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べにふすまぐん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

べにふすまぐん(こうおうぐん)とは、13世紀せいき初頭しょとうきむ治下ちか山東さんとう地方ちほうこった叛乱はんらんぐん名称めいしょう当初とうしょみなみそう皇帝こうてい主君しゅくんほうじてかね戦闘せんとうひろげたが、 きんそのものがモンゴル帝国ていこく侵攻しんこうによって衰退すいたいするなかで、最終さいしゅうてきにはあきららにひきいられてモンゴル帝国ていこく降伏ごうぶくするにいたった。

きむちょうがわからは「べにふすまぞく」、みなみそうがわからは「忠義ちゅうぎぐん」とそれぞればれており、モンゴル史料しりょうの『元朝がんちょう秘史ひし』でも「フラーン・デゲル(Hula'an Degel)」として言及げんきゅうされている[1]

名称めいしょう[編集へんしゅう]

べにふすまぐん」という名称めいしょうについて、『きむふみ』は「そのとう往々おうおうにしてたがいに団結だんけつして各地かくち略奪りゃくだつし、みなべにふすまたがいに識別しきべつしたため、『べにふすまぞく』とごうした」と記載きさいしている[2]。すなわち、中国ちゅうごく史上しじょうあかまゆらんはばらんべにはばらん同様どうように、戦場せんじょう目立めだちやすい目印めじるしつことで同士討どうしうちをけるために「べにふすま」をまつわったことがこの名称めいしょう由来ゆらいであった[3]。また、「べにはばまつわった反乱はんらんぐん」はもと末明ほのかはつこったものが有名ゆうめいであるが、実際じっさいにはきたそうまつかね侵攻しんこう江北こうほく一帯いったいはじめてみられたものであり、きたそうまつべにはばかねまつべにふすまげんまつべにはばいつにした集団しゅうだんとみられる[4]。これらの叛乱はんらん集団しゅうだんとくに 「べに」をたっとんだのは、宋朝そうちょうが「とく王朝おうちょう」であることからあか=べに宋朝そうちょう象徴しょうちょうするいろなされ、北方ほっぽう民族みんぞく王朝おうちょうおんなしん=きむ、モンゴル=大元おおもと支配しはい抵抗ていこうするシンボルとなされたためとかんがえられている[5]

なお、きたそうまつべにはばかねまつべにふすまげんまつべにはば個人こじんてき武勇ぶゆうけた任侠にんきょうてき性格せいかくゆうする人物じんぶつ首領しゅりょういただくことがおおかったてんでも共通きょうつうしており、このような指導しどうしゃもとまつ原型げんけい成立せいりつした『みず滸伝』の好漢こうかんのモチーフになったとかんがえられている[6]

背景はいけい[編集へんしゅう]

11世紀せいき初頭しょとうより華北かほく支配しはいしたかねは、12世紀せいき後半こうはんむね治世ちせい全盛期ぜんせいきむかえたものの、その後継こうけいしゃあきらむねころから治世ちせいみだれがえつつあった。とくに、北方ほっぽうちぎりじん叛乱はんらんこったこと、チンギス・カンがモンゴル帝国ていこく建国けんこくしたことにより北辺ほくへん防備ぼうび(かねさかいごう)をかためなければならなくなったことは、きむりょう各地かくちおも負担ふたんとなってのしかかった[7][8]。これを好機こうきたのがかねうばわれた領土りょうど奪還だっかん目指めざみなみそうで、1204ねんから1208ねんにかけてみなみそうきむりょう侵攻しんこうした(一連いちれん争乱そうらん後世こうせいひらき禧用へい」とばれる)。このとき山東さんとう地方ちほうきむみなみそうあいだ戦闘せんとう最前線さいぜんせんとなり、生活せいかつ不安定ふあんていした山東さんとう地方ちほうでははやくも群盗ぐんとうこりはじめた。 後述こうじゅつするように、べにふすまぐんだいいち世代せだいにあたるりゅう・楊安はこのころ活動かつどうはじめている。さらに、1211ねんからはモンゴル帝国ていこくかね侵攻しんこうはじまり、きつねみねたたか惨敗ざんぱいきっしたかねはモンゴルぐんぜん領土りょうど一方いっぽうてき蹂躙じゅうりんされた[9]。1214ねんには一度いちど両国りょうこくあいだ和議わぎ成立せいりつしたことによりきむちょうがわ余裕よゆうまれ、このころふく・褐安だいいち世代せだい討伐とうばつされている。

しかし、かね朝廷ちょうてい開封かいふうへの遷都せんと強行きょうこうしたことをけにモンゴルぐん再度さいど侵攻しんこうまねき、一連いちれん戦乱せんらんにより黄河こうが以北いほく一帯いったい事実じじつじょう政府せいふ状態じょうたいおちいった[10]。このような状況じょうきょうなかきむりょう各地かくち自衛じえい自治じち組織そしき成立せいりつし、幾度いくどかの統廃合とうはいごうて「かん人世じんせいこう」とばれるだい勢力せいりょく成長せいちょうしていった。しかし、山東さんとう地方ちほうのみは打倒だとうきんかかげるべにふすまぐん再編さいへんするにいたり、りゅう・楊安系譜けいふあきらいしだい世代せだいべにふすまぐん活躍かつやくはじめることとなった。

歷史れきし[編集へんしゅう]

べにふすまぐん歴史れきしりゅう・楊安だい勢力せいりょく活躍かつやくしていた時期じきと、あきららが活躍かつやくしていた時期じきおおきくけられる[11]。また、べにふすまぐんだいいち世代せだいたる楊安りゅうらについては、現在げんざいえきと莒州をむすせんおおきく勢力せいりょくけんけられるてん特徴とくちょうとしてげられる[12]。すなわち、楊安ひきいる集団しゅうだんえきと莒州をむすせんよりひがしにかわ平原へいげん山東さんとう半島はんとう支配しはいいており、りゅうげん山東さんとうしょう中央ちゅうおう山地さんち一帯いったい拠点きょてんとしていた[13]。これらふたつの勢力せいりょくけんは、ほぼ当時とうじ行政ぎょうせい区画くかく(山東さんとう東路あずまじ山東さんとう西にし)とほぼ合致がっちしていた[14]

りゅう・楊安時代じだい[編集へんしゅう]

山東さんとう地方ちほうはんかね気運きうん醸成じょうせいされた直接的ちょくせつてきなきっかけは、12世紀せいきまつ実施じっしされた「おかせうらないかん分配ぶんぱい政策せいさくであったとかんがえられている[15][16]。これは、かね軍事ぐんじりょく根幹こんかんをなすもうやすはかりごとかつ経済けいざいてき窮乏きゅうぼう救済きゅうさいするために「おかせうらないかん (不法ふほう占拠せんきょされたかん)」を回収かいしゅうしてもうやすはかりごとかつ分配ぶんぱいするというものであったが、かん名目めいもく民有みんゆう没収ぼっしゅう強行きょうこうされることもおおく、先祖せんぞ伝来でんらい土地とちうばわれた漢人かんどはんかね運動うんどう急速きゅうそくひろまった[17]。このような情勢じょうせいで、はやくも1205ねん5がつ27にちにはあきらみなみそう派遣はけんしたしゅひろしんで蜂起ほうきし、みずけん占拠せんきょするという、「べにふすまぐん」の先駆さきがけとなるような事件じけんこっている。しかし、金側きんがわつよ抗議こうぎけたみなみそうはあっさりとあきらしゅひろしらを見限みかぎり、しゅひろしかねみなみそう国境こっきょうでさらしくびとされてしまった[18]。このように一方いっぽうてき山東さんとうはんかね運動うんどう利用りようするが、状況じょうきょう次第しだいですぐに見捨みすてるようなみなみそう態度たいどは、のちべにふすまぐんがわから見限みかぎられる遠因えんいんになったとひょうされている[19]。そして 1206ねんからはみなみそうによるきむちょう出兵しゅっぺい(ひらき禧用へい)が開始かいしされ、1208ねんいた一連いちれん戦闘せんとうにより前線ぜんせんとなった山東さんとう地方ちほうさら疲弊ひへいふかめた[20]

初期しょきべにふすまぐん代表だいひょうてき指導しどうしゃ一人ひとりである楊安泰和やすかず年間ねんかんいち叛乱はんらんこしたが失敗しっぱいし、かね降伏ごうぶくし「必勝ひっしょうぐん」とばれる義勇軍ぎゆうぐん副官ふっかんにんじられていた人物じんぶつであった[21][22][23]。しかし、たいモンゴル戦線せんせん派遣はけんされた楊安きつねみねたたかいでのだい敗北はいぼくけて山東さんとう地方ちほうのがかえり、1211ねん(大安たいあん3ねん)にふたたそむいて山東さんとう一帯いったいを刧掠した[24][25]。しかし貞祐ていゆう2ねん4がつかねあさとモンゴルぐんあいだ一時いちじてき和議わぎむすばれると、かねあさぼく安貞やすさだえき派遣はけんして本格ほんかくてきべにふすまぐん討伐とうばつ開始かいしした。ぼく安貞やすさだはまずえき都城みやこのじょうひがしで楊安やぶったものの、楊安敗走はいそうしたさきで萊州のじょなんじけんくだして再起さいきした[26][27]さらに、のぼりしゅう刺史ししの耿格が自発じはつてきったことで楊安勢力せいりょくはますます拡大かくだいし、楊安つい皇帝こうていごうしょうして「てんじゅん」と改元かいげんするにいたった[28][29]いきおいにじょうじて楊安ひがしではやすしうみしゅう陥落かんらくさせ、西にしでは濰州をめ、その配下はいかの「元帥げんすいかたくるわさんみつしゅう拠点きょてんに沂州・うみしゅう平定へいていした[30]

このような楊安うごきに刺激しげきけ、なだしゅうあきらが、しゅうもとふかしゅう・祁州で、調しらべ天羽あもういししゅうで、それぞれ前後ぜんごして蜂起ほうきするにいたっている[31]一方いっぽうりゅうは楊安叛乱はんらんこした翌年よくねんの1212ねんたいやす決起けっきしたとつたえられる[32]たいやす泰山たいざんみなみふもと位置いちする土地とちであり、りゅうべにふすまぐん先行せんこうして泰和やすかず年間ねんかん泰山たいざん叛乱はんらんこした集団しゅうだん系譜けいふものとみられる[33]。このころ、「べにふすまぐんほうくるわさんむらぎれば、きょみんはこれをむかた」との記録きろくもあり[34]べにふすまぐん山東さんとう住民じゅうみんより支持しじけていたようである[35]

