそう [7] 。後 のち に議長 ぎちょう を務 つと める
フェンナー・ブロックウェイ も後年 こうねん 、1907年 ねん に開 ひら かれたILPの地方 ちほう 支部 しぶ の集会 しゅうかい の様子 ようす について、次 つぎ のように述 の べている[8] 。
日曜日 にちようび の夜 よる になると、集会 しゅうかい が労働 ろうどう 教会 きょうかい 運動 うんどう のような様相 ようそう を呈 てい していた。我々 われわれ はボランティア でちょっとしたオーケストラ を組 く み、労働 ろうどう 歌 か や演説 えんぜつ が殆 ほとん ど福音 ふくいん 主義 しゅぎ 的 てき で、不 ふ 正義 せいぎ を告発 こくはつ する気概 きがい に溢 あふ れ、新 あら たな社会 しゃかい への期待 きたい を抱 いだ かせる物 もの であった。
社会 しゃかい 主義 しゅぎ を人道 じんどう 的 てき に必要 ひつよう と位置付 いちづ ける事 こと で、ある種 しゅ の世俗 せぞく 宗教 しゅうきょう なり、日常 にちじょう 生活 せいかつ にキリスト教 きりすときょう を適用 てきよう する手段 しゅだん として用 もち いられる一方 いっぽう で、非 ひ 論理 ろんり 的 てき であるが故 ゆえ に相当 そうとう 浅薄 せんばく になるという、重大 じゅうだい な弱点 じゃくてん を抱 かか えていた。
歴史 れきし 家 か のジョン・キャラハン は社会 しゃかい 主義 しゅぎ がハーディ、グレーシャー、スノーデンやマクドナルドの手 て に掛 か かると、「不 ふ 正義 せいぎ に対 たい して漠然 ばくぜん とした抗議 こうぎ 」しかしないようになったという[9] 。
その後 ご 、ILPと労働党 ろうどうとう との関係 かんけい はゴタゴタが続 つづ く。労働党 ろうどうとう が社会 しゃかい 改良 かいりょう に及 およ び腰 ごし であったり、結党 けっとう から数 すう 年 ねん で社会 しゃかい 主義 しゅぎ 的 てき なビジョンから距離 きょり を置 お くようになったと見 み 做すILPの党員 とういん は多 おお かったのである。1912年 ねん にはILPの多 おお くの支部 しぶ がヘンリー・ハインドマン 率 ひき いるSDFとの合流 ごうりゅう を選択 せんたく し、イギリス社会党 しゃかいとう を設立 せつりつ 。
ILPと第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん [ 編集 へんしゅう ]
1914年 ねん 4月 がつ 11日 にち 、ブラッドフォードで設立 せつりつ 21周年 しゅうねん を祝 いわ う党 とう 大会 たいかい を開 ひら く。ここ10年 ねん で党勢 とうせい は急 きゅう 成長 せいちょう し、党員 とういん 数 すう は約 やく 3万 まん 人 にん となった[10] 。執行 しっこう 部 ぶ のみならず一般 いっぱん 党員 とういん も今 いま や平和 へいわ 主義 しゅぎ 者 もの となり、戦争 せんそう を「悪 あく 」とする風 ふう が強 つよ くなる[11] 。
同年 どうねん 8月 がつ の第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 勃発 ぼっぱつ は、国内 こくない の革新 かくしん 系 けい 組織 そしき に衝撃 しょうげき を与 あた えた。ある歴史 れきし 家 か が後年 こうねん 述 の べたように、「ハインドマンやカニンガム・グラハム 、ウィル・ソーン やジョン・ロバート・クラインス は和平 わへい を模索 もさく したが、一旦 いったん 戦争 せんそう が始 はじ まると、社会 しゃかい 主義 しゅぎ 者 しゃ や労働 ろうどう 組合 くみあい 員 いん も他者 たしゃ と同様 どうよう 、その成 な り行 ゆ きを見守 みまも った」という[12] 。
労働党 ろうどうとう に関 かん しては、40名 めい の議会 ぎかい 議員 ぎいん の殆 ほとん どと同様 どうよう 、党 とう 役員 やくいん の大半 たいはん が大戦 たいせん に向 む けて徴兵 ちょうへい キャンペーンを打 う つ事 こと となる。ただし、独立 どくりつ 労働党 ろうどうとう のみが超然 ちょうぜん とした態度 たいど を取 と った[13] 。
