『ゲラシウスの典礼 てんれい 書 しょ (英語 えいご 版 ばん ) 』。750年 ねん 頃 ごろ にメロヴィング朝 あさ フランク王国 おうこく で作 つく られたもので現在 げんざい はヴァティカン図書館 としょかん に所蔵 しょぞう されている。
フランク人 じん (フランクじん)、またはフランク族 ぞく (フランクぞく、羅 ら : Franci 、独 どく : Franken 、仏 ふつ : Francs 、伊 い : Franchi 、英 えい : Franks )は、ロ ろ ーマ帝国 まていこく 時代 じだい 後期 こうき から記録 きろく に登場 とうじょう するゲルマン人 じん の部族 ぶぞく 。
一般 いっぱん 的 てき にサリー族 ぞく とリプアリー族 ぞく (英語 えいご 版 ばん ) (ライン・フランク族 ぞく )に大別 たいべつ される。前者 ぜんしゃ は西 にし ヨーロッパ においてフランク王国 おうこく を建国 けんこく した事 こと で知 し られる。
フランクという名前 なまえ は西暦 せいれき 3世紀 せいき 半 なか ばに初 はじ めて史料 しりょう に登場 とうじょう する[1] 。記録 きろく に残 のこ る「フランク(francus または franci)」という言葉 ことば の最 もっと も古 ふる い用例 ようれい は241年 ねん 頃 ころ の歴史 れきし 的 てき 事実 じじつ を踏 ふ まえたとされるローマ行軍 こうぐん 歌 か においてであり[2] 、これは4世紀 せいき に書 か かれた『皇帝 こうてい 列伝 れつでん 』に収録 しゅうろく されて現代 げんだい に伝 つた わっている[2] 。ローマ人 じん はライン川 がわ 中 ちゅう 流域 りゅういき に居住 きょじゅう するゲルマン人 じん たちを一括 いっかつ して「フランク人 じん 」と呼 よ んでいた。フランク(francus、franci)の語義 ごぎ は「勇敢 ゆうかん な人々 ひとびと 」[1] 、「大胆 だいたん な人々 ひとびと 」[2] 、あるいは「荒々 あらあら しい」「猛々 たけだけ しい」「おそろしい」人々 ひとびと という意味 いみ であるとされている[3] 。
西 にし ヨーロッパ全域 ぜんいき を支配 しはい する王国 おうこく を建設 けんせつ したことから、東方 とうほう の東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく やイスラム 諸国 しょこく では、西 にし ヨーロッパ人 じん 全般 ぜんぱん を指 さ す言葉 ことば として用 もち いられた事 こと もある。十字軍 じゅうじぐん 研究 けんきゅう の分野 ぶんや では現代 げんだい の学者 がくしゃ たちもレヴァント 十字軍 じゅうじぐん 国家 こっか を指 さ して「フランク国家 こっか 」と表現 ひょうげん したり、移住 いじゅう したヨーロッパ人 じん 全般 ぜんぱん を指 さ して「フランク人 じん 」と言 い う用語 ようご を用 もち いる場合 ばあい がある[4] [5] 。
フランク人 じん の形成 けいせい [ 編集 へんしゅう ]
中世 ちゅうせい の歴史 れきし 叙述 じょじゅつ におけるフランク人 じん の起源 きげん [ 編集 へんしゅう ]
フランク人 じん の起源 きげん についての情報 じょうほう は乏 とぼ しい。ゲルマン人 じん の一派 いっぱ であるゴート人 じん の起源 きげん については、ゴート人 じん の歴史 れきし 家 か ヨルダネス が起源 きげん 誌 し と言 い うべき『ゴート史 し (De origine actibusque Getarum)』を残 のこ し[6] 、ランゴバルド人 じん についてはやはりランゴバルド人 じん のパウルス・ディアコヌス による『ランゴバルドの歴史 れきし (Historia Langobardorum)』等 とう によってその起源 きげん が語 かた られている[7] 。それに対 たい しフランク人 じん は上記 じょうき のような部族 ぶぞく の起源 きげん を語 かた る歴史 れきし 記述 きじゅつ 者 しゃ を出 だ さなかった[6] 。唯一 ゆいいつ 、トゥールのグレゴリウス は、フランク人 じん はパンノニア から出 で てトリンギア(Thoringia、テューリンゲン )に移住 いじゅう し、この地 ち で他 た に比 ひ して高貴 こうき な家柄 いえがら の者 もの として「長髪 ちょうはつ の王 おう 」を推戴 すいたい したという伝承 でんしょう を残 のこ している[8] 。このパンノニア起源 きげん 伝承 でんしょう については歴史 れきし 家 か の間 あいだ で数 すう 多 おお くの議論 ぎろん を巻 ま き起 お こしている[8] 。
また、11世紀 せいき 後半 こうはん にケルン またはジークブルク の無名 むめい の修道 しゅうどう 士 し が綴 つづ った『アンノの歌 うた 』は、天地 てんち 創造 そうぞう から始 はじ まるその叙述 じょじゅつ の中 なか でフランク人 じん の起源 きげん についての伝説 でんせつ を記録 きろく している。それによれば『ガリア戦記 せんき 』で語 かた られるユリウス・カエサル のガリア征服 せいふく は、実際 じっさい にはドイツ地方 ちほう の征服 せいふく であるとされ、その際 さい カエサルに征服 せいふく された4つの集団 しゅうだん の1つとして「高貴 こうき なるフランク人 じん (古 こ 高地 たかち ドイツ語 ご :Frankien din edilin)」が挙 あ げられている[9] [注釈 ちゅうしゃく 1] 」。そして、カエサル(=ローマ人 じん )とフランク人 じん は元来 がんらい 親族 しんぞく 関係 かんけい にあり、その共通 きょうつう の祖先 そせん はギリシア人 じん がトロイア を滅 ほろ ぼした時 とき にその地 ち からイタリア に移住 いじゅう したトロイア人 じん であると伝 つた えられる[9] 。そのトロイア人 じん の指導 しどう 者 しゃ たちのうち、アエネイス に率 ひき いられた一団 いちだん がローマを建設 けんせつ し、フランコ(Franko)という指導 しどう 者 しゃ に率 ひき いられた一団 いちだん がライン河畔 かはん に「小 しょう トロイア」を建設 けんせつ し、フランク人 じん が誕生 たんじょう したのだという[9] 。
