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イングランド君主くんしゅ一覧いちらん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
イングランドおうから転送てんそう
イングランド王室おうしつ紋章もんしょう

最初さいしょRex Anglorum(イングランドおう)の称号しょうごうもちいたのはマーシアおうオファであるが、その権力けんりょくかれのちにはびることはなかった。9世紀せいきケントおよマーシアからサセックス征服せいふくしたウェセックス国王こくおう エグバート次第しだいイングランドほか王国おうこく支配しはいおよぼすようになった(このイングランド君主くんしゅ一覧いちらんでは8世紀せいき後半こうはんのマーシア国王こくおう オファからはじめる)。また、エグバートのまご アルフレッド大王だいおう とその男子だんしエドワード長兄ちょうけいおうは〝アングロ=サクソンじんおう〟の称号しょうごうもちいた。

イングランドのおうRex Anglorum)の称号しょうごうはじめて公式こうしき文書ぶんしょ記録きろくし、イングランド王国おうこく成立せいりつしたのは長兄ちょうけいおう アゼルスタン時代じだい(972ねんのノーサンブリア王国おうこく占領せんりょう)である。また、ヘンリー2せい治世ちせい開始かいし(1154ねん)に称号しょうごうイングランド国王こくおうRex Angliae)になった。

ウェールズ公国こうこくは1284ねんルゥドドランの法令ほうれい英語えいごばんでイングランド王国おうこく吸収きゅうしゅうされ、1301ねんエドワード1せい長男ちょうなんエドワード2せいプリンス・オブ・ウェールズ称号しょうごうさづけた。このとき以来いらいエドワード3せい例外れいがいとしてすべてのイングランド君主くんしゅ長男ちょうなんはこの称号しょうごうびるようになった。1603ねんエリザベス1せい死後しご、イングランドとスコットランド王位おういジェームズ1せいのもとでひとつとなった。国王こくおう布告ふこくによってジェームズ1せいみずからの称号しょうごうを「グレートブリテンのおう」とした。ジェームズ1せい即位そくい以来いらいおやかいしてじゅう相続そうぞくじんであるりょう王国おうこく後継こうけいしゃ称号しょうごうを「イングランドおう」ないしは「イングランド女王じょおう」とするのは、ジェームズ1せい布告ふこくらせば不正確ふせいかくである。しかし、この称号しょうごう今日きょういたるまでしばしばもちいられる用法ようほうとして存続そんぞくしている。1707ねんにイングランドはスコットランドと法律ほうりつじょう合同ごうどうおこない、グレートブリテン王国おうこく成立せいりつした。1707ねん以来いらい、イングランドは法律ほうりつじょうは、グレートブリテン王国おうこく以降いこう連合れんごう王国おうこくから分離ぶんりしていない(ただし、スコットランドについては、連合れんごう王国おうこく法体ほうたいけいじょう特別とくべつあつかいがなされることもおおい)。ヘンリー2せい以来いらい、イングランドの支配しはいかれているアイルランド王国おうこくは1800ねん連合れんごうほうによってよく1801ねんグレートブリテンおよびアイルランド連合れんごう王国おうこく一部いちぶとなった。この状態じょうたいアイルランド自由じゆうこく成立せいりつの1922ねんまでつづき、その改名かいめい (en結果けっか、イングランドをふく連合れんごう王国おうこく名称めいしょうグレートブリテンおよびきたアイルランド連合れんごう王国おうこくとなった。

マーシア王国おうこく[編集へんしゅう]

いくつかの資料しりょうでは最初さいしょRex Anglorum称号しょうごうもちいたのは757ねん以来いらいマーシアおうであったオファの774ねんだとわれているが、この主張しゅちょうあきらかに10世紀せいき偽造ぎぞうされた憲章けんしょうもとづいている[1][2]。 しかし、みずからをOf Rx Aきざんだいくつかのオファの貨幣かへいからかれOf Rx A立場たちばにあったとしんじられている[3]。このことは当時とうじ後世こうせい獲得かくとくしたのとはことなる意味いみゆうしていた。すなわアングルじんおうであって、かならずしもサクソンじんおうではない[3]

名前なまえ 肖像しょうぞう 誕生たんじょう 結婚けっこん 死去しきょ
オファ
(+OFFA•REX+)
774ねん–796ねん
Offa 747ねんごろ クネスリス英語えいごばん
5にんもうける
28にち
58さい

ウェセックス王国おうこく[編集へんしゅう]

以下いか一覧いちらんでは、ウェセックス国王こくおうとして最初さいしょにイングランド全域ぜんいき君主くんしゅけんおよぼしたエグバートから明記めいきしている[4]。エグバートは825ねんマーシア王国おうこくやぶってブレトワルダなな王国おうこくにおける最強さいきょうおう)になった。しかし、829ねんにはマーシアの支配しはいけん喪失そうしつしている。また、かれまご アルフレッド大王だいおうとその男子だんしエドワード長兄ちょうけいおうは〝アングロ=サクソンじんおう〟の称号しょうごうもちいた。

名前なまえ 肖像しょうぞう 誕生たんじょう 結婚けっこん 死去しきょ
エグバート
(Ecgberht)
829ねん–839ねん[5]
Egbert 775ねん[6]
エアルフムンド英語えいごばん男子だんし[5]
レドブルガ
3にんもうける[5]
839ねん2がつ4にち
64さい[5]
エゼルウルフ
(Æþelwulf)
2がつ5にち
839ねん–856ねん
Æthelwulf 795ねんアーヘン誕生たんじょう
エグバートレドブルガ男子だんし
(1) オスブルガ英語えいごばん
6にんもうける
(2) ユディート・オブ・フランドル英語えいごばん
853ねん10がつ1にち結婚けっこん
もうけず
858ねん1がつ13にち
62、3さい[4]
エゼルバルド英語えいごばん
(Æþelbald)
856ねん–860ねん
834ねん[7]
エゼルウルフとオスブルガの男子だんし
ユディート・オフ・フランドル英語えいごばん
もうけず
860ねん12がつ20日はつか
エゼルベルト英語えいごばん
(Æþelberht)
12月21にち
860ねん–865ねん
King Æthelberht from All Souls College Chapel 835ねん
エゼルウルフとオスブルガの男子だんし
不明ふめい
2人ふたりもうける
865ねん
やく30さい[4]
エゼルレッド
(Æþelræd)
865ねん–871ねん
Coin of Æthelred 837ねん
エゼルウルフとオスブルガの男子だんし
ウルフリダ英語えいごばん
868ねん
2人ふたりもうける
871ねん4がつ23にち
やく34さい[4]
アルフレッド大王だいおう
(Ælfræd)
4がつ24にち
871ねん–899ねん[8]
Statue of Alfred the Great in Wantage 849ねん
ウォンティジ
エゼルウルフとオスブルガの男子だんし[9]
エアルフスウィス英語えいごばん
ウィンチェスター
868ねん
6にんもうける[10]
899ねん10がつ26にち
やく 50さい[8]
エドワード長兄ちょうけいおう
(Eadweard)
10月27にち
899ねん–924ねん[11]
Edward the Elder 871ねん–877ねん
アルフレッド大王だいおうとエアルフスウィスの男子だんし[12]
(1) エクヴィン英語えいごばん
893ねん
3にんもうける
(2)エルフフォド英語えいごばん
902ねん
10にんもうける
(3) エドギフ・オブ・ケント英語えいごばん
905ねん
4にんもうける[13][信頼しんらいせいよう検証けんしょう]
924ねん7がつ17にち
ファルンドン
やく50さい[11]

ウェセックスあさ(イングランド国王こくおう[編集へんしゅう]

以下いかひょうでは、イングランドのおうRex Anglorum)の称号しょうごうはじめて公式こうしき文書ぶんしょしるし、初代しょだいイングランド国王こくおうとして記録きろくされるアゼルスタンだいからを明記めいきする。しかし、アゼルスタンのおとうと エルフウェルドがエドワード長兄ちょうけいおう崩御ほうぎょ 4週間しゅうかんにわたって国王こくおうであったという証拠しょうこがいくつかあるが、かれ戴冠たいかんしていない[14][15]

