独立どくりつ労働党ろうどうとう

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独立どくりつ労働党ろうどうとう指導しどうしゃ・ ケア・ハーディ(1893ねん

独立どくりつ労働党ろうどうとう(どくりつろうどうとう、Independent Labour Party略称りゃくしょう:ILP)は、かつてイギリス存在そんざいした社会しゃかい主義しゅぎ政党せいとう1893ねん設立せつりつ1906ねんから1932ねんまで労働党ろうどうとう合流ごうりゅうしており、1947ねんに3めい議会ぎかい議員ぎいんどうとう移籍いせき1975ねんには独立どくりつ労働ろうどうパブリケーションとしてどうとうさい加入かにゅうたしている。

とう[編集へんしゅう]

設立せつりつ[編集へんしゅう]

19世紀せいき後半こうはん以降いこう労働ろうどうしゃ階級かいきゅう代表だいひょうしゃ政治せいじおくすのが、おおくのイギリスじんにとって最大さいだい関心事かんしんじとなった。この目的もくてきたすためのしゅたる手段しゅだんとして、イギリス議会ぎかいでは自由党じゆうとうにその役割やくわり見出みいだしたものおおい。たとえば1869ねんにははやくも、独立どくりつ代表だいひょう同盟どうめい自由党じゆうとう候補こうほ支援しえんのため労働ろうどうしゃ動員どういん

また、おおくの労働ろうどう組合くみあいみずからの目標もくひょう達成たっせいすべく、議会ぎかい代表だいひょうるのに関心かんしんっていた。1870年代ねんだい以降いこう労働ろうどう組合くみあいから資金しきんめんでの援助えんじょけている労働ろうどうしゃ階級かいきゅう候補こうほが、自由党じゆうとう支援しえんけるようになる。

おおくの革新かくしんけい知識ちしきじん就中なかんづくキリスト教きりすときょう社会しゃかい主義しゅぎや、社会しゃかいさい構築こうちくという倫理りんりてき義務ぎむびた同様どうよう概念がいねん影響えいきょうけたものも、自由党じゆうとう労働ろうどうしゃ階級かいきゅう代表だいひょうるための最良さいりょう手段しゅだん做した。漸進ぜんしん主義しゅぎ組織そしきフェビアン協会きょうかい1884ねん設立せつりつからしばらくのあいだ自由党じゆうとう政策せいさく公式こうしき関与かんよ

その所謂いわゆる「リブ・ラブ協定きょうてい」の候補こうほで、労働ろうどう組合くみあいおよ自由じゆう党内とうない急進きゅうしん知識ちしきじんとの共闘きょうとうにより、議員ぎいん当選とうせんたしたものおお[1]

しかし、議会ぎかい労働ろうどうしゃ階級かいきゅう代表だいひょうおくすため、中産ちゅうさん階級かいきゅうぞくする自由党じゆうとう共闘きょうとうするというかんがえが、ひろれられたわけではかった。

労働ろうどうしゃ階級かいきゅう資本しほん階級かいきゅうとのあいだ階級かいきゅう闘争とうそうがあるとしんずるマルクス主義まるくすしゅぎものは、議会ぎかいからられるほんのわずかな慈善じぜんえに、しょうブルジョア自由党じゆうとうむのを拒否きょひ

イギリスの古典こてんてきマルクス主義まるくすしゅぎしゃ1881ねん社会しゃかい民主みんしゅ同盟どうめい(SDF)を結成けっせいするにいたる。つづ1886ねんには、国内こくない労働ろうどう組合くみあい連合体れんごうたいである労働ろうどう組合くみあい会議かいぎ(TUC)が、選挙せんきょ母体ぼたいとして結成けっせいされた。

階級かいきゅう闘争とうそうくみしない革新かくしんけい知識ちしきじんも、自由党じゆうとうイデオロギー組織そしき形態けいたいほか労働ろうどうしゃ階級かいきゅうつぎにするような施策しさく不満ふまんいだく。こうしたかんがえや行動こうどうなかから、ケア・ハーディ筆頭ひっとうとするしん世代せだい活動かつどうまれることとなる。

ハーディはウィリアム・グラッドストンひきいる自由じゆう党員とういんで、ランカシャー炭鉱たんこうにて労働ろうどう組合くみあいオルグたずさわっていたが、独立どくりつした労働ろうどうしゃ政党せいとうほっするスコットランドじんであった。

1888ねんヘンリー・ハイド・チャンピオントム・マン社会しゃかい民主みんしゅ同盟どうめい党員とういん協力きょうりょくしながら、スコットランド労働党ろうどうとう設立せつりつ尽力じんりょく

