フランクじん

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フランクぞくから転送てんそう
ゲラシウスの典礼てんれいしょ英語えいごばん』。750ねんごろメロヴィングあさフランク王国おうこくつくられたもので現在げんざいヴァティカン図書館としょかん所蔵しょぞうされている。

フランクじん(フランクじん)、またはフランクぞく(フランクぞく、: Franciどく: Frankenふつ: Francs: Franchiえい: Franks)は、マ帝国まていこく時代じだい後期こうきから記録きろく登場とうじょうするゲルマンじん部族ぶぞく

概要がいよう[編集へんしゅう]

一般いっぱんてきサリーぞくリプアリーぞく英語えいごばん(ライン・フランクぞく)に大別たいべつされる。前者ぜんしゃ西にしヨーロッパにおいてフランク王国おうこく建国けんこくしたことられる。

フランクという名前なまえ西暦せいれき3世紀せいきなかばにはじめて史料しりょう登場とうじょうする[1]記録きろくのこる「フランク(francus または franci)」という言葉ことばもっとふる用例ようれい241ねんころ歴史れきしてき事実じじつまえたとされるローマ行軍こうぐんにおいてであり[2]、これは4世紀せいきかれた『皇帝こうてい列伝れつでん』に収録しゅうろくされて現代げんだいつたわっている[2]ローマじんラインがわちゅう流域りゅういき居住きょじゅうするゲルマンじんたちを一括いっかつして「フランクじん」とんでいた。フランク(francus、franci)の語義ごぎは「勇敢ゆうかん人々ひとびと[1]、「大胆だいたん人々ひとびと[2]、あるいは「荒々あらあらしい」「猛々たけだけしい」「おそろしい」人々ひとびとという意味いみであるとされている[3]

西にしヨーロッパ全域ぜんいき支配しはいする王国おうこく建設けんせつしたことから、東方とうほうひがしマ帝国まていこくイスラム諸国しょこくでは、西にしヨーロッパじん全般ぜんぱん言葉ことばとしてもちいられたこともある。十字軍じゅうじぐん研究けんきゅう分野ぶんやでは現代げんだい学者がくしゃたちもレヴァント十字軍じゅうじぐん国家こっかして「フランク国家こっか」と表現ひょうげんしたり、移住いじゅうしたヨーロッパじん全般ぜんぱんして「フランクじん」と用語ようごもちいる場合ばあいがある[4][5]

歴史れきし[編集へんしゅう]

フランクじん形成けいせい[編集へんしゅう]

中世ちゅうせい歴史れきし叙述じょじゅつにおけるフランクじん起源きげん[編集へんしゅう]

フランクじん起源きげんについての情報じょうほうとぼしい。ゲルマンじん一派いっぱであるゴートじん起源きげんについては、ゴートじん歴史れきしヨルダネス起源きげんうべき『ゴート(De origine actibusque Getarum)』をのこ[6]ランゴバルドじんについてはやはりランゴバルドじんパウルス・ディアコヌスによる『ランゴバルドの歴史れきし(Historia Langobardorum)』とうによってその起源きげんかたられている[7]。それにたいしフランクじん上記じょうきのような部族ぶぞく起源きげんかた歴史れきし記述きじゅつしゃさなかった[6]唯一ゆいいつトゥールのグレゴリウスは、フランクじんパンノニアからてトリンギア(Thoringia、テューリンゲン)に移住いじゅうし、このして高貴こうき家柄いえがらものとして「長髪ちょうはつおう」を推戴すいたいしたという伝承でんしょうのこしている[8]。このパンノニア起源きげん伝承でんしょうについては歴史れきしあいだすうおおくの議論ぎろんこしている[8]

また、11世紀せいき後半こうはんケルンまたはジークブルク無名むめい修道しゅうどうつづった『アンノのうた』は、天地てんち創造そうぞうからはじまるその叙述じょじゅつなかでフランクじん起源きげんについての伝説でんせつ記録きろくしている。それによれば『ガリア戦記せんき』でかたられるユリウス・カエサルのガリア征服せいふくは、実際じっさいにはドイツ地方ちほう征服せいふくであるとされ、そのさいカエサルに征服せいふくされた4つの集団しゅうだんの1つとして「高貴こうきなるフランクじん高地たかちドイツ:Frankien din edilin)」がげられている[9][注釈ちゅうしゃく 1]」。そして、カエサル(=ローマじん)とフランクじん元来がんらい親族しんぞく関係かんけいにあり、その共通きょうつう祖先そせんギリシアじんトロイアほろぼしたときにそのからイタリア移住いじゅうしたトロイアじんであるとつたえられる[9]。そのトロイアじん指導しどうしゃたちのうち、アエネイスひきいられた一団いちだんがローマを建設けんせつし、フランコ(Franko)という指導しどうしゃひきいられた一団いちだんがライン河畔かはんに「しょうトロイア」を建設けんせつし、フランクじん誕生たんじょうしたのだという[9]。 この伝説でんせつ史実しじつからはかけはなれた虚構きょこう物語ものがたりであり、今日きょう歴史れきしがくてき見地けんちからは史料しりょうてき価値かち見出みいだすことはできない[10]。だが、フランスおうは、フランクじん唯一ゆいいつ正統せいとう後継こうけいしゃであることを自任じにんしていたため、王家おうけであるカペー系譜けいふをフランクじんトロイア起源きげんせつもとづきトロイアじん英雄えいゆうたちと接続せつぞくした[10]。そして神聖しんせいマ帝国まていこくにあってはドイツ地方ちほうマ帝国まていこく歴史れきしてき同一どういつせい根拠こんきょ做された[10]。このため、この伝説でんせつはフランス、ドイツ民族みんぞく意識いしき確立かくりつ過程かていみかどけんイデオロギーに重大じゅうだい影響えいきょうあたえた[10]