名前なまえ 肖像しょうぞう 誕生たんじょう 結婚けっこん 死去しきょ
アゼルスタン
(Æþelstan)
8がつ3にち
924ねん–939ねん[16]
King Athelstan from All Souls College Chapel 895ねん
エドワード長兄ちょうけいおうとエクヴィンの男子だんし
未婚みこん[16] 939ねん10がつ27にち
やく44さい[16]
エドマンド1せい
(Eadmund)
10月28にち
939ねん–946ねん[17]
Imaginary portrait of Edmund I 921ねん
エドワード長兄ちょうけいおうとエドギフの男子だんし[17]
(1) エルギヴァ・オブ・シャフツベリー英語えいごばん
3にんもうける
(2) エゼルフラド・オブ・ダメルカム英語えいごばん
944ねん
もうけず[18]
946ねん5がつ26にち
プクレチャーチ
やく25さい(殺害さつがいされた)[17]
エドレッド
(Eadred)
5月27にち
946ねん–955ねん[19]
Imaginary line engraving of Edred made by un unknown engraver after an unknown artist 923ねん
エドワード長兄ちょうけいおうとエドギフの男子だんし
未婚みこん 955ねん11月23にち
フルーム
やく32さい[20]
エドウィ
(Eadwig)
11月24にち
955ねん–959ねん[21]
Line engraving of Edwy made by an unknown engraver after an unknown artist 940ねん
エドマンド1せいとエルギヴァの男子だんし[22]
エルフギフ英語えいごばん[21] 959ねん10がつ1にち
やく19さい[21]
エドガー
(Eadgar)
10月2にち
959ねん–975ねん[23]
King Edgar of England 943ねん
ウェセックス
エドマンド1せいとエルギヴァの男子だんし
(1) エゼルフラッド英語えいごばん
960ねん
1もうける
(2) エルフリーダ英語えいごばん
964ねん
2人ふたりもうける
975ねん7がつ8にち
ウィンチェスター
やく32さい[24]
エドワード殉教じゅんきょうおう
(Eadweard)
7がつ9にち
975ねん–978ねん[25]
St. Edward the Martyr 962ねん
エドガーとエゼルフラッドの男子だんし
未婚みこん 978ねん5がつ18にち
コルフェじょう
やく16 さい(暗殺あんさつ)[25]
エゼルレッド2せい
(Æþelræd Unræd)
5月19にち
978ねん–1013ねん (最初さいしょ統治とうち)[26]
Image of Æthelred II with an oversize sword from the illuminated manuscript "The Chronicle of Abingdon" 968ねん
エドガーとエルフリーダの男子だんし[27]
(1) エルフラエド・オブ・ノーサンブリア
4にんもうける
(2) アレルギフ
991ねん
6にんもうける
(3) エマ・オブ・ノーマンディー
1002ねん
3にんもうける[28]
1016ねん4がつ23にち
ロンドン
やく48さい[26]

デーンあさ[編集へんしゅう]

エゼルレッド2せい統治とうちちゅうにイングランドはデンマーク国王こくおう支配しはいかれた。

名前なまえ 肖像しょうぞう 誕生たんじょう 結婚けっこん 死去しきょ
スヴェン
(Svend Tveskæg)
12月25にち[29]
1013ねん–1014ねん[30]
Sweyn Forkbeard, from an architectural element in the Swansea Guildhall, Swansea, Wales 960ねん
デンマーク
ハーラル1せいグリド・オラフスドティル男子だんし[31]
(1) グンヒルト・オブ・ポーランド
990ねん
7にんもうける
(2) シギルド・ザ・ハウグティー
1000ねん
1じょもうける[31]
1014ねん2がつ3にち
リンカンシャーゲインズバラ
やく 54さい[31]

ウェセックスあさだい1復帰ふっき[編集へんしゅう]

スヴェン1せいでエゼルレッドは亡命ぼうめいさきから帰国きこくして1014ねん 2がつ3にちふたたおうであることを宣言せんげんした[32]。エゼルレッドの男子だんしは、アングロ=サクソンじんから王冠おうかんうばろうと画策かくさくするデーンじん対立たいりつするロンドン市民しみん賢人けんじん会議かいぎ[33]えらばれたのちちちのち継承けいしょうした。

名前なまえ 肖像しょうぞう 誕生たんじょう 結婚けっこん 死去しきょ
エゼルレッド2せい
(Æþelræd Unræd)
3/4がつ
1014ねん–1016ねん (だい統治とうち)[26]
Image of Æthelred II with an oversize sword from the illuminated manuscript "The Chronicle of Abingdon" 968ねん
エドガーとエルフリーダの男子だんし[27]
(1) エルフリーダ・オブ・ノーサンブリア
4にんもうける
(2) アレルギフ
991ねん
6にんもうける
(3) エマ・オブ・ノーマンディー
1002ねん
3にんもうける[28]
1016ねん4がつ23にち
ロンドン
やく48さい[26]
エドマンド2せい
(Eadmund)
1016ねん4がつ24にち
11月30にち[33]
Edmund Ironside 993ねん
エゼルレッド2せいとエルフリーダ・オブ・ノーサンブリアの男子だんし[33]
エディス・オブ・イースト・アングリア
2人ふたりもうける[34]
1016ねん11月30にち
グラストンベリー
やく23さい[33][34]

デーンあさ復帰ふっき[編集へんしゅう]

1016ねん 10がつ18にちアサンダンのたたか英語えいごばん結果けっか、エドマンド2せいは、クヌート大王だいおうがウェセックスをのぞぜんイングランドを支配しはいすることをみとめた条約じょうやく調印ちょういんした[35]。11月30にちにエドマンド2せいぬとクヌート大王だいおうはイングランド全土ぜんど統治とうちする唯一ゆいいつおうとなった。

名前なまえ 肖像しょうぞう 誕生たんじょう 結婚けっこん 死去しきょ
クヌート大王だいおう
(Knútr)
11月30にち
1016ねん–1035ねん[36][37]
995ねん
スヴェンとグンヒルト・オブ・ポーランドの男子だんし[36]
(1) アレルギフ・オブ・ノーサムポトン
2人ふたりもうける
(2) エマ・オブ・ノーマンディー
1017ねん
エゼルレッド2せい寡婦かふ[36]
1035ねん11月12にち[37]
シャフツベリー
やく40さい[36]
ハロルド1せい
(Harald)
11月13にち
1035ねん–1040ねん[38]
1016/7ねん
クヌート大王だいおうとアレルギフ・オブ・ノーサムポトンの男子だんし[38]
アエルギウフ
1 にん男子だんしもうける[39]
1040ねん3がつ17にち
オックスフォード
23 ないしは 24さい[38]
ハーデクヌーズ
(Hardeknud)
6月18にち
1040ねん–1042ねん[40]
1018ねん
クヌート大王だいおうとエマ・オブ・ノーマンディーの男子だんし[39]
不明ふめい 1042ねん6がつ8にち
ラムベス
やく24さい[39]

ウェセックスあさだい2復帰ふっき[編集へんしゅう]

ハーデクヌーズののち、1042ねんから1066ねんにかけてみじかいサクソンあさ復帰ふっきがあった。ヘイスティングズのたたかのちにイングランドの歴史れきし決定的けっていてきなものとなり、ウィリアム1せいがイングランドおうになった。

