オットー4世 せい (ドイツ語 ご : Otto IV. , 1175年 ねん - 1218年 ねん 5月19日 にち )はホーエンシュタウフェン朝 あさ と対立 たいりつ したヴェルフ家 か 唯一 ゆいいつ のローマ王 おう (ドイツ王 おう 、在位 ざいい : 1198年 ねん - 1215年 ねん )[注釈 ちゅうしゃく 1] 、神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい (戴冠 たいかん : 1209年 ねん 10月21日 にち )[注釈 ちゅうしゃく 2] 。1208年 ねん まではシュタウフェン朝 あさ フィリップ の対立 たいりつ 王 おう 。フィリップの死 し で帝位 ていい まで獲得 かくとく したが教皇 きょうこう 派 は (ゲルフ)の長 ちょう でありながら教皇 きょうこう への背信 はいしん を繰 く り返 かえ したことから1210年 ねん にローマ教皇 きょうこう インノケンティウス3世 せい から破門 はもん を宣告 せんこく されており、1214年 ねん のブーヴィーヌの戦 たたか い でフィリップの甥 おい のフリードリヒ2世 せい に敗 やぶ れ翌年 よくねん に帝位 ていい と王位 おうい を失 うしな った。バイエルン 公 おおやけ 兼 けん ザクセン公 こう ハインリヒ3世 せい (ハインリヒ獅子 しし 公 こう ) とイングランド王 おう ヘンリー2世 せい の娘 むすめ マティルダ の次男 じなん 。ライン宮中 きゅうちゅう 伯 はく ハインリヒ5世 せい の弟 おとうと 、リューネブルク公 こう ヴィルヘルム の兄 あに 。
オットー4世 せい が用 もち いていた紋章 もんしょう
オットー4世 せい はザクセン公 こう ハインリヒ獅子 しし 公 こう とその妻 つま マティルダの3人 にん 目 め の子供 こども として生 う まれるが[1] 、史料 しりょう からオットーの正確 せいかく な出生 しゅっしょう 地 ち を知 し ることはできない[2] 。
1182年 ねん 7月 がつ 末 まつ にシュタウフェン家 か 出身 しゅっしん の神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい フリードリヒ1世 せい から国外 こくがい 追放 ついほう を宣告 せんこく された父 ちち ハインリヒに伴 ともな われ、イングランドに旅立 たびだ った。母方 ははかた の祖父 そふ であるヘンリー2世 せい が統治 とうち するイングランド で幼少 ようしょう 期 き を過 す ごした[3] 。オットーを養育 よういく していたイングランド王 おう リチャード1世 せい は、オットーとスコットランド王 おう ウィリアム1世 せい の王女 おうじょ マーガレットとの結婚 けっこん を取 と り決 き めた[4] 。1194年 ねん 2月 がつ 、神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい ハインリヒ6世 せい に捕 と らえられたリチャード1世 せい は、釈放 しゃくほう の条件 じょうけん として身代金 みのしろきん などを支払 しはら い、その際 さい にオットーと彼 かれ の弟 おとうと ヴィルヘルムは人質 ひとじち としてハインリヒ6世 せい の元 もと に預 あづ けられた[5] 。同年 どうねん 末 まつ にオットーたちは解放 かいほう され、イングランドに帰還 きかん する[6] 。1196年 ねん にオットーはポワトゥー伯 はく に叙任 じょにん され、リチャードが実施 じっし した対 たい フランス戦争 せんそう にはオットーも従軍 じゅうぐん した。
シュヴァーベン公 こう フィリップとの闘争 とうそう [ 編集 へんしゅう ]
