オットー4せい (神聖しんせいローマ皇帝こうてい)

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オットー4せい
Otto IV.
神聖しんせいローマ皇帝こうてい
19世紀せいきえがかれたオットー4せい肖像しょうぞう
在位ざいい 1198ねん - 1215ねん(ローマおう
戴冠たいかんしき 1198ねん7がつ12にち(ローマおう
1209ねん10月21にち神聖しんせいローマ皇帝こうてい
べつごう シュヴァーベンこう

出生しゅっしょう 1175ねん
神聖ローマ帝国の旗 かみきよしマ帝国まていこくブラウンシュヴァイク?
死去しきょ 1218ねん5月19にち
神聖ローマ帝国の旗 かみきよしマ帝国まていこくハルツじょう
埋葬まいそう 神聖ローマ帝国の旗 かみきよしマ帝国まていこく、ブラウンシュヴァイクだい聖堂せいどう
配偶はいぐうしゃ ベアトリクス・フォン・ホーエンシュタウフェン
  マリア・フォン・ブラバント
子女しじょ
家名かめい ヴェルフ
父親ちちおや ザクセンこうハインリヒ3せい
母親ははおや マティルダ
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オットー4せいドイツ: Otto IV., 1175ねん - 1218ねん5月19にち)はホーエンシュタウフェンあさ対立たいりつしたヴェルフ唯一ゆいいつローマおう(ドイツおう在位ざいい: 1198ねん - 1215ねん[注釈ちゅうしゃく 1]神聖しんせいローマ皇帝こうてい戴冠たいかん: 1209ねん10月21にち[注釈ちゅうしゃく 2]1208ねんまではシュタウフェンあさフィリップ対立たいりつおう。フィリップの帝位ていいまで獲得かくとくしたが教皇きょうこう(ゲルフ)のちょうでありながら教皇きょうこうへの背信はいしんかえしたことから1210ねんローマ教皇きょうこうインノケンティウス3せいから破門はもん宣告せんこくされており、1214ねんブーヴィーヌのたたかでフィリップのおいフリードリヒ2せいやぶ翌年よくねん帝位ていい王位おういうしなった。バイエルンおおやけけんザクセンこうハインリヒ3せい(ハインリヒ獅子ししこうイングランドおうヘンリー2せいむすめマティルダ次男じなんライン宮中きゅうちゅうはくハインリヒ5せいおとうと、リューネブルクこうヴィルヘルムあに

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

幼年ようねん[編集へんしゅう]

オットー4せいもちいていた紋章もんしょう

オットー4せいはザクセンこうハインリヒ獅子ししこうとそのつまマティルダの3にん子供こどもとしてまれるが[1]史料しりょうからオットーの正確せいかく出生しゅっしょうることはできない[2]

1182ねん7がつまつシュタウフェン出身しゅっしん神聖しんせいローマ皇帝こうていフリードリヒ1せいから国外こくがい追放ついほう宣告せんこくされたちちハインリヒにともなわれ、イングランドに旅立たびだった。母方ははかた祖父そふであるヘンリー2せい統治とうちするイングランド幼少ようしょうごした[3]。オットーを養育よういくしていたイングランドおうリチャード1せいは、オットーとスコットランドおうウィリアム1せい王女おうじょマーガレットとの結婚けっこんめた[4]1194ねん2がつ神聖しんせいローマ皇帝こうていハインリヒ6せいらえられたリチャード1せいは、釈放しゃくほう条件じょうけんとして身代金みのしろきんなどを支払しはらい、そのさいにオットーとかれおとうとヴィルヘルムは人質ひとじちとしてハインリヒ6せいもとあづけられた[5]同年どうねんまつにオットーたちは解放かいほうされ、イングランドに帰還きかんする[6]1196ねんにオットーはポワトゥーはく叙任じょにんされ、リチャードが実施じっししたたいフランス戦争せんそうにはオットーも従軍じゅうぐんした。

シュヴァーベンこうフィリップとの闘争とうそう[編集へんしゅう]