現代げんだい学説がくせつ[編集へんしゅう]

今日きょう定説ていせつとして通用つうようしているせつは、元来がんらいフランクじんはまとまりをった性格せいかく部族ぶぞくではなく、3世紀せいきなかばにラインがわ右岸うがん居住きょじゅうしていたイスタエウォーネスかみ祖先そせんなす複数ふくすう部族ぶぞくカマーウィーぞく英語えいごばんブルクテリーぞくカットゥアリーぞく英語えいごばんサリーぞくアムシヴァリーぞく英語えいごばんなどの部族ぶぞく結集けっしゅうした政治せいじてき同盟どうめいとして成立せいりつしたとするものである[11][6][1][12]

フランクじんは、紀元前きげんぜん1世紀せいきの「ガリア戦記せんき」や1世紀せいきの「ゲルマニア」に記録きろくされたようなほかふるいゲルマンじんしょ部族ぶぞくちがい、3世紀せいきなかばになってから歴史れきしじょうあらわれる[2]。しかも、ローマじんもちいるほかのゲルマニアの民族みんぞく部族ぶぞくめい特定とくてい集団しゅうだんしたのにたいし、「フランクじん」は、ラインがわヴェーザーがわあいだ地域ちいき居住きょじゅうした複数ふくすう部族ぶぞく総称そうしょうとしてもちいられた[1]。289ねんにカマーウィーぞくが、307ねんにブルクテリーぞくが、306ねんから315ねんにはカットゥアリーぞくが、357ねんにサリーぞくが、そして364ねんから375ねんごろにかけてはアムシヴァリーぞくトゥヴァンテースぞく英語えいごばんが、ローマがわ史料しりょうにおいて「フランクじん」とばれている[1]。これはあくまでもローマじんったレッテルであり、実際じっさいにこれらの部族ぶぞくが「フランクじん」というともぞく意識いしきっていたかは不明ふめいである[1]アメリカ歴史れきし学者がくしゃパトリック・ジョセフ・ギアリ英語えいごばんは、ある集団しゅうだんかれた政治せいじてき状況じょうきょう中世ちゅうせい初期しょき部族ぶぞくアイデンティティーの形成けいせい重要じゅうようであったことを指摘してきしており、フランクぞくにおいても同様どうようのことがえるかもしれない[1]

3,4世紀せいきの「フランクじん」たちが共通きょうつう言語げんご習俗しゅうぞく風俗ふうぞくっていたかは不明ふめいであるが[1]一般いっぱん古代こだい末期まっきから中世ちゅうせい初期しょきにかけてのゲルマンじんかみ部族ぶぞくへの帰属きぞくしめ指標しひょうとしたことがられており、すくなくとも5世紀せいきにはフランクじんたちも共通きょうつうする髪型かみがたによって帰属きぞくしめしていた[13]。フランクじん王族おうぞく長髪ちょうはつらずにたなびかせ王権おうけん象徴しょうちょうとした一方いっぽう一般いっぱん戦士せんし男性だんせい青年せいねんたっしたとき、「最初さいしょ断髪だんぱつ」によって後頭部こうとうぶりあげた[13][14]

マ帝国まていこくとフランクじん[編集へんしゅう]

フランクじん最初さいしょ記録きろくにおいてマ帝国まていこくてきとしてあらわれる[15]かれらはすでにローマされていたガリアに3世紀せいきごろ侵入しんにゅうした[15]。しかし、フランクじんとローマの敵対てきたい関係かんけいはローマの司令しれいかんユリアヌス関係かんけいったことでおおきな転換てんかんてんむかえた[16][17]。フランクじんのサリーぞくはユリアヌスによって358ねんブラバント北部ほくぶトクサンドリア地方ちほう英語えいごばん[注釈ちゅうしゃく 2]への移住いじゅうみとめられ、国境こっきょう警備けいびにんにあたるようになった[18][17]。このときからサリーぞくはローマの補助ほじょぐんまれ、フランクぞく特有とくゆう武器ぶき戦術せんじゅつそなえた「部隊ぶたい(numeri)」を形成けいせいした[17]361ねんにユリアヌスがローマ皇帝こうてい即位そくいしたのちも、サリー・フランクじんかれ指揮しきでローマぐんとしてたたかい、軍役ぐんえき終了しゅうりょうしたのちにはガリアで退役たいえきへいとして土地とちてをけた[17]かれらはロワールがわからセーヌがわにいたる地域ちいき定住ていじゅうし、その生活せいかつ様式ようしき現地げんちじん同化どうかしていった[19]

