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あかりけい博士はかせ

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大学だいがく博士はかせから転送てんそう

あかりけい博士はかせ(みょうぎょうはかせ)とは、だい学寮がくりょう本科ほんかであるあかりけいどう教官きょうかん律令制りつりょうせいかんじんにおける基本きほんてき教養きょうようであった五経ごきょうなど儒学じゅがく教授きょうじゅした。せいろく相当そうとうしょく5まちさづけられ、そのしたじょきょう2めいれいそとかん講師こうしであるじきこう(ちょっこう)2めいもうけられていた。

概要がいよう

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もと天智天皇てんぢてんのう時代じだい大学だいがく博士はかせだい博士はかせしょうされた。『日本書紀にほんしょき』によれば、671ねん天智天皇てんぢてんのう10ねん)に学識がくしきあたま大学だいがくあたま相当そうとう)のおにしつしゅうとともに大学だいがく博士はかせもとりつはは百済くだら出身しゅっしん)が登場とうじょうするのが最古さいこで、りつははつづ天武天皇てんむてんのうにもつかえている。この時期じきには「大学だいがく博士はかせ」・「だい博士はかせ」と名称めいしょう混同こんどうがみられるものの、飛鳥あすかきよしはられいにおいて「大学だいがく博士はかせ」と呼称こしょうさだめられたらしく、もちすべ天皇てんのう時代じだいには「大学だいがく博士はかせ」で呼称こしょう統一とういつされている。

だい学寮がくりょう発足ほっそく教育きょういく現場げんばには五経ごきょうなどの儒学じゅがく教授きょうじゅする博士はかせ以下いか教官きょうかんとそれをまな学生がくせいしかいなかったこと[1]から特別とくべつ呼称こしょう存在そんざいせず、前代ぜんだいからの「大学だいがく博士はかせ」の呼称こしょうがそのままもちいられていた。「あきらけい博士はかせ」の呼称こしょう登場とうじょうするのは、奈良なら時代じだい中期ちゅうきれいそとかんとして文章ぶんしょう博士はかせあかりほう博士はかせ登場とうじょうし、その充実じゅうじつとともにそれぞれの教育きょういく内容ないよう学科がっかとして分立ぶんりつ従来じゅうらい名称めいしょうがなかっただい学寮がくりょう本科ほんか部分ぶぶんにおいても「あきらけいどう」の呼称こしょうしょうじた平安へいあん時代じだい前期ぜんき9世紀せいき以後いごのことである。

通常つうじょう学生がくせいなかから得業とくぎょうせいじきこうじょきょう博士はかせ昇進しょうしんすることとなっており、学生がくせい儒学じゅがくおしえるほかに、天皇てんのう摂関せっかん侍読じどくつとめたり、天皇てんのう太政官だじょうかんなどの諮問しもんしもんおうじてあかりけいかんぶんみょうぼうかんもん作成さくせいしたりした。

平安へいあん時代じだい前期ぜんきより、博士はかせしょく世襲せしゅう傾向けいこうられたが、それが本格ほんかくするのは平安へいあん時代じだい中期ちゅうき11世紀せいき)に(こうきよしりゅう清原きよはら中原なかはら博士はかせしょく世襲せしゅうするとともに五経ごきょうなどの訓読くんどく解釈かいしゃく方法ほうほう家学かがくすることによって排除はいじょすることに成功せいこうしたことによる。さら文章ぶんしょう作成さくせい知識ちしきかして太政官だじょうかんそときょく進出しんしゅつすることによって地位ちい安定あんていはかった。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ ほかにも技術ぎじゅつけい官僚かんりょうそだてるさん博士はかせとその学生がくせいさんどう)も存在そんざいしたものの圧倒的あっとうてき少数しょうすうであった。

参考さんこう文献ぶんけん

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