こうあきら

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こうあきらこく
車師 460ねん - 640ねん 天山ウイグル王国
高昌国の位置
5世紀せいき西域せいいき諸国しょこくこうあきらこく位置いちみぎはし)。
公用こうよう 漢語かんご中国ちゅうごく
首都しゅと 交河じょう
おう
460ねん - 4??とし 闞伯しゅう
???とし - 52?とし麴嘉
602ねん - 613ねん麴伯みやび
624ねん - 640ねん麴文やすし
640ねん - 640ねん麴智もり
変遷へんせん
やわしかによって建国けんこく 460ねん
とうによって滅亡めつぼう640ねん

こうあきら(こうしょう、拼音:Gāochāng、ウイグル:Qara-hoja、khocho)は、中国ちゅうごく南北なんぼくあさ時代じだいからとうだいにかけて現在げんざい新疆しんきょうウイグル自治じちトルファン存在そんざいしたオアシス都市とし国家こっかもとあきらだいにはウイグル「Qara-hoja」の音訳おんやくから「哈拉かずたく」(カラ・ホージャ)・「しゅう」・「霍州」などとして記録きろくされている。トルファンこうあきらには、城址じょうし遺跡いせきこうあきらしろ」がのこっている。

歴史れきし[ソースを編集へんしゅう]

以下いか文章ぶんしょうは『しゅうしょ』(列伝れつでんだいよんじゅう 異域いいき)・『ずいしょ』(列伝れつでんだいよんじゅうはち 西域せいいき)・『きた』(列伝れつでんだいはちじゅう 西域せいいき)・『きゅうとうしょ』(列伝れつでんだいいちひゃくよんじゅうはち 西戎せいじゅう)・『しんとうしょ』(列伝れつでんだいいちひゃくよんじゅうろくじょう 西域せいいきじょう)にるもの。

かんだいからすすむだい[ソースを編集へんしゅう]

このにはふるくからしゅうとというくにがあったが、かんたけみかど在位ざいいぜん141ねん - ぜん87ねん)の時代じだいしゅうとこくくだされ、くるま前後ぜんご王国おうこくおよび山北やまきたろくこく分割ぶんかつされた。せんみかど在位ざいいぜん73ねん - ぜん49ねん)のとき派遣はけんされた軍人ぐんじんとその親族しんぞくがここにぐん屯田とんでんさせ、耕作こうさく守備しゅびおこなった。もとみかど在位ざいいぜん48ねん - ぜん33ねん)のときに「地勢ちせいこうたかしひとあきらもり」とわれた「こうあきらかべ」(あるいはこうあきらるい)とばれる軍事ぐんじ基地きちつくられた。ここにかんつちのえおのれこうじょうき、こうあきら管理かんりした[1]

つづこうかんたかし西にしすすむ時代じだいにも同様どうよう制度せいど踏襲とうしゅうされている。ただし一時期いちじきりょうしゅう敦煌とんこうぐんぞくしていたこともある。

えびすじゅうろくこく時代じだい[ソースを編集へんしゅう]

327ねんえびすじゅうろくこく時代じだいぜんりょう支配しはいで、つちのえおのれこうじょうであるちょうさだ謀反むほんこしたため、ちょう駿しゅんがこれを鎮圧ちんあつし、その機会きかいこうあきらぐん設置せっちされ、いくつかのけんけられた。そのぜんはたこうりょう西にしすずかきたすずか支配しはい[2]

北朝ほくちょう時代じだい[ソースを編集へんしゅう]

きたたかし時代じだいこうあきら周辺しゅうへんこく

きたたかしふとしたけみかど在位ざいい423ねん - 452ねん)の時代じだい闞爽こうあきら太守たいしゅになる。ふとしのべ435ねん - 440ねんちゅうふとしたけみかどさむらいろうおうおんせいらをこうあきらぐんつかわしたが、やわしかとらえられてしまう。太平たいへいしんくん440ねん - 451ねんちゅう、闞爽は沮渠いみな[3]襲撃しゅうげきされ、沮渠いみなこうあきらぐんうばって太守たいしゅとなった。沮渠いみなぬと、おとうと沮渠あんあまねつ。

448ねんには、沮渠やすしゅうトルファン盆地ぼんちくるま侵攻しんこうし、くるまじん西にし逃走とうそうする[4]