また、ローマぐんとしての勤務きんむはサリーぞく支配しはいそうマ帝国まていこく組織そしきないにおいて栄達えいたつしていくけとなった[16]部族ぶぞく指導しどうてき家系かけい出身しゅっしんかんがえられるメロバウデス377ねん382ねん西にしマ帝国まていこく執政しっせいかん(コンスル)しょく就任しゅうにんした[2]。これは皇族こうぞくでないものとしてはゆうのことであった[2]。また、380ねんにはグラティアヌスみかどによってフランクじんフラウィウス・バウトぐん司令しれいかん任命にんめいされ、その5ねんには執政しっせいかん(コンスル)に就任しゅうにんした[16]。バウトのおいにあたるテウドメール英語えいごばんは「フランクじんおうrex Francorum)」という称号しょうごうびた最初さいしょ人物じんぶつであり[2]マロバウデス英語えいごばんというフランクじんはローマぐん将軍しょうぐんつとめたのち、「フランクじんおう」になり378ねんアレマンぞくとのたたかいを勝利しょうりみちびいたとされる[20]。バウトのむすめアエリア・エウドクシア英語えいごばん395ねんひがし皇帝こうていアルカディウスとなり、皇帝こうていテオドシウス2せいんでいる[16]。このように4世紀せいき後半こうはんにはほぼ1世代せだいにわたり、マ帝国まていこくないでフランクじん出身しゅっしんしゃ目覚めざましい躍進やくしんげた。

とはいえこの躍進やくしんは、フランク部族ぶぞく統合とうごう意味いみしなかった[16]380ねんころ、ライン・フランクじん(リプアリー・フランクじん)たちは、ゲンノバウド英語えいごばんマルコメール英語えいごばんスンノ英語えいごばんというさんにん指導しどうしゃした、ラインがわえてローマりょう侵入しんにゅう周辺しゅうへんらしまわった[20]。やはりフランクじんであり帝国ていこくつかえていたアルボガスト英語えいごばんは、皇帝こうていウァレンティニアヌス2せいに、これらのライン・フランクじん首長しゅちょうたちが略奪りゃくだつひん返還へんかん首謀しゅぼうしゃわたしにおうじなければ、ライン・フランクじん殲滅せんめつすべきであると進言しんげんしたとつたえられている[20]。ウァレンティニアヌス2せい人質ひとじちわた交渉こうしょう開始かいしされただけで満足まんぞくしたが、ウァレンティニアヌス2せい死後しご傀儡かいらいエウゲニウスみかど推戴すいたいしたアルボガストはライン・フランクじんたいしてだい規模きぼ軍事ぐんじ行動こうどうこし、このフランクじんおうたちを鎮撫ちんぶした[20]。そのアルボガストはテオドシウス1せいとのたたかいにやぶれ、自決じけつまれた[16]。これを契機けいきに、ローマ中央ちゅうおう政界せいかいにおけるフランクじん進出しんしゅつ退潮たいちょうかい、わってゴートじんたちがその権勢けんせい拡大かくだいしていくこととなった[16]

王権おうけん確立かくりつ[編集へんしゅう]

上述じょうじゅつとおり4世紀せいきまつ段階だんかいでは、フランクじんには確立かくりつした王権おうけんはなく、すうおおくの集団しゅうだんが「将領しょうりょうてき統率とうそつしゃした割拠かっきょしていたとかんがえられる[8]。トゥールのグレゴリウスが引用いんようするスルキピウス・アレキサンデル歴史れきししょは、このフランクじん支配しはいしゃについて、最初さいしょおう名前なまえげることなく、かれらが大公たいこう(ducas)をゆうしていたと表現ひょうげんしている[16]。このことは4世紀せいきまつ段階だんかいで、フランクじんしたでは確立かくりつした王制おうせいいま存在そんざいせず、古来こらいからのゲルマンじんられた「大公たいこう」たちによる連合れんごう体制たいせいがとられていたこと示唆しさしている[16]。また、グレゴリウスはこの時代じだいのフランクじん支配しはいしゃを「おうのごときしゃ(regales)」、または「しょうおう(sub-regules)」と表現ひょうげんし、「おう(rex)」としてあつかわない[8]

グレゴリウスは、フランクじんがパンノニアからたとし、はじめラインがわ沿岸えんがん定着ていちゃくしたのち、ラインがわえてトリンギア(Thoringia)にうつり、そのパグス(pagus)とキウィタス(civitas)ごとに高貴こうき家柄いえがらものとして「長髪ちょうはつおう」を推戴すいたいしたとしる[8]。それにつづけて、フランクじんリコメール息子むすこテウドメール英語えいごばんはじめて明確めいかくに「フランクじんおう(rex Francorum)」として言及げんきゅう[8]、また「高貴こうきなる」フランクじんクロディオ英語えいごばんが、やはりおうであったとつたえ、かれ家系かけいからメロヴィク(メロヴィクス)おうて、そのキルデリク1せいまごクローヴィス1せいによりフランク王国おうこくメロヴィングあさ)が成立せいりつした過程かてい記録きろくしている[21]。このフランクじん王権おうけん確立かくりつ、メロヴィング権威けんい確立かくりつ過程かていについては史料しりょうてき制約せいやくによりはっきりしたことはわかっていない[8][22]。ただ、クロヴィス1せい時代じだいにはすでにメロヴィング出身しゅっしんしゃだけがおうとなれるのがかれ部族ぶぞくでは自明じめいとなっていた[22]

