耶律おもねうみ

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耶律 おもねうみ(やりつ あかい、なま没年ぼつねんしょう)は、初期しょきモンゴル帝国ていこくつかえた政治せいじ

りょう宗室そうしつであるちぎり貴族きぞく耶律撒はちまごで、耶律だつ迭児おとうと耶律禿かぶろはなは耶律せわしいにしえだい・耶律綿めんおもえ哥・耶律こね哥ら。おいは耶律しゅ哥・耶律かいじゅう(耶律禿かぶろはな諸子しょし)。耶律おもねうみ子孫しそん元朝がんちょう統治とうち代々だいだい繁栄はんえいした。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

かれ騎射きしゃすぐれ、漢語かんごモンゴルテュルクなど諸国しょこく言語げんごつうじていた。

祖父そふだいからつづかねあさ末期まっき高官こうかんであった。あるとしきむちょう使者ししゃとしてケレイトトオリル・ハーンのもとをおとずれたさいチンギス・カン面識めんしきつ。これがきっかけになり、翌年よくねんおとうとの耶律禿かぶろはな人質ひとじちして(禿かぶろはなはケシクにはいり、親衛隊しんえいたいとしてチンギス・カンに近侍きんじした。人質ひとじちとは形式けいしきうえであり、実質じっしつてきには兄弟きょうだいそろってチンギス・カンにつかえたことになる)チンギス・カンに仕官しかんした。モンゴル統一とういつせん西にしなつ遠征えんせい参謀さんぼうとして従軍じゅうぐんした。たいケレイトせんでチンギス・カンいちぎょうモンゴル高原こうげん北方ほっぽう退避たいひしたさいともバルジュナ濁水だくすいをすすった19にん功臣こうしんには、おもねうみ禿かぶろはな兄弟きょうだいふくまれている。

1203ねん西にしなつ攻略こうりゃく功績こうせきがあった。また、かねあさ討伐とうばつせんでもきむ朝治あさじちぎりぞく内応ないおうさせ、現在げんざいドロン・ノール付近ふきんにあったかねあさかんまき国営こくえい牧場ぼくじょう)からの軍馬ぐんば奪取だっしゅおよちぎりぞくのモンゴルへの帰順きじゅん貢献こうけんした。

また、1214ねんかねあさせんむねによる開封かいふう遷都せんとさいちぎりぞくタングートぞくとう混成こんせいによる騎兵きへい部隊ぶたいの乣軍がしょうのチョダにひきいられて反乱はんらんこしちゅう包囲ほういしたときに、いし抹明やすらとともにちゅう攻略こうりゃく進言しんげんした。チンギス・カンはふみてんさわ主将しゅしょうとする、おもねうみ禿かぶろはないし抹明やすらが補佐ほさをするちぎりぞく主力しゅりょくぐん攻略こうりゃくせんおくむことを決断けつだんちゅうは10カ月かげつ包囲ほういのち1215ねんなか留守るすかんがおぶくきょう自害じがいにより陥落かんらくした。このとき帰服きふくした同族どうぞく耶律すわえざいをチンギス・カンに推挙すいきょした。

1219ねんモンゴル帝国ていこく西にしせいしたがい、ブハラサマルカンド攻略こうりゃく功績こうせきがあった。サマルカンド落城らくじょう留守るすまかされ、ホラズムの占領せんりょう委任いにんされて軍民ぐんみん慰撫いぶにあたり、任地にんちやまいぼっした。享年きょうねん73。元朝がんちょう成立せいりつしたのち1273ねん忠武ただたけおおやけついふうされた。『長春ちょうしゅん真人しんじん西遊せいゆう』には、1222ねんおか長春ちょうしゅんおかしょ)がチンギス・カンに会見かいけんしたさいおもねうみ通訳つうやくつとめたことがしるされる。モンゴル帝国ていこく初期しょきモンゴルぞく家臣かしんなかでもチンギス・カンの信頼しんらいたかく、1214ねん段階だんかいふとしにんぜられている。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • もと列伝れつでんだい37 耶律おもねうみ