ILPは軍国 ぐんこく 主義 しゅぎ や戦争 せんそう にあくまで反対 はんたい の立場 たちば を貫 つらぬ いたものの、こうした姿勢 しせい に対 たい してジョージ・ニコル・バーンズ 、ジョン・ロバート・クラインス、ジェームズ・パーカー 、ジョージ・ワードル そしてジョージ・ヘンリー・ロバーツ [13] といった古参 こさん 議員 ぎいん の主流 しゅりゅう 派 は が離党 りとう 。
一方 いっぽう で平和 へいわ 主義 しゅぎ 者 しゃ のラムゼイ・マクドナルドは、開戦 かいせん 直後 ちょくご に労働党 ろうどうとう 議長 ぎちょう を辞職 じしょく 。ケア・ハーディ、フィリップ・スノーデン、ウィリアム・クロウフォード・アンダーソン の他 ほか 、急進 きゅうしん 的 てき 平和 へいわ 主義 しゅぎ を志向 しこう するグループも、政府 せいふ や戦争 せんそう を支持 しじ する労働党 ろうどうとう に断固 だんこ とした立場 たちば を貫 つらぬ いた[13] 。
なお、大戦 たいせん 中 ちゅう の1917年 ねん 6月 がつ にリーズ で開 ひら かれたロシア革命 かくめい 会議 かいぎ は、アイルランド やインド 、エジプト の完全 かんぜん 独立 どくりつ を要求 ようきゅう [14] 。
ILPと第 だい 三 さん インターナショナル [ 編集 へんしゅう ]
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が1918年 ねん 11月 に終結 しゅうけつ すると、第 だい 二 に インターナショナル が事実 じじつ 上 じょう 再 さい 結成 けっせい 。ILPがこの再建 さいけん された第 だい 二 に インターナショナルと手 て を組 く むか、他 た の国際 こくさい 組織 そしき と連携 れんけい するかで問題 もんだい となった。
翌年 よくねん 1月 がつ にはモスクワ から第 だい 三 さん インターナショナル結成 けっせい の呼 よ び掛 か けがなされ、ILPの急進 きゅうしん 派 は に対 たい して大 おお きく訴 うった える所 ところ となる。ただしILPの党員 とういん の大半 たいはん は、旧 きゅう 第 だい 二 に インターナショナルが第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 支持 しじ を鮮明 せんめい にした事 こと で失望 しつぼう しており、ILP自体 じたい も1920年 ねん 春 はる 、公式 こうしき に脱退 だったい した。
またILP執行 しっこう 部 ぶ 、就中 なかんづく ラムゼイ・マクドナルドやフィリップ・スノーデンも、コミンテルン加入 かにゅう に難色 なんしょく を示 しめ している。しかしILPの急進 きゅうしん 派 は はコミンテルンに加入 かにゅう すべく、ILP左派 さは と呼 よ ばれる党派 とうは を立 た ち上 あ げた。同派 どうは はグラスゴー にて、4ページ組 ぐみ の隔週 かくしゅう 刊 かん 紙 し 『インターナショナル』の発行 はっこう を開始 かいし 。
第 だい 二 に インターナショナルとの関係 かんけい を絶 た った事 こと に加 くわ え、1920年 ねん に開 ひら かれたILPの年次 ねんじ 総会 そうかい では、包括 ほうかつ 的 てき な国際 こくさい 組織 そしき の樹立 じゅりつ を視野 しや に入 い れ、スイス社会党 しゃかいとう との関係 かんけい を深 ふか める。
同年 どうねん 5月21日 にち には、ILP議長 ぎちょう のリチャード・ウォールヘッド 及 およ び国民 こくみん 評議 ひょうぎ 会 かい のメンバーであるクリフォード・アレンが、コミンテルン宛 あて に質問 しつもん 状 じょう を送付 そうふ 。コミンテルン執行 しっこう 委員 いいん 会 かい (ECCI) はプロレタリアート独裁 どくさい 及 およ びソビエト体制 たいせい のイギリスへの適用 てきよう についての立場 たちば や、普遍 ふへん 的 てき な原理 げんり としての軍事 ぐんじ 力 りょく の必要 ひつよう 性 せい に関 かん する見解 けんかい を求 もと められた[15] 。
