コンスタンティン・フィップス (初代しょだいノーマンビー侯爵こうしゃく)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
初代しょだいノーマンビー侯爵こうしゃく
コンスタンティン・フィップス
Constantine Phipps, 1st Marquess of Normanby
ノーマンビーこうアルフレッド・ドルセー英語えいごばん伯爵はくしゃく、1840ねん
生年月日せいねんがっぴ 1797ねん5月15にち
ぼつ年月日ねんがっぴ 1863ねん7がつ28にちまん66さいぼつ
死没しぼつ イギリスの旗 イギリスロンドン
出身しゅっしんこう ケンブリッジ大学けんぶりっじだいがくトリニティ・カレッジ
所属しょぞく政党せいとう ホイッグとう
称号しょうごう ガーター勲章くんしょう勲爵くんしゃく (KG)
バス勲章くんしょう勲爵くんしゃく (GCB)
ロイヤル・ゲルフ勲章くんしょう勲爵くんしゃく (GCH)
枢密すうみつ顧問こもんかん (PC)
配偶はいぐうしゃ マリア・リデル
親族しんぞく 初代しょだいマルグレイヴ伯爵はくしゃくちち
だい2だいノーマンビー侯爵こうしゃく

内閣ないかく だい1メルバーンないかく
在任ざいにん期間きかん 1834ねん7がつ - 1834ねん11月
国王こくおう ウィリアム4せい

内閣ないかく だい2メルバーンないかく
在任ざいにん期間きかん 1839ねん2がつ20日はつか - 1839ねん8がつ30にち
国王こくおう ヴィクトリア

内閣ないかく だい2メルバーンないかく
在任ざいにん期間きかん 1839ねん8がつ30にち - 1841ねん8がつ30にち
国王こくおう ヴィクトリア
テンプレートを表示ひょうじ

初代しょだいノーマンビー侯爵こうしゃくコンスタンティン・ヘンリー・フィップスえい: Constantine Henry Phipps, 1st Marquess of Normanby KG GCB GCH PC FSA, 1797ねん5月15にち - 1863ねん7がつ28にち)は、イギリス政治せいじ外交がいこうかん作家さっかガーター勲章くんしょう勲爵くんしゃくバス勲章くんしょうナイト・グランド・クロス勲爵くんしゃくロイヤル・ゲルフ勲章くんしょう英語えいごばんナイト・グランド・クロス勲爵くんしゃく枢密すうみつ顧問こもんかん1838ねんにノーマンビー侯爵こうしゃく叙位じょいされるまえ連合れんごう王国おうこく貴族きぞく爵位しゃくいだい2だいマルグレイヴ伯爵はくしゃく英語えいごばん」で、1831ねんにマルグレイヴ伯爵はくしゃく相続そうぞくするまえ儀礼ぎれい称号しょうごうの「ノーマンビー子爵ししゃく」でしょうされた。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

だい3だいマルグレイヴ男爵だんしゃくヘンリー・フィップス初代しょだいマルグレイヴ伯爵はくしゃく)とつまのマーサ・ソフィア・フィップス(旧姓きゅうせいマリング)のあいだ長男ちょうなん[1]ちち初代しょだいマルグレイヴ伯爵はくしゃくランカスターおおやけりょう大臣だいじん外務がいむ大臣だいじん海軍かいぐん大臣だいじんFirst Lord of the Admiralty)をつとめた軍人ぐんじん政治せいじ。また伯父おじ軍人ぐんじんだい2だいマルグレイヴ男爵だんしゃくコンスタンティン・フィップス英語えいごばんがいる。

ハーローこうケンブリッジ大学けんぶりっじだいがくトリニティ・カレッジまな[2]在学ざいがくちゅう1815ねんには、ケンブリッジ・ユニオン・ソサエティ英語えいごばんだい2だい会長かいちょうつとめた[2]

1818ねんヨークシャーしゅうスカーブラ選挙せんきょ選出せんしゅつ庶民しょみんいん議員ぎいんとなるが[3]カトリック解放かいほう賛意さんいしめすなど一族いちぞく政治せいじ方針ほうしん異議いぎとなえて1820ねん辞職じしょく[ちゅう 1]以後いご2年間ねんかんイタリアんだ。帰国きこく1822ねんから1826ねんまでノーサンプトンシャーしゅうハイアム・フェラーズ英語えいごばん選挙せんきょ選出せんしゅつ庶民しょみんいん議員ぎいんつと[3]政治せいじてきパンフレット議会ぎかいでの演説えんぜつによってたか評価ひょうかた。1826ねんそう選挙せんきょ英語えいごばんではヨークシャーしゅうマルトン英語えいごばん選挙せんきょから庶民しょみんいん議員ぎいん選出せんしゅつされ[3]1830ねんまでつとめた。議会ぎかいではジョージ・カニング支持しじしゃであった。

