いし抹明やす

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いしあかりやす(せきまつ ミンガン、1164ねん - 1216ねん)は、モンゴル帝国ていこくつかえたちぎりじん一人ひとり桓州出身しゅっしんいし抹咸とくぼく同族どうぞくいし抹エセンがいる。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

いし抹明やすキタイ帝国ていこくりょうあさ歴代れきだい皇后こうごう輩出はいしゅつしたしんひそかいし抹氏(かんふうにはしょう[1]だしであった。

かねあさ西京にしぎょうだい同府どうふ留守るす紇石れつなかえびすすなとら配下はいか将軍しょうぐん一人ひとりであったが、1212ねんムカリひきいるモンゴルぐんかねあさの桓州・あきらしゅうなでしゅう攻略こうりゃくされたのち、紇石れつなかは、後続こうぞくまいり政事せいじかんがおうけたまわひろしえびすすな)の部隊ぶたいとも反撃はんげきする計画けいかくて、いし抹明やすをモンゴルぐん偵察ていさつかわせたところ、いし抹明やす自分じぶんひきいる部隊ぶたいごとモンゴルがわ寝返ねがえった[2]

いし抹明あんきんぐん詳細しょうさい情勢じょうせいチンギス・カンつたえたため、モンゴルぐんは紇石れつなかかんがおうけたまわひろし部隊ぶたい合流ごうりゅうまえ急襲きゅうしゅうすることとなった。この作戦さくせんにおいていし抹明やすはモンゴルぐん先導せんどうした。紇石れつなかいし抹明やす離反りはんもあり、モンゴルぐん動向どうこうつかめずおとり作戦さくせんってしまい、平原へいげんでの野戦やせんされた結果けっか、モンゴルぐん包囲ほうい殲滅せんめつされた(きつねみねたたか)。

また、1214ねんかねあさせんむねによる開封かいふう遷都せんとときちぎりぞくタングートぞくテュルクぞくなどの混成こんせい騎兵きへい部隊ぶたいの乣軍がこした反乱はんらんさいして耶律おもねうみらとともにちゅうだいおき攻略こうりゃくつよ進言しんげんし、その結果けっか、チンギス・カンはなか攻略こうりゃくぐん派遣はけん決断けつだんした[3]ちゅうは10カ月かげつ包囲ほういのち1215ねん留守るすかんがおうけたまわあきらぶくきょう)の自害じがいにより陥落かんらくした(ちゅうたたか)。かんぐん兵馬へいば元帥げんすいとなり、ふとしじょせられた。このためあきらあんふとしばれた。

1216ねんに53さい逝去せいきょし、いし抹咸とくぼくあといだ。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 愛宕あたごしんひそかいし抹氏はシャルムート(šarmut/sirmut)、すなわち「うし」をトーテムとする氏族しぞくであることを意味いみする名称めいしょう由来ゆらいするものであると推測すいそくする(愛宕あたご1995,33-34ぺーじ)。
  2. ^ 池内いけうち1981A,12ぺーじ
  3. ^ 池内いけうち1981A,13ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 愛宕あたご松男まつお「キタイ族制ぞくせい起源きげんとトーテミズム」『りん』38かん6ごう、1955ねん
  • 池内いけうちいさお「モンゴルのかねこく経略けいりゃくかん人世じんせいこう成立せいりつ-3-」『四国学院大学しこくがくいんだいがく論集ろんしゅう』48ごう、1981ねん3がつ池内いけうち1981A)
  • 池内いけうちいさお「モンゴルのかねこく経略けいりゃくかん人世じんせいこう成立せいりつ-4-」『四国学院大学しこくがくいんだいがく論集ろんしゅう』49ごう、1981ねん7がつ池内いけうち1981B)
  • もとまき150列伝れつでん37せき抹明やすでんまき152列伝れつでん39せき抹阿からしでん
  • 新元しんもとまき135列伝れつでん32せき抹明やすでん
  • こうむ兀児史記しきまき49列伝れつでん31せき抹明やすでん