1890ねんには、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく外国がいこくさんぬのたい関税かんぜいけたことにより、国内こくない織物おりものぎょう全般ぜんぱん賃金ちんぎんカットに見舞みまわれる。これをけ、ブラッドフォードマニンガム製作所せいさくしょストライキ発生はっせいするが、副産物ふくさんぶつとして如何いかなる主要しゅよう政党せいとうからも独立どくりつした組織そしきブラッドフォード労働ろうどう組合くみあい誕生たんじょう労働ろうどうしゃ階級かいきゅう自由党じゆうとうから離反りはんするうごきが、ちからちつつあることしめされた出来事できごとであった。

新党しんとう結成けっせいへの議論ぎろんロバート・ブラッチフォード新聞しんぶんクラリオン1891ねん創刊そうかん)や、ジョセフ・バージェス編集へんしゅうするワークマンズ・タイムズでもられるようになった。後者こうしゃは、既存きそん政治せいじ団体だんたいから独立どくりつした労働ろうどうしゃ政党せいとう設立せつりつ支持しじする署名しょめいを、3500ぴつ程度ていどあつめたことでもられる。

1892ねん7がつおこなわれたイギリスそう選挙せんきょでは、3めい労働ろうどうしゃ(ケア・ハーディ、ジョン・バーンズジョセフ・ハヴロック・ウィルソン)が自由党じゆうとうから支援しえんけずに当選とうせん

同年どうねん9がつにはTUCの席上せきじょう独立どくりつした労働ろうどう組織そしき支持しじしゃによる会合かいごうもとめる声明せいめいす。準備じゅんび委員いいんかい設置せっちて、翌年よくねん1がつにブラッドフォードでとう大会たいかいひらかれた。ウィリアム・ヘンリー・ドリュー議長ぎちょうつとめたこのとう大会たいかいにて、独立どくりつ労働党ろうどうとう結党けっとうしめされ、ケア・ハーディが初代しょだい議長ぎちょう就任しゅうにん[2]

党名とうめいこそ「社会党しゃかいとう」ではなく「労働党ろうどうとう」としたものの、党是とうぜを「生産せいさん流通りゅうつう取引とりひき手段しゅだん集団しゅうだんてき公的こうてき所有しょゆう目指めざす」ことが、圧倒的あっとうてきれられた。また綱領こうりょうでは、以下いかかかげる進歩しんぽ主義しゅぎてき社会しゃかい改革かいかく実行じっこううつすとしている[3]

とう大会たいかいでは新党しんとう母体ぼたい設立せつりつかく地方ちほう組織そしき代議員だいぎいんから月例げつれい総会そうかいが「とう最高さいこうかつ執行しっこう機関きかん」とされ、書記しょき全国ぜんこく管理かんり委員いいんかい(NAC)が直接ちょくせつ統制とうせいこととした。このNACは支部しぶ会議かいぎされた指示しじしたがって、理論りろんじょう行動こうどう制限せいげんされた地方ちほう代議員だいぎいんから構成こうせい[4]

結党けっとう当初とうしょ[編集へんしゅう]

新党しんとうおおいなる希望きぼう期待きたい背負せおって結成けっせいされたものの、最初さいしょすう年間ねんかん困難こんなんあふれていた。とう指導しどう組織そしき方向ほうこうせいめぐって論争ろんそうえなかったため、期待きたいされたほど選挙せんきょ躍進やくしんしなかったのである。

国民こくみんしんうてのぞんだ1895ねんそう選挙せんきょでは惨敗ざんぱい。NACがとう論争ろんそうまとげるうえ主導しゅどうけんにぎり、ILP公認こうにん候補こうほが28めいしかいないなかでの選挙せんきょであった。

個人こじんてき人気にんきがある党首とうしゅのケア・ハーディでさえ、保守党ほしゅとう直接ちょくせつ対決たいけつすればけるであろうとされ、全員ぜんいん落選らくせん。なお、この選挙せんきょでは「リブ・ラブ」に転向てんこうし、自由党じゆうとう急進きゅうしん支援しえんけたバーンズが議席ぎせき維持いじ[5]いずれにせよ、1895ねん選挙せんきょにおける大敗たいはいは、とめど楽観らっかんろん党内とうないおおことになる。

このように、ILPは当初とうしょよりけっして一枚岩いちまいいわ組織そしきではなく、むし労働ろうどうしゃ階級かいきゅうの「包括ほうかつ政党せいとう」を目指めざしており、明確めいかくかつ無定形むていけい社会しゃかい主義しゅぎてきアジェンダ主張しゅちょう歴史れきしのロバート・E・ドーズはつぎのようにべている[6]

