ちょうこう

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ちょうこう

ちょう こう(ちょう こうきん、594ねん - 632ねん)は、中国ちゅうごくとう軍人ぐんじんひろしまきほんぬきしゅうしげるみずけんとうしのげけむりかくじゅうよん功臣こうしんのひとりにげられた。曾孫そうそんいちぎょう

経歴けいれき[編集へんしゅう]

ずいすえおうたかししたで洧州ちょうとなったが、武徳ぶとく元年がんねん618ねん)、洧州刺史ししちぇくるるとともにとう帰順きじゅんした。検校けんぎょう鄒州べつにんぜられ、みぎたけこうちょうなどをつとめたが、られなかった。じょうおそけいとくしんおうみん紹介しょうかいしたため、されてはたおうはいった。武徳ぶとく9ねん626ねん)、みんたてしげる元吉もとよしつにあたって、うらないぼくにうらなわせていたところ、おおやけ謹はそとからはいってきて、うらないぼくかめすてて、「およそうらないぼくとは、さだまっていないことの逡巡しゅんじゅんけっするためにするものです。いまことまっているのに、なんでこれをうらな必要ひつようがあるのですか?ぼく不吉ふきつたら、中止ちゅうしすることができるのですか?」とった。みんおおやけ謹のげんしとした。けんなりぬと、けんなり部下ぶかの馮立・まんてっらが玄武げんぶもんめかかったが、おおやけ謹はひとりもんじて奮戦ふんせんしこれをはばんだ。功績こうせきによりひだりたけしこう将軍しょうぐんにんぜられ、じょうどおぐんこうふうぜられて、じつふういちせんけた。

さだかん元年がんねん627ねん)、だいしゅうみやこただしとなり、食糧しょくりょう運送うんそう手間てまはぶくために屯田とんでんいた。ときの政治せいじ得失とくしつ言上ごんじょうして、ふとしそうみん)にかれの意見いけんおおくはりあげられた。のちにやすしした副将ふくしょうとして突厥攻撃こうげきし、ていじょうとし、頡利あせやぶった。その功績こうせきで鄒国こうすすむふうされた。じょうしゅうとく転出てんしゅつし、寛容かんよう統治とうちられた。さだかん6ねん632ねん)、在官ざいかんちゅうに39さいくなった。ふとしむねして霊前れいぜんで哭礼しようとしたところ、役人やくにんが「たつであるので、いてはいけません」とめた。ふとしむねは「君臣くんしん間柄あいだがら父子ふし間柄あいだがらおなじだ。情感じょうかんうちからいてくるのに、どうしてたつけることができようか」といってあいこくした。みことのりによりひだり驍衛大将軍だいしょうぐん追贈ついぞうされ、じょうおくりなされた。さだかん13ねん639ねん)、郯国こうついふうされた。えい年間ねんかん荊州とくくわえておくられた。

ちょうだいぞうちょうだいもとちょう大安たいあんがいた。ちょうだいぞうぎ、かん吏部さむらいろうのぼった。ちょうだいもとりゅうさく2ねん662ねん)に東台とうだい舎人とねりとなり、おさむ国史こくしね、ふところしゅうちょうわった。『しょ』・『ずいしょ』の編纂へんさんにたすざわった。ちょう大安たいあんおおとり2ねん677ねん)にどう中書ちゅうしょ門下もんかさんひんのぼった。あきらふところ太子たいしけんいのちによりりゅう納言なごんらとともに范曄こう漢書かんしょ』の注釈ちゅうしゃくにたずさわった。えいたかし元年がんねん680ねん)にけん廃位はいいされると、ちょう大安たいあんひろししゅう刺史しし左遷させんされた。ひかりたく元年がんねん684ねん)によこしゅう司馬しばとしてくなった。

伝記でんき資料しりょう[編集へんしゅう]