1197年 ねん にハインリヒ6世 せい が没 ぼっ した後 のち 、ハインリヒ6世 せい の弟 おとうと シュヴァーベン公 こう フィリップ は大 だい 多数 たすう の諸侯 しょこう から金銭 きんせん と引 ひ き換 か えにローマ王 おう (ドイツ君主 くんしゅ )即位 そくい の支持 しじ を取 と り付 つ けた[7] 。シュタウフェン家 か に敵対 てきたい する諸侯 しょこう はヴェルフ家 か の人間 にんげん をローマ王 おう に擁立 ようりつ しようと試 こころ みたが、ハインリヒ獅子 しし 公 こう の子 こ の中 なか で最年長 さいねんちょう のハインリヒ は十字軍 じゅうじぐん に参加 さんか してロ ろ ーマ帝国 まていこく に不在 ふざい であったため、弟 おとうと のオットーがフィリップの対立 たいりつ 王 おう に選 えら ばれた。反 はん シュタウフェン家 か の立場 たちば をとるケルン大司教 だいしきょう アドルフは、ライン 地方 ちほう の諸侯 しょこう に働 はたら きかけてオットーを擁立 ようりつ し[8] 、1198年 ねん 6月9日 にち にヴェルフ家 か の支持 しじ 者 しゃ によってローマ王 おう に擁立 ようりつ された[3] 。同年 どうねん 7月 がつ 12日 にち 、オットーはアーヘン でケルン大司教 だいしきょう アドルフより戴冠 たいかん される[3] 。聖職 せいしょく 者 しゃ のうちケルン大司教 だいしきょう のみがローマ王冠 おうかん を戴冠 たいかん できる権限 けんげん を有 ゆう しており、戴冠 たいかん 式 しき はオットーの即位 そくい の正当 せいとう 性 せい を証明 しょうめい する象徴 しょうちょう として重要 じゅうよう な意味 いみ を持 も っていた[7] 。しかし、帝 みかど 権 けん を示 しめ す標 しめぎ 章 あきら はシュタウフェン家 か が所有 しょゆう していたため、戴冠 たいかん 式 しき では模造 もぞう 品 ひん の標 しめぎ 章 あきら で代用 だいよう された。
オットーは養育 よういく 者 しゃ であるイングランド王 おう リチャード1世 せい の支援 しえん を受 う け、シュヴァーベン公 こう フィリップはフランス王 おう フィリップ2世 せい と同盟 どうめい していたため、オットーの即位 そくい はイングランドとフランスの衝突 しょうとつ を引 ひ き起 お こした[9] 。
一方 いっぽう 、教皇 きょうこう 庁 ちょう は一人 ひとり の君主 くんしゅ の下 した でロ ろ ーマ帝国 まていこく と南 みなみ イタリアのシチリア王国 おうこく が統合 とうごう されている状況 じょうきょう が続 つづ いていることを憂 うれ い、ロ ろ ーマ帝国 まていこく とシチリアの分離 ぶんり 、中部 ちゅうぶ イタリアにおける教皇 きょうこう 権 けん の回復 かいふく を図 はか っていた[8] 。教皇 きょうこう インノケンティウス3世 せい は帝国 ていこく の混乱 こんらん に乗 じょう じ、アンコーナ 、スポレート 、ペルージャ などのイタリアの都市 とし からハインリヒ6世 せい によって配置 はいち された帝国 ていこく の封 ふう 臣 しん を追放 ついほう することに成功 せいこう した[10] 。帝国 ていこく の廷臣 ていしん の追放 ついほう と並行 へいこう して、インノケンティウス3世 せい はトスカーナ で形成 けいせい された反 はん 帝国 ていこく の都市 とし 同盟 どうめい (League of San Genesio)を支持 しじ し、同盟 どうめい は教皇 きょうこう の保護 ほご 下 か に置 お かれた[10] 。インノケンティウス3世 せい は、貧 まず しく支持 しじ 者 しゃ の少 すく ないオットーは教会 きょうかい の傀儡 かいらい に適 てき した人物 じんぶつ と考 かんが え、彼 かれ を国王 こくおう 候補 こうほ に選 えら んだ[11] 。インノケンティウス3世 せい は教皇 きょうこう が持 も つ皇帝 こうてい 候補 こうほ の適格 てきかく 性 せい の審査 しんさ 権 けん を主張 しゅちょう して国王 こくおう 選挙 せんきょ に介入 かいにゅう し、1201年 ねん 3月 がつ にインノケンティウス3世 せい はオットーを唯一 ゆいいつ の正当 せいとう なローマ王 おう として認 みと め、ローマ王 おう 選挙 せんきょ における教皇 きょうこう の介入 かいにゅう の先例 せんれい を作 つく った[12] 。教皇 きょうこう からの支援 しえん の見返 みかえ りとして、同年 どうねん 6月 がつ 8日 にち にオットーは中部 ちゅうぶ イタリアにおける教会 きょうかい の権利 けんり の保障 ほしょう 、シチリア王国 おうこく に対 たい する教皇 きょうこう の封 ふう 主権 しゅけん の承認 しょうにん 、イタリア政策 せいさく における教皇 きょうこう の意向 いこう の尊重 そんちょう を約束 やくそく した[8] 。ボヘミア王 おう オタカル1世 せい は当初 とうしょ シュヴァーベン公 こう フィリップを支持 しじ していたが、オットーはボヘミアからの支持 しじ も取 と り付 つ けることができた[13] 。また、デンマーク王 おう ヴァルデマー2世 せい からの支持 しじ も、オットーの正当 せいとう 性 せい をより強固 きょうこ なものにしていた。