この伝説 でんせつ は史実 しじつ からはかけ離 はな れた虚構 きょこう の物語 ものがたり であり、今日 きょう の歴史 れきし 学 がく 的 てき 見地 けんち からは史料 しりょう 的 てき 価値 かち を見出 みいだ すことはできない[10] 。だが、フランス 王 おう は、フランク人 じん の唯一 ゆいいつ の正統 せいとう な後継 こうけい 者 しゃ であることを自任 じにん していたため、王家 おうけ であるカペー家 か の系譜 けいふ をフランク人 じん トロイア起源 きげん 説 せつ に基 もと づきトロイア人 じん の英雄 えいゆう たちと接続 せつぞく した[10] 。そして神聖 しんせい ロ ろ ーマ帝国 まていこく にあってはドイツ地方 ちほう とロ ろ ーマ帝国 まていこく の歴史 れきし 的 てき 同一 どういつ 性 せい の根拠 こんきょ と見 み 做された[10] 。このため、この伝説 でんせつ はフランス、ドイツ民族 みんぞく 意識 いしき の確立 かくりつ 過程 かてい や帝 みかど 権 けん イデオロギーに重大 じゅうだい な影響 えいきょう を与 あた えた[10] 。
現代 げんだい の学説 がくせつ [ 編集 へんしゅう ]
今日 きょう 定説 ていせつ として通用 つうよう している説 せつ は、元来 がんらい フランク人 じん はまとまりを持 も った性格 せいかく を持 も つ部族 ぶぞく ではなく、3世紀 せいき 半 なか ばにライン川 がわ 右岸 うがん に居住 きょじゅう していたイスタエウォーネス 神 かみ を祖先 そせん と見 み なす複数 ふくすう の部族 ぶぞく 、カマーウィー族 ぞく (英語 えいご 版 ばん ) 、ブルクテリー族 ぞく 、カットゥアリー族 ぞく (英語 えいご 版 ばん ) 、サリー族 ぞく 、アムシヴァリー族 ぞく (英語 えいご 版 ばん ) などの部族 ぶぞく が結集 けっしゅう した政治 せいじ 的 てき 同盟 どうめい として成立 せいりつ したとするものである[11] [6] [1] [12] 。
フランク人 じん は、紀元前 きげんぜん 1世紀 せいき の「ガリア戦記 せんき 」や1世紀 せいき の「ゲルマニア 」に記録 きろく されたような他 ほか の古 ふる いゲルマン人 じん 諸 しょ 部族 ぶぞく と違 ちが い、3世紀 せいき 半 なか ばになってから歴史 れきし 上 じょう に現 あらわ れる[2] 。しかも、ローマ人 じん が用 もち いる他 ほか のゲルマニアの民族 みんぞく (部族 ぶぞく )名 めい が特定 とくてい の集団 しゅうだん を指 さ したのに対 たい し、「フランク人 じん 」は、ライン川 がわ とヴェーザー川 がわ の間 あいだ の地域 ちいき に居住 きょじゅう した複数 ふくすう の部族 ぶぞく の総称 そうしょう として用 もち いられた[1] 。289年 ねん にカマーウィー族 ぞく が、307年 ねん にブルクテリー族 ぞく が、306年 ねん から315年 ねん にはカットゥアリー族 ぞく が、357年 ねん にサリー族 ぞく が、そして364年 ねん から375年 ねん 頃 ごろ にかけてはアムシヴァリー族 ぞく とトゥヴァンテース族 ぞく (英語 えいご 版 ばん ) が、ローマ側 がわ の史料 しりょう において「フランク人 じん 」と呼 よ ばれている[1] 。これはあくまでもローマ人 じん の張 は ったレッテルであり、実際 じっさい にこれらの部族 ぶぞく が「フランク人 じん 」という共 とも 族 ぞく 意識 いしき を持 も っていたかは不明 ふめい である[1] 。アメリカ の歴史 れきし 学者 がくしゃ パトリック・ジョセフ・ギアリ (英語 えいご 版 ばん ) は、ある集団 しゅうだん が置 お かれた政治 せいじ 的 てき 状況 じょうきょう が中世 ちゅうせい 初期 しょき の部族 ぶぞく アイデンティティーの形成 けいせい に重要 じゅうよう であったことを指摘 してき しており、フランク族 ぞく においても同様 どうよう のことが言 い えるかもしれない[1] 。
3,4世紀 せいき の「フランク人 じん 」たちが共通 きょうつう の言語 げんご 、習俗 しゅうぞく 、風俗 ふうぞく を持 も っていたかは不明 ふめい であるが[1] 、一般 いっぱん に古代 こだい 末期 まっき から中世 ちゅうせい 初期 しょき にかけてのゲルマン人 じん は髪 かみ を部族 ぶぞく への帰属 きぞく を示 しめ す指標 しひょう としたことが知 し られており、少 すく なくとも5世紀 せいき にはフランク人 じん たちも共通 きょうつう する髪型 かみがた によって帰属 きぞく を示 しめ していた[13] 。フランク人 じん の王族 おうぞく は長髪 ちょうはつ を切 き らずにたなびかせ王権 おうけん の象徴 しょうちょう とした一方 いっぽう 、一般 いっぱん 戦士 せんし の男性 だんせい は青年 せいねん 期 き に達 たっ した時 とき 、「最初 さいしょ の断髪 だんぱつ 」によって後頭部 こうとうぶ を剃 す りあげた[13] [14] 。
ロ ろ ーマ帝国 まていこく とフランク人 じん [ 編集 へんしゅう ]
フランク人 じん は最初 さいしょ 期 き の記録 きろく においてロ ろ ーマ帝国 まていこく の敵 てき として現 あらわ れる[15] 。