しかし、5世紀せいき段階だんかいにおいても、いまだフランクじん部族ぶぞく形成けいせい終了しゅうりょうしていなかったとられる[23]。『にせフレデガリウス年代ねんだい』がつたえるところによれば、メロヴィクは海神わたつみネプチューンしし姿すがたあらわれたクロディオおうとそのつまあいだ息子むすこであるとされるが、この説話せつわしろうし変身へんしんしたゼウスフェニキア王女おうじょエウロペー伝承でんしょう影響えいきょうけたものなのはあきらかである[23]。つまり、キルデリク1せいとクロヴィス1せい時代じだいからすう世代せだいさかのぼっただけで、出自しゅつじ伝承でんしょう神話しんわ世界せかいはいるほど、フランク王権おうけん生成せいせいは「あたらしい」出来事できごとだったのである[23]

フランク王国おうこく[編集へんしゅう]

5世紀せいきすえ、このサリー・フランククローヴィス1せいが、すべてのフランク勢力せいりょく統一とういつしてフランク王国おうこく建設けんせつし、キリスト教きりすときょう改宗かいしゅうした。以降いこう、フランクじんイベリア半島はんとうブリテンとうイタリア半島はんとう南部なんぶブルターニュ半島はんとうのぞく、西にしヨーロッパ全域ぜんいき支配しはいする王国おうこくてていく。

フランクじん植民しょくみん[編集へんしゅう]

400ねんから440ねんまで、フランクじん領土りょうど変遷へんせん

フランク王国おうこく建設けんせつは、一般いっぱん人口じんこうにおいて「フランクじん植民しょくみん」とばれる出来事できごとともなっていた[24]。いわゆる民族みんぞく移動いどう時代じだいにローマりょう移住いじゅうしたほかのゲルマンしょ部族ぶぞくくらべ、フランクじんたちの移動いどう距離きょりみじかく、ラインがわヴェーザーがわあいだにあった本来ほんらい居住きょじゅうとのつながりを維持いじしていた[24]学者がくしゃなかには、これがのゲルマンしょ王国おうこくくらべフランク王国おうこく強力きょうりょくであった理由りゆうひとつであると做すしゃもいる[24]

クロヴィス1せいによる北部ほくぶガリア制圧せいあつ並行へいこうして、かなりのかず農民のうみん征服せいふく移住いじゅうした[24]。しかし、実際じっさいにどの程度ていど規模きぼで、どの範囲はんい移住いじゅうおこなわれたのかをるのは困難こんなんである[25]地名ちめいがく考古学こうこがくによる分析ぶんせきによれば、フランクじん定住ていじゅう密度みつどは、セーヌがわまでが中心ちゅうしんであり、セーヌがわロワールがわあいだ地域ちいきでは少数しょうすうであった。ロワールかわ以南いなん南部なんぶガリア)へは、支配しはいしゃとして赴任ふにんしたもの以外いがい、ほぼ移住いじゅうおこなわれなかったとかんがえられる[25]移住いじゅう集中しゅうちゅうしたガリア北部ほくぶにおいても、現地げんちのガロ・ローマじん[注釈ちゅうしゃく 3]くらべ、その人口じんこうやく4ぶんの1あまりであったとかんがえられている[25]

フランク王国おうこくにおけるフランクじん[編集へんしゅう]

メロヴィングあさによってガリア全域ぜんいき支配しはいたフランク王国おうこくは、768ねんピピン3せい即位そくい以来いらいカロリングあさ王家おうけによって支配しはいされるようになった。このカロリングあさおうカール1せい大帝たいてい)は西にしヨーロッパ全域ぜんいき征服せいふくし、800ねんには「ローマ皇帝こうてい」を獲得かくとくした。

フランク王国おうこく支配しはいそうには建国けんこく当初とうしょより、ガロ・ローマじん貴族きぞくや、西にしゴートじんアレマンじんブルグントじんバイエルンじん貴族きぞくくわわり、とくにガロ・ローマじんたちは教会きょうかい内部ないぶ支配しはいてき役割やくわりになった[25]。また、これらのしょ民族みんぞく部族ぶぞく)は、フランク王権おうけん服属ふくぞくしたものの、それぞれ固有こゆう言語げんご法律ほうりつ習俗しゅうぞく維持いじしていた[25]。フランクじん法律ほうりつマ帝国まていこく起源きげんつ「国家こっかほう」は全土ぜんど適用てきようされたが、実態じったいとしては王国おうこく部分ぶぶんごとに実効じっこうせいおおきな差異さいがあった[25]。しかし、全体ぜんたいとしては、王国おうこく名称めいしょう「フランクじん王国おうこく(regnum Francorum)」からも、国王こくおう称号しょうごう「フランクじんおう(rex Francorum)」からも、この王国おうこくがフランクじんという一部いちぶぞく依拠いきょする支配しはい団体だんたいであることは明確めいかくしめされている[25]。フランクじん自体じたい様々さまざま身分みぶん階層かいそうかれていたが、総体そうたいとしてかれらは国家こっかほう意味いみでの王国おうこくにな做され、格別かくべつ部族ぶぞく意識いしき帝国ていこく意識いしきされた[25]。ドイツの歴史れきし学者がくしゃゲレト・テレンバッハ英語えいごばんはカロリングあさに「貴族きぞくそうのトップを構成こうせいし、国王こくおう一部いちぶ高位こうい聖職せいしょくしゃならんで帝国ていこく政治せいじ決定的けっていてき役割やくわりをになった」エリート貴族きぞく階層かいそうを「帝国ていこく貴族きぞくそう(Reichisaristokratie)」と名付なづけ、分析ぶんせきおこなった。それによれば8世紀せいきから10世紀せいきにかけて史料しりょうから抽出ちゅうしゅつされる帝国ていこく貴族きぞくそう42家門かもん111にんのうち、6わり以上いじょうをフランクじんめていたとしている[27]

