ミールザー・ハイダル・ドゥグラト

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カザフスタン発行はっこうされた切手きってえがかれた肖像しょうぞう

ミールザー・ムハンマド・ハイダル・ドゥグラトペルシア: میرزا محمد حیدر دولت بیگ‎, Mirza Muhammad Haidar Dughlat Beg, 1499ねん/1500ねん - 1551ねん)は、モグーリスタン・ハンこくひがしチャガタイ・ハンこく)の貴族きぞく歴史れきしテュルクけいドゥグラト出身しゅっしんムガル帝国ていこく創始そうししゃバーブル従弟じゅうていにあたる。著作ちょさくの『ターリーヒ・ラシーディー』は14世紀せいきから16世紀せいきにかけての中央ちゅうおうアジアとくにモグーリスタン・ハン国史こくしについての重要じゅうよう史料しりょう[1]、バーブルの著書ちょしょバーブル・ナーマ』に比肩ひけんする歴史れきししょとして評価ひょうかされている[2]

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

1533ねんにハイダル支配しはいのカシミールで鋳造ちゅうぞうされた銀貨ぎんかで、スルターン・サイードの名前なまえきざまれている。 表面ひょうめんにはal-sultan al-a'zam mir sa'id ghanという銘文めいぶんきざまれている。

ヒジュラれき905ねん(1499ねん/1500ねん)にちちのムハンマド・フサインの領地りょうちであるタシュケント近郊きんこうのウラ・テペでハイダルは誕生たんじょうする[3]

1503ねんにハイダルとかれ姉妹しまいヒサールのホスロウ・シャーフにらえられ、1ねんクンドゥズごした。よく1504ねんにクンドゥズはウズベク国家こっかシャイバーニーあさ征服せいふくされ、ハイダルはシャイバーニーあさ客将かくしょうとなっていたムハンマド・フサインと再会さいかいした。ハイダルはメッカ巡礼じゅんれいのぞむムハンマド・フサインにれられてちち領地りょうちシャフリサブスち、1505ねん親密しんみつ交流こうりゅうがあったカーブルバーブルもとおとずれる[4]1506ねんにムハンマド・フサインはホラーサーン地方ちほうかったバーブルからカーブルの留守るすまかされるが、ハイダル、バーブルの義理ぎり祖母そぼであるシャーフ・ベギムがバーブルにたいしてこした反乱はんらん参加さんかする[5]反乱はんらん失敗しっぱいわったのち、バーブルにつみゆるされたムハンマド・フサインはハイダルをともなってホラーサーン地方ちほうかった。1507ねんヘラートのティムールあさがシャイバーニーあさによってほろぼされたのち、ムハンマド・フサインはムハンマド・シャイバーニー・ハンまねかれてウズベクの宮廷きゅうていおとずれ、ハイダルは義兄ぎけいにあたるウバイドゥッラーともブハラうつった[6]。ムハンマド・シャイバーニーはムハンマド・フサインがモグーリスタンのマフムード・ハンと合流ごうりゅうすることをおそれ、1508ねんにマフムード、ムハンマド・フサインの二人ふたり暗殺あんさつする[7]

ちち暗殺あんさつされたのち、ハイダルはブハラ脱出だっしゅつし、ヒジュラれき913ねん(1507ねん/08ねん)にバダフシャーン支配しはいするティムールあさ王族おうぞくミールザー・ハンの保護ほごけた。1509ねんにミールザー・ハンはバーブルの要請ようせいおうじて、ハイダルと16にん従者じゅうしゃをカーブルにおくしたが、ハイダル、ミールザー・ハンのどちらも窮乏きゅうぼうした状態じょうたいにあったため、出立しゅったつさいして十分じゅうぶん用意よういととのえられなかったという[7]。カーブルに到着とうちゃくしたハイダルは手厚てあついもてなしをけ、『ターリーヒ・ラシーディー』ではつねにバーブルが自分じぶんがわいていたこと、表向おもてむきはバーブルの兄弟きょうだいおい同列どうれつあつかわれていたがかげでは息子むすこせっするような態度たいどをとっていたことを回想かいそうしている[8]1510ねんすえからバーブルが実施じっししたシャイバーニーあさたいする軍事ぐんじ活動かつどうにハイダルも従軍じゅうぐんし、ハイダルはモグールへいひきいてブハラ、サマルカンド攻撃こうげき参加さんかするが、バーブルはかれ注意ちゅういはらっていた[9]1512ねんにバーブルがキョリ・マリクのたたかいでウバイドゥッラーがひきいるウズベクぐんとの戦闘せんとうやぶれたのち、ハイダルはバーブルとともにヒサールに退却たいきゃくする。ヒサールに到着とうちゃくしたバーブルのもとに、アンディジャン本拠ほんきょとするモグーリスタンのスルターン・サイード・ハンからハイダルを自分じぶんもと派遣はけんするようにもとめる使者ししゃなんおくられ、ハイダルはサイードのもとおくされた[10]