1197ねんにハインリヒ6せいぼっしたのち、ハインリヒ6せいおとうとシュヴァーベンこうフィリップだい多数たすう諸侯しょこうから金銭きんせんえにローマおう(ドイツ君主くんしゅ即位そくい支持しじけた[7]。シュタウフェン敵対てきたいする諸侯しょこうはヴェルフ人間にんげんをローマおう擁立ようりつしようとこころみたが、ハインリヒ獅子ししこうなか最年長さいねんちょうハインリヒ十字軍じゅうじぐん参加さんかしてマ帝国まていこく不在ふざいであったため、おとうとのオットーがフィリップの対立たいりつおうえらばれた。はんシュタウフェン立場たちばをとるケルン大司教だいしきょうアドルフは、ライン地方ちほう諸侯しょこうはたらきかけてオットーを擁立ようりつ[8]1198ねん6月9にちにヴェルフ支持しじしゃによってローマおう擁立ようりつされた[3]同年どうねん7がつ12にち、オットーはアーヘンでケルン大司教だいしきょうアドルフより戴冠たいかんされる[3]聖職せいしょくしゃのうちケルン大司教だいしきょうのみがローマ王冠おうかん戴冠たいかんできる権限けんげんゆうしており、戴冠たいかんしきはオットーの即位そくい正当せいとうせい証明しょうめいする象徴しょうちょうとして重要じゅうよう意味いみっていた[7]。しかし、みかどけんしめしめぎあきらはシュタウフェン所有しょゆうしていたため、戴冠たいかんしきでは模造もぞうひんしめぎあきら代用だいようされた。

オットーは養育よういくしゃであるイングランドおうリチャード1せい支援しえんけ、シュヴァーベンこうフィリップはフランスおうフィリップ2せい同盟どうめいしていたため、オットーの即位そくいはイングランドとフランスの衝突しょうとつこした[9]

一方いっぽう教皇きょうこうちょう一人ひとり君主くんしゅしたマ帝国まていこくみなみイタリアのシチリア王国おうこく統合とうごうされている状況じょうきょうつづいていることをうれい、マ帝国まていこくとシチリアの分離ぶんり中部ちゅうぶイタリアにおける教皇きょうこうけん回復かいふくはかっていた[8]教皇きょうこうインノケンティウス3せい帝国ていこく混乱こんらんじょうじ、アンコーナスポレートペルージャなどのイタリアの都市としからハインリヒ6せいによって配置はいちされた帝国ていこくふうしん追放ついほうすることに成功せいこうした[10]帝国ていこく廷臣ていしん追放ついほう並行へいこうして、インノケンティウス3せいトスカーナ形成けいせいされたはん帝国ていこく都市とし同盟どうめい(League of San Genesio)を支持しじし、同盟どうめい教皇きょうこう保護ほごかれた[10]。インノケンティウス3せいは、まずしく支持しじしゃすくないオットーは教会きょうかい傀儡かいらいてきした人物じんぶつかんがえ、かれ国王こくおう候補こうほえらんだ[11]。インノケンティウス3せい教皇きょうこう皇帝こうてい候補こうほ適格てきかくせい審査しんさけん主張しゅちょうして国王こくおう選挙せんきょ介入かいにゅうし、1201ねん3がつにインノケンティウス3せいはオットーを唯一ゆいいつ正当せいとうなローマおうとしてみとめ、ローマおう選挙せんきょにおける教皇きょうこう介入かいにゅう先例せんれいつくった[12]教皇きょうこうからの支援しえん見返みかえりとして、同年どうねん6がつ8にちにオットーは中部ちゅうぶイタリアにおける教会きょうかい権利けんり保障ほしょう、シチリア王国おうこくたいする教皇きょうこうふう主権しゅけん承認しょうにん、イタリア政策せいさくにおける教皇きょうこう意向いこう尊重そんちょう約束やくそくした[8]ボヘミアおうオタカル1せい当初とうしょシュヴァーベンこうフィリップを支持しじしていたが、オットーはボヘミアからの支持しじけることができた[13]。また、デンマークおうヴァルデマー2せいからの支持しじも、オットーの正当せいとうせいをより強固きょうこなものにしていた。

しかし、シュヴァーベンこうフィリップはオットーの支持しじしゃとの戦闘せんとう勝利しょうりかさね、1204ねんにはケルン大司教だいしきょうからローマ王冠おうかん戴冠たいかんされた。同年どうねんにイングランドがフランスとの戦闘せんとうやぶれたため、イングランドからの資金しきん援助えんじょたれたオットーは苦境くきょうおちいり、あにのハインリヒをふくめたおおくの諸侯しょこうがフィリップに味方みかたした。1206ねん7がつ27にちにオットーはヴァッセンベルクドイツばん近郊きんこうたたかいでフィリップのぐんやぶれて負傷ふしょうし、教皇きょうこうちょう内戦ないせん優位ゆういつフィリップの支持しじまわった[14]。フィリップは事実じじつじょうのローマおうとなり、オットーはブラウンシュヴァイク近郊きんこう居城きょじょう退去たいきょ余儀よぎなくされた。