ILPは当初とうしょより労働ろうどうしゃ階級かいきゅう政党せいとうとして、労働ろうどう組合くみあい影響えいきょうあたえようとしていた。ヘンリー・ペイリンべたように、「議会ぎかい権力けんりょくにぎるため、労働ろうどう組合くみあいから資金しきんて、労働ろうどう組合くみあいとの連携れんけい」 を模索もさくしていたのである。ILPの社会しゃかい主義しゅぎは、この目標もくひょうたっするうえでの理想りそうであった。如何いか理論りろんてき基礎きそいていようが、労働ろうどう組合くみあいいん要求ようきゅう事実じじつじょうこたえること出来できた。具体ぐたいてきには禁酒きんしゅ運動うんどうスコットランド民族みんぞく主義しゅぎメソジストマルクス主義まるくすしゅぎ、フェビアン主義しゅぎそしてバークりゅう保守ほしゅ主義しゅぎさえ、問題もんだい包含ほうがんしていたのである。こうした多様たようせい奇妙きみょうではあるが、教条きょうじょう主義しゅぎもとづき如何いかなるものをも排除はいじょしないというはかれない利点りてんがあり、当時とうじ事情じじょうかんがえても軽視けいしすること出来できない。

勿論もちろんゆるやかかつ多様たようかんがえをようするとうであるが組織そしき本性ほんしょうなり計画けいかくめぐっては論争ろんそうえなかった。とう組織そしき決定けってい当初とうしょ厳格げんかく民主みんしゅ主義しゅぎもとづいており、とう大会たいかいが1895ねんそう選挙せんきょさいしての政策せいさくめるためにひらかれたように、こうした議論ぎろんいくきょかのつよ影響えいきょうあたえている。

にもかかわらず、NACは選挙せんきょまつわる決定けっていとうとの関係かんけいといった、重大じゅうだい問題もんだいおおきく関与かんよするなど、とう活動かつどう相当そうとう権力けんりょく保持ほじするようになった。1895ねんそう選挙せんきょにおける敗北はいぼく契機けいきに、中央ちゅうおう集権しゅうけんはん民主みんしゅてき行為こうい加速かそくさせることとなる。

19世紀せいきまつのNACにおいて、党首とうしゅケア・ハーディにくわえ、とう指導しどうにおいてこう20年間ねんかん方向ほうこうせい共有きょうゆうする4めい人物じんぶつ登場とうじょう1897ねんNACに選出せんしゅつされ、1900ねんにハーディの後継こうけいとして議長ぎちょういたスコットランドじんブルース・グレーシャー福音ふくいん社会しゃかい主義しゅぎしゃフィリップ・スノーデン労働ろうどう組合くみあいいんとしての出馬しゅつば拒絶きょぜつされたことから、自由党じゆうとうへの幻滅げんめつあじわったラムゼイ・マクドナルドである。

4にんあいだにはかなりの個人こじんてき確執かくしつがあったものの、とうマルクス主義まるくすしゅぎ標榜ひょうぼうする社会しゃかい民主みんしゅ同盟どうめいのようなイデオロギーにもとづく統一とういつたいというよりはむしろ、労働ろうどう組合くみあいとの連携れんけい模索もさくすべきとする基本きほんてき見解けんかい共有きょうゆうしていた。

1895ねんそう選挙せんきょにおける敗北はいぼく以後いごとう執行しっこう選挙せんきょせんつうじての党勢とうせい拡大かくだい断念だんねん1898ねんまでには、出来できるだけおおくの候補こうほ擁立ようりつしてとう露出ろしゅつ最大限さいだいげんまではかり、得票とくひょうりつ最大限さいだいげんにまでかさねるよりはむしろ、候補こうほ擁立ようりつ公式こうしきひかえるにいたる。

労働ろうどう組合くみあいとの関係かんけいもまた問題もんだいおおかった。1890年代ねんだいにおいては労働ろうどう組合くみあいとの連携れんけい上手うまくいかず、労働ろうどう組合くみあいいん入党にゅうとうったものの、とう役員やくいんとの関係かんけい希薄きはくとなってゆく。

1900ねんには労働ろうどう代表だいひょう委員いいんかい結成けっせい中心ちゅうしんてき役割やくわりたし、労働党ろうどうとうが1906ねん結党けっとうされたさいただちに合流ごうりゅう派閥はばつ形成けいせいとう存続そんぞくゆるされる見返みかえりに、結党けっとうからすう年間ねんかん労働党ろうどうとう活動かつどう基盤きばん提供ていきょうすることとなる。

とう成熟せいじゅく[編集へんしゅう]

SDFやその分派ぶんぱである社会しゃかい主義しゅぎ労働党ろうどうとうイギリス社会党しゃかいとうとは対照たいしょうてきに、ILPは新参しんざんしゃ比較的ひかくてき容易よういける傾向けいこうにあった。

ヴィクター・グレイソンは1906ねん特定とくてい政治せいじ問題もんだいれることく、「信仰しんこう復興ふっこう運動うんどうのように」キャンペーンをおこなったことほこらしげに回想かいそう[7]のち議長ぎちょうつとめる フェンナー・ブロックウェイ後年こうねん1907ねんひらかれたILPの地方ちほう支部しぶ集会しゅうかい様子ようすについて、つぎのようにべている[8]