ハイダルはスルタン・サイードのカシュガルヤルカンド遠征えんせい参加さんかし、勢力せいりょく回復かいふくしたモグーリスタン・ハンこくヤルカンド・ハンこく)の重職じゅうしょくいた[11]。ハイダルはサイードの命令めいれいけてバダフシャーン、ヌーリスターンなどの土地とち遠征えんせいおこなった[11]1531ねんには聖戦せいせんジハード)のためラダック遠征えんせい指揮しきするが[12]、チベット攻撃こうげき失敗しっぱいわった[13]1533ねんにハイダルはサイードの代理だいりとしてカシミール地方ちほう遠征えんせいおこなった。しかし、ハイダルはカシミールにながまらず、現地げんち支配しはいしゃ条約じょうやく締結ていけつし、スルターン・サイードの名前なまえきざまれた貨幣かへい鋳造ちゅうぞうした。

1546ねんから1550ねんにかけてハイダル支配しはいのカシミールで鋳造ちゅうぞうされた、ムガル皇帝こうていフマーユーン名前なまえれられた銀貨ぎんか表面ひょうめんにはal-sultan al-a'zam Muhammad humayun ghaziという銘文めいぶんきざまれている。

サイードがぼっしたのちあといだアブドゥッラシードは強大きょうだいちからゆうするドゥグラト対立たいりつし、ハイダルの叔父おじサイイド・ムハンマド・ミールザーを処刑しょけいする[14]。ハイダルはモグーリスタンをわれ、これまで敵対てきたいしていたバダフシャーンに亡命ぼうめいする[11]1537ねんにハイダルはカーブルをおとずれ、ラーホール駐屯ちゅうとんしていたバーブルの次男じなんカームラーン保護ほごける[15]1539ねんにハイダルはバーブルの長子ちょうしであるムガル皇帝こうていフマーユーン[15]1540ねんカナウジのたたかでバーブルの長子ちょうしであるムガル皇帝こうていフマーユーン敗北はいぼくきっするが、この戦闘せんとうではドゥグラトもフマーユーンのがわについていた。どう1540ねんにハイダルはフマーユーンを援護えんごするため、カシミールに帰還きかんする[16]。この支配しはいけんめぐってあらそいをつづけていた土着どちゃく勢力せいりょくひとつがハイダルをまねれ、カシミールに到着とうちゃくしたハイダルはサイイド指導しどうしゃナズクをスルターンに擁立ようりつした。1541ねんにハイダルはカシミールを征服せいふくし、事実じじつじょう独立どくりつ国家こっか形成けいせいした[11]。フマーユーンがカーブルを奪回だっかいしたのち1546ねんにハイダルはナズクを廃位はいいし、ムガル皇帝こうてい名前なまえきざまれた貨幣かへい発行はっこうする[17]1551ねん、ハイダルは反乱はんらんこしたカシミールじんとの戦闘せんとう落命らくめいする[11]

ハイダルの遺体いたいはカシミールのシュリーナガルうちのGorstan e Shahiに埋葬まいそうされている。

著作ちょさく[編集へんしゅう]

ハイダルがあらわした歴史れきししょ『ターリーヒ・ラシーディー(Tarikh-i-Rashidi)』は、ハイダル自身じしん回想かいそうろく中央ちゅうおうアジア概説がいせつ収録しゅうろくされた書物しょもつである。書名しょめいは「ラシードの歴史れきし」を意味いみし、旧主きゅうしゅであるアブドゥッラシードへのわらぬ忠誠ちゅうせいしめしている[18]。ハイダル自身じしんチャガタイ話者わしゃだったが、『ターリーヒ・ラシーディー』はペルシアによってかれている[19]。モンゴルおよびモグーリスタン・ハンこく歴史れきし概説がいせつからる「ほん」とハイダル自身じしん回想かいそうろくモグーリスタン、チベット、カシミールの地誌ちしについてべられた「簡史」の構成こうせいで、前者ぜんしゃ1546ねんに、後者こうしゃ1543ねんまでにげられた[1]。ハイダルは従兄じゅうけいのバーブルに敬意けいいいており、『ターリーヒ・ラシーディー』の執筆しっぴつさいしてバーブルの自伝じでんである『バーブル・ナーマ』のスタイルを模倣もほうした[1]。また、『ターリーヒ・ラシーディー』では1465ねんカザフ・ハンこく建国けんこくについても言及げんきゅうされており、ハイダルが初期しょきのカザフ・ハンの一人ひとりであるカーシム・ハン個人こじんてき交友こうゆうがあったことがべられている。

