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りゅう

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りゅう(りゅう こう、? - 紀元前きげんぜん179ねん)は、劉邦りゅうほう前漢ぜんかん高祖こうそ)の異母弟いぼていりゅうふとしおおやけりゅう煓)の末子まっしゆうすわえおうふうじられた。諡号しごうもとおう

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

りゅう交は劉邦りゅうほうとはちがい、儒学じゅがく詩経しきょう)をまなんだ。はたたいして反乱はんらんこした劉邦りゅうほう従軍じゅうぐんし、たがねとも劉邦りゅうほう側近そっきんつとめ、りゅうとともに別働隊べつどうたいともなった。高祖こうそ6ねん紀元前きげんぜん201ねん)、謀反むほんつみ失脚しっきゃくしてすわえおうから淮陰こうとされたかんしん後任こうにんとして、そのきゅう領土りょうど南北なんぼく分割ぶんかつしたうちの北部ほくぶすわえおうとしてふうじられる。高祖こうそ11ねん紀元前きげんぜん196ねん)、淮南ワイナンおうえいぬの反乱はんらんこしたさいに、荊王りゅう賈をやぶったえいぬのたたかい、やぶれた。

わかころ儒学じゅがくまなんだことから、儒者じゅしゃ重用じゅうようしたことでられる。

りゅう交の子孫しそんに、前漢ぜんかん末期まっき碩学せきがくとしてられるりゅうむかいりゅう父子ふしたかしらくなみ太守たいしゅりゅうしげる[1]りゅうしげる子孫しそんあずますすむ政治せいじりゅう[2]りゅうろう[3]とうりゅうともいくなどがおり、南朝なんちょうそうりゅうひろし高祖こうそたけみかど)もりゅう交の末裔まつえい自称じしょうしていた。[4]

宗室そうしつ[編集へんしゅう]

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脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ とうちょうの『すすむ南北なんぼくあさ史論しろん拾遺しゅうい』のおうあつしげんより。
  2. ^ すすむしょりゅう隗伝
  3. ^ そうしょりゅうたかし宣伝せんでん
  4. ^ そうしょ』のたけみかどだいいちに「かんだかみかどおとうとすわえもとおう交之也。」とある。ウィキソース出典 そう書卷しょかん 本紀ほんぎだいいち (中国ちゅうごく), そうしょ/まき1#たけみかどじょう, ウィキソースより閲覧えつらん 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]