しかし、シュヴァーベン公 こう フィリップはオットーの支持 しじ 者 しゃ との戦闘 せんとう で勝利 しょうり を重 かさ ね、1204年 ねん にはケルン大司教 だいしきょう からローマ王冠 おうかん を戴冠 たいかん された。同年 どうねん にイングランドがフランスとの戦闘 せんとう に敗 やぶ れたため、イングランドからの資金 しきん 援助 えんじょ を絶 た たれたオットーは苦境 くきょう に陥 おちい り、兄 あに のハインリヒを含 ふく めた多 おお くの諸侯 しょこう がフィリップに味方 みかた した。1206年 ねん 7月 がつ 27日 にち にオットーはヴァッセンベルク (ドイツ語 ご 版 ばん ) 近郊 きんこう の戦 たたか いでフィリップの軍 ぐん に敗 やぶ れて負傷 ふしょう し、教皇 きょうこう 庁 ちょう も内戦 ないせん で優位 ゆうい に立 た つフィリップの支持 しじ に回 まわ った[14] 。フィリップは事実 じじつ 上 じょう のローマ王 おう となり、オットーはブラウンシュヴァイク 近郊 きんこう の居城 きょじょう に退去 たいきょ を余儀 よぎ なくされた。
インノケンティウス3世 せい の仲介 ちゅうかい でオットーとフィリップはケルンで交渉 こうしょう を行 おこな い、フィリップはオットーにローマ王位 おうい 請求 せいきゅう 権 けん の放棄 ほうき と引 ひ き換 か えに、フィリップの娘 むすめ ベアトリクスとの結婚 けっこん 、シュヴァーベン公 おおやけ 位 い 、莫大 ばくだい な補償 ほしょう 金 きん の支払 しはら いを提示 ていじ した[9] 。オットーはフィリップの提案 ていあん を拒否 きょひ し、再 ふたた び内戦 ないせん が勃発 ぼっぱつ しようとしていたが、1208年 ねん 6月8日 にち にフィリップは個人 こじん 的 てき な怨恨 えんこん が原因 げんいん で暗殺 あんさつ される[15] 。
オットー4世 せい
フィリップの死後 しご 、オットーはシュタウフェン家 か との関係 かんけい を改善 かいぜん してベアトリクスと結婚 けっこん するが[16] 、フィリップの遺 のこ 領 りょう であるシュヴァーベン地方 ちほう の人間 にんげん はザクセン 地方 ちほう 出身 しゅっしん のオットーを「よそ者 もの 」と認識 にんしき していた[17] 。フィリップの暗殺 あんさつ 後 ご にインノケンティウス3世 せい は帝国 ていこく 諸侯 しょこう にオットーの支持 しじ を呼 よ びかけ[15] 、長 なが く続 つづ く内戦 ないせん に疲弊 ひへい した諸侯 しょこう たちはオットーの即位 そくい に同意 どうい した[11] 。1208年 ねん 11月11日 にち にフランクフルト で行 おこな われた皇帝 こうてい 選挙 せんきょ において、オットーは帝位 ていい の世襲 せしゅう を行 おこな わないことを宣言 せんげん し、選 せん 帝 みかど 侯 こう 全員 ぜんいん からの支持 しじ を得 え た[13] 。
インノケンティウス3世 せい とも和解 わかい を果 は たしたオットーはローマ皇帝 こうてい への即位 そくい の準備 じゅんび に取 と り掛 か かった。1208年 ねん にオットーはヴェローナ 、モデナ 、ボローニャ を経由 けいゆ してミラノ に到着 とうちゃく し、同地 どうち でロンバルディアの鉄 てつ 王冠 おうかん を戴冠 たいかん され、「イタリア王 おう 」の称号 しょうごう を帯 お びた。1209年 ねん 3月 がつ にオットーはシュパイアー で以下 いか の事項 じこう を記 しる した特許 とっきょ 状 じょう を発布 はっぷ し[15] 、インノケンティウス3世 せい に対 たい して教皇 きょうこう の権威 けんい に服 ふく することを誓約 せいやく した[14] 。
マティルデ・ディ・カノッサ の遺 のこ 領 りょう を含 ふく む教皇 きょうこう 領 りょう の回復 かいふく
