カシュガル・ホージャ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

カシュガル・ホージャとは、イスラム教いすらむきょう一派いっぱであるナクシュバンディー教団きょうだん指導しどうしゃホージャ)のうち、16世紀せいきから18世紀せいきにかけてひがしトルキスタン独立どくりつした政権せいけん形成けいせいした家系かけいである。

イスハーキーヤ(黒山くろやまとう[編集へんしゅう]

ナクシュバンディー教団きょうだん指導しどうしゃであったアフマド・カーサーニー(マフドゥミ・アザム)中国語ちゅうごくごばん次男じなんムハンマド・イスハーク・ワリー(? - 1599ねん)はサマルカンドからカシュガルホータンアクスクチャ滞在たいざいし、1599ねんにサマルカンドに帰還きかんした[1]かれ系統けいとうは、カシュガル・ホージャイスハーキーヤまたはカラタグルク、黒山くろやまとう[1]ばれた。イスハーキーヤはヤルカンドおおきな影響えいきょうりょくった。

アーファーキーヤ(白山はくさんとう[編集へんしゅう]

ホージャのべつ系統けいとうはアフマド・カーサーニーの長男ちょうなんのイーシャーニ・カラーン[2]>(ムハンマド・アミーン)のものであった。

最初さいしょひがしトルキスタンをおとずれたのはムハンマド・アミーンのホージャ・ユースフ中国語ちゅうごくごばん(? - 1652ねん/53ねん)であった。ホージャ・ユースフのホージャ・アファークであった[3]。この系統けいとうは、アーファーキーヤまたはイーシャーニーヤまたはアクタグルク(白山はくさんとう)とばれた[3]

白山はくさんとうは、黒山くろやまとう(イスハーキーヤ)とのこうそう敗北はいぼくし、ひがしトルキスタンを追放ついほうされ、1671ねんから1672ねんにかけて西にしやすしうつ[3]、そこで布教ふきょう成功せいこうし、おおくの中国ちゅうごくムスリム信徒しんとかいみん)を獲得かくとくした[3]

白山はくさんとう一派いっぱアーファークみつるがある[2]

アーファークみつる人物じんぶつ[編集へんしゅう]

史料しりょう[編集へんしゅう]

ヤーリング写本しゃほん[編集へんしゅう]

スウェーデンルンド大学だいがく図書館としょかんには、グンナ ・ヤーリング(Gunnar Jarring)の中央ちゅうおうアジア、とりわけひがしトルキスタンにかんするコレクションがある[2]。このうちProv.219ばん写本しゃほん(LundsUniversitetsbiblioteket,Gunnar Jarring Collection,Handskriftsavt,Prov.219.)には、カーシュガル・ホージャアーファークにかんする系図けいずなどの記録きろくのこされている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]