名前なまえ 肖像しょうぞう 誕生たんじょう 結婚けっこん 死去しきょ
エドワード懺悔ざんげおう
(Eadweard)
6月9にち
1042ねん–1066ねん[41]
バイユーのタペストリー 1003ねん
イスリプ、オックスフォードシャー
エゼルレッド2せいとエマ・オブ・ノーマンディーの男子だんし[41]
エディス・オブ・ウェセックス
1045ねん1がつ23にち
もうけず[41]
1066ねん1がつ5にち
ウェストミンスター寺院じいん
やく 60さい[41]
ハロルド2せい
(Harold Godwinesson)
1066ねん1がつ6にち–10がつ14にち[41]
1020ねん
ゴッドヴィンギーザ・トルケルスドーティル男子だんし[41]
(1) エディス・スヴェーニシャ
6にんもうける

(2) エディス・マーシア
ヨーク
1064ねん
2人ふたりもうける[41]

1066ねん10がつ14にち
ヘースティングス
やく46 さい(戦死せんし)[41]
エドガー・アシリング
(Eadgar Æþeling)
1066ねん10がつ15にち–12がつ17にち
即位そくい宣言せんげんをするも戴冠たいかんせず[42]
1053ねん
ハンガリー
エドワード・アシリングとアガタの男子だんし[43]
未婚みこん[43] 1125ねん
やく 72さい[42]

ノルマンあさ[編集へんしゅう]

1066ねんフランスおうふうしんでエドワード懺悔ざんげおう従妹じゅうまい男子だんしであるノルマンディーこう ギヨーム2せい(ウィリアム1せい)がイングランドに侵攻しんこうしてウェストサクソンを征服せいふくしたことでノルマン・コンクエスト確立かくりつされ、みずからの恒久こうきゅうてき政府せいふウィンチェスターからロンドンあたらしく移転いてんした。10月14にちヘイスティングズのたたかハロルド2せい決定的けっていてきになると、アングロサクソンじん賢人けんじん会議かいぎエドガー・アシリングをハロルド2せいわる国王こくおう推戴すいたいしたが、エドガーは侵略しんりゃくしゃ抵抗ていこうすることが出来できず、戴冠たいかんすることもなかった。ギョーム2せいは1066ねんクリスマスにイングランドおうとして戴冠たいかんし、今日きょうではウィリアム征服せいふくおう、ウィリアム庶子しょしおうウィリアム1せいとしてられている。

スタンフォード・ブリッジのたたか同時どうじに、ノルマンあさデーンロウ次第しだいには一貫いっかんしてイングランドの支配しはい主張しゅちょうするスカンジナヴィア半島はんとう請求せいきゅうしゃはらうことに成功せいこうした、それによって自身じしんのスカンジナヴィアの子孫しそんたち王冠おうかんまも一方いっぽうで、後世こうせい西にしマ帝国まていこくのイギリスうみ方面ほうめんにあるサクソンの沿岸えんがんとしてられたが、かみきよしマ帝国まていこくイギリス海峡かいきょう方面ほうめんにあるネウストリア国境こっきょう地帯ちたいわった南側みなみがわ基盤きばんいた。ノルマンディーでは王権おうけん強大きょうだい増強ぞうきょうされ、ごくわずかな独立どくりつ大目おおめられた。それはノルマンあさ主題しゅだいであったウェセックス支配しはいおおきく特徴付とくちょうづけ、いくつかの場合ばあい、まさにノルマンあさ性質せいしつ実態じったいは、みずからの公国こうこくフランクじん性質せいしつから独立どくりつしているという歴史れきしてき決定けっていかたつうじたサクソンあさとデーンあさ混合こんごうであった。サクソンあさにせよデーンあさにせよつかんだ権力けんりょく他者たしゃ対抗たいこうするみずからの区域くいきという単純たんじゅんなものであったことからすると、屈服くっぷくされたイングランドがたものがごく少量しょうりょうであった。ウェストサクソンの君主くんしゅのデーンじん攻撃こうげきたいする実力じつりょく行使こうしみずからの支配しはい集中しゅうちゅう不十分ふじゅうぶんであったことから、イングランドはノルマンじんさえけられていた、しかしこの結果けっか行政ぎょうせい中心ちゅうしんすなわち、ウェストミンスター)は以前いぜんよりもデーンロウにちかく、権力けんりょく集中しゅうちゅう太守たいしゅのような地方ちほう政府せいふ役人やくにんから完全かんぜんはなれていた。ノルマンディーではたんルーアンからロンドンまでのキュリア・レジスによって当局とうきょく派遣はけんされた、そしておう自身じしん側近そっきん近付ちかづくことは共通きょうつう人々ひとびときびしく制限せいげんされていた。この隔絶かくぜつは、しかし、みずからが独立どくりつした王位おういもとめるというあきらかにデーンじん先入観せんにゅうかんったようなおうによって廃位はいいされた影響えいきょうされやすほか君主くんしゅよりも安定あんていした統治とうち維持いじするには必要ひつよう不可欠ふかけつであった。

フランスの様式ようしきである君主くんしゅ順位じゅんい代数だいすう)を採用さいようしたのは、ウィリアム1せいとその子孫しそんによる統治とうち唯一ゆいいつのものであった、しかし、渾名あだなによって君主くんしゅ区別くべつするという初期しょき習慣しゅうかんは、最後さいごまで途絶とだえることはなかった。

名前なまえ 肖像しょうぞう 誕生たんじょう 結婚けっこん 死去しきょ 主張しゅちょう
ウィリアム1せい
(William I)
William the Conqueror depicted at the Battle of Hastings, on the Bayeux Tapestry 1028ねん
ファレーズじょう
マティルダ
1053ねん
10にんもうける
1087ねん9がつ9にち
ルーアン
59さい
征服せいふく権利けんり
ウィリアム2せい
(William II)
William Rufus depicted in the Stowe Manuscript 1060ねん
ノルマンディー
未婚みこん 1100ねん8がつ2にち
ニューフォレスト
やく40さい
ウィリアム1せい
ヘンリー1せい
(Henry I)
Henry I 1068ねん9がつ
セルビー
(1)マティルダ
1100ねん
4にんもうける

(2)アデライザ
1121ねん

1135ねん12月1にち
リオンズ=ラ=フォレートじょう
67さい
ウィリアム1せい
スティーブン
(Stephen)
Stephen 1096ねん
ブロワ
マティルド
1125ねん
5にんもうける
1154ねん10がつ25にち
ドーバーじょう
やく58さい
ウィリアム1せいまご
(appointment/usurpation)

対立たいりつ王位おうい請求せいきゅうしゃ
名前なまえ 肖像しょうぞう 誕生たんじょう 結婚けっこん 死去しきょ 主張しゅちょう
マティルダ
(Mathilde)
称号しょうごう対立たいりつ
Matilda 1102ねん2がつ7にち
ストン・コートネー
(1) ハインリヒ5せい
1114ねん1がつ6にち

(2) ジョフロワ4せい
1128ねん5がつ22にち
3にんもうける
1167ねん9がつ10日とおか
ノートルダムだい聖堂せいどう
やく65さい
ヘンリー1せい

マティルダちちのヘンリー1せいによって推定すいてい相続そうぞくじんであると宣言せんげんされ、男爵だんしゃくたちによって認識にんしきされた。しかしヘンリー1せいぬと、王位おういはマティルドの従兄じゅうけいにあたるスティーブン・オブ・ブロワわたった。政府せいふ時代じだいはマティルダが正当せいとうなる支配しはいしゃとして君臨くんりんした1141ねん数ヶ月すうかげつあいだのことであるが、彼女かのじょ戴冠たいかんすることこそはなかったものの、イングランドにおけるはつ女性じょせい君主くんしゅとみなされる。このとき、スティーブンとジョフロワ4せいたがいにイングランドの政治せいじなかはいったことは、彼等かれらがイングランドの民族みんぞくてき部類ぶるい直接ちょくせつつながりはなく、わずかにノルマンあさ(ノルマンあさはイングランドとフランスあいだ文字通もじどおりに抽象ちゅうしょうてきはしとしての役割やくわりたし、文化ぶんかてき遺産いさん今日きょうチャネル諸島しょとうたもたれている)をかいした王朝おうちょうてきつながりというてん注目ちゅうもくすべきことである。