同年どうねん7がつ17にちぼく安貞やすさだひきいるかねぐん主力しゅりょくじょなんじけんひきいる「さんしゅうしゅうじゅうまん」の叛乱はんらんぐんあきら邑城のひがし激突げきとつし、戦闘せんとうひるはじまってれまでつづき、りょうぐんは30さとあまりを転戦てんせんしたが、つい叛乱はんらんぐん敗北はいぼくわった[36]さら同月どうげつとげななひきいる4まんぐんからしかわぼく安貞やすさだひきいるかねぐん激突げきとつし、ここでもかねぐん大敗たいはいし、莱州にのがれた。やすしうみしゅう刺史ししふみ潑立は20まんへいもっ城壁じょうへきひがしかねぐんふせごうとしたがやぶれ、籠城ろうじょうはじめた。さいしゅうまもりがかたいとぼく安貞やすさだは曹全・ちょういさおたかそうぶくらをいつわってじょなんじけん投降とうこうさせ、7がつ24にち(ちょう)よるぜんぐんしろめると同時どうじに曹全らが内応ないおうし、ついさいしゅう陥落かんらくした[37]じょなんじけん乱戦らんせんなかころされ、楊安単身たんしんのがれたものの、耿格・潑立らもみなきんぐん投降とうこうした[38][39]。楊安勢力せいりょく瓦解がかい決定的けっていてきとなったとかね同年どうねん11がつに楊安とその配下はいかのぞいて山東さんとう地方ちほう恩赦おんしゃしたため、形成けいせい不利ふりたに楊安ふねって岠嵎さん(現在げんざいの栖霞けんひがし)できょくなりらの襲撃しゅうげきころされるにいたった[40][41]。このように、楊安勢力せいりょく結局けっきょくさいしゅう敗戦はいせん決定けっていとなっておおくの構成こうせいいんかね降伏ごうぶくし、楊安自身じしんころされるにいたったが、楊安いもうとよんむすめ残党ざんとうひきいてすりはたやま拠点きょてんとし、のちあきら勢力せいりょく合流ごうりゅうするにいた[42]

楊安勢力せいりょく壊滅かいめつさせたぼく安貞やすさだは、1215ねん(貞祐ていゆう3ねん)2がつより楊安ならべにふすまぐん指導しどうしゃであるりゅう討伐とうばつかった。ぼく安貞やすさだは紇石れつきばわれとうとともにりゅう拠点きょてんであるうまみみさんめ、りゅう配下はいかの4せんにんあまりをころし、8せんにん降伏ごうぶくさせるだい勝利しょうりた。そのぼく安貞やすさだ宿やどしゅうつつみひかえの夾谷せきうら哥と合流ごうりゅうしてりゅうのもうひとつの根拠地こんきょちであるだいあわ堌をめ、りょうぐんあいだ激戦げきせんひろげられた。最終さいしゅうてきに夾谷せきうらひきいる軍団ぐんだん北門きたもんから城内きうちはいり、べつどうたいみずふさが奪取だっしゅし、ついに夾谷せきうら哥によってりゅう負傷ふしょうしてらえられた[43]参謀さんぼうかんちぇ天佑てんゆうにせふとしおもえゆたからもらえられてりゅう勢力せいりょく壊滅かいめつし、りゅう自身じしんのちけいとされた[44][45]。これ以後いごまごくにちょうなんじかじ残党ざんとうすみ南方なんぽうめん抵抗ていこうつづけていたが、同年どうねん4がつかんがお弼は使者ししゃ派遣はけんして投降とうこううながし、まごくにちょうなんじかじはこれをれた。せんむねゆるしをかんがお弼はひん官位かんいもってらの投降とうこうれ、まごくには濰州刺史ししに、ちょうなんじかじは淄州刺史ししにそれぞれにんじられている[46]

なお、しゅう泗水しすい出身しゅっしんの赫定なる人物じんぶつりゅう・楊安残党ざんとうあつめてたい安藤あんどうしゅうたんしゅうとう支配しはいし、百官ひゃっかんいて「だいかん皇帝こうてい」をしょうした[47]。赫定がべにふすまぐん頭目とうもくのようにみなみそう皇帝こうていたよろうとしなかったのは、きむりょうからみなみそうりょうへの亡命ぼうめいきびしくきんじて淮河をわたろうとしたものたち射殺しゃさつしてきたみなみそう失望しつぼうしたためとかんがえられている[48]。しかし、郝定もまた1216ねん5がつぼく安貞やすさだ討伐とうばつけて9まんにんころされ、3まんにんあまりが投降とうこうし、郝定自身じしんらえられてその勢力せいりょく瓦解がかいした[49]。こうしてべにふすまぐんだいいち世代せだいはほぼ壊滅かいめつし、残党ざんとう潜伏せんぷくせざるをえなくなった[50]

あきら時代じだい[編集へんしゅう]

このような情勢じょうせい注目ちゅうもくされたのがあきらいし珪らべにふすまぐん残党ざんとうで、すわえしゅうから沈鐸・こうただしひきいるきたぐん出撃しゅつげきするのにあわせてあきら・楊友・りゅうあきらいしかずらたいら福徳ふくとくひろべによりどころぐん残党ざんとう使者ししゃ派遣はけんされた。かねあさによる討伐とうばつによって困窮こんきゅうしていたべにふすまぐん残党ざんとう順次じゅんじみなみそう帰順きじゅんして「忠義ちゅうぎぐん」とばれ、みなみそう支援しえんけたあきららは同年どうねん12がつちゅうりょしゅうみつしゅうあおしゅうなどをしばたあいだ占領せんりょうした。

りゅう・楊安べにふすまぐんだいいち世代せだい討伐とうばつされたのとほぼどう時期じき、モンゴル帝国ていこくではチンギス・カンが本国ほんごく帰還きかんし、華北かほく経略けいりゃくは「大師だいし国王こくおう」としょうしたムカリ一任いちにんされるようになった。これと並行へいこうしてモンゴルのたいきん政策せいさくわりはじめ、従来じゅうらい略奪りゃくだつ主体しゅたい侵攻しんこうではなく現地げんち有力ゆうりょくしゃ(=かん人世じんせいこう)を帰順きじゅんさせることちからはじめたため、かねあさ河北かほくでの支配しはいけん事実じじつじょう喪失そうしつすることとなった[51]貞祐ていゆう5ねん(1217ねん)4がつ北方ほっぽうでの支配しはいけんうしなったかねあさ失地しっち南方なんぽう挽回ばんかいせんとみなみそう侵攻しんこう開始かいししたが、このために山東さんとう地方ちほうにあって自立じりつするあきらべにふすまけい勢力せいりょくがにわかに注目ちゅうもくされるにいたった[52]。このとき、かつて楊安したにいたがみなみそう亡命ぼうめいした沈鐸・さきらがすわえしゅうおうじゅんいのちけてべにふすまけい勢力せいりょく味方みかたれるべく活動かつどうし、ここにいたって食料しょくりょう不足ふそくなやんでいたべにふすまけい首領しゅりょう次々つぎつぎみなみそう帰順きじゅん表明ひょうめいした[52]みなみそうがわぐんを沈鐸とこうただしこうけてきむちょうりょう侵攻しんこうしており、あきらは5せんへいひきいてこうただしこうぐん合流ごうりゅうしてうみしゅうめたが、このとき食料しょくりょう不足ふそくのためいち東海とうかい退却たいきゃくしている[52]。12月、あきらあらためてへいけて莒州攻撃こうげきし、守将しゅしょうがま察李らえることに成功せいこうした[53]。また、配下はいかべつしょうみつしゅう攻略こうりゃくし、あにぶくあおしゅう平定へいていしたため、あきら功績こうせきみとめたみなみそう朝廷ちょうてい1218ねんきょうじょう2ねん/よしみてい11ねん/つちのえとら正月しょうがつ10日とおかみずのえうま)に正式せいしきあきらきょう東路あずまじそうかん任命にんめいした[52][54]おうじゅんきたぐん勝利しょうりかさねるのを朝廷ちょうていいまこそ中原なかはら恢復かいふくときであると進言しんげんしたが、みなみそう朝廷ちょうてい実権じっけんしゃであった丞相じょうしょうふみわたるとおひらき禧用へい失敗しっぱいした経験けいけんからきたには慎重しんちょう態度たいどしめした。一方いっぽう、これよりあきららはみなみそうより「忠義ちゅうぎぐん」とばれるようになり、また「忠義ちゅうぎかて」と呼称こしょうされた1まん5せんにんぶん食糧しょくりょうみなみそうよりべにふすまぐん=忠義ちゅうぎぐん支給しきゅうされるようになった[55]。ただし、この「忠義ちゅうぎかて」はべにふすまぐんみなみそう帰順きじゅんさせた立役者たてやくしゃの沈鐸らに優先ゆうせんして支給しきゅうされており、これがこうべにぐんどうしでの内部ないぶ対立たいりつ遠因えんいんとなった[56]

しかし1218ねんはいってからは金側きんがわ逆襲ぎゃくしゅう開始かいしし、4がつ22にちちょうしげる)にはみなみそうぐんにかわ西にしやぶれ、来援らいえんしたあきら敗走はいそうした[57][58]。また、4がつ27にちつちのえたつ)にはみつしゅうあきらやぶれて将校しょうこうすうじゅうにん士卒しそつ700にんかねぐんり、5月4にちきのえいぬ)には莒州・日照ひでりけんみなみでも招撫副使ふくし摑阿魯答にやぶれて40にわたって追撃ついげきけた[58][59]。なお、あきら協力きょうりょく関係かんけいにあったこうただしこううみしゅう侵攻しんこうしたものの2がつに朐山で戦死せんししたが、その勢力せいりょくあきら継承けいしょうしたようで、同年どうねん5がつにはあきらうみしゅうへの侵攻しんこうみなみそうがわもうている[60]。6月からはうみしゅう包囲ほうい開始かいししたが主将しゅしょうおもね罕の奮闘ふんとうによってなかなからず、7がつには鄆州・たんしゅう・邳州・じょしゅうから援軍えんぐんとともに高橋たかはし戦闘せんとうしたが勝利しょうりられず、やむなくいしあき退すさもりした。そのあきら方向ほうこうえてみつしゅう再度さいどめ、9月11にちかのえとら)にはようやく主将しゅしょう摑を捕虜ほりょとしてみつしゅう占領せんりょうすることに成功せいこうした[61][62]

