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詩経しきょう

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もうから転送てんそう
もう』と『もう正義まさよし大雅たいがから写本しゃほん東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん所蔵しょぞう
儒家じゅか経典きょうてん
五経ごきょう つて
きゅうけい
えき
しょ

れい儀礼ぎれい/しゅうあや
春秋しゅんじゅう
れい
春秋しゅんじゅうひだりでん
春秋しゅんじゅうこうひつじでん
春秋しゅんじゅうこくりょうつたえ
ななけい じゅうけい
論語ろんご
こうけい
しかみやび
じゅうさんけい
孟子もうし

詩経しきょう』(しきょう、きゅう字体じたい詩經しきょう拼音: Shījīng)は、ぜん305へんからなる中国ちゅうごく最古さいこ詩篇しへん儒教じゅきょう経典きょうてんである経書けいしょひとつにかぞえられる。 さきはた時代ときよにはたんに「」と呼称こしょうされたが、こうかん以降いこうもうつたえた『詩経しきょう』のテキスト・解釈かいしゃく盛行せいこうしたため、「もう」というばれるようになった[1]そうだい以降いこう経典きょうてんとしての尊称そんしょうから『詩経しきょう』の名前なまえまれた[2]

中国ちゅうごくにおいては、古代こだいから『詩経しきょう』と『しょけい』は「詩書ししょ」としてならしょうされ、儒家じゅか経典きょうてんとしておおきな権威けんいった。中国ちゅうごく支配しはいそう形成けいせいする大夫たいふそう基本きほんてき教養きょうようとして、かんだいから近世きんせいいたるまでさまざまにまなばれ、さまざまな解釈かいしゃくまれた[3]一方いっぽう経典きょうてんとしてあつかわれる以前いぜんの『詩経しきょう』が、どのような環境かんきょうされ、いかなる人々ひとびとあいだ伝承でんしょうされ、元来がんらいいかなる性格せいかく詩集ししゅうであったのか、といった事柄ことがらにはおおくの学説がくせつがあり、はっきりとした定論ていろんはない[3]

成立せいりつ

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詩経しきょう』におさめられているは、西にしあまね初期しょき紀元前きげんぜん11世紀せいき)からあずまあまね初期しょき紀元前きげんぜん7世紀せいき)のころつくられたものであり[4]とくしゅう東遷とうせん前後ぜんごのものがおおいとされている[5]原作げんさくしゃは、おとこおんな農民のうみん貴族きぞく兵士へいし猟師りょうしといった幅広はばひろ人々ひとびとであるとされる[4]。その成立せいりつ時期じきギリシアホメーロスイーリアス』『オデュッセイア』とならんでふるいものであり、とく個人こじん集団しゅうだん叙情詩じょじょうしとしては世界せかい最古さいこのものであるといえる[6]

もとは口承こうしょう伝播でんぱしていたが、春秋しゅんじゅう時代じだい前期ぜんききとめられてなりしょしたとされる[4]。『詩経しきょう』におさめられた作品さくひんのうち下限かげんしめすものとしてげられるのは、国風くにぶりしんふうの「黄鳥こうちょう」であり、これは紀元前きげんぜん621ねんはたきよしおおやけ葬儀そうぎうたったものとされている[7]。これらのしゅうだいから春秋しゅんじゅう時代じだいにかけて音楽おんがくにのせてうたがれ、地域ちいきえてひろ伝播でんぱしていた[4]

詩経しきょう』がなりしょするにいたった経緯けいいには諸説しょせつがある。伝統でんとうてきせつとして、『漢書かんしょ芸文げいぶんこころざしには、しゅうのはじめには「さいかん」という役人やくにんがいて、土地とち土地とち歌謡かよう採取さいしゅして皇帝こうてい献上けんじょうし、皇帝こうていはその歌謡かよう各地かくち風俗ふうぞく政治せいじ状況じょうきょうり、統治とうち役立やくだてたというせつがある[8]。ただ、どれほど事実じじつそくしているのかはさだかではなく[8]ちぇじゅつ青木あおき正児まさる儒家じゅかかんだいらくかんから類推るいすいしてつくげた空想くうそうであるとしている[9]。また『史記しき孔子こうしには、もともとさんせん以上いじょう存在そんざいしたから、孔子こうしきものをえらって現行げんこうさんひゃくへん編纂へんさんしたとするせつがあり、これを「孔子こうし刪定せつ」と[10]。このせつは『史記しき』にしかっていないものであり、これにもふるくから異議いぎとなえられている[11]

結局けっきょくのところ『詩経しきょう』の詳細しょうさい成立せいりつ過程かてい不明ふめいであるが、『春秋しゅんじゅうひだりでん』には紀元前きげんぜん544ねんさつが『詩経しきょうかくへん賛美さんびした言葉ことばつたえられており、そのへん順序じゅんじょ現行げんこうほんおおむ一致いっちしていることから、春秋しゅんじゅう時代じだい後期こうきには現行げんこうほんかたちの『詩経しきょう』が成立せいりつしていたとかんがえられる[12]。また、『荀子』にはふうみやび・頌などの名称めいしょうており、戦国せんごく時代じだい現行げんこうほんちかい『詩経しきょう』が存在そんざいしたこともかる[8][13]

また、どう時代じだいてき出土しゅつど資料しりょうとしては、1990年代ねんだい発見はっけんされた戦国せんごく時代じだいたけうえひろしすわえかくてんすわえ)のなかに、『詩経しきょう』を部分ぶぶんてき引用いんようしたたけ簡や、『詩経しきょう』の解説かいせつしたたけ簡がある[14]。2015ねんには、安徽あんき大学だいがく戦国せんごく時代じだいたけ簡を入手にゅうしゅしたが(やすだい)、これは『詩経しきょう』のうちの「国風くにぶり」の部分ぶぶんふくんだものであった[14]

さんいえ

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かんだいはいると、がくかん博士はかせ制度せいどさだめられ、経書けいしょ研究けんきゅうさかんになった[15]。このころ、『詩経しきょう』のテキストとその解釈かいしゃくにはおおきく三種さんしゅ系統けいとう存在そんざいしており、これを「さんいえ」と総称そうしょうする[15]

魯詩
魯国つたえられてきた解釈かいしゃくで、さるつちかえぶんみかど時期じき博士はかせ)によってがくかんてられた[16]さるつちかえ浮丘はく弟子でしで、浮丘はく荀子弟子でしである[17]さるつちかえ弟子でしにはしゅうなつひろし魯賜らがいる[15]西にしすすむころほろび、現存げんそんしない[16]
ひとし
ひとしこくつたえられてきた解釈かいしゃくで、ながえかた中国語ちゅうごくごばんけいみかど時期じき博士はかせ)によってがくかんてられた[16]なつほうはじめあきらによってさかんになり、つばさたてまつただしらのときもっと隆盛りゅうせいであった[15]三国みくにたかしころほろび、現存げんそんしない[16]
かん
魯国でつたえられてきた解釈かいしゃくで、かん中国語ちゅうごくごばんぶんみかど時期じき博士はかせ)によってがくかんてられた[16]三家みつえなかではながつたえられ、きたそうころまではそのほんつたえられていた[15]。また、その説話せつわしゅうである『かん外伝がいでん』は現存げんそんする[16]。これも荀子系統けいとうがくいているとされる[17]