彼 かれ らは既 すで にローマ化 か されていたガリア に3世紀 せいき 頃 ごろ 侵入 しんにゅう した[15] 。しかし、フランク人 じん とローマの敵対 てきたい 関係 かんけい はローマの司令 しれい 官 かん ユリアヌス と関係 かんけい を持 も ったことで大 おお きな転換 てんかん 点 てん を迎 むか えた[16] [17] 。フランク人 じん のサリー族 ぞく はユリアヌスによって358年 ねん にブラバント 北部 ほくぶ のトクサンドリア地方 ちほう (英語 えいご 版 ばん ) [注釈 ちゅうしゃく 2] への移住 いじゅう を認 みと められ、国境 こっきょう 警備 けいび の任 にん にあたるようになった[18] [17] 。この時 とき からサリー族 ぞく はローマの補助 ほじょ 軍 ぐん に組 く み込 こ まれ、フランク族 ぞく 特有 とくゆう の武器 ぶき と戦術 せんじゅつ を備 そな えた「部隊 ぶたい (numeri)」を形成 けいせい した[17] 。361年 ねん にユリアヌスがローマ皇帝 こうてい に即位 そくい した後 のち も、サリー・フランク人 じん は彼 かれ の指揮 しき 下 か でローマ軍 ぐん として戦 たたか い、軍役 ぐんえき が終了 しゅうりょう した後 のち にはガリアで退役 たいえき 兵 へい として土地 とち の割 わ り当 あ てを受 う けた[17] 。彼 かれ らはロワール川 がわ からセーヌ川 がわ にいたる地域 ちいき に定住 ていじゅう し、その生活 せいかつ 様式 ようしき は現地 げんち 人 じん と同化 どうか していった[19] 。
また、ローマ軍 ぐん としての勤務 きんむ はサリー族 ぞく の支配 しはい 層 そう がロ ろ ーマ帝国 まていこく の組織 そしき 内 ない において栄達 えいたつ していく切 き っ掛 か けとなった[16] 。部族 ぶぞく の指導 しどう 的 てき 家系 かけい の出身 しゅっしん と考 かんが えられるメロバウデス は377年 ねん と382年 ねん に西 にし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の執政 しっせい 官 かん (コンスル)職 しょく に就任 しゅうにん した[2] 。これは皇族 こうぞく でない者 もの としては未 み 曽 そ 有 ゆう のことであった[2] 。また、380年 ねん にはグラティアヌス 帝 みかど によってフランク人 じん のフラウィウス・バウト が軍 ぐん 司令 しれい 官 かん に任命 にんめい され、その5年 ねん 後 ご には執政 しっせい 官 かん (コンスル)に就任 しゅうにん した[16] 。バウトの甥 おい にあたるテウドメール (英語 えいご 版 ばん ) は「フランク人 じん の王 おう (rex Francorum )」という称号 しょうごう を帯 お びた最初 さいしょ の人物 じんぶつ であり[2] 、マロバウデス (英語 えいご 版 ばん ) というフランク人 じん はローマ軍 ぐん の将軍 しょうぐん を務 つと めた後 のち 、「フランク人 じん の王 おう 」になり378年 ねん のアレマン族 ぞく との戦 たたか いを勝利 しょうり に導 みちび いたとされる[20] 。バウトの娘 むすめ アエリア・エウドクシア (英語 えいご 版 ばん ) は395年 ねん に東 ひがし の皇帝 こうてい アルカディウス の妃 ひ となり、後 ご の皇帝 こうてい テオドシウス2世 せい を生 う んでいる[16] 。このように4世紀 せいき 後半 こうはん にはほぼ1世代 せだい にわたり、ロ ろ ーマ帝国 まていこく 内 ない でフランク人 じん 出身 しゅっしん 者 しゃ が目覚 めざ ましい躍進 やくしん を遂 と げた。
とはいえこの躍進 やくしん は、フランク部族 ぶぞく の統合 とうごう を意味 いみ しなかった[16] 。380年 ねん 頃 ころ 、ライン・フランク人 じん (リプアリー・フランク人 じん )たちは、ゲンノバウド (英語 えいご 版 ばん ) 、マルコメール (英語 えいご 版 ばん ) 、スンノ (英語 えいご 版 ばん ) という三 さん 人 にん の指導 しどう 者 しゃ の下 した 、ライン川 がわ を越 こ えてローマ領 りょう に侵入 しんにゅう し周辺 しゅうへん を荒 あ らしまわった[20] 。やはりフランク人 じん であり帝国 ていこく に仕 つか えていたアルボガスト (英語 えいご 版 ばん ) は、皇帝 こうてい ウァレンティニアヌス2世 せい に、これらのライン・フランク人 じん の首長 しゅちょう たちが略奪 りゃくだつ 品 ひん の返還 へんかん と首謀 しゅぼう 者 しゃ の引 ひ き渡 わた しに応 おう じなければ、ライン・フランク人 じん を殲滅 せんめつ すべきであると進言 しんげん したと伝 つた えられている[20] 。ウァレンティニアヌス2世 せい は人質 ひとじち の引 ひ き渡 わた し交渉 こうしょう が開始 かいし されただけで満足 まんぞく したが、ウァレンティニアヌス2世 せい の死後 しご 、傀儡 かいらい のエウゲニウス 帝 みかど を推戴 すいたい したアルボガストはライン・フランク人 じん に対 たい して大 だい 規模 きぼ な軍事 ぐんじ 行動 こうどう を起 お こし、このフランク人 じん の王 おう たちを鎮撫 ちんぶ した[20] 。その後 ご アルボガストはテオドシウス1世 せい との戦 たたか いに敗 やぶ れ、自決 じけつ に追 お い込 こ まれた[16] 。これを契機 けいき に、ローマ中央 ちゅうおう 政界 せいかい におけるフランク人 じん の進出 しんしゅつ は退潮 たいちょう に向 む かい、代 か わってゴート人 じん たちがその権勢 けんせい を拡大 かくだい していくこととなった[16] 。
王権 おうけん の確立 かくりつ [ 編集 へんしゅう ]
上述 じょうじゅつ の通 とお り4世紀 せいき 末 まつ の段階 だんかい では、フランク人 じん には確立 かくりつ した王権 おうけん はなく、数 すう 多 おお くの集団 しゅうだん が「将領 しょうりょう 」的 てき 統率 とうそつ 者 しゃ の下 した で割拠 かっきょ していたと考 かんが えられる[8] 。トゥールのグレゴリウスが引用 いんよう するスルキピウス・アレキサンデル の歴史 れきし 書 しょ は、このフランク人 じん の支配 しはい 者 しゃ について、最初 さいしょ の王 おう の名前 なまえ を挙 あ げることなく、彼 かれ らが大公 たいこう (ducas)を有 ゆう していたと表現 ひょうげん している[16] 。このことは4世紀 せいき 末 まつ の段階 だんかい で、フランク人 じん の下 した では確立 かくりつ した王制 おうせい が未 いま だ存在 そんざい せず、古来 こらい からのゲルマン人 じん に見 み られた「大公 たいこう 」たちによる連合 れんごう 体制 たいせい がとられていた事 こと を示唆 しさ している[16] 。また、グレゴリウスはこの時代 じだい のフランク人 じん の支配 しはい 者 しゃ を「王 おう のごとき者 しゃ (regales)」、または「小 しょう 王 おう (sub-regules)」と表現 ひょうげん し、「王 おう (rex)」として扱 あつか わない[8] 。