インノケンティウス3せい仲介ちゅうかいでオットーとフィリップはケルンで交渉こうしょうおこない、フィリップはオットーにローマ王位おうい請求せいきゅうけん放棄ほうきえに、フィリップのむすめベアトリクスとの結婚けっこん、シュヴァーベンおおやけ莫大ばくだい補償ほしょうきん支払しはらいを提示ていじした[9]。オットーはフィリップの提案ていあん拒否きょひし、ふたた内戦ないせん勃発ぼっぱつしようとしていたが、1208ねん6月8にちにフィリップは個人こじんてき怨恨えんこん原因げんいん暗殺あんさつされる[15]

即位そくい[編集へんしゅう]

オットー4せい

フィリップの死後しご、オットーはシュタウフェンとの関係かんけい改善かいぜんしてベアトリクスと結婚けっこんするが[16]、フィリップののこりょうであるシュヴァーベン地方ちほう人間にんげんザクセン地方ちほう出身しゅっしんのオットーを「よそもの」と認識にんしきしていた[17]。フィリップの暗殺あんさつにインノケンティウス3せい帝国ていこく諸侯しょこうにオットーの支持しじびかけ[15]ながつづ内戦ないせん疲弊ひへいした諸侯しょこうたちはオットーの即位そくい同意どういした[11]。1208ねん11月11にちフランクフルトおこなわれた皇帝こうてい選挙せんきょにおいて、オットーは帝位ていい世襲せしゅうおこなわないことを宣言せんげんし、せんみかどこう全員ぜんいんからの支持しじ[13]

インノケンティウス3せいとも和解わかいたしたオットーはローマ皇帝こうていへの即位そくい準備じゅんびかった。1208ねんにオットーはヴェローナモデナボローニャ経由けいゆしてミラノ到着とうちゃくし、同地どうちロンバルディアのてつ王冠おうかん戴冠たいかんされ、「イタリアおう」の称号しょうごうびた。1209ねん3がつにオットーはシュパイアー以下いか事項じこうしるした特許とっきょじょう発布はっぷ[15]、インノケンティウス3せいたいして教皇きょうこう権威けんいふくすることを誓約せいやくした[14]

  • マティルデ・ディ・カノッサのこりょうふく教皇きょうこうりょう回復かいふく
  • シチリア政策せいさくにおける教皇きょうこう意向いこう尊重そんちょう
  • レガーリエンレヒト(司教しきょう空位くうい期間きかんちゅう司教しきょうかれていないそら司教しきょうからがる収入しゅうにゅうおう徴収ちょうしゅうする権利けんり)の放棄ほうき
  • シュポーリエンレヒト(死去しきょした司教しきょうゆうしていた動産どうさんたいするおう権利けんり)の放棄ほうき
  • 教会きょうかいほう(カノンほう)にもとづく司教しきょう選出せんしゅつ

オットーはヴィテルボでインノケンティウス3せい面会めんかいし、1209ねん10がつ21にちにオットーはサン・ピエトロだい聖堂せいどうでローマ皇帝こうてい戴冠たいかんされたが[18]戴冠たいかんしきまえにしてローマではオットーを追放ついほうする暴動ぼうどうきていた[19]

インノケンティウス3せいとの対立たいりつ失脚しっきゃく[編集へんしゅう]

握手あくしゅわすオットー4せいとインノケンティウス3せい

即位そくいまえ教皇きょうこうわした数々かずかず誓約せいやく遵守じゅんしゅする意思いしは、オットーにはおそらく皆無かいむであった[15]。ローマをったオットーはきたすすみ、11月20にちピサ到達とうたつする。ピサで出会であったアチェッラはくディーポルト英語えいごばんらシチリア王国おうこく臣従しんじゅうするアプーリア封建ほうけん貴族きぞくからの嘆願たんがんけて、オットーはシチリア遠征えんせい決定けっていする[20]