以上いじょうの「さんいえ」は、かんだい博士はかせによって脈々みゃくみゃくつたえられたテキストにもとづいており、かんだい通行つうこう字体じたいである「こんぶん」で伝承でんしょうされていた[16]前漢ぜんかん書籍しょせき記録きろくした『漢書かんしょ芸文げいぶんこころざしには、魯詩として「魯故じゅうかん」「魯説じゅうはちかん」など、ひとしとして「ひとしきさきじゅうかん」「ひとしまごじゅうななかん」「ひとしきさきでんさんじゅうきゅうかん」など、かんとして「かんさんじゅうろくかん」「かんないでんよんかん」「かん外伝がいでんろくかん」などが記録きろくされている[15]。ただし、いずれも現代げんだいほろんでおり、唯一ゆいいつかん外伝がいでん』のみがつたわる[18][注釈ちゅうしゃく 1]

もう

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一方いっぽうこんぶんかれていた「さんいえ」とはべつに、かわあいだけんじおうりゅういさお古書こしょ収集しゅうしゅうしたさいしんだい以前いぜんふる字体じたいである「古文こぶん」でかれたテキストが発見はっけんされた。これは荀子から魯のもうとおる中国語ちゅうごくごばんつたえられたものであった。りゅういさおもう中国語ちゅうごくごばん博士はかせとし、これも『詩経しきょう』のテキスト・解釈かいしゃくとしてもちいられるようになった。この古文こぶん系統けいとうの『詩経しきょう』のテキストおよびもう解釈かいしゃくを『もう』という[19]

もう』には、本文ほんぶんくわえて、もう解釈かいしゃくつたえる「もうつたえ」ならびにそれぞれの大意たいいしるした「じょ」(大序だいじょしょうじょ)がされていた[20]。「じょ」の作者さくしゃ諸説しょせつあり、『こう漢書かんしょ』はまもるひろし中国語ちゅうごくごばんさくであるとし、『ずいしょ』はなつつくもうまもるひろし潤色じゅんしょくしたとする[21]

その、『もう』は前漢ぜんかんあいだ貫長かんちょうきょうかいのべねんじょ中国語ちゅうごくごばんちん俠・しゃ曼卿をとおしてつたえられた。こうかんはい文学ぶんがくさかんになると、まもるひろしじょじゅん賈逵ていしゅうらをとおしてつたえられ、うまとおるは『もう』に注釈ちゅうしゃくし、さらにその弟子でしていげんが『もう』に「箋」とばれる注釈ちゅうしゃくつくった(てい[22]。『もう』とてい箋は、とうだいの『五経ごきょう正義まさよし』に採用さいようされて主流しゅりゅうのテキスト・解釈かいしゃくとなった[23]

構成こうせい

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詩経しきょう』のじゅう国風くにぶり所在地しょざいち[24]しゅうみなみ・召南の場所ばしょ諸説しょせつある。

詩経しきょう』には合計ごうけい311へんおさめられているが、このうち6へん題名だいめいだけで本文ほんぶんつたわっていない[1]。それぞれののタイトルは、おおくの場合ばあい最初さいしょからすう文字もじおおくは)をえらんでそのまま題名だいめいにしたものであり、内容ないよう要約ようやくしたものではない[25]。これら311へんは、「ふう」「みやび」「頌」のみっつの区分くぶんした収録しゅうろくされている。

ふう
国風くにぶり」とも。各国かっこく民間みんかんうたわれたで、こくごとにじゅうけられている。けい160へん[26]しゅうみなみ・召南(しゅうこう召公封地ほうち場所ばしょ諸説しょせつある)、邶風・鄘風・まもるふう内容ないようすべまもるふうまもるこく)、おうふうひがししゅう中心ちゅうしんとする)、ていふうてい)、ひとしふうたかしふうとうふうはたふうひねふうひのきふうふう、豳風(しゅう先祖せんぞおおやけりゅう以下いか)の15に区分くぶんされる[27]
みやび
中央ちゅうおう朝廷ちょうていただしい音楽おんがく。「しょうみやび」(31へん)と「大雅たいが」(105へん)にかれる[26]。「大雅たいが」がしゅう王朝おうちょう朝廷ちょうてい宗廟そうびょうもちいるであるのにたいし、「しょうみやび」は上下じょうげつうじてもちいられるで、政事せいじ大小だいしょう道徳どうとく存否そんぴあつうす成立せいりつゆたかうす相違そういがあるとされる[28]。「みやび」は「ただし」の意味いみせいらくうたすとするせつと、「なつ」の意味いみ中国ちゅうごく中原ちゅうげんからまれたうたであることをしめすとするせつなどがある[29]しょうみやびだいみやびではじゅうへんごとをいちくみとしてその最初さいしょ名前なまえかんして「〇〇これ什」として区分くぶんされている[30]しょうみやび鹿しかこれ什・みなみゆうよしみぎょ什・おおとりかり什・ふし南山なんざん什・谷風たにかぜ什・はじめ什・さかな什、大雅たいがぶんおう什・なまみん什・とろけ什にかれる[31]
しゅ熹は「宗廟そうびょうらく」とべており[32]宗廟そうびょう祖先そせん功業こうぎょうめたたえるための歌舞かぶをともなうのこと[26][33]。「頌」という言葉ことばは、「」の意味いみであるというせつと、いの様子ようすあらわしたものとするせつがある[32]。頌は、しゅう頌・魯頌・しょう頌にかれ、しゅう頌はきよしびょう什・しんこう什・閔予しょう什のみっつにかれる[34]

松本まつもと雅明まさあきは、シンプルなたたみえいたいおお国風くにぶりもっとふるく、みやび・頌がこれにいで成立せいりつしたと主張しゅちょうするが、これにたいして白川しらかわしずは、ふうみやび・頌ではそれぞれ伝承でんしょう過程かていことなるため単純たんじゅん比較ひかくはできないとべている[35]小南こみなみ一郎いちろうは、りょうあきらちょうせつまえて、いんまず、またあきらけも存在そんざいしない「しゅう頌」の作品さくひんぐん最古さいこであり、いでみやびふう成立せいりつしたと主張しゅちょうしている[35]

