かつてのアラル海 あらるかい へ流 なが れ込 こ むアム川 がわ (南 みなみ より)とシル川 がわ (東 ひがし より)
マー・ワラー・アンナフル (アラビア語 ご : ما وراء النهر 、アラビア語 ご ラテン翻 こぼし 字 じ : Mā-warā' an-Nahr )またはトランスオクシアナ (英語 えいご : Transoxiana/Transoxania )とは、中央 ちゅうおう アジア南部 なんぶ のオアシス 地域 ちいき の歴史 れきし 的 てき 呼称 こしょう である。
アラビア語 ご で「川 かわ の向 むこ うの土地 とち 」を意味 いみ する言葉 ことば で字義 じぎ 通 どお りにはアム川 がわ 北岸 ほくがん の地域 ちいき を指 さ し[ 1] [ 2] 、ギリシア語 ご やラテン語 らてんご で書 か かれたヨーロッパの史料 しりょう に見 み られる「トランスオクシアナ (Transoxiana、オクサス川 がわ (アム川 がわ )より向 む こうの地 ち )」と同 おな じ意味 いみ を持 も つ[ 1] [ 3] [ 4] [ 5] 。日本 にっぽん では、英語 えいご 読 よ みの「トランスオキジアナ」と表記 ひょうき されることもある。実際 じっさい にはアム川 がわ とシル川 がわ の間 あいだ の地域 ちいき を指 さ す言葉 ことば として使 つか われ[ 1] [ 6] 、その領域 りょういき には、今日 きょう のウズベキスタン とタジキスタン 、それにカザフスタン の南部 なんぶ とクルグズスタン の一部 いちぶ が含 ふく まれている[ 2] [ 1] 。北 きた はカザフステップ 、西 にし にカスピ海 かすぴかい 、南東 なんとう に天山 あまやま 山脈 さんみゃく とパミール高原 こうげん が位置 いち し、西南 せいなん にキジルクム砂漠 さばく とカラクム砂漠 さばく が広 ひろ がる。北 きた から南 みなみ 、西 にし から東 ひがし へ向 む かうにつれて海抜 かいばつ 高度 こうど が上 あ がり、一 いち 年 ねん を通 つう じて乾燥 かんそう した気候 きこう にあり、気温 きおん の年 とし 較差 かくさ は大 おお きい[ 7] 。
トランスオクサニアと中央 ちゅうおう アジアの大 だい ホラーサン州 しゅう とホラズム州 しゅう の近隣 きんりん 地域 ちいき
「マー・ワラー・アンナフル」と呼 よ ばれる地域 ちいき は、イスラーム以前 いぜん のサーサーン朝 あさ がアケメネス朝 あさ の行政 ぎょうせい 単位 たんい をそのまま用 もち いてソグディアナ と呼 よ んでいた領域 りょういき とほぼ重 かさ なる。また、サマルカンド やブハラ などのマー・ワラー・アンナフル南部 なんぶ の地域 ちいき はかつてのソグディアナの名称 めいしょう がそのまま残 のこ り、特 とく に「スグド地方 ちほう ( بلاد سغد bilād-i Sughd)」とも呼 よ ばれ、現在 げんざい のタジキスタン のソグド州 しゅう に名称 めいしょう が受 う け継 つ がれている。
「マー・ワラー・アンナフル」は主 しゅ としてイスラーム化 か 後 ご の時代 じだい を指 さ して使用 しよう される語 かたり であり[ 6] 、イラン (イーラーン)と対峙 たいじ する地域 ちいき であるトゥーラーン ( توران Tūrān)と呼 よ ばれた地域 ちいき とほぼ同一 どういつ である[ 8] [ 9] 。ティムール朝 あさ の時代 じだい にはマー・ワラー・アンナフルとトゥーラーンの呼称 こしょう が併用 へいよう され、トゥーラーンはアム川 かわ からホータン の境界 きょうかい に至 いた る広範 こうはん な地域 ちいき を指 さ ししていた[ 10] 。
