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カールマン (フランクおう)

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カールマン
Karlmann I
フランク国王こくおう
共同きょうどう統治とうち
在位ざいい 768ねん - 771ねん

出生しゅっしょう (751-06-28) 751ねん6月28にち
死去しきょ (771-12-04) 771ねん12月4にち(20さいぼつ
フランク王国おうこくげんフランスの旗 フランスランス
埋葬まいそう サン=ドニだい聖堂せいどう
配偶はいぐうしゃ ゲルベルガ
子女しじょ ピピン
家名かめい カロリング
王朝おうちょう カロリングあさ
父親ちちおや ピピン3せい
母親ははおや ベルトラダ英語えいごばん
宗教しゅうきょう カトリック教会きょうかい
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カールマン1せいドイツ:Karlmann I 、751ねん6月28にち - 771ねん12月4にち)は、フランク王国おうこくカロリングあさ)の国王こくおう在位ざいい768ねん - 771ねん)。ピピン3せいしょうピピン)とおうきさきベルトラダの次男じなんで、カール1せい大帝たいてい)のおとうとただし、カールは生誕せいたんねん諸説しょせつあることとピピン3せいとベルトラダの結婚けっこんねん確定かくてい出来できていないことから、ベルトラダ所生しょせいであること疑問ぎもん提起ていきしている歴史れきしもいる。この場合ばあい、カールマンがベルトラダにとっては長男ちょうなんとなる。

生涯しょうがい

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754ねん、カールマンはあにのカールとともにローマ教皇きょうこうステファヌス2せいからおうとしてぬりされた[1]。そして768ねんちちおうピピン3せい死去しきょしたのち、両者りょうしゃはフランクぞく習慣しゅうかんしたがってのこりょう分割ぶんかつし、カールマン1せい王国おうこく東部とうぶであるブルグントみなみアウストラシア相続そうぞくした[1][2]

カールとカールマンの兄弟きょうだい不仲ふなかであったが[1][3]、769ねんにカールがおとうとカールマンにアキテーヌ討伐とうばつ援軍えんぐんもとめたものの、カールマンがこれをことわったことからにん関係かんけいさら悪化あっかしたという[4]。771ねん、カールマン1せいランス死去しきょした(はなから大量たいりょう出血しゅっけつして死亡しぼうしたともわれる)。そのおうきさきゲルベルガは子供こどもともランゴバルド国王こくおうデジデリウスしたのがれ、のこりょうはすべてカール1せい相続そうぞくした[5][6]。ゲルベルガはランゴバルド王女おうじょであったともいわれている[7]。よりカール1せいりの年代ねんだいでは、ゲルベルガの行動こうどうにカール1せい困惑こんわくしていたことが示唆しさされている。

子女しじょ

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  • ピピン(770ねん - )[4] - カールマンの死後しごははとともにランゴバルド王国おうこくのがれた

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c 佐藤さとう、p. 21
  2. ^ 五十嵐いがらし、p. 49
  3. ^ 五十嵐いがらし、p. 51
  4. ^ a b 五十嵐いがらし、p. 52
  5. ^ 五十嵐いがらし、p. 57
  6. ^ 佐藤さとう、p. 22
  7. ^ 五十嵐いがらし、p. 53

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 五十嵐いがらしおさむ地上ちじょうゆめ キリスト教きりすときょう帝国ていこく カール大帝たいていのヨーロッパ』 講談社こうだんしゃ選書せんしょメチエ、2001ねん
  • 佐藤さとう彰一しょういち世界せかいリブレット じん カール大帝たいてい山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2013ねん

関連かんれん項目こうもく

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先代せんだい
ピピン3せい
フランク国王こくおう
768ねん - 771ねん
次代じだい
カール1せい