同年 どうねん 7月 がつ のコミンテルンからの返答 へんとう は明白 めいはく であった。組織 そしき 内 ない に共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 もの がいる事 こと は認識 にんしき しているが、「フェビアン協会 きょうかい やラムゼイ・マクドナルド、フィリップ・スノーデン」のように、嘗 かつ て「議会 ぎかい 制 せい 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ という古臭 ふるくさ い概念 がいねん 」を活用 かつよう したり、労働 ろうどう 運動 うんどう で「低劣 ていれつ な譲歩 じょうほ や妥協 だきょう 」を行 おこな った者 もの とは連携 れんけい しないというのである。返答 へんとう は以下 いか の通 とお り[16] 。
これらの指導 しどう 者 しゃ は広範 こうはん な未 み 熟練 じゅくれん 労働 ろうどう 者 しゃ や、粉骨砕身 ふんこつさいしん して働 はたら く貧困 ひんこん 層 そう との連携 れんけい をせず、資本 しほん 家 か の搾取 さくしゅ 及 およ びプロレタリアート の革命 かくめい 的 てき 目標 もくひょう が明白 めいはく となっている。彼 かれ らにとっては、資本 しほん 家 か が労働 ろうどう 者 しゃ を取引 とりひき 相手 あいて と同様 どうよう に扱 あつか っているため、労働 ろうどう 者 しゃ 階級 かいきゅう も資本 しほん と同等 どうとう の権利 けんり を確保 かくほ したように思 おも えただろう。また、自身 じしん の社会 しゃかい 的 てき 立場 たちば も安泰 あんたい で、物質 ぶっしつ 的 てき にも恵 めぐ まれているため、平和 へいわ 的 てき な中流 ちゅうりゅう 階級 かいきゅう の生活 せいかつ という、薔薇色 ばらいろ の展望 てんぼう を通 つう じて世界 せかい を見 み ている。プロレタリアートの革命 かくめい 的 てき な闘争 とうそう によってブルジョアジーとの平和 へいわ 的 てき な取引 とりひき に乱 みだ れが生 しょう じているため、プロレタリアートの革命 かくめい 的 てき 目標 もくひょう の敵 てき なのである。
ECCIは「独立 どくりつ 労働 ろうどう 党内 とうない の共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ 」に直接 ちょくせつ 訴 うった える事 こと とし、「イギリスの革命 かくめい 勢力 せいりょく は独立 どくりつ 労働党 ろうどうとう から離 はな れ」、イギリス社会党 しゃかいとう や社会 しゃかい 主義 しゅぎ 労働党 ろうどうとう の共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ や、ウェールズ 及 およ びスコットランド の急進 きゅうしん 派 は と連携 れんけい するよう忠告 ちゅうこく 。「イギリスひいては全 あきら 世界 せかい の労働 ろうどう 者 しゃ 階級 かいきゅう の解放 かいほう は、単一 たんいつ の共産党 きょうさんとう を形成 けいせい するイギリスの共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ に掛 か かっている」と締 し め括 くく った[17] 。
ILP年次 ねんじ 総会 そうかい におけるコミンテルン加入 かにゅう の呼 よ び掛 か けは、1921年 ねん に頂点 ちょうてん を迎 むか えるものの、党 とう 支部 しぶ による投票 とうひょう の結果 けっか 、圧倒的 あっとうてき 多数 たすう で否決 ひけつ されている[18] 。この過程 かてい で経済 けいざい 学者 がくしゃ のエミール・バーンズ やジャーナリスト のラジャニ・パーム・ダット 、議会 ぎかい 議員 ぎいん のシャプルジ・サクラトヴァラ ら急進 きゅうしん 派 は が脱党 だっとう 、1920年 ねん 8月 がつ にイギリス共産党 きょうさんとう (CPGB)を立 た ち上 あ げる事 こと となる。
第 だい 二 に インターナショナルの社会 しゃかい 改良 かいりょう 主義 しゅぎ 政策 せいさく と、コミンテルンの革命 かくめい 的 てき 政策 せいさく との間 あいだ に位置 いち していたILPの「中道 ちゅうどう 主義 しゅぎ 」により、1921年 ねん から1923年 ねん にかけて、ヨーロッパ の多 おお くの社会 しゃかい 主義 しゅぎ 団体 だんたい が第 だい 二 に 半 はん インターナショナル へ加入 かにゅう 。なお、ILP自体 じたい は1923年 ねん から1933年 ねん までの間 あいだ 、労働 ろうどう 社会 しゃかい 主義 しゅぎ インターナショナル の加盟 かめい 政党 せいとう であった[19] 。
