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しゅちょんただし

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ふとし しゅあきら
こうはり
初代しょだい皇帝こうてい
王朝おうちょう こうはり
在位ざいい期間きかん 開平かいへい元年がんねん4がつ18にち - いぬい2ねん6月2にち
907ねん6月1にち - 912ねん7がつ18にち
都城みやこのじょう 開封かいふう
せいいみな しゅあつししゅちょんただししゅあきら
諡号しごう 神武じんむもとひじりたかしみかど
びょうごう ふとし
生年せいねん 大中おおなか6ねん10月21にち
852ねん12月5にち
没年ぼつねん いぬい2ねん6月2にち
912ねん7がつ18にち
ちち しゅまこと
はは おう
后妃こうひ ちょう皇后こうごうついみこと
陵墓りょうぼ せんりょう
年号ねんごう 開平かいへい : 907ねん - 911ねん
いぬい : 911ねん - 915ねん

しゅ ちょんただし(しゅ ぜんちゅう)は、だいこうはり初代しょだい皇帝こうていびょうごうふとしいみなはじぬる(おん)であったが、らんさい戦功せんこうとうよりちょんただし(ぜんちゅう)の下賜かしされた。そのとうほろぼしてこうはり建国けんこくし、みずか皇帝こうてい即位そくいしてあきら(こう)とあらためた。

しゅぜんちゅうから末期まっきらん頭角とうかくあらわし、その覇権はけんあらそいで勝利しょうりしてこうはりをきずきあげたが、晩年ばんねん行状ぎょうじょうみだれて最期さいご息子むすこ暗殺あんさつされた。

生涯しょうがい

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幼少ようしょう青年せいねん

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大中おおなか6ねん852ねん)、しゅあつしそうしゅう碭山けんうまみぞさと儒学じゅがくおしえていたしゅまことしゅ五経ごきょうしょうされた)の三男さんなんとしてまれる[1]いえまずしく少年しょうねん時代じだいちちうしなったため、2人ふたりあにともははおうれられ親戚しんせきにあたるしょうけん富豪ふごうりゅうたかしいえ小作こさくはたけ仕事しごと家畜かちく世話せわ)をしていた[1]

だがしゅあつしはたけ仕事しごとなど平凡へいぼん退屈たいくつ仕事しごとあたまから馬鹿ばかにしてすこしもせいさず、武術ぶじゅつ興味きょうみしめ独学どくがく棒術ぼうじゅつ拳法けんぽううでげて「ごろつきしゅさんしゅ三男さんなん)」とばれたという[2]

またしゅあつし気性きしょうあらく、里人さとびとおおくにきらわれ主人しゅじんりゅうたかしからはたびたびつえむちとがめをけたが、りゅうたかしははだけはたか評価ひょうかつねかばったという[2]

ぐんから官軍かんぐん

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らん勃発ぼっぱつすると、しゅあつし次兄じけいしゅそんともらん参加さんか頭角とうかくあらわした(しゅそんはその中途ちゅうと戦死せんししたという)。

広明ひろあき元年がんねん880ねん)にぐん長安ながやすとしたのちなつしゅう節度せつど使であったしょかずら投降とうこうさせる。

そのしゅあつしぐん東南とうなん方面ほうめん先鋒せんぽうまかされ、南陽なんようとすなど軍功ぐんこうてた。しかし河中かわなか節度せつど使おうしげるさかえぐんなんやぶれ、救援きゅうえんもとめたがひだり軍使ぐんしはじめ要請ようせいにぎつぶされた。

またぐん内部ないぶ形勢けいせい不利ふり風聞ふうぶんながれたため、しゅあつし側近そっきんたちと相談そうだんして裏切うらぎることをかんがえ、派遣はけんしたかん軍使ぐんしいむみのるって河中かわなか節度せつど使おうしげるさかえ投降とうこうした。