アンコーナとスポレートからは教皇きょうこう軍隊ぐんたい追放ついほうされ、2つのまち帝国ていこく領地りょうちとして編入へんにゅうされた。そして、オットーはハインリヒ6せい遺児いじであるシチリアおうフリードリヒ2せい臣従しんじゅうちかうことをもとめ、フリードリヒが要求ようきゅうこばむとかれ領地りょうち没収ぼっしゅう宣告せんこくした[21]。オットーはローマに進軍しんぐんし、インノケンティウス3せいヴォルムス協約きょうやくしと聖職せいしょくしゃ叙任じょにんけん付与ふよ要求ようきゅうした[21]

1210ねん11月にオットーはフリードリヒ2せい支配しはいするシチリア王国おうこく遠征えんせいかう[15]。インノケンティウス3せいはオットーのいに激怒げきどし、11月18にちにオットーに破門はもん宣告せんこくした[15][22]。シチリア遠征えんせい実施じっしされたころ、マ帝国まていこく諸侯しょこうたちはよりオットーへの不満ふまんつのらせていた。こうそうあいだ教皇きょうこうがわから交渉こうしょうさるがあったが、勝利しょうり確信かくしんしていたオットーは妥協だきょうしめさず、インノケンティウス3せいはんヴェルフ諸侯しょこうあらたなローマおう選出せんしゅつみとめる[23]1211ねん、オットーがマインツ大司教だいしきょうマクデブルク大司教だいしきょうらの諸侯しょこうとともにみなみイタリアに駐屯ちゅうとんしていたころ[24]、インノケンティウス3せい承認しょうにんとフランスおうフィリップ2せい支援しえんけた諸侯しょこうニュルンベルクでフリードリヒ2せいあらたなローマおう選出せんしゅつした[25]

晩年ばんねん[編集へんしゅう]

ブラウンシュヴァイクだい聖堂せいどうのオットー4せい墓標ぼひょうばん

オットーは窮地きゅうちからだっするため、イタリアから帰国きこくする[24]帰国きこくしたオットーはローマの諸侯しょこう高位こうい聖職せいしょくしゃおおくが自分じぶん敵視てきしし、イタリアにいたはずのフリードリヒが警戒けいかいもうくぐけてアルプス山脈あるぷすさんみゃくえてコンスタンツ到着とうちゃくしたことをった[24]。オットーがイタリアから帰国きこくしてもなくベアトリクスがぼっし、フリードリヒ2せいマ帝国まていこくることをったバイエルン・シュヴァーベンのしたがえたちはオットーのもとからはなれていった[26]。1212ねん12月5にち多数たすうせんみかどこうから支持しじされたフリードリヒ2せいあらためてローマおう選出せんしゅつされる[27]

ローマ王位おういめぐるオットーとフリードリヒ2せいあらそいは膠着こうちゃくし、オットーとフリードリヒの内戦ないせん2人ふたり背後はいごにいるフランスおうフィリップ2せいとオットーの叔父おじでもあるイングランドおうジョンとの関係かんけいにも影響えいきょうおよぼした。1213ねんのイングランドによるフランス艦隊かんたい撃破げきははジョンによるフランス遠征えんせい準備じゅんびはじまりであり、オットーはフランスないのフリードリヒ2せい支持しじしゃ攻撃こうげきし、みずからの威信いしんたかめていた[27]1214ねん2がつロワールがわわたるジョンと呼応こおうしたオットーがフランドル地方ちほう進軍しんぐんし、フランドルはくフェラン合流ごうりゅうしてフィリップ2せい挟撃きょうげきする計画けいかくてられた。オットーはフェランの支配しはいかれているエノー地方ちほうのヴァランシエンヌじょうはいり、イングランドから派遣はけんされた騎士きし戦士せんしくわえてフランスに進軍しんぐんした[28]。1214ねん7がつ27にちブーヴィーヌでオットー、ジョンらの連合れんごうぐんとフランスぐん激突げきとつし、戦闘せんとうはフランスぐん勝利しょうりわった(ブーヴィーヌのたたか)。オットーは戦闘せんとうちゅうにフランスのピエール・モーヴォワザン、ジラール・ラ・トリュイらににくせりされ、乗馬じょうば負傷ふしょうしたために逃走とうそうしたとつたえられている[29]。ブーヴィーヌの敗戦はいせんにより、ローマ王位おういめぐるオットーの敗北はいぼく決定けっていづけられた[30]。また、この戦闘せんとうマ帝国まていこく象徴しょうちょうする「金色きんいろわし」はフランスぐんわたり、フィリップ2せいからフリードリヒ2せいおくられたとわれている[27][31]