忠義ちゅうぎぐん内紛ないふん[編集へんしゅう]

1219ねんきょうじょう3ねん/よしみてい12ねん/おのれ)にはいころには山東さんとうからの流民りゅうみん際限さいげんなくみなみそうりょうのがれてきたためみなみそうがわ物資ぶっし不足ふそくとなり、また罷免ひめんされたおうじゅん後任こうにんけんすわえしゅうりょうへい忠義ちゅうぎかて削減さくげんしてさざなみ水軍すいぐん自然しぜん崩壊ほうかいはかったため、もっと勢力せいりょくちいさかったいし珪が食料しょくりょう不足ふそくおちいった[60]いつめられたいし珪らは同年どうねん1がつに「忠義ちゅうぎかて」をはこふねうばい、2がつには2まんへいひきいて淮河をわたすわえしゅうみなみもん攻撃こうげきするという事件じけんこした(みなみもんへん[60]。これをけてはりへい説得せっとくのためあきらいし珪のした派遣はけんし、いし珪はあきら仲介ちゅうかいれて撤兵てっぺいし、淮西に侵攻しんこうしたかねぐんむかつために盱眙方面ほうめんうつることとなった[60]同年どうねんうるう3がつあきら根拠地こんきょち東海とうかい選抜せんばつした精鋭せいえいぐんひきいてすわえしゅうから出撃しゅつげきし、忠義ちゅうぎ統轄とうかつさきひきいるけんすい忠義ちゅうぎぐんとともにかねぐんやぶったが、 あきらは「づち」の異名いみょうかねもうしょう乞石れつきばわれこたえ安貞やすさだやぶ大功たいこうてた[60][63]ぼく安貞やすさだは楊安りゅうべにふすまぐんだいいち世代せだい討伐とうばつした張本人ちょうほんにんであり、この一戦いっせんによってあきら声望せいぼう忠義ちゅうぎぐんなか随一ずいいちになったとみられる[60]。6月にはさらえき拠点きょてんとするかね元帥げんすいちょうりん投降とうこうさせたため、これによってあおしゅう・莒州・みつしゅうのぼりしゅう・萊州・濰州・淄州・はましゅう・棣州・やすしうみしゅうすみみなみの12しゅうあきら投降とうこうし、7がつちゅうには山東さんとうだい部分ぶぶん経略けいりゃく完了かんりょうした[60][64]

同年どうねん9がつこう淮制おけ使発展はってん解消かいしょうするかたちで淮東せいおけ使成立せいりつし、以後いごこの機関きかんべにぐん=忠義ちゅうぎぐん監督かんとくする地位ちいいた[65]一方いっぽうどう時期じきあきら広州こうしゅう観察かんさつ使ひだりまもる将軍しょうぐんきょうひがし忠義ちゅうぎしょぐん統制とうせいすわえしゅうちゅうはこ任命にんめいされたが、これは名実めいじつともにあきらぜん忠義ちゅうぎぐん統率とうそつしゃ地位ちいみとめられたことを意味いみした[66]。しかし、歴代れきだいだれひがしせいおけ使忠義ちゅうぎぐんへの統制とうせいつよめようときびしい態度たいどのぞんだため、としるごとに淮東せいおけ使忠義ちゅうぎぐん対立たいりつ激化げきかし、結果けっかとして5にんだれひがしせいおけ使うち3にんまでもが忠義ちゅうぎぐん叛乱はんらんって殺害さつがいされるという結果けっかわっている[65]。9月14にち丙午ひのえうま)にあたらしく主管しゅかん淮東せいおけ公事こうじけん節制せっせいきょうひがし河北かほく軍馬ぐんば任命にんめいされた賈渉は「むかしの患はほろびきんだけであったが、いまの患はさら山東さんとう忠義ただよし北辺ほくへん(=モンゴル)がくわわっている(むかし患不ほろびきんいま患又ゆう山東さんとう忠義ただよし与北よぎた)」とひょうしており、忠義ちゅうぎぐん潜在せんざいてき敵対てきたい勢力せいりょくとみてことあるごとに忠義ちゅうぎしょぐん勢力せいりょくぐことをはかった[65]。賈渉はまずいし珪・ちんたかしただしなつらのぜんぐんけてりょうたむろとし、あきらぐんとりでとした[60]。そして陝西せんせい義勇ぎゆうほうもちいてしょぐん淘汰とうたし、さんまんにん整理せいりし、のこりのろくまんにんじゃくずみして忠義ちゅうぎぐんとして登録とうろくし、みなみぐんななまんにん監視かんしいた[60]一方いっぽうで、これと並行へいこうしてあきらぐんたいしては2まんにんぶんぜにかて増額ぞうがくされ、すわえしゅうしたがえたむろすることをゆるすという懐柔かいじゅうさくこうじている[60]

1220ねんきょうじょう4ねん/よしみてい13ねん/かのえたつ)にはいると朝命ちょうめいけて出兵しゅっぺいし、みなみそううちもとめたいむみのる協力きょうりょくによってしゅうひろししゅうおんしゅうとくしゅうふところしゅうまもるしゅうひらきしゅう相州あいしゅうの9しゅう平定へいていした。そのすわえしゅかん胎の忠義ちゅうぎぐん部隊ぶたいひきいて東平とうへい攻撃こうげきしたが、かん胎忠義軍ぎぐん本来ほんらいいし珪の影響えいきょうにある部隊ぶたいであり、あきら忠義ちゅうぎぐんにも影響えいきょうりょく浸透しんとうはかっていたようである[66][67]

ぜん忠義ちゅうぎぐん併合へいごう[編集へんしゅう]

1220ねん6がつさざなみすい忠義ちゅうぎぐん統轄とうかつしていたさきが、みなみそう政府せいふ暗殺あんさつされるという事件じけんこった[66]。賈渉をはじめみなみそうがわではさき死後しごみなみそうから派遣はけんしたしょう忠義ちゅうぎぐんひきいさせようとたくらんでいたが、予想よそうはんして裴淵・そういさおちんまご武正たけまさおうよしふかしちょうやまちょうともれんすい忠義ちゅうぎぐんいし珪をあらたな首領しゅりょうとしてむかれた[66]。このような経緯けいいからみぎ珪はみなみそう朝廷ちょうてい敵視てきしされ、同年どうねんまつにはついにモンゴル帝国ていこく単身たんしん投降とうこうするにいたった[66][68]のこされたさざなみすい忠義ちゅうぎぐんあきらぐん吸収きゅうしゅうされ、またいし珪配かん胎忠義軍ぎぐんについても、あきらまち忠義ちゅうぎみつるにんじられたことで支配しはいはいった[66][69]

1221ねんきょうじょう5ねん/よしみてい14ねん/からし正月しょうがつ、賈渉にたいしてりゅうたくとともに泗州をめることをい、ゆるされると盱眙より淮河をわたってまず泗州の西城さいじょうめた。これをけてかねあさがわでは「づち」乞石れつきばわれこたえ派遣はけんし、あきらはこれに大敗たいはいして撤退てったいせざるをえなくなった[70]1222ねんもとひかり元年がんねん/よしみてい15ねん/みずのえうま)2がつにはりゅうたくふたたび泗州西城にししろ奪取だっしゅし、さらに乞石れつきばわれこたえ配下はいかちょうめぐみあきら寝返ねがえったことでその部下ぶかすうせんにん配下はいかれることとなった。またこのころしおじょうめぐってあきらあにぶくちょうりん対立たいりつし、ちょうりんもまたいし珪と同様どうようにモンゴルに投降とうこうしたが、のちに邢徳というちょうりん副官ふっかん配下はいかひきいて復帰ふっきしたため、あきら打撃だげきあたえるまでにはいたらなかった[68][71]

みなみそうとの対立たいりつ[編集へんしゅう]

1223ねんもとひかり2ねん/よしみてい16ねん/みずのとひつじ)5がつ初代しょだいひがしせいおけ使の賈渉が忠義ちゅうぎぐん反抗はんこうってすわえしゅうされるという事件じけんき、ぶんしんでは力不足ちからぶそくとみたみなみそう朝廷ちょうてい武臣ぶしんたる淮西みやこみつるもとこく朝議ちょうぎ大夫たいふ・淮東やすなでせいおけ使抜擢ばってきした[65]もとこくみなみそう政府せいふ期待きたいどお忠義ちゅうぎぐん弾圧だんあつ遂行すいこうしたが、これに反発はんぱつするあきらみなみそうがわみぞはよりふかまった[72][65]1224ねん正大せいだい元年がんねん/よしみてい17ねん/きのえさる)11月、もとこくりょう淮馬ぐん13まんにんすわえしゅうぐすくがいあつめて忠義ちゅうぎぐん威圧いあつしたが、このようなもとこく態度たいどあきら忠義ちゅうぎぐん反感はんかんあつめた[65][73]

