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ヨルダネス

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヨルダネスが『ゲチカ』をあらわした550ねんころ地中海ちちゅうかい地方ちほうコンスタンティノープル首都しゅととするひがしマ帝国まていこくピンク色ぴんくいろしめされている。ユスティニアヌス1せいによる征服せいふく獲得かくとくされた版図はんと緑色みどりいろしめされている。

ヨルダネス(Iordanes[1]、Jordanes、べつ表記ひょうきに Jordanis、まれに Jornandes[2]) は、6世紀せいきひがしマ帝国まていこく官僚かんりょうであった、ゴートぞく血統けっとう人物じんぶつ[3]後年こうねんには歴史れきしとなった。

ローマの歴史れきししるした『ロマーナ (Romana)』と通称つうしょうされる『De summa temporum vel origine actibusque gentis Romanorum』もあらわしたが[1]もっともよくられるのは、551ねんころに執筆しっぴつされた『ゲチカ (Getica)』と通称つうしょうされる『De origine actibusque Getarum』である[1][4]ゴートぞく初期しょき歴史れきしあつかった古代こだい書物しょもつで、内容ないよう現存げんそんするものは、セビリアイシドールスによる『ゴート・ヴァンダル・スエウィ王国おうこく (Historia de regibus Gothorum, Vandalorum et Suevorum)』と、『ゲチカ』しかない。

ヨルダネスは、とある友人ゆうじんから、政治せいじであったカッシオドルスの12かんおよ大著たいちょで、当時とうじ存在そんざいしていたが今日きょうではうしなわれてしまった『ゴート (Historia Gothorum)』の要約ようやくばんとして、『ゲチカ』の執筆しっぴつたのまれた。その時点じてんまでにヨルダネスは、当時とうじひがしマ帝国まていこく辺境へんきょうで、現代げんだいルーマニア南東なんとうからブルガリア北東ほくとうにあたるしょうスキタイ英語えいごばんにあった衛星えいせいこくのひとつで、高位こうい書記官しょきかん (notarius) をつとめた経験けいけんがあった[5]

プロコピオスなど、著作ちょさくたちも、その、ゴートぞく歴史れきしについて記述きじゅつのこした。そのさい、『ゲチカ』はゴートぞく起源きげんについてべた唯一ゆいいつ典拠てんきょとして、おおいに批判ひはんてき検討けんとうくわえられた。ヨルダネスは、キケロ時代じだいのような古典こてんラテン語らてんごではなく、後期こうきラテン語らてんご記述きじゅつをしている。ヨルダネス自身じしんしるした序文じょぶんによれば、かれカッシオドルスきした内容ないよう検討けんとうするのに3日間にちかんしか使つかえなかったというが、このことから記述きじゅつにあたってヨルダネスが、かれ自身じしん知見ちけんにも依拠いきょするかたち執筆しっぴつしたことがさっせられる。

生涯しょうがい

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ヨルダネスは、自分じぶん自身じしんについても簡単かんたん言及げんきゅうのこしている[6][7]

Scyri vero et Sadagarii et certi Alanorum cum duce suo nomine Candac Scythiam minorem inferioremque Moesiam acceperunt. Cuius Candacis Alanoviiamuthis patris mei genitor Paria, id est meus avus, notarius; quousque Candac ipse viveret, fuit, eiusque germanae filio Gunthicis, qui et Baza dicebatur, mag. mil., filio Andages fili Andele de prosapia Amalorum descendente, ego item quamvis agramatus Iordannis ante conversionem meam notarius fui.

スキリぞく英語えいごばんは、サダガリぞく (Sadagarii) やカンダック (Candac) という族長ぞくちょうひきいたアランじんとともに、しょうスキタイしもモエシアはいっていた。カンダックのもとで、わたしちちアラノウィーアムティス (Alanoviiamuthis) のちち、つまりわたし祖父そふであるパリア (Paria) は、カンダックの存命ぞんめいちゅう、その秘書官ひしょかんであった。かれあね/いもうと息子むすこで、グンティキス (Gunthicis)、別名べつめいバザ (Baza) ともばれたぐん司令しれいかんで、アマルあさ英語えいごばん系譜けいふくアンデレ (Andele) のアンダグ (Andag) のもとで、まだ改宗かいしゅうまえ無学むがくであったにもかかわらず、わたしヨルダネスは秘書官ひしょかんであった。

テオドール・モムゼン編纂へんさんによる1882ねんのテキストの時点じてんで、ヨルダネスのちち非常ひじょうながが、いずれもぞくかくをとるふたつの単語たんご、アラノウィーとアムティス (Alanovii Amuthis) だったのではないかとするせつ提示ていじされている。そうだとすると、ヨルダネスのちちはアムト (Amuth) だったはずで、そのまえかたりは、そのまえにあるカンダックを修飾しゅうしょくするもので、かれアランじんであったことを意味いみしていることになる。しかし、モムゼンは、テキストを校訂こうていすべきとする提案ていあんをいずれも退しりぞけた[8]

