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マー・ワラー・アンナフル - Wikipedia コンテンツにスキップ

マー・ワラー・アンナフル

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出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
かつてのアラル海あらるかいながアムがわみなみより)とシルがわひがしより)

マー・ワラー・アンナフルアラビア: ما وراء النهرアラビアラテンこぼし: Mā-warā' an-Nahr)またはトランスオクシアナ英語えいご: Transoxiana/Transoxania)とは、中央ちゅうおうアジア南部なんぶオアシス地域ちいき歴史れきしてき呼称こしょうである。

アラビアで「かわむこうの土地とち」を意味いみする言葉ことば字義じぎどおりにはアムがわ北岸ほくがん地域ちいき[1][2]、ギリシアラテン語らてんごかれたヨーロッパの史料しりょうられる「トランスオクシアナ(Transoxiana、オクサスがわ(アムがわ)よりこうの)」とおな意味いみ[1][3][4][5]日本にっぽんでは、英語えいごみの「トランスオキジアナ」と表記ひょうきされることもある。実際じっさいにはアムがわシルがわあいだ地域ちいき言葉ことばとして使つかわれ[1][6]、その領域りょういきには、今日きょうウズベキスタンタジキスタン、それにカザフスタン南部なんぶクルグズスタン一部いちぶふくまれている[2][1]きたカザフステップ西にしカスピ海かすぴかい南東なんとう天山あまやま山脈さんみゃくパミール高原こうげん位置いちし、西南せいなんキジルクム砂漠さばくカラクム砂漠さばくひろがる。きたからみなみ西にしからひがしかうにつれて海抜かいばつ高度こうどがり、いちねんつうじて乾燥かんそうした気候きこうにあり、気温きおんとし較差かくさおおきい[7]

トランスオクサニアと中央ちゅうおうアジアのだいホラーサンしゅうとホラズムしゅう近隣きんりん地域ちいき

「マー・ワラー・アンナフル」とばれる地域ちいきは、イスラーム以前いぜんサーサーンあさアケメネスあさ行政ぎょうせい単位たんいをそのままもちいてソグディアナんでいた領域りょういきとほぼかさなる。また、サマルカンドブハラなどのマー・ワラー・アンナフル南部なんぶ地域ちいきはかつてのソグディアナの名称めいしょうがそのままのこり、とくに「スグド地方ちほう( بلاد سغد bilād-i Sughd)」ともばれ、現在げんざいタジキスタンソグドしゅう名称めいしょうがれている。

「マー・ワラー・アンナフル」はしゅとしてイスラーム時代じだいして使用しようされるかたりであり[6]イラン(イーラーン)と対峙たいじする地域ちいきであるトゥーラーン( توران Tūrān)とばれた地域ちいきとほぼ同一どういつである[8][9]ティムールあさ時代じだいにはマー・ワラー・アンナフルとトゥーラーンの呼称こしょう併用へいようされ、トゥーラーンはアムかわからホータン境界きょうかいいた広範こうはん地域ちいきししていた[10]

7世紀せいき以降いこう、アラビア、ペルシア地理ちりしょなどでは、マー・ワラー・アンナフルの領域りょういきはおおよそアムがわ(ジャイフーンがわ)を西境にしさかいとし、ひがしシルがわ(サイフーンがわまでの地域ちいき場合ばあいおおかった。マー・ワラー・アンナフルの北限ほくげん明確めいかくであり、イスラーム時代じだい初期しょきにはアラブの征服せいふく範囲はんいとほぼ一致いっちし、15世紀せいきティムールあさ歴史れきしハーフィズ・アブルーはシルがわよりきた地域ちいきをマー・ワラー・アンナフルにふくめていた[11]テュルク(トルコ)けい民族みんぞくしょ勢力せいりょくおおいシルがわよりもきた地域ちいきは「トルキスタン」とばれ、10世紀せいきまつからマー・ワラー・アンナフルのテュルク進行しんこうすると、シルかわ以北いほく地域ちいきおなじようにトルキスタンとばれるようになる[4]。シルかわ以北いほくの「ひがしトルキスタン」にたいして、この地域ちいきは「西にしトルキスタン」と呼称こしょうされることもある[6]。トルキスタンの地名ちめいひろまったのち、「マー・ワラー・アンナフル」の呼称こしょう雅称がしょうとしても使つかわれるようになる[4]