7世紀 せいき 以降 いこう 、アラビア語 ご 、ペルシア語 ご の地理 ちり 書 しょ などでは、マー・ワラー・アンナフルの領域 りょういき はおおよそアム川 がわ (ジャイフーン川 がわ )を西境 にしさかい とし、東 ひがし はシル川 がわ (サイフーン川 がわ ) までの地域 ちいき を指 さ す場合 ばあい が多 おお かった。マー・ワラー・アンナフルの北限 ほくげん は不 ふ 明確 めいかく であり、イスラーム時代 じだい の初期 しょき にはアラブの征服 せいふく 地 ち の範囲 はんい とほぼ一致 いっち し、15世紀 せいき のティムール朝 あさ の歴史 れきし 家 か ハーフィズ・アブルー はシル川 がわ より北 きた の地域 ちいき をマー・ワラー・アンナフルに含 ふく めていた[ 11] 。テュルク(トルコ)系 けい 民族 みんぞく の諸 しょ 勢力 せいりょく が多 おお いシル川 がわ よりも北 きた の地域 ちいき は「トルキスタン 」と呼 よ ばれ、10世紀 せいき 末 まつ からマー・ワラー・アンナフルのテュルク化 か が進行 しんこう すると、シル川 かわ 以北 いほく の地域 ちいき と同 おな じようにトルキスタンと呼 よ ばれるようになる[ 4] 。シル川 かわ 以北 いほく の「東 ひがし トルキスタン 」に対 たい して、この地域 ちいき は「西 にし トルキスタン」と呼称 こしょう されることもある[ 6] 。トルキスタンの地名 ちめい が広 ひろ まった後 のち 、「マー・ワラー・アンナフル」の呼称 こしょう は雅称 がしょう としても使 つか われるようになる[ 4] 。
ザラフシャン川 がわ やカシュカ川 がわ 、アム川 がわ に流入 りゅうにゅう する支流 しりゅう の流域 りゅういき ではオアシスが形成 けいせい され、農業 のうぎょう が営 いとな まれていた[ 1] 。アム川 がわ やシル川 がわ 、ザラフシャン川 がわ などの河川 かせん の流域 りゅういき にサマルカンド やブハラ などに代表 だいひょう される都市 とし や村落 そんらく 群 ぐん と耕地 こうち が開発 かいはつ され、定住 ていじゅう 地域 ちいき の周辺 しゅうへん に広 ひろ がる草原 そうげん や砂漠 さばく には遊牧民 ゆうぼくみん が闊歩 かっぽ する地 ち であった。また中国 ちゅうごく 内地 ないち とを結 むす ぶシルクロード が発達 はったつ し、テュルク系 けい 民族 みんぞく やソグド人 じん などが交易 こうえき などを通 つう じて東西 とうざい を結 むす んだ。
紀元前 きげんぜん 6世紀 せいき にトランスオクシアナはアケメネス朝 あさ のキュロス2世 せい によって征服 せいふく され[ 12] 、ソグド州 しゅう に区画 くかく される[ 13] 。アケメネス朝 ちょう 期 き のソグド州 しゅう でどのような統治 とうち が敷 し かれたかは明 あき らかになっていないが、アラム語 ご ・アラム文字 もじ が導入 どうにゅう され、アラム文字 もじ はソグド文字 もじ の原型 げんけい となったと考 かんが えられている[ 14] 。アケメネス朝 あさ を滅 ほろ ぼしたマケドニア王国 おうこく のアレクサンドロス3世 せい に対 たい してトランスオクシアナの住民 じゅうみん は一 いち 度 ど は降伏 ごうぶく するも反乱 はんらん を起 お こし、紀元前 きげんぜん 329年 ねん から紀元前 きげんぜん 327年 ねん までの間 あいだ およそ50,000のマケドニア兵 へい が反乱 はんらん の鎮圧 ちんあつ に動員 どういん された[ 15] 。アレクサンドロス3世 せい による征服 せいふく の後 のち 、ヘレニズム文化 ぶんか がトランスオクシアナにもたらされる[ 11] 。