なお、このうち「しゅうみなみ」「召南」を「みなみ」(みなみ)として国風くにぶりから独立どくりつさせるかたもあり、これはそうだい儒者じゅしゃとなはじめた[36]。この「みなみ」の意味いみは、ぶんおう教化きょうかみなみかうことをあらわすとするせつもう)と、詩体したい一種いっしゅとするせつしゅ)、らくらくまいむすびついたらくたいとするせつていきこりほど大昌だいしょう)、「みなみ」は「おとこ」の意味いみとし爵位しゃくいあらわすとするせつ牟庭)などがある[37]

形式けいしき

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詩経しきょう』におさめられているは、基本きほんてきよん字句じくり、単調たんちょう素朴そぼくなリズムをかなでる[38]。このよん字句じく基本きほんてきにはかたち[30]

しゅう頌」をのぞけば、どれもすうしょうからなっていて、国風くにぶりながいものは豳風「なながつ」の8しょうかくしょう11)、みやびながいものは大雅たいがくわやわら」の16しょう合計ごうけい120)といったれいがある[39]全体ぜんたい傾向けいこうとしては、国風くにぶりみじかめで、3しょうかくしょう4、2しょうかくしょう6といった作例さくれいおお[39]みやびになると長篇ちょうへんおおく、あきらすう前後ぜんごわるものおおい。しょうみやび正月しょうがつ」はまえ8しょうかく8こう5しょうかく6である。また、大雅たいがには「大明だいめい」のように6と8交互こうごはいこんじるかたち、「なまみん」のように10と8はいこんじるかたちられる[40]

押韻おういん

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詩経しきょう』のには「押韻おういん」がられるが、『詩経しきょう』の段階だんかいでは押韻おういん位置いち固定こていしていないため、どの押韻おういんしているのか特定とくていすることは容易よういではない[41]。『詩経しきょう』の押韻おういんいちれい以下いかである。

  • 鄘風・かしわぶねひろしかれかしわぶねざいかれ中河なかがわかれりょう髦、じつ維我」 - 一句いっくおこりくびいんもちいるれい[42]
  • 鄘風・蝃蝀「蝃ざいひがし」、しょうみやびまろうどはつむしろゆうみずのえゆうはやし」 - 中間ちゅうかんいんもちいるれい[42]
  • しゅうみなみまきみみさいさいまきみみみつるころかたみ。嗟我ふところじん、寘彼しゅうくだり。」 - 偶数ぐうすうまついんもちいるれい[42]

詩経しきょう』の押韻おういん後世こうせい規則きそくくらべるとかなりゆるやかではあるが、偶数ぐうすうまつ押韻おういんといった後世こうせい押韻おういんほう類型るいけいはすでにあらわれている[42]とくに「国風くにぶり」の場合ばあいいちへんなかで、まえしょうとほぼ同一どういつ脚韻きゃくいんだけをえてかえされるかたちたたみえいからだ)をるものがおお[30]

こうした『詩経しきょう』の押韻おういん解明かいめいは、清朝せいちょう考証こうしょうがく音韻おんいんがくによってすすめられた[43]中国ちゅうごくおと時代じだいによって変化へんかしており、『詩経しきょう』の押韻おういん上古じょうこおんしたがうため、現代げんだい感覚かんかくでは想像そうぞうしがたい押韻おういんれいおお[41]以下いかがそのれいである。

  • しゅうみなみせき雎「参差しんしさい左右さゆうさいこれ窈窕ようちょう淑女しゅくじょ琴瑟きんしつともこれ
    このさんいんではおなじ「これぞくするが、「さいさい」と「とも」は現代げんだい中国語ちゅうごくごおんちゅう古音こおん日本語にほんごおんのいずれでんでも押韻おういんしない[41]
  • 鄘風・はせわがくだり其野、芃芃其むぎひかえ大邦たいほうだれいんだれごく大夫たいふくん無我むがゆうゆうひゃくなんじしょおもえ如我しょこれ
    このろくいんではおなじ「これぞくするが、現代げんだい中国語ちゅうごくごおんちゅう古音こおん日本語にほんごおんから想像そうぞうしてもろくどうであることは想像そうぞうしがたい[41]

なお、『詩経しきょう』の押韻おういんれい一覧いちらんは、こうこえ詩経しきょういん読』に整理せいりされている[41]

表現ひょうげん技法ぎほう

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詩経しきょう』にもちいられる表現ひょうげん技法ぎほうとしては、古来こらい」「」「きょう」の三種さんしゅ強調きょうちょうされてきた[38]

  • - 直叙ちょくじょほう[1][38]
  • - 直喩ちょくゆほう[1][38]
  • きょう - はじめにあることをべ、その連想れんそうつぎ主題しゅだい表現ひょうげんほう[1]隠喩いんゆ一種いっしゅともされる[38]

きょう」の三種さんしゅ表現ひょうげん技法ぎほうと、先述せんじゅつした「ふうみやび・頌」のみっつのスタイルは、『しゅうあや』や『もう大序だいじょなどではわせて「ろく」とばれている[44]

詩経しきょう』のでは、音声おんせい容貌ようぼう状況じょうきょう形容けいようするときにおとかさがたしめすことがおおい。おなおんふたかさねる「重言じゅうげん」、最初さいしょ発声はっせいおなじくするふたかさねる「そうごえ」、おんおなふたかさねる「畳韻じょういん」のさん種類しゅるいがある[45]

  • 重言じゅうげん - 「せきせき雎鳩みさご」「交交こもごもくわ扈」「つづみ鍾将しょう」「楚楚そそしゃいばら」「戦戦兢兢せんせんきょうきょう」など
  • そうこえ - 「参差しんし荇菜」「黽勉同心どうしん」など。
  • 畳韻じょういん - 「のぼるかれちぇ」「わがうま虺隤」など。

くわえて、『詩経しきょう』のは「対句ついく」の形式けいしきもちいることもおお[46]

  • おうふうだいくるまたにそくことしつそくどうあな。」
  • しょうみやび南山みなみやまゆうだい南山みなみやまゆうだい北山きたやまゆう萊。」
  • 大雅たいがすんでよいすんでよい以酒、すんで飽以とく。」

内容ないよう

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テーマの分類ぶんるい

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詩経しきょう』のかく作品さくひんのテーマは多岐たきわたうえ、そのをどう解釈かいしゃくするかによってもわってくる。聞一おおは「婚姻こんいん」「家庭かてい」「社会しゃかい」のおおきなさん分類ぶんるいこころみ、りゅうだいすぐるおおきく「宗教しゅうきょうてきな頌詩」「宮廷きゅうていらく」「社会しゃかい」「抒情じょじょう歌曲かきょく」のよっつに分類ぶんるいした[47]。こうした諸家しょかせつ整理せいりし、ひろしたたえこうは「祭祀さいし」「頌祷」「史詩しし」「うたげいん」「かり」「戦争せんそう」「農事のうじ」「怨刺」「婚姻こんいん」「送別そうべつ」「隠逸いんいつ」「絶交ぜっこう」といったテーマのが『詩経しきょう』にふくまれるとしている[47]