古代こだい

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ザラフシャンがわカシュカがわ、アムがわ流入りゅうにゅうする支流しりゅう流域りゅういきではオアシスが形成けいせいされ、農業のうぎょういとなまれていた[1]。アムがわやシルがわ、ザラフシャンがわなどの河川かせん流域りゅういきサマルカンドブハラなどに代表だいひょうされる都市とし村落そんらくぐん耕地こうち開発かいはつされ、定住ていじゅう地域ちいき周辺しゅうへんひろがる草原そうげん砂漠さばくには遊牧民ゆうぼくみん闊歩かっぽするであった。また中国ちゅうごく内地ないちとをむすシルクロード発達はったつし、テュルクけい民族みんぞくやソグドじんなどが交易こうえきなどをつうじて東西とうざいむすんだ。

紀元前きげんぜん6世紀せいきにトランスオクシアナはアケメネスあさのキュロス2せいによって征服せいふくされ[12]、ソグドしゅう区画くかくされる[13]。アケメネスちょうのソグドしゅうでどのような統治とうちかれたかはあきらかになっていないが、アラムアラム文字もじ導入どうにゅうされ、アラム文字もじソグド文字もじ原型げんけいとなったとかんがえられている[14]。アケメネスあさほろぼしたマケドニア王国おうこくアレクサンドロス3せいたいしてトランスオクシアナの住民じゅうみんいち降伏ごうぶくするも反乱はんらんこし、紀元前きげんぜん329ねんから紀元前きげんぜん327ねんまでのあいだおよそ50,000のマケドニアへい反乱はんらん鎮圧ちんあつ動員どういんされた[15]。アレクサンドロス3せいによる征服せいふくのちヘレニズム文化ぶんかがトランスオクシアナにもたらされる[11]

アレクサンドロス3せい死後しご、トランスオクシアナはセレウコスあさバクトリア王国おうこく支配しはいはいり、バクトリアの貨幣かへいした貨幣かへい鋳造ちゅうぞうされはじめる[14]紀元前きげんぜん2世紀せいきにバクトリア王国おうこく大月おおつきによってほろぼされたころ、トランスオクシアナは遊牧民ゆうぼくみんぞくかんきょによって支配しはいされていたとわれている[14]。トランスオクシアナと中国ちゅうごくむす交易こうえき大月おおつき匈奴きょうどなどのタリム盆地ぼんち勢力せいりょくゆうする遊牧ゆうぼく勢力せいりょくはばまれていたが、前漢ぜんかんたけみかどによるフェルガナだいあて遠征えんせい結果けっか紀元前きげんぜん2世紀せいきから交易こうえき開始かいしされる[16]トハーリスターン建国けんこくされたクシャーナあさはトランスオクシアナを支配しはいき、クシャーナあさ衰退すいたいしたのちのトランスオクシアナにはオアシス都市とし連合れんごう国家こっか成立せいりつする[17]5世紀せいきなかばにトランスオクシアナをふくむパミール高原こうげん以西いせいのオアシス地帯ちたいは、遊牧民ゆうぼくみんぞくエフタル支配しはいはい[18]

ソグドじん活躍かつやく

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ソグディアナで鋳造ちゅうぞうされたpny

イスラームまえのトランスオクシアナはイランけいソグドじん根拠地こんきょちであり、「ソグディアナ」とばれていた[1]。ソグディアナは中央ちゅうおうアジアの肥沃ひよく地域ちいきひとつにかぞえられ、中心ちゅうしんであるサマルカンド居住きょじゅうするソグドじんはザラフシャンがわみず利用りようして農業のうぎょう発達はったつさせた[19]。ソグディアナはペルシア文化ぶんかけんぞくし、イランのサーサーンあさからの影響えいきょうつよけていた[2]。オアシス都市とし城砦じょうさい(quhandiz)と市街地しがいち(shahristān)からち、規模きぼおおきいオアシスは市街地しがいちそとひろがる郊外こうがい(rabad)をゆうしていた[20]。それらのオアシス都市とし周辺しゅうへん村落そんらく農地のうちとともに一人ひとり領主りょうしゅによって支配しはいされ、中国ちゅうごく史料しりょうにはソグディアナに存在そんざいしていたやすしこく(サマルカンド)、安国やすくに中安なかやすこく。ブハラ)などの都市とし国家こっかげられている

