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さるこう

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さるつちかえから転送てんそう

さる こう(しん こう、なま没年ぼつねんしょう)は、前漢ぜんかん初期しょき儒学じゅがくしゃつちかえ

経歴けいれき

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人物じんぶつ荀子ながれをくむ学者がくしゃで、ひとしひとであった浮丘はくについてまなぶ。かん高祖こうそが魯にさいしたがって魯の南宮なんぐう高祖こうそ謁見えっけんした。りょきさき時期じき長安ながやす留学りゅうがくし、すわえもとおうりゅうりゅう郢客とともにまなび、りゅう郢客がすわえおうとなるとその世子せいしりゅうつちのえでん教師きょうし)となる。りゅうつちのえ学問がくもんこのまず、すわえおうとなったときさるこうしりぞけたので、じて魯にかえり、くなるまでいえもんなかったという。賓客ひんきゃく謝絶しゃぜつし、魯共おうりゅうあまりすときだけは外出がいしゅつした。

遠方えんぽうから弟子でしひゃく余人よにんたいいえなか詩経しきょう口授くじゅして、注釈ちゅうしゃくしょるいつくらず、うたがわしいものはすべてのぞいてつたえなかった。れいと『春秋しゅんじゅうこくりょうつたえ』をもおしえ、かんはつの魯学領袖りょうしゅうとなった。ぶんみかど時期じき博士はかせとなり、はじめてでんつくった。これを「魯詩」という。

弟子でしらんりょうおう臧・だいちょうたがねがあり、それぞれ太子たいししょうでん大夫たいふとなりたけみかどつかえていたが、この2人ふたりたけみかどすすめてさるこうさしめた。さるこう政治せいじについてのたけみかどいに「をなすは多言たげんすべからず。ただ力行りっこう如何いかにあるのみ」とこたえ、ふとなか大夫たいふにんぜられた。しかし竇太皇太后こうたいごう老子ろうしこのんだのでかれ学派がくはしりぞけられ、ちょうたがねらは自殺じさつし、さるこういえかえり、すうねんぼっした。弟子でし博士はかせとなるものじゅうすうめいで、こうこうじょこうもとせいあな安国やすくにしゅうなつひろし・魯賜・繆生・じょ偃・闕門けいなどが有名ゆうめいである。

参考さんこう

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