和平わへい元年がんねん460ねん)、こうあきらぐんやわしか併合へいごうされると、やわしかによって闞伯しゅうこうあきらおうてられ、ここではじめてこうあきらこく成立せいりつする[5][6]

ふとし477ねん - 499ねん)のはじめ、闞伯しゅう死去しきょしたため、闞義なりった。1ねんあまりして闞義なりあに闞首ころされ、闞首自立じりつしてこうあきらおうとなる。

ふとやわ5ねん481ねん)、こうしゃおうおもねふくいたりが闞首兄弟きょうだいころし、敦煌とんこうじんちょうはじめあきらこうあきらおうてた。[7]のちちょうはじめあかり国人くにびところされたため、うまてられてこうあきらおうとなり、鞏顧れい麴嘉をもって左右さゆうちょうとした。

ふとやわ21ねん497ねん)、うま儒は司馬しばおうからだげんきたたかしつかわしてたてまつおもて朝貢ちょうこうさせ、挙国きょこくない徙をもとめた。孝文たかふみみかど在位ざいい471ねん - 499ねん)はこれをおさめ、あきら将軍しょうぐんかん安保あんぽせんひきいさせてこうあきらおもむかせた。ひつじはしばみすいいたり、うま儒は麴嘉・鞏顧れい1500をひきいさせてかん安保あんぽ出迎でむかえさせた。しかし、こうあきらから400さと地点ちてんでもかん安保あんぽなかったため、鞏顧れいらはこうあきらかえり、かん安保あんぽもまたわれかえった。かん安保あんぽかんきょうやすら12にん使者ししゃこうあきらおくり、うま儒はふたたび鞏顧れいしょうでその世子せいしである鞏義舒をつかわしてかん安保あんぽ使者ししゃむかえた。しかし、こうあきら旧人きゅうじん本土ほんど愛着あいちゃくがあり、東遷とうせんねがわなかったため、うま儒をころして麴嘉をてておうとした。

麴氏だかあきら[ソースを編集へんしゅう]

麴嘉はこうあきらおう即位そくいすると、やわしかあせぶた在位ざいい492ねん - 506ねん)に臣従しんじゅうした。そのため、鞏顧れいと鞏義舒はかん安保あんぽ随従ずいじゅうして洛陽らくよういたる。

やわしかはじめたいら3ねん508ねん)、やわしかあせふく在位ざいい506ねん - 508ねん)がこうくるまおうわたるにわか突にころされると、麴嘉はこうしゃ臣従しんじゅうした。また、麴嘉は嚈噠(エフタル)に攻撃こうげきされて王位おうい不在ふざいとなった焉耆えんきこく民衆みんしゅうから焉耆おうになるようたのまれたので、そのだい派遣はけんして焉耆おうとして焉耆こく統治とうちさせた。

ながひらた元年がんねん508ねん)、麴嘉はあにであるひだりまもる将軍しょうぐん田地たちぐん太守たいしゅの麴孝あきら京師けいし洛陽らくよう)につかわして参朝さんちょうさせ、うち徙をもとめた。そこできたたかしりゅう驤将ぐんはじめたけしりょう州兵しゅうへい3せんにんをつけてこれをむかえさせた。麴嘉はそのなん使つかいおくってはたまぞう白黒しろくろてん裘・名馬めいばしおまくらなどを献上けんじょうした。

えいひら3ねん510ねん)、麴嘉はきたたかし使つかいおくって朝貢ちょうこうし、せんみかど在位ざいい499ねん - 515ねん)はまたはじめつかわしてこれをねぎらわせた。

のべあきら512ねん - 515ねんちゅうきたたかしによって麴嘉はぶしひら西にし将軍しょうぐんふりしゅう刺史しし拝命はいめいたい臨県開国かいこくはくふうぜられた。

熙平516ねん - 518ねん)のはじめ、使つかいあさけんじかみひさし元年がんねん518ねんふゆ、麴孝あきらはふたたびない徙をもとめたが、朝廷ちょうてい許可きょかしなかった。

せいひかり元年がんねん520ねん)、孝明たかあきみかど在位ざいい515ねん - 528ねん)は員外いんがい将軍しょうぐんちょうよしらを麴嘉につかわした。麴嘉は朝貢ちょうこうぜっで、また使つかいたてまつあらわし、以辺遐、習典誥、五経ごきょうもろ貸出かしだしもとめ、あわせて国子くにこじょきょうりゅう燮を博士はかせとすることをもとめたため、孝明たかあきみかどはこれをゆるした。