日曜日にちようびよるになると、集会しゅうかい労働ろうどう教会きょうかい運動うんどうのような様相ようそうていしていた。我々われわれボランティアでちょっとしたオーケストラみ、労働ろうどう演説えんぜつほとん福音ふくいん主義しゅぎてきで、正義せいぎ告発こくはつする気概きがいあふれ、あらたな社会しゃかいへの期待きたいいだかせるものであった。

社会しゃかい主義しゅぎ人道じんどうてき必要ひつよう位置付いちづけることで、あるしゅ世俗せぞく宗教しゅうきょうなり、日常にちじょう生活せいかつキリスト教きりすときょう適用てきようする手段しゅだんとしてもちいられる一方いっぽうで、論理ろんりてきであるがゆえ相当そうとう浅薄せんばくになるという、重大じゅうだい弱点じゃくてんかかえていた。

歴史れきしジョン・キャラハン社会しゃかい主義しゅぎがハーディ、グレーシャー、スノーデンやマクドナルドのかると、「正義せいぎたいして漠然ばくぜんとした抗議こうぎ」しかしないようになったという[9]

その、ILPと労働党ろうどうとうとの関係かんけいはゴタゴタがつづく。労働党ろうどうとう社会しゃかい改良かいりょうおよごしであったり、結党けっとうからすうねん社会しゃかい主義しゅぎてきなビジョンから距離きょりくようになったと做すILPの党員とういんおおかったのである。1912ねん にはILPのおおくの支部しぶヘンリー・ハインドマンひきいるSDFとの合流ごうりゅう選択せんたくし、イギリス社会党しゃかいとう設立せつりつ

ILPとだいいち世界せかい大戦たいせん[編集へんしゅう]

1914ねん4がつ11にち、ブラッドフォードで設立せつりつ21周年しゅうねんいわとう大会たいかいひらく。ここ10ねん党勢とうせいきゅう成長せいちょうし、党員とういんすうやく3まんにんとなった[10]執行しっこうのみならず一般いっぱん党員とういんいま平和へいわ主義しゅぎものとなり、戦争せんそうを「あく」とするふうつよくなる[11]

同年どうねん8がつだいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつは、国内こくない革新かくしんけい組織そしき衝撃しょうげきあたえた。ある歴史れきし後年こうねんべたように、「ハインドマンやカニンガム・グラハムウィル・ソーンジョン・ロバート・クラインス和平わへい模索もさくしたが、一旦いったん戦争せんそうはじまると、社会しゃかい主義しゅぎしゃ労働ろうどう組合くみあいいん他者たしゃ同様どうよう、そのきを見守みまもった」という[12]

労働党ろうどうとうかんしては、40めい議会ぎかい議員ぎいんほとんどと同様どうようとう役員やくいん大半たいはん大戦たいせんけて徴兵ちょうへいキャンペーンをこととなる。ただし、独立どくりつ労働党ろうどうとうのみが超然ちょうぜんとした態度たいどった[13]

ILPは軍国ぐんこく主義しゅぎ戦争せんそうにあくまで反対はんたい立場たちばつらぬいたものの、こうした姿勢しせいたいしてジョージ・ニコル・バーンズ、ジョン・ロバート・クラインス、ジェームズ・パーカージョージ・ワードルそしてジョージ・ヘンリー・ロバーツ[13]といった古参こさん議員ぎいん主流しゅりゅう離党りとう

一方いっぽう平和へいわ主義しゅぎしゃのラムゼイ・マクドナルドは、開戦かいせん直後ちょくご労働党ろうどうとう議長ぎちょう辞職じしょく。ケア・ハーディ、フィリップ・スノーデン、ウィリアム・クロウフォード・アンダーソンほか急進きゅうしんてき平和へいわ主義しゅぎ志向しこうするグループも、政府せいふ戦争せんそう支持しじする労働党ろうどうとう断固だんことした立場たちばつらぬいた[13]

なお、大戦たいせんちゅう1917ねん6がつリーズひらかれたロシア革命かくめい会議かいぎは、アイルランドインドエジプト完全かんぜん独立どくりつ要求ようきゅう[14]

ILPとだいさんインターナショナル[編集へんしゅう]

だいいち世界せかい大戦たいせん1918ねん11月終結しゅうけつすると、だいインターナショナル事実じじつじょうさい結成けっせい。ILPがこの再建さいけんされただいインターナショナルとむか、国際こくさい組織そしき連携れんけいするかで問題もんだいとなった。

翌年よくねん1がつにはモスクワからだいさんインターナショナル結成けっせいけがなされ、ILPの急進きゅうしんたいしておおきくうったえるところとなる。ただしILPの党員とういん大半たいはんは、きゅうだいインターナショナルがだいいち世界せかい大戦たいせん支持しじ鮮明せんめいにしたこと失望しつぼうしており、ILP自体じたい1920ねんはる公式こうしき脱退だったいした。