1215ねんだい4ラテランこう会議かいぎ開催かいさいまえ、ミラノから派遣はけんされたオットーの使者ししゃ破門はもん解除かいじょ嘆願たんがんした[22]使者ししゃはオットーがつみ悔悟かいごしていることを弁明べんめいし、教皇きょうこう一切いっさい服従ふくじゅうちかうことを約束やくそくしたが、インノケンティウス3せいはフリードリヒ2せいあらたなローマおうにすることをめていた[22]。1215ねん、オットーはローマ皇帝こうてい断念だんねんする[14]

ブーヴィーヌでやぶれたオットーは本拠地ほんきょちであるブラウンシュヴァイクへの撤退てったい余儀よぎなくされ[32]、フリードリヒ2せいはアーヘンとケルンを獲得かくとくした[14]以降いこう、オットーはぼっするまでブラウンシュヴァイクからることはほとんどかった[33]。1218ねん5がつ19にちハルツじょうドイツばんでオットーは赤痢せきりにより死去しきょ間際まぎわ破門はもん解除かいじょ懇願こんがんした。オットーの遺体いたいブラウンシュヴァイクだい聖堂せいどうドイツばん埋葬まいそうされた。なお、ブラウンシュヴァイクほこるアントン・ウルリヒこう博物館はくぶつかん(Herzog Anton Ulrich-Museum)にはオットーの遺品いひん収蔵しゅうぞうされている[34]

人物じんぶつぞう[編集へんしゅう]

オットー4せい頑強がんきょう長身ちょうしん体躯たいくつ、強情ごうじょうかつ傲慢ごうまん性格せいかく人物じんぶつつたえられている[35]。ウルスベルクの年代ねんだいにおいては、「傲慢ごうまんおろかだが、勇敢ゆうかんさをった」人物じんぶつべられている[36]。イタリアで帝位ていいきドイツに帰国きこくしたオットーを歓迎かんげいするうたつくったこともある[37]ミンネゼンガー吟遊詩人ぎんゆうしじん)のヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデは、のちに「もしもかれ背丈せたけほど気前きまえのよさがあったなら おおくの美点びてんそなえていたのに」と揶揄やゆした[38]。また、吝嗇りんしょくともえるほどの倹約けんやくだとつたえられている[17]大方おおかた否定ひていてき評価ひょうかたいして、オットーのぞくするヴェルフェンいえとライヴァル関係かんけいにあったホーエンシュタウフェンいえりの歴史れきしかん犠牲ぎせいになったとする見方みかたもある[39]。「母親ははおやはプランタジネットのヘンリ2せいむすめであったし、父親ちちおや(ザクセンこうハインリヒ獅子ししこう)の政争せいそう起因きいんする亡命ぼうめいで、自身じしん英国えいこく宮廷きゅうてい保護ほごされそこで成長せいちょうしたので、ドイツじんであるよりもイングランドじんだといったほうがよいほどだった」[40]。 

えいどくふつ皇帝こうてい王侯おうこうつかえたティルベリのゲルウァシウス(ラテン語らてんご:Gervasius Tilberiensis、どく:Gervasius von Tilbury、えい:Gervase of Tilbury、ふつ:Gervais de Tilbury; 1152ねんごろ-1220ねん以後いご)はオットーによりアルル王国おうこく宮廷きゅうてい元帥げんすい名誉めいよしょく)ににんじられ、皇帝こうていたんしゅう皇帝こうてい閑暇かんか』(Otia Imperialia; 1209ねんから1214ねんにかけて執筆しっぴつ)を献呈けんていしている(献呈けんていしたときにはオットーは皇帝こうてい地位ちいわれていた)[41]

家族かぞく[編集へんしゅう]