1225ねん正大せいだい2ねん/たからけい元年がんねん/おつとり正月しょうがつふみわたるとお策動さくどうにより帝位ていい継承けいしょうから排除はいじょされたすみおうちょうみずうみしゅううつされたが、土豪どごうはんみずのえはんはじめなどがくわだてた反乱はんらんまれた。はんはじめひそかにあきら連絡れんらくしてすみおう擁立ようりつすることをらせ、あきら期日きじつわせて呼応こおうすることをやくしたが、じつ形勢けいせい観望かんぼうするままたすけてくれなかった。あきら援軍えんぐん到着とうちゃくせず、クーデターの謀議ぼうぎ発覚はっかくすることを憂慮ゆうりょしたはんみずのえらはしおぞく1せんにんあまりをあつめてみずうみしゅうじょうにいたすみおうたずねて推戴すいたいし、あきらぐん20まんすみおう擁立ようりつのため南下なんかしてくると扇動せんどうした。しかし、はんみずのえれが烏合うごうしゅうぎないという事実じじつづいたすみおう朝廷ちょうていへんげ、はんみずのえはんはじめなどはみな誅殺ちゅうさつされた。みずうみしゅうでの事変じへん驚愕きょうがくしたふみわたるとお刺客しかくおくすみおう殺害さつがいしたが、あきら結託けったくしたというはんみずのえらの虚言きょげん人々ひとびとおおいに動揺どうようしたとの逸話いつわつたえてくれるように、このころあきらぐんすで強大きょうだい武力ぶりょくとしてみなみそう朝廷ちょうていから警戒けいかいされていたようである[66][74]同年どうねん2がつえきぜんいのちけたりゅう慶福よしとみすわえしゅう叛乱はんらんこすと、もとこく襲撃しゅうげきけて落命らくめいしてしまった(りゅう慶福よしとみらん)。この叛乱はんらんにはへいすうせんひきいてあげしゅう駐屯ちゅうとんしていたりゅうあきら呼応こおうし、盱眙のみなみぐんにも不穏ふおんうごきがあり、忠義ちゅうぎぐん連鎖れんさてき叛乱はんらんこすことをおそれたみなみそう朝廷ちょうてい結局けっきょくあきらたちをばっすることができなかった[65]。このような経緯けいいみなみそう朝廷ちょうてい忠義ちゅうぎぐんたい懐柔かいじゅうさくてんじ、さん代目だいめひがしせいよろい使にはあきら親交しんこうあつかったじょ晞稷を任命にんめいした[65]じょ晞稷は当初とうしょこそ叛乱はんらんこしたものたちを斬首ざんしゅするなどきびしい態度たいどいどんだが、のちには彭義あきら対立たいりつしたあきらすくうなど、あきら味方みかたする行動こうどうおおかった[75][76][77][78]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 村上むらかみ1976,160-161ぺーじ
  2. ^ もとまき102列伝れつでん40ぼく安貞やすさだでん,「楊安りゅうはい河北かわきたざんやぶ干戈かんかしょうひろ。其党往往おうおうふくしょう団結だんけつ所在しょざい寇掠、みなころもくれないおさめふすま以相識別しきべつごうべにふすまぞく』。官軍かんぐん雖討不能ふのうじょ也。大概たいがいみなあきらくに用安ようあんあお焉」
  3. ^ 相田あいだ1980,56-57ぺーじ
  4. ^ 相田あいだ1980,58ぺーじ
  5. ^ 相田あいだ1980,57ぺーじ
  6. ^ 相田あいだ1980,58ぺーじ
  7. ^ なにほか1992,461ぺーじ
  8. ^ はやし1980,64ぺーじ
  9. ^ はやし1980,64ぺーじ
  10. ^ はやし1980,64ぺーじ
  11. ^ はやし1980,64ぺーじ
  12. ^ 池内いけうち1977,32ぺーじ
  13. ^ 池内いけうち1977,32-33ぺーじ
  14. ^ 池内いけうち1977,33ぺーじ
  15. ^ 池内いけうち1977,30ぺーじ
  16. ^ なにほか1992,463-464ぺーじ
  17. ^ 池内いけうち1977,30-31 ぺーじ
  18. ^ 池内いけうち1977,31ぺーじ
  19. ^ 池内いけうち1977,32ぺーじ
  20. ^ なにほか1992,462-463ぺーじ
  21. ^ はやし1980,65ぺーじ
  22. ^ 池内いけうち1977,33ぺーじ
  23. ^ なにほか1992,466ぺーじ
  24. ^ 池内いけうち1977,33ぺーじ
  25. ^ もとまき102列伝れつでん40ぼく安貞やすさだでん,「はつえき都県とけんじん楊安こくしょう無賴ぶらい、以鬻くらざいためぎょうじんよびため『楊鞍』、とげめい楊安泰和やすかずそう山東さんとう無賴ぶらい往往おうおうあい聚剽かすめみことのりしゅうぐん招捕やすくだ、隸諸ぐんるいかん刺史しし防禦ぼうぎょ使大安たいあんさんねん、招鉄かわら敢戦ぐんとくせん餘人よにん、以唐くくごうためみやこみつるやすためふくすべ、戍辺。いたり雞鳴やますすむまもる紹王えき召問じょうやす乃曰『たいらあきら参政さんせいぐんすうじゅうまんざいまえおもんばかしゃたむろちゅう雞鳴さん所以ゆえん備間どうとおるしゃみみ』。朝廷ちょうていしん其言。やす乃亡帰山きさんひがしあずかちょうなんじかじ聚党おさむこうしゅうけんころせりゃく官吏かんり山東さんとうだい擾」
  26. ^ なにほか1992,467ぺーじ
  27. ^ 池内いけうち1977,36ぺーじ
  28. ^ なにほか1992,467ぺーじ
  29. ^ はやし1980,65ぺーじ
  30. ^ もとまき102列伝れつでん40ぼく安貞やすさだでん,「安貞やすさだいたりえきはいやす於城ひがしやす奔萊。萊州じょなんじけん以城くだやすぞくぜいふくのぼりしゅう刺史しし耿格開門かいもんおさめにせ鄒都すべ、以州しるしづけ、郊迎やすはつ帑藏以労ぞくやすとげ僭号、おけかんぞく改元かいげんてんじゅん、凡符しるしみことのりひょう儀式ぎしきみなかくくさじょうとげおちいやすしうみおさむ濰州。にせ元帥げんすいかたくるわさんよりどころみつしゅうりゃく沂・うみぜんりゃく臨朐、扼穆りょうせきほしえき安貞やすさだ以沂しゅう防禦ぼうぎょ使ぼくとめため左翼さよくやすぐん節度せつど使かんがおなまりろんため右翼うよく
  31. ^ なにほか1992,466-467ぺーじ
  32. ^ 池内いけうち1977,33ぺーじ
  33. ^ 池内いけうち1977,33ぺーじ
  34. ^ もとまき122列伝れつでん60忠義ちゅうぎ2しげるさきでん,「しげさき日照ひでりけんすなみぞしゅかん寓居ぐうきょしょしろべにふすまぞくかたくるわさんよりどころみつしゅう其村そのむらきょみんしょうりつむかえこれぞく元帥げんすい自称じしょう……」
  35. ^ なにほか1992,467ぺーじ
  36. ^ 池内いけうち1977,36ぺーじ
  37. ^ なにほか1992,467ぺーじ
  38. ^ なにほか1992,467ぺーじ
  39. ^ もとまき102列伝れつでん40ぼく安貞やすさだでん,「なながつかのえたつ安貞やすさだぐんあきら邑東、じょなんじけんとう以三州之衆十万来拒戦。うま抵暮、転戦てんせんさんじゅううらころせぞくすうまん器械きかい不可ふかかちけいみずのえうまぞくとげ七率衆四万陣于辛河。安貞やすさだれいとめよし上流じょうりゅうにかわ西にしずみつぎ以大へいころせ甚衆。かぶとさる安貞やすさだぐんいたり萊州、にせやすしうみしゅう刺史しし潑立以じゅうまんじん於城ひがしとめさき以軽へいうすぞくしょしょうつぎぞく大敗たいはいころせ且半、以重しょう招之、おう安貞やすさだ萊州黥卒曹全・ちょういさおたかそうぶくいつわりくだ于徐なんじけん以為内応ないおうぜんあずかぞく西南せいなんすみ戍卒姚雲しょうゆいやくおさめ官軍かんぐんちょうよるぜんすがじょういずるせんつげとめとめつの勇敢ゆうかんさんじゅうにんしたがえぜん入城にゅうじょう、姚雲おさめ大軍たいぐん畢登、とげふく萊州、じょなんじけん及諸賊将ぞくしょう以徇。やすだつはしなまりろん以兵おい。耿格・潑立みなくだとめりゃくていにかわ西諸県にしもろかたせんはくとく玩襲ころせかたくるわさんふくみつしゅうぞくざいしょしゅうしゃみなつぶせやす嘗遣はりきょみのるけんあまいずみ鎮監しゅせき抹充浮海赴遼東構ひがしがまえとめ哥、やめふねみなこれ
  40. ^ なにほか1992,468ぺーじ
  41. ^ もとまき102列伝れつでん40ぼく安貞やすさだでん,「じゅういちがつつちのえたつきょく赦山ひがしじょ楊安・耿格及諸かん家作かさくやつ赦外、りゅうちょうなんじかじおもえゆたか及応おびえさそえしたがえぞくなみざいほんため寇盜、つみ軽重けいちょうなみあずか赦免しゃめん楊安しゃ官職かんしょく俱授さんひんしょうぜにじゅうまんかん十二月じゅうにがつからし、耿格ふく誅、妻子さいしみなどお徙。しょぐんかたおさむだいあわ堌、赦至、宣撫せんぶ副使ふくし東平とうへいごとがらすりんこたえあずかそく引軍かえぞくしゅじょうふくため患。みことのり以陝西にしみつる軍使ぐんしかんがお弼知東平とうへいごとけん宣撫せんぶ副使ふくし。其後楊安あずか汲政とう乗舟のりぶね入海いりうみほしはし岠嵎やま舟人ふなびときょくなりとうげき、墜水