プランタジネットあさ[編集へんしゅう]

スティーブンは1153ねん11月にウォーリングフォード協定きょうていで、マティルダの男子だんしアンリ養子ようしというかたちみずからの王位おうい後継こうけいしゃとすることに同意どういした。

ノルマンあさによる統治とうち期間きかんよりも、プランタジネットアキテーヌから支配しはいおこない、よりおおくのフランスにおける領土りょうど獲得かくとくしたが(アンジュー帝国ていこく)、ジョンかけおうだいにほとんどのフランスりょううしなまえには、おなじくイングランドを自分じぶんたち主要しゅよう領土りょうどとはなさなかった。このながきにわたる王朝おうちょうは、アンジューあさランカスターあさヨークあさの3けられる。フランスへの焦点しょうてんからブリテンとう全域ぜんいきへの拡大かくだい変更へんこうはランカスターあさとヨークあさ用法ようほうことなることをしめし、りょう王朝おうちょう前方ぜんぽう見渡みわた国境こっきょうさきにはノーサンブリアを要求ようきゅうする スコットランドおうふる同盟どうめい)が存在そんざいし、敵対てきたいするプランタジネット分家ぶんけひとしいということで特筆とくひつされる。プランタジネットたがいにころったことでウェールズけいテューダー有利ゆうりになったが、ランカスターポルトガル(アキテーヌ維持いじには不可欠ふかけつだった)、それにカスティーリャくわわったむすきはたしかなものになった。これがヘンリー8せいクレーフェにおけるヨークあさブルゴーニュ公国こうこくふる同盟どうめい選択せんたくしたことからきゅうわり、エリザベス1せい寵臣ちょうしんレスターはくダドリーもとでのネーデルラント反乱はんらんにおける内紛ないふんさら続行ぞっこうされたイングランドをスコットランド・レノックスの(本来ほんらいはフランス・オービニー=シュル=ネール基盤きばんいていた)しんふつのステュアートわたというかつてのノーサンブリア=ウェストモアランド内紛ないふんでのあらそいからきたはんテューダーという背信はいしんへのいきどおりから、このことすべてが並行へいこうしておこなわれた。スコットランドの王朝おうちょう対象たいしょうとしてあらたにつけたイングランドに権威けんいおよぼすのを維持いじするためにフランスに依存いぞんし、両国りょうこくまえにものちにも王冠おうかん獲得かくとくするためにともたたかった。ひゃくねん戦争せんそう以前いぜんのヨーク=ブルゴーニュ同盟どうめいウィリアム3せいのもとで復活ふっかつし、これはだいひゃくねん戦争せんそうばれる。

プランタジネットイングランドのおうあきら制定せいていし、これは大抵たいてい王国おうこく掌握しょうあくないしは要求ようきゅうするものやその後継こうけいしゃによってしめされたが、まったどう時期じきアイルランド表象ひょうしょうけている。

プランタジネットあさ(アンジューあさ[編集へんしゅう]

おう一覧いちらんかんして蛇足だそくくわえると、フランスおう太子たいしルイはジョンおうたいするバロン戦争せんそう結果けっか、1216ねんから1217ねん短期間たんきかんにイングランドの半分はんぶん支配しはいした。しかし、ラムベス条約じょうやく英語えいごばん調印ちょういんしたことで自身じしん正当せいとうなるイングランドおうではないことをみとめた。

名前なまえ 肖像しょうぞう 誕生たんじょう 結婚けっこん 死去しきょ 主張しゅちょう
ヘンリー2せい
(Henry II)
Henry II 1133ねん3がつ5にち
ル・マン
アリエノール
1152ねん5がつ18にち
8にんもうける
1189ねん7がつ6にち
シノン
56さい
ヘンリー1せいまご
わかヘンリーおう
Henry the young
(共同きょうどう統治とうち)
Henry 1155ねん2がつ28にち マルグリット
1172ねん8がつ27にち
もうけず
1183ねん6がつ11にち
リモージュ
28さい
ヘンリー2せい
リチャード1せい
(Richard I)
Richard the Lionheart, an illustration from a 12th century codex 1157ねん9がつ8にち
ボーモート宮殿きゅうでん
ベレンガリア
リマソール
1191ねん5がつ2にち
もうけず[44]
1199ねん4がつ6にち
シャトー=ド=シャル・シャドー
41さい
ヘンリー2せい
ジョンかけおう
(John)
Tomb effigy of John 1166ねん12月24にち
ボーモート宮殿きゅうでん
(1) イザベル
マルボヌンじょう
1189ねん8がつ29にち
もうけず

(2) イザベラ
ボルドーだい聖堂せいどう
1200ねん8がつ24にち
5にんもうける

1216ねん10がつ19にち
ニューワーク=オン=トレント
49さい
リチャード1せいおとうと
ヘンリー3せい

(Henry III)

Henry III 1207ねん10がつ1にち
ウィンチェスターじょう
エリナー
カンタベリーだい聖堂せいどう
1236ねん1がつ14にち
9にんもうける[45]
1272ねん11月16にち
ウェストミンスター宮殿きゅうでん
65さい
ジョンの
エドワード1せい

(Edward I)

1239ねん6がつ17にち
ウェストミンスター宮殿きゅうでん
(1) エリナー
1254ねん10がつ18にち
17にんもうける

(2) マーガレット
1299ねん9がつ10日とおか
3にんもうける

1307ねん7がつ7にち
ブルグ・バイ・サンズ
68さい
ヘンリー3せい
エドワード2せい

(Edward II)

Modern depiction of Edward II 1284ねん8がつ25にち
カーナーヴォンじょう
イザベラ
1308ねん1がつ25にち
5にんもうける
1327ねん9がつ21にち
バークリーしろ
43さい
エドワード1せい
エドワード3せい

(Edward III)

Edward III 1312ねん11月13にち
ウィンザーじょう
フィリッパ
1328ねん1がつ24にち
14にんもうける
1377ねん6がつ21にち
シェーン宮殿きゅうでん
64さい
エドワード2せい
リチャード2せい
(Richard II)
Richard II, the sol-called 'Westminster Portrait', painted by an unknown artist working in the International Gothic style, 1390s 1367ねん1がつ6にち
ボルドー
(1) アン
1382ねん1がつ14にち
もうけず

(2) イザベラ
1396ねん11月4にち
もうけず

1400ねん2がつ14にち
ポンティフラクトじょう
33さい
エドワード3せいまご

ランカスターあさ[編集へんしゅう]

この家系かけいはエドワード3せいよんなんランカスターこうジョン・オブ・ゴーント子孫しそんである。

名前なまえ 肖像しょうぞう 誕生たんじょう 結婚けっこん 死去しきょ 主張しゅちょう
ヘンリー4せい

(Henry IV)

Henry IV 1366/1367ねん4がつ3にち
ボリングブルックじょう
(1) メアリー
1380ねん7がつ27にち
7にんもうける

(2) ジョーン
1403ねん2がつ7にち
もうけず

1413ねん3がつ20日はつか
ウェストミンスター寺院じいん
45 ないしは 46さい
エドワード3せいまご
ヘンリー5せい
(Henry V)
Henry V 1386ねん9がつ16にちないしは
1387ねん8がつ9にち[46]
モンマスじょう
キャサリン
トロワじょう
1420ねん6がつ2にち
1もうける
1422ねん8がつ31にち
ヴァンセンヌじょう
35さい
ヘンリー4せい
ヘンリー6せい

(Henry VI)

Henry VI 1421ねん12月6にち
ウィンザーじょう
マーガレット
1445ねん4がつ22にち
1もうける
1471ねん5がつ21にち
ロンドンとう
49さい
ヘンリー5せい

ヨークあさ[編集へんしゅう]