グレゴリウスは、フランク人 じん がパンノニアから出 で たとし、初 はじ めライン川 がわ 沿岸 えんがん に定着 ていちゃく した後 のち 、ライン川 がわ を越 こ えてトリンギア (Thoringia)に移 うつ り、その地 ち でパグス (pagus)とキウィタス (civitas)ごとに高貴 こうき な家柄 いえがら の者 もの として「長髪 ちょうはつ の王 おう 」を推戴 すいたい したと記 しる す[8] 。それに続 つづ けて、フランク人 じん リコメール の息子 むすこ 、テウドメール (英語 えいご 版 ばん ) を初 はじ めて明確 めいかく に「フランク人 じん の王 おう (rex Francorum)」として言及 げんきゅう し[8] 、また「高貴 こうき なる」フランク人 じん クロディオ (英語 えいご 版 ばん ) が、やはり王 おう であったと伝 つた え、彼 かれ の家系 かけい からメロヴィク (メロヴィクス)王 おう が出 で て、その子 こ キルデリク1世 せい と孫 まご クローヴィス1世 せい によりフランク王国 おうこく (メロヴィング朝 あさ )が成立 せいりつ した過程 かてい を記録 きろく している[21] 。このフランク人 じん の王権 おうけん 確立 かくりつ 、メロヴィング家 か の権威 けんい の確立 かくりつ の過程 かてい については史料 しりょう 的 てき 制約 せいやく によりはっきりしたことはわかっていない[8] [22] 。ただ、クロヴィス1世 せい の時代 じだい には既 すで にメロヴィング家 か の出身 しゅっしん 者 しゃ だけが王 おう となれるのが彼 かれ の部族 ぶぞく では自明 じめい となっていた[22]
しかし、5世紀 せいき の段階 だんかい においても、未 いま だフランク人 じん の部族 ぶぞく 形成 けいせい は終了 しゅうりょう していなかったと見 み られる[23] 。『偽 にせ フレデガリウス年代 ねんだい 記 き 』が伝 つた えるところによれば、メロヴィクは海神 わたつみ ネプチューン の獣 しし の姿 すがた で現 あらわ れたクロディオ王 おう とその妻 つま の間 あいだ の息子 むすこ であるとされるが、この説話 せつわ は白 しろ 牛 うし に変身 へんしん したゼウス とフェニキア の王女 おうじょ エウロペー の伝承 でんしょう に影響 えいきょう を受 う けたものなのは明 あき らかである[23] 。つまり、キルデリク1世 せい とクロヴィス1世 せい の時代 じだい から数 すう 世代 せだい 遡 さかのぼ っただけで、出自 しゅつじ 伝承 でんしょう が神話 しんわ の世界 せかい に入 はい るほど、フランク王権 おうけん の生成 せいせい は「新 あたら しい」出来事 できごと だったのである[23] 。
5世紀 せいき 末 すえ 、このサリー・フランク のクローヴィス1世 せい が、全 すべ てのフランク勢力 せいりょく を統一 とういつ してフランク王国 おうこく を建設 けんせつ し、キリスト教 きりすときょう に改宗 かいしゅう した。以降 いこう 、フランク人 じん はイベリア半島 はんとう 、ブリテン島 とう 、イタリア半島 はんとう 南部 なんぶ 、ブルターニュ半島 はんとう を除 のぞ く、西 にし ヨーロッパ全域 ぜんいき を支配 しはい する王国 おうこく を打 う ち立 た てていく。
フランク人 じん の植民 しょくみん [ 編集 へんしゅう ]
400年 ねん から440年 ねん まで、フランク人 じん の領土 りょうど 変遷 へんせん 。
フランク王国 おうこく の建設 けんせつ は、一般 いっぱん に人口 じんこう 史 し において「フランク人 じん の植民 しょくみん 」と呼 よ ばれる出来事 できごと を伴 ともな っていた[24] 。いわゆる民族 みんぞく 移動 いどう 時代 じだい にローマ領 りょう へ移住 いじゅう した他 ほか のゲルマン諸 しょ 部族 ぶぞく と比 くら べ、フランク人 じん たちの移動 いどう 距離 きょり は短 みじか く、ライン川 がわ とヴェーザー川 がわ の間 あいだ にあった本来 ほんらい の居住 きょじゅう 地 ち との繋 つな がりを維持 いじ していた[24] 。学者 がくしゃ の中 なか には、これが他 た のゲルマン諸 しょ 王国 おうこく に比 くら べフランク王国 おうこく が強力 きょうりょく であった理由 りゆう の一 ひと つであると見 み 做す者 しゃ もいる[24] 。
クロヴィス1世 せい による北部 ほくぶ ガリア制圧 せいあつ と並行 へいこう して、かなりの数 かず の農民 のうみん が征服 せいふく 地 ち に移住 いじゅう した[24] 。しかし、実際 じっさい にどの程度 ていど の規模 きぼ で、どの範囲 はんい に移住 いじゅう が行 おこな われたのかを知 し るのは困難 こんなん である[25] 。地名 ちめい 学 がく と考古学 こうこがく による分析 ぶんせき によれば、フランク人 じん の定住 ていじゅう 密度 みつど は、セーヌ川 がわ までが中心 ちゅうしん であり、セーヌ川 がわ とロワール川 がわ の間 あいだ の地域 ちいき では少数 しょうすう であった。ロワール川 かわ 以南 いなん (南部 なんぶ ガリア)へは、支配 しはい 者 しゃ として赴任 ふにん した者 もの 以外 いがい 、ほぼ移住 いじゅう は行 おこな われなかったと考 かんが えられる[25] 。移住 いじゅう が集中 しゅうちゅう したガリア北部 ほくぶ においても、現地 げんち のガロ・ローマ人 じん [注釈 ちゅうしゃく 3] に比 くら べ、その人口 じんこう は約 やく 4分 ぶん の1あまりであったと考 かんが えられている[25] 。