7世紀せいき後半こうはんまでのやく2世紀せいきあいだ、ソグディアナはテュルクけい遊牧ゆうぼく民族みんぞく突厥支配しはいかれていた。あせあせ指導しどうでエフタルをやぶった突厥はソグディアナを征服せいふくし、583ねん東西とうざい分裂ぶんれつした突厥のうち、西にし突厥はソグディアナを支配しはいいた[21]。ソグドじん遊牧ゆうぼく勢力せいりょく支配しはい商業しょうぎょう活動かつどう従事じゅうじし、河西かさい回廊かいろうからひがしトルキスタン、セミレチエからソグディアナにはソグドじん植民しょくみん都市としつくられた[22]。ソグドじん商業しょうぎょう活動かつどうによって中央ちゅうおうアジアの珍品ちんぴん中国ちゅうごくにもたらされ、中国ちゅうごくしょ王朝おうちょう西方せいほうとの国交こっこう樹立じゅりつするためにさかんに使者ししゃおくった[23]

ソグディアナでは手工業しゅこうぎょうさかんで、綿織物めんおりもの絹織物きぬおりもの銀器ぎんきなどが生産せいさんされていた[24]

イスラーム勢力せいりょく進出しんしゅつとテュルク

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8世紀せいき初頭しょとうウマイヤあさ将軍しょうぐんクタイバ・イブン・ムスリム征服せいふくにマー・ワラー・アンナフルのイスラーム本格ほんかくてき進展しんてん[2][1]、イスラーム並行へいこうして近世きんせいペルシアひろまっていった[1]。この地域ちいき13世紀せいきモンゴルじんおかされるまでイスラム文化ぶんかいち中心ちゅうしんでありつづける。

651ねんにサーサーンあさほろぼしたアラブじん軍隊ぐんたい653ねんホラーサーン地方ちほう征服せいふくし、654ねんはじめてマー・ワラー・アンナフルにあらわれる[25]略奪りゃくだつみつぎおさめ徴収ちょうしゅう目的もくてきとするアラブじん侵入しんにゅうかえされたのち、705ねんからクタイバによって実施じっしされた中央ちゅうおうアジア征服せいふくをきっかけに、マー・ワラー・アンナフルのアラブ支配しはい・イスラームはじまった[25]。クタイバによってブハラ、サマルカンドなどの都市としモスク寺院じいん)が建立こんりゅうされ、遠征えんせい従軍じゅうぐんしたアラブへい移住いじゅう征服せいふく住民じゅうみんのイスラームへの改宗かいしゅう推進すいしんされたといわれている[26]。クタイバの死後しご715ねんから737ねんまでのあいだ、マー・ワラー・アンナフルは突騎ほどこせによって占領せんりょうされる[27]。マー・ワラー・アンナフルの支配しはいけんめぐって毎年まいとしのようにつづくウマイヤぐんとソグド諸国しょこく・突騎ほどこせ連合れんごうぐん戦争せんそうからのがれるため、おおくのソグドじん東方とうほう避難ひなんした[28]739ねんにウマイヤあさホラーサーン総督そうとくナスル・イブン・サイヤールはシルがわ河畔かはんで突騎ほどこせ指導しどうしゃ莫賀たちあせらえ、ソグド諸国しょこく和平わへい締結ていけつし、マー・ワラー・アンナフルの奪回だっかい成功せいこうした[29]

ウマイヤあさのカリフ・ヒシャーム治世ちせいにソグドじん反乱はんらん鎮圧ちんあつされ、アラブのマー・ワラー・アンナフル支配しはい確固かっこたるものになる[30]。そして、751ねんアッバースあさタラス河畔かはんたたかこうせんしばひきいるとうぐん勝利しょうりおさめ、中央ちゅうおうアジアにおけるとう勢力せいりょくおおきく後退こうたいした[31]。アッバースあさカリフマアムーンだつけん貢献こうけんしたサーマーンあさは、マアムーンの委任いにんけてマー・ワラー・アンナフルからホラーサーンにまたがる領域りょういき支配しはいした。サーマーンあさもとでは、イラン文化ぶんか復興ふっこう推進すいしんされる[2]

