ヤルカンド・ハンこく

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ヤルカンド・ハンこく
Yarkent Khanate(えい
なんじ羌汗こくなか
モグーリスタン・ハン国 1514ねん - 1705ねん ジュンガル
ヤルカンド・ハン国の位置
ヤルカンド・ハンこく最大さいだい領域りょういき(1570年代ねんだい
言語げんご チャガタイ
宗教しゅうきょう イスラム教いすらむきょう
首都しゅと ヤルカンド
ハン
1514ねん - 1537ねん/1538ねん スルタン・サイード
不明ふめい - 1692ねんムハンマド・アミーン
変遷へんせん
建国けんこく 1514ねん
亡国ぼうこく1705ねん

ヤルカンド・ハンこく英語えいご:Yarkent Khanate、中国ちゅうごくなんじ羌汗こく)は、16世紀せいきから17世紀せいきにかけてひがしトルキスタン存在そんざいしていた国家こっか。「カシュガル・ハンこく[1]名前なまえばれる[2]

歴史れきし[編集へんしゅう]

モグーリスタン・ハンこくひがしチャガタイ・ハンこく)・ハンのアフマド・アラク次男じなんスルタン・サイードは、ティムールあさ王族おうぞくバーブル保護ほごけてカーブルで3ねんごした。モグーリスタン帰還きかんしたスルタン・サイードはひがしトルキスタン西部せいぶ支配しはいするドゥグラト有力ゆうりょくしゃミールザー・アバー・バクル追放ついほうし、1514ねん[1]にハンをしょうした[3]当時とうじモグーリスタン東部とうぶトルファンにはサイードのあにマンスールてたウイグリスタン・ハンこく存在そんざいし、両者りょうしゃたがいの権威けんいみとめずあらそうがやがて和解わかいし、モグーリスタンに2つの政権せいけん並立へいりつした[3]。サイードは草原そうげん地帯ちたい確保かくほこころみるが、ウズベクカザフ圧迫あっぱくされ、支配しはい領域りょういきカシュガルヤルカンド中心ちゅうしんとするタリム盆地ぼんち西部せいぶのオアシス地帯ちたい限定げんていされていた[4]。マンスールがあきらたいする聖戦せいせんジハード)をおこなっていたころ北方ほっぽう草原そうげん地帯ちたい喪失そうしつしたサイードはラダックバルーチスターン聖戦せいせんおこなった[5]。サイードのあといだアブドゥッラシード・ハン1せい強大きょうだい勢力せいりょくゆうするドゥグラト対立たいりつし、ドゥグラト有力ゆうりょくしゃサイイド・ムハンマド・ミールザー処刑しょけいされ、サイードの治世ちせい功績こうせきげたミールザー・ハイダル・ドゥグラト国外こくがい亡命ぼうめいする[6]

サイードの治世ちせい以降いこうおおくのマー・ワラー・アンナフルのスーフィー(イスラーム神秘しんぴ主義しゅぎ修行しゅぎょうそう)がひがしトルキスタンを巡錫じゅんしゃくするようになり、サイードとアブドゥッラシードはスーフィーに帰依きえした[7]アブドゥル・カリーム治世ちせいに、スーフィーのアフマド・カーサーニー(マフドゥーミ・アーザム)のホージャ・イスハークがカシュガルをおとずれた[8]。アブドゥル・カリームの帰依きえけられなかったイスハークはホータンアクスクチャ歴訪れきほうし、アブドゥル・カリームおとうとムハンマド道統どうとうさづけてサマルカンド帰還きかんした[8]

1591ねんにアブドゥル・カリームがぼっしたのち、ムハンマドがハンのくらいいた。ムハンマドはひがしトルキスタンにおけるイスハークの筆頭ひっとう弟子でしでもあり、イスハークの遺児いじであるホージャ・ムハンマド・ヤフヤーはカシュガルのムハンマドをたより、かれとおしてちち道統どうとう継承けいしょうした[8]。ヤフヤーはムハンマドをふくむ7にんのハンの師父しふとなり、ハン継承けいしょう問題もんだいにも介入かいにゅうした[8]主要しゅようなオアシス地帯ちたい支配しはいする王族おうぞくのハンめぐあらそいはヤフヤーの政治せいじへの介入かいにゅう容易よういにし、7にんのハンのなかにはかれ毒殺どくさつされたものもいた[9]