  42. ^ 池内いけうち1977,36ぺーじ
  43. ^ もとまき103列伝れつでん41夾谷せきさと哥伝,「夾谷せきさと哥、上京じょうきょうもうやすじん。……あずか山東さんとう宣撫せんぶかんがお弼攻だいあわ堌、ぞくしゅせんあまりぎゃくせんいしさと哥以騎兵きへいげきつき殪。ひさげひかえぼつれつにゅう北門きたもんとげとりこりゅう
  44. ^ 池内いけうち1977.36ぺーじ
  45. ^ もとまき102列伝れつでん40ぼく安貞やすさだでん,「さんねんがつ安貞やすさだつつみひかえ紇石れつきばわれとうやぶきょこうむとうよん堌、及破みみさんころせりゅうぞくよんせん餘人よにんくだとうはちせんとりこにせせんほどひろし・招軍大使たいしほどぶく、招降おびえしたがえ百姓ひゃくしょうさんまん余人よにん安貞やすさだへいかい宿やどしゅうつつみひかえ夾谷せきうら哥同おさむだいあわ堌、ぞくせんあまりぎゃくせんいしうら哥、以騎へいげきつき殪。ひさげひかえぼつれつだつ其北もん以入、べつぐんぞくすい寨、しょぐんまましすすむころせぞくせん餘人よにんりゅうそうこれ、及偽参謀さんぼうかんちぇ天佑てんゆう、楊安にせふとしおもえぬるしゅ大小だいしょうたかしかくさん前後ぜんご追擊ついげきころせまんけいりゅうみことのり遷賞ぼつれつとうゆうみことのり尚書しょうしょしょう曰『山東さんとうひがし西にし賊党ぞくとうなお嘯聚さくしゃ詔書しょうしょいたなみあずか免罪めんざいかくれいふくぎょう在処ありかかんつきこころ招撫、優加ゆかそん恤、れいしつしょ』。じゅうがつ安貞やすさだ枢密すうみつ副使ふくしくだりいん於徐しゅう
  46. ^ きむふみまき102列伝れつでん40かんがお弼伝,「かんがお弼、本名ほんな達吉たつきちぶたしゅうもうやすじん。……さんねんあらため東平とうへいごと山東さんとう西にし宣撫せんぶ副使ふくしりゅう二祖餘党孫邦佐・ちょうなんじかじずみみなみつとむ堌、弼遣じん招之、とくくにしょくも我輩わがはい自軍じぐんきょう屢立戦功せんこう主将しゅしょうかげおちいがい、竄伏山林さんりん、以至今日きょうじつかしこみみ。如蒙湔洗、便びんとうしゃくけんめんばくぞくくだしゃつき招之』。弼奏『方今ほうこんおおゆえ、此賊はてじょうまた一事いちじ畢也。乞明以官しょうしめせこれ』。みことのり曰『まごくにはて受招、かく遷五官職かんしょく』。於是くになんじかじみなくだくにはるか授濰しゅう刺史ししなんじかじはるか授淄しゅう刺史ししみなあかり将軍しょうぐんころ、弼薦くになんじかじあらため用命ようめい、招降甚衆、ややおさむ其兵、仗放でんうら
  47. ^ 池内いけうち1977,37ぺーじ
  48. ^ 池内いけうち1977,37ぺーじ
  49. ^ もとまき102列伝れつでん40ぼく安貞やすさだでん,「[貞祐ていゆうよんねんがつ、楊安あまりとうふく擾山ひがしみことのり安貞やすさだあずかこうむつなかんがお弼以きんみことのり招之。五月ごがつ安貞やすさだへい討郝じょう連戦れんせんみなかつころせきゅうまんにんくだしゃさんまんあまり、郝定僅以めん偽金にせがね銀牌ぎんぱい器械きかい甚衆、らいまんにんみなやす慰複ぎょう楊安りゅうはい河北かわきたざんやぶ干戈かんかしょうひろ。其党往往おうおうふくしょう團結だんけつ所在しょざい寇掠、みなころもくれないおさめふすま以相識別しきべつごうべにふすまぞく』。官軍かんぐん雖討不能ふのうじょ也。大概たいがいみなあきらくに用安ようあんあお焉」
  50. ^ はやし1980,65ぺーじ
  51. ^ 池内いけうち1977,37ぺーじ
  52. ^ a b c d 池内いけうち1977,38ぺーじ
  53. ^ はやし1980,66ぺーじ
  54. ^ そうまき40やすしそう本紀ほんぎ4,「[よしみじょう]じゅういちねんはる正月しょうがつみずのえうまきょう東路あずまじ忠義ちゅうぎあきらりつしゅらいみことのり以全ためきょう東路あずまじそうかん
  55. ^ そうまき476列伝れつでん235叛臣ちゅうぜんつて,「ゆう沈鐸しゃ、鎮江たけほこさきそつ也、亡命ぼうめいぬすめ山陽さんよう誘致ゆうちまいしょう斗米とまい輒售すうじゅうばいすわえしゅうおうじゅんつぐなえ以玉貨、きたじんいたりしゃ輒舍またせつじゅん以帰銅銭どうせんためめいたゆたび淮之きん来者らいしゃ莫可遏。やすはい也、有意ゆういそう、招礼そうじんじょうとおみんさきしゃ、嘗為だい俠劉たすく廝養、ずいたすくつなきゃく山陽さんようやす而説しょ以軍しょくやすさきいたり山陽さんようとらえん鐸得じゅんみち豪傑ごうけつねがい時江ときえ・淮制おけ玨・淮東やすなでちぇあずかこれみなれいじゅん沿江ぞう戍、こわ不能ふのう禦、乃命さきため察、さとしぐんごう;敘復鐸為たけほこさきぐん副将ふくしょう、辟楚州都しゅうとかんあずかこうちゅうこうかくしゅう忠義ちゅうぎ民兵みんぺいぶん二道ふたみちおさむきんさきとげ以李ぜんせんにんちゅうこうごうへいおさむかつうみしゅうかて援不ままし退すさたむろ東海とうかいぜんぶんへいかさねやぶ莒州、禽金もりがま察李べつしょう于洋かつみつしゅうあにぶくかつあおしゅうはじめ授全たけつばさ大夫たいふきょうひがしふくそうかんじゅんきたぐん屢捷、みつ聞於あさいい中原なかはらふくときしきとししょうみのり朝野ちょうや無事ぶじ丞相じょうしょうわたるどお鑒開禧之ごと不明ふめい招納、みつ敕玨及純慰接ごう忠義ちゅうぎぐん』、就聽節制せっせい。於是ゆうむねたけじょうぐんせいけんれいぜにかてまんせんにん忠義ちゅうぎかて』。於是東海とうかいうまりょう高林たかばやしそういさおちんとうまんにん輻湊ふくそうさざなみすい、鐸納ぜんあずかりゅうぜん俱起ともこころ焉」
  56. ^ 池内いけうち1977,42ぺーじ
  57. ^ きむふみまき15せんむね本紀ほんぎちゅう,「[きょうじょうねんよんがつ]ちょうしげる……ひがし平行へいこうしょうはいくろはたぞく、拔膠西にしけんみぞぞくあきら来援らいえんなみやぶこれつちのえたつ河北かわきたこうしょうはいべにふすまぞくすすむいたりみつしゅうくだにせ将校しょうこうすうじゅうにん士卒しそつななひゃくにん、悉復其業」
  58. ^ a b 池内いけうち1977,39ぺーじ
  59. ^ きむふみまき15せんむね本紀ほんぎちゅう,「[きょうじょうねんがつ]きのえいぬ、招撫副使ふくし摑阿魯答かさねやぶあきら於莒しゅう日照ひでりけんみなみさんみちげきつい奔四じゅうさと
  60. ^ a b c d e f g h i j 池内いけうち1977,42ぺーじ
  61. ^ きむふみまき15せんむね本紀ほんぎちゅう,「[きょうじょうねんきゅうがつ]かのえとらあきらやぶみつしゅう招撫副使ふくし摑阿魯答・どう節度せつど使夾谷寺家じけいやつ
  62. ^ そうまき476列伝れつでん235叛臣ちゅうぜんつて,「よしみていじゅういちねんがつおのれうしぜんぐんいたりさざなみすい、邀先しろごとすわえじょううつわかぶときむこくさいおさむうみしゅうじゅんあつろうぜん金玉きんぎょく器用きよう及其ゆう六月ろくがつぜんかこえうみじょうきむ経略けいりゃくおもね罕・おさめとげとう固守こしゅしたなながつごう鄆・たん・邳・じょへい来援らいえんぜんあずかせん高橋たかはしかち退すさもりせきあきぶんへいかさねみつしゅう、禽黄摑、械至すわえじょうふゆ、徙屯淮陰龜山かめやま
  63. ^ そうまき476列伝れつでん235叛臣ちゅうぜんつて,「じゅうねん山東さんとうらいしゃとめけんすわえしゅうやなへい以贍。さきこんへい請預両月わちしかこうそちしょ五千並良等万人往密州就食、もと。請速ぜんだいりょう其衆、またもとへい以石珪権軍務ぐんむ、珪乃だつうんかてふねがつかのえたつりつぐんまん淮大かすめへい調ちょうおうあらわしんこうともちょうくになが以兵ぎゃくいたりみなみもんあらわしんはいともくにえいぐう珪、下馬しもうま与作よさく山東さんとうみなふくせんへい窘、乃遣ぜんさとしこれどききんじんかこえ淮西きゅう馬司まつかさみつるけいそう戍濠、せんさんせん、珪及ちょうはるみなゆう亡失ぼうしつそち調ちょうぜんあずかさき・珪軍援盱眙。ぜんまたほしこころみおや東海とうかいてんぐん赴之。みずのとぐうきんじん於嘉さんたたかえしょうとし三月さんがつさきぐん進駐しんちゅうてんちょうぜん進駐しんちゅう盱眙、鼎立ていりつ以待きんじんおつとりぜんいたりうずこう、值金将きんしょう乞石れつきばわれこたえめいづちしゃはたすみぜんあずか其将鹿しかせん掩之、かねへいおぼれ淮者すうせん、俘獲甚衆。みずのえたつあずかおもね海戦かいせん於化陂湖、大捷たいしょうころせきんすうはたとく金牌きんぱいついいたり曹家そう而還。さんかこえ俱解、ぜん喪失そうしつまたしゅうおもねうみしゃきむ所謂いわゆるよん駙馬也。ぜん進達しんたつしゅう刺史ししつま楊氏ふうれいじん