ILPと労働党 ろうどうとう 政権 せいけん (1922年 ねん - 1931年 ねん ) [ 編集 へんしゅう ]
1922年 ねん の総 そう 選挙 せんきょ では、後 のち に議長 ぎちょう となるジェームズ・マクストン らILP系 けい 候補 こうほ が複数 ふくすう 当選 とうせん し、党勢 とうせい 拡大 かくだい が成 な っている。労働党 ろうどうとう の勝利 しょうり にも貢献 こうけん しているが、初 はつ の労働党 ろうどうとう 政権 せいけん には大 おお いに失望 しつぼう 。政権 せいけん 構想 こうそう を整 ととの えていたものの、労働党 ろうどうとう 執行 しっこう 部 ぶ がこれを拒否 きょひ したためである。
1929年 ねん から1931年 ねん にかけての第 だい 二 に 次 じ 労働党 ろうどうとう 政権 せいけん では、37名 めい の労働党 ろうどうとう 議員 ぎいん がILPから支援 しえん を受 う け、労働党 ろうどうとう の指導 しどう 体制 たいせい に左派 さは の立場 たちば から批判 ひはん する事 こと となる。この間 あいだ 、1930年 ねん に開 ひら かれたILPの会合 かいごう では、政策 せいさく が労働党 ろうどうとう とは異 こと なる以上 いじょう 、議会 ぎかい 議員 ぎいん は党 とう を割 わ ってまでILPの政策 せいさく を支持 しじ すべきとの決定 けってい が下 くだ された。
1928年 ねん 政策 せいさく 会議 かいぎ [ 編集 へんしゅう ]
ILPは1928年 ねん 、「我々 われわれ の時代 じだい における社会 しゃかい 主義 しゅぎ 」なる綱領 こうりょう を作成 さくせい し、以下 いか の計画 けいかく の中 なか に具体 ぐたい 化 か している。
生活 せいかつ 賃金 ちんぎん を一部 いちぶ 実施 じっし
失業 しつぎょう 手当 てあて の大幅 おおはば な引 ひ き上 あ げ
銀行 ぎんこう の国有 こくゆう 化 か を一部 いちぶ 実施 じっし
原料 げんりょう の大量 たいりょう 購入 こうにゅう
食料 しょくりょう 品 ひん の大量 たいりょう 購入 こうにゅう
電力 でんりょく の国有 こくゆう 化 か
輸送 ゆそう 機関 きかん の国有 こくゆう 化 か
土地 とち の国有 こくゆう 化 か
これら8項目 こうもく のうち、生活 せいかつ 賃金 ちんぎん や失業 しつぎょう 手当 てあて 、銀行 ぎんこう の国有 こくゆう 化 か や原料 げんりょう 、食料 しょくりょう 品 ひん の大量 たいりょう 購入 こうにゅう はILPの主 しゅ たる関心事 かんしんじ であった[20] 。
失業 しつぎょう 手当 てあて の増額 ぞうがく や大量 たいりょう 購入 こうにゅう への切 き り替 か えは合意 ごうい により実施 じっし される事 こと となるが、生活 せいかつ 賃金 ちんぎん の支払 しはら い方法 ほうほう については、労働党 ろうどうとう の政策 せいさく と食 く い違 ちが いを見 み せる。ILPは1924年 ねん から実施 じっし されている、雇用 こよう 者 しゃ の貯蓄 ちょちく の中 なか から支払 しはら う方法 ほうほう を「大陸 たいりく 的 てき 」と批判 ひはん [21] 。高額 こうがく 所得 しょとく 者 しゃ への課税 かぜい 強化 きょうか を通 つう じて、手当 てあて の費用 ひよう に充 あ てるべきとした。
銀行 ぎんこう の国有 こくゆう 化 か は経済 けいざい 政策 せいさく に抜本 ばっぽん 的 てき な改革 かいかく を迫 せま る物 もの であり、労働党 ろうどうとう の方針 ほうしん とは一切 いっさい 無縁 むえん であった。また、労働党 ろうどうとう 政権 せいけん が行 おこな う銀行 ぎんこう や金融 きんゆう 機関 きかん への立入 たちいり 調査 ちょうさ も支持 しじ 。この立入 たちいり 調査 ちょうさ の目的 もくてき は、イングランド銀行 いんぐらんどぎんこう に端 はし を発 はっ し主要 しゅよう 銀行 ぎんこう へと拡大 かくだい した、大蔵省 おおくらしょう やイングランド銀行 いんぐらんどぎんこう によるデフレ 政策 せいさく の終結 しゅうけつ である[22] 。