パリアは、ヨルダネスの父方ちちかた祖父そふであった。ヨルダネスは、パリアがカンダックの秘書官ひしょかんであったとしるしているが、アラノルムこう (dux Alanorum) としょうされたかれは、ここでの言及げんきゅう以外いがいではられていないアランじん指導しどうしゃである。

ヨルダネスは、ノタリウス (notarius) としょうされた書記官しょきかんとして、ひがしゴートぞく有力ゆうりょく氏族しぞくアマル系譜けいふくカンダックのおいで、ぐん司令しれいかん(マギステル・ミリトゥム)であったグンティギス・バザ (Gunthigis Baza) につかえた。

これは「まだ改宗かいしゅうまえ (ante conversionem meam)」のことであったとされる。この改宗かいしゅうが、なに意味いみしているのか、その性格せいかく詳細しょうさいからない。ゴートぞくは、ゴートじんであるウルフィラたすけによってすでに改宗かいしゅうすすんでおり、ウルフィラはそのこうにより主教しゅきょうじょされていた。しかし、ゴートじんたちはアリウス信仰しんこうれていた。ヨルダネスのいう改宗かいしゅうは、三位一体さんみいったい主義しゅぎをとるニカイア信条しんじょうへの改宗かいしゅう意味いみしているのかもしれず、『ゲチカ』の一部いちぶにみえるはんアリウスてき表現ひょうげんにそれがあらわれているともかんがえらえる[9]ローマ教皇きょうこうウィギリウスてた書簡しょかんなかで、ヨルダネスは、「あなたのご審問しんもん (vestris interrogationibus)」のおかげで覚醒かくせいしたとべている。

またべつせつでは、ヨルダネスの「改宗かいしゅう」とは、かれ修道しゅうどう (religiosus) か、なんらかの聖職せいしょくしゃになったことを意味いみしているとする[1]一部いちぶ写本しゃほんは、ヨルダネスが主教しゅきょうであったとべており、ラヴェンナ主教しゅきょう英語えいごばんであったとするものもあるが、ラヴェンナ主教しゅきょうとして記録きろくされているもの一覧いちらんには、ヨルダネスの見当みあたらない。

著作ちょさく

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トロイアの円柱えんちゅう装飾そうしょくえがかれたダキアじんゲタイひとたち。ヨルダネスは、かれらのおこないを、あやまってゴートぞく行為こういとして記述きじゅつした。

ヨルダネスは、『ロマーナ』を、ウィギリウス (Vigilius) という人物じんぶつもとめにおうじてあらわした。一部いちぶ研究けんきゅうしゃは、この人物じんぶつローマ教皇きょうこうウィギリウスだとしているが、一致いっちしていることのほかに、このせつ支持しじするものはない。ヨルダネスがもちいているびかけの形式けいしきや、ウィギリウスが「かみなおした」といった言及げんきゅうから、このせつ棄却ききゃくされよう[8][10]

ゲチカ』の序文じょぶんで、ヨルダネスは『ロマーナ』の執筆しっぴつを、ヨルダネスが自宅じたくに12かんおよカッシオドルスの『ゴート』を所有しょゆうしていたことをっていたらしいカスタリウス (Castalius) のもとめにおうじて中断ちゅうだんしたことをしるしている。ヨルダネスが「兄弟きょうだいカスタリウス (frater Castali)」とぶほどのなかであったカスタリウスは、この主題しゅだいについてのみじか書物しょもつもと[11][12]、ヨルダネスは記憶きおくたよりに、おそらくはプリスコス英語えいごばん著作ちょさくなど入手にゅうしゅできたほか資料しりょうもちいておぎないながら、その抜粋ばっすいつくった[1]。『ゲチカ』は、おもに2世紀せいきごろからヨルダネスのきた6世紀せいきにかけてのゴートぞく歴史れきし記述きじゅつであるが[1]冒頭ぼうとうではゴートぞく発祥はっしょうとして、北方ほっぽう地域ちいきとくスカンザ英語えいごばん (16–24) の地誌ちし民族みんぞくからこしている。ゴートぞく歴史れきしはじまりは、ベリグ英語えいごばんが3せきふねひきいてスカンザからゴティスカンザ英語えいごばんわたった (25, 94)、はるむかしのことだという。ヨルダネスの記述きじゅつによると、ヘロドトス言及げんきゅうしたゲタイはんかみザルモクシス英語えいごばんゴートぞくおうとなったとされる (39)。ヨルダネスは、アガメムノーンとの戦争せんそうのち幾分いくぶん復興ふっこうしかけていたトロイアとイリウムを、ゴートぞく襲撃しゅうげきした様子ようすしるしている (108)。かれらはまた、エジプトファラオであったとされるウェソシスともたたかったとされる英語えいごばん (47)。ヨルダネスの記述きじゅつのうち、3世紀せいきにゴートぞくローマぐんたたかはじめて以降いこうはなしは、さほどつくばなしではないものとおもわれる。『ゲチカ』には、フンぞく歴史れきしについても言及げんきゅうがあり、アッティラ統治とうちについても記述きじゅつされている[1]