1825ねん小説しょうせつThe English in Italy』や『Matilda』の作者さくしゃとしてこのころすでられており、1828ねんには『Yes and No』を上梓じょうしした。

1831ねん父親ちちおやによりマルグレイヴ伯爵はくしゃく相続そうぞくし、貴族きぞくいん議員ぎいんとなる。1832ねんより1834ねんまでジャマイカの総督そうとくGovernor of Jamaica[4]となり当地とうち赴任ふにん1834ねんだい2だいメルバーン子爵ししゃくウィリアム・ラムだい1内閣ないかく英語えいごばんおう璽尚しょとして入閣にゅうかく[5]

1835ねん発足ほっそくしただい2メルバーンないかく英語えいごばんでは当初とうしょアイルランド総督そうとくLord Lieutenant of Ireland任命にんめいされ[6]総督そうとく在任ざいにんちゅう1838ねんに、「カウンティ・オヴ・ヨークにおけるノーマンビー侯爵こうしゃく」(Marquess of Normanby, in the county of York)に叙位じょいされた[7][ちゅう 2]1839ねん2がつ陸軍りくぐん植民しょくみん大臣だいじんとなり入閣にゅうかく[8]同年どうねん8がつ内務ないむ大臣だいじん転任てんにんした。植民しょくみん地相ちそうとしてかれは、ウィリアム・ホブソン英語えいごばんたいしてニュージーランド統治とうちについてイギリス政府せいふ方針ほうしん書簡しょかん指示しじした[9]

1846ねんから1852ねんまでフランス駐箚ちゅうさつイギリス特命とくめい全権ぜんけん大使たいし[10]としてパリへ、1854ねんから1858ねんまでトスカーナ駐箚ちゅうさつイギリス特命とくめい全権ぜんけん公使こうし英語えいごばん[11]としてフィレンツェ赴任ふにん1857ねん出版しゅっぱんされたパリ駐在ちゅうざいちゅう1848ねん日記にっきA Year of Revolution』は、ルイ・ブランとのあいだはげしい議論ぎろんまねいた。さらに公職こうしょくからの引退いんたいにもフランスイタリアたいする政策せいさくについてだい3だいパーマストン子爵ししゃくヘンリー・ジョン・テンプルウィリアム・グラッドストン衝突しょうとつした。

1832ねん枢密すうみつ顧問こもんかんれっせられ[2]同年どうねんロイヤル・ゲルフ勲章くんしょう英語えいごばんナイト・グランド・クロス[2]1847ねんバス勲章くんしょうナイト・グランド・クロス[12]1851ねんガーター勲章くんしょう[13]さづけられた。

1863ねんロンドン死去しきょ。66さい爵位しゃくい一人ひとり息子むすこジョージ英語えいごばん相続そうぞくした。

家族かぞく[編集へんしゅう]

初代しょだいレイヴェンスワース男爵だんしゃく英語えいごばんトマス・リデルむすめマリア・リデル(1798ねん - 1882ねん)と1818ねん8がつ12にち結婚けっこんした[1]彼女かのじょとのあいだまれた息子むすこジョージ自由党じゆうとう政治せいじとなり、ノヴァスコシア総督そうとくクイーンズランド総督そうとくニュージーランドの総督そうとくヴィクトリア総督そうとくつとめた[14]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ スカーブラ選挙せんきょ定数ていすう2)は、ラトランド公爵こうしゃくいえとマルグレイヴ伯爵はくしゃくつよ影響えいきょうにあり、両家りょうけから議員ぎいん一人ひとりずつすのが慣例かんれいしていた。
  2. ^ かれ曾祖母そうそぼにあたるキャサリン・アンズリー(1681ねんごろ - 1743ねん)は、イングランドおうジェイムズ2せい庶子しょしキャサリン・ダーンリーとだい3だいアングルシー伯爵はくしゃくジェイムズ・アンズリー英語えいごばんむすめであるが、キャサリン・ダーンリーはアングルシーと離婚りこん初代しょだいノーマンビー侯爵こうしゃくジョン・シェフィールド初代しょだいバッキンガムおよびノーマンビー公爵こうしゃく英語えいごばん)と再婚さいこんしている。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b Lundy, Darryl. “Constantine Henry Phipps, 1st Marquess of Normanby” (英語えいご). thepeerage.com. 2010ねん10がつ11にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c d "Phipps, Constantine Henry (Viscount Normanby) (PHPS814CH)". A Cambridge Alumni Database (英語えいご). University of Cambridge.
  3. ^ a b c Casey, Martin. "PHIPPS, Constantine Henry, Visct. Normanby (1797-1863), of 19 Grosvenor Street, Mdx.". The House of Commons (英語えいご). The History of Parliament Trust. 2013ねん5がつ12にち閲覧えつらん
  4. ^ "No. 18918". The London Gazette (英語えいご). 20 March 1832. p. 621.
  5. ^ "No. 19030". The London Gazette (英語えいご). 5 August 1834. p. 522.
  6. ^ "No. 19263". The London Gazette (英語えいご). 24 April 1835. p. 808.
  7. ^ "No. 19629". The London Gazette (英語えいご). 26 June 1838. p. 1445.
  8. ^ "No. 19709". The London Gazette (英語えいご). 22 February 1839. p. 349.
  9. ^ "The Treaty of Waitangi". Waitangi Tribunal (英語えいご). ワイタンギ審判しんぱんしょ. 2010ねん11月26にち閲覧えつらん
  10. ^ "No. 20633". The London Gazette (英語えいご). 18 August 1846. p. 2992.
  11. ^ "No. 21642". The London Gazette (英語えいご). 19 December 1854. p. 4132.
  12. ^ "No. 20804". The London Gazette (英語えいご). 10 December 1847. p. 4556.
  13. ^ "No. 21184". The London Gazette (英語えいご). 21 February 1851. pp. 443–444.
  14. ^ Bolton, G. C. (1974). "Normanby, second Marquess of (1819 - 1890)". Australian Dictionary of Biography (英語えいご). Canberra: Australian National University. 2010ねん11月26にち閲覧えつらん