立入 たちいり 調査 ちょうさ はイングランド銀行 いんぐらんどぎんこう の国有 こくゆう 化 か と銀行 ぎんこう 法 ほう 改正 かいせい に向 む けた、詳細 しょうさい な計画 けいかく を準備 じゅんび する事 こと となる。また、債権 さいけん 者 しゃ を調査 ちょうさ し金 きむ の保有 ほゆう を処分 しょぶん する事 こと で、「信用 しんよう の管理 かんり を大手 おおて 金融 きんゆう グループではなく国家 こっか が行 おこな う」のを保証 ほしょう する物 もの であった[22] 。
1931年 ねん ILPスコットランド党 とう 大会 たいかい [ 編集 へんしゅう ]
労働党 ろうどうとう との対立 たいりつ が明白 めいはく となる中 なか 、1931年 ねん のILPスコットランド党 とう 大会 たいかい で、同 どう 党 とう との連携 れんけい を未 いま だ続 つづ けるべきかが議論 ぎろん となり、結局 けっきょく は連携 れんけい の存続 そんぞく が決定 けってい 。
連携 れんけい 解消 かいしょう から第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん まで[ 編集 へんしゅう ]
1931年 ねん の総 そう 選挙 せんきょ ではILP系 けい 候補 こうほ が議会 ぎかい 労働党 ろうどうとう の指示 しじ を受 う け入 い れず、同 どう 党 とう への支援 しえん を公式 こうしき に取 と り止 や める事 こと となる。ILPの党員 とういん 5名 めい が労働党 ろうどうとう 外 がい でILPのグループを結成 けっせい 。1932年 ねん には特別 とくべつ 会議 かいぎ を開 ひら き、投票 とうひょう の結果 けっか 、労働党 ろうどうとう との連携 れんけい 解消 かいしょう を打 う ち出 だ す。
同年 どうねん 、左翼 さよく 社会 しゃかい 主義 しゅぎ 政党 せいとう の「ロンドン支部 しぶ 」を共同 きょうどう で設立 せつりつ 。後 のち に国際 こくさい 革命 かくめい 的 てき マルクス主義 まるくすしゅぎ センター (第 だい 三 さん 半 はん インターナショナル )と呼 よ ばれるこの組織 そしき は、ILPが運営 うんえい し同 どう 党 とう のフェンナー・ブロックウェイが議長 ぎちょう を務 つと める事 こと となる。
労働党 ろうどうとう 左派 さは に属 ぞく するエナイリン・ベヴァン はILPの連携 れんけい 解消 かいしょう を「高潔 こうけつ ではあるが無意味 むいみ 」な決定 けってい と評 ひょう するが、暫 しばら くして労働 ろうどう 党外 とうがい でのILPの政治 せいじ 的 てき 影響 えいきょう 力 りょく が衰微 すいび すると、その批判 ひはん が的中 てきちゅう 。なお、労働党 ろうどうとう 内 ない に留 と まる事 こと を選択 せんたく したILPの党員 とういん もおり、社会 しゃかい 主義 しゅぎ 同盟 どうめい 創設 そうせつ の際 さい 、重要 じゅうよう な役割 やくわり を果 は たした。
連携 れんけい 解消 かいしょう はILPの党勢 とうせい に壊滅 かいめつ 的 てき な影響 えいきょう を与 あた える事 こと となる。1932年 ねん に16773名 めい を数 かぞ えた党員 とういん は、1935年 ねん に4392名 めい となり、ほんの3年間 ねんかん で党員 とういん の75%が離党 りとう するに至 いた っている[23] 。1934年 ねん には独立 どくりつ 社会党 しゃかいとう 結党 けっとう のため、離党 りとう が相次 あいつ ぐ。
残 のこ った党員 とういん は若 わか く急進 きゅうしん 的 てき となる傾向 けいこう にあった。就中 なかんづく スペイン内戦 ないせん では25名 めい の党員 とういん とジョージ・オーウェル らそのシンパが、共和 きょうわ 国 こく 側 がわ を支持 しじ して参戦 さんせん 。
1939年 ねん には労働党 ろうどうとう の政策 せいさく に「良心 りょうしん 的 てき に反対 はんたい 」しているにもかかわらず、同 どう 党 とう へ再 さい 合流 ごうりゅう を求 もと める私信 ししん を出 だ す。労働党 ろうどうとう はこれを一蹴 いっしゅう し、再 さい 合流 ごうりゅう の条件 じょうけん はILPによって撤回 てっかい され得 え るとした[24] 。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 以降 いこう [ 編集 へんしゅう ]