麴嘉がぬと孝明たかあきみかどかれ鎮西ちんぜい将軍しょうぐんりょうしゅう刺史ししおくった。また、麴堅ったが、のちせきちゅうぞくらんきたため、使命しめいつい途絶とだえる。

ひろしやすし元年がんねん531ねん)、麴堅が使つかい朝貢ちょうこうしたため、きたたかしひら西にし将軍しょうぐんふりしゅう刺史ししたい臨県はくとした。またくわえてまもる将軍しょうぐんとした。

えい532ねん - 534ねんちゅういたり、特進とくしんどうさんつかさすすんでぐんこうとなる。のちつい隔絶かくぜつ

西にしたかしだいみつる14ねん548ねん)、ぶんみかど在位ざいい535ねん551ねん)はみことのりで麴堅の世子せいしである麴玄こうあきらおうとした。きょうみかど2ねん555ねん)、また田地たちぐんおおやけ麴宝しげるこうあきらおうとした[8]

きたあまねたけしげる元年がんねん559ねん)、そのおう使つかいおくってかたぶつ献上けんじょうした。じょう561ねん - 565ねん)のはじめ、また使つかい来貢らいこう

ずいだい[ソースを編集へんしゅう]

ずいだいこうあきら周辺しゅうへんこく

ひらきすめらぎ10ねん590ねん)、突厥こうあきらの4しろやぶったため、2せんにん中国ちゅうごく亡命ぼうめいした。

麴乾かたに、麴伯みやびつ。麴伯みやびだいはははもと突厥あせむすめであったため、麴堅がぬと突厥の風習ふうしゅうしたがい、レビラトこん[9]をしようとしたが、麴伯みやびがしばらくおうじなかった。そのため、突厥がこうあきらせまって無理むりやりレビラトこんをさせた。

ずい煬帝在位ざいい604ねん - 618ねん)が即位そくいすると、しょしげる引致いんちした。

大業おおわざ4ねん608ねん)、こうあきらはじめてずい使つかいおくって貢献こうけんし、よく大業おおわざ5ねん609ねん)には麴伯みやびみずからが来朝らいちょう、そのまま高句麗こうくり遠征えんせい従軍じゅうぐんした。遠征えんせい、麴伯みやびひだりこうろく大夫たいふくるま太守たいしゅ拝命はいめいし、べんこくおおやけふうぜられ、ずいはなひろし公主こうしゅめとった。

大業おおわざ8ねん612ねんふゆ、麴伯みやびずいより帰国きこくする[10]ときに麴伯みやび以前いぜんからてつてつろく)に臣従しんじゅうしていたため、こうあきらこくにはてつ勒の重臣じゅうしん常駐じょうちゅうしており、しょうえびす往来おうらいしゃからぜい徴収ちょうしゅうしていた。

とうだい[ソースを編集へんしゅう]

とうだいこうあきら周辺しゅうへんこく
7世紀せいきのタリム盆地ぼんちだいから西域せいいき

618ねん中国ちゅうごくではずいほろんでとう成立せいりつする。

武徳ぶとく2ねん619ねん)、麴伯みやびに、麴文やすしいだ。武徳ぶとく7ねん624ねん)、麴文やすしめすはらい菻狗を献上けんじょうした。

ふとしむね在位ざいい626ねん - 649ねん)が即位そくいすると、麴文やすしげんきつね裘をみつげおさめしたため、そのつま宇文うぶんはな鈿一たまわった。宇文うぶんはふたたびだまばんみつげおさめした。

さだかん4ねん630ねんふゆ、麴文たいとう入朝にゅうちょうすると、ふとしむね宇文うぶんくにせいせいたまい、常楽じょうらく公主こうしゅふうじた。このとしとうひがし突厥たおして東方とうほうわれ(ハミ)一帯いったいると、その進出しんしゅつおそれた麴文やすし西にし突厥とむすび、イルテベルの称号しょうごうて、いもうと西にし突厥のみつるまもるあせ(トン・ヤブグ・カガン、在位ざいい:618ねん? - 628ねん)のとつがせるなどの対抗たいこうさくをとった[11]