アレクサンドロス3世 せい の死後 しご 、トランスオクシアナはセレウコス朝 あさ 、バクトリア王国 おうこく の支配 しはい 下 か に入 はい り、バクトリアの貨幣 かへい を模 も した貨幣 かへい が鋳造 ちゅうぞう されはじめる[ 14] 。紀元前 きげんぜん 2世紀 せいき にバクトリア王国 おうこく が大月 おおつき 氏 し によって滅 ほろ ぼされた頃 ころ 、トランスオクシアナは遊牧民 ゆうぼくみん 族 ぞく の康 かん 居 きょ によって支配 しはい されていたと言 い われている[ 14] 。トランスオクシアナと中国 ちゅうごく を結 むす ぶ交易 こうえき 路 ろ は大月 おおつき 氏 し や匈奴 きょうど などのタリム盆地 ぼんち に勢力 せいりょく を有 ゆう する遊牧 ゆうぼく 勢力 せいりょく に阻 はば まれていたが、前漢 ぜんかん の武 たけ 帝 みかど によるフェルガナ (大 だい 宛 あて )遠征 えんせい の結果 けっか 、紀元前 きげんぜん 2世紀 せいき から交易 こうえき が開始 かいし される[ 16] 。トハーリスターン に建国 けんこく されたクシャーナ朝 あさ はトランスオクシアナを支配 しはい 下 か に置 お き、クシャーナ朝 あさ が衰退 すいたい した後 のち のトランスオクシアナにはオアシス都市 とし の連合 れんごう 国家 こっか が成立 せいりつ する[ 17] 。5世紀 せいき 半 なか ばにトランスオクシアナを含 ふく むパミール高原 こうげん 以西 いせい のオアシス地帯 ちたい は、遊牧民 ゆうぼくみん 族 ぞく のエフタル の支配 しはい 下 か に入 はい る[ 18] 。
ソグディアナで鋳造 ちゅうぞう されたpny
イスラーム化 か 前 まえ のトランスオクシアナはイラン系 けい のソグド人 じん の根拠地 こんきょち であり、「ソグディアナ 」と呼 よ ばれていた[ 1] 。ソグディアナは中央 ちゅうおう アジアの肥沃 ひよく な地域 ちいき の一 ひと つに数 かぞ えられ、中心 ちゅうしん 地 ち であるサマルカンド に居住 きょじゅう するソグド人 じん はザラフシャン川 がわ の水 みず を利用 りよう して農業 のうぎょう を発達 はったつ させた[ 19] 。ソグディアナはペルシア文化 ぶんか 圏 けん に属 ぞく し、イランのサーサーン朝 あさ からの影響 えいきょう を強 つよ く受 う けていた[ 2] 。オアシス都市 とし は城砦 じょうさい (quhandiz)と市街地 しがいち (shahristān)から成 な り立 た ち、規模 きぼ の大 おお きいオアシスは市街地 しがいち の外 そと に広 ひろ がる郊外 こうがい (rabad)を有 ゆう していた[ 20] 。それらのオアシス都市 とし は周辺 しゅうへん の村落 そんらく や農地 のうち とともに一人 ひとり の領主 りょうしゅ によって支配 しはい され、中国 ちゅうごく の史料 しりょう にはソグディアナに存在 そんざい していた康 やすし 国 こく (サマルカンド)、安国 やすくに (中安 なかやす 国 こく 。ブハラ)などの都市 とし 国家 こっか が挙 あ げられている
7世紀 せいき 後半 こうはん までの約 やく 2世紀 せいき の間 あいだ 、ソグディアナはテュルク系 けい の遊牧 ゆうぼく 民族 みんぞく 突厥 の支配 しはい 下 か に置 お かれていた。木 き 汗 あせ 可 か 汗 あせ の指導 しどう 下 か でエフタルを破 やぶ った突厥はソグディアナを征服 せいふく し、583年 ねん に東西 とうざい に分裂 ぶんれつ した突厥のうち、西 にし 突厥 はソグディアナを支配 しはい 下 か に置 お いた[ 21] 。