シチリア政策 せいさく における教皇 きょうこう の意向 いこう の尊重 そんちょう
レガーリエンレヒト(司教 しきょう の空位 くうい 期間 きかん 中 ちゅう 、司教 しきょう が置 お かれていない空 そら の司教 しきょう 区 く から上 あ がる収入 しゅうにゅう を王 おう が徴収 ちょうしゅう する権利 けんり )の放棄 ほうき
シュポーリエンレヒト(死去 しきょ した司教 しきょう が有 ゆう していた動産 どうさん に対 たい する王 おう の権利 けんり )の放棄 ほうき
教会 きょうかい 法 ほう (カノン法 ほう )に基 もと づく司教 しきょう の選出 せんしゅつ
オットーはヴィテルボ でインノケンティウス3世 せい と面会 めんかい し、1209年 ねん 10月 がつ 21日 にち にオットーはサン・ピエトロ大 だい 聖堂 せいどう でローマ皇帝 こうてい に戴冠 たいかん されたが[18] 、戴冠 たいかん 式 しき を前 まえ にしてローマ ではオットーを追放 ついほう する暴動 ぼうどう が起 お きていた[19] 。
インノケンティウス3世 せい との対立 たいりつ と失脚 しっきゃく [ 編集 へんしゅう ]
握手 あくしゅ を交 か わすオットー4世 せい とインノケンティウス3世 せい
即位 そくい 前 まえ に教皇 きょうこう と交 か わした数々 かずかず の誓約 せいやく を遵守 じゅんしゅ する意思 いし は、オットーにはおそらく皆無 かいむ であった[15] 。ローマを発 た ったオットーは北 きた に進 すす み、11月20日 にち にピサ に到達 とうたつ する。ピサで出会 であ ったアチェッラ伯 はく ディーポルト (英語 えいご 版 ばん ) らシチリア王国 おうこく に臣従 しんじゅう するアプーリア の封建 ほうけん 貴族 きぞく からの嘆願 たんがん を受 う けて、オットーはシチリア遠征 えんせい を決定 けってい する[20] 。
アンコーナとスポレートからは教皇 きょうこう の軍隊 ぐんたい が追放 ついほう され、2つの町 まち は帝国 ていこく の領地 りょうち として編入 へんにゅう された。そして、オットーはハインリヒ6世 せい の遺児 いじ であるシチリア王 おう フリードリヒ2世 せい に臣従 しんじゅう を誓 ちか うことを求 もと め、フリードリヒが要求 ようきゅう を拒 こば むと彼 かれ に領地 りょうち の没収 ぼっしゅう を宣告 せんこく した[21] 。オットーはローマに進軍 しんぐん し、インノケンティウス3世 せい にヴォルムス協約 きょうやく の取 と り消 け しと聖職 せいしょく 者 しゃ の叙任 じょにん 権 けん の付与 ふよ を要求 ようきゅう した[21] 。
1210年 ねん 11月にオットーはフリードリヒ2世 せい が支配 しはい するシチリア王国 おうこく の遠征 えんせい に向 む かう[15] 。インノケンティウス3世 せい はオットーの振 ふ る舞 ま いに激怒 げきど し、11月18日 にち にオットーに破門 はもん を宣告 せんこく した[15] [22] 。シチリア遠征 えんせい が実施 じっし されたころ、ロ ろ ーマ帝国 まていこく の諸侯 しょこう たちはよりオットーへの不満 ふまん を募 つの らせていた。抗 こう 争 そう の間 あいだ も教皇 きょうこう 側 がわ から交渉 こうしょう の申 さる 出 で があったが、勝利 しょうり を確信 かくしん していたオットーは妥協 だきょう を示 しめ さず、インノケンティウス3世 せい は反 はん ヴェルフ派 は の諸侯 しょこう に新 あら たなローマ王 おう の選出 せんしゅつ を認 みと める[23] 。1211年 ねん 、オットーがマインツ大司教 だいしきょう 、マクデブルク大司教 だいしきょう らの諸侯 しょこう とともに南 みなみ イタリアに駐屯 ちゅうとん していたころ[24] 、インノケンティウス3世 せい の承認 しょうにん とフランス王 おう フィリップ2世 せい の支援 しえん を受 う けた諸侯 しょこう がニュルンベルク でフリードリヒ2世 せい を新 あら たなローマ王 おう に選出 せんしゅつ した[25] 。
ブラウンシュヴァイク大 だい 聖堂 せいどう のオットー4世 せい の墓標 ぼひょう 板 ばん