とき西域せいいき諸国しょこくらい朝貢ちょうこうしゃはすべてこうあきら経由けいゆしてとうおもむいていたが、のちに麴文たいによってとうへのみち封鎖ふうさされてしまい、とうへの朝貢ちょうこうができなくなった。われさき西にし突厥に臣従しんじゅうしていたが、ここにいたってとう内属ないぞくしたため、麴文やすし西にし突厥のまもる(ヤブグ:かんめい)と連結れんけつし、われ攻撃こうげきしようとした。そこでふとしむねはその大臣だいじんかんむりぐんおもねのりして入朝にゅうちょうさせ、議事ぎじさせようとした。麴文やすしおもねのりつかわさず、そのちょうの麴雍をつかわして謝罪しゃざいかせた。

麴文やすし西にし突厥のおつ毗設と焉耆の3しろ撃破げきはし、その男女だんじょ捕虜ほりょにしてった。焉耆おう上表じょうひょうしてこれをとううったえたため、ふとしむねおそれろうちゅうみちひろしつかわしてそのじょうを往問した。

さだかん13ねん639ねん)、薛延陀あせえびすおとここうあきら討伐とうばつねがたため、ふとしむねはこれを許可きょかした。一方いっぽうふとしむねは麴文たい最後さいごびだしをかけたが、麴文やすしやまいしょうしてしにおうじなかった。そこでふとしむねは吏部尚書しょうしょほうくんしゅうを交河どうだいそうかんとし、ひだりたむろまもる大将軍だいしょうぐん薛万ひとしおよび突厥とちぎり苾のしゅうひきいさせ、すうまんしゅこうあきら討伐とうばつおこなった。

さだかん14ねん640ねん)、麴文やすしとう大軍たいぐんせまってくるのをくと発病はつびょうしてんだ。そのため、麴智もりこうあきらおう即位そくいしたが、すでほうくんしゅうへい柳谷やなぎやにまでせまり、田地でんちじょう陥落かんらくしたため、麴智もりほうくんしゅうしょおくって「つみがあるのはちちであり、わたしではない」と弁明べんめいした。しかし、ほうくんしゅうはききいれず、首都しゅとである交河じょうせまり、衝車やほうしゃといったおさむじょう兵器へいき使つかっておさむじょうはじめた。投石とうせきによって城内きうちおおいに混乱こんらんしたため、麴智もりついしろ降伏ごうぶくした。これによってこうあきらこくの3しゅう・5けん・22しろとう勢力せいりょくはいった。そこでふとしむねはこの西にしあきらしゅうとし、まもなく西にししゅうあらため、安西あんざいみやこまもるいて、タリム盆地ぼんち支配しはい開始かいしした。

天山あまやまウイグル王国おうこくりょう[ソースを編集へんしゅう]

天山あまやまウイグルとカラハンあさ
12世紀せいきまつ中央ちゅうおうアジア

756ねんこった安史やすしらんのちとう支配しはいりょく低下ていかし、840ねんかいあせこく崩壊ほうかいには天山あまやまウイグル王国おうこく支配しはいとなり、しばしば首都しゅととなることがおおかった。そのため、900年代ねんだいから1100年代ねんだいにかけて、「こうあきらかい鶻」としてきたそうりょう朝貢ちょうこうしている。このころのこうあきらは「カラ・コージャ」とばれていた。[12]

1125ねんころ以降いこう天山あまやまウイグル王国おうこく西にしりょう(カラ・キタイ)の属国ぞっこくとなり、1211ねんにはモンゴル帝国ていこく衛星えいせいこくとなった。1260年代ねんだいにオゴデイカイドゥクビライ・カアンとのこうそうはじまると、カイドゥはチャガタイ併合へいごうし、「カイドゥのくに」(カイドゥ・ウルス)を形成けいせいし、クビライの支配しはいするだいもとウルス対立たいりつ天山あまやまウイグル王国おうこくりょう勢力せいりょくこうそう最前線さいぜんせんとなってしまう[13]1275ねんにはカイドゥに臣従しんじゅうしたチャガタイドゥア天山あまやまウイグル王国おうこく首都しゅとカラ・コージャを包囲ほういし、とき君主くんしゅ(イディクート)コチカル・テギンみずからのむすめすことで滅亡めつぼうまぬかれた(カラ・ホジョのたたか[14][15]。しかし、これ以後いごもカイドゥ・ウルスの攻撃こうげきつづき、ウイグル王家おうけはカラ・コージャからクムル(哈密)、クムルから永昌えいしょうへと東方とうほう移住いじゅうせざるをなくなった[16]

