しば

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しば

しば(さい しょう、生年せいねんしょう - 638ねん)は、中国ちゅうごくとう軍人ぐんじんは嗣昇。ほんぬきすすむしゅう臨汾けんずいの鉅鹿ぐんおおやけしばまことつまとう高祖こうそふかしさんじょひら公主こうしゅとうしのげけむりかくじゅうよん功臣こうしんのひとりにげられた。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

幼少ようしょうのころから身軽みがる荒々あらあらしく、武力ぶりょくゆうし、任侠にんきょうとしてられた。ずいまつ太子たいしせんうし備身ににんぜられた。

大業おおわざ13ねん617ねん)、ふかしふとしはらおこりへいすると、間道かんどうとおってふとしばらおもむいた。ときにふかしたてしげる元吉もとよし河東かわとうからたいばらかっていたのに遭遇そうぐうした。けんなりは「手配てはいしょまわるのがはやく、ずい官吏かんり逮捕たいほされる危険きけんがある。いまは身近みぢかしょうぞくとうじたほうが、自分じぶん安全あんぜんはかれるだろう」とった。しば紹は「いけません。ぞくきみからおおやければ、らえて功績こうせきとし、無為むいぬだけです」とった。しば紹がふかしのもとに合流ごうりゅうすると、みぎりょうぐんだいとくちょうにんぜられ、とうぐんふとはらから出発しゅっぱつすると、うまぐんそうかんけんりょうした。さきんじて霍邑城下じょうかにいたり、そう老生ろうせい形勢けいせい偵察ていさつした。「老生ろうせい匹夫ひっぷいさみぬしで、ぐん到着とうちゃくすれば、かならせんしますから、たたかってとりこにすることがてきましょう」とふかし報告ほうこくした。はたしてそう老生ろうせいせんしてきたので、しば紹は力戦りきせんして功績こうせきげ、臨汾をくだし、絳郡平定へいていするのに、いずれも先頭せんとう敵陣てきじんおとしいれたので、みぎこうろく大夫たいふにんぜられた。ずいしょうくわあらわ渡河とかしてくると、しば紹は背後はいごからこれを攻撃こうげきしてやぶった。しょしょうとともに長安ながやす進軍しんぐんした。

武徳ぶとく元年がんねん618ねん)、ひだり翊衛大将軍だいしょうぐん累進るいしんし、臨汾ぐんこうふうぜられた。みんしたがって薛仁杲・そう金剛こんごうおうたかし建徳けんとくらを討伐とうばつした。霍国こうふうぜられ、じつふうせんひゃくたまわり、みぎ驍衛大将軍だいしょうぐんてんじた。吐谷渾とうこう辺境へんきょう侵入しんにゅうすると、いのちけてこれをった。てき高所こうしょめてしば紹のぐんちゅうあめのようにこんだ。しば紹はひとえびす琵琶びわかせ、女子じょしいをわせたところ、てき疑心ぎしんにおちいってるのをやめて様子ようすた。しば紹は敵陣てきじんがゆるんだのをると、精鋭せいえい騎兵きへいひきいて後方こうほうからこれを攻撃こうげきし、潰滅かいめつさせた。

さだかん元年がんねん627ねん)、みぎまもる大将軍だいしょうぐんとなった。さだかん2ねん628ねん)、はりもろ平定へいていすると、ひだりまもる大将軍だいしょうぐんてんじた。

さだかん7ねん633ねん)、鎮軍大将軍だいしょうぐんくわえられ、みぎ驍衛大将軍だいしょうぐん代行だいこうし、譙国こうあらためふうされた。

さだかん12ねん638ねん)、やまいにたおれて、ふとしむね見舞みまいをけ、まもなくくなった。荊州とく追贈ついぞうされ、じょうおくりなされた。

しばあきらたけししばれいがあった。

しばれいふとぼくしょうきょうまもるしゅう刺史しし歴任れきにんしたが、ぼう遺愛いあいらとともに荊王もとけい擁立ようりつくわだてて、ことれて刑死けいしした。

しばあきら安西あんざいみやこまもるつとめたが、おとうとしばれい連座れんざしてみねみなみながされた。のちゆるされて交州とくつとめた。

伝記でんき資料しりょう[編集へんしゅう]