またILP執行しっこう就中なかんづくラムゼイ・マクドナルドやフィリップ・スノーデンも、コミンテルン加入かにゅう難色なんしょくしめしている。しかしILPの急進きゅうしんはコミンテルンに加入かにゅうすべく、ILP左派さはばれる党派とうはげた。同派どうはグラスゴーにて、4ページぐみ隔週かくしゅうかん『インターナショナル』の発行はっこう開始かいし

だいインターナショナルとの関係かんけいったことくわえ、1920ねんひらかれたILPの年次ねんじ総会そうかいでは、包括ほうかつてき国際こくさい組織そしき樹立じゅりつ視野しやれ、スイス社会党しゃかいとうとの関係かんけいふかめる。

同年どうねん5月21にちには、ILP議長ぎちょうリチャード・ウォールヘッドおよ国民こくみん評議ひょうぎかいのメンバーであるクリフォード・アレンが、コミンテルンあて質問しつもんじょう送付そうふコミンテルン執行しっこう委員いいんかい(ECCI) はプロレタリアート独裁どくさいおよソビエト体制たいせいのイギリスへの適用てきようについての立場たちばや、普遍ふへんてき原理げんりとしての軍事ぐんじりょく必要ひつようせいかんする見解けんかいもとめられた[15]

同年どうねん7がつのコミンテルンからの返答へんとう明白めいはくであった。組織そしきない共産きょうさん主義しゅぎものがいること認識にんしきしているが、「フェビアン協会きょうかいやラムゼイ・マクドナルド、フィリップ・スノーデン」のように、かつて「議会ぎかいせい民主みんしゅ主義しゅぎという古臭ふるくさ概念がいねん」を活用かつようしたり、労働ろうどう運動うんどうで「低劣ていれつ譲歩じょうほ妥協だきょう」をおこなったものとは連携れんけいしないというのである。返答へんとう以下いかとお[16]

これらの指導しどうしゃ広範こうはん熟練じゅくれん労働ろうどうしゃや、粉骨砕身ふんこつさいしんしてはたら貧困ひんこんそうとの連携れんけいをせず、資本しほん搾取さくしゅおよプロレタリアート革命かくめいてき目標もくひょう明白めいはくとなっている。かれらにとっては、資本しほん労働ろうどうしゃ取引とりひき相手あいて同様どうようあつかっているため、労働ろうどうしゃ階級かいきゅう資本しほん同等どうとう権利けんり確保かくほしたようにおもえただろう。また、自身じしん社会しゃかいてき立場たちば安泰あんたいで、物質ぶっしつてきにもめぐまれているため、平和へいわてき中流ちゅうりゅう階級かいきゅう生活せいかつという、薔薇色ばらいろ展望てんぼうつうじて世界せかいている。プロレタリアートの革命かくめいてき闘争とうそうによってブルジョアジーとの平和へいわてき取引とりひきみだれがしょうじているため、プロレタリアートの革命かくめいてき目標もくひょうてきなのである。

ECCIは「独立どくりつ労働ろうどう党内とうない共産きょうさん主義しゅぎしゃ」に直接ちょくせつうったえることとし、「イギリスの革命かくめい勢力せいりょく独立どくりつ労働党ろうどうとうからはなれ」、イギリス社会党しゃかいとう社会しゃかい主義しゅぎ労働党ろうどうとう共産きょうさん主義しゅぎしゃや、ウェールズおよスコットランド急進きゅうしん連携れんけいするよう忠告ちゅうこく。「イギリスひいてはあきら世界せかい労働ろうどうしゃ階級かいきゅう解放かいほうは、単一たんいつ共産党きょうさんとう形成けいせいするイギリスの共産きょうさん主義しゅぎしゃかっている」とくくった[17]

ILP年次ねんじ総会そうかいにおけるコミンテルン加入かにゅうけは、1921ねん頂点ちょうてんむかえるものの、とう支部しぶによる投票とうひょう結果けっか圧倒的あっとうてき多数たすう否決ひけつされている[18]。この過程かてい経済けいざい学者がくしゃエミール・バーンズジャーナリストラジャニ・パーム・ダット議会ぎかい議員ぎいんシャプルジ・サクラトヴァラ急進きゅうしん脱党だっとう、1920ねん8がつイギリス共産党きょうさんとう(CPGB)をげることとなる。

だいインターナショナルの社会しゃかい改良かいりょう主義しゅぎ政策せいさくと、コミンテルンの革命かくめいてき政策せいさくとのあいだ位置いちしていたILPの「中道ちゅうどう主義しゅぎ」により、1921ねんから1923ねんにかけて、ヨーロッパおおくの社会しゃかい主義しゅぎ団体だんたいだいはんインターナショナル加入かにゅう。なお、ILP自体じたいは1923ねんから1933ねんまでのあいだ労働ろうどう社会しゃかい主義しゅぎインターナショナル加盟かめい政党せいとうであった[19]

ILPと労働党ろうどうとう政権せいけん(1922ねん - 1931ねん[編集へんしゅう]