フランク王国 おうこく におけるフランク人 じん [ 編集 へんしゅう ]
メロヴィング朝 あさ によってガリア全域 ぜんいき の支配 しはい を得 え たフランク王国 おうこく は、768年 ねん のピピン3世 せい の即位 そくい 以来 いらい 、カロリング朝 あさ の王家 おうけ によって支配 しはい されるようになった。このカロリング朝 あさ の王 おう カール1世 せい (大帝 たいてい )は西 にし ヨーロッパ全域 ぜんいき を征服 せいふく し、800年 ねん には「ローマ皇帝 こうてい 位 い 」を獲得 かくとく した。
フランク王国 おうこく の支配 しはい 層 そう には建国 けんこく 当初 とうしょ より、ガロ・ローマ人 じん の貴族 きぞく や、西 にし ゴート人 じん 、アレマン人 じん 、ブルグント人 じん 、バイエルン人 じん の貴族 きぞく が加 くわ わり、特 とく にガロ・ローマ人 じん たちは教会 きょうかい 内部 ないぶ で支配 しはい 的 てき 役割 やくわり を担 にな った[25] 。また、これらの諸 しょ 民族 みんぞく (部族 ぶぞく )は、フランク王権 おうけん に服属 ふくぞく したものの、それぞれ固有 こゆう の言語 げんご 、法律 ほうりつ 、習俗 しゅうぞく を維持 いじ していた[25] 。フランク人 じん の法律 ほうりつ とロ ろ ーマ帝国 まていこく に起源 きげん を持 も つ「国家 こっか 法 ほう 」は全土 ぜんど に適用 てきよう されたが、実態 じったい としては王国 おうこく の部分 ぶぶん ごとに実効 じっこう 性 せい に大 おお きな差異 さい があった[25] 。しかし、全体 ぜんたい としては、王国 おうこく の名称 めいしょう 「フランク人 じん の王国 おうこく (regnum Francorum)」からも、国王 こくおう の称号 しょうごう 「フランク人 じん の王 おう (rex Francorum)」からも、この王国 おうこく がフランク人 じん という一部 いちぶ 族 ぞく に依拠 いきょ する支配 しはい 団体 だんたい であることは明確 めいかく に示 しめ されている[25] 。フランク人 じん 自体 じたい も様々 さまざま な身分 みぶん と階層 かいそう に分 わ かれていたが、総体 そうたい として彼 かれ らは国家 こっか 法 ほう の意味 いみ での王国 おうこく の担 にな い手 て と見 み 做され、格別 かくべつ の部族 ぶぞく 意識 いしき 、帝国 ていこく 意識 いしき が生 う み出 だ された[25] 。ドイツの歴史 れきし 学者 がくしゃ ゲレト・テレンバッハ (英語 えいご 版 ばん ) はカロリング朝 あさ 期 き に「貴族 きぞく 層 そう のトップを構成 こうせい し、国王 こくおう や一部 いちぶ の高位 こうい 聖職 せいしょく 者 しゃ と並 なら んで帝国 ていこく 政治 せいじ に決定的 けっていてき 役割 やくわり をになった」エリート貴族 きぞく 階層 かいそう を「帝国 ていこく 貴族 きぞく 層 そう (Reichisaristokratie)」と名付 なづ け、分析 ぶんせき を行 おこな った。それによれば8世紀 せいき から10世紀 せいき にかけて史料 しりょう から抽出 ちゅうしゅつ される帝国 ていこく 貴族 きぞく 層 そう 42家門 かもん 111人 にん のうち、6割 わり 以上 いじょう をフランク人 じん が占 し めていたとしている[27] 。
広大 こうだい な王国 おうこく の東西 とうざい に居住 きょじゅう するフランク人 じん たちは、多様 たよう な言語 げんご 環境 かんきょう に置 お かれていた。ガリア地方 ちほう においては、ガロ・ローマ人 じん たちがロ ろ ーマ帝国 まていこく 以来 いらい のラテン語 らてんご を使用 しよう していたが、時 とき と共 とも に古代 こだい の発音 はつおん 、文法 ぶんぽう 規範 きはん から離 はな れつつあった(俗 ぞく ラテン語 らてんご )。文章 ぶんしょう 語 ご であり神 かみ への祈 いの りの言語 げんご でもあったラテン語 らてんご の「乱 みだ れ」を正 ただ すべく、カール1世 せい と取 と り巻 ま きの学者 がくしゃ たちはカロリング・ルネサンス と呼 よ ばれる文化 ぶんか 的 てき 潮流 ちょうりゅう の中 なか で、「正 ただ しいラテン語 らてんご 」の制定 せいてい を試 こころ みた。この正 ただ しいラテン語 らてんご の制定 せいてい は、正 ただ しくないラテン語 らてんご (俗 ぞく ラテン語 らてんご )が、ラテン語 らてんご の変種 へんしゅ (俗 ぞく ラテン語 らてんご )ではなく「別種 べっしゅ の言語 げんご 」と定義 ていぎ される切 き っ掛 か けとなった。中世 ちゅうせい ラテン語 らてんご の確立 かくりつ の後 のち 、ラテン語 らてんご からこれらの「田野 でんや 風 ふう のラテン語 らてんご 」への「翻訳 ほんやく 」が問題 もんだい となるようになり、ここをロマンス語 ご とラテン語 らてんご の分岐 ぶんき 点 てん とする考 かんが え方 かた が、ラテン語 らてんご 学者 がくしゃ やロマンス語学 ごがく 者 しゃ によって概 おおむ ね認 みと められている[28] 。
北部 ほくぶ ガリアのフランク人 じん たちは現地 げんち のガロ・ローマ人 じん の言語 げんご を取 と り入 い れ、ロマンス語 ご を日常 にちじょう の言語 げんご として使用 しよう するようになっていった[29] 。この西方 せいほう のフランク人 じん は9世紀 せいき 半 なか ばにはまだフランク語 ご を理解 りかい できたが、既 すで に相当 そうとう 程度 ていど ロマンス語 ご 化 か していたと考 かんが えられる[29] 。一方 いっぽう で東方 とうほう のフランク人 じん たちは古来 こらい からのフランク語 ご (ゲルマン語 ご )を維持 いじ し、これは文章 ぶんしょう 語 ご としてのラテン語 らてんご と並 なら び、支配 しはい 階級 かいきゅう の言語 げんご として王国 おうこく の共通 きょうつう 語 ご として通用 つうよう していた。こうした状況 じょうきょう は、842年 ねん にストラスブール でルートヴィヒ2世 せい とシャルル2世 せい が行 おこな った同盟 どうめい の誓約 せいやく (ストラスブールの誓約 せいやく )に端 はし 的 てき に表 あらわ れている[30] 。この誓約 せいやく は、ルートヴィヒ2世 せい とシャルル2世 せい が同 おな じ内容 ないよう を互 たが いの言語 げんご で反復 はんぷく し、誓約 せいやく を行 おこな うという形式 けいしき がとられた[29] 。