そのときとう僖宗しょく亡命ぼうめいしていたが、しゅあつし投降とうこういた僖宗は「てんたまもの也」とよろこんだといわれる。

そのしゅあつし一転いってんしてとう官軍かんぐんがわとしてたたかい、諸侯しょこうぐんとともにぐん長安ながやすからとした。この戦功せんこうによってしゅあつしからあさからひだり金吾きんごまもる大将軍だいしょうぐん河中かわなかこう営副招討使地位ちいあたえられ、汴州拠点きょてんく「せん節度せつど使」に昇進しょうしんした。また、しゅあつし皇帝こうてい忠誠ちゅうせいちか意味いみである「ちょんただし」のたまわった。それ以後いごしゅあつし自分じぶんを「しゅちょんただし」と名乗なのった。

からあさ権臣けんしん

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そのしゅぜんちゅうとう宮廷きゅうていないで、ともぐんたたかったかつよう権力けんりょく実権じっけんめぐってあらそうことになった。

ぐんされてささえきれなくなったさいしゅぜんちゅうかつようすくわれた恩義おんぎがあったため、盛大せいだいうたげひらき、へりくだってもてなしたが、性格せいかく一本気いっぽんぎかつようしゅぜんちゅう存在そんざいあたまからわず、この接待せったいはかえっていやらしくえたという[3]

しゅぜんちゅう救援きゅうえんれい丁重ていちょうべても、かつようから「朝廷ちょうていのためにぞくっただけであり、れいわれるおぼえはない。それに貴殿きでんもと君主くんしゅ。さぞやたたかいにくいでしょうな」とにくまれぐちたたかれ[4]、それでもしゅぜんちゅういかりをおさえ、つくわらいをかべながら手厚てあつくもてなした[4]

そしてかつよう部下ぶからが酩酊めいていしたのを見計みはからい、しゅぜんちゅう自軍じぐんへいひきいて襲撃しゅうげきした[4]かつよう部下ぶかみずをかけられてますとただちに応戦おうせん[4]ぐん包囲ほういやぶってしろがいにうまくびた。ここにしゅぜんちゅうかつよう両者りょうしゃ不倶戴天ふぐたいてんかたき敵同士かたきどうしとしてあらそうことになった[5]

文徳ふみのり元年がんねん888ねん)、河陽かわようにてとももとぐん一員いちいんであった罕之ちょうちょんよし対立たいりつする事件じけんきて、罕之はかつよう救援きゅうえんもとめて、ちょうちょんよししゅぜんちゅう救援きゅうえんもとめた[6]しゅぜんちゅう配下はいかひのとかいかずらしたがえあまねうしそんぶしらのぐん現地げんち派遣はけんして、かつようぐんやぶった[7]。またかつようは、潞州をまも人心じんしんていたおとうとかつおさむ猜疑心さいぎしんから鞭打むちうったことでゆうさせてしまった。そのため、そのわりにそのしたおとうとかつきょう派遣はけんされてやってきたが、かつきょう傲慢ごうまん人心じんしんられなかった。このことによって潞州を離反りはんした将兵しょうへいて、しゅぜんちゅう帰順きじゅんけることができた[8]

軍略ぐんりゃくではかつようおくれをとるしゅぜんちゅうだが、知略ちりゃくではかつようった。

武略ぶりゃく一辺倒いっぺんとうかつようしゅぜんちゅう政略せいりゃく謀略ぼうりゃくによって次第しだいおさえられ、そのあいだに、しゅぜんちゅうからあさ実権じっけん掌握しょうあくすることに成功せいこうした[5]。しかし、そのころからあさはかつてのだい帝国ていこくいきおいをうしない、すでに長安ながやす一帯いったい保持ほじするだけのちいさな地方ちほう政権せいけんぎなくなっていた。天下てんか節度せつど使はん鎮)らが各地かくち自立じりつし、群雄割拠ぐんゆうかっきょする時代じだい突入とつにゅうしていた。