ヤフヤーの従弟じゅうていムハンマド・ユースフもカシュガルをおとずれたが、ヤフヤーと対立たいりつしたためにひがし粛州西にしやすし布教ふきょう活動かつどうおこなった[10]。イスハークの子孫しそんであるイスハーキーヤ黒山くろやまとう)とムハンマド・ユースフのヒダーヤット・アッラー(ホージャ・アファーク)の子孫しそんであるアーファーキーヤ白山はくさんとう)はヤルカンド・ハンこく主導しゅどうけんめぐってあらそい、ヒダーヤットもちち同様どうようあかり布教ふきょうおこなった[11]

1636ねんアブー・アル=アフマド・ハージ・ハンきよし入貢にゅうこうし、ひがしトルキスタンのしょ勢力せいりょくきよしとのあいだ朝貢ちょうこう貿易ぼうえき成立せいりつする[12]1648ねんから1649ねんにかけて甘粛かんせい発生はっせいしたムスリムの反乱はんらんのち一時いちじてきひがしトルキスタンときよし交流こうりゅう断絶だんぜつするが、1655ねんから貿易ぼうえき再開さいかいされる[13]

1678ねんジュンガルガルダン・ハーン[1]によってハミ、トルファンが占領せんりょうされ、1680ねんにカシュガル、ヤルカンドが陥落かんらくする。ガルダンはイスマーイール廃位はいいし、従軍じゅうぐんしていたトルファンの総督そうとくアブドゥッラシードをハンに擁立ようりつした[14]。ガルダンの侵攻しんこうまえ、カシュガルから追放ついほうされたヒダーヤットがチベットき、ダライ・ラマ5せい親書しんしょたずさえてガルダンのもとおもむいたことがイスハーキーヤがわ編纂へんさんされた史料しりょうしるされている[15][16]アブドゥッラシード・ハン2せいがジュンガルによってイリ拉致らちされたのち兄弟きょうだいムハンマド・アミーンがハンに擁立ようりつされるが、1692ねんにムハンマド・アミーンはアーファーキーヤに殺害さつがいされる。

ジュンガルの支配しはいかれたのちもイスハーキーヤを支持しじするハンとアーファーキーヤのこうそうつづき、ムハンマド・アミーンのつぎにハンとなったムハンマド・ムミーン1696ねん1697ねんにアーファーキーヤとの戦闘せんとう陣没じんぼつする。また、1696ねんにガルダンがしんぐんやぶれたのち、イリのアブドゥッラシード2せいきよし降伏ごうぶくした[10]北京ぺきん移住いじゅうしたアブドゥッラシードの子孫しそん[17][18][19][20]のぞいてモグーリスタン・ハンこくおうみつる途絶とだえ、モグーリスタン・ハン王女おうじょ祖母そぼつヒダーヤット・アッラーのまごアフマドがハンをしょうした[10]

社会しゃかい[編集へんしゅう]

スルターン称号しょうごう王族おうぞくがオアシス地帯ちたい割拠かっきょ[1]したヤルカンド・ハンこくでは従前じゅうぜんのモンゴル国家こっかのような統一とういつした軍事ぐんじ行動こうどう展開てんかい困難こんなんになり、また草原そうげん地帯ちたいうしなった遊牧ゆうぼくモグールの定住ていじゅうによって軍事ぐんじりょく低下ていかした[2]。モグールの有力ゆうりょくしゃはオアシス農地のうち領有りょうゆうしており、かれらの土地とち所有しょゆうみとめるハンのみことのりれいヤルリク)が存在そんざいする[21]軍事ぐんじりょく低下ていかおぎなうためにあらたな遊牧ゆうぼく集団しゅうだん編入へんにゅうされ、スルタン・サイードのだいからヤルカンド・ハンこくつかえていたクルグズは、アブドゥッラーの治世ちせいはいると宮廷きゅうてい地方ちほう要職ようしょくおおくをめるようになっていた[22]。17世紀せいきなかばにはカラヤンチュクとばれるオイラト集団しゅうだん傭兵ようへいとしてハンにしたがっていた。