ヨークはエドワード3せいなんヨークこうエドマンド・オブ・ラングリー子孫しそんである。

名前なまえ 肖像しょうぞう 誕生たんじょう 結婚けっこん 死去しきょ 主張しゅちょう
エドワード4せい
(Edward IV)
Edward IV 1442ねん4がつ28にち
ルーアン
エリザベス
1464ねん5がつ1にち
10にんもうける
1483ねん4がつ9にち
ウェストミンスター宮殿きゅうでん
40さい
エドワード3せい玄孫げんそん

ランカスターあさ復帰ふっき[編集へんしゅう]

名前なまえ 肖像しょうぞう 誕生たんじょう 結婚けっこん 死去しきょ 主張しゅちょう
ヘンリー6せい
(Henry VI)
Henry VI 1421ねん12月6にち
ウィンザーじょう
マーガレット・オブ・アンジュー
1445ねん4がつ22にち
1もうける
1471ねん5がつ21にち
ロンドンとう
49さい
ヘンリー5せい

ヨークあさ復帰ふっき[編集へんしゅう]

名前なまえ 肖像しょうぞう 誕生たんじょう 結婚けっこん 死去しきょ 主張しゅちょう
エドワード4せい
(Edward IV)
Edward IV 1442ねん4がつ28にち
ルーアン
エリザベス
1464ねん5がつ1にち
10にんもうける
1483ねん4がつ9にち
ウェストミンスター宮殿きゅうでん
40さい
エドワード3せい玄孫げんそん
エドワード5せい
(Edward V)
Edward V 1470ねん11月2にち
ウェストミンスター
未婚みこん 1483ねん
ロンドン
やく12さい
エドワード4せい
リチャード3せい
(Richard III)
Richard III 1452ねん10がつ2にち
ファザーリンゲイじょう
アン・ネヴィル
1472ねん6がつ12にち
1もうける
1485ねん8がつ22にち
ボズワーズ平原へいげん
32さい
エドワード3せい玄孫げんそん

テューダーあさ[編集へんしゅう]

テューダーは14世紀せいきのジョン・オブ・ゴーントとその長年ながねん愛人あいじんキャサリン・スウィンフォード庶子しょしジョン・ボーフォート女系じょけい子孫しそんである。イングランド君主くんしゅの庶系の子孫しそん王位おうい請求せいきゅうけんたない。しかし、ジョン・オブ・ゴーントとスウィンフォードが1396ねん(ジョン・ボーフォートがまれてから25ねん)に最終さいしゅうてき結婚けっこんしたことが事態じたい面倒めんどうにした。この結婚けっこん視点してんは、同年どうねん教会きょうかいがボーフォートはローマ教皇きょうこう経由けいゆ勅書ちょくしょ嫡子ちゃくしであることを遡及そきゅうして宣言せんげんした(同時どうじに1397ねん議会ぎかい決議けつぎめられた)。つづいてジョン・オブ・ゴーントによって嫡子ちゃくしであることが宣言せんげんされ、ヘンリー4せいもボーフォートを嫡出ちゃくしゅつ認識にんしきしたが、王位おうい継承けいしょうする資格しかくのないことが宣言せんげんされた。にもかかわらずボーフォートはジョン・オブ・ゴーントの子孫しそんであるランカスター親密しんみつ同盟どうめいむすんでいた。

ジョン・ボーフォートの曾孫そうそん相続そうぞくじんなされたマーガレット・ボーフォートエドムンド・テューダー結婚けっこんした。エドムンド・テューダーはウェールズ大公たいこう末裔まつえいであるオーウェン・テューダーとヘンリー5せいであったキャサリン・オブ・ヴァロワの男子だんしである。エドムンド・テューダーとその兄弟きょうだい庶子しょしないしは秘密ひみつ結婚けっこん産物さんぶつによるものであり、自分じぶんたちの幸運こううん正嫡せいちゃく父兄ふけいヘンリー6せい好意こういによるものであることをみとめていた。ランカスターちからうしなったときにテューダー台頭たいとうした。

ヘンリー8せいローマ・カトリック教会きょうかい断絶だんぜつするとイングランドの君主くんしゅイングランド国教こっきょうかいアイルランド国教こっきょうかい最高さいこう首長しゅちょうとなった。エリザベス1せい称号しょうごうにイングランド国教こっきょうかい最高さいこう首長しゅちょうくわえられた。

名前なまえ 肖像しょうぞう 誕生たんじょう 結婚けっこん 死去しきょ 主張しゅちょう
ヘンリー7せい
(Henry VII)
Henry VII, by Michel Sittow, 1505 1457ねん1がつ28にち
ペンブロークじょう
エリザベス
1486ねん1がつ18にち
8にんもうける
1509ねん4がつ21にち
リッチモンド宮殿きゅうでん
52さい
エドワード3せいの7だいまご
ヘンリー8せい
(Henry VIII)
Henry VIII, by Hans Holbein, c.1536 1491ねん6がつ28にち
グリニッジ宮殿きゅうでん
ヘンリー7せい
キャサリン
1509ねん6がつ11にち
一女いちじょもうける
1547ねん1がつ28にち
ホワイトホール宮殿きゅうでん
55さい
ヘンリー7せい
アン・ブーリン

1533ねん1がつ25にち
一女いちじょもうける

ジェーン・シーモア
1536ねん5がつ30にち
いちなんもうける
アン・オブ・クレーヴズ
1540ねん1がつ6にち
キャサリン・ハワード
1540ねん1がつ28にち
キャサリン・パー
1543ねん6がつ12にち
エドワード6せい
(Edward VI)
Edward VI, by Hans Eworth 1537ねん10がつ12にち
ハンプトンコート宮殿きゅうでん
ヘンリー8せい
未婚みこん 1553ねん6がつ6にち
グリニッジ宮殿きゅうでん
15さい
ヘンリー8せい

対立たいりつ王位おうい請求せいきゅうしゃ
名前なまえ 肖像しょうぞう 誕生たんじょう 結婚けっこん 死去しきょ 主張しゅちょう
ジェーン・グレイ
称号しょうごう対立たいりつ
1537ねん10がつ
ブラドゲートパーク
ギルフォード・ダドリー
1553ねん5がつ21にち
未婚みこん
1554ねん2がつ12にち
ロンドンとう
16さい (斬首ざんしゅけい)
ヘンリー7せい曾孫そうそん

エドワード6せいジェーン・グレイ自身じしん推定すいてい相続そうぞくじんとした。エドワード6せい死後しごの4日間にちかん、ジェーンは女王じょおう宣言せんげんした。宣言せんげんから9にち、エドワード6せい異母いぼあねでカトリック教徒きょうとであったメアリー十分じゅうぶん支持しじることにつとめ、7がつ19にちにジェーンを捕捉ほそくしてロンドンとうおくった。ジェーンは16さい処刑しょけいされた。今日きょうイギリス王室おうしつはジェーンは正統せいとうなる君主くんしゅであるとなしている。


名前なまえ 肖像しょうぞう 誕生たんじょう 結婚けっこん 死去しきょ 主張しゅちょう
メアリー1せい

(Mary I)

Mary I, by Antonius Mor, 1554 1516ねん2がつ18にち
グリニッジ宮殿きゅうでん
フェリペ2せい
1554ねん7がつ25にち
もうけず
1558ねん11月17にち
セント・ジェームズ宮殿きゅうでん
42さい
ヘンリー8せい
フィリップ1せい

(Philipe I)

King Philip of England 1527ねん5がつ21にち
バリャドリッド
(2) メアリー1せい
1554ねん7がつ25にち
もうけず
1598ねん9がつ13にち
エル・エスコリアル
71さい
メアリー1せいおっと
Coat of arms, 1554–1558
Coat of arms, 1554–1558