ソグド人 じん は遊牧 ゆうぼく 勢力 せいりょく の支配 しはい 下 か で商業 しょうぎょう 活動 かつどう に従事 じゅうじ し、河西 かさい 回廊 かいろう から東 ひがし トルキスタン、セミレチエ からソグディアナにはソグド人 じん の植民 しょくみん 都市 とし が作 つく られた[ 22] 。ソグド人 じん の商業 しょうぎょう 活動 かつどう によって中央 ちゅうおう アジアの珍品 ちんぴん が中国 ちゅうごく にもたらされ、中国 ちゅうごく の諸 しょ 王朝 おうちょう は西方 せいほう との国交 こっこう を樹立 じゅりつ するために盛 さか んに使者 ししゃ を送 おく った[ 23] 。
ソグディアナでは手工業 しゅこうぎょう が盛 さか んで、綿織物 めんおりもの 、絹織物 きぬおりもの 、銀器 ぎんき などが生産 せいさん されていた[ 24] 。
イスラーム勢力 せいりょく の進出 しんしゅつ とテュルク化 か [ 編集 へんしゅう ]
8世紀 せいき 初頭 しょとう のウマイヤ朝 あさ の将軍 しょうぐん クタイバ・イブン・ムスリム の征服 せいふく 後 ご にマー・ワラー・アンナフルのイスラーム化 か が本格 ほんかく 的 てき に進展 しんてん し[ 2] [ 1] 、イスラーム化 か と並行 へいこう して近世 きんせい ペルシア語 ご が広 ひろ まっていった[ 1] 。この地域 ちいき は13世紀 せいき にモンゴル人 じん に侵 おか されるまでイスラム文化 ぶんか の一 いち 中心 ちゅうしん 地 ち であり続 つづ ける。
651年 ねん にサーサーン朝 あさ を滅 ほろ ぼしたアラブ人 じん の軍隊 ぐんたい は653年 ねん にホラーサーン 地方 ちほう を征服 せいふく し、654年 ねん に初 はじ めてマー・ワラー・アンナフルに現 あらわ れる[ 25] 。略奪 りゃくだつ 、貢 みつぎ 納 おさめ の徴収 ちょうしゅう を目的 もくてき とするアラブ人 じん の侵入 しんにゅう が繰 く り返 かえ された後 のち 、705年 ねん からクタイバによって実施 じっし された中央 ちゅうおう アジア征服 せいふく をきっかけに、マー・ワラー・アンナフルのアラブ支配 しはい ・イスラーム化 か が始 はじ まった[ 25] 。クタイバによってブハラ、サマルカンドなどの都市 とし にモスク (寺院 じいん )が建立 こんりゅう され、遠征 えんせい に従軍 じゅうぐん したアラブ兵 へい の移住 いじゅう と征服 せいふく 地 ち の住民 じゅうみん のイスラームへの改宗 かいしゅう が推進 すいしん されたといわれている[ 26] 。クタイバの死後 しご 、715年 ねん から737年 ねん までの間 あいだ 、マー・ワラー・アンナフルは突騎施 ほどこせ によって占領 せんりょう される[ 27] 。マー・ワラー・アンナフルの支配 しはい 権 けん を巡 めぐ って毎年 まいとし のように続 つづ くウマイヤ軍 ぐん とソグド諸国 しょこく ・突騎施 ほどこせ 連合 れんごう 軍 ぐん の戦争 せんそう から逃 のが れるため、多 おお くのソグド人 じん が東方 とうほう に避難 ひなん した[ 28] 。739年 ねん にウマイヤ朝 あさ のホラーサーン 総督 そうとく ナスル・イブン・サイヤールはシル川 がわ の河畔 かはん で突騎施 ほどこせ の指導 しどう 者 しゃ 莫賀達 たち 汗 あせ を捕 と らえ、ソグド諸国 しょこく と和平 わへい を締結 ていけつ し、マー・ワラー・アンナフルの奪回 だっかい に成功 せいこう した[ 29] 。