1895ねんにネイ・エリアスとエドワード・デニソン・ロスによって『ターリーヒ・ラシーディー』は英語えいご翻訳ほんやくされた。のちにロシア訳本やくほんあらたな英訳えいやくほん出版しゅっぱんされた[1]

家族かぞく[編集へんしゅう]

ムハンマド・ハイダルはカシュガルの世襲せしゅうてき支配しはいそうであるドゥグラトアミール家系かけいぞくする。ムハンマド・フサイン・ミールザー・クルカンをちちち、ユーヌス・ハンのむすめであるフブ・ニガール・ハニムをはは[20]父方ちちかた祖父そふであるムハンマド・ハイダル・ミールザー・クルカンはエセン・ブカ・ハンのむすめダウラト・ニガール・ハニムをつまとしていた。ムハンマド・ハイダル・ミールザー・クルカンのちちアミール・サイイド・アリー・クルカンはワイス・ハンの姉妹しまいウズン・スルターン・ハニムをつまち、アリーの祖父そふフダーイダードはヒズル・ホージャからワイスまでの6にんのモグーリスタンのハンを擁立ようりつした。

ははのフブ・ニガール・ハニムはユーヌス・ハンとダウラト・ベグムのあいだまれたさんじょで、バーブルのははクトゥルク・ニガール・ハニムのいもうとにあたる。フブ・ニガール・ハニムは1500ねんぼっした[21]

映画えいが[編集へんしゅう]

2007ねんにカザフフィルム・スタジオは、Kalila Umarov監督かんとくのドキュメンタリー映画えいが『ムハンマド・ハイダル・ドゥグラト(Мұхаммед Хайдар Дулати)』を製作せいさくした。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d 濱田はまだ「ターリーヒ・ラシーディー」『中央ちゅうおうユーラシアを事典じてん』、327-328ぺーじ
  2. ^ 間野まの 1987, p. 97.
  3. ^ 間野まの 1987, p. 105,108,126.
  4. ^ 間野まの 1987, p. 111-112.
  5. ^ 間野まの 1987, p. 112-115.
  6. ^ 間野まの 1987, p. 116.
  7. ^ a b 間野まの 1987, p. 117.
  8. ^ 間野まの 1987, p. 118-119.
  9. ^ 間野まの 1987, p. 119-120.
  10. ^ 間野まの 1987, p. 21.
  11. ^ a b c d e 羽田はた「ハイダル・ミールザー」『アジア歴史れきし事典じてん』7かん、319ぺーじ
  12. ^ アジア遊牧ゆうぼく民族みんぞく, p. 795.
  13. ^ Bell, Charles (1992). Tibet Past and Present. omer Banarsidass Publ.. p. 33. ISBN 81-208-1048-1. https://books.google.co.uk/books?id=RgOK7CgFp88C&printsec=frontcover&dq=tibet&hl=en#v=onepage&q=&f=false 
  14. ^ アジア遊牧ゆうぼく民族みんぞく, p. 796.
  15. ^ a b 間野まの 1987, p. 122.
  16. ^ Shahzad Bashir, Messianic Hopes and Mystical Visions: The Nurbakhshiya Between Medieval And Modern Islam (2003), p. 236.
  17. ^ Stan Goron and J.P. Goenka: The Coins of the Indian Sultanates, New Delhi: Munshiram Manoharlal, 2001, pp. 463-464.
  18. ^ 歴史れきしがく研究けんきゅうかいへん世界せかい史料しりょう』4(岩波書店いわなみしょてん, 2010ねん11月)、271ぺーじ
  19. ^ アジア遊牧ゆうぼく民族みんぞく, p. 793.
  20. ^ 間野まの 1987, p. 99.
  21. ^ 間野まの 1987, p. 112.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

翻訳ほんやくもと記事きじ参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • Mansura Haidar (translator) (2002), Mirza Haidar Dughlat as Depicted in Persian Sources

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]