1922ねんそう選挙せんきょでは、のち議長ぎちょうとなるジェームズ・マクストンらILPけい候補こうほ複数ふくすう当選とうせんし、党勢とうせい拡大かくだいっている。労働党ろうどうとう勝利しょうりにも貢献こうけんしているが、はつ労働党ろうどうとう政権せいけんにはおおいに失望しつぼう政権せいけん構想こうそうととのえていたものの、労働党ろうどうとう執行しっこうがこれを拒否きょひしたためである。

1929ねんから1931ねんにかけてのだい労働党ろうどうとう政権せいけんでは、37めい労働党ろうどうとう議員ぎいんがILPから支援しえんけ、労働党ろうどうとう指導しどう体制たいせい左派さは立場たちばから批判ひはんすることとなる。このあいだ1930ねんひらかれたILPの会合かいごうでは、政策せいさく労働党ろうどうとうとはことなる以上いじょう議会ぎかい議員ぎいんとうってまでILPの政策せいさく支持しじすべきとの決定けっていくだされた。

1928ねん政策せいさく会議かいぎ[編集へんしゅう]

ILPは1928ねん、「我々われわれ時代じだいにおける社会しゃかい主義しゅぎ」なる綱領こうりょう作成さくせいし、以下いか計画けいかくなか具体ぐたいしている。

  1. 生活せいかつ賃金ちんぎん一部いちぶ実施じっし
  2. 失業しつぎょう手当てあて大幅おおはば
  3. 銀行ぎんこう国有こくゆう一部いちぶ実施じっし
  4. 原料げんりょう大量たいりょう購入こうにゅう
  5. 食料しょくりょうひん大量たいりょう購入こうにゅう
  6. 電力でんりょく国有こくゆう
  7. 輸送ゆそう機関きかん国有こくゆう
  8. 土地とち国有こくゆう

これら8項目こうもくのうち、生活せいかつ賃金ちんぎん失業しつぎょう手当てあて銀行ぎんこう国有こくゆう原料げんりょう食料しょくりょうひん大量たいりょう購入こうにゅうはILPのしゅたる関心事かんしんじであった[20]

失業しつぎょう手当てあて増額ぞうがく大量たいりょう購入こうにゅうへのえは合意ごういにより実施じっしされることとなるが、生活せいかつ賃金ちんぎん支払しはら方法ほうほうについては、労働党ろうどうとう政策せいさくちがいをせる。ILPは1924ねんから実施じっしされている、雇用こようしゃ貯蓄ちょちくなかから支払しはら方法ほうほうを「大陸たいりくてき」と批判ひはん[21]高額こうがく所得しょとくしゃへの課税かぜい強化きょうかつうじて、手当てあて費用ひようてるべきとした。

銀行ぎんこう国有こくゆう経済けいざい政策せいさく抜本ばっぽんてき改革かいかくせまものであり、労働党ろうどうとう方針ほうしんとは一切いっさい無縁むえんであった。また、労働党ろうどうとう政権せいけんおこな銀行ぎんこう金融きんゆう機関きかんへの立入たちいり調査ちょうさ支持しじ。この立入たちいり調査ちょうさ目的もくてきは、イングランド銀行いんぐらんどぎんこうはしはっ主要しゅよう銀行ぎんこうへと拡大かくだいした、大蔵省おおくらしょうイングランド銀行いんぐらんどぎんこうによるデフレ政策せいさく終結しゅうけつである[22]

立入たちいり調査ちょうさイングランド銀行いんぐらんどぎんこう国有こくゆう銀行ぎんこうほう改正かいせいけた、詳細しょうさい計画けいかく準備じゅんびすることとなる。また、債権さいけんしゃ調査ちょうさきむ保有ほゆう処分しょぶんすることで、「信用しんよう管理かんり大手おおて金融きんゆうグループではなく国家こっかおこなう」のを保証ほしょうするものであった[22]

1931ねんILPスコットランドとう大会たいかい[編集へんしゅう]

労働党ろうどうとうとの対立たいりつ明白めいはくとなるなか1931ねんのILPスコットランドとう大会たいかいで、どうとうとの連携れんけいいまつづけるべきかが議論ぎろんとなり、結局けっきょく連携れんけい存続そんぞく決定けってい

連携れんけい解消かいしょうからだい世界せかい大戦たいせんまで[編集へんしゅう]

1931ねんそう選挙せんきょではILPけい候補こうほ議会ぎかい労働党ろうどうとう指示しじれず、どうとうへの支援しえん公式こうしきめることとなる。ILPの党員とういん5めい労働党ろうどうとうがいでILPのグループを結成けっせい1932ねんには特別とくべつ会議かいぎひらき、投票とうひょう結果けっか労働党ろうどうとうとの連携れんけい解消かいしょうす。