ウマイヤ朝 あさ のカリフ・ヒシャーム の治世 ちせい にソグド人 じん の反乱 はんらん が鎮圧 ちんあつ され、アラブのマー・ワラー・アンナフル支配 しはい は確固 かっこ たるものになる[ 30] 。そして、751年 ねん にアッバース朝 あさ がタラス河畔 かはん の戦 たたか い で高 こう 仙 せん 芝 しば の率 ひき いる唐 とう 軍 ぐん に勝利 しょうり を収 おさ め、中央 ちゅうおう アジアにおける唐 とう の勢力 せいりょく は大 おお きく後退 こうたい した[ 31] 。アッバース朝 あさ のカリフ ・マアムーン の奪 だつ 権 けん に貢献 こうけん したサーマーン朝 あさ は、マアムーンの委任 いにん を受 う けてマー・ワラー・アンナフルからホラーサーン にまたがる領域 りょういき を支配 しはい した。サーマーン朝 あさ の元 もと では、イラン文化 ぶんか の復興 ふっこう が推進 すいしん される[ 2] 。
サーマーン朝 あさ は東方 とうほう から進出 しんしゅつ してきたテュルク系 けい のカラハン朝 あさ に滅 ほろ ぼされ、サマルカンドやブハラはカラハン朝 あさ の王族 おうぞく たちによって統治 とうち された。10世紀 せいき 末 まつ から11世紀 せいき にかけてカザフスタン からシル川 かわ までの地域 ちいき に居住 きょじゅう していたテュルク系 けい 遊牧 ゆうぼく 民族 みんぞく のオグズ がシル川 かわ を越 こ えて南下 なんか し、テュルク系 けい 民族 みんぞく の移動 いどう はマー・ワラー・アンナフルでの「トルキスタン」成立 せいりつ の契機 けいき となる[ 32] 。パミール高原 こうげん 西部 せいぶ のテュルク化 か はすでに6世紀 せいき 後半 こうはん の西 にし 突厥の時代 じだい から始 はじ まっており、8世紀 せいき 初頭 しょとう のムグ文書 ぶんしょ にはテュルクの言葉 ことば に由来 ゆらい する定住 ていじゅう 民 みん の人名 じんめい や地名 ちめい が確認 かくにん できる[ 33] 。カラハン朝 あさ の時代 じだい からマー・ワラー・アンナフルは天山 あまやま ウイグル王国 おうこく が支配 しはい する「東 ひがし トルキスタン 」に対 たい する「西 にし トルキスタン」と化 か し[ 34] 、支配 しはい 者 しゃ の言語 げんご としてテュルク諸語 しょご が浸透 しんとう していった[ 1] 。イランに移動 いどう したオグズの一団 いちだん がセルジューク朝 あさ を建国 けんこく した後 のち 、マー・ワラー・アンナフルはテュルク・イスラム圏 けん の東方 とうほう 地域 ちいき を形成 けいせい していた[ 6] 。ティムール が台頭 たいとう する14世紀 せいき までに、この地域 ちいき のテュルク化 か はほぼ完了 かんりょう していたとされている[ 35] 。
カラハン朝 あさ は13世紀 せいき 初頭 しょとう 、ホラズム・シャー朝 あさ のアラーウッディーン・ムハンマド によって滅 ほろ ぼされ、サマルカンドは一時 いちじ ホラズム・シャー朝 あさ の首都 しゅと になった。しかし、程 ほど なく1219年 ねん 、モンゴル高原 こうげん から勃興 ぼっこう したチンギス・カン 率 ひき いるモンゴル帝国 ていこく によってマー・ワラー・アンナフル全域 ぜんいき は侵攻 しんこう を受 う け、サマルカンドやブハラなどの諸 しょ 都市 とし はモンゴル帝国 ていこく 軍 ぐん の攻撃 こうげき によって破壊 はかい され、あるいは降伏 ごうぶく 後 ご に城壁 じょうへき が破 やぶ 却されるなどした。モンゴルの侵入 しんにゅう はマー・ワラー・アンナフルの経済 けいざい に多大 ただい な打撃 だげき を与 あた え、後述 こうじゅつ するティムール朝 あさ の時代 じだい に入 はい ってかつての繁栄 はんえい を回復 かいふく する[ 2] 。