オットーはベアトリクス死去しきょ1214ねん4がつ19にちブラバントこうアンリ1せいむすめマリア再婚さいこんするが、2結婚けっこんがなかったため、おいのオットー1せいのこりょういでブラウンシュヴァイク=リューネブルクとなった。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ ローマおう帝位ていい前提ぜんていとなったあずまフランク王位おういから改称かいしょうされたおうごう現代げんだいかられば実質じっしつドイツおうだが、当時とうじ国家こっか地域ちいき民族みんぞくとしてのドイツは存在そんざいしない。またイタリアブルグントへの宗主そうしゅけんそなえる。
  2. ^ 当時とうじはまだ神聖しんせいマ帝国まていこくという国号こくごうはなく、古代こだいマ帝国まていこくないでローマじん混交こんこうしたゲルマン諸国しょこくおよびその後継こうけい国家こっかぐん総称そうしょう漠然ばくぜんマ帝国まていこくび、皇帝こうてい古代こだい帝国ていこく名残なごりであるローマ教会きょうかい教皇きょうこう任命にんめいされ戴冠たいかんしていた。神聖しんせいローマ皇帝こうてい歴史れきしがくてき用語ようご実際じっさい称号しょうごうではない。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ Bryce, 206ぺーじ
  2. ^ Heering, aart (October 2009). “Al trono per caso”. Medioevo: 58. 
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  13. ^ a b Dunham, 195ぺーじ
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  16. ^ Comyn, 279ぺーじ
  17. ^ a b カントローヴィチ『皇帝こうていフリードリヒせい』、85ぺーじ
  18. ^ Abulafia, 131ぺーじ。しかし、P. Thorau: Otto IV. In: Lexikon des Mittelalters. Bd. VI. München/Zürich: Artemis & Winkler 1993 (ISBN 3-7608-8906-9), Sp. 1571.では10がつ4にち、フリードリヒ・フォン・ラウマー『騎士きし時代じだい ドイツ中世ちゅうせい王家おうけ興亡こうぼう』(柳井やない尚子しょうこやく法政大学ほうせいだいがく出版しゅっぱんきょく 1992 (叢書そうしょ・ウニベルシタス 386)(ISBN 4-588-00386-0) 280ぺーじでは、9月27にち戴冠たいかんしきとしている。なお、どう時代じだい活躍かつやくしたヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ叙事詩じょじし『ヴィレハルム』だい8かん、393/4ぶしにおいてオットーみかど戴冠たいかんしきのち行列ぎょうれつれている。- ヴォルフラム・フォン・エッシェンバハ『ヴィレハルム』だい8かん伊東いとう泰治やすじ馬場ばば勝弥かつや小栗おぐり友一ともかず有川ありかわ貫太郎かんたろう松浦まつうら順子じゅんこやく名古屋大学なごやだいがく教養きょうよう名古屋大学なごやだいがく語学ごがくセンター 紀要きようC(外国がいこく外国がいこく文学ぶんがく)〔22輯 1978〕、139ぺーじ
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  27. ^ a b c Abulafia, 382ぺーじ
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  40. ^ ティルベリのゲルウァシウス『西洋せいよう中世ちゅうせいたん集成しゅうせい 皇帝こうてい閑暇かんか』(池上いけがみ俊一しゅんいちやく講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ だい5さつ 2009 (ISBN 978-4-06-159884-3)、290ぺーじ
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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

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  • フリードリヒ・フォン・ラウマー『騎士きし時代じだい ドイツ中世ちゅうせい王家おうけ興亡こうぼう』(柳井やない尚子しょうこやく法政大学ほうせいだいがく出版しゅっぱんきょく 1992ねん11月(叢書そうしょ・ウニベルシタス 386)(ISBN 4-588-00386-0)
  • ジョルジュ・デュビー『ブーヴィーヌのたたかい』(松村まつむらつよしやく, 平凡社へいぼんしゃ, 1992ねん9がつ
  • カール・ヨルダン『ザクセン大公たいこうハインリヒ獅子ししこう』(せらはら義生よしおやく, Minerva西洋せいようライブラリー, ミネルみねるァ書房ぁしょぼう, 2004ねん1がつ
  • エルンスト・カントローヴィチ『皇帝こうていフリードリヒせい』(小林こばやしこうやく, 中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ, 2011ねん9がつ
  • Abulafia, David, The New Cambridge Medieval History, Vol. V: c. 1198-c. 1300, Cambridge University Press, 1999
  • Bryce, James, The Holy Roman Empire, 1913
  • Canduci, Alexander (2010), Triumph & Tragedy: The Rise and Fall of Rome's Immortal Emperors, Pier 9, ISBN 978-1-74196-598-8 
  • Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Otto IV" . Encyclopædia Britannica (英語えいご) (11th ed.). Cambridge University Press.
  • Comyn, Robert. History of the Western Empire, from its Restoration by Charlemagne to the Accession of Charles V, Vol. I. 1851
  • Dunham, S. A., A History of the Germanic Empire, Vol. I, 1835
先代せんだい
フィリップ
シュヴァーベンこう
1208ねん - 1212ねん
次代じだい
フリードリヒ2せい