広大こうだい王国おうこく東西とうざい居住きょじゅうするフランクじんたちは、多様たよう言語げんご環境かんきょうかれていた。ガリア地方ちほうにおいては、ガロ・ローマじんたちがマ帝国まていこく以来いらいラテン語らてんご使用しようしていたが、ときとも古代こだい発音はつおん文法ぶんぽう規範きはんからはなれつつあった(ぞくラテン語らてんご)。文章ぶんしょうでありかみへのいのりの言語げんごでもあったラテン語らてんごの「みだれ」をただすべく、カール1せいきの学者がくしゃたちはカロリング・ルネサンスばれる文化ぶんかてき潮流ちょうりゅうなかで、「ただしいラテン語らてんご」の制定せいていこころみた。このただしいラテン語らてんご制定せいていは、ただしくないラテン語らてんごぞくラテン語らてんご)が、ラテン語らてんご変種へんしゅぞくラテン語らてんご)ではなく「別種べっしゅ言語げんご」と定義ていぎされるけとなった。中世ちゅうせいラテン語らてんご確立かくりつのちラテン語らてんごからこれらの「田野でんやふうラテン語らてんご」への「翻訳ほんやく」が問題もんだいとなるようになり、ここをロマンスラテン語らてんご分岐ぶんきてんとするかんがかたが、ラテン語らてんご学者がくしゃやロマンス語学ごがくしゃによっておおむみとめられている[28]

北部ほくぶガリアのフランクじんたちは現地げんちのガロ・ローマじん言語げんごれ、ロマンス日常にちじょう言語げんごとして使用しようするようになっていった[29]。この西方せいほうのフランクじん9世紀せいきなかばにはまだフランク理解りかいできたが、すで相当そうとう程度ていどロマンスしていたとかんがえられる[29]一方いっぽう東方とうほうのフランクじんたちは古来こらいからのフランク(ゲルマン)を維持いじし、これは文章ぶんしょうとしてのラテン語らてんごならび、支配しはい階級かいきゅう言語げんごとして王国おうこく共通きょうつうとして通用つうようしていた。こうした状況じょうきょうは、842ねんストラスブールルートヴィヒ2せいシャルル2せいおこなった同盟どうめい誓約せいやくストラスブールの誓約せいやく)にはしてきあらわれている[30]。この誓約せいやくは、ルートヴィヒ2せいとシャルル2せいおな内容ないようたがいの言語げんご反復はんぷくし、誓約せいやくおこなうという形式けいしきがとられた[29]

フランク王国おうこく分裂ぶんれつと「フランク」[編集へんしゅう]

フランク王国おうこく843ねんヴェルダン条約じょうやくによってあずまフランク王国おうこく西にしフランク王国おうこくなかフランク王国おうこくの3つに分裂ぶんれつした。紆余曲折うよきょくせつて、870ねんメルセン条約じょうやくにより、なかフランク王国おうこく領土りょうどのうち、イタリア以外いがい領域りょういき東西とうざいりょう王国おうこく分割ぶんかつされ、そのカール3せい肥満ひまんおう)によるわずかな期間きかんのぞき、永久えいきゅう統合とうごうされなかった。このことはそれぞれの王国おうこくむフランクじんたち、さらにイタリア(ランゴバルド)やひがしマ帝国まていこくにおける「フランクじん概念がいねんおおきな影響えいきょうあたえた。

東西とうざいどちらの王国おうこくも、みずからこそがフランクてき伝統でんとう正統せいとう継承けいしょうしゃであることを自任じにんしていたため、両国りょうこく歴史れきし叙述じょじゅつ書記しょきたちは、自己じこがわを「フランク」であるとし、相手あいてがわを「フランクてき」な名称めいしょう筆記ひっきした[31]西にしフランクのはん官製かんせい史書ししょえる『サン・ベルタンへんねん』では、あずまフランクおうルートヴィヒ2せいを「ゲルマンじんおう rex Germanorum」、または「ゲルマーニアのおう rex Germaniae」と[注釈ちゅうしゃく 4]、フランクおうとはばない[32]一方いっぽうあずまフランクがわの『フルダへんねん』もまた、西にしフランク王国おうこくを「ガリア Gallia」「シャルルの王国おうこく regnum Karli」と呼称こしょうし、フランクの東側ひがしがわ限定げんていして使用しようされた[32]