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

グレートブリテンおよびきたアイルランド連合れんごう王国おうこく議会ぎかい
先代せんだい
エドマンド・フィップス英語えいごばん
チャールズ・
マナーズ=サットン
英語えいごばん
庶民しょみんいん議員ぎいん
スカーバラ選挙せんきょ英語えいごばん選出せんしゅつ

1818ねん英語えいごばん1820ねん英語えいごばん
同職どうしょくチャールズ・
マナーズ=サットン
英語えいごばん
次代じだい
エドマンド・フィップス英語えいごばん
チャールズ・
マナーズ=サットン
英語えいごばん
先代せんだい
ウィリアム・プルーマー英語えいごばん
庶民しょみんいん議員ぎいん
ハイアム・フェラーズ選挙せんきょ英語えいごばん選出せんしゅつ

1822ねん1826ねん英語えいごばん
次代じだい
フレデリック・
キャベンディシュ=ポンソンビー
英語えいごばん
先代せんだい
ダンキャノン子爵ししゃく
ジョン・チャールズ・ラムデン英語えいごばん
庶民しょみんいん議員ぎいん
マルトン選挙せんきょ英語えいごばん選出せんしゅつ

1826ねん英語えいごばん1830ねん英語えいごばん
同職どうしょくジョン・チャールズ・ラムデン英語えいごばん
次代じだい
ジョン・チャールズ・ラムデン英語えいごばん
ジェームズ・スカーレット英語えいごばん
官職かんしょく
先代せんだい
ジョージ・カスバート
(総督そうとく代理だいり)
ジャマイカ総督そうとく
1832ねん – 1834ねん
次代じだい
アモス・ノーコット英語えいごばん
(総督そうとく代理だいり)
公職こうしょく
先代せんだい
だい6だいカーライル伯爵はくしゃく
おう璽尚しょ
1834ねん
次代じだい
初代しょだいウォーンクリフ男爵だんしゃく
先代せんだい
だい9だいハディントン伯爵はくしゃく
アイルランド総督そうとく
1835ねん – 1839ねん
次代じだい
エブリントン子爵ししゃく英語えいごばん
先代せんだい
初代しょだいグレネルグ男爵だんしゃく英語えいごばん
陸軍りくぐん植民しょくみん大臣だいじん
1839
次代じだい
ジョン・ラッセル
先代せんだい
ジョン・ラッセル
内務ないむ大臣だいじん
1839ねん – 1841ねん
次代じだい
サー・ジェームズ・グレアム
外交がいこうしょく
先代せんだい
初代しょだいカウリー男爵だんしゃく英語えいごばん
ちゅうふつイギリス大使たいし
1846ねん – 1852ねん
次代じだい
だい2だいカウリー男爵だんしゃく英語えいごばん
先代せんだい
サー・ヘンリー・ブルワー英語えいごばん
ちゅうトスカーナ・イギリス公使こうし英語えいごばん
1854ねん – 1858ねん
次代じだい
ヘンリー・ハワード
(臨時りんじ代理だいり大使たいし)
イギリスの爵位しゃくい
先代せんだい
ヘンリー・フィップス
マルグレイヴ伯爵はくしゃく
1831ねん – 1863ねん
次代じだい
ジョージ・フィップス英語えいごばん
新設しんせつ ノーマンビー侯爵こうしゃく
1838ねん – 1863ねん