901ねんしゅぜんちゅうからあさから「はりおう」にふうじられた。

天祐てんゆう元年がんねん904ねん)1がつしゅぜんちゅうあきらむね圧力あつりょくをかけ、自分じぶん拠点きょてんである洛陽らくよううつ[5]、8がつかりしゅともきょう叔琮めいじてあきらむねしいし、のちにそのつみにんせて誅殺ちゅうさつした。

しゅぜんちゅうあきらむねきゅうなんあいみかどつぎ皇帝こうてい即位そくいさせて、そのに、くに禅譲ぜんじょう準備じゅんびかんがえた。しかし、長兄ちょうけいしゅぜんは「しゅさんよ、なんじ天子てんしになろうとはなんたることか。もとをただせば一味いちみのおまえをててくださった陛下へいかのごおんむくいるどころか、さんひゃくねん社稷しゃしょくを簒うとはこのおろものめ」としゅぜんちゅう罵倒ばとうした[9]

その直後ちょくご長男ちょうなんしゅともひろし早世そうせいし、しゅぜんちゅう悲嘆ひたんれた。

天祐てんゆう2ねん905ねん)、腹心ふくしん蒋玄あきららがとう高官こうかんらを黄河こうがしずめるべきと建言けんげんすると、しゅぜんちゅう裴枢どくそんちぇとおおうちょうたかしとう高官こうかん30余人よにん河南かなんけんじょうなどの下級かきゅう地方ちほうかん一斉いっせい左遷させんした。そして、かれらが任地にんちかわせる途中とちゅう白馬はくばえきかれらを処刑しょけいして、その遺体いたい黄河こうが遺棄いきした(「白馬はくばわざわい」)。

この事件じけんをもって中国ちゅうごく貴族きぞくせい完全かんぜん崩壊ほうかいしたとかんがえられている。

しん王朝おうちょうひら

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天祐てんゆう4ねん907ねん)3がつしゅぜんちゅうあいみかどから禅譲ぜんじょうけて国号こくごうを「はり」とさだめ、あたらしい王朝おうちょうこうはり)を建国けんこくした[9]。ここにから王朝おうちょう滅亡めつぼうした。またしゅぜんちゅうは、こうはり初代しょだい皇帝こうてい即位そくいし、いみなを「ちょんただし」から「あきら」にあらためた。すみかげおう降格こうかくされたあいみかどは、開平かいへい2ねん908ねん)に曹州毒殺どくさつされた。

しゅあきらしゅちょんただし)は汴州東都とうと洛陽らくよう西都さいととした。その、汴州(汴京)は「開封かいふう」に改称かいしょうし、開封かいふう東都とうととしてくに首都しゅととした。

そのしゅあきらふとし)はかつよう徹底てっていして対立たいりつした。開平かいへい2ねん(908ねん)にかつよう死去しきょすると、その混乱こんらんをついてうえとうめたが、かつよう後継こうけいしゃそんつとむ戦争せんそうやぶれてこうはりぐん壊滅かいめつした[10]以後いごこうはりぐんそんつとむすすむぐん攻勢こうせいまえ次第しだいされるようになった[11]

またふとし生来せいらいから女性じょせい関係かんけい節度せつどとぼしい好色こうしょくで、日頃ひごろから見境みさかいらんいんかえした[11]賢婦人けんぷじんしょうされた正妻せいさいちょう)がこのころ死去しきょすると、ふとし好色こうしょくはさらにはげしくなり、各地かくちふうじていた諸子しょし正妻せいさいめて、自分じぶんちかくにはべらせつうじるようになった[11]とくかりであるひろしおうしゅともぶんつまおう美人びじんふとし寵愛ちょうあいふかかった[11]。その淫乱いんらんぎたためか、晩年ばんねんふとし病気びょうきがちとなった[11]

最期さいご

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いぬい2ねん912ねん)、やまいおもくなったふとしおうとの関係かんけいからかりはくおうしゅともぶん立太子りったいしはか[11]。しかし実子じっしの郢王しゅともつまちょうがこれをってしゅとも珪にげた[11]