西にしフランク王国おうこくでは伝統でんとうてき王家おうけであるカロリング王位おういを(めい目的もくてきにせよ)継承けいしょうしていたのにたいし、あずまフランクでは911ねんにカロリングあさ断絶だんぜつし、カロリングコンラート1せいが、さら919ねんにはフランクじんザクセンじん)であるハインリヒ1せい即位そくいした。こうしたことにも影響えいきょうされ、西にしフランクがわ正統せいとう意識いしき10世紀せいきはいるとますます明瞭めいりょうになり、西にしフランクのランス大司教だいしきょう参事さんじ会員かいいんフロドアールは、フランクとくあらゆる概念がいねんを「西にし」にのみむすびつける(たとえばフランクおう、フランク王国おうこく、フランキアと用語ようご自動的じどうてきに「西にしフランク」のことであった)一方いっぽうで、あずまフランクおうは「ラインがわこうがわ国王こくおう(Transrhenensis rex)」あるいはたんに「ラインがわこうがわの(Transrhensis)」とのみ呼称こしょうしている[32]。ただし現実げんじつてきには西にしフランクがわのこうした姿勢しせいは、あずまフランクがわ武力ぶりょくによって譲歩じょうほせまられ、921ねん和平わへいにおいて双方そうほうが「西にしフランクおう(rex Francorum occidentalium)」「あずまフランクおう(rex Francorum orientalium)」であると承認しょうにんするのを余儀よぎなくされた[32]

さらちゅうフランク王国おうこく一部いちぶであったロートリンゲン地方ちほうにおいても、みずからを正統せいとうの「フランクじん」であると做すという観念かんねんしょうじており、あずまフランクおうを「フランク=ロートリンゲンじんとゲルマンじん国王こくおう」とび、ロートリンゲンじんのみを「フランク」たる存在そんざい認識にんしきしようとしていることをしめ偽作ぎさく証書しょうしょ現存げんそんしている[33]

他方たほうで、フランク概念がいねんそとにあるイタリア(ランゴバルド)では、「フランクじん(Franci)」とかたり多義たぎせいびるようになった。クレモナ司教しきょうリウトプランドが10世紀せいき後半こうはんのこした記録きろくひとつ、『報復ほうふくしょラテン語らてんごばんフランス語ふらんすごばん』では「Franci」は「"ロマンス"けいフランクじん」「"ドイツ"けいフランクじん」のふたつに大別たいべつされる[31]。リウトプランドは、前者ぜんしゃたんに「Franci」と一方いっぽう後者こうしゃを「Franci Teutonici」とび、この「"ドイツ"けいフランクじん(Franci Teutonici)」を、バイエルンじんやザクセンじんなど、あずまフランクないほか民族みんぞく同列どうれつあつかっている[31]。また、おなじくリウトプランドの『コンスタンティノープル使節しせつラテン語らてんごばん』によれば、ひがしローマ(ビザンツ)皇帝こうていニケフォロス2せいフォカスは「フランクじん(Franci)」と用語ようごによって「ラテンじん("ロマンス"けいフランクじん Latini)」「ドイツじん("ドイツ"けいフランクじん Teutones)」の双方そうほう認識にんしきしていたとべられており、後世こうせい用法ようほうにおける「広義こうぎのフランクじんだいフランク王国おうこく住民じゅうみん西欧せいおうじん一般いっぱんす」用法ようほう源流げんりゅうがここにられる[31]。なお、同書どうしょにおいてリウトプランド自身じしんは「Franci」をつねに「狭義きょうぎのフランクじん -フランケン地方ちほうのフランクじん-」の意味いみもちいており[31]外国がいこくじんからて「フランク」と用語ようご実体じったいがもはやただひとつではなかったことをしめしている。

ドイツとフランス[編集へんしゅう]

あずまフランク王国おうこくでは、ザクセンじんハインリヒ1せい即位そくいつうじてザクセンじんくにせい中枢ちゅうすうはいむとともに、あずまフランク王国おうこく領域りょういき比較的ひかくてき安定あんていてき統治とうちすることに成功せいこうした。この王国おうこく基本きほんてき枠組わくぐみは、そのすう世紀せいきにわたり存続そんぞくしその住民じゅうみん徐々じょじょ共通きょうつう単一たんいつ国家こっかへの帰属きぞく意識いしき醸成じょうせいしていった[34]。そしてかれらは最終さいしゅうてきにフランクじん、ザクセンじん、バイエルンじん、シュヴァーベンじんなどの要素ようそ包括ほうかつしてドイツじんしょうされ、さらには自称じしょうするようになり、近代きんだいのドイツじん形成けいせいへとつながっていく。

一方いっぽう西にしフランク王国おうこくでは、そのもフランクのがそのまま継承けいしょうされた。西にしフランク王国おうこく領域りょういきにある国家こっか現代げんだい国名こくめいフランス(France)は、フランクの発音はつおん変化へんかしたものである[35]。カペーあさ以降いこう王家おうけは「フランスじんおう(rex Francorum)」を称号しょうごうとした[35]。このかたりはそのまま「フランクじんおう」とやくすことも可能かのうであり、どの時点じてんにおいて「フランク」が「フランス」になったと見做みなせるのかはかならずしも明瞭めいりょうではない。