サーマーンあさ東方とうほうから進出しんしゅつしてきたテュルクけいカラハンあさほろぼされ、サマルカンドやブハラはカラハンあさ王族おうぞくたちによって統治とうちされた。10世紀せいきまつから11世紀せいきにかけてカザフスタンからシルかわまでの地域ちいき居住きょじゅうしていたテュルクけい遊牧ゆうぼく民族みんぞくオグズがシルかわえて南下なんかし、テュルクけい民族みんぞく移動いどうはマー・ワラー・アンナフルでの「トルキスタン」成立せいりつ契機けいきとなる[32]。パミール高原こうげん西部せいぶのテュルクはすでに6世紀せいき後半こうはん西にし突厥の時代じだいからはじまっており、8世紀せいき初頭しょとうムグ文書ぶんしょにはテュルクの言葉ことば由来ゆらいする定住ていじゅうみん人名じんめい地名ちめい確認かくにんできる[33]。カラハンあさ時代じだいからマー・ワラー・アンナフルは天山あまやまウイグル王国おうこく支配しはいする「ひがしトルキスタン」にたいする「西にしトルキスタン」と[34]支配しはいしゃ言語げんごとしてテュルク諸語しょご浸透しんとうしていった[1]。イランに移動いどうしたオグズの一団いちだんセルジュークあさ建国けんこくしたのち、マー・ワラー・アンナフルはテュルク・イスラムけん東方とうほう地域ちいき形成けいせいしていた[6]ティムール台頭たいとうする14世紀せいきまでに、この地域ちいきのテュルクはほぼ完了かんりょうしていたとされている[35]

カラハンあさは13世紀せいき初頭しょとうホラズム・シャーあさアラーウッディーン・ムハンマドによってほろぼされ、サマルカンドは一時いちじホラズム・シャーあさ首都しゅとになった。しかし、ほどなく1219ねん、モンゴル高原こうげんから勃興ぼっこうしたチンギス・カンひきいるモンゴル帝国ていこくによってマー・ワラー・アンナフル全域ぜんいき侵攻しんこうけ、サマルカンドやブハラなどのしょ都市としはモンゴル帝国ていこくぐん攻撃こうげきによって破壊はかいされ、あるいは降伏ごうぶく城壁じょうへきやぶ却されるなどした。モンゴルの侵入しんにゅうはマー・ワラー・アンナフルの経済けいざい多大ただい打撃だげきあたえ、後述こうじゅつするティムールあさ時代じだいはいってかつての繁栄はんえい回復かいふくする[2]

モンゴル帝国ていこく時代じだい

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ホラズム・シャーあさ滅亡めつぼうかく都市としダルガチ行政ぎょうせい総督そうとく)がかれてモンゴル帝国ていこく行政ぎょうせいまれた。1222ねんあきにチンギス・カンはちぎりじん耶律おもねうみ親子おやこをマー・ワラー・アンナフル総督そうとくにんじ、おもねうみかく都市とし派遣はけんされたムスリム官僚かんりょう荒廃こうはいしたマー・ワラー・アンナフルの復興ふっこう着手ちゃくしゅした[36]。チンギス・カンのあといだオゴデイ・ハーン時代じだい中央ちゅうおうアジアはオゴデイのあにチャガタイわたしりょうさだめられ、ダルガチに就任しゅうにんしたマフムード・ヤラワチとその息子むすこちち後任こうにんとなったマスウード・ベク親子おやこもと中央ちゅうおうアジアのしょ都市としいちじるしい回復かいふくせる[37]