  64. ^ そうまき476列伝れつでん235叛臣ちゅうぜんつて,「ろくがつきむ元帥げんすいちょうりん以青・莒・ひそかとう・萊・濰・淄・はま・棣・やすしうみすみみなみじゅうしゅうらいはじめはやししんそんそう、及摑はいけつ而未のうたちかいぜんかえ濰州じょうづか、揣知りん、乃薄へいあおしゅう城下しろしたひねせつ国家こっか威徳いとくすすむはやしはやしおそれぜんさそえおのれ猶豫ゆうよ未納みのうぜんやく挺身ていしん入城にゅうじょうおもんみすうにんしたがえはやし乃開もんおさめあい甚歓、いいとくしょたくおけしゅゆいため兄弟きょうだいぜん既得きとくりん要領ようりょうひょうたてまつじゅうしゅう版籍はんせき以帰。おもてゆううんきょしょななじゅうじょうちょんひとしわがさんひゃくねん旧主きゅうしゅ』。ひょう、馮垍所作しょさ也。あき、授林たけつばさ大夫たいふきょうひがしやすなでけんそうかん、其餘授官有かんゆうすすむぜん広州こうしゅう観察かんさつ使きょう東総とうそうかんりゅう慶福よしとみ・彭義あきらみなため統制とうせいふえまんにんぜにかて、徙屯すわえしゅうさきせいおけ使賈涉以朝いのち督戦とくせんもところせきむ太子たいししゃしょう節度せつど使ころせ親王しんのううけたまわせん使ころせ駙馬、観察かんさつ使ぜん所得しょとく金牌きんぱい於涉、うんころせよん駙馬しょしゃわたるじょう於朝、乞如やくしょうぜんゆう受、而四駙馬実不死也。十一月じゅういちがつ大雨おおあめゆき、淮冰あいぜん請於せい曰『まい恨泗しゅう阻水、こん如平矣、請取うけとり東西とうざいじょうこう』。せい就盱眙劉たくたくしゅうしょしょうつばめあきらときあおなつぜん咸願以長やりさんせんにんしたがえ夜半やはん淮、せんこう泗之東城とうじょうはた踏濠冰傅城下じょうか、掩金じん不備ふびにわかじょう上荻かみおぎ炬数ひゃくひとしきょはるかいい曰『ぞくすももさんなんじよく偷城耶』。てんくろ以火しょく全知ぜんちゆう備、引去ひきさ
  65. ^ a b c d e f g h 池内いけうち1977,44ぺーじ
  66. ^ a b c d e f g 池内いけうち1977,43ぺーじ
  67. ^ そうまき476列伝れつでん235叛臣ちゅうぜんつて,「じゅうさんねんちょう拱以朝命ちょうめいさとしきょうひがしあお厓固、いむみのるもとめない。拱与じょうやくたてまつじつ款至山陽さんようきょたかしひろしおんとくふところまもるひらくあい九州きゅうしゅうらいわたるさい拱往さとしはいへいせんぜんまた請往、わたる不能ふのうやめ、乃帥すわえしゅう及盱眙忠義ちゅうぎまん餘人よにん以行。拱説ぜん曰『将軍しょうぐんひさげへいかわ不用ふよう而帰、しめせ武也たけやいまじょういきおい東平とうへい乎』。於是ぜんごうりんぐんとくすうまんかさね東平とうへい城南じょうなんかね参政さんせいこうむつよしそちしゅもり東平とうへいぜんさんせんにん金銀きんぎんかぶとあかのぼりにょうほりおどうまさくせんとき大暑たいしょぜん見城けんじょう阻水、せき不能ふのう及、乃与りん夾汶すい而砦、中通なかとおり浮梁来往らいおう一夕いっせき、汶水溢、漂大木たいぼくだん浮梁、ぜん首尾しゅびいくぜっぶたきんじんせき汶水而決也。つめだんきむ騎兵きへいさんひゃく奄至、ぜん欣然きんぜん上馬かみうまそちちょうぜん所有しょゆう赴之、ころせすうにんだつ其馬、逐北抵山だにうえゆう龍虎りゅうこじょう将軍しょうぐんしゃぬきぎんかぶと、揮長槊、もりへい以出、つくりゆう繡旗女将おかみはせやり突鬥。かいしょしょういたり、拔全以出、乃退ちょうせいけん精鋭せいえい喪失そうしつふとはん統制とうせいちんたかしちゅう焉。はやしへいかえあおしゅうぜんところ攜鎮ぐんひゃくにん怨憤、ぜん乃分隸拱、使つかいさき、而以あまり衆道しゅどう滄州、かりしお以慰贍之。龍虎りゅうこじょう将軍しょうぐんしゃ東平とうへいふくそちみき搭。女将おかみしゃりゅうたかし使おんな也」
  68. ^ a b 池内いけうち1977,41ぺーじ
  69. ^ そうまき476列伝れつでん235叛臣ちゅうぜんつて,「ぜんいたりすわえしゅうぞく召先赴行ざいぜんうず口之くちのとしゆうけいしょしょうしんどくさき嘗策せんくんもちしたおのれ、患之。乃陰ゆいせいそちしょにん吏莫凱、使つかい譖先、さきそつぜん而心えきわたるじょうさきよくおさむ其軍、輟統制とうせいひねせん往漣すい以総さきとう裴淵・そういさおちんまご武正たけまさ及王ふかちょうやまちょうともこばめ而不受、せんむかえせき珪於盱眙、たてまつため統帥とうすい。珪道すわえじょうわたる知覚ちかく、及選かえわたるはじ、乃謀ぶん珪軍ためろく、請於あさおさむたけしきょう東路あずまじ鈐轄しるしつげかくろく授淵とう使つかいぶんすべいい其縦。ふちとう受命じゅめいわたるそく聞於あさいいろくにんやめじゅんしたがえ、珪無能むのうため矣。其後ゆうきょうれいみな不納ふのうしかこうふちとうなおしゅ珪、わたるおそれ甚。ぜんむすぶ吏伺知之ともゆき、乃見わたる、請討珪、わたるゆうしょしゃ請以ぜんぐんぬのみなみもんうつり淮陰戦艦せんかんひね於淮がん、以示珪有備、しかこういのちいちしょう招珪ぐん来者らいしゃぞうぜにかていたりやめささえしゅうこころ一散いっさん、珪党はなれわたるよう其策、珪技はてきゅう珪素けいそどおりこう於大おだいもといたりころせふち而挾武正たけまさとくめずらしあずか其謀ぬしはじめしるべかえり大元おおもとさざなみ水軍すいぐんゆう所属しょぞくちょんもとむなみ将之まさゆききゃくゆう請以淮将しゃ、曰『使つかいみなみはたしゅきたぐんのり淮・すわえ為一ためいち』。わたるしかこれ、且曰『さきざいゆうさんせんきょせきこんとうあきらあきらかくいんしょう』。ぜん聞之そくけんじけい曰『ぜんわかあさはた此軍、ゆうあずかかくじょきょせき』。よし卑辞けんじちん以自ゆいわたる不能ふのう卻、とげ以付ぜんつばさ復命ふくめい曰『はついいゆうきょがく昨夕さくゆうほそてんまん五千人之外尚溢十数名』。わたるはじめさとるぜん紿、他日たじつさらまくぞくてん。吏亟ほうぜんぜんゆるがせじょうはくわたる昨夕さくゆうさんさざなみすいつげ警、うんきんじんまんあまりざい邳州。ぜんおもえさざなみすい邳咫じゃくすんで險阻けんそ城壁じょうへきふくへいいちおさむこうのりちょく臨淮めんつみざいぜん矣。深夜しんや敢驚せい使やめ調ちょうななせんにんむかいてき矣』。わたるぜんいつわりいんてんぐんぜんまたしろせい請於あさ、以劉ぜんためそうかんちゅうあげしゅう分数ぶんすうせんへいしたがえこれ、而将其衆。十一月じゅういちがつ丁未ていみぜんゆう金山かなやまさく佛事ぶつじ、以薦こく殤。江府こうふたかしぎょう簡方ぶねぎゃくだいごうらく以饗総領そうりょうほど覃迭ためぬしれいつとむ訁誇きたじん繁盛はんじょうぜん請所狎娼、覃不あずかぜんかたり其徒曰『江南こうなん佳麗かれい無比むひ、須与わかとういちいた』。はじめづくり舭達ぶねはかりごとそうぶねかじ焉」
  70. ^ そうまき476列伝れつでん235叛臣ちゅうぜんつて,「じゅうよんねん正月しょうがつかねじんはたみなみらいぜん請於わたるほしあずかりゅうたくども泗州、以伐其謀、わたるもとぜんへいいたり盱眙淮、おさむかつ泗州西城さいじょう入城にゅうじょうぬのもりたく徙盱眙芻あわ以実ぼうじょう俱撤以往いおうため必守けいいくづち西城さいじょう全盛ぜんせいへいせん大敗たいはい統制とうせいよりゆききょうぜん閉城もり明日あしたふくせんかちぜん遁帰、かて器械きかい悉以てきかねじんすんでおちい蘄州、扈再興さいこうちょうはん及其おとうとあおい邀擊ようげき於天ちょうぜん隨行ずいこうかさねきんじん、謁而曰『かんぐんやめたて大功たいこう、乞以あまり寇付ぜんおい』。しかぜんおい甚力、また以是しんうけたまわせん使
  71. ^ そうまき476列伝れつでん235叛臣ちゅうぜんつて,「じゅうねんがつたくさい西城さいじょうづちじょう力戦りきせん、戒惠必獲ぜんそくめぐみすう嘗敗ぜん於山ひがし、而不能ふのうまい歎曰『てんかり此賊、ことりょう』。及聞づちごとしん未必みひつ退すさふく受戮、そくひねおどうま奔全かべ、棄所へい請降。ぜんわき而起あいあずか歓甚。数日すうじつめぐみおどけすうせんにんみなせんいたりぜんあずかめぐみ、請於せいおけかんれいそう一軍いちぐんにかわ西当にしとうとうやすしうみ衝、百貨ひゃっか輻湊ふくそうぜん使つかい其兄福守ふくもりためくつたくけいとき互市ごしはじめどおりきたじんゆうじゅうみなみ貨、あたいぞうじゅうばいぜんさそえ商人しょうにんいたり山陽さんよう、以舟浮其貨而中分なかぶん淮転うみいたる於膠西にしぶくまたしゃ輦之、而税其半、しかしたがえ聽往しょぐん貿易ぼうえきくるまおっとみなとく辦於りんはやし不能ふのうこらえはやしざいけいおおせろくしおじょうぶく恃其おとうとゆう大造たいぞう於林、またよくぶん其半、はやしもとぶくほしいまましお、而不ぶんじょうぶくいか曰『わかおん耶。まちあずかみやこみつるひさげへいわかあたまなんじ』。はやし懼、訴於せいおけわたるみつ召林おどけ下問かもんぶく伏兵ふくへい於途以伺、はやしさとしおい。於是うませつりんかえり大元おおもとぶく狼狽ろうばいはしすわえしゅうふゆぜん招信ぐん節度せつどはやしなおのこわたるしょ詆全、あきらおのれ叛。わたる以咎ぜんぜん請為あさ廷取、乃提ちゅううみしゅう以迫りんわたる間道かんどう黥胥おう翊・閻瓊ろうりんはやし泣涕どう其故。翊帰、ぜん使つかいじんころせしょぬりちょんおさむりんきゅうはやしはしぜんとげにゅうあおしゅう