フランク王国 おうこく の分裂 ぶんれつ と「フランク」 [ 編集 へんしゅう ]
フランク王国 おうこく は843年 ねん のヴェルダン条約 じょうやく によって東 あずま フランク王国 おうこく 、西 にし フランク王国 おうこく 、中 なか フランク王国 おうこく の3つに分裂 ぶんれつ した。紆余曲折 うよきょくせつ を経 へ て、870年 ねん のメルセン条約 じょうやく により、中 なか フランク王国 おうこく の領土 りょうど のうち、イタリア以外 いがい の領域 りょういき が東西 とうざい 両 りょう 王国 おうこく に分割 ぶんかつ され、その後 ご カール3世 せい (肥満 ひまん 王 おう )による僅 わず かな期間 きかん を除 のぞ き、永久 えいきゅう に統合 とうごう されなかった。このことはそれぞれの王国 おうこく に住 す むフランク人 じん たち、更 さら にイタリア(ランゴバルド)や東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく における「フランク人 じん 」概念 がいねん に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた。
東西 とうざい どちらの王国 おうこく も、自 みずか らこそがフランク的 てき 伝統 でんとう の正統 せいとう な継承 けいしょう 者 しゃ であることを自任 じにん していたため、両国 りょうこく の歴史 れきし 叙述 じょじゅつ 家 か や書記 しょき たちは、自己 じこ の側 がわ を「フランク」であるとし、相手 あいて 側 がわ を「非 ひ フランク的 てき 」な名称 めいしょう で筆記 ひっき した[31] 。西 にし フランクの半 はん 官製 かんせい の史書 ししょ と言 い える『サン・ベルタン編 へん 年 ねん 誌 し 』では、東 あずま フランク王 おう ルートヴィヒ2世 せい を「ゲルマン人 じん の王 おう rex Germanorum」、または「ゲルマーニアの王 おう rex Germaniae」と呼 よ び[注釈 ちゅうしゃく 4] 、フランク王 おう とは呼 よ ばない[32] 。一方 いっぽう 東 あずま フランク側 がわ の『フルダ編 へん 年 ねん 誌 し 』もまた、西 にし フランク王国 おうこく を「ガリア Gallia」「シャルルの王国 おうこく regnum Karli」と呼称 こしょう し、フランクの名 な は東側 ひがしがわ に限定 げんてい して使用 しよう された[32] 。
西 にし フランク王国 おうこく では伝統 でんとう 的 てき 王家 おうけ であるカロリング家 か が王位 おうい を(名 めい 目的 もくてき にせよ)継承 けいしょう していたのに対 たい し、東 あずま フランクでは911年 ねん にカロリング朝 あさ が断絶 だんぜつ し、非 ひ カロリング家 か のコンラート1世 せい が、更 さら に919年 ねん には非 ひ フランク人 じん (ザクセン人 じん )であるハインリヒ1世 せい が即位 そくい した。こうしたことにも影響 えいきょう され、西 にし フランク側 がわ の正統 せいとう 意識 いしき は10世紀 せいき に入 はい るとますます明瞭 めいりょう になり、西 にし フランクのランス大司教 だいしきょう 座 ざ 参事 さんじ 会員 かいいん フロドアール は、フランクと名 な の付 つ くあらゆる概念 がいねん を「西 にし 」にのみ結 むす びつける(例 たと えばフランク王 おう 、フランク王国 おうこく 、フランキアと言 い う用語 ようご は自動的 じどうてき に「西 にし フランク」のことであった)一方 いっぽう で、東 あずま フランク王 おう は「ライン川 がわ の向 む こう側 がわ の国王 こくおう (Transrhenensis rex)」或 ある いは単 たん に「ライン川 がわ の向 む こう側 がわ の(Transrhensis)」とのみ呼称 こしょう している[32] 。ただし現実 げんじつ 的 てき には西 にし フランク側 がわ のこうした姿勢 しせい は、東 あずま フランク側 がわ の武力 ぶりょく によって譲歩 じょうほ を迫 せま られ、921年 ねん の和平 わへい において双方 そうほう が「西 にし フランク王 おう (rex Francorum occidentalium)」「東 あずま フランク王 おう (rex Francorum orientalium)」であると承認 しょうにん するのを余儀 よぎ なくされた[32] 。
更 さら に中 ちゅう フランク王国 おうこく の一部 いちぶ であったロートリンゲン 地方 ちほう においても、自 みずか らを正統 せいとう の「フランク人 じん 」であると見 み 做すという観念 かんねん が生 しょう じており、東 あずま フランク王 おう を「フランク=ロートリンゲン人 じん とゲルマン人 じん の国王 こくおう 」と呼 よ び、ロートリンゲン人 じん のみを「フランク」たる存在 そんざい と認識 にんしき しようとしていることを示 しめ す偽作 ぎさく 証書 しょうしょ が現存 げんそん している[33] 。