1259ねんモンケ・ハーン死後しご中央ちゅうおうアジアではオゴデイカイドゥチャガタイのバラクが台頭たいとうした。モンゴル帝国ていこく中央ちゅうおうアジアの財務ざいむ当局とうきょくはこれら王族おうぞく同士どうし紛争ふんそうによって、当時とうじ中央ちゅうおうアジアでもっと勢力せいりょくおおきかったカイドゥの支配しはい吸収きゅうしゅうされてしまった。1301ねんのカイドゥの死後しごはチャガタイドゥアひがしイリ地方ちほう一帯いったいからマー・ワラー・アンナフル全域ぜんいきまで支配しはいした。1320ねんころにチャガタイ・ハンこく当主とうしゅ即位そくいしたケベクてい住民じゅうみんとの関係かんけい重視じゅうしし、マー・ワラー・アンナフルに居住きょじゅうするモンゴルじん都市とし生活せいかつとイスラーム文化ぶんか適応てきおうしていった[38]都市とし生活せいかつ馴染なじんだマー・ワラー・アンナフルのモンゴルじん伝統でんとうてき遊牧ゆうぼく生活せいかつ固守こしゅするハンこく東部とうぶのモンゴルじん対立たいりつふかまり、1340年代ねんだいにチャガタイ・ハンこく東西とうざい分裂ぶんれつする[39]

1358ねん西にしチャガタイ・ハンこく有力ゆうりょくしゃカザガン暗殺あんさつされたのち西にしチャガタイ・ハンこく各地かくち有力ゆうりょくアミール貴族きぞく)が割拠かっきょする状態じょうたいおちい[40]モグーリスタン・ハンこくひがしチャガタイ・ハンこく)の君主くんしゅトゥグルク・ティムール混乱こんらんするマー・ワラー・アンナフルに侵入しんにゅうし、1361ねん一時いちじてきにチャガタイ・ハンこくさい統一とういつする。この過程かていなかでマー・ワラー・アンナフル内部ないぶ根拠地こんきょちとするチャガタイのアミールそうなかからバルラス部族ぶぞくティムール頭角とうかくあらわし、モグーリスタン根拠地こんきょちとするほかのドゥア裔のチャガタイ王族おうぞくたちと支配しはい地域ちいきけるようになる。

ティムールあさ時代じだい

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マー・ワラー・アンナフルでまれそだったティムールはこの本拠地ほんきょちとし、サマルカンドや自分じぶん故郷こきょうであるケシュ(シャフリサブズ)をとした[41]。マー・ワラー・アンナフルを中心ちゅうしん権力けんりょく拡大かくだいするにつれて、イランやアフガニスタン、インド、ジョチ・ウルスしょ勢力せいりょくこうそうかえキプチャク草原そうげんへも遠征えんせいした。一方いっぽうで、ティムールはヤシ(テュルキスタン)のホージャ・アフマド・ヤサヴィーびょうなど、巨大きょだいなモスクやマドラサ宮殿きゅうでん庭園ていえん中央ちゅうおうアジア各地かくち聖者せいじゃびょうみずからをふくむティムール一門いちもんびょうなど、現在げんざいにものこ巨大きょだい建造けんぞうぶつぐん建設けんせつ増築ぞうちく各地かくちすすめた。モンゴルでありかつムスリムであるといういわゆる「チャガタイじん」と意識いしきが、マー・ワラー・アンナフルのチャガタイ・ウルスけいのアミールそう形成けいせいされ、ティムールあさ時代じだいには『しゅうさい編纂へんさんやチャガタイ王侯おうこう貴族きぞくあいだにもペルシア文芸ぶんげい愛好あいこうのみならず、みずからの母語ぼごであるチャガタイ・トルコ文芸ぶんげい運動うんどうなどの文化ぶんか活動かつどうあらたにさかんになった。