ホラズム・シャー朝 あさ 滅亡 めつぼう 後 ご は各 かく 都市 とし にダルガチ (行政 ぎょうせい 総督 そうとく )が置 お かれてモンゴル帝国 ていこく の行政 ぎょうせい 区 く に組 く み込 こ まれた。1222年 ねん 秋 あき にチンギス・カンは契 ちぎり 丹 に 人 じん の耶律阿 おもね 海 うみ 親子 おやこ をマー・ワラー・アンナフル総督 そうとく に任 にん じ、阿 おもね 海 うみ と各 かく 都市 とし に派遣 はけん されたムスリム官僚 かんりょう は荒廃 こうはい したマー・ワラー・アンナフルの復興 ふっこう に着手 ちゃくしゅ した[ 36] 。チンギス・カンの跡 あと を継 つ いだオゴデイ・ハーン の時代 じだい 、中央 ちゅうおう アジアはオゴデイの兄 あに チャガタイ の私 わたし 領 りょう に定 さだ められ、ダルガチに就任 しゅうにん したマフムード・ヤラワチ とその息子 むすこ で父 ちち の後任 こうにん となったマスウード・ベク の親子 おやこ の元 もと で中央 ちゅうおう アジアの諸 しょ 都市 とし は著 いちじる しい回復 かいふく を見 み せる[ 37] 。
1259年 ねん のモンケ・ハーン の死後 しご 、中央 ちゅうおう アジアではオゴデイ家 か のカイドゥ やチャガタイ家 か のバラクが台頭 たいとう した。モンゴル帝国 ていこく の中央 ちゅうおう アジアの財務 ざいむ 当局 とうきょく はこれら王族 おうぞく 同士 どうし の紛争 ふんそう によって、当時 とうじ 中央 ちゅうおう アジアで最 もっと も勢力 せいりょく が大 おお きかったカイドゥの支配 しはい に吸収 きゅうしゅう されてしまった。1301年 ねん のカイドゥの死後 しご はチャガタイ家 か のドゥア が東 ひがし はイリ地方 ちほう 一帯 いったい からマー・ワラー・アンナフル全域 ぜんいき まで支配 しはい した。1320年 ねん 頃 ころ にチャガタイ・ハン国 こく の当主 とうしゅ に即位 そくい したケベク は定 てい 住民 じゅうみん との関係 かんけい を重視 じゅうし し、マー・ワラー・アンナフルに居住 きょじゅう するモンゴル人 じん は都市 とし 生活 せいかつ とイスラーム文化 ぶんか に適応 てきおう していった[ 38] 。都市 とし 生活 せいかつ に馴染 なじ んだマー・ワラー・アンナフルのモンゴル人 じん と伝統 でんとう 的 てき な遊牧 ゆうぼく 生活 せいかつ を固守 こしゅ するハン国 こく 東部 とうぶ のモンゴル人 じん の対立 たいりつ が深 ふか まり、1340年代 ねんだい にチャガタイ・ハン国 こく は東西 とうざい に分裂 ぶんれつ する[ 39] 。
1358年 ねん に西 にし チャガタイ・ハン国 こく の有力 ゆうりょく 者 しゃ カザガン が暗殺 あんさつ された後 のち 、西 にし チャガタイ・ハン国 こく の各地 かくち で有力 ゆうりょく アミール (貴族 きぞく )が割拠 かっきょ する状態 じょうたい に陥 おちい る[ 40] 。モグーリスタン・ハン国 こく (東 ひがし チャガタイ・ハン国 こく )の君主 くんしゅ トゥグルク・ティムール は混乱 こんらん するマー・ワラー・アンナフルに侵入 しんにゅう し、1361年 ねん に一時 いちじ 的 てき にチャガタイ・ハン国 こく を再 さい 統一 とういつ する。この過程 かてい の中 なか でマー・ワラー・アンナフル内部 ないぶ を根拠地 こんきょち とするチャガタイ家 か のアミール層 そう の中 なか からバルラス部族 ぶぞく のティムール が頭角 とうかく を現 あらわ し、モグーリスタン を根拠地 こんきょち とする他 ほか のドゥア裔のチャガタイ家 か の王族 おうぞく たちと支配 しはい 地域 ちいき を分 わ けるようになる。