歴代れきだい君主くんしゅ[編集へんしゅう]

[23]

  1. スルタン・サイード在位ざいい1514ねん - 1537ねん/38ねん
  2. アブドゥッラシード・ハン1せい在位ざいい:1537ねん/38ねん - 1559ねん/60ねん) - スルタン・サイードの
  3. アブドゥル・カリーム在位ざいい:1559ねん/60ねん - 1591ねん) - アブドゥッラシード1せい
  4. ムハンマド在位ざいい:1591ねん/92ねん - 1609ねん/10ねん) - アブドゥッラシード1せいで、アブドゥル・カリームのおとうと
  5. シュジャーウッディーン・アフマド在位ざいい:1609ねん/10ねん - 1618ねん/19ねん) - ムハンマドの
  6. クライシュ在位ざいい:1618ねん/19ねん?) - シュジャーウッディーン・アフマドの従兄弟いとこ
  7. アブドゥッラティーフ(アパク)(在位ざいい:1618ねん/19ねん? - 1630ねん/31ねん) - シュジャーウッディーン・アフマドの
  8. アフマド(プラド)(だいいち治世ちせい在位ざいい:1630ねん/31ねん - 1632ねん/33ねん) - シュジャーウッディーン・アフマドのまご
  9. マフムード(クルチ)(在位ざいい:1632ねん/33ねん - 1635ねん/36ねん) - アフマドの兄弟きょうだい
  10. アフマド(プラド)(だい治世ちせい在位ざいい:1635ねん/36ねん - 1638ねん/39ねん
  11. アブドゥッラー在位ざいい:1638ねん/39ねん - 1667ねん/68ねん) - シュジャーウッディーン・アフマドとクライシュの従兄弟いとこ
  12. ヨルバルス在位ざいい:1667ねん/68ねん - 1669ねん/70ねん) - アブドゥッラーの
  13. アブドゥッラティーフ在位ざいい:1669ねん/70ねん) - ヨルバルスの
  14. イスマーイール在位ざいい:1670ねん - 1680ねん) - アブドゥッラーの兄弟きょうだい
  15. アブドゥッラシード・ハン2せい在位ざいい:1680ねん - 1682ねん) - アブドゥッラーとイスマーイールのおい
  16. ムハンマド・アミーン在位ざいい:? - 1692ねん) - アブドゥッラシード2せい兄弟きょうだい
  17. アクバシュ・ハーン(ムハンマド・ムミーン)(在位ざいい:1692ねん - 1700ねん
  18. スルタン・アフマド在位ざいい:1700ねん - 1700ねん以降いこう)- アクバシュ・ハーンの