解釈かいしゃく

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なが期間きかんにわたってまれつづけてきた『詩経しきょう』は、おおくの人々ひとびとによってことなる解釈かいしゃくあたえられてきた。ここでは、国風くにぶり・邶風の「凱風」というれいとしてげ、歴代れきだい解釈かいしゃく多様たようせいしめす。「凱風」の本文ほんぶんくだぶん以下いかである。

凱風みなみ、吹彼とげしんとげこころ夭夭、はは劬勞。(凱風みなみよりし、かれとげしんく、とげこころ夭夭として、はは劬勞す。)
凱風みなみ、吹彼とげたきぎははひじりよしわがれいじん。(凱風みなみよりし、かれとげたきぎく、ははせいぜんなれども、れいひとし。)
爰有寒泉かんせんざい浚之有子ゆうこななにんはは勞苦ろうく。(爰に寒泉かんせんり、浚のしたり、ななにんれども、はは勞苦ろうくす。)
睍睆黄鳥こうちょうこう其音、有子ゆうこななにん、莫慰ははしん。(睍睆たる黄鳥こうちょうは、(すなわ)ちおとくす、ななにんれども、ははしんなぐさめる莫(な)し。)[48] — 『詩経しきょう国風くにぶり・邶風「凱風」

この伝統でんとうてき解釈かいしゃくとして、じょは、まもるくに淫奔いんぽん風気かざけ流行りゅうこうし、ななにんのいるははであってもおとこはしろうとしたため、孝行こうこう息子むすこがそれをしとどめ、この孝行こうこうめたたえるものとする[49]しゅもこれと同様どうよう解釈かいしゃくをしている[50]。また、さんいえでは、継母けいぼつかえる孝行こうこうしん解釈かいしゃくしたものもある[51]

近年きんねん研究けんきゅうにおいては、たとえば聞一おおは、「凱風」は「大風おおかぜ」でおっと暴虐ぼうぎゃくのたとえ、「とげ」は暴虐ぼうぎゃくさいなまれる子供こどもたちのははのたとえ、「寒泉かんせん」も食物しょくもつ成長せいちょうさまたげ、らしてしまう冷水れいすいとし、これもおっとつまたいする無慈悲むじひ仕打しうちをいうとする[49]。また、目加田めかだまこと伝統でんとうてき解釈かいしゃく反対はんたいし、はは慈愛じあいおもい、それにむく自分じぶんめるかなしいうたであり、ただおやおも純情じゅんじょううるわしいうたであるとする[51][注釈ちゅうしゃく 2]加納かのう喜光よしみつわけもこれにちかく、出来できわるらを苦労くろうしてそだてるはは慈愛じあいであるとする[52]一方いっぽう赤塚あかつかただしは、春情しゅんじょうかれようとするむすめたちとこれをさえようとするははとの関係かんけい揶揄やゆする作品さくひんであるとする[注釈ちゅうしゃく 3]

受容じゅよう

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さきはた時代ときよ

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孔子こうしと『詩経しきょう

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詩経しきょう』は非常ひじょうふるくから重視じゅうしされた古典こてんひとつで、孔子こうし言行げんこうろくである『論語ろんご』には『詩経しきょう』をまなぶことの重要じゅうようせいだん数多かずおおくある[53]。たとえば、孔子こうし自分じぶん子供こどもに「勉強べんきょうしなければものがえないぞ」(『論語ろんごへん)とったれい[54]道徳どうとくてき興奮こうふん出発しゅっぱつてんとなるものとして『詩経しきょう』をげるれいがある(『論語ろんご為政いせいへん[55]孔子こうしころには、『詩経しきょう』は『しょけい』とともに権威けんいをもって通行つうこうしており、まなぶべき教養きょうようひとつとされていた[53]孔子こうしの『詩経しきょう』にたいする評価ひょうかは、『詩経しきょう』はじょうせいただしい状態じょうたいたもので、天真爛漫てんしんらんまん感情かんじょう発露はつろによってつくられたものであるというものであった[56]

また『詩経しきょう』は、外交がいこう場面ばめんおおきな役割やくわりたしたことがられる[57]。『春秋しゅんじゅうひだりでん』には、65じょうはなしえ、外交がいこう使節しせつとのあいだ応酬おうしゅうされている。そのさい選択せんたく適当てきとうであったり、相手方あいてがた理解りかいできなかった場合ばあいは、れいしっした行為こういであるとみなされた[58]。なお、外交がいこう場面ばめんもちいられる場合ばあいは、もとのから一部いちぶって引用いんようし、その表現ひょうげん範囲はんいだけの言葉ことば意味いみもちいられるため、もとのからは意味いみはなれていることがある。これを「断章だんしょうよし」という[59]

その

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孟子もうしいたると、『詩経しきょう』の引用いんようがその思想しそう政策せいさくろん根拠こんきょとしてもちいられる場合ばあいおおくなる。たとえば、『孟子もうし』滕文こうじょうでは、『詩経しきょうしょうみやび大田おおたあめわが公田くでんとげ及我わたし」を引用いんようして、古代こだい井田いだせい実証じっしょうとしてしめしている[60]。ほか、『しかみやびしゃくさとしへんはほとんどが『詩経しきょう』の解釈かいしゃくのための訓詁くんこげられており、『もう』と共通きょうつうするものもおお[61]

かんだい

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じょ

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もう』には「じょ」がされており、これは『詩経しきょう全体ぜんたいたいする序文じょぶんである「大序だいじょ」と、かくへんたいするついでである「しょうじょ」の種類しゅるいかれる。「じょ」の作者さくしゃ不明ふめいであるが、かんだい儒家じゅか思想しそう反映はんえいする[62]

大序だいじょ」は古代こだい中国ちゅうごくにおける「かん総論そうろんしたもので、冒頭ぼうとう以下いかのようなしからはじまっている[63]

しゃこころざしこれしょ也。ざいしんためこころざし發言はつげんため情動じょうどう於中、而形於言。げん不足ふそく嗟歎さたん嗟歎さたん不足ふそく永歌ながうた永歌ながうた不足ふそく不知ふちしゅまいあし蹈之也。(人心じんしん発露はつろしたものである。ひとしんにあるのがこころざしで、これがげんはっされてとなる。しんなか感情かんじょううごけば、おのずとげんにあらわれる。げんにあらわしただけではらず、そこでこれを慨嘆がいたんし、慨嘆がいたんしてもらず、さらながこえいてうたう。うたってもまだらず、そのままおぼえずしてい、あしむようになる[63][64]。)