フェリペ2せい とメアリー1せい結婚けっこんめのもとで、フェリペ2せいはメアリー1せい称号しょうごう享受きょうじゅし、名声めいせい結婚けっこんおなながさでつづいた。議員ぎいん立法りっぽうふく公的こうてき文書ぶんしょには両人りょうにん名前なまえしるされ、議会ぎかい夫妻ふさい権威けんいのもとで召集しょうしゅうされた。議員ぎいん立法りっぽうはフェリペ2せいおう称号しょうごうあたえ、「メアリー1せい陛下へいかかみ恩恵おんけいけた王国おうこく支配しはい領域りょういき幸福こうふくなる行政ぎょうせいを……たすけるべし」と明記めいきした[47](しかし、あらゆる場所ばしょでの議決ぎけつでメアリー1せいが「唯一ただいち」の女王じょおう明記めいきされている)。にもかかわらず、フェリペ2せいはメアリー1せい共同きょうどう統治とうちおこなった[48]あたらしいイングランドおう英語えいご出来できなかったことから、すべての物事ものごととを明記めいきした記録きろくラテン語らてんごないしはスペイン作成さくせいしなければならなかった[48][49][50]貨幣かへいにはメアリー1せいとフェリペ2せいかおしめしたのがきざまれ、イングランドの紋章もんしょう右側みぎがわ)はフェリペ2せいもの夫妻ふさい共同きょうどう統治とうちしめわせもんとした[51][52]。フェリペ2せい王権おうけん傾斜けいしゃさせる大逆だいぎゃくざい法令ほうれいはイングランド[53]とアイルランドへもたらされた[54]。1552ねんにローマ教皇きょうこうパウルス5せいがフェリペ2せいとメアリー1せい正統せいとうなるアイルランドのおうおよ王妃おうひとする教皇きょうこう勅書ちょくしょ発行はっこうした。

名前なまえ 肖像しょうぞう 誕生たんじょう 結婚けっこん 死去しきょ 主張しゅちょう
エリザベス1せい

(Elizabeth I)

Elizabeth I, by Darnley 1533ねん9がつ7にち
グリニッジ宮殿きゅうでん
未婚みこん 1603ねん3がつ24にち
リッチモンド宮殿きゅうでん
69さい
ヘンリー8せい

ステュアートあさ[編集へんしゅう]

1603ねんにエリザベス1せい後継こうけいしゃのこすことなく崩御ほうぎょしたことで、スコットランドおうジェームズ6せい王位おういぎ、これは王冠おうかん合同ごうどうとしてられるようになった。ジェームズ6せい曾祖母そうそぼでヘンリー7せい長女ちょうじょであるマーガレット・テューダーかいしてテューダーいていた。1604ねんジェームズ1せいは、かつてのカスティーリャとアラゴンハプスブルクのスペインで一塊ひとかたまりになったのと酷似こくじした「グレート・ブリテンおう」の称号しょうごう採用さいようした。ジェームズ1せい国境こっきょうえたアイデンティティーを促進そくしんさせるために、従兄弟いとこレノックスこうリッチモンドこうに、他方たほうen:Lord of the Islesプリンス・オブ・ウェールズに、アルバこうヨークこうひとし名付なづけるようにして、称号しょうごうスコットランドじんイングランドじんたいしてひとしく気前きまえあたえた。しかし、議会ぎかいとく下院かいん効率こうりつかれたままであった。アイルランドは別個べっことして独立どくりつし、教会きょうかい国家こっか並存へいそんするというイングランドと平行へいこうした統治とうちはスコットランドもこれにくわわったとき存続そんぞくしたが、ジェームズ1せいみずからの同胞どうほうアルスター紹介しょうかいすることでアイルランドの荘園しょうえんえ、彼等かれらおおくはイングランドのレンスター支配しはいいきどおりをっていた。ステュアートあさふる同盟どうめいもとづいてながあいだカペーヴァロワ支援しえんし、このことが完全かんぜんにフランス王位おうい請求せいきゅうこころみるにいたらなかった。ステュアートブルボンから年金ねんきんっており、継承けいしょうしたイングランドないにおける自身じしん外国がいこく適応てきおうたいして大概たいがい悪口わるぐちっていた。プランタジネット裏切うらぎりが原因げんいんなのかもれないが、フランス革命かくめい圧力あつりょくでステュアートあさ後継こうけいしゃであるハノーヴァーあさがフランス王位おうい放棄ほうきしたときさらなる譲歩じょうほがなされた。

名前なまえ 肖像しょうぞう 誕生たんじょう 結婚けっこん 死去しきょ 主張しゅちょう
ジェームズ1せい

(James I)

James I, by Paulus van Somer 1566ねん6がつ19にち
エディンバラじょう
アン・オブ・デンマーク
1589ねん11月23にち
7にんもうける
1625ねん3がつ27にち
シーアーボールズ宮殿きゅうでん
58さい
ヘンリー7せい玄孫げんそん
チャールズ1せい

(Charles I)

Charles I, by Anthony van Dyck 1600ねん11月19にち
ダンファームリン宮殿きゅうでん
ヘンリエッタ
1625ねん6がつ13にち
9にんもうける
1649ねん1がつ30にち
ホワイトホール宮殿きゅうでん
48さい (斬首ざんしゅけい)
ジェームズ1せい

共和きょうわせい[編集へんしゅう]

1649ねんのチャールズ1せい処刑しょけい英語えいごばんから1660ねんチャールズ2せいによる王政おうせい復古ふっこまでのあいだ、イングランドには君主くんしゅがいなかった。わりに1653ねん護国ごこくきょうもうけられ、この期間きかん護国ごこくきょう時代じだいとしてられている。

名前なまえ 肖像しょうぞう 誕生たんじょう 結婚けっこん 死去しきょ
オリバー・クロムウェル Oliver Cromwell 1599ねん4がつ25にち
ハンティンドン[55]
エリザベス・ボルチア
1620ねん8がつ22にち
9にんもうける
1658ねん9がつ3にち
ホワイトホール
59さい
リチャード・クロムウェル Richard Cromwell, c.1650 1626ねん10がつ4にち
ハンティンドン
ドロシー・マイジョル
1649ねん5がつ
9にんもうける
1712ねん7がつ12にち
チェシャント
85さい

ステュアートあさ復帰ふっき[編集へんしゅう]

1660ねん君主くんしゅせい復活ふっかつしたが、安定あんていした解決かいけつは、議会ぎかい最終さいしゅうてきかな君主くんしゅとしてえらばれたものすべてへの権利けんり宣言せんげんした1688ねん名誉めいよ革命かくめいまでおとずれなかった。

名前なまえ 肖像しょうぞう 誕生たんじょう 結婚けっこん 死去しきょ 主張しゅちょう
チャールズ2せい
(Charles II)
1630ねん5がつ29にち
セント・ジェームズ宮殿きゅうでん
キャサリン
1662ねん5がつ21にち
3にん嫡子ちゃくしもうける
1685ねん2がつ6にち
ホワイト・ホールみや殿どの
54さい
チャールズ1せい
ジェームズ2せい

(James II)

1633ねん10がつ14にち (1) アン・ハイド
1660ねん9がつ3にち
8にんもうける

(2) メアリー
1673ねん11月21にち
7にんもうける

1701ねん9がつ16にち
サン=ジェルマン=アン=レーじょう
67さい
チャールズ1せい
メアリー2せい
(Mary II)
1662ねん4がつ30にち
セント・ジェームズ宮殿きゅうでん
セント・ジェームズ宮殿きゅうでん
1677ねん11月4にち
3にんもうける
1694ねん12月28にち
ケンジントン宮殿きゅうでん
32さい
ジェームズ2せいむすめ夫婦ふうふ
ウィリアム3せい

(William III)

1650ねん11月4にち
ハーグ
1702ねん3がつ8にち
ケンジントン宮殿きゅうでん
51さい
アン

(Anne)

1665ねん2がつ6にち ジョージ
1683ねん7がつ28にち
17にんもうける

(全員ぜんいん夭折ようせつ)