記述きじゅつは、ひがしマ帝国まていこく将軍しょうぐんベリサリウスによってゴートぞくかされるところでわっている。ヨルダネスは最後さいごに、歴史れきしかさねのすえにゴートぞくたいして勝利しょうりした人々ひとびとたたえるためにこれをしるしたとべて、記述きじゅつじている。

論争ろんそう

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ルーマニアアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく歴史れきし学者がくしゃたちの一部いちぶは、ゲタイをゴートぞく一部いちぶとしたヨルダネスのあやまりについて、いろいろな見解けんかいしている。ヨルダネスは、ダキアじんやゲタイじんかんするおおくの歴史れきしてき情報じょうほうを、あやまってゴートぞくかんするものとしてあつかっている[13][14][15][16]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e f g ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてんヨルダネス』 - コトバンク
  2. ^ According to Schanz-Hosius (Geschichte der Römischen Literatur, 4, vol. 2 (1920), pp. 115, 118) the best MSS of his work present his name as Jordanes, as does the 'Geographus Ravennas'. Jordanis is a 'vulgar' form that is also used, while Jornandes only appears in lesser MSS. The form Jornandes, however, was often used in older publications.
  3. ^ "If Jordanes was a bishop (as is frequently assumed) and if he lived in Italy (also frequently assumed), those elements of his background have left no trace in his two histories" (Brian Croke (1987), “Cassiodorus and the Getica of Jordanes”, Classical Philology 82: 119 (117–134)., doi:10.1086/367034 
  4. ^ 論述ろんじゅつなかでは、542ねんユスティニアヌスの疫病えきびょう英語えいごばんを「9ねんまえ (ante hos novem annos)」のこととしている (Getica 104)。ただし、現代げんだい研究けんきゅうしゃたちは、よりおそ成立せいりつ時期じき支持しじする傾向けいこうにある。552ねん成立せいりつとするせつについては、Peter Heather, Goths and Romans 332-489, Oxford 1991, pp. 47-49, を、554ねん成立せいりつとするせつについては、Walter Goffart, The Narrators of Barbarian History, Princeton 1988, p. 98. を参照さんしょう
  5. ^ Croke 1987.
  6. ^ Jordanes, Mierow, ed., Getica 266, https://www.ucalgary.ca/~vandersp/Courses/texts/jordgeti.html#L 
  7. ^ Jordanes, De origine actibusque Getarum L, http://www.thelatinlibrary.com/iordanes1.html#L 
  8. ^ a b Arne Søby Christensen (2002), Cassiodorus, Jordanes, and the History of the Goths. Studies in a Migration Myth, ISBN 978-87-7289-710-3, http://www.mtp.hum.ku.dk/details.asp?eln=200114 
  9. ^ Getica 132, 133, 138, noted by Croke 1987:125
  10. ^ James J. O'Donnell (1982), “The Aims of Jordanes”, Historia 31: 223–240, オリジナルの2007-11-09時点じてんにおけるアーカイブ。, https://web.archive.org/web/20071109165220/http://ccat.sas.upenn.edu/newjod/html/texts/jordanes.html 
  11. ^ Jordanes, Mierow, ed., Getica preface, https://www.ucalgary.ca/~vandersp/Courses/texts/jordgeti.html#pref 
  12. ^ Jordanes, De origine actibusque Getarum 1, http://www.thelatinlibrary.com/iordanes1.html 
  13. ^ Walter Goffart, The Narrators of Barbarian History, Princeton 1988, p. 70.
  14. ^ Pârvan, Vasile (1928). Dacia: An Outline of the Early Civilization of the Carpatho-Danubian Countries. The University Press
  15. ^ Oțetea, Andrei (1970). The History of the Romanian people. Scientific Pub. Hoose.
  16. ^ Ioan Bolovan, Florin Constantiniu, Paul E. Michelson, Ioan Aurel Pop, Christian Popa, Marcel Popa, Kurt Treptow, A History of Romania, Intl Specialized Book Service Inc. 1997

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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