一方いっぽうしょうじょ」は、それぞれの特定とくてい人物じんぶつ歴史れきしてき事件じけんむすけ、それに毀誉きよ褒貶ほうへんあたえるものとして解釈かいしゃくしたものである[65]いちれいとして、邶風「かしわぶね」のしょうじょ以下いかである。

かしわふねげんじん而不ぐう也。まもるごろおおやけときじんじん不遇ふぐう小人こどもざいがわ。(「かしわぶね」のは、仁者じんしゃでありながら不遇ふぐうひとのことをう。まもるころおおやけ時代じだいは、じんじんがしかるべき待遇たいぐうけず、小人こども君主くんしゅがわについていた[66]。) — 『』邶風・かしわぶねしょうじょ

もうつたえ

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もうつたえ制作せいさくしゃは、伝統でんとうてきにはさきしんもうとおる大毛おおけこう)・前漢ぜんかん萇(しょうもうこう)とされるが、その訓詁くんこ多用たようする形式けいしきからかんだいつくられたものではないかとかんがえられている[67]でんでは、『しゅうあや』『儀礼ぎれい』『春秋しゅんじゅうひだりでん』『国語こくご』のほか、『えきけい』『荀子』『孟子もうし』といったさまざまな古書こしょ引用いんようしながら注釈ちゅうしゃくされている[67]

てい

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じょもうつたえたいしてさい注釈ちゅうしゃくくわえたのが、こうかん末期まっき学者がくしゃていげんである。ていげん当初とうしょは「さんいえ」をもちいていたが、のちに『もう』をるとこれをもちいるようになった[68]ていげん解釈かいしゃくは、かならずしももうつたえとは一致いっちせず、ていげんれいがく解釈かいしゃく導入どうにゅうしていることが特徴とくちょうである[69]

もうつたえじょてい箋といったちゅう解釈かいしゃくほうは、内容ないよう歴史れきしてき事実じじつ人物じんぶつむすけ、その毀誉きよ褒貶ほうへんにつなげるものであり、儒教じゅきょう主義しゅぎ道徳どうとく主義しゅぎてき観点かんてん濃厚のうこう反映はんえいされたものであった[70]

すすむ南北なんぼくあさ時代じだい - とうだい

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すすむ時代じだいおうも『詩経しきょう』の注釈ちゅうしゃくつくり、南北なんぼくあさ時代じだいには北朝ほくちょうでは「てい箋」をもとに『詩経しきょう』がまれ、南朝なんちょうでは「おう粛注」をもとに『詩経しきょう』がまれる傾向けいこうにあった[71]とうだいはいると、統治とうち政策せいさくじょうから経書けいしょ解釈かいしゃく統一とういつ必要ひつようとなり、『五経ごきょう正義まさよし』がつくられた[71]。そのひとつである『もう正義まさよし』では、「もうつたえ」と「てい箋」に沿って解釈かいしゃくほどこされ、欽定きんてい解釈かいしゃくとしておおきな地位ちいめた[72]。これ以後いご科挙かきょけるものはこの解釈かいしゃくることが要求ようきゅうされ、その解釈かいしゃく絶対ぜったいてきなものとして受容じゅようされるようになった[73]

そうだい

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従来じゅうらい解釈かいしゃくはいずれも「もうつたえ」と「てい箋」、とくに「じょ」(大序だいじょしょうじょ)に依拠いきょしたものであったが、徐々じょじょに「じょ」の解釈かいしゃくたいして疑問ぎもんたれるようになった。その端緒たんしょひらいたのはおうおさむ本義ほんぎ』で、じょたいして批判ひはんてき態度たいどしめした[74]。この発想はっそうは、ていきこりおうただしなどをて、みなみそうしゅ詩集ししゅうでん』にいたって大成たいせいした[75]

しゅ熹は、じょこうかんまもるひろしによってつくられたもので、本来ほんらい意味いみ歪曲わいきょくしているとかんがえた。そこでしゅ熹は、じょ人物じんぶつ歴史れきしてき事件じけんむすけて理解りかいすることを批判ひはんし、それぞれの作成さくせい時期じき本来ほんらい特定とくていしがたいものであるとした。また、じょ道徳どうとくてき毀誉きよ褒貶ほうへんむことにも反対はんたいし、作者さくしゃ感情かんじょうがそのままあらわれたものであり、その読者どくしゃがわがそのぜんなるものにはしたがい、不善ふぜんなるものは反面はんめん教師きょうしとすることをもとめた[75]。そしてしゅ熹は、自身じしんの『詩経しきょう解釈かいしゃくしるした『詩集ししゅうでん』において、じょ一切いっさいてたあらたな解釈かいしゃくほどこした[75]結果けっかとしてしゅ熹の解釈かいしゃくは、男女だんじょじょうはばからずにうたった淫奔いんぽんみとめるなど、従来じゅうらいの「じょ」の解釈かいしゃくやぶり、より素直すなお人間にんげん感情かんじょう発露はつろ自然しぜんじょうみとめることがえた[76]。ただし、しゅ熹の解釈かいしゃく儒教じゅきょうてき価値かちかん外側そとがわるものではない[77]。その朱子学しゅしがく流行りゅうこうすると、『詩集ししゅうでん』の解釈かいしゃく権威けんいつようになった[76]

ほか、そういむつばらあきらなに中国語ちゅうごくごばんらは『詩経しきょう』に独特どくとく解釈かいしゃくほどこしたことでられている[78]

しんだい

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ふで詩経しきょう』とばれる作品さくひんで、いぬいたかしみかどによって肉筆にくひつで『詩経しきょう』が書写しょしゃされ、みぎにはみなみそう画家がかであるうま和之かずゆき模写もしゃされている。

清朝せいちょう考証こうしょうがく時代じだいはいると、古典こてん文字もじ研究けんきゅうとおして『詩経しきょう研究けんきゅう進展しんてんむかえた[75]とくに『詩経しきょう』の押韻おういんもちいて音韻おんいんがく研究けんきゅう進歩しんぽし、顧炎たけしこうひさし戴震だんだまさいあなこうもりらによって『詩経しきょう』の押韻おういん姿すがたあきらかにされた[79]

しゅ熹の解釈かいしゃく徹底的てっていてき批判ひはんした学者がくしゃとして、しんだい初期しょき姚際つねげられる。かれは『詩経しきょう通論つうろん』をあらわし、しゅ熹の「じょ批判ひはん不徹底ふてっていであるとして批判ひはんしたうえで、朱子学しゅしがく理念りねんと『詩経しきょう』は別物べつものであると指摘してきした。かれ立場たちば従来じゅうらい注釈ちゅうしゃくからはなれ、ひとつの虚心きょしんんでしん解釈かいしゃくそうとするものであり、この立場たちば清末きよすえほうたまじゅん詩経しきょう原始げんし』にがれた[80]