1714ねん8がつ1にち
ケンジントン宮殿きゅうでん
49さい
ジェームズ2せい

イングランド君主くんしゅ年表ねんぴょう[編集へんしゅう]

アン (イギリス女王)メアリー2世 (イングランド女王)ウィリアム3世 (イングランド王)ジェームズ2世 (イングランド王)チャールズ2世 (イングランド王)リチャード・クロムウェルオリバー・クロムウェルチャールズ1世 (イングランド王)ジェームズ1世 (イングランド王)エリザベス1世 (イングランド女王)メアリー1世 (イングランド女王)ジェーン・グレイエドワード6世 (イングランド王)ヘンリー8世 (イングランド王)ヘンリー7世 (イングランド王)リチャード3世 (イングランド王)エドワード5世 (イングランド王)エドワード4世 (イングランド王)ヘンリー6世 (イングランド王)エドワード4世 (イングランド王)ヘンリー6世 (イングランド王)ヘンリー5世 (イングランド王)ヘンリー4世 (イングランド王)リチャード2世 (イングランド王)エドワード3世 (イングランド王)エドワード2世 (イングランド王)エドワード1世 (イングランド王)ヘンリー3世 (イングランド王)ジョン (イングランド王)リチャード1世 (イングランド王)若ヘンリー王ヘンリー2世 (イングランド王)マティルダ (神聖ローマ皇后)スティーブン (イングランド王)ヘンリー1世 (イングランド王)ウィリアム2世 (イングランド王)ウィリアム1世 (イングランド王)エドガー・アシリングハロルド2世 (イングランド王)エドワード殉教王ハーデクヌーズハロルド1世 (イングランド王)クヌーズ1世 (デンマーク王)スヴェン1世 (デンマーク王)エドマンド2世 (イングランド王)エゼルレッド2世 (イングランド王)エドワード殉教王エドガー (イングランド王)エドヴィエドレッドエドマンド1世 (イングランド王)アゼルスタン (イングランド王)エセルウォルトエドワード長兄王アルフレッド大王エゼルレッド (ウェセックス王)エゼルベルト (ウェセックス王)エゼルバルト (ウェセックス王)エゼルウルフ (ウェセックス王)エグバート (ウェセックス王)ステュアート朝テューダー朝ヨーク朝ランカスター朝プランタジネット朝ノルマン朝デーン朝ウェセックス朝

系図けいず[編集へんしゅう]

ノルマンあさ[編集へんしゅう]

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ウィリアム1せい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ウィリアム2せい
 
アデル
 
ヘンリー1せい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
スティーブン
 
マティルダ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ヘンリー2せい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
プランタジネットあさ
 

プランタジネットあさ[編集へんしゅう]

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ヘンリー2せい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
わかヘンリー
 
リチャード1せい
 
ジョン
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ヘンリー3せい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
エドワード1せい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
エドワード2せい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
エドワード3せい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
エドワードくろ太子たいし
 
ライオネル・オブ・アントワープ
 
ジョン・オブ・ゴーント
 
エドマンド・オブ・ラングリー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
リチャード2せい
 
 
 
 
 
ランカスターあさ
 
ヨークあさ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

ランカスターあさ・ヨークあさ[編集へんしゅう]

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
プランタジネットあさ
エドワード3せい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
エドワードくろ太子たいしライオネル・オブ・アントワープジョン・オブ・ゴーントエドマンド・オブ・ラングリー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(プランタジネットあさ
リチャード2せい
 
 
ヘンリー4せいジョン・ボーフォート
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ヘンリー5せい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ヨークあさ
ヘンリー6せい
 
 
 
 
テューダーあさ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
プランタジネットあさ
エドワード3せい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ジョン・オブ・ゴーントライオネル・オブ・アントワープエドマンド・オブ・ラングリー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(ランカスターあさ)
 
 
 
 
 
 
 
リチャード・プランタジネット
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
エドワード4せいリチャード3せい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
テューダーあさ
ヘンリー7せい
 
エリザベス
 
エドワード5せい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
テューダーあさ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

テューダーあさ[編集へんしゅう]

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ヘンリー7せい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
マーガレット
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ヘンリー8せい
 
メアリー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
スコットランドおう
ジェームズ5せい
 
マーガレット
 
メアリー1せい
 
エリザベス1せい
 
エドワード6せい
 
フランセス
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
スコットランド女王じょおう
メアリー1せい
 
ヘンリー
 
 
 
 
ジェーン・グレイ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ジェームズ1せい
=スコットランドおう どう6せい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ステュアートあさ
 

ステュアートあさ[編集へんしゅう]

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ジェームズ1せい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
エリザベス
 
チャールズ1せい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ゾフィー
 
チャールズ2せい
 
メアリー
 
ジェームズ2せい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ジョージ1せい
 
 
 
 
 
ウィリアム3せい
 
メアリー2せい
 
アン
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ハノーヴァーあさ
 


連合れんごうほう[編集へんしゅう]

いちくみ議員ぎいん立法りっぽうである連合れんごうほうは、1706ねん7がつ22にちに2つのくに議員ぎいん代表だいひょうする委員いいんあいだ交渉こうしょう同意どういされた合同ごうどう条約じょうやく有効ゆうこうにするためにイングランド議会ぎかいスコットランド議会ぎかいによって1706ねんから1707ねんあいだ通過つうかされた。立法りっぽうにはイングランド王国おうこくとスコットランド王国おうこく(かつては分離ぶんりした主権しゅけん国家こっかおよ立法府りっぽうふであったが、共通きょうつうおういただいていた)はグレートブリテン王国おうこくとしてひとつの王国おうこくとなることがくわえられたT[56]

2つのくには100年間ねんかん君主くんしゅ共有きょうゆうしてきた(「王冠おうかん合同ごうどう」:スコットランドおうジェームズ6せいがエリザベス1せいからイングランド王位おうい継承けいしょうした1603ねんから)。しかし、王冠おうかん合同ごうどうについてべると、1707ねん以前いぜんには実際じっさいにはおなあたまうえに2つのかれた王冠おうかんいただかれた。1607ねん、1667ねん、1669ねんの3にわたって議員ぎいん立法りっぽうによって2つのくに合同ごうどうこころみられたが、18世紀せいき初頭しょとうまでに実行じっこうされることはなかった(意見いけんには背後はいごにある両国りょうこく政治せいじてき体制たいせい思惑おもわくがあった、ほかにも様々さまざま理由りゆうがあったが)。

称号しょうごう[編集へんしゅう]

アルフレッド大王だいおうからジョンかけおういたるまでのぜん君主くんしゅ基本きほんてき称号しょうごうRex Anglorum (イングランドおう)。くわえておくと、ノルマンあさ以前いぜん君主くんしゅ称号しょうごう以下いかしるす。

  • アルフレッド大王だいおう: Rex Angulsaxonum (King of the Anglosaxons) and Rex Anglorum et Saxonum (アングロ=サクソンおう)
  • アゼルスタン: Rex Anglorum per omnipatrantis dexteram totius Bryttaniæ regni solio sublimatus
  • エドマンド1せい: Rex Britanniae and Rex Anglorum caeterarumque gentium gobernator et rector
  • エドレッド: Regis qui regimina regnorum Angulsaxna, Norþhymbra, Paganorum, Brettonumque
  • エドウィ: Rex nutu Dei Angulsæxna et Northanhumbrorum imperator paganorum gubernator Breotonumque propugnator
  • エドガー: Totius Albionis finitimorumque regum basileus
  • クヌート大王だいおう: Rex Anglorum totiusque Brittannice orbis gubernator et rector and Brytannie totius Anglorum monarchus

ノルマンちょうには基本きほんてきにはRex Anglorumのこり、時折ときおりRex Anglie(イングランドおう)が使つかわれた。マティルダ自身じしん称号しょうごうDomina Anglorum(イングランドのおんなぬし)であった。