吐魯ばん(トルファン)にいたるまで[ソースを編集へんしゅう]

あきら永楽えいらく年間ねんかんには中国ちゅうごくがわからしゅうばれ、1409ねん1413ねんにも朝貢ちょうこうしている。1414ねんにはあかりちんまことがこの派遣はけんされている。あかりてんじゅん年間ねんかん吐魯ばん併合へいごうされた。

政治せいじ体制たいせい[ソースを編集へんしゅう]

このこうは『きた列伝れつでんだいはちじゅう 西域せいいきる。

君主くんしゅであるこうあきらおう頂点ちょうてん以下いか官職かんしょくがある。

  • れいいん(1めい)…中国ちゅうごく相国しょうこく宰相さいしょう)にあたる。
  • おおやけ(2めい)…交河こう田地たじこう2人ふたりがおり、こうあきら王子おうじふうぜられる。
  • 左右さゆうまもる
  • はちちょう
    • 部長ぶちょう
    • ほこら部長ぶちょう
    • くら部長ぶちょう
    • くら部長ぶちょう
    • 主客しゅかくちょう
    • れい部長ぶちょう
    • みん部長ぶちょう
    • へい部長ぶちょう
  • 将軍しょうぐん
    • たてたけし将軍しょうぐん
    • どお将軍しょうぐん
    • りょうこう将軍しょうぐん
    • 殿中でんちゅう将軍しょうぐん
    • ふく将軍しょうぐん
  • はち司馬しばちょう副官ふっかんである。
  • さむらいろう
  • こうしょろう
  • おも簿
  • 従事じゅうじ
  • しょうごと

くに大事だいじおうめ、小事しょうじ世子せいしおよおおやけめるが、書記しょきてない。曹府がなく、ただきばもんあつまってしゅうごと評議ひょうぎする。しょしろには曹・みず曹・曹がある。しろごとに司馬しばさむらいろう派遣はけんして検校けんぎょう監視かんしし、しろれいとする。

習俗しゅうぞく[ソースを編集へんしゅう]

服飾ふくしょくでは男性だんせいえびすふくて、女性じょせい中国ちゅうごく大体だいたいおなじもの(裙襦)をあたまにはたぶさつくる。武器ぶきにはゆみかたなだてきのえほこがある。文字もじ中国ちゅうごくおなじ(漢字かんじ)だが、えびすしょ兼用けんようする。『もう』・『論語ろんご』・『こうけい』があり、がくかん弟子でしいてたがいに教授きょうじゅする。これらをんで学習がくしゅうするが、すべてえびすである。ぜいぎんぜに使つかい、もの麻布まふみつげおさめする。その刑法けいほう風俗ふうぞく婚姻こんいんそう中国ちゅうごくすこことなるがおおいにおなじである[17]

産業さんぎょう[ソースを編集へんしゅう]

おおくはいし磧であるが、気候きこう温暖おんだんで、こくむぎさいじゅくし、養蚕ようさんてきし、はておおい。ひつじとげというくさがあり、そのうえにはみつができる。これらはみずいて灌漑かんがい農業のうぎょうおこなっている。しゅのような赤塩あかしおたまのようなしろしお産出さんしゅつする。葡萄酒ぶどうしゅおおい。また、ひつじかくれへきしょ放牧ほうぼくし、外寇がいこうけている。貴人きじんでなければその場所ばしょらない[17]

宗教しゅうきょう[ソースを編集へんしゅう]

天神てんじんまつ一方いっぽう仏法ぶっぽう信奉しんぽうする。えびすじゅうろくこく時代じだいにはゾロアスターきょう流行りゅうこうしたが、仏教ぶっきょうもっと重要じゅうよう宗教しゅうきょうだった。道教どうきょう一時いちじてき影響えいきょうあたえている。