オットーは窮地 きゅうち から脱 だっ するため、イタリアから帰国 きこく する[24] 。帰国 きこく したオットーはローマの諸侯 しょこう と高位 こうい 聖職 せいしょく 者 しゃ の多 おお くが自分 じぶん を敵視 てきし し、イタリアにいたはずのフリードリヒが警戒 けいかい 網 もう を潜 くぐ り抜 ぬ けてアルプス山脈 あるぷすさんみゃく を越 こ えてコンスタンツ に到着 とうちゃく したことを知 し った[24] 。オットーがイタリアから帰国 きこく して間 ま もなくベアトリクスが没 ぼっ し、フリードリヒ2世 せい がロ ろ ーマ帝国 まていこく へ来 く ることを知 し ったバイエルン・シュヴァーベンの従 したがえ 士 し たちはオットーの元 もと から離 はな れていった[26] 。1212年 ねん 12月5日 にち 、多数 たすう の選 せん 帝 みかど 侯 こう から支持 しじ されたフリードリヒ2世 せい は改 あらた めてローマ王 おう に選出 せんしゅつ される[27] 。
ローマ王位 おうい を巡 めぐ るオットーとフリードリヒ2世 せい の争 あらそ いは膠着 こうちゃく し、オットーとフリードリヒの内戦 ないせん は2人 ふたり の背後 はいご にいるフランス王 おう フィリップ2世 せい とオットーの叔父 おじ でもあるイングランド王 おう ジョン との関係 かんけい にも影響 えいきょう を及 およ ぼした。1213年 ねん のイングランドによるフランス艦隊 かんたい の撃破 げきは はジョンによるフランス遠征 えんせい の準備 じゅんび の始 はじ まりであり、オットーはフランス内 ない のフリードリヒ2世 せい の支持 しじ 者 しゃ を攻撃 こうげき し、自 みずか らの威信 いしん を高 たか めていた[27] 。1214年 ねん 2月 がつ 、ロワール川 がわ を渡 わた るジョンと呼応 こおう したオットーがフランドル 地方 ちほう に進軍 しんぐん し、フランドル伯 はく フェラン と合流 ごうりゅう してフィリップ2世 せい を挟撃 きょうげき する計画 けいかく が立 た てられた。オットーはフェランの支配 しはい 下 か に置 お かれているエノー 地方 ちほう のヴァランシエンヌ城 じょう に入 はい り、イングランドから派遣 はけん された騎士 きし ・戦士 せんし を加 くわ えてフランスに進軍 しんぐん した[28] 。1214年 ねん 7月 がつ 27日 にち にブーヴィーヌ でオットー、ジョンらの連合 れんごう 軍 ぐん とフランス軍 ぐん が激突 げきとつ し、戦闘 せんとう はフランス軍 ぐん の勝利 しょうり に終 お わった(ブーヴィーヌの戦 たたか い )。オットーは戦闘 せんとう 中 ちゅう にフランスのピエール・モーヴォワザン、ジラール・ラ・トリュイらに肉 にく 迫 せり され、乗馬 じょうば が負傷 ふしょう したために逃走 とうそう したと伝 つた えられている[29] 。ブーヴィーヌの敗戦 はいせん により、ローマ王位 おうい を巡 めぐ るオットーの敗北 はいぼく が決定 けってい づけられた[30] 。また、この戦闘 せんとう でロ ろ ーマ帝国 まていこく を象徴 しょうちょう する「金色 きんいろ の鷲 わし 」はフランス軍 ぐん の手 て に渡 わた り、フィリップ2世 せい からフリードリヒ2世 せい に送 おく られたと言 い われている[27] [31] 。
1215年 ねん の第 だい 4ラテラン公 こう 会議 かいぎ の開催 かいさい 前 まえ 、ミラノから派遣 はけん されたオットーの使者 ししゃ は破門 はもん の解除 かいじょ を嘆願 たんがん した[22] 。使者 ししゃ はオットーが罪 つみ を悔悟 かいご していることを弁明 べんめい し、教皇 きょうこう に一切 いっさい の服従 ふくじゅう を誓 ちか うことを約束 やくそく したが、インノケンティウス3世 せい はフリードリヒ2世 せい を新 あら たなローマ王 おう にすることを決 き めていた[22] 。1215年 ねん 、オットーはローマ皇帝 こうてい 位 い を断念 だんねん する[14] 。