しんだい、『詩経しきょうせんもん研究けんきゅうしょのこした学者がくしゃとしてはおう船山ふなやまちんあきらげん中国語ちゅうごくごばんえびすうけたまわ中国語ちゅうごくごばんうまみずほたつ中国語ちゅうごくごばんちん中国語ちゅうごくごばんらがいる[78]とく著名ちょめいなのはちんあきらげんもう稽古けいこへん』、えびすうけたまわ珙『もう箋』、うまはしたつもうでん箋集かい』で、これらは基本きほんてきもうつたえてい箋にしたがいながら、両者りょうしゃ異同いどう考察こうさつし、ただしい訓詁くんこもとめて研究けんきゅうすすめたものである[81]。ほか、「さんいえ」の輯佚をおこなった研究けんきゅうしょとしておうさきけん三家義集疏』もある。

名物めいぶつがくとの関係かんけい

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岡元おかもとおおとりもう品物しなもの攷』

詩経しきょう』の研究けんきゅうは、博物学はくぶつがくちか学問がくもんである「名物めいぶつがく」の発展はってんうながした。これは『詩経しきょう』には動植物どうしょくぶつ名前なまえおおまれているため、『詩経しきょう』をまなぶことでその知識ちしきることができるとされていたためである[82]。このことは孔子こうしがすでに強調きょうちょうしており、『論語ろんご』で『詩経しきょう』をまな効用こうようさいに、動物どうぶつ植物しょくぶつ知識ちしきおおることができるとべている[82]

詩経しきょう』をとおしての名物めいぶつがく研究けんきゅうは、さんこくくれりくもう草木くさき鳥獣ちょうじゅうむしぎょ』(通称つうしょうりく疏』)によってひらかれた。そのそう蔡卞もう名物めいぶつかい』は『詩経しきょう』の名物めいぶつって11もん分類ぶんるいして解釈かいしゃくした。もともとけん中国語ちゅうごくごばん詩集ししゅうでん名物めいぶつしょう』は『詩経しきょう』の順序じゅんじょしたがい、そのなか名物めいぶつかんするきゅうせつ整理せいりするとともに自説じせつしめした。しんだいはいると、ちんだいあきら中国語ちゅうごくごばんでん名物めいぶつしゅうらん』や顧棟だか中国語ちゅうごくごばんもうるいしゃく』などおおくの研究けんきゅうまれた[83]

江戸えど時代じだい日本にっぽんでも詩経しきょう名物めいぶつがくさかんになり、『りく疏』とうこくほん出版しゅっぱんされるとともに[84]稲生いのう若水じゃくすい江村えむら如圭小野おの蘭山あららぎやま茅原かやはらじょうらが研究けんきゅうすすめた[78][注釈ちゅうしゃく 4]とく岡元おかもとおおとりもう品物しなものこう』は、シーボルトの蒐書目録もくろくふくまれたり清末きよすえ中国ちゅうごくでも出版しゅっぱんされたりした[84]

中国ちゅうごくがいへの影響えいきょう

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日本にっぽん

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詩経しきょう』が日本にっぽん伝播でんぱしたのは奈良なら時代じだいくだらず、すでに『ふところふう』には『詩経しきょう』の影響えいきょうられる[78]。また、『古今ここん和歌集わかしゅう』の序文じょぶんである真名まなじょ仮名かめいじょには、「和歌わかゆうろく」あるいは「そもそもうたのさまむっつなり、とうのうたにもかくぞあるべき」と『もう大序だいじょの「ろく」をもちいる部分ぶぶんがある[85]国文学こくぶんがくしゃ小沢おざわ正夫まさおは、このうち「真名まなじょ」はより『もう大序だいじょちかく、これに『文選ぶんせんじょや『もう正義まさよし』の解釈かいしゃくくわえながら成立せいりつしたと指摘してきする一方いっぽう[86]、「仮名かめいじょ」ではろく日本にっぽん、またはろくたいする和歌わか実例じつれいてはめがこころみられたとべている[87]小沢おざわわせて、真名まなじょ仮名かめいじょにおいては「ろく」の意味合いみあいに変化へんかまれており、従来じゅうらい政教せいきょう主義しゅぎてき文学ぶんがくかんうすめられていることを指摘してきした[87]

室町むろまち時代ときよ末期まっき清原きよはらせんけんは、平安へいあん中期ちゅうきからあかりけいどう博士はかせ世襲せしゅうした清原きよはら一族いちぞくにあり、経書けいしょ研究けんきゅう家学かがくとしていた[88]かれ学生がくせいたいする講義こうぎろくである『もう詩抄ししょう』は、もうつたえてい箋を解釈かいしゃくするために『もう正義まさよし』を利用りようしつつ、しゅ熹説やりゅう瑾『でんどおりしゃく』、また『五経ごきょう大全たいぜん』をもちいている[89]

江戸えど時代じだいはいると、『詩経しきょう』の研究けんきゅうさかんになり、中村なかむら惕斎中井なかい履軒りけん皆川みなかわ淇園きえん東條とうじょう一堂いちどう仁井田にいだ好古よしふる亀井かめいあきら安井やすい息軒そくけんといった学者がくしゃ著作ちょさくのこしている[78]

詩経しきょう』に由来ゆらいする日本語にほんご言葉ことば

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詩経しきょう』にもちいられた言葉ことばはその頻繁ひんぱん引用いんようされ、現代げんだい日本語にほんご慣用かんようとなっている言葉ことばすくなくない。以下いかにそのれいしめ[90]

  • いちにち三秋さんしゅう - のちに「一日千秋いちじつせんしゅう」に転化てんかし、通用つうようした。
  • 殷鑑いんかんとおざからず - 「いんくにいましめとなるものはとおいところにはなく、直前ちょくぜんなつ滅亡めつぼうにある」が原義げんぎ
  • 偕老同穴かいろうどうけつ - 夫婦ふうふ仲良なかよきてともに年老としおい、やがておなほうむられること。
  • 琴瑟きんしつしょうす - 楽器がっききんと瑟のおと調和ちょうわすること。てんじて、夫婦ふうふなかいこと。
  • 小心翼々しょうしんよくよく - つつしふかく、細部さいぶくばること。
  • 切磋琢磨せっさたくま - 素材そざい立派りっぱしなつくえることをし、学問がくもんしんゆるめずはげむことをす。
  • 他山たざんいし - よそのやまからってきたただのいしも、それを砥石といしとして自分じぶんたまみがくことができる、という意味いみ
  • 多士たし済々せいせい - すぐれた人物じんぶつおおそろっていること。
  • 薄氷はくひょうむがごとし - 非常ひじょう危険きけんなことのたとえ。