他方 たほう で、フランク概念 がいねん の外 そと にあるイタリア(ランゴバルド)では、「フランク人 じん (Franci)」と言 い う語 かたり は多義 たぎ 性 せい を帯 お びるようになった。クレモナ 司教 しきょう リウトプランド が10世紀 せいき 後半 こうはん に残 のこ した記録 きろく の一 ひと つ、『報復 ほうふく の書 しょ (ラテン語 らてんご 版 ばん 、フランス語 ふらんすご 版 ばん ) 』では「Franci」は「"ロマンス語 ご "系 けい フランク人 じん 」「"ドイツ語 ご "系 けい フランク人 じん 」の二 ふた つに大別 たいべつ される[31] 。リウトプランドは、前者 ぜんしゃ を単 たん に「Franci」と呼 よ ぶ一方 いっぽう 、後者 こうしゃ を「Franci Teutonici」と呼 よ び、この「"ドイツ語 ご "系 けい フランク人 じん (Franci Teutonici)」を、バイエルン人 じん やザクセン人 じん など、東 あずま フランク内 ない の他 ほか の民族 みんぞく と同列 どうれつ に扱 あつか っている[31] 。また、同 おな じくリウトプランドの『コンスタンティノープル使節 しせつ 記 き (ラテン語 らてんご 版 ばん ) 』によれば、東 ひがし ローマ(ビザンツ)皇帝 こうてい ニケフォロス2世 せい フォカス は「フランク人 じん (Franci)」と言 い う用語 ようご によって「ラテン人 じん ("ロマンス語 ご "系 けい フランク人 じん Latini)」「ドイツ人 じん ("ドイツ語 ご "系 けい フランク人 じん Teutones)」の双方 そうほう を認識 にんしき していたと述 の べられており、後世 こうせい の用法 ようほう における「広義 こうぎ のフランク人 じん -大 だい フランク王国 おうこく の住民 じゅうみん - 西欧 せいおう 人 じん 一般 いっぱん を指 さ す」用法 ようほう の源流 げんりゅう がここに見 み られる[31] 。なお、同書 どうしょ においてリウトプランド自身 じしん は「Franci」を常 つね に「狭義 きょうぎ のフランク人 じん -フランケン地方 ちほう のフランク人 じん -」の意味 いみ で用 もち いており[31] 、外国 がいこく 人 じん から見 み て「フランク」と言 い う用語 ようご が指 さ す実体 じったい がもはやただ一 ひと つではなかったことを示 しめ している。
東 あずま フランク王国 おうこく では、ザクセン人 じん ハインリヒ1世 せい の即位 そくい を通 つう じてザクセン人 じん が国 くに 制 せい の中枢 ちゅうすう に入 はい り込 こ むと共 とも に、東 あずま フランク王国 おうこく の領域 りょういき を比較的 ひかくてき 安定 あんてい 的 てき に統治 とうち することに成功 せいこう した。この王国 おうこく の基本 きほん 的 てき な枠組 わくぐ みは、その後 ご 数 すう 世紀 せいき にわたり存続 そんぞく しその住民 じゅうみん は徐々 じょじょ に共通 きょうつう の単一 たんいつ 国家 こっか への帰属 きぞく 意識 いしき を醸成 じょうせい していった[34] 。そして彼 かれ らは最終 さいしゅう 的 てき にフランク人 じん 、ザクセン人 じん 、バイエルン人 じん 、シュヴァーベン人 じん などの要素 ようそ を包括 ほうかつ してドイツ人 じん と他 た 称 しょう され、更 さら には自称 じしょう するようになり、近代 きんだい のドイツ人 じん の形成 けいせい へと繋 つな がっていく。
一方 いっぽう の西 にし フランク王国 おうこく では、その後 ご もフランクの名 な がそのまま継承 けいしょう された。西 にし フランク王国 おうこく の領域 りょういき にある国家 こっか の現代 げんだい の国名 こくめい :フランス (France)は、フランクの発音 はつおん が変化 へんか したものである[35] 。カペー朝 あさ 以降 いこう の王家 おうけ は「フランス人 じん の王 おう (rex Francorum)」を称号 しょうごう とした[35] 。この語 かたり はそのまま「フランク人 じん の王 おう 」と訳 やく すことも可能 かのう であり、どの時点 じてん において「フランク」が「フランス」になったと見做 みな せるのかは必 かなら ずしも明瞭 めいりょう ではない。
現代 げんだい の言語 げんご 学 がく 的 てき 文脈 ぶんみゃく では、初期 しょき のフランク人 じん たちが使用 しよう していた言語 げんご は「古 こ フランク語 ご 」または「古 こ フランケン語 ご 」など様々 さまざま な名称 めいしょう で呼 よ ばれ、西暦 せいれき 600年 ねん から700年 ねん の間 あいだ 頃 ごろ の第 だい 二 に 次 じ 子音 しいん 推移 すいい が起 お きる以前 いぜん の西 にし ゲルマン語 ご の方言 ほうげん を指 さ す。第 だい 二 に 次 じ 子音 しいん 推移 すいい の後 のち 、フランク語 ご の方言 ほうげん は複数 ふくすう の言語 げんご へと分岐 ぶんき していった。現代 げんだい のオランダ語 ご に繋 つな がるであろう第 だい 二 に 次 じ 子音 しいん 推移 すいい の影響 えいきょう を受 う けなかったフランク語 ご の方言 ほうげん と、様々 さまざま な程度 ていど に影響 えいきょう を受 う け、大 おお きな高地 たかち ドイツ語 ご のグループの一部 いちぶ となった他 ほか の全 すべ ての方言 ほうげん とである[36] 。
この第 だい 二 に 次 じ 子音 しいん 推移 すいい の影響 えいきょう を受 う けた言語 げんご と受 う けていない言語 げんご を識別 しきべつ するための用語 ようご として、古 こ オランダ語 ご (古 こ 低 てい フランク語 ご (Old Low Franconian)」という用語 ようご が使用 しよう される。ただし、古 こ オランダ語 ご (英語 えいご 版 ばん ) と古 ふる フランク語 ご の間 あいだ の違 ちが いはほとんど無 な い[37] 。