ジョンかけおう時代じだいからはさきのそのすべての称号しょうごうRex AnglieないしはRegina Anglie(イングランド女王じょおう)のため、ここに列挙れっきょすることはけておく。

1604ねん前年ぜんねんにイングランドおう継承けいしょうしたジェームズ1せいは(今日きょうでは普通ふつうラテン語らてんごよりも英語えいご表現ひょうげんされる)に「グレートブリテンおう」の称号しょうごう採用さいようした。しかし、イングランドとスコットランドの議会ぎかいは1707ねんのアン女王じょおう彼女かのじょ勿論もちろん「グレートブリテン女王じょおう」であった)したでの合同ごうどうほうまでこの称号しょうごう認識にんしきしていなかった[57]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ Keynes, Simon (1999), “Offa”, in Lapidge, Michael, The Blackwell Encyclopedia of Anglo-Saxon England, Oxford: Blackwell, pp. 301–341, ISBN 0-631-22492-0  "The notion that Offa claimed to be 'king of the English', or 'king of the whole country of England', has been shown to depend, however, on charters forged in the tenth century. In his own day he was 'king of the Mercians', and proud enough to be so." (p. 341)
  2. ^ Wormald, Patrick (1982), “The Age of Offa and Alcuin”, in Campbell, James, The Anglo-Saxons, London: Phaidon, pp. 101–128, ISBN 0-14-014395-5  "Charlemagne, moreover, saw England as if it were ruled by two kings only; Æthelred ruling Northumbria, and Offa everything to the south." (p. 101)
  3. ^ a b The Earliest English Kings, D.P. Kirby[リンク]
  4. ^ a b c d Burke's Peerage & Gentry. Retrieved 7 September 2007.
  5. ^ a b c d thePeerage.com – Æthelbald, King of Wessex and others”. 2007ねん10がつ24にち閲覧えつらん
  6. ^ King Egbert”. 2007ねん10がつ24にち閲覧えつらん
  7. ^ Weir, Alison (1999), Britain's Royal Family: A Complete Genealogy, London, U.K.: The Bodley Head, p. 6 
  8. ^ a b Alfred (the Great) @ Archontology.org. Retrieved 15 March 2007.
  9. ^ Catholic Encyclopedia: Alfred the Great. Retrieved 14 March 2007.
  10. ^ Alfred the Great. Retrieved 14 March 2007.
  11. ^ a b EADWEARD (Edward the Elder) @ Archontology.org. Retrieved 15 March 2007.
  12. ^ There are various references listing Edward the Elder's birth as sometime in the 870s, being the second child of a marriage of 868. There are no sources listing his birth as after 877. Anglo-Saxons.net : Edward the Elder. Retrieved 15 March 2007.
  13. ^ English Monarchs – Kings and Queens of England – Edward the Elder. Retrieved 21 January 2007.
  14. ^ Yorke, Barbara. Bishop Æthelwold. His Career and Influence. Woodbridge, 1988. p. 71
  15. ^ Textus Roffensis
  16. ^ a b c Aethelstan @ Archontology.org[リンク]. Retrieved 15 March 2007.
  17. ^ a b c EADMUND (Edmund) @ Archontology.org. Retrieved 17 March 2007.
  18. ^ English Monarchs – Kings and Queens of England – Edmund the Elder. Retrieved 17 March 2007.
  19. ^ EADRED (Edred) @ Archontology.org. Retrieved 17 March 2007.
  20. ^ BritRoyals – King Edred. Retrieved 17 March 2007.
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  22. ^ Catholic Encyclopedia: Edwy. Retrieved 17 March 2007.
  23. ^ EADGAR (Edgar the Peacemaker) @ Archontology.org. Retrieved 17 March 2007.
  24. ^ The Ætheling. Retrieved 17 March 2007.
  25. ^ a b EADWEARD (Edward the Martyr) @ Archontology.org. Retrieved 17 March 2007.
  26. ^ a b c d Æthelred the Unready was forced to go into exile in the summer of 1013, following Danish attacks, but was invited back following Sweyn Forkbeard's death. AETHELRED (the Unready) @ Archontology.org. Retrieved 17 March 2007.
  27. ^ a b Schoolnet Spartacus: Ethelred. Retrieved 17 March 2007.
  28. ^ a b English Monarchs – Kings and Queens of England – Ethelred II, the Redeless. Retrieved 17 March 2007.
  29. ^ English Monarchs”. 2007ねん10がつ27にち閲覧えつらん
  30. ^ Sweyn (Forkbeard) - Archontology.org”. 2007ねん10がつ27にち閲覧えつらん
  31. ^ a b c thePeerage.com – Person Page 10242”. 2007ねん10がつ27にち閲覧えつらん
  32. ^ thePeerage.com – Person Page 102175. Retrieved 25 March 2010.
  33. ^ a b c d EADMUND (Edmund the Ironside) @ Archontology.org. Retrieved 17 March 2007.
  34. ^ a b English Monarchs – Kings and Queens of England – Edmund Ironside. Retrieved 17 March 2007.
  35. ^ Edmund II (king of England) @ Britannica.com. Retrieved 25 March 2010.
  36. ^ a b c d CNUT (Canute) @ Archontology.org. Retrieved 21 March 2007.
  37. ^ a b thePeerage.com – Person Page 10219. Retrieved 25 March 2010.
  38. ^ a b c Harold was only recognised as king north of the River Thames until 1037, after which he was recognised as king of all England. Harold (Harefoot) - Archontology.org”. 2007ねん10がつ27にち閲覧えつらん
  39. ^ a b c thePeerage.com – Person Page 10220”. 2007ねん10がつ27にち閲覧えつらん
  40. ^ Harthacnut - Archontology.org”. 2007ねん10がつ28にち閲覧えつらん
  41. ^ a b c d e f g h thePeerage.com – Person Page 10218”. 2007ねん10がつ26にち閲覧えつらん
  42. ^ a b After reigning for approximately 9 weeks, Edgar the Atheling submitted to William the Conqueror, who had gained control of the area to the south and immediate west of London (Eadgar (the Ætheling) - Archontology.org”. 2007ねん10がつ26にち閲覧えつらん).
  43. ^ a b thePeerage.com – Person Page 9”. 2007ねん10がつ26にち閲覧えつらん
  44. ^ thePeerage.com – Person Page 10202”. 2007ねん10がつ25にち閲覧えつらん
  45. ^ thePeerage.com – Person Page 10193”. 2007ねん10がつ25にち閲覧えつらん
  46. ^ Biography of HENRY V - Archontology.org. Retrieved 28-11-2009
  47. ^ 1 Mar. stat. 2 c. 2
  48. ^ a b Louis Adrian Montrose, The subject of Elizabeth: authority, gender, and representation, University of Chicago Press, 2006
  49. ^ A. F. Pollard, The History of England – From the Accession of Edward VI. to the Death of Elizabeth (1547–1603), READ BOOKS, 2007
  50. ^ Wim de Groot, The Seventh Window: The King's Window Donated by Philip II and Mary Tudor to Sint Janskerk in Gouda (1557), Uitgeverij Verloren, 2005
  51. ^ Richard Marks, Ann Payne, British Museum, British Library; British heraldry from its origins to c. 1800; British Museum Publications Ltd., 1978
  52. ^ American Numismatic Association, The Numismatist, American Numismatic Association, 1971
  53. ^ en:Treason Act 1554
  54. ^ Robert Dudley Edwards, Ireland in the age of the Tudors: the destruction of Hiberno-Norman civilisation, Taylor & Francis, 1977
  55. ^ Oliver Cromwell 1599–1658”. 2007ねん10がつ25にち閲覧えつらん
  56. ^ Welcome parliament.uk. Retrieved 7 October 2008.
  57. ^ After the personal union of the three crowns, James was the first to style himself King of Great Britain, but the title was rejected by the English Parliament and had no basis in law. The Parliament of Scotland also opposed it. Croft, p67; Wilson, pp249–252. See also the early history of the Union Flag.

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