詩経しきょう』の一句いっく由来ゆらい社名しゃめい建築けんちくぶつ作品さくひん日本にっぽんおおくあり、遷喬かん鳩居堂きゅうきょどう有斐閣ゆうひかく六義園りくぎえん鹿しかかん静嘉堂文庫せいかどうぶんこ凱風快晴かいせいはそのれいである[91]富山とやまけん高岡たかおかの「高岡たかおか」も由来ゆらいは『詩経しきょう』にある[91]

西洋せいよう

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中国ちゅうごく文化ぶんかヨーロッパへの紹介しょうかいすすなかで、『詩経しきょう』は聖典せいてんであると同時どうじ民衆みんしゅうであるとみなされて受容じゅようされた。初期しょき言及げんきゅうれいは、中国ちゅうごく辞書じしょ編纂へんさんこころみていたニコラ・フレレ英語えいごばんによるもので、かれ1714ねん論文ろんぶんで『詩経しきょう』を解説かいせつしている[92]19世紀せいき後半こうはんになると、啓蒙けいもう主義しゅぎだっして東洋とうよう文化ぶんか理解りかいふかめようとする機運きうんなかで、宣教師せんきょうしジェームズ・レッグ1871ねんに『詩経しきょう』の英語えいごわけ完成かんせいさせた。このわけアーサー・ウェイリーたか評価ひょうかしている[93]

そのは、1880ねんヴィクター・フォン・シュトラウス英語えいごばんドイツわけつくり、さらに1896ねんセラファン・クヴルール英語えいごばんフランス語ふらんすごわけつくった[94]。そのも、アーサー・ウェイリーベルンハルド・カールグレンによって翻訳ほんやくつくられている。

近年きんねん研究けんきゅう

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伝統でんとうてき解釈かいしゃくからはなれたあたらしい『詩経しきょう研究けんきゅうは、フランス社会しゃかい学者がくしゃマルセル・グラネ中国ちゅうごく古史こしべん文人ぶんじん聞一おお日本にっぽん中国ちゅうごく文学ぶんがくしゃ松本まつもと雅明まさあき白川しらかわしず目加田めかだまことらによってすすめられた。

マルセル・グラネは、社会しゃかいがくてきアプローチから『詩経しきょう』の研究けんきゅうすすめ、『中国ちゅうごく古代こだい祭祀さいし歌謡かよう』をあらわした。グラネーは『詩経しきょう』を古代こだい祭礼さいれい舞踏ぶとうにおいて即興そっきょうてきうたわれた文学ぶんがくとしてとらえ、『詩経しきょう』の田園でんえんてき主題しゅだいつもの、村落そんらく恋愛れんあい山川やまかわ歌謡かようけてろんじた[95]。聞一は、民俗みんぞくがくてきなアプローチをって『詩経しきょうしん』『詩経しきょう通義みちよし』をあらわした。これらは『詩経しきょう全体ぜんたい研究けんきゅうにはおよんでいないが、『詩経しきょう』を民謡みんようとしてとらえ、その表現ひょうげんほうするど分析ぶんせきした[95]

また、古史こしべん勃興ぼっこうにより、うたぐふる精神せいしんのもとに、顧頡つよしせん玄同げんどうえびすてきらによって『詩経しきょう』のあらたな研究けんきゅうすすめられた[96]とくえびすてきは、1925ねん今後こんごの『詩経しきょう』の研究けんきゅう方法ほうほう基本きほんとして「聖人せいじんにかかる経典きょうてんとはみなさず、神聖しんせいしない」「古代こだい歌謡かようしゅうとして、社会しゃかい政治せいじ文化ぶんか材料ざいりょうとみなす」「孔子こうしは『詩経しきょう』の編纂へんさんおこなっていない」「『詩経しきょう』は一人ひとり編纂へんさんしたものではなく、一人ひとりつくったものでもなく、またいち時代じだいつくられたものでもない。作品さくひんあいだにはろくひゃくななひゃくねんほどの時代じだいへだたりがある」といった方針ほうしんかかげた[97]

松本まつもと雅明まさあきの『詩経しきょうしょへん成立せいりつかんする研究けんきゅう』は、「きょう」に着目ちゃくもくして『詩経しきょう』の成立せいりつ年代ねんだい考察こうさつし、国風くにぶりふるいものは西にしあまね後期こうきみやび・頌のだい部分ぶぶんひがししゅうであり、そこに村落そんらく舞踏ぶとうから貴族きぞく饗宴きょうえんへの移行いこうった[98]どう時期じき発表はっぴょうされた白川しらかわしずの『稿本こうほん詩経しきょう研究けんきゅう』は、古代こだい歌謡かよう呪術じゅじゅつ行為こういから誕生たんじょうしたものであるとし、『万葉集まんようしゅう』との比較ひかくとおして民俗みんぞくがくてきなアプローチから『詩経しきょう』の研究けんきゅうすすめた[99]。また、目加田めかだまことは、自身じしん研究けんきゅう中国ちゅうごく古代こだい歌謡かようしゅうとして『詩経しきょう』をみ、儒教じゅきょうからはなれた純粋じゅんすい歌謡かよう文学ぶんがくとして『詩経しきょう』をあつか最初さいしょのものであるとべている[100]二松学舎大学にしょうがくしゃだいがく教授きょうじゅいえしんは、過去かこ研究けんきゅうが『詩経しきょう』に先行せんこうする(またはどう時代じだいの)資料しりょうである金文きんぶん資料しりょうがあまり活用かつようされていないことを批判ひはんし、ときおり韻文いんぶんられるしゅうだい青銅器せいどうき銘文めいぶんとの比較ひかくとおして『詩経しきょう』の研究けんきゅうたった[101]

