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檄文げきぶん事件じけん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

檄文げきぶん事件じけん(げきぶんじけん, affaire des placards, 1534ねん10月18にち)は、16世紀せいきフランス王国おうこく宗教しゅうきょう改革かいかくこった事件じけん。これをきっかけにプロテスタントへの弾圧だんあつ強化きょうかされた。

概要がいよう[編集へんしゅう]

ルターが『95ヶ条かじょう論題ろんだい』(1517ねん)をうたことではじまった宗教しゅうきょう改革かいかく運動うんどうはフランス国内こくないにも影響えいきょうおよぼした。フランスはハプスブルクかみきよしマ帝国まていこくスペイン)とあらそっていた(イタリア戦争せんそう)ため、戦略せんりゃくじょうルター諸侯しょこうむすびつきがあり、国内こくない改革かいかくたいしても比較的ひかくてき寛容かんよう態度たいどっていた。

1534ねん10がつ18にちあさ、フランス各地かくちカトリック教義きょうぎ批判ひはんする文書ぶんしょられていた[1]。「教皇きょうこうのミサのおそれるべき、重大じゅうだいな、えがたい弊害へいがいについて真正しんせいしょ箇条かじょう」とだいする檄文げきぶんが、パリオルレアンなどのしょ都市としされた[1]。それは、教皇きょうこうミサ、とくに聖餐せいさんろんにおけるからだせつ非難ひなんするものであった[1]。しかし、檄文げきぶんアンボワーズ宮殿きゅうでんないフランソワ1せい寝室しんしつとびらにもられていたため、国王こくおう激怒げきどをまねき、フランソワ1せいはフランス国内こくないプロテスタント弾圧だんあつくわえた[1][注釈ちゅうしゃく 1]異端いたんとされたもの処刑しょけいされ、ジャン・カルヴァンおおくのもの国外こくがい亡命ぼうめいした[1]翌年よくねん1がつには出版しゅっぱん禁止きんしれいされ、穏健おんけん人文じんぶん主義しゅぎしゃ弾圧だんあつされた。

檄文げきぶん事件じけん以降いこう宗教しゅうきょうじょう対立たいりつ一層いっそうはげしくなり、王権おうけんをめぐるあらそいともむすびつき、16世紀せいきなかばの宗教しゅうきょう戦争せんそうむかえることになった。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 檄文げきぶん作者さくしゃスイス牧師ぼくしであるといわれている。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 久米くめひろし『キリストきょう その思想しそう歴史れきししん曜社〈ワードマップ〉、1993ねん7がつISBN 4-7885-0457-X 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]