ティムール死後しご後継こうけいしゃあらそいをせいして王位おういいたシャー・ルフはマー・ワラー・アンナフルの統治とうち長子ちょうしウルグ・ベク委任いにんし、自身じしん即位そくいまえからの領地りょうちであるホラーサーン地方ちほうヘラート本拠地ほんきょちとした[42]。ウルグ・ベクはヘラートの宮廷きゅうていからの干渉かんしょうをほとんどけることは自由じゆう政務せいむり、内政ないせい外政がいせい学芸がくげい保護ほご尽力じんりょくする[43]1420ねんにサマルカンドに天文台てんもんだい建設けんせつされ、ウルグ・ベク時代じだいのサマルカンドはイスラームほうもとづく厳格げんかく統治とうちかれていたヘラートとは対照たいしょうてきに、ティムールの時代じだいおなじように自由じゆう空気くうきながれていた[44]。シャー・ルフの死後しご王位おういめぐ混乱こんらんでティムールあさ領土りょうど分裂ぶんれつし、アブー・サイード子孫しそん支配しはいするマー・ワラー・アンナフルの政権せいけんフサイン・バイカラ支配しはいするホラーサーンの政権せいけん並立へいりつする[45]。アブー・サイード政権せいけんのマー・ワラー・アンナフルではスーフィー(イスラームの聖者せいじゃ)のホージャ・アフラール指導しどうするナクシュバンディー教団きょうだんつよ影響えいきょうりょくち、ホージャ・アフラールの後継こうけいしゃ強大きょうだい政治せいじりょく経済けいざいりょく相続そうぞくした[46]

シャイバーニーあさ以降いこう(ウズベクけい王朝おうちょう時代じだい

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遊牧民ゆうぼくみんぞくウズベク国家こっかであるシャイバーニーあさブハラ・ハンこく)は1500ねんにサマルカンド、1507ねんにヘラートを占領せんりょうし、ティムールあさ滅亡めつぼうする。ムハンマド・シャイバーニー・ハン始祖しそとするシャイバーニーあさは、ティムールあさ活発かっぱつしたペルシア、チャガタイ・トルコによる文芸ぶんげい運動うんどう積極せっきょくてき吸収きゅうしゅう継承けいしょうした。首都しゅととなったサマルカンドやブハラはその発信はっしんとして繁栄はんえいし、その影響えいきょうはモグーリスターン・ハンこくにまで直接ちょくせつおよび、現在げんざい新疆しんきょうウイグル自治じち文化ぶんかてき基盤きばん形成けいせいしている。ブハラ・ハンこくヒヴァ・ハンこくなどのテュルクけい遊牧民ゆうぼくみんウズベク国家こっか建設けんせつされたためにテュルクがより進展しんてんし、かつてシルかわ以北いほく地域ちいきして使つかわれた「トルキスタン(テュルクの場所ばしょ)」が、シルがわ・アムがわあいだ地域ちいきふくむようになった[1]。「マー・ワラー・アンナフル」のかたり地名ちめいとして定着ていちゃくしており、ウズベク国家こっか成立せいりつ史料しりょうでは「マー・ワラー・アンナフル」が使つかわれつづけられた[1]