マー・ワラー・アンナフルで生 う まれ育 そだ ったティムールはこの地 ち を本拠地 ほんきょち とし、サマルカンドや自分 じぶん の故郷 こきょう であるケシュ(シャフリサブズ )を都 と とした[ 41] 。マー・ワラー・アンナフルを中心 ちゅうしん に権力 けんりょく を拡大 かくだい するにつれて、イランやアフガニスタン、インド、ジョチ・ウルス の諸 しょ 勢力 せいりょく が抗 こう 争 そう を繰 く り返 かえ すキプチャク草原 そうげん へも遠征 えんせい した。一方 いっぽう で、ティムールはヤシ(テュルキスタン )のホージャ・アフマド・ヤサヴィー廟 びょう など、巨大 きょだい なモスクやマドラサ 、宮殿 きゅうでん 、庭園 ていえん 、中央 ちゅうおう アジア各地 かくち の聖者 せいじゃ 廟 びょう や自 みずか らを含 ふく むティムール一門 いちもん の廟 びょう 墓 ぼ など、現在 げんざい にも残 のこ る巨大 きょだい な建造 けんぞう 物 ぶつ 群 ぐん の建設 けんせつ ・増築 ぞうちく を各地 かくち で進 すす めた。モンゴルでありかつムスリム であるといういわゆる「チャガタイ人 じん 」と言 い う意識 いしき が、マー・ワラー・アンナフルのチャガタイ・ウルス系 けい のアミール層 そう に形成 けいせい され、ティムール朝 あさ 時代 じだい には『集 しゅう 史 し 』再 さい 編纂 へんさん やチャガタイ王侯 おうこう 貴族 きぞく の間 あいだ にもペルシア語 ご 文芸 ぶんげい の愛好 あいこう のみならず、自 みずか らの母語 ぼご であるチャガタイ・トルコ語 ご の文芸 ぶんげい 運動 うんどう などの文化 ぶんか 活動 かつどう も新 あら たに盛 さか んになった。
ティムール死後 しご の後継 こうけい 者 しゃ 争 あらそ いを制 せい して王位 おうい に就 つ いたシャー・ルフ はマー・ワラー・アンナフルの統治 とうち を長子 ちょうし のウルグ・ベク に委任 いにん し、自身 じしん は即位 そくい 前 まえ からの領地 りょうち であるホラーサーン地方 ちほう のヘラート を本拠地 ほんきょち とした[ 42] 。ウルグ・ベクはヘラートの宮廷 きゅうてい からの干渉 かんしょう をほとんど受 う けることは無 な く自由 じゆう に政務 せいむ を執 と り、内政 ないせい ・外政 がいせい ・学芸 がくげい の保護 ほご に尽力 じんりょく する[ 43] 。1420年 ねん にサマルカンドに天文台 てんもんだい が建設 けんせつ され、ウルグ・ベク時代 じだい のサマルカンドはイスラーム法 ほう に基 もと づく厳格 げんかく な統治 とうち が敷 し かれていたヘラートとは対照 たいしょう 的 てき に、ティムールの時代 じだい と同 おな じように自由 じゆう な空気 くうき が流 なが れていた[ 44] 。シャー・ルフの死後 しご の王位 おうい を巡 めぐ る混乱 こんらん でティムール朝 あさ の領土 りょうど は分裂 ぶんれつ し、アブー・サイード の子孫 しそん が支配 しはい するマー・ワラー・アンナフルの政権 せいけん とフサイン・バイカラ が支配 しはい するホラーサーンの政権 せいけん が並立 へいりつ する[ 45] 。アブー・サイード政権 せいけん のマー・ワラー・アンナフルではスーフィー (イスラームの聖者 せいじゃ )のホージャ・アフラール が指導 しどう するナクシュバンディー教団 きょうだん が強 つよ い影響 えいきょう 力 りょく を持 も ち、ホージャ・アフラールの後継 こうけい 者 しゃ は強大 きょうだい な政治 せいじ 力 りょく と経済 けいざい 力 りょく を相続 そうぞく した[ 46] 。
シャイバーニー朝 あさ 以降 いこう (ウズベク系 けい 王朝 おうちょう 時代 じだい )[ 編集 へんしゅう ]