  72. ^ そうまき476列伝れつでん235叛臣ちゅうぜんつて,「じゅうろくねんがつわたるすすむのう郊、くれ入門にゅうもん忠義ちゅうぎぐんさえぎみちわたる使人語じんご楊氏、楊氏馳出はせだしもん、佯怒忠義ちゅうぎ而揮みちひらけわたる入城にゅうじょう以疾もとめ甚力。五月ごがつ召。そつあきぜんしんおけ忠義ちゅうぎ軍籍ぐんせきはつわたるたむろ鎮江ふくつかさはちせんにん於城ちゅう、翟朝そうみつるこれぶんとばりぜん忠義ちゅうぎまんにんたむろせん城西じょうさいちょうくにひさしこうともすべこれたむろせん淮陰、おうあきら及於潭統所以ゆえんせいきたぐん也。ぜんけい鎮江へい、且以啖其統制とうせいひねせん及趙きょう使つかい不為ふためおのれ患。ただちょうぜん忠義ちゅうぎ、乃数しょうだかともとういさむぐうぐん必請以自したがえわたるもとぜんまいつばめおどけなみ召涉ちょうぜん将校しょうこうとばりまえまたねがい隸焉、しかのうあい也。及丘ことぶき邁攝そちごとぜんゆるがせ請曰『忠義ちゅうぎ烏合うごうせきせき鹵莽。莫若別置べっちしんせきいちおさめしょあさいちさるせい閫、いちとめぜんしょ、庶功ゆうかんがえ、請給へい』。ことぶき邁善而諾ぜん乃合ちょうぜん忠義ちゅうぎ悉籍つきすべ其軍、時人じじん莫悟。十一月じゅういちがつもとこくかいかわ朝議ちょうぎ大夫たいふ・淮東やすなでせいおけ使いのち、聞者驚異きょういさきくにたてまつほこらしょくかずげんぜん必反、よくかたぶけわたる而代かい召国そうごとくに疏全奸謀甚深、はんじょうやめちょゆう豪傑ごうけつ不能ふのうしょう弭、ぶた鬻也。いたりたかしぎょう簡為吏部さむらいろううえ疏論こくもちけいむべそち淮、ほう山陽さんようまいりまくじょ晞稷みやびひらき閫、及聞こくよう、晞稷闕望、乃譽こくそう注釋ちゅうしゃく以寄ぜんぜんとくむくいらくふゆ金将きんしょうすもも二措及邳州守致書海州、よくそうぜんおどけしゅう岊得そく以報ぜんぜんおう以兵せん応接おうせつ、而己まましこれ。二措納喜児而囚之。ぜんへいよくおさむ邳、四面しめん阻水、二措積勁弩備之、ぜんとくすすむごうへいさくせん全敗ぜんぱいほしかえすわえしゅうかいはま・棣有みだれ、乃引へい趨山ひがし
  73. ^ そうまき476列伝れつでん235叛臣ちゅうぜんつて,「じゅうななねん正月しょうがつ国之くにゆき鎮、楊氏郊迓、くに、楊氏慚以くにすんでごといたそもそもきたぐんゆうあずかみなみぐんきおいしゃ曲直きょくちょくへんすわこれ、犒賚じゅうたっななはちぜん山東さんとう致書於国、くにほこ於衆曰『ぜんおおせわが養育よういくわがりゃく示威じいそく奔走ほんそうひま矣』。ぜんかたとめあおしゅうくに不能ふのう致。よんがつぜん小吏しょうり致再しょくにきょくろうせっ即日そくじつうけたまわ信郎のぶお、冀結其心。しょう吏曰『小吏しょうり奉書ほうしょ而遽とくいのちしょ将校しょうこういいなん』。受、其徒以為わらい国見くにみあきら来朝らいちょうかず致厚饋、邀全議事ぎじかいりゅう慶福よしとみまた使つかいじん覘国意向いこうくに左右知そうちかたり覘者曰『せいおけ無害むがいなんじとう』。慶福けいふく以報ぜん全集ぜんしゅう将校しょうこう曰『わが不参ふさんせい閫、のりきょくざいこんけい生死せいし必往』。はちがつぜんうえ謁、まろうどたたえ戒全曰『ふし使とうにわ趨、せい使必免れい』。及庭趨、くに端坐たんざおさめぜんはい不為ふためどめぜん退すさいか曰『にわさんまたつねれいぜん本朝ほんちょうはいじん矣、ただし恨汝ぶんしんほんあずかわがひとしなんじこう以淮西都さいとみつる謁賈せいそちまためんなんじはいなんじゆうなんくんぎょう一旦いったんくらいわがうえ便びんあい假借かしゃく耶。ぜん赤心せきしんほう朝廷ちょうていはん也』。くにつぎしつらえ盛会せいかいえんぜんのころうあつぜんおわりらく国之くにゆききゃくあきらゆめさきしゅまく慶福けいふく謁見えっけんゆめさきせめ客将かくしょうれいへだたすだれ貌喏、慶福けいふく不能ふのうこらえくに以名じゅうあまり噭遺ぜん受。くにかたぜん俟其たかし斥階にわ伺候しこううつり、而復卻之。如是にょぜしゃ半月はんつきそつ受。ぜんよく往青しゅう、懼国苛留、けい曰『かれしょそうしゃはい也、はい而得こころざしわれなんあい焉』。さら折節おりふしためれいいんかいせきあいだ劄白ごと国見くにみ其細はんしたがえこれぜん即席そくせき再拜さいはいしゃどういき必請、とく請必はい国大こくだいかたり家人かじん曰『われ折伏しゃくぶく此虜矣』。よしあきらもとめちょうくにえい来山らいざんひがしぜんためしろくにだくくにひさしじょうあいだつげこく曰『くにえいわかせい使だれあずかしょ』。くに曰『わがのうへいしか毋過おもんばか』。くになが泣而ぜんとげ往青しゅう十一月じゅういちがつくにしゅうりょう淮馬ぐんじゅうさんまんだい閱楚じょうそと、以挫きたじんしん。楊氏及軍こうとめしゃおそれ其図おのれうちため備」
  74. ^ そう史紀ふみのりごと本末ほんまつまき88わたるとお廃立はいりつ,「そうたからけいもと年春としはる正月しょうがつ庚午こうごみずうみしゅうじんはんみずのえあずか其從けいはじめおとうとへい、以史わたるとお廢立はいりつ不平ふへい、乃遣はじめ密告みっこくはかりごとりつずみおう於李ぜんぜんほっすわ成敗せいばいあずかこれ日進にっしんへい應接おうせつ、而實也。みずのえとう信之のぶゆきとげ部分ぶぶん其衆以待。及期、ぜんへいいたりみずのえとう懼事泄、乃以其黨ざつ販鹽ぬすめせん餘人よにん結束けっそく如全ぐんじょう揚言ようげん山東さんとうらいよるいりしゅうじょうもとめずみおうおう聞變、匿水竇中。みずのえひろどくよういたりしゅう、以黃ほうおうおう號泣ごうきゅうしたがえみずのえとうつよしおうとくやめ、乃與やく曰:「なんじのう勿傷ふとしきさきかん乎?」しゅう許諾きょだくとげはつ軍資ぐんしきん帛、かい犒軍。しゅうしゃしゅうきょうりつかんぞくにゅうみずのえにせためぜん榜、揭於もんかずわたるとお廢立はいりつざい、且曰:「こんりょう精兵せいびょうじゅうまん水陸すいりく並進へいしん。」にんみな聳動しょうどう明視めいしのりみなたいいざりじん及巡じょう兵卒へいそつみみおう知事ちじなり、乃遣おう元春もとはるつげ於朝、而帥州兵しゅうへい討壬。みずのえへん姓名せいめいはしすわえしゅうはじめへいみな元春もとはるいたりぎょうざいふみわたるどお懼甚、きゅう召殿はた彭任そち赴之、いたり執事しつじひら矣。みずのえいたりすわえはたわたり淮、ためしょうこうあきらあきらしょおく臨安、これわたる遠忌えんき竑、いつわりげん竑有やましれいあまりてんすず召醫いりしゅうてんすずいたり諭旨ゆし、逼竑縊於しゅう、以疾薨聞」
  75. ^ 池内いけうち1977,45ぺーじ
  76. ^ そうまき476列伝れつでん235叛臣ちゅうぜんつて,「たからけい元年がんねんみずうみしゅうじんはんはじめあずか従弟じゅうていへいみずのえおこりへい密告みっこく全党ぜんとう山陽さんようぜんとうほしすわ成敗せいばいしか其謀而不すけちからはじめかげ勒部きょく及聚販塩ぬすめいたりせんあまり結束けっそく如北ぐんりつしゅ揚言ようげん山陽さんようらい擁立ようりつずみおうこと『竑傳』。ときぜんこくやめぎま慶福けいふくかえすわえじょう使つかいためらんあるきょう楊氏畜一妄男子だんしあいだゆびいいじん曰『此宗しつ也』。いたりぐん僚曰『かいれいなんじ為朝ためとも』。せんやく盱眙よんぐん相応そうおう忠義ちゅうぎすべりょうおう文信ふみのぶゆうしゅはちひゃくわたる徙刺あげしゅうきょういさみぐん国之くにゆき聚兵だい閱、文信ふみのぶざい焉、けい福与ふくよはかりごとれいかさねあげしゅうべつはたこうたからおうことずみそく揮衆。盱眙よんはたしたがえ、於是慶福けいふくとうはかりごとちゅう輟、とめほしかい於許こく焉。けいかん苟夢だま知之ともゆき、以告こくくに曰『ただし使つかいはんはんそくころせわがあにぶん不知ふちへい耶』。ゆめだま懼禍及己、もとめげき往盱眙、ふくつげ慶福けいふく曰『せいそちほっなんじ』。両為りょうだめゆいけいおつくに晨起蒞事、ゆるがせたかしにわきゃく駭走、くに厲聲曰『とく無礼ぶれい』。やめ及顙、流血りゅうけつ蔽面、くにはしらんへい悉害其家、だいたて、焚官てらりょうつかさつもる蓄尽にゅうぞくおやへいすうじゅうにんつばさこく登城とじょうろうすがしろはしふくどうどう中宿なかしゅく焉。