こうあきら玄奘三蔵げんしょうさんぞう西域せいいき求法ぐほう発着はっちゃくてんでもあった。630ねんげん奘が出発しゅっぱつしたときは、ぶんたい歓待かんたいされ、城内きうちには50あまりの寺院じいん存在そんざいした、と、『だいから西域せいいき』にしるしている。その640ねんげん奘がインドゆうかたのち帰着きちゃくしたときには、こうあきらすでほろんだのちであった。そのため、『だいから西域せいいき』にしるさいに、げん奘は「こうあきら」という表現ひょうげんもちいた[18]

地理ちり[ソースを編集へんしゅう]

国土こくど東西とうざい300南北なんぼく500さととうだいでは東西とうざい800南北なんぼく500さととなる。四面しめんおおくはやまかこまれており、きたには赤石山あかいしやまがあり、山北やまきた70さとにはむさぼあせやまがあり、なつには積雪せきせつする。このやまきたてつ勒界となる。

しろ[ソースを編集へんしゅう]

きたあまね時代じだいしろすうは16で、ずいだいでは18、とうだいになると21または22となる。

  • こうあきらじょう…トルファン市街地しがいちひがし40kmのところにあり、城址じょうし遺跡いせきこうあきらしろ」としてのこっている。面積めんせきは200まん平方へいほうキロメートル、周囲しゅういは5キロメートルで、外城とじょうじょう内城うちじろ宮城みやぎの3つの部分ぶぶんからなり、建築けんちくぶつ破損はそんはげしく、荒涼こうりょうとした風景ふうけいひろがる[19]
  • 交河じょうこうあきらこくおうみやこであり、かつてのくるまぜんおうにわである。現在げんざいも「交河しろ」として遺跡いせきのこる。
  • 田地でんちじょう…かつてのつちのえおのれこうじょうしょであり、1まんにん兵士へいし常駐じょうちゅうしていた。現在げんざいこうあきら古城こじょうとして遺跡いせきのこる。
  • しろとげじょうこうあきらること160さと地点ちてんにある。

住民じゅうみん[ソースを編集へんしゅう]

こうあきらこく住民じゅうみんしゅとしてかんぞくであり、かん屯田とんでんへい中国ちゅうごく内地ないち戦乱せんらんからの避難ひなんみん後裔こうえいである。少数しょうすう民族みんぞくとして、昭武あきたけきゅうせい西方せいほうからの移民いみんむ。そのため、こうあきらこく官制かんせい兵制へいせい賦役ふえきせい士族しぞくせいかんすすむ制度せいど踏襲とうしゅうしている。ただし道具どうぐるいには特色とくしょくられる。かん民族みんぞく伝統でんとう文化ぶんかこうあきらにも根付ねついている。

歴代れきだい君主くんしゅ[ソースを編集へんしゅう]

名前なまえ 出自しゅつじ 統治とうち期間きかん こうあきら年号ねんごう
闞伯しゅう やわしかによっててられる 460ねん - 477ねんころ
闞義なり はくしゅう 477ねんごろ - 478ねんころ
闞首 義成よしなりあに 478ねんごろ - 488ねんころor491ねんころ
ちょうはじめあきら こうしゃによっててられる 488ねんころor491ねん - 496ねんころ
うま 敦煌とんこうぐんひと 496ねんごろ - 501ねんころ
麴嘉 おう時期じきうつんだ漢人かんど後裔こうえい 501ねんor502ねん - 525ねんころ在位ざいい うけたまわひらた 501ねんor502ねん - 509ねんor510ねん
510ねんor511ねん - 525ねんころ
麴光 麴嘉の 525ねんごろ - 530ねんころ 甘露かんろ 525ねんごろ - 530ねんころ
麴堅 麴嘉ので、麴光のおとうと 531ねん - 548ねん あきら 531ねん - 548ねん
麴玄 麴堅の 549ねん - 550ねん ながひらた 549ねん - 550ねん
麴 (めい不明ふめい1)[20] 麴玄 551ねん - 554ねん 和平わへい 551ねん - 554ねん
麴宝しげる 麴 (めい不明ふめい1)の 555ねん - 560ねん たてあきら 555ねん - 560ねん
麴乾かた 麴宝しげ 561ねん - 601ねん のべあきら 561ねん - 601ねん
麴伯みやび 麴乾かた 602ねん - 613ねん のべ 602ねん - 613ねん
麴 (めい不明ふめい2)[21] 出身しゅっしんしょう政変せいへんによりとう 614ねん - 619ねん 義和よしかず 614ねん - 619ねん
麴伯みやび 復位ふくい 620ねん - 623ねん 重光しげみつ 620ねん - 623ねん
麴文やすし 麴伯みやび 624ねん - 640ねん 延寿えんじゅ 624ねん - 640ねん
麴智もり 麴文たい 640ねん 独自どくじ年号ねんごう