ブーヴィーヌで敗 やぶ れたオットーは本拠地 ほんきょち であるブラウンシュヴァイクへの撤退 てったい を余儀 よぎ なくされ[32] 、フリードリヒ2世 せい はアーヘンとケルンを獲得 かくとく した[14] 。以降 いこう 、オットーは没 ぼっ するまでブラウンシュヴァイクから出 で ることはほとんど無 な かった[33] 。1218年 ねん 5月 がつ 19日 にち にハルツ城 じょう (ドイツ語 ご 版 ばん ) でオットーは赤痢 せきり により死去 しきょ 、死 し の間際 まぎわ に破門 はもん の解除 かいじょ を懇願 こんがん した。オットーの遺体 いたい はブラウンシュヴァイク大 だい 聖堂 せいどう (ドイツ語 ご 版 ばん ) に埋葬 まいそう された。なお、ブラウンシュヴァイク の誇 ほこ るアントン・ウルリヒ公 こう 博物館 はくぶつかん (Herzog Anton Ulrich-Museum)にはオットーの遺品 いひん も収蔵 しゅうぞう されている[34] 。
オットー4世 せい は頑強 がんきょう な長身 ちょうしん の体躯 たいく を持 も つ、強情 ごうじょう かつ傲慢 ごうまん な性格 せいかく の人物 じんぶつ と伝 つた えられている[35] 。ウルスベルクの年代 ねんだい 記 き においては、「傲慢 ごうまん で愚 おろ かだが、勇敢 ゆうかん さを持 も った」人物 じんぶつ と述 の べられている[36] 。イタリアで帝位 ていい に就 つ きドイツに帰国 きこく したオットーを歓迎 かんげい する歌 うた を作 つく ったこともある[37] ミンネゼンガー (吟遊詩人 ぎんゆうしじん )のヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ は、後 のち に「もしも彼 かれ に背丈 せたけ 程 ほど 気前 きまえ のよさがあったなら 多 おお くの美点 びてん を備 そな えていたのに」と揶揄 やゆ した[38] 。また、吝嗇 りんしょく とも言 い えるほどの倹約 けんやく 家 か だと伝 つた えられている[17] 。大方 おおかた の否定 ひてい 的 てき 評価 ひょうか に対 たい して、オットーの属 ぞく するヴェルフェン 家 いえ とライヴァル関係 かんけい にあったホーエンシュタウフェン 家 いえ 寄 よ りの歴史 れきし 観 かん の犠牲 ぎせい になったとする見方 みかた もある[39] 。「母親 ははおや はプランタジネット家 か のヘンリ2世 せい の娘 むすめ であったし、父親 ちちおや (ザクセン公 こう ハインリヒ獅子 しし 公 こう )の政争 せいそう に起因 きいん する亡命 ぼうめい で、自身 じしん 英国 えいこく 宮廷 きゅうてい に保護 ほご されそこで成長 せいちょう したので、ドイツ人 じん であるよりもイングランド人 じん だといったほうがよいほどだった」[40] 。
英 えい 独 どく 仏 ふつ 伊 い の皇帝 こうてい ・王侯 おうこう に仕 つか えたティルベリのゲルウァシウス(ラテン語 らてんご :Gervasius Tilberiensis、独 どく :Gervasius von Tilbury、英 えい :Gervase of Tilbury、仏 ふつ :Gervais de Tilbury; 1152年 ねん 頃 ごろ -1220年 ねん 以後 いご )はオットーによりアルル王国 おうこく 宮廷 きゅうてい 元帥 げんすい (名誉 めいよ 職 しょく )に任 にん じられ、皇帝 こうてい に奇 き 譚 たん 集 しゅう 『皇帝 こうてい の閑暇 かんか 』(Otia Imperialia ; 1209年 ねん から1214年 ねん にかけて執筆 しっぴつ )を献呈 けんてい している(献呈 けんてい した時 とき にはオットーは皇帝 こうてい の地位 ちい を追 お われていた)[41] 。
オットーはベアトリクス 死去 しきょ 後 ご の1214年 ねん 4月 がつ 19日 にち にブラバント公 こう アンリ1世 せい の娘 むすめ マリア と再婚 さいこん するが、2度 ど の結婚 けっこん で子 こ がなかったため、甥 おい のオットー1世 せい が遺 のこ 領 りょう を継 つ いでブラウンシュヴァイク=リューネブルク家 か の祖 そ となった。
^ ローマ王 おう は帝位 ていい の前提 ぜんてい となった東 あずま フランク王位 おうい から改称 かいしょう された王 おう 号 ごう 。現代 げんだい から見 み れば実質 じっしつ ドイツ王 おう だが、当時 とうじ 国家 こっか ・地域 ちいき ・民族 みんぞく としてのドイツは存在 そんざい しない。またイタリア とブルグント への宗主 そうしゅ 権 けん を備 そな える。
