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なりきょうなつ皇后こうごう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
なつ皇后こうごう
みなみそう皇后こうごう
在位ざいい りゅうきょう元年がんねん10月19にち[1] - いぬいみち3ねん6月25にち
1163ねん11月16にち - 1167ねん7がつ13にち

ぜん なつくもしゅうと
別称べっしょう あんきょう皇后こうごうなりきょう皇后こうごう
出生しゅっしょう 紹興しょうこう6ねん1136ねん
袁州むべはるけん
死去しきょ いぬいみち3ねん6月25にち[2][3]
1167ねん7がつ13にち
臨安
配偶はいぐうしゃ こうむね
父親ちちおや なつきょう
おとうと なつなか
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なつ皇后こうごう(かこうごう)は、みなみそうこうむね皇后こうごういみなくもしゅうと(うんこ)[4]なりきょう皇后こうごう(せいきょうこうごう)とおくりなされた。

生涯しょうがい

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袁州むべはるけんひと[5]なつきょうむすめ出身しゅっしんひくいが非常ひじょう美女びじょであった。

はじめ、後宮こうきゅうはいり、こうはじめ皇后こうごう侍女じじょつとめた。紹興しょうこう31ねん1161ねん)2がつけんおうちょうはく琮(こうむね)に側室そくしつ[6]としてあたえられ、ひとしやすぐん夫人ふじんふうぜられた。翌年よくねんこうむね即位そくいすると、けんてられた。りゅうきょう元年がんねん1163ねん)10がつ皇后こうごう冊立さくりつされた。おとうとなつなかや11にん親友しんゆうたちにも官職かんしょくあたえられた。

いぬいみち3ねん6月25にち1167ねん7がつ13にち)、32さい崩御ほうぎょ。「あんきょう」とおくりなされ[3]臨安修吉しゅうきちてらほうむられた[7]紹熙5ねん1194ねん)10がつおくりなを「なりきょう」とあらためた[3]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ そうまき33, こうそう紀一きいち たかしきょう元年がんねんじゅうがつへいじょうによる。
  2. ^ そうまき34, こうそうおさむ いぬいどうさんねんろくがつからしじょうによる。
  3. ^ a b c そうかいよう輯稿』まき12, 后妃こうひいち あんきょうなつ皇后こうごうこうより。
  4. ^ むべはるぱいろうなつむね』による。
  5. ^ そうまき243, 后妃こうひでん なりきょうなつ皇后こうごうでんより。
  6. ^ これよりすこまえちょうはく琮はぐんおうから親王しんのうのぼった。最初さいしょつまかくは、ぐんおう時代じだい早世そうせいした。
  7. ^ そうまき34, こうそうおさむ いぬいどうさんねんうるうなながつみずのととりじょうによる。

伝記でんき資料しりょう

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  • そうふみまき243 后妃こうひでん なりきょうなつ皇后こうごうでん
  • そうかいよう輯稿』まき12 后妃こうひいち あんきょうなつ皇后こうごう
  • むべはるぱいろうなつむね