脚注きゃくちゅう[ソースを編集へんしゅう]

  1. ^ しゅうしょ列伝れつでんだいよんじゅう 異域いいき、『ずいしょ列伝れつでんだいよんじゅうはち 西域せいいき、『きた列伝れつでんだいはちじゅう 西域せいいき、『きゅうとうしょ列伝れつでんだいいちひゃくよんじゅうはち 西戎せいじゅう
  2. ^ すすむしょ
  3. ^ きたすずか出身しゅっしん匈奴きょうどけい小松こまつ 2000, p. 126
  4. ^ 小松こまつ 2000, p. 126
  5. ^ しゅうしょ列伝れつでんだいよんじゅう 異域いいきいみな,茹茹ころせ其弟あんあまね,以闞はくしゅうためだかあきらおうこう昌之まさゆきしょうおう此始也。」、『きた列伝れつでんだいはちじゅう 西域せいいき「蠕蠕以闞はくしゅうためだかあきらおう,其稱おう此始也。」
  6. ^ やわしかうしたてとした漢人かんど傀儡かいらい政権せいけん成立せいりつする。こうしてあらたな漢人かんどけいのトゥルファン王国おうこく成立せいりつする。小松こまつ 2000, p. 126
  7. ^ こうしゃエフタル介入かいにゅうをうけて491ねんに闞氏政権せいけん崩壊ほうかいする。小松こまつ 2000, p. 126
  8. ^ やわしかやぶった突厥は麴宝しげるあせむすめ降嫁こうかし、イルテベル(俟利はつ)の称号しょうごうあたえた。小松こまつ 2000, pp. 126–127
  9. ^ 遊牧ゆうぼく騎馬きば民族みんぞくふるくからある結婚けっこんスタイルで、おっと先立さきだたれたつまおっと兄弟きょうだいもしくは息子むすことつぐこと。
  10. ^ 麴伯みやび時代じだいには、ずい接近せっきんしたことで、こうあきらこくかんすすんだ。小松こまつ 2000, p. 127
  11. ^ 小松こまつ 2000, p. 127
  12. ^ 藤枝ふじえだあきらこうあきらかい鶻とかめ茲回鶻』
  13. ^ 安部あべ1955,92ぺーじ
  14. ^ りゅう2006,268ぺーじ
  15. ^ 安部あべ1955,95-97ぺーじ
  16. ^ 安部あべ1955,115-116ぺーじ
  17. ^ a b ずいしょ列伝れつでんだいよんじゅうはち 西域せいいき
  18. ^ だいから西域せいいき
  19. ^ 地球ちきゅうあるかた西安しーあんとシルクロード』(ダイヤモンド・ビッグしゃ、2001ねん
  20. ^ 現代げんだいでは便宜べんぎてき在位ざいいちゅう年号ねんごうって「和平わへいおう」とぶことがある。
  21. ^ 現代げんだいでは便宜べんぎてき在位ざいいちゅう年号ねんごうって「義和よしかずおう」とぶことがある。

参考さんこう文献ぶんけん[ソースを編集へんしゅう]

  • しゅうしょ』(列伝れつでんだいよんじゅう 異域いいき
  • ずいしょ』(列伝れつでんだいよんじゅうはち 西域せいいき
  • きた』(列伝れつでんだいはちじゅう 西域せいいき
  • きゅうとうしょ』(列伝れつでんだいいちひゃくよんじゅうはち 西戎せいじゅう
  • しんとうしょ』(列伝れつでんだいいちひゃくよんじゅうろくじょう 西域せいいきじょう
  • 咸賓ろく』 (あきらにちせん おもえはじむこうちゅう 中華ちゅうかしょきょく ISBN 7-101-02058-5/K
  • ちんまことちょ西域せいいきばんこくこころざし
  • だいから西域せいいき』(水谷みずたにしんなりやく平凡社へいぼんしゃ、1999ねん
  • 小松こまつ久男ひさお世界せかい各国かっこく4 中央ちゅうおうユーラシア山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2000ねんISBN 978-4634413405 

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