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ひらき禧用へい

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

ひらき禧用へい(かいきようへい)は、みなみそうかん侂冑ひらき2ねんきむ:泰和やすかず6ねん/1206ねん)にったかねへのきたひらき禧北(かいきほくばつ)とも。

概要がいよう

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ちょうなんじとともにやすしむね擁立ようりつ尽力じんりょくした外戚がいせき出身しゅっしん武官ぶかんかん侂冑は、ちょうなんじつみおとしいれて追放ついほう[1]つづいてちょうなんじとされたしゅ中心ちゅうしんとする道学どうがく弾圧だんあつした(けいもととうきん[2]かん侂冑はかくもんごといで枢密すうみつうけたまわむねというかならずしもその地位ちいたかくないものの、皇帝こうてい近侍きんじできる役職やくしょくまり、人事じんじ政策せいさくめんにおける皇帝こうてい意思いし決定けってい過程かてい関与かんよすることで実際じっさい権力けんりょく行使こうしした[3]。その結果けっか宰相さいしょうなどの要職ようしょくかん侂冑を支持しじするものめ、反対はんたい出世しゅっせ期待きたいしてかれにすり人々ひとびと相次あいついだ。当然とうぜん、こうした手法しゅほうたいする反発はんぱつ内外ないがいたかまっていったなかよしみやすし3ねん1203ねんごろからかん侂冑はけいもととうきんによってきずついたみずからの名誉めいよ回復かいふくのために、きた計画けいかくはじめた[4]

おりしも、きむ北方ほっぽうにおいてモンゴル台頭たいとう動揺どうようしているとの情報じょうほうはいり、ちょういわおからし棄疾らを国境こっきょう地帯ちたい派遣はけんしている。こうしたうごきは金側きんがわ察知さっちしており、じょう榷場閉鎖へいさして情報じょうほう漏洩ろうえい防止ぼうしする措置そちをとった[4]

よしみたい4ねん1204ねん)にはいると、5月にかつてかねとの講和こうわ反対はんたいして処刑しょけいされた将軍しょうぐんたけに鄂王の称号しょうごうおくられ[5]、11月ごろからそうきんりょうぐん国境こっきょうでたびたび小競こぜいをおこなうようになる。ひらき禧元ねん1205ねん)7がつ、それまで高位こうい高官こうかん任命にんめいされるのをつづけたかん侂冑は、たいらあきらぐん国事こくじにんぜられ、名実めいじつともにみなみそう最高さいこう実力じつりょくしゃとなった。一方いっぽう腹心ふくしんであっただんかくもんごとにんじて、従来じゅうらいみずからの役割やくわり代替だいたいさせた。だん鄧友りゅうとともにかん侂冑にかねとの開戦かいせんすすめた一人ひとりであった。ひらき禧2ねん(1206ねん)4がつ、それまでそうぐん侵入しんにゅうたいして自重じちょうつづけていたかねあきらむねみなみそうつべしとする詔勅しょうちょくはっし、5月7にちにはみなみそうやすしむねたいきん戦争せんそう詔勅しょうちょく公式こうしきはっした[4][6]

かん侂冑はやすしやすしへん以来いらいはんかね感情かんじょう、そして儒学じゅがくしゃあいだ根強ねづよかった大義名分たいぎめいぶんろんからすれば、きた当然とうぜん内外ないがい支持しじけるとかんがえており、さきけいもととうきん追放ついほうされた人々ひとびと一部いちぶてき薛叔ら)を復職ふくしょくさせるなどの工作こうさくおこなった。ところが、みなみそう世論せろんはんかねろんつよ一方いっぽうで、それはあくまでも防衛ぼうえいりょく強化きょうかなどの「しゅもり」の立場たちば支持しじしていた。実際じっさいみなみそうがわからのきた支持しじしたのはりくゆうからし棄疾などわずかで、おおくの文武ぶんぶかんきたへの関与かんよ消極しょうきょくてき立場たちばった結果けっか最前線さいぜんせんには少数しょうすうきた支持しじ文官ぶんかん配置はいちするなどの苦境くきょうたされた[4]。また、本格ほんかくてき開戦かいせん以前いぜん小競こぜいの段階だんかいではそうぐん優位ゆういすすんでいたものの、金側きんがわ一旦いったんそうとのたたかいを決意けついすると、積極せっきょくてき攻勢こうせいてんじて各地かくちそうぐんやぶった。そして最大さいだい痛手いたでは、きむりょうから側面そくめんたる四川しせんまもり、かん侂冑がもっとも戦力せんりょくとして期待きたいしていたが、かねつうじて叛乱はんらんこしたことであった[4][7][8]

こうした状況じょうきょうで、開戦かいせんから半年はんとしひらき禧2ねん11月には、みなみそうかねとのあいだ講和こうわ交渉こうしょうおこなわれた。金側きんがわは、開戦かいせん責任せきにんしゃとしてかん侂冑のわたしをもとめた。かん侂冑はこれにおどろいて、このたたかいはだんや鄧友りゅうによって開始かいしされたもので自分じぶん無関係むかんけいであることを主張しゅちょうしたが、金側きんがわみなみそう軍隊ぐんたいかん侂冑の命令めいれいなくしてうごけるわけがないと相手あいてにせず、かえってかん侂冑の首級しゅきゅう講和こうわ最大さいだい条件じょうけんであるとした。あせったかん侂冑は、交渉こうしょう担当たんとうしゃ前線ぜんせん指揮しきかん交替こうたいさせてかえしをはかったが、いずれも事態じたい打開だかいにはつながらず、みなみそう宮廷きゅうていないでもかん侂冑の首級しゅきゅうなくして講和こうわ成立せいりつしがたいという意見いけんめていった[4]

そしてひらけ禧3ねん1207ねん11月3にちれいさむらいろうふみわたるとおらによってかん侂冑が暗殺あんさつされ[9]、4にちにはだん殺害さつがいされた[10]かん侂冑らの首級しゅきゅうわたしたことによって交渉こうしょう進展しんてんし、よしみじょう元年がんねんきむ:泰和やすかず8ねん/1208ねん)に講和こうわ成立せいりつ同年どうねん9月22にちみなみそう講和こうわ天下てんかせんした[4][11]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ ぞくどおりかんまき154, けいもと元年がんねんがつつちのえとらじょう
  2. ^ そうふみまき37, やすしそう紀一きいち けいもとよんねんがつおのれとりじょう
  3. ^ そうまき474, かん侂冑でん
  4. ^ a b c d e f g 衣川きぬがわ、1977ねん pp.456-469
  5. ^ そうまき38, やすしそうおさむ よしみたいよんねんがつみずのとじょう
  6. ^ そうまき38, やすしそうおさむ ひらきねんがつちょうじょう
  7. ^ そうまき38, やすしそうおさむ ひらきねんじゅうがつみずのととりじょう
  8. ^ ぞくどおりかんまき157, ひらきねん十二月じゅうにがつじょう
  9. ^ そうまき38, やすしそうおさむ ひらきさんねんじゅういちがつおつじょう
  10. ^ そうまき38, やすしそうおさむ ひらきさんねん十一月じゅういちがつおのれじょう
  11. ^ そうまき39, やすしそうおさむさん よしみてい元年がんねんきゅうがつおのれじょう

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 衣川きぬがわつよし
    • 「〈ひらき禧用へい〉をめぐって」『東洋とうよう研究けんきゅうだい36かんだい3ごう、1977ねん
    • 「〈ひらき禧用へい〉とかん侂冑政権せいけん」『そうだい官僚かんりょう社会しゃかい研究けんきゅう汲古書院しょいん、2006ねん ISBN 9784762925665