同年どうねん左翼さよく社会しゃかい主義しゅぎ政党せいとうの「ロンドン支部しぶ」を共同きょうどう設立せつりつのち国際こくさい革命かくめいてきマルクス主義まるくすしゅぎセンターだいさんはんインターナショナル)とばれるこの組織そしきは、ILPが運営うんえいどうとうのフェンナー・ブロックウェイが議長ぎちょうつとめることとなる。

労働党ろうどうとう左派さはぞくするエナイリン・ベヴァンはILPの連携れんけい解消かいしょうを「高潔こうけつではあるが無意味むいみ」な決定けっていひょうするが、しばらくして労働ろうどう党外とうがいでのILPの政治せいじてき影響えいきょうりょく衰微すいびすると、その批判ひはん的中てきちゅう。なお、労働党ろうどうとうないまること選択せんたくしたILPの党員とういんもおり、社会しゃかい主義しゅぎ同盟どうめい創設そうせつさい重要じゅうよう役割やくわりたした。

連携れんけい解消かいしょうはILPの党勢とうせい壊滅かいめつてき影響えいきょうあたえることとなる。1932ねんに16773めいかぞえた党員とういんは、1935ねんに4392めいとなり、ほんの3年間ねんかん党員とういんの75%が離党りとうするにいたっている[23]1934ねんには独立どくりつ社会党しゃかいとう結党けっとうのため、離党りとう相次あいつぐ。

のこった党員とういんわか急進きゅうしんてきとなる傾向けいこうにあった。就中なかんづくスペイン内戦ないせんでは25めい党員とういんジョージ・オーウェルらそのシンパが、共和きょうわこくがわ支持しじして参戦さんせん

1939ねんには労働党ろうどうとう政策せいさくに「良心りょうしんてき反対はんたい」しているにもかかわらず、どうとうさい合流ごうりゅうもとめる私信ししんす。労働党ろうどうとうはこれを一蹴いっしゅうし、さい合流ごうりゅう条件じょうけんはILPによって撤回てっかいされるとした[24]

だい世界せかい大戦たいせん以降いこう[編集へんしゅう]

だいいち世界せかい大戦たいせん同様どうようだい世界せかい大戦たいせん倫理りんりてき観点かんてんから反対はんたい戦時せんじちゅうにあっても、選挙せんきょ積極せっきょくてき候補こうほ擁立ようりつしている。

終戦しゅうせんにおいては幾許いくばくかのちからゆうしていたが、その直後ちょくご危機ききおとずれた。1945ねんそう選挙せんきょにおいてグラスゴーで3議席ぎせき保持ほじしたものの、うち1にん労働党ろうどうとう寝返ねがえったのである(とう会議かいぎ労働党ろうどうとうへのさい合流ごうりゅう拒否きょひ)。

1946ねんには党内とうないきってのスポークスマンであるジェームズ・マクストン死去しきょ。その補欠ほけつ選挙せんきょ労働党ろうどうとう候補こうほ辛勝しんしょうするが、翌年よくねんぜん議会ぎかい議員ぎいん労働党ろうどうとう鞍替くらがえ、補欠ほけつ選挙せんきょでも惨敗ざんぱいきっする。なお、これ以後いごそう選挙せんきょ当選とうせんしゃしていない。

こうした不運ふうんにもめげずILPはながらえ、1950年代ねんだいから1960年代ねんだい初頭しょとうにかけて反核はんかく運動うんどう主導しゅどうだつ植民しょくみんキャンペーンのみならず、関連かんれん組織そしきとの関係かんけい細々こまごまとしながらもつづいた。

1970年代ねんだい労働党ろうどうとうかんする見解けんかい発表はっぴょう、1975ねんには独立どくりつ労働ろうどうパブリケーションとあらため、労働党ろうどうとう主流しゅりゅうない圧力あつりょく団体だんたいとなる。

歴代れきだい議長ぎちょう[編集へんしゅう]

  • 1894ねん - 1900ねん:ケア・ハーディ
  • 1900ねん - 1903ねん:ブルース・グレーシャー
  • 1903ねん - 1906ねん:フィリップ・スノーデン
  • 1906ねん - 1909ねん:ラムゼイ・マクドナルド
  • 1909ねん - 1910ねん:フレデリック・ウィリアム・ ジョウェット
  • 1910ねん - 1913ねん:ウィリアム・クロウフォード・アンダーソン
  • 1913ねん - 1914ねん:ケア・ハーディ
  • 1914ねん - 1917ねん:フレデリック・ウィリアム・ ジョウェット
  • 1917ねん - 1920ねん:フィリップ・スノーデン
  • 1920ねん - 1923ねん:リチャード・ウォールヘッド
  • 1923ねん - 1926ねん:クリフォード・アレン
  • 1926ねん - 1931ねん:ジェームズ・マクストン
  • 1931ねん - 1934ねん:フェンナー・ブロックウェイ
  • 1934ねん - 1939ねん:ジェームズ・マクストン
  • 1939ねん - 1941ねん:C・A・スミス
  • 1941ねん - 1943ねん:ジョン・マクガバン
  • 1943ねん - 1948ねん:ロバート・エドワーズ
  • 1948ねん - 1951ねん:デイヴィッド・ギブソン
  • 1951ねん - 1953ねん:フレッド・バートン
  • 1953ねん - 1958ねん:アニー・マクストン
  • 1958ねん -1961ねん:フレッド・モレル
  • 1962ねん - 1974ねん:エムリス・トマス
  • 1974ねん - 1975ねん:スタン・アイブソン