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d カシュガル・ハンこく』 - コトバンク
  2. ^ a b ちゅう濱田はまだ小松こまつ中央ちゅうおうユーラシアの周縁しゅうえん」『中央ちゅうおうユーラシア』、301ぺーじ
  3. ^ a b ちゅう濱田はまだ小松こまつ中央ちゅうおうユーラシアの周縁しゅうえん」『中央ちゅうおうユーラシア』、300ぺーじ
  4. ^ ちゅう濱田はまだ小松こまつ中央ちゅうおうユーラシアの周縁しゅうえん」『中央ちゅうおうユーラシア』、300-301ぺーじ
  5. ^ 濱田はまだ「モグール・ウルスからしん疆へ ひがしトルキスタンとあきらしん王朝おうちょう」『ひがしアジア・東南とうなんアジア伝統でんとう社会しゃかい形成けいせい』、103ぺーじ
  6. ^ グルセ、794,796ぺーじ
  7. ^ ちゅう濱田はまだ小松こまつ中央ちゅうおうユーラシアの周縁しゅうえん」『中央ちゅうおうユーラシア』、302-303ぺーじ
  8. ^ a b c d ちゅう濱田はまだ小松こまつ中央ちゅうおうユーラシアの周縁しゅうえん」『中央ちゅうおうユーラシア』、303ぺーじ
  9. ^ 濱田はまだ「モグール・ウルスからしん疆へ ひがしトルキスタンとあきらしん王朝おうちょう」『ひがしアジア・東南とうなんアジア伝統でんとう社会しゃかい形成けいせい』、108ぺーじ
  10. ^ a b c ちゅう濱田はまだ小松こまつ中央ちゅうおうユーラシアの周縁しゅうえん」『中央ちゅうおうユーラシア』、304ぺーじ
  11. ^ 濱田はまだ「カシュガル・ホージャ」『中央ちゅうおうユーラシアを事典じてん』、124-125ぺーじ
  12. ^ 羽田はた中央ちゅうおうアジア研究けんきゅう』、13-14ぺーじ
  13. ^ 羽田はた中央ちゅうおうアジア研究けんきゅう』、14,20ぺーじ
  14. ^ 羽田はた中央ちゅうおうアジア研究けんきゅう』、31ぺーじ
  15. ^ 羽田はた中央ちゅうおうアジア研究けんきゅう』、30-31ぺーじ
  16. ^ 濱田はまだ「モグール・ウルスからしん疆へ ひがしトルキスタンとあきらしん王朝おうちょう」『ひがしアジア・東南とうなんアジア伝統でんとう社会しゃかい形成けいせい』、109ぺーじ
  17. ^ 清朝せいちょうの「ちゅうきょうこれかい一等いっとうだいきちてい世襲せしゅうとうだいきち
  18. ^ ハシム(哈什) 清朝せいちょう、1760ねん ヤルカンドを征服せいふくしたのにともない1760ねんに「にゅう覲」(「」にのぼり「皇帝こうてい」の拝謁はいえつたまわること)し、「一等いっとうだいきち」の爵位しゃくいさずかり、北京ぺきんちゅうする。1765ねん死去しきょ
  19. ^ アブル(おもねぬの勒) ハシムの長氏ながうじ。1765ねん、「とうだいきち」の爵位しゃくい継承けいしょう1788ねん、「とうだいきち」の爵位しゃくい降格こうかくなく子孫しそんがれる「世襲せしゅう罔替」となる。
  20. ^ つつみかつらせり,1995,p.978
  21. ^ 濱田はまだ「モグール・ウルスからしん疆へ ひがしトルキスタンとあきらしん王朝おうちょう」『ひがしアジア・東南とうなんアジア伝統でんとう社会しゃかい形成けいせい』、104-105ぺーじ
  22. ^ ちゅう濱田はまだ小松こまつ中央ちゅうおうユーラシアの周縁しゅうえん」『中央ちゅうおうユーラシア』、302ぺーじ
  23. ^ 中央ちゅうおうユーラシアを事典じてん』、556-557ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • ちゅう見立みたておっと濱田はまだ正美まさみ小松こまつ久男ひさお中央ちゅうおうユーラシアの周縁しゅうえん」『中央ちゅうおうユーラシア収録しゅうろく小松こまつ久男ひさおへん, 新版しんぱん世界せかい各国かっこく, 山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ, 2000ねん10がつ
  • 羽田はたあきら中央ちゅうおうアジア研究けんきゅう』(臨川りんせん書店しょてん, 1982ねん6がつ
  • 濱田はまだ正美まさみ「モグール・ウルスからしん疆へ ひがしトルキスタンとあきらしん王朝おうちょう」『ひがしアジア・ 東南とうなんアジア伝統でんとう社会しゃかい形成けいせい収録しゅうろく岩波いわなみ講座こうざ13, 岩波書店いわなみしょてん, 1998ねん8がつ
  • 濱田はまだ正美まさみカシュガル・ホージャ」『中央ちゅうおうユーラシアを事典じてん収録しゅうろく平凡社へいぼんしゃ, 2005ねん4がつ
  • つつみかつらせりきよしだいこうむ官吏かんりでん民族みんぞく出版しゅっぱんしゃ,1995,ISBN 7-105-02273-6
  • ルネ・グルセ『アジア遊牧ゆうぼく民族みんぞく後藤ごとう富男とみおやく, ユーラシア叢書そうしょ, はら書房しょぼう, 1979ねん2がつ
  • 中央ちゅうおうユーラシアを事典じてん』(平凡社へいぼんしゃ, 2005ねん4がつ

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]