とき四明人姚翀通判青州、ぜんれいかえ山陽さんよう、及漣すい而復どめいたりよう入城にゅうじょうあずかつうばんそうきょうかつ犒南きたぐん使つかい帰営きえい慶福けいふくしゅころせゆめさき以報貌喏はずかしめ、戒諸ぐん毋害苟夢だままもる以五じゅうへいはつくに倚揚しゅうきょういさみぐん統制とうせい彭興及淮西にしおやへいはたちょうしゃしゅとらとうため腹心ふくしんいたりこれしゅくだぞく、且助ためらんおもんみちょうまさるちょうゆう・沈興・もりやすし毗・とみどう不屈ふくつあるあずかぞくちまたせんきょうしゅころせ賊将ぞくしょううまりょう賊党ぞくとうとくこころざしさら相賀あいがどくちょうただしちゅう歎曰『わか曹不識事たい朝廷ちょうていあにおけなんじ耶』。おう文信ふみのぶふくけんじけい慶福けいふく曰『わが偽作ぎさく重傷じゅうしょうつつみ本部ほんぶぐんかえりあげしゅうあげもり必不うたぐわがなまばくもり、以其じょうけんじ』。慶福けいふくよるいん而遣へいたつもとこく縊於ちょう文信ふみのぶはたいたりあげしゅう、其徒ゆうほろび入城にゅうじょうつげへんしゃときあげへいみなざいすわえしゅうけんひさげてんけいごくひろしすべ会同かいどうかん、鈐轄ちょう拱曰『わか不納ふのうのり文信ふみのぶ必曰「わが帰営きえい何故なぜこばめ」。はた魚肉ぎょにくじょう外之そとゆきみん。拱素善文よしふみしんじ、請説とめ其兵、而以単騎たんきいれ、俟入城にゅうじょう而殺しかなで其兵、りょう往盱眙、ぶん隸張・范戲』。みつるこれぐう文信ふみのぶじゅうさとあたまおけさけしょう労苦ろうく文信ふみのぶにせため裹創じょう。拱曰『忠義ちゅうぎはんすわえしゅうあげしゅう人見ひとみ忠義ちゅうぎくれあにあいうたぐわか駐兵ちゅうへいじょうがいしかどうひさげけいひさげけいきゅうよくともすわえしゅうごと也』。文信ふみのぶうたぐれん入城にゅうじょうすわきゃく。拱先入せんにゅうすすむみつるおさむ戮之、みつる躊躇ちゅうちょ敢発。りゅう全知ぜんち其謀、そちかぶと突入とつにゅうぐんどう、厲聲曰『おうみつるりょうこうひとひさげけい必疑、請出受参』。みつるとくやめ而犒りゅうぜん以兵つばさたて其家。つめだんみつるゆうしょ。拱又請引文信ふみのぶ出城でしろあずかかいたむろすわえしゅう文信ふみのぶ知事ちじ泄、拱就りゅうあきらまた請従。いたり平山ひらやまどう文信ふみのぶせめ拱売おのれよくころせこれ、拱曰『しかはかりごと如此、三城みき人命じんめいなん辜。わがやめそん三城みきじん憾。しかわがなんじはちひゃくいえ老幼ろうようざいしろあになま耶』。文信ふみのぶ及其しゅどうしょく文信ふみのぶりゅうぜんとげかえすわえしゅうとき盱眙そうかんなつぜん山陽さんようとくこころざしまたふところことりゅうたくあつまいない、乃止。及文しんじみだれたく懼夏ぜんふくどう、乃使卞整将兵しょうへいさんせん使つかい敢動。せい以邀文信ふみのぶためやめ、引兵かえあげしゅういんにせげん盱眙しつもり、卞整ためみだれ、於是あげしゅうふくふるえ城門じょうもんひる閉。わたるとお懼激へんよくしゅうとごと涵忍而後はかりごとそち莫可、以徐晞稷嘗倅すわえしゅうまもりうみしゅうとくぜん歓心かんしん、晞稷また勇往ゆうおう、乃授淮東せいおけ使れいこごめなでぜんとき慶福けいふく以事ずみむくいぜんぜんまた牒義あきらとう曰『もとこく謀反ぼうほんやめふく誅矣、なんじぐんなみ聽我節制せっせい』。よしあきらとく牒大ののし曰『逆賊ぎゃくぞくこく厚恩こうおん、擅殺せい使。此事みないんわがおこりわが必報此仇』。よびちょうくになが曰『ちょうなんじみなみじんせい須爾あかり此事』。乃斬齎牒じんみなみこうつげてんちかいしゅしゃ憤激ふんげきぜんあおしゅういたりすわえじょう、佯責慶福けいふく不能ふのう彈壓だんあつ、致忠義ちゅうぎ哄、すうにん、請待ざい朝廷ちょうていこれつめちょうはんあげしゅうけんひさげてんけいごくとくせいおけしるし於潰そつちゅう、以授晞稷。ぜんぎゃく晞稷。おのれ、晞稷にゅうすわえじょうりゅうあきらおど馬登まのぼりぐんちょう、晞稷むかえぜん及門下馬げばはいにわ、晞稷くだとうとめぞくしゅ乃悦」
  77. ^ そうまき476列伝れつでん235叛臣ちゅうぜんつて,「[たからけい元年がんねん]よんがつはんみずのえへん姓名せいめいいたりすわえしゅうはた淮而きたしょうこうあきらあきらこれ、械送ぎょうざいふく誅。かぶとうまときあお使じんにせためきんへいみち邳州、さざなみすいだつぜん田租でんそ而伏はちひゃくつばさだんぜん百騎度淮与鬥。ふくはつ全敗ぜんぱいかこえこれ慶福けいふく以兵往拔ぜんだしぜんあずか慶福けいふく俱重きずかえりすわえしゅうちょうまさるちょうゆうよくじょう全敗ぜんぱい挙兵きょへいついきたぐん、晞稷どめぜん其謀、たい晞稷つめ二人ふたり不為ふためこごめしか懼禍及己、晞稷乃潜授世ゆう雄勝おがつぐん統制とうせいきょう使逃而さくきたぐんついゆうゆう且戦且走、とくたちあげしゅう。晞稷はついたりすわえ緩急かんきゅうしょうずみ、如囚ちょうしゃ、逐朱とらぞくなおかしこ。屢令ぜんかえせんぐん於制ぜん唯唯いい退すさ招姚翀及将校しょうこういんさけたけなわぜん曰『せいついせんぐんわかなに』。ゆるがせゆう将校しょうこう曰『当時とうじ忠義ちゅうぎせきひゃくじゅうにん、其他ぐんみなみなみぐんじょうぜいはたおびわかつぶせはたなに以還』。一人ひとり曰『せい必欲おいわかゆうかんしゃ棄官、無官むかんしゃ帰山きさんひがしため百姓ひゃくしょう』。一人ひとり抵掌憤然ふんぜん使つかいぜんはんぜんののしこれ。翀以つげ晞稷。つばさぜん晞稷もとめ納官のうかん、晞稷なで而去。ふく誰何すいか、其後いたり以『おんしょうぜん・『おんどうしょう楊氏、而手足てあし倒置とうち矣。ぐんとめあまりやりみきすうせんぜんふく取去とりさぜんよく戦艦せんかん、晞稷使そうぜん移出いしゅつ淮河、使つかいぐん習之。はつすわえじょうはたらん也、ゆう吏竊もと国書こくしょ以献慶福けいふくみなごと慶福けいふくしょうぬすめ篋者百千ひゃくせんこれ閱。ぜん始発しはつ緘、使つかい僮讀ゆう廟堂びょうどうのこ国書こくしょれいぜんしゃぜんだいいかまたゆう苟夢だましょそく慶福けいふくはかりごとつげこくしゃちょんはじめ悪夢あくむだま反覆はんぷくゆめだま知之ともゆきときやめどう召、亟辞ぜん如京。おのれぜん饋餞ゆめだま如平せん殪諸じゅう郊、ふく榜捕がいゆめだましゃぜん往青しゅう
  78. ^ そうまき476列伝れつでん235叛臣ちゅうぜんつて,「[たからけい元年がんねん]がつちょうしげるぜん東平とうへいかつつちのえとらりゅうぜん以券えきせいぜに如欲、ふくはかりごとみだれ、楊氏せん緡解、乃止。ぜん引兵おさむおんしゅう明日あしたよしあきら出兵しゅっぺいあずかぜん鬥、全敗ぜんぱいよしあきら以千ひゃくおいせんひきみなあげしゅうつよいさむ軍馬ぐんば也。慶福けいふく往救、またはいぜん退すささん崮、抽山陽さんよう忠義ちゅうぎ以北いほく。楊氏及劉ぜんみなほししん赴之、かいぜんひともとめ晞稷しょあずかよしあきられん、乃止。よしあきらおさめぜんくだへいへいぜいだい進攻しんこうじょうくだ金将きんしょうたけせんしゅういたりすうじゅうまん、致書沿江せいおけ使ちょうよし湘曰『誅逆ぜん恢復かいふくなりただしのうへい扼淮、すすむよりどころさざなみうみ以蹙だん其南、如此ぞくしゃあるなま禽、ある斬首ざんしゅおもんみ朝廷ちょうていしょいのちぞく平之ひらのおさむふくいち京三きょうぞうしかこうあきらせん河北かほく、盱眙しょしょうじょう騎士きしせん河南かなん神州しんしゅうふく也』。とき四総管亦各遣計議官致書、乞助討賊、はんまた以為ごとほうぜん貽書せいおけ、誣義あきら叛、晞稷繳達とき朝廷ちょうてい知義ともよしあきらこうはばかぜんよく行賞こうしょういくよしあきら俟命いたりつぶせ而北、あずかだいもとへいせん於内馬山まやま大元おおもとへいせつくだよしあきら厲聲曰『わがだいそうしん、且河きた山東さんとうみなそうみんよしあにためしんぞく耶』。とげおどけおうよしふかとう復帰ふっきぜんぜん使つかいじんせつあおおのれ、饋金ひゃくりょうあおよしあきら、乃附ぜんうつりたむろ淮陰。ぜん招青入城にゅうじょういんおりまないたどうけんせん饋称おんへん麾下きか人人ひとびと喜悦きえつ。晞稷えんあおぜん饋折まないた如前。ぜんしょう往山ひがし以南いなんぐんきゅうひゃくしたがえかん犒鉄ぜにけんじんせんぜん犒銅ぜにさんばいもと攜南貨免税めんぜい。於是請行しゃやめとくせんにん以俱、晞稷また以千はちひゃくにんつぎ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 大島おおしま立子たつこかねまつべにふすまぐんについて」『明代あきよ研究けんきゅう創刊そうかんごう、1974ねん
  • 池内いけうちいさおあきらろんみなみそうきむ・モンゴル交戦こうせんにおけるいち民衆みんしゅう叛乱はんらん指導しどうしゃ軌跡きせき」『社会しゃかい文化ぶんか史学しがく』14ごう、1977ねん
  • 相田あいだひろしべにはばこう中国ちゅうごくける民閒みんかん武装ぶそう集団しゅうだん伝統でんとう」『東洋とうよう研究けんきゅう』38かん4ごう、1980ねん
  • はやしあきらかねまつ山東さんとうみんらんについて」『史学しがく論叢ろんそう』11、1980ねん