ただし、このような現代げんだいあらたな観点かんてんから『詩経しきょう』の原義げんぎせま研究けんきゅうは、伝統でんとうてきな『詩経しきょう解釈かいしゃくまえてつくられている古人こじん読解どっかいする場合ばあいには参考さんこうにできないということには注意ちゅうい必要ひつようである[102]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ほろびてしまったさんいえを、しょのこされた引用いんようから復元ふくげんするこころみもおこなわれており、その成果せいかきよしちん寿ひさしちんたかしもみの『三家詩遺説考』やおうさきけんの『三家義集疏』などがある。ただ、あやまりがおおてんには注意ちゅうい必要ひつようである[15]
  2. ^ 目加田めかだ日本語にほんごやくは、「そよかぜふうみなみより いていばらのそだつ いばらの若芽わかめわかくして はは苦労くろうかぎりなき。そよふうみなみより いていばらのびぬ ははのめぐみははてなきに うたてやわれらひとならず。浚のほとりの寒泉かんせんは その村人むらびと湿しめ(うるお)すに ななにんはありながら はは苦労くろうなき。うぐいすさえもはるれば おんひとよろこばす ななにんはありながら ははなぐさめむすべもなき」である[51]
  3. ^ 新釈しんしゃく漢文かんぶん大系たいけい』の日本語にほんごやく赤塚あかつかただしまきすみ悦子えつこ)は、「なつ大風おおかぜみなみから、芽吹めぶいたばかりのとげしょうえだける〔みなみからやってきた伊達だておとこが、年頃としごろになりそめたむすめ女心おんなごころきつける〕。とげ小枝さえ(の乙女おとめしん)はわかさにち、母御ははご苦労くろうする。なつ大風おおかぜ(の伊達だてだん)がみなみから(やってきて)、芽吹めぶいたばかりのとげしょうえだける〔乙女おとめしんきつける〕。母御ははごがどんなにかしこく立派りっぱでも、(むすめたちはみな)しとやかになんかしてられない。つめたいいずみでて、浚の邑のしたながれて(とげしょうえだひたす)〔おとこむすめさそしてちぎう〕。むすめななにんもいたとなれば、母御ははご苦労くろうもたいへんだ。(成婚せいこんのめでたきしるしの)うつくしいウグイスが、よき音色ねいろわす。むすめななにんもいたとなれば、母御ははご苦労くろうなぐさめるすべもない」である[50]
  4. ^ 江戸えど時代じだい詩経しきょう名物めいぶつがくしょ以下いか網羅もうらされている。: ちんとし ちょ経学けいがく註釈ちゅうしゃく博物学はくぶつがくあいだ江戸えど時代じだいの『詩経しきょう名物めいぶつがくについて」、ちんとし へん医学いがく科学かがく博物はくぶつ ひがしアジア古典こてんせき世界せかいつとむまこと出版しゅっぱん、2020ねんISBN 978-4-585-20072-7 

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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訳注やくちゅうしょ

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研究けんきゅうしょ概説がいせつしょ

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  • 加賀かが榮治えいじ中國ちゅうごく古典こてん定立ていりつ加賀かが榮治えいじ先生せんせいどう 編集へんしゅう委員いいんかい へん、汲古書院しょいん、2016ねんISBN 9784762965708 
  • 加納かのう喜光よしみつ詩経しきょう 2 古代こだい歌謡かようにおけるあい表現ひょうげん技法ぎほう』汲古書院しょいん、2006ねんISBN 4762927635 
  • 小南こみなみ一郎いちろう『『詩経しきょう』 : うた原始げんし岩波書店いわなみしょてん書物しょもつ誕生たんじょう あたらしい古典こてん入門にゅうもん〉、2012ねんISBN 9784000283038 
  • 白川しらかわしず詩経しきょう : 中国ちゅうごく古代こだい歌謡かよう中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ中公ちゅうこう文庫ぶんこ〉、2002ねん 初版しょはん中公新書ちゅうこうしんしょ、1970ねん
  • ちんちょじょう吉信よしのぶほか やく『『詩経しきょう』の形成けいせい : 儀礼ぎれいから世俗せぞくへ』東方とうほう書店しょてん、2023ねんISBN 9784497223104 
  • 野間のまぶん五経ごきょう入門にゅうもん : 中国ちゅうごく古典こてん世界せかいけんぶん出版しゅっぱんけん文選ぶんせんしょ〉、2014ねんISBN 9784876363742 
  • 村山むらやま吉廣よしひろ詩経しきょう鑑賞かんしょう二玄社にげんしゃ、2005ねんISBN 4544011558 
  • 目加田めかだまこと詩経しきょう講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ〉、1991ねんISBN 4061589539 

論文ろんぶん記事きじ

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辞書じしょ項目こうもく

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  • 日原ひのはら利国としくに へん中国ちゅうごく思想しそう辞典じてんけんぶん出版しゅっぱん、1984ねんISBN 487636043X 
    • 宇佐美うさみ一博かずひろ ちょ詩経しきょう」、日原ひのはら利国としくに へん中国ちゅうごく思想しそう辞典じてん』1984ねんISBN 487636043X 
    • 村山むらやまよしひろ ちょさんいえ」、日原ひのはら利国としくに へん中国ちゅうごく思想しそう辞典じてん』1984ねんISBN 487636043X 

中国ちゅうごく文献ぶんけん

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  • ひろしたたえこう ちょでん璇琮 へん詩経しきょうがく中華ちゅうかしょきょく中国ちゅうごく古典こてん文学ぶんがく史料しりょう研究けんきゅう叢書そうしょ〉、2002ねんISBN 7101028241 

関連かんれん文献ぶんけん

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  • 江尻えじりとおるまことちんあきらげん詩経しきょうがく:「もう稽古けいこへん研究けんきゅう北海道大学ほっかいどうだいがく出版しゅっぱんかい北海道大学ほっかいどうだいがく大学院だいがくいん文学ぶんがく研究けんきゅう研究けんきゅう叢書そうしょ〉、2010ねんISBN 9784832967281 
  • 佐藤さとう武敏たけとし『「詩経しきょう国風くにぶり詩歌しか地域ちいき社会しゃかいけんぶん出版しゅっぱん、2014ねんISBN 9784876363780 
  • 白川しらかわしず詩経しきょう国風くにぶり平凡社へいぼんしゃ東洋文庫とうようぶんこ〉、1990ねんISBN 4582805183 
  • 白川しらかわしず詩経しきょうみやび頌』平凡社へいぼんしゃ東洋文庫とうようぶんこ〉、1998ねんISBN 458280635X 
  • 種村たねむら和史かずし詩經しきょう解釋かいしゃくがく繼承けいしょう變容へんよう:きたそう詩經しきょうがく中心ちゅうしんえて』けんぶん出版しゅっぱん東洋文庫とうようぶんこ〉、2017ねんISBN 9784876364268 
  • 橋本はしもと循; 尾崎おざき雄二郎ゆうじろう詩経しきょう国風くにぶり しょけい筑摩書房ちくましょぼう世界せかい古典こてん文学ぶんがく全集ぜんしゅう〉、1969ねんISBN 4480203028 
  • 目加田めかだまこと詩経しきょうすわえ平凡社へいぼんしゃ中国ちゅうごく古典こてん文学ぶんがく大系たいけい〉、1969ねんISBN 4582312152 
  • 目加田めかだまこと詩経しきょう訳注やくちゅう : 定本ていほん じょう龍溪りゅうけいしょしゃ目加田めかだまこと著作ちょさくしゅう, だい2かん〉、1982ねん 
  • やぶ敏裕としひろ『『もう』の文獻ぶんけんがくてき研究けんきゅう : 出土しゅつど文獻ぶんけんとの比較ひかく中心ちゅうしんに』汲古書院しょいん、2020ねんISBN 9784762966583 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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