16世紀せいきすえにシャイバーニーあさ断絶だんぜつしたのちアストラハン・ハンこくジャーンあさがブハラを首都しゅととして支配しはいする。しかし、イランに成立せいりつしたしょ王朝おうちょうとのこうそうのため、マー・ワラー・アンナフルの経済けいざいりょく回復かいふくむずかしかった[2]18世紀せいき初頭しょとう成立せいりつしたコーカンド・ハンこくきよしロシア帝国ていこくとの交易こうえきおおきな利益りえきげたが、19世紀せいきはいるとウズベクけいさんハンこくはロシア帝国ていこく干渉かんしょうけるようになる[47]1868ねんにブハラ・ハンこく1873ねんにヒヴァ・ハンこくがロシアの支配しはいれ、1876ねんにコーカンド・ハンこく征服せいふくされる。1867ねんにマー・ワラー・アンナフルはロシアによって設置せっちされたトルキスタン総督そうとく管轄かんかつかれ、ロシア帝国ていこく保護ほごかれながらも、1920ねんにブハラのマンギトあさ君主くんしゅアーリム・ハーン、ヒヴァのイナクあさ君主くんしゅサイード・アブドゥッラーソビエト連邦れんぽうによって追放ついほうされるまで、マー・ワラー・アンナフルにはモンゴルけい政権せいけん存続そんぞくした。ロシア革命かくめい1924ねん中央ちゅうおうアジアで実施じっしされた民族みんぞく共和きょうわ国境こっきょうかい画定かくていによってマーワラー・アンナフルはかく共和きょうわこく区画くかくされる[1]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l 堀川ほりかわ「マー・ワラー・アンナフル」『中央ちゅうおうユーラシアを事典じてん』、487ぺーじ
  2. ^ a b c d e f g 久保くぼ「マー・ワラー・アン=ナフル」『岩波いわなみイスラーム辞典じてん』、939ぺーじ
  3. ^ 長沢ながさわ『シルクロード』、173ぺーじ
  4. ^ a b c 間野まの「マー・ワラー・アンナフル」『しんイスラム事典じてん』、466ぺーじ
  5. ^ 川口かわぐち『ティムール帝国ていこく』、116ぺーじ
  6. ^ a b c d 松田まつだ「マーワラー・アンナフル」『アジア歴史れきし事典じてん』8かん、381ぺーじ
  7. ^ 川口かわぐち『ティムール帝国ていこく』、112-113ぺーじ
  8. ^ Transoxanien und Turkestan zu Beginn des 16. Jahrhunderts;: Das Mihman-nama-yi Buhara des Fadlallah b. Ruzbihan Hungi (Islamkundliche Untersuchungen)Fazl Allah ibn Ruzbahan (Author)
  9. ^ 川口かわぐち『ティムール帝国ていこく』、116-117ぺーじ
  10. ^ 川口かわぐち『ティムール帝国ていこく』、117ぺーじ
  11. ^ a b 川口かわぐち『ティムール帝国ていこく』、115-116ぺーじ
  12. ^ 間野まの中央ちゅうおうアジアの歴史れきし』、47ぺーじ
  13. ^ 川口かわぐち『ティムール帝国ていこく』、115ぺーじ
  14. ^ a b c 吉田よしだ中央ちゅうおうアジアオアシス定住ていじゅうみん社会しゃかい文化ぶんか」『中央ちゅうおうアジア』、43ぺーじ
  15. ^ 間野まの中央ちゅうおうアジアの歴史れきし』、48ぺーじ
  16. ^ 長沢ながさわ『シルクロード』、107-108,131ぺーじ
  17. ^ 間野まの中央ちゅうおうアジアの歴史れきし』、51ぺーじ
  18. ^ 間野まの中央ちゅうおうアジアの歴史れきし』、80ぺーじ
  19. ^ 間野まの中央ちゅうおうアジアの歴史れきし』、87-88ぺーじ
  20. ^ 吉田よしだ中央ちゅうおうアジアオアシス定住ていじゅうみん社会しゃかい文化ぶんか」『中央ちゅうおうアジア』、45ぺーじ
  21. ^ 長沢ながさわ『シルクロード』、260-261ぺーじ
  22. ^ 長沢ながさわ『シルクロード』、174-175ぺーじ
  23. ^ 長沢ながさわ『シルクロード』、174-176ぺーじ
  24. ^ 吉田よしだ中央ちゅうおうアジアオアシス定住ていじゅうみん社会しゃかい文化ぶんか」『中央ちゅうおうアジア』、49ぺーじ
  25. ^ a b 間野まの中央ちゅうおうアジアの歴史れきし』、114ぺーじ
  26. ^ 間野まの中央ちゅうおうアジアの歴史れきし』、115-116ぺーじ
  27. ^ 長沢ながさわ『シルクロード』、291ぺーじ
  28. ^ 長沢ながさわ『シルクロード』、308-309ぺーじ
  29. ^ 長沢ながさわ『シルクロード』、292,310ぺーじ
  30. ^ 間野まの中央ちゅうおうアジアの歴史れきし』、116ぺーじ