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 時 じ と同様 どうよう 、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん に倫理 りんり 的 てき 観点 かんてん から反対 はんたい 。戦時 せんじ 中 ちゅう にあっても、選挙 せんきょ で積極 せっきょく 的 てき に候補 こうほ を擁立 ようりつ している。
終戦 しゅうせん 時 じ においては幾許 いくばく かの力 ちから を有 ゆう していたが、その直後 ちょくご 危機 きき が訪 おとず れた。1945年 ねん の総 そう 選挙 せんきょ においてグラスゴーで3議席 ぎせき を保持 ほじ したものの、うち1人 にん が労働党 ろうどうとう に寝返 ねがえ ったのである(党 とう 会議 かいぎ は労働党 ろうどうとう への再 さい 合流 ごうりゅう を拒否 きょひ )。
1946年 ねん には党内 とうない きってのスポークスマン であるジェームズ・マクストン が死去 しきょ 。その後 ご の補欠 ほけつ 選挙 せんきょ で労働党 ろうどうとう 候補 こうほ に辛勝 しんしょう するが、翌年 よくねん 全 ぜん 議会 ぎかい 議員 ぎいん が労働党 ろうどうとう に鞍替 くらが え、補欠 ほけつ 選挙 せんきょ でも惨敗 ざんぱい を喫 きっ する。なお、これ以後 いご 総 そう 選挙 せんきょ で当選 とうせん 者 しゃ を出 だ していない。
こうした不運 ふうん にもめげずILPは生 い き永 なが らえ、1950年代 ねんだい から1960年代 ねんだい 初頭 しょとう にかけて反核 はんかく 運動 うんどう を主導 しゅどう 。脱 だつ 植民 しょくみん 地 ち 化 か キャンペーンのみならず、関連 かんれん 組織 そしき との関係 かんけい は細々 こまごま としながらも続 つづ いた。
1970年代 ねんだい に労働党 ろうどうとう に関 かん する見解 けんかい を発表 はっぴょう 、1975年 ねん には独立 どくりつ 労働 ろうどう パブリケーションと名 な を改 あらた め、労働党 ろうどうとう 主流 しゅりゅう 派 は 内 ない の圧力 あつりょく 団体 だんたい となる。
1894年 ねん - 1900年 ねん :ケア・ハーディ
1900年 ねん - 1903年 ねん :ブルース・グレーシャー
1903年 ねん - 1906年 ねん :フィリップ・スノーデン
1906年 ねん - 1909年 ねん :ラムゼイ・マクドナルド
1909年 ねん - 1910年 ねん :フレデリック・ウィリアム・ ジョウェット
1910年 ねん - 1913年 ねん :ウィリアム・クロウフォード・アンダーソン
1913年 ねん - 1914年 ねん :ケア・ハーディ
1914年 ねん - 1917年 ねん :フレデリック・ウィリアム・ ジョウェット
1917年 ねん - 1920年 ねん :フィリップ・スノーデン
1920年 ねん - 1923年 ねん :リチャード・ウォールヘッド
1923年 ねん - 1926年 ねん :クリフォード・アレン
1926年 ねん - 1931年 ねん :ジェームズ・マクストン
1931年 ねん - 1934年 ねん :フェンナー・ブロックウェイ
1934年 ねん - 1939年 ねん :ジェームズ・マクストン
1939年 ねん - 1941年 ねん :C・A・スミス
1941年 ねん - 1943年 ねん :ジョン・マクガバン
1943年 ねん - 1948年 ねん :ロバート・エドワーズ
1948年 ねん - 1951年 ねん :デイヴィッド・ギブソン
1951年 ねん - 1953年 ねん :フレッド・バートン
1953年 ねん - 1958年 ねん :アニー・マクストン
1958年 ねん -1961年 ねん :フレッド・モレル
1962年 ねん - 1974年 ねん :エムリス・トマス
1974年 ねん - 1975年 ねん :スタン・アイブソン
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