アン・ハイド

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アン・ハイド
Anne Hyde
ヨーク公爵こうしゃく夫人ふじん

出生しゅっしょう 1637ねん3月12にち22にち
イングランド王国の旗 イングランド王国おうこくバークシャー
死去しきょ 1671ねん3月31にち
イングランド王国の旗 イングランド王国おうこくセント・ジェームズ宮殿きゅうでん
埋葬まいそう 1671ねん4がつ5にち
イングランド王国の旗 イングランド王国おうこくウェストミンスター寺院じいん
配偶はいぐうしゃ ヨークこうジェームズ(イングランドおうジェームズ2せい
子女しじょ 一覧いちらん参照さんしょう
父親ちちおや クラレンドン伯爵はくしゃくエドワード・ハイド
母親ははおや フランシス・アリスバーリー
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アン・ハイドAnne Hyde, 1637ねん3月12にち22にち - 1671ねん3月31にち)は、ヨークこうジェームズ(イングランドおうジェームズ2せい)の最初さいしょつま。ジェームズの王位おうい継承けいしょう以前いぜん死去しきょしたため、王妃おうひにはなれなかった。2人ふたり女王じょおうメアリー2せいアンはは初代しょだいクラレンドン伯爵はくしゃくエドワード・ハイドとフランシス・アリスバーリーのむすめだい2だいクラレンドン伯爵はくしゃくヘンリー・ハイド、ロチェスター伯爵はくしゃくローレンス・ハイドあね

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

1637ねんバークシャーまれる。1658ねん、ヨークこうジェームズはハーグにいたあねメアリー・ヘンリエッタオラニエこうウィレム2せい、イングランドおうウィリアム3せいはは)をたずねたさいあね侍女じじょとしてつかえていたアンと出会であう。ジェームズは、アンが平民へいみんにすぎないため(当時とうじエドワード・ハイドはあにチャールズ2せい亡命ぼうめい政権せいけん国務大臣こくむだいじんでしかなく、爵位しゃくい領地りょうちもなかった)愛人あいじんとなるようせまるが、アンは承知しょうちしなかった。どうしてもアンをそばにおきたいジェームズは、「2人ふたりあいだまれる子供こどもは、王政おうせい復古ふっこのちにイングランドの法律ほうりつによって嫡出ちゃくしゅつとしてみとめる」むね約束やくそくをし、ようやく彼女かのじょれた。

1660ねん4がつ、アンの妊娠にんしんあきらかとなるが、ジェームズは正式せいしき結婚けっこん躊躇ちゅうちょした。をもんだのは、女性じょせいへのはやさではおとうとをはるかにしのいだチャールズ2せいで、「約束やくそくした以上いじょうはそれをまもれ!」とジェームズをめた。王政おうせい復古ふっこから4ヶ月かげつに、2人ふたり秘密ひみつうら結婚式けっこんしきげた。1660ねん10がつ、アンは長男ちょうなんケンブリッジこうチャールズを出産しゅっさん。この長男ちょうなんは1さい天然痘てんねんとうにより夭折ようせつした。

1670ねん、アンはカトリック改宗かいしゅうした。幼年ようねんプロテスタントとしてそだてられたジェームズがのちにカトリック教徒きょうととなった原因げんいんひとつは、アンの改宗かいしゅうにあったとわれる。

1671ねん2がつだい8のキャサリンを出産しゅっさん同年どうねん12がつ夭折ようせつ)。それからわずかすう週間しゅうかん死去しきょ原因げんいん乳癌にゅうがんであったといわれる。

子女しじょ[編集へんしゅう]

  1. チャールズ(1660ねん - 1661ねん) - ケンブリッジこう
  2. メアリー2せい(1662ねん - 1694ねん) - イングランド・スコットランド・アイルランド女王じょおう、オランダ総督そうとくウィリアム3せい結婚けっこん
  3. ジェームズ(1663ねん - 1667ねん) - ケンブリッジこう
  4. アン(1665ねん - 1714ねん) - イングランド・スコットランド・アイルランド女王じょおうグレートブリテン王国おうこく女王じょおうデンマークノルウェー王子おうじジョージ結婚けっこん
  5. チャールズ(1666ねん - 1667ねん) - ケンダルこう
  6. エドガー(1667ねん - 1671ねん) - ケンブリッジこう
  7. ヘンリエッタ(1669ねん
  8. キャサリン(1671ねん

王位おうい継承けいしょう家系かけい[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]