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ Henry Pelling, The Origins of the Labour Party. London: Macmillan, 1954. Page ??.
  2. ^ David Howell, British Workers and the Independent Labour, 1888-1906. Manchester: Manchester University Press, 1984. Pages 471-484.
  3. ^ Democratic Socialism: A Global Survey Donald F. Busky
  4. ^ Howell, British Workers and the Independent Labour Party, pp. 301-327.
  5. ^ 村岡むらおか健次けんじはた洋一よういちへん世界せかい歴史れきし大系たいけい イギリス3 - きん現代げんだい- 』1991ねん山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、p.190
  6. ^ Dowse, Left in the Centre, pp. 6-7.
  7. ^ Fenner Brockway, Inside the Left. London: Allen and Unwin, 1942; page 24. Cited in John Callaghan, Socialism in Britain Since 1884. Oxford: Basil Blackwell, 1990; page 67.
  8. ^ Brockway, Inside the Left, pg. 24, cited in Callaghan, Socialism in Britain, pp. 66-67.
  9. ^ Callaghan, Socialism in Britain, pg. 67.
  10. ^ Joseph Clayton, The Rise and Decline of Socialism in Great Britain, 1884-1924. London: Faber and Gwyer, 1926; pg. 165.
  11. ^ Clayton, The Rise and Decline of Socialism in Great Britain, pg. 165.
  12. ^ Clayton, The Rise and Decline of Socialism in Great Britain, pg. 166.
  13. ^ a b c Clayton, The Rise and Decline of Socialism in Great Britain, pg. 167.
  14. ^ Adam Hochschild (2011). To End All Wars - a story of loyalty and rebellion, 1914-1918. Boston New York: Mariner Books, Houghton Mifflin Harcourt. pp. 274. ISBN 978-0-547-75031-6 
  15. ^ R.C. Wallhead and Clifford Allen, "Letter to ECCI," 21 May 1920. Reprinted in Left Wing Group of the ILP, Moscow's Reply to the ILP: The Reply of the EC of the Communist International to the Questions of the British ILP, together with an Appeal to the Communists Inside the Party. Glasgow: H.C. Glass for the Left Wing Group of the ILP, July 1920. Pages 2-3.
  16. ^ Moscow's Reply to the ILP," pg. 6.
  17. ^ Moscow's Reply to the ILP," pp. 31-32.
  18. ^ Joseph Clayton, The Rise and Decline of Socialism in Great Britain, 1884-1924. London: Faber and Gwyer, 1926. Page 179.
  19. ^ Kowalski, Werner. Geschichte der sozialistischen arbeiter-internationale: 1923 - 19. Berlin: Dt. Verl. d. Wissenschaften, 1985.
  20. ^ Brockway, A. Fenner (1928ねん11月30にち). “The New Leader: the case for 'Socialism in Our Time'”. The New Leader: p. 3 
  21. ^ Hunter, E. E. (1928ねん11月9にち). “Tory or Communist: Rhys Davies and Family Allowances”. The New Leader: p. 5 
  22. ^ a b Brailsford, H. N. (1928ねん8がつ3にち). “Labour and the bankers: The tactics of attack”. The New Leader: p. 4 
  23. ^ Barry Winter, The ILP: Past and Present. Leeds: Independent Labour Publications, 1993. Page 23.
  24. ^ Times report, 13 July 1939

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • Gidon Cohen, The Failure of a Dream: The Independent Labour Party from Disaffiliation to World War II. I.B. Tauris, 2007.
  • Robert E. Dowse, Left in the Centre: The Independent Labour Party, 1893-1940. London: Longmans, 1966.
  • June Hannam and Karen Hunt, Socialist Women, Britain, 1880s to 1920s. London: Routledge, 2002.
  • David Howell, British Workers and the Independent Labour Party, 1888-1906. Manchester: Manchester University Press, 1983.
  • David Howell, MacDonald's Party: Labour Identities and Crisis 1922-1931. Oxford University Press, 2007.
  • David James, Tony Jowitt and Keith Laybourn (eds) The Centennial History of the Independent Labour Party. Halifax: Ryburn, 1992.
  • Alan McKinlay and R.J. Morris (editors), The ILP on Clydeside, 1893-1932: From Foundation to Disintegration. Manchester: Manchester University Press, 1991.
  • Henry Pelling, The Origins of the Labour Party. London: Macmillan, 1954.

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]