しゅとも珪は日頃ひごろから素行そこうわるいためにちちから冷遇れいぐうされており、しゅともぶんへの偏愛へんあいにも不満ふまんいていた[11]ちちふとし後継こうけい体制たいせい確実かくじつなものにしようとして、しゅとも珪を萊州刺史しし左遷させん自分じぶんからとおざけた[11]

当時とうじふとし左遷させんした人物じんぶつ大半たいはん次々つぎつぎ殺害さつがいしており、しゅとも珪は将来しょうらい自分じぶんなにかの不安ふあんおぼえた[12]

こうして、しゅとも珪はふとし臣下しんかたいする暴虐ぼうぎゃく不満ふまんいていたひだり龍虎りゅうこぐん近衛このえぐん)と結託けったくし、手勢てぜい500めいひきいて宮中きゅうちゅうった[12]

そのときふとし看病かんびょうけていたが、すで全員ぜんいん逃走とうそうしてしまって事情じじょうからず、「反乱はんらんこしたのはだれか?」とき、そのしゅとも珪がてきた。そしてふとしすべての事情じじょうかり、まえ息子むすこたいして「どうしておのれちちがいするようなやからかしておいたのか、わたしはやくおまえころすべきだった。」とべた[12]

こうしてふとし息子むすこしゅとも珪にはらされて殺害さつがいされ、帝位ていいうばわれた[12]享年きょうねん61。

宗室そうしつ

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后妃こうひ

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兄弟きょうだい

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したがえ

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しゅぜん昱の

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しゅそん

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表記ひょうきは『しんとうしょ』による。

男子だんし

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女子じょし

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  • 安陽あんよう公主こうしゅ紹威ののべぶんまわしにとついだ)
  • 長楽ながら公主こうしゅちょう犨のちょういわおにとついだ)
  • 金華きんか公主こうしゅ紹威ののべぶんまわし継室けいしつ
  • ひろしやすし公主こうしゅおう鎔のおうあきら祚にとついだ)
  • やすし公主こうしゅ

かり

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 駒田こまだ & 常石つねいし 1997, p. 243.
  2. ^ a b 駒田こまだ & 常石つねいし 1997, p. 244.
  3. ^ 駒田こまだ & 常石つねいし 1997, p. 245.
  4. ^ a b c d 駒田こまだ & 常石つねいし 1997, p. 246.
  5. ^ a b c 駒田こまだ & 常石つねいし 1997, p. 247.
  6. ^ 司馬しばひかりどおりかんまき257「罕之奔澤しゅうもとめすくいかつよう。」「ちょうちょんよし嬰城もり城中じょうちゅう食盡しょくじんもとめすくい於朱ちょんただし,以妻子さいしためしつ。」
  7. ^ 司馬しばひかりどおりかんまき257「しゅちょんただし其將ひのとかいかずらしたがえあまねうしそんぶし將兵しょうへいすうまんすくい河陽かわよう。」「ちょんただしおもてひのとかいため河陽かわようとめふく以張ちょんよしため河南かなんいん。」
  8. ^ 司馬しばひかりどおりかんまき257「かつようじゅん潞州,以供あつしいか昭義あきよし節度せつど使かつおさむ,詬而むちかつおさむ慚憤なりやましさんがつ,薨。」「もとらくかつおさむ簡儉,且死其罪,潞人憐之,ゆかり將士しょうしはなれしんはつ,潞人叛孟きばしょう安居あんきょ受等召河ひがしへい以取潞州。」「しゅう推居受為とめ於朱ぜんちゅう。」
  9. ^ a b 駒田こまだ & 常石つねいし 1997, p. 248.
  10. ^ 駒田こまだ & 常石つねいし 1997, p. 249.
  11. ^ a b c d e f g h i 駒田こまだ & 常石つねいし 1997, p. 250.
  12. ^ a b c d 駒田こまだ & 常石つねいし 1997, p. 251.

参考さんこう文献ぶんけん

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小説しょうせつ

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関連かんれん項目こうもく

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