^ 当時 とうじ はまだ神聖 しんせい ロ ろ ーマ帝国 まていこく という国号 こくごう はなく、古代 こだい ロ ろ ーマ帝国 まていこく 内 ない でローマ人 じん と混交 こんこう したゲルマン諸国 しょこく 及 およ びその後継 こうけい 国家 こっか 群 ぐん の総称 そうしょう を漠然 ばくぜん とロ ろ ーマ帝国 まていこく と呼 よ び、皇帝 こうてい は古代 こだい 帝国 ていこく の名残 なごり であるローマ教会 きょうかい の教皇 きょうこう に任命 にんめい され戴冠 たいかん していた。神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい は歴史 れきし 学 がく 的 てき 用語 ようご で実際 じっさい の称号 しょうごう ではない。
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^ a b カントローヴィチ『皇帝 こうてい フリードリヒ二 に 世 せい 』、85頁 ぺーじ
^ Abulafia, 131頁 ぺーじ 。しかし、P. Thorau: Otto IV. In: Lexikon des Mittelalters . Bd. VI. München/Zürich: Artemis & Winkler 1993 (ISBN 3-7608-8906-9 ), Sp. 1571.では10月 がつ 4日 にち 、フリードリヒ・フォン・ラウマー『騎士 きし の時代 じだい ドイツ中世 ちゅうせい の王家 おうけ の興亡 こうぼう 』(柳井 やない 尚子 しょうこ 訳 やく )法政大学 ほうせいだいがく 出版 しゅっぱん 局 きょく 1992 (叢書 そうしょ ・ウニベルシタス 386)(ISBN 4-588-00386-0 ) 280頁 ぺーじ では、9月27日 にち を戴冠 たいかん 式 しき の日 ひ としている。なお、同 どう 時代 じだい に活躍 かつやく したヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ は叙事詩 じょじし 『ヴィレハルム』第 だい 8巻 かん 、393/4詩 し 節 ぶし においてオットー帝 みかど の戴冠 たいかん 式 しき の後 のち の行列 ぎょうれつ に触 ふ れている。- ヴォルフラム・フォン・エッシェンバハ『ヴィレハルム』第 だい 8巻 かん (伊東 いとう 泰治 やすじ ・馬場 ばば 勝弥 かつや ・小栗 おぐり 友一 ともかず ・有川 ありかわ 貫太郎 かんたろう ・松浦 まつうら 順子 じゅんこ 訳 やく 〔名古屋大学 なごやだいがく 教養 きょうよう 部 ぶ ・名古屋大学 なごやだいがく 語学 ごがく センター 紀要 きよう C(外国 がいこく 語 ご ・外国 がいこく 文学 ぶんがく )〔22輯 1978〕、139頁 ぺーじ 。
^ Comyn, 280頁 ぺーじ
^ カントローヴィチ『皇帝 こうてい フリードリヒ二 に 世 せい 』、64-65頁 ぺーじ
^ a b Dunham, 196頁 ぺーじ
^ a b c Abulafia, 127頁 ぺーじ
^ 西川 にしかわ 「初期 しょき シュタウフェン朝 あさ 」『ドイツ史 し 1 先史 せんし 〜1648年 ねん 』、251-252頁 ぺーじ
^ a b c Abulafia, 381頁 ぺーじ
^ Comyn, 281頁 ぺーじ
^ カントローヴィチ『皇帝 こうてい フリードリヒ二 に 世 せい 』、84頁 ぺーじ
^ a b c Abulafia, 382頁 ぺーじ
^ デュビー『ブーヴィーヌの戦 たたか い』、66-67頁 ぺーじ
^ デュビー『ブーヴィーヌの戦 たたか い』、77-78頁 ぺーじ
^ 西川 にしかわ 「初期 しょき シュタウフェン朝 あさ 」『ドイツ史 し 1 先史 せんし 〜1648年 ねん 』、256-257頁 ぺーじ
^ カントローヴィチ『皇帝 こうてい フリードリヒ二 に 世 せい 』、89頁 ぺーじ
^ Comyn, 283頁 ぺーじ
^ 西川 にしかわ 「初期 しょき シュタウフェン朝 あさ 」『ドイツ史 し 1 先史 せんし 〜1648年 ねん 』、257頁 ぺーじ
^ de:Baedeker : Deutschland . Ostfildern: Karl Baedeker 8.Aufl. 2005 (ISBN 3-8297-1079-8 ), S. 306.