言語 げんご 学者 がくしゃ の河崎 かわさき 靖 やすし は、オランダ語 ご 圏 けん においては古 こ オランダ語 ご が、ドイツ語 ご 方言 ほうげん 学 がく の立場 たちば からは古 こ 低 てい フランク語 ご という用語 ようご が普通 ふつう に使用 しよう されるが、現代 げんだい のドイツ ・オランダ 国境 こっきょう 地域 ちいき の言語 げんご を指 さ し示 しめ す用語 ようご として必 かなら ずしも適切 てきせつ ではないと指摘 してき している。より中立 ちゅうりつ 的 てき な名称 めいしょう は低 てい ライン方言 ほうげん であると考 かんが えられるが、この名称 めいしょう も学術 がくじゅつ 用語 ようご として普及 ふきゅう しているとは言 い い難 がた いと言 い う[38] 。そして「現在 げんざい においては『ライン川 がわ 以西 いせい 、ベンラータ一線 いっせん (Benrather
Linie)以北 いほく のゲルマン語 ご 圏 けん 』の言語 げんご を低 てい フランク語 ご とみなすのが最 もっと も妥当 だとう な捉 とら え方 かた 」であるとする[38] 。
フランク語 ご はベルガッケル碑文 ひぶん (英語 えいご 版 ばん ) のような、当時 とうじ のフランク領 りょう から発見 はっけん された僅 わず かなルーン文字 もじ の碑文 ひぶん (英語 えいご 版 ばん ) を除 のぞ き、直接 ちょくせつ 記録 きろく されていない。しかし、かなりの数 かず の古 こ フランク語 ご の単語 たんご が、古 こ フランス語 ふらんすご の初期 しょき ゲルマン語 ご からの借用 しゃくよう 語 ご の調査 ちょうさ 、そして同様 どうよう にオランダ語 ご との比較 ひかく 再 さい 構成 こうせい によって復元 ふくげん されている[39] [40] [41] [42] 。
フランク語 ご は現代 げんだい の西 にし ヨーロッパの言語 げんご に少 すく なからぬ影響 えいきょう を与 あた えており、例 たと えば英語 えいご のアルファベット表記 ひょうき にはフランク語 ご の影響 えいきょう が見 み られる[43] 。またフランス語 ふらんすご における影響 えいきょう は重大 じゅうだい であり、4つの基本 きほん 的 てき な方角 ほうがく の名称 めいしょう (北 きた :nord 、南 みなみ :sud 、東 ひがし :est 、西 にし :ouest )を含 ふく む多数 たすう の単語 たんご がフランク語 ご から借用 しゃくよう されて残 のこ っている[40] [41] 。特 とく に色彩 しきさい 感覚 かんかく についてはフランク語 ご (ゲルマン語 ご )の影響 えいきょう によって完全 かんぜん に刷新 さっしん された。例 たと えば古 ふる いラテン語 らてんご では白 しろ を表 あらわ す語 かたり としてAlbus(くすんだ白 しろ )、Candidus(鮮 あざ やかな白 しろ )があったが、ゲルマン語 ご のBlank(白 しろ )の影響 えいきょう でフランス語 ふらんすご ではBlanc(白 しろ )のみとなった[42] 。同 おな じくラテン語 らてんご ではCaeruleus(紺碧 こんぺき の青 あお )、Cyaneus(濃 こ い青 あお )、Caesius(青 あお い灰色 はいいろ /緑 みどり がかった青 あお /緑 みどり ・灰色 はいいろ )、Glaucus(緑 みどり と薄 うす い青 あお の間 あいだ /明 あか るい灰色 はいいろ )、Violaceus(紫 むらさき がかった青 あお )のように表現 ひょうげん されていた色相 しきそう は、Bleu(青 あお )とGris(灰色 はいいろ )に統合 とうごう された[42] 。
^ フランク人 じん トロイア起源 きげん 伝説 でんせつ は少 すく なくとも7世紀 せいき に作成 さくせい された『偽 にせ フレデガリウス年代 ねんだい 記 き 』にまで遡 さかのぼ る長 なが い伝統 でんとう を有 ゆう する[9] 。
^ ベルギーとオランダにまたがる地域 ちいき 。
^ ガロ・ローマ人 じん (Gallo-Roman)とはガリア(Gallia 概 おおむ ね現代 げんだい のフランス に相当 そうとう する地域 ちいき )に住 す むローマ系 けい 住民 じゅうみん を指 さ す学術 がくじゅつ 用語 ようご である。あくまでも現代 げんだい 歴史 れきし 学 がく の用語 ようご であり、古代 こだい ローマ時代 じだい 及 およ びフランク王国 おうこく 時代 じだい にこれに対応 たいおう する概念 がいねん が存在 そんざい していたわけではない。ミシェル・ソはこの用語 ようご について「私 わたし たちはガロ=ローマ人 じん について、二 に 十 じゅう 世紀 せいき の立場 たちば で語 かた っているが、五 ご 世紀 せいき には、また、そのあとの何 なに 世紀 せいき かにも、そのような呼 よ び名 な は存在 そんざい しなかった。ガリアでは、読 よ み書 か きのできる人々 ひとびと は、自 みずか らを「ローマ人 じん 」であり、普遍 ふへん 的 てき 帝国 ていこく とローマ文化 ぶんか の継承 けいしょう 人 じん と考 かんが えていた。」と述 の べ、ガロ=ローマ人 じん とは(ガリアに住 す む)キリスト教徒 きりすときょうと ローマ人 じん であるとしている[26] 。ローマに対 たい する「ガリア民族 みんぞく 意識 いしき 」というものはいかなる意味 いみ でも存在 そんざい しなかったのであり、ガリア人 じん とは諸 しょ 民族 みんぞく に君臨 くんりん すべきローマ人 じん の一部 いちぶ であった[26] 。
^ この東 あずま フランク王 おう は現代 げんだい の歴史 れきし 叙述 じょじゅつ においてしばしば、ルートヴィヒ2世 せい ・ドイツ人 じん 王 おう と言 い う異名 いみょう で呼 よ ばれる。この「ドイツ人 じん 王 おう 」と言 い う異名 いみょう はこのゲルマンと言 い う用語 ようご を、近 きん 現代 げんだい におけるドイツ の同義語 どうぎご と見 み 做した近世 きんせい 以降 いこう の歴史 れきし 家 か によって与 あた えられたものであり、時代 じだい 錯誤 さくご の誤訳 ごやく であると評 ひょう される[32] 。
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