遊牧民 ゆうぼくみん 族 ぞく のウズベク 国家 こっか であるシャイバーニー朝 あさ (ブハラ・ハン国 こく )は1500年 ねん にサマルカンド、1507年 ねん にヘラートを占領 せんりょう し、ティムール朝 あさ は滅亡 めつぼう する。ムハンマド・シャイバーニー・ハン を始祖 しそ とするシャイバーニー朝 あさ は、ティムール朝 あさ で活発 かっぱつ 化 か したペルシア語 ご 、チャガタイ・トルコ語 ご による文芸 ぶんげい 運動 うんどう を積極 せっきょく 的 てき に吸収 きゅうしゅう 、継承 けいしょう した。首都 しゅと となったサマルカンドやブハラはその発信 はっしん 地 ち として繁栄 はんえい し、その影響 えいきょう はモグーリスターン・ハン国 こく にまで直接 ちょくせつ 及 およ び、現在 げんざい の新疆 しんきょう ウイグル自治 じち 区 く の文化 ぶんか 的 てき な基盤 きばん を形成 けいせい している。ブハラ・ハン国 こく やヒヴァ・ハン国 こく などのテュルク系 けい 遊牧民 ゆうぼくみん のウズベク 国家 こっか が建設 けんせつ されたためにテュルク化 か がより進展 しんてん し、かつてシル川 かわ 以北 いほく の地域 ちいき を指 さ して使 つか われた「トルキスタン(テュルクの住 す む場所 ばしょ )」が、シル川 がわ ・アム川 がわ の間 あいだ の地域 ちいき も含 ふく むようになった[ 1] 。「マー・ワラー・アンナフル」の語 かたり は地名 ちめい として定着 ていちゃく しており、ウズベク国家 こっか の成立 せいりつ 後 ご も史料 しりょう では「マー・ワラー・アンナフル」が使 つか われ続 つづ けられた[ 1] 。
16世紀 せいき 末 すえ にシャイバーニー朝 あさ が断絶 だんぜつ した後 のち はアストラハン・ハン国 こく のジャーン朝 あさ がブハラを首都 しゅと として支配 しはい する。しかし、イランに成立 せいりつ した諸 しょ 王朝 おうちょう との抗 こう 争 そう のため、マー・ワラー・アンナフルの経済 けいざい 力 りょく の回復 かいふく は難 むずか しかった[ 2] 。18世紀 せいき 初頭 しょとう に成立 せいりつ したコーカンド・ハン国 こく は清 きよし 、ロシア帝国 ていこく との交易 こうえき で大 おお きな利益 りえき を上 あ げたが、19世紀 せいき に入 はい るとウズベク系 けい の三 さん ハン国 こく はロシア帝国 ていこく の干渉 かんしょう を受 う けるようになる[ 47] 。1868年 ねん にブハラ・ハン国 こく 、1873年 ねん にヒヴァ・ハン国 こく がロシアの支配 しはい を受 う け入 い れ、1876年 ねん にコーカンド・ハン国 こく が征服 せいふく される。1867年 ねん にマー・ワラー・アンナフルはロシアによって設置 せっち されたトルキスタン総督 そうとく 府 ふ の管轄 かんかつ 化 か に置 お かれ、ロシア帝国 ていこく の保護 ほご 下 か に置 お かれながらも、1920年 ねん にブハラのマンギト朝 あさ の君主 くんしゅ アーリム・ハーン 、ヒヴァのイナク朝 あさ の君主 くんしゅ サイード・アブドゥッラー がソビエト連邦 れんぽう によって追放 ついほう されるまで、マー・ワラー・アンナフルにはモンゴル系 けい の政権 せいけん が存続 そんぞく した。ロシア革命 かくめい 後 ご の1924年 ねん に中央 ちゅうおう アジアで実施 じっし された民族 みんぞく ・共和 きょうわ 国境 こっきょう 界 かい 画定 かくてい によってマーワラー・アンナフルは各 かく 共和 きょうわ 国 こく に区画 くかく される[ 1] 。
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