  31. ^ 長沢ながさわ『シルクロード』、310ぺーじ
  32. ^ 梅村うめむら中央ちゅうおうアジアのトルコ」『中央ちゅうおうアジア』、74-75ぺーじ
  33. ^ 吉田よしだ中央ちゅうおうアジアオアシス定住ていじゅうみん社会しゃかい文化ぶんか」『中央ちゅうおうアジア』、44ぺーじ
  34. ^ 梅村うめむら中央ちゅうおうアジアのトルコ」『中央ちゅうおうアジア』、81ぺーじ
  35. ^ 間野まの中央ちゅうおうアジアの歴史れきし』、112ぺーじ
  36. ^ 加藤かとう「「モンゴル帝国ていこく」と「チャガタイ・ハーンこく」」『中央ちゅうおうアジア』、121-122ぺーじ
  37. ^ 加藤かとう「「モンゴル帝国ていこく」と「チャガタイ・ハーンこく」」『中央ちゅうおうアジア』、123-124ぺーじ
  38. ^ 加藤かとう「「モンゴル帝国ていこく」と「チャガタイ・ハーンこく」」『中央ちゅうおうアジア』、128-129ぺーじ
  39. ^ 加藤かとう「「モンゴル帝国ていこく」と「チャガタイ・ハーンこく」」『中央ちゅうおうアジア』、129ぺーじ
  40. ^ 久保くぼ「ティムール帝国ていこく」『中央ちゅうおうアジア』、132ぺーじ
  41. ^ 川口かわぐち『ティムール帝国ていこく』、110ぺーじ
  42. ^ 久保くぼ「ティムール帝国ていこく」『中央ちゅうおうアジア』、140ぺーじ
  43. ^ 久保くぼ「ティムール帝国ていこく」『中央ちゅうおうアジア』、142ぺーじ
  44. ^ 久保くぼ「ティムール帝国ていこく」『中央ちゅうおうアジア』、142-143ぺーじ
  45. ^ 久保くぼ「ティムール帝国ていこく」『中央ちゅうおうアジア』、143-146ぺーじ
  46. ^ 久保くぼ「ティムール帝国ていこく」『中央ちゅうおうアジア』、145-146ぺーじ
  47. ^ 長沢ながさわ『シルクロード』、390,420ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 梅村うめむらひろし中央ちゅうおうアジアのトルコ」『中央ちゅうおうアジア収録しゅうろく(竺沙まさあきら監修かんしゅう間野まの英二えいじ責任せきにん編集へんしゅう, アジアの歴史れきし文化ぶんか8, 同朋どうほうしゃ, 1999ねん4がつ
  • 加藤かとう和秀かずひで「「モンゴル帝国ていこく」と「チャガタイ・ハーンこく」」『中央ちゅうおうアジア収録しゅうろく(竺沙まさあきら監修かんしゅう間野まの英二えいじ責任せきにん編集へんしゅう, アジアの歴史れきし文化ぶんか8, 同朋どうほうしゃ, 1999ねん4がつ
  • 川口かわぐち琢司たくじ『ティムール帝国ていこく』(講談社こうだんしゃ選書せんしょメチエ, 講談社こうだんしゃ, 2014ねん3がつ
  • 久保くぼ一之かずゆき「ティムール帝国ていこく」『中央ちゅうおうアジア収録しゅうろく(竺沙まさあきら監修かんしゅう間野まの英二えいじ責任せきにん編集へんしゅう, アジアの歴史れきし文化ぶんか8, 同朋どうほうしゃ, 1999ねん4がつ
  • 久保くぼ一之かずゆき「マー・ワラー・アン=ナフル」『岩波いわなみイスラーム辞典じてん収録しゅうろく岩波書店いわなみしょてん, 2002ねん2がつ
  • 長沢ながさわ和俊かずとし『シルクロード』(講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ, 講談社こうだんしゃ, 1993ねん8がつ
  • 堀川ほりかわとおる「マー・ワラー・アンナフル」『中央ちゅうおうユーラシアを事典じてん収録しゅうろく平凡社へいぼんしゃ, 2005ねん4がつ
  • 松田まつだ壽男としお「マーワラー・アンナフル」『アジア歴史れきし事典じてん』8かん収録しゅうろく平凡社へいぼんしゃ, 1961ねん
  • 間野まの英二えいじ中央ちゅうおうアジアの歴史れきし』(講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ 新書しんしょ東洋とうよう8, 講談社こうだんしゃ, 1977ねん8がつ
  • 間野まの英二えいじ「マー・ワラー・アンナフル」『しんイスラム事典じてん収録しゅうろく平凡社へいぼんしゃ, 2002ねん3がつ
  • 吉田よしだゆたか中央ちゅうおうアジアオアシス定住ていじゅうみん社会しゃかい文化ぶんか」『中央ちゅうおうアジア収録しゅうろく(竺沙まさあきら監修かんしゅう間野まの英二えいじ責任せきにん編集へんしゅう, アジアの歴史れきし文化ぶんか8, 同朋どうほうしゃ, 1999ねん4がつ

関連かんれん項目こうもく

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