言語げんご[編集へんしゅう]

現代げんだい言語げんごがくてき文脈ぶんみゃくでは、初期しょきのフランクじんたちが使用しようしていた言語げんごは「フランク」または「フランケン」など様々さまざま名称めいしょうばれ、西暦せいれき600ねんから700ねんあいだごろだい子音しいん推移すいいきる以前いぜん西にしゲルマン方言ほうげんす。だい子音しいん推移すいいのち、フランク方言ほうげん複数ふくすう言語げんごへと分岐ぶんきしていった。現代げんだいオランダつながるであろうだい子音しいん推移すいい影響えいきょうけなかったフランク方言ほうげんと、様々さまざま程度ていど影響えいきょうけ、おおきな高地たかちドイツのグループの一部いちぶとなったほかすべての方言ほうげんとである[36]

このだい子音しいん推移すいい影響えいきょうけた言語げんごけていない言語げんご識別しきべつするための用語ようごとして、オランダていフランク(Old Low Franconian)」という用語ようご使用しようされる。ただし、オランダ英語えいごばんふるフランクあいだちがいはほとんど[37]

言語げんご学者がくしゃ河崎かわさきやすしは、オランダけんにおいてはオランダが、ドイツ方言ほうげんがく立場たちばからはていフランクという用語ようご普通ふつう使用しようされるが、現代げんだいドイツオランダ国境こっきょう地域ちいき言語げんごしめ用語ようごとしてかならずしも適切てきせつではないと指摘してきしている。より中立ちゅうりつてき名称めいしょうていライン方言ほうげんであるとかんがえられるが、この名称めいしょう学術がくじゅつ用語ようごとして普及ふきゅうしているとはがたいと[38]。そして「現在げんざいにおいては『ラインがわ以西いせいベンラータ一線いっせん(Benrather Linie)以北いほくのゲルマンけん』の言語げんごていフランクとみなすのがもっと妥当だとうとらかた」であるとする[38]

フランクベルガッケル碑文ひぶん英語えいごばんのような、当時とうじのフランクりょうから発見はっけんされたわずかなルーン文字もじ碑文ひぶん英語えいごばんのぞき、直接ちょくせつ記録きろくされていない。しかし、かなりのかずフランク単語たんごが、フランス語ふらんすご初期しょきゲルマンからの借用しゃくよう調査ちょうさ、そして同様どうようにオランダとの比較ひかくさい構成こうせいによって復元ふくげんされている[39][40][41][42]