^ カントローヴィチ『皇帝 こうてい フリードリヒ二 に 世 せい 』、84頁 ぺーじ
^ デュビー『ブーヴィーヌの戦 たたか い』、53頁 ぺーじ
^ 村尾 むらお 喜夫 よしお 訳注 やくちゅう 『ワルターの歌 うた 』(Die Lieder Walthers von der Vogelweide)三修社 さんしゅうしゃ 、1989年 ねん 、79-80頁 ぺーじ 。- 尾野 おの 照治 てるじ 『中世 ちゅうせい ドイツ再 さい 発見 はっけん 』近代 きんだい 文芸 ぶんげい 社 しゃ 1985年 ねん ISBN 4-7733-6254-5 . C 0095. 240頁 ぺーじ 。
^ 村尾 むらお 喜夫 よしお 訳注 やくちゅう 『ワルターの歌 うた 』(Die Lieder Walthers von der Vogelweide)三修社 さんしゅうしゃ 、1989年 ねん 、126/7頁 ぺーじ 。
^ P. Thorau: Otto IV. In: Lexikon des Mittelalters . Bd. VI. München/Zürich: Artemis & Winkler 1993 (ISBN 3-7608-8906-9 ), Sp. 1570-1572, bes. 1572.
^ ティルベリのゲルウァシウス『西洋 せいよう 中世 ちゅうせい 奇 き 譚 たん 集成 しゅうせい 皇帝 こうてい の閑暇 かんか 』(池上 いけがみ 俊一 しゅんいち 訳 やく )講談社 こうだんしゃ 学術 がくじゅつ 文庫 ぶんこ 第 だい 5刷 さつ 2009 (ISBN 978-4-06-159884-3 )、290頁 ぺーじ 。
^ ティルベリのゲルウァシウス『西洋 せいよう 中世 ちゅうせい 奇 き 譚 たん 集成 しゅうせい 皇帝 こうてい の閑暇 かんか 』(池上 いけがみ 俊一 しゅんいち 訳 やく )講談社 こうだんしゃ 学術 がくじゅつ 文庫 ぶんこ 第 だい 5刷 さつ 2009 (ISBN 978-4-06-159884-3 )286-291、特 とく に 289-290頁 ぺーじ 。- Lexikon des Mittelalters . Bd. IV. München/Zürich: Artemis 1989 (ISBN 3-7608-8904-2 ), Sp. 1361.
西川 にしかわ 洋一 よういち 「初期 しょき シュタウフェン朝 あさ 」『ドイツ史 し 1 先史 せんし 〜1648年 ねん 』収録 しゅうろく (木村 きむら 靖二 やすじ 、成瀬 なるせ 治 おさむ 、山田 やまだ 欣吾 きんご 編 へん , 世界 せかい 歴史 れきし 大系 たいけい , 山川 やまかわ 出版 しゅっぱん 社 しゃ , 1997年 ねん 7月 がつ )
フリードリヒ・フォン・ラウマー『騎士 きし の時代 じだい ドイツ中世 ちゅうせい の王家 おうけ の興亡 こうぼう 』(柳井 やない 尚子 しょうこ 訳 やく )法政大学 ほうせいだいがく 出版 しゅっぱん 局 きょく 1992年 ねん 11月(叢書 そうしょ ・ウニベルシタス 386)(ISBN 4-588-00386-0 )
ジョルジュ・デュビー『ブーヴィーヌの戦 たたか い』(松村 まつむら 剛 つよし 訳 やく , 平凡社 へいぼんしゃ , 1992年 ねん 9月 がつ )
カール・ヨルダン『ザクセン大公 たいこう ハインリヒ獅子 しし 公 こう 』(瀬 せら 原 はら 義生 よしお 訳 やく , Minerva西洋 せいよう 史 し ライブラリー, ミネル みねる ヴァ書房 ぁしょぼう , 2004年 ねん 1月 がつ )
エルンスト・カントローヴィチ『皇帝 こうてい フリードリヒ二 に 世 せい 』(小林 こばやし 公 こう 訳 やく , 中央公論 ちゅうおうこうろん 新 しん 社 しゃ , 2011年 ねん 9月 がつ )
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