フランク現代げんだい西にしヨーロッパの言語げんごすくなからぬ影響えいきょうあたえており、たとえば英語えいごのアルファベット表記ひょうきにはフランク影響えいきょうられる[43]。またフランス語ふらんすごにおける影響えいきょう重大じゅうだいであり、4つの基本きほんてき方角ほうがく名称めいしょうきたnordみなみsudひがしest西にしouest)をふく多数たすう単語たんごがフランクから借用しゃくようされてのこっている[40][41]とく色彩しきさい感覚かんかくについてはフランク(ゲルマン)の影響えいきょうによって完全かんぜん刷新さっしんされた。たとえばふるラテン語らてんごではしろあらわかたりとしてAlbus(くすんだしろ)、Candidus(あざやかなしろ)があったが、ゲルマンのBlank(しろ)の影響えいきょうフランス語ふらんすごではBlanc(しろ)のみとなった[42]おなじくラテン語らてんごではCaeruleus(紺碧こんぺきあお)、Cyaneus(あお)、Caesius(あお灰色はいいろ/みどりがかったあお/みどり灰色はいいろ)、Glaucus(みどりうすあおあいだ/あかるい灰色はいいろ)、Violaceus(むらさきがかったあお)のように表現ひょうげんされていた色相しきそうは、Bleu(あお)とGris(灰色はいいろ)に統合とうごうされた[42]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ フランクじんトロイア起源きげん伝説でんせつすくなくとも7世紀せいき作成さくせいされた『にせフレデガリウス年代ねんだい』にまでさかのぼなが伝統でんとうゆうする[9]
  2. ^ ベルギーとオランダにまたがる地域ちいき
  3. ^ ガロ・ローマじん(Gallo-Roman)とはガリア(Gallia おおむ現代げんだいフランス相当そうとうする地域ちいき)にむローマけい住民じゅうみん学術がくじゅつ用語ようごである。あくまでも現代げんだい歴史れきしがく用語ようごであり、古代こだいローマ時代じだいおよびフランク王国おうこく時代じだいにこれに対応たいおうする概念がいねん存在そんざいしていたわけではない。ミシェル・ソはこの用語ようごについて「わたしたちはガロ=ローマじんについて、じゅう世紀せいき立場たちばかたっているが、世紀せいきには、また、そのあとのなに世紀せいきかにも、そのような存在そんざいしなかった。ガリアでは、きのできる人々ひとびとは、みずからを「ローマじん」であり、普遍ふへんてき帝国ていこくとローマ文化ぶんか継承けいしょうじんかんがえていた。」とべ、ガロ=ローマじんとは(ガリアにむ)キリスト教徒きりすときょうとローマじんであるとしている[26]。ローマにたいする「ガリア民族みんぞく意識いしき」というものはいかなる意味いみでも存在そんざいしなかったのであり、ガリアじんとはしょ民族みんぞく君臨くんりんすべきローマじん一部いちぶであった[26]
  4. ^ このあずまフランクおう現代げんだい歴史れきし叙述じょじゅつにおいてしばしば、ルートヴィヒ2せい・ドイツじんおう異名いみょうばれる。この「ドイツじんおう」と異名いみょうはこのゲルマンと用語ようごを、きん現代げんだいにおけるドイツ同義語どうぎご做した近世きんせい以降いこう歴史れきしによってあたえられたものであり、時代じだい錯誤さくご誤訳ごやくであるとひょうされる[32]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h 五十嵐いがらし 2003, p. 317
  2. ^ a b c d e f g 佐藤さとう 1995a, p. 134
  3. ^ 渡部わたなべ 1997, p. 45
  4. ^ グルッセ 1954, pp. 78-88
  5. ^ ジョティシュキー 2013, pp. 197-213
  6. ^ a b c 佐藤さとう 2013, p. 52
  7. ^ ランゴバルドの歴史れきし, pp. 219-251
  8. ^ a b c d e f g 佐藤さとう 2013, p. 54
  9. ^ a b c d さん佐川さがわ 2013, pp. 376-381
  10. ^ a b c d さん佐川さがわ 2013, pp. 381-385
  11. ^ 佐藤さとう 2001, p. 37
  12. ^ ル・ジャン 2009, p. 13
  13. ^ a b 五十嵐いがらし 2003, p. 324
  14. ^ ル・ジャン 2009, pp. 41-43
  15. ^ a b ミュソ=グラール 2000, p. 14
  16. ^ a b c d e f g h i 佐藤さとう 2013, p. 53
  17. ^ a b c d ミュソ=グラール 2000, p. 15
  18. ^ 五十嵐いがらし 2003, p. 319
  19. ^ ミュソ=グラール 2000, p. 16
  20. ^ a b c d 五十嵐いがらし 2003, p. 318
  21. ^ 佐藤さとう 2013, p. 55
  22. ^ a b 五十嵐いがらし 2003, p. 320
  23. ^ a b c 佐藤さとう 2013, p. 60
  24. ^ a b c d シュルツェ 2005, p. 18
  25. ^ a b c d e f g h シュルツェ 2005, p. 19
  26. ^ a b ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016, p. 27
  27. ^ さん佐川さがわ 2013, pp. 51-55
  28. ^ 佐藤さとう 1995b, p. 235
  29. ^ a b c さん佐川さがわ 2013, pp. 33-38
  30. ^ 渡部わたなべ 1997, p. 88
  31. ^ a b c d e さん佐川さがわ 2013, pp. 174-182
  32. ^ a b c d e さん佐川さがわ 2013, pp. 162-167
  33. ^ さん佐川さがわ 2013, pp. 167-173
  34. ^ 山田やまだ 1997, p. 116
  35. ^ a b 佐藤さとう 2009, pp. 13-15
  36. ^ Rheinischer Fächer – Karte des Landschaftsverband Rheinland Archived February 15, 2009, at the Wayback Machine.
  37. ^ B. Mees, The Bergakker inscription and the beginnings of Dutch, in: Amsterdamer beiträge zur älteren Germanistik: Band 56- 2002, edited by Erika Langbroek, Annelies Roeleveld, Paula Vermeyden, Arend Quak, Published by Rodopi, 2002, ISBN 9042015799, 9789042015791
  38. ^ a b 河崎かわさき 1998, pp. 57-58
  39. ^ van der Horst, Joop (2000) (Dutch). Korte geschiedenis van de Nederlandse taal (Kort en goed). Den Haag: Sdu. p. 42. ISBN 90-5797-071-6 
  40. ^ a b http://www.britannica.com/EBchecked/topic/508379/Romance-languages/74738/Vocabulary-variations?anchor=ref603727
  41. ^ a b 上野うえの 2016, pp. 22-23
  42. ^ a b c ヴァルテール 2006, pp. 285-292
  43. ^ オニール 2012

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

原典げんてん資料しりょう[編集へんしゅう]

書籍しょせき[編集へんしゅう]

論文ろんぶん[編集へんしゅう]

  • 河崎かわさきやすし「「ていフランク文法ぶんぽう記述きじゅつけて」『ドイツ文學ぶんがく研究けんきゅうだい43かん京都大学きょうとだいがく、1998ねん3がつ 
  • パトリック・オニール適切てきせつ文字もじもとめて -もっとふる英語えいごのアルファベットの起源きげんについて-」『関西大学かんさいだいがく東西とうざい学術がくじゅつ研究所けんきゅうじょ紀要きようだい45かん関西大学かんさいだいがく、2012ねん4がつ 
  • 上野うえの貴史たかし「ロマンス語彙ごいにおけるゲルマンつうてき影響えいきょう-10世紀せいきまでのロマンス語彙ごい英語えいご」『広島大学ひろしまだいがく大学院だいがくいん文学ぶんがく研究けんきゅう論集ろんしゅうだい